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野村克也(84歳)さん、死去 ! 愛妻・沙知代さんと同じ虚血性心不全で、
野村さんのプロフィールとは ?
(www.sponichi.co.jp: 2020年2月11日 19:05より抜粋・転載)
元ヤクルト、阪神、楽天などの監督で、「ノムさん」の愛称で親しまれた野村克也(のむら・かつや:84歳)さんが、2月11日午前3時30分に虚血性心不全で死去した。
84歳。奇しくも、2017年12月に急死した、妻・沙知代さん(享年85)と同じ死因だった。
「虚血性心不全」(虚血性心疾患)は、心筋への血流が不足し、酸素などが、行き渡りにくくなって心臓機能が低下する病気である。
冠動脈が狭くなる、狭心症や、冠動脈が詰まって、心筋細胞が壊死(えし)する、心筋梗塞などが含まれる。
症状としては、胸を圧迫されるような、痛みや吐き気のほか、背中や腕に痛みが出る場合もある。
不整脈は、動悸(どうき)、息切れなどの症状が表れるという。
原因は、暴飲暴食、塩分・糖分の、取りすぎ、疲れを翌日に持ち越すなど、日常の生活習慣や喫煙が大きく関わっている。
また、冬には、寒さで血管が収縮し、血圧が高くなることから、温度差が激しい場所に入った時に、虚血性心疾患を起こすことが多い。
女優の生田悦子さん、お笑いタレントの前田健さんらも、虚血性心不全で、死去している。
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(参考資料)
T 野村沙知代さんが死亡 ! 死因は虚血性心不全
後日お別れの会を開催
(www.sponichi.co.jp: 2017年12月9日 13:22 より抜粋・転載)
プロ野球ヤクルト、阪神、楽天などで監督を務めた野村克也氏(82歳)の妻で、12月8日に死去した、野村沙知代(のむら・さちよ)さんの死因が、「虚血性心不全」だったと、所属事務所が、9日発表した。葬儀・告別式は、親族のみで行い、後日お別れの会を開くという。
沙知代さんは、12月8日午後4時9分、都内の病院で死去した。85歳。
福島県出身。「サッチー」の愛称で、タレントとしても活躍。女優・浅香光代(89)との「ミッチー・サッチー騒動」、脱税事件での逮捕などで、世間を騒がせた一方、野球界で活躍した、野村克也氏を内助の功で支え、おしどり夫婦ぶりでも、有名だった。
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U 野村克也さんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日生まれ、 2020年2月11日死亡、84歳)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家、タレント。
プロ野球では南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。
選手としては、史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠打)、通算併殺打1位(378打)、ベストナイン19回受賞で1位などの記録を持つ[3]。
特に1963年に記録した52本塁打は後に1985年に落合博満も記録するが、その落合と並んで日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多本塁打記録である[4]。
また、監督としても「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持する。
血液型はB型。愛称は「ノムさん」「ムース」。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。
◆概要
京都府京丹後市出身。野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、 ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球のシダックス、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。
2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督[5][6]。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家を務めた。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。
通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。
捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。
生前は前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがあった。
ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。
生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則、その息子、すなわち野村の孫は星槎国際高等学校湘南学習センターの野球部に所属している野村忠克[7]。1人目の配偶者との間にも息子が1人いる。継子には団野村、ケニー野村がいる。
生前、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。
現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3204試合と3000試合の大台に乗せている。また、通算打席数(11970打席)と通算打数(10472打数)も歴代1位記録である。
◆記録面でのトピック
野村の残した3,017試合出場は日本プロ野球2位(パリーグ1位)[87]の記録であるが、2015年7月28日に中日ドラゴンズの谷繁元信が記録を更新するまで、日本プロ野球1位の記録であった。これについて宇佐美徹也は「野村が本塁打記録よりも何よりも最も誇りに思っている記録なのだ。
(中略)この出場記録の話になると目の輝きが違ってくる」と記している[88]。この3,017試合中、捕手として出場した試合が2,921試合ある。宇佐美の著書の当時はMLBの捕手出場最多記録はアル・ロペスの1,918試合でこれを1,000試合以上上回っており、宇佐美は捕手の負担の重さも踏まえて「(このことを知ったら)米大リーグ関係者はびっくり仰天するに違いない」と記している[88]。
なお、MLBの記録は後に更新されており、2015年4月時点での記録はイバン・ロドリゲスの2,428試合となっている[89]。宇佐美が野村に「もっと楽なポジションだったら?」と尋ねると、野村は「捕手の目を通して得たものは限りなく大きい。捕手だからできたのさ」と答えたという[88]。
伊東一雄が野村が1963年に150試合全部それもフルイニング出場した事をアメリカ人記者に話したところ、正に信じられないといった顔付きで「全く信じられない。捕手で全試合、全イニングなんて彼は一体その選手はどんな物凄い体をしてるんだ」と驚いたという。
MLBではダブルヘッダーでは捕手を併用する事が多く、全イニングどころか全試合も不可能に近いとされている[90]。「捕手は投手を除く他の守備位置とは疲労度が違う。ほとんど投手と同じくらいと言っていいぐらいだ」とMLB各監督は共通して語っているほどで、ダブルヘッダーでは続けて被らせないようにしている。
伊東一雄は「ひょっとして世界最強チームを選ぶ際、野村の名が挙がる事もあるんじゃないか」と思えるほど値打ちがあると述べている[91]。
ただし、その出場試合数の多さがネックとなることもあり、通算併殺打の378回、シーズン最多併殺打8回という負のイメージのある日本記録ホルダーでもある。通算併殺打は2019年5月4日にMLBのアルバート・プホルスに並ばれるまで、メジャーリーグにも記録した選手はいなかった。
野村は1956年から1977年まで22年間の長期にわたって南海の正捕手の座を死守した。この期間に38人の選手が捕手として南海に入団したが、そのうち22人が一度も一軍の試合でマスクを被る事が出来なかった。
100試合以上を捕手として出場出来たのは柴田猛(165試合)と松井淳(101試合)の2人のみである[92]。2014年8月27日、中日ドラゴンズの谷繁元信が捕手として2,922試合目の公式戦出場を達成し、野村の引退から34年にして記録を更新した[93]。
2 リーグ制となった1950年以降、日本プロ野球において捕手が打撃三部門(打率、本塁打、打点)のタイトルを獲得した例は22回あるが、そのうち17回は野村によるものである(ほかに田淵幸一、古田敦也、阿部慎之助、森友哉がタイトルを獲得している)。
このうち、2019年終了時点で三冠王獲得と年間50本塁打以上達成をしたのは野村だけである。
2019 年終了時点で通算本塁打数は657本で歴代2位だが、捕手登録選手では歴代1位、そして500本塁打以上を達成しているのは野村だけである。
選手としてオールスターゲーム通算21回出場、48安打の最多記録を持ち、最年長出場選手(1980年、45歳)でもあるが、オールスターでは打撃不振で知られた。しかし1972年のオールスターゲーム 第1戦では、谷村智博から本塁打を放つなど2安打3打点と活躍、初のMVPを獲得した。1977年のオールスターゲーム 第2戦でも先制打を放ち、42歳にして2度目のMVPを手にしている。
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