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  11月9日、天皇陛下の即位を祝う、国民祭典を開催 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2019 年 11 月 11 日 20:49:29: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 11月9日、天皇陛下の即位を祝う、 国民祭典を開催 !

     天皇陛下・皇后陛下のプロフィールとは ?


(www3.nhk.or.jp:2019年11月9日 19時00分より抜粋・転載)

天皇陛下の即位を祝う「国民祭典」が、11月9日、皇居前広場で開かれ、天皇皇后両陛下は、皇居の二重橋近くから、集まった人たちの祝意にこたえられました。

「国民祭典」は、天皇陛下の即位を祝うため、超党派の議員連盟や、経済界などが参加する民間団体が開催しました。

第1部の「奉祝まつり」では、皇居近くで祝賀パレードが行われ、来年の東京オリンピックで活躍が期待される陸上の桐生祥秀選手らがテープカットを行ったあと、沖縄の伝統舞踊エイサーなどの全国各地の郷土芸能が披露されました。

◆約3万人が参加しました !

その後、第2部の「祝賀式典」が皇居前広場で開かれ、国会議員や各界の著名人、それに、一般客を合わせて、およそ3万人が参加しました。

はじめに若い世代を代表して、女優の芦田愛菜さんが、「天皇陛下のご即位にあたり、心よりお祝い申し上げます。日本そして世界の平和に対する、陛下のみ心(御心)に心を打たれました。古くから日本に伝わる文化を大切にしつつ、新しい日本へと躍進していく時代になっていくことを、せつに願っております」と述べました。

◆歌舞伎俳優の松本白鸚さん !

続いて、歌舞伎俳優の松本白鸚さんが、「皇室という長い伝統を受け継がれる、両陛下におかせられましては、現代の日本における、国民の象徴として、両陛下らしい新たな息吹を、伝統文化にもお与えくださることと、固く信じております」と述べました。

◆安倍総理大臣の言葉 !

そして、天皇皇后両陛下が、皇居の二重橋近くの石橋の上に姿を見せられ、安倍総理大臣が「国民の皆様とともに、改めて天皇陛下のご即位をお祝い申し上げます。天皇陛下のご即位とともに始まった新しい令和の時代、私たちは、天皇陛下のお気持ちを、しっかりと胸に刻み、平和で希望に満ちあふれ、一人一人の日本人が、それぞれの花を、大きく咲かせることができる時代を、つくり上げていく決意です」と述べました。

◆辻井伸行さんらの演奏 !

このあと、ピアニストの辻井伸行さんらの演奏で、人気アイドルグループ「嵐」が、即位を祝ってつくられた「奉祝曲」を披露しました。

「Ray of Water」というこの曲は、水をめぐる問題に関心の高い天皇陛下を意識してつくられたということで、演奏の間には、皇后さまが涙をぬぐわれる場面もありました。

そして、天皇陛下が、おことばを述べられました。

◆天皇陛下のおことば !

天皇陛下は、「即位から約半年、多くの方々から寄せられる気持ちをうれしく思いながら過ごしています。またこの間、さまざまな機会に国民の皆さんと直接接し、皆さんの幸せを願う思いを私たち二人で新たにしてきました」と述べられました。

そのうえで、台風19号などの大雨災害で被災した人たちなどへの気持ちをあらわし、「ここに改めて国民の幸せを祈ると共にわが国の一層の発展と世界の平和を願います。きょうは寒い中にもかかわらずこのように大勢の皆さんが集まり即位をお祝い頂くことに深く感謝いたします」と締めくくられました。

◆万歳三唱が行われた !

おことばが終わると、会場では万歳三唱が行われ、集まった人たちが手にしたちょうちんを振って祝意をあらわすと、両陛下もにこやかな表情でちょうちんを振ってこたえられていました。

◆10日は、祝賀御列の儀 !

