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大河ドラマ・いだてん:第23話・嘉納治五郎が神宮外苑競技場の完成を急ぐ中、関東大震災が発生 !
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/12209.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2019 年 6 月 18 日 21:33:21: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 大河ドラマ・いだてん:第23話・嘉納治五郎が神宮外苑競技場の完成を急ぐ中、

    関東大震災が発生 !

    金栗四三のプロフィールとは ?

    大正時代の大震災の状況は ?


(www.sponichi.co.jp:2019年6月16日08:00より抜粋・転載)

 歌舞伎俳優の中村勘九郎(37)と俳優の阿部サダヲ(48)がダブル主演を務めるNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」(日曜後8・00)は16日、第23話「大地」が放送される。

 金栗四三(中村勘九郎)やシマ(杉咲花)の提案で、富江(黒島結菜)は父の大作(板尾創路)と駆けっこで競走。