両陛下は10日、「即位の礼」の最後の儀式となる「祝賀御列(おんれつ)の儀」に臨み、オープンカーで東京の都心部をパレードされます。

◆皇居前広場では、郷土芸能など披露

皇居前広場では、9日、天皇陛下の即位を祝う「国民祭典」が開かれ、およそ2000人が参加して全国各地の郷土芸能などを披露する祝賀パレードが行われました。

「国民祭典」は、超党派の議員連盟や、経済界などが参加する民間団体の主催で行われ、午後1時半ごろから陸上の桐生祥秀選手や、フィギュアスケートの紀平梨花選手らがテープカットをして祝賀パレードが始まりました。

パレードにはおよそ2000人が参加し、子どもたちによる音楽隊などの演奏のほか、15の団体がちょうちんをつけた竹ざおが掲げられる秋田の「秋田竿燈まつり」や、沖縄に古くから伝わる踊り「エイサー」など、全国各地の郷土芸能を披露しながら「内堀通り」をおよそ1キロにわたって練り歩きました。沿道には大勢の人たちが詰めかけ写真を撮ったり拍手をおくったりしてパレードを盛り上げていました。

(参考資料)

○天皇陛下のプロフィール:徳仁

徳仁(なるひと、(1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - [1])。称号は、浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。在位中は、今上天皇と称される[2][注 2]。敬称は陛下[3][注 3]。勲等は大勲位菊花章頸飾。

明仁(第125代天皇、上皇)と美智子(上皇后)の第1皇男子(2男1女のうちの第1子)。皇后は雅子(旧姓:小和田)。昭和天皇の皇孫かつ大正天皇の皇曾孫にあたる。

戦後(第二次世界大戦後)かつ日本国憲法・現皇室典範下の生まれで即位し、また学位を持ち海外留学の経験がある初めての天皇でもある。即位に伴い、平成から令和に改元された。

住居は、東京都港区元赤坂にある赤坂御用地内の赤坂御所(旧:東宮御所[4])[注 4]。

☆略歴:

1961年(昭和36年)2月の徳仁親王

お印に用いられた梓(写真は梓とされる樹木の一種・キササゲ)

皇太子旗

1989年(昭和64年)1月7日 - 2019年(平成31年)4月30日

徳仁親王の立太子の礼:1991年(平成3年)2月23日

束帯黄丹袍を着用した徳仁親王

1960年(昭和35年)2月23日16時15分[5]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となった。

☆1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。

1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジ(英語版)に留学して、テムズ川の水運史について研究[12]。 名誉博士(オックスフォード大学の法学)を取得した。

1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった、父・昭和天皇の崩御により、父、皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い、太子(皇位継承順位第1位である皇嗣たる、1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には、太子の礼が執り行われた。

皇太子となって以降、即位までは、国会、政府の用いる、式表記では「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)とされた。

天皇即位以前、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで、22回、父である上皇の譲位前の天皇在位中において、海外行幸の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[6]。

2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の退位(譲位)[7]に伴い、翌令和元年(2019年)5月1日に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し、日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する[1]。

皇室男子としても珍しく歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山、ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[8][9]。

☆成婚以降

成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女の敬宮愛子内親王が誕生した。

皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。

そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。

○皇后雅子様:(ウイキペデアより抜粋・転載)

 1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門にある国家公務員共済組合連合会虎の門病院にて誕生。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に居住していた[4]。

1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する[13]。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjustment to Import Price Shocks : Oil in Japanese Trade(輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』(糠沢和夫・真野輝彦・榊原英資協力)。成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した[13]。

1985年の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。

夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[14]。

1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)[15]の3学年に外部学士入学する[13]。100名中3名の合格であった[16]。雅子は皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後にこの事を振り返り、「米国に残ったら、根無し草になってしまうような気がして、日本に帰りたかった」と語っている。

駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し[17]、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる[13]。合格者は28名でうち女性は3名であった[18][19]。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。

1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された[13]。この頃から東京都目黒区南にある小和田・江頭両家の二世帯住宅に居住し始める。

1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で「北米局北米二課」に配属された[13]。経済局国際機関第二課配属・OECD(経済協力開発機構)の担当をしたのは1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。

総計して、外務省での職歴は5年10か月(留学期間を省くと4年)である。配属の2日目は徹夜で業務をこなし、その後も徹夜は無いが週に3日は帰宅が午前様になるなど激務であった[20]。1991年(平成3年)3月には、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍した。

 

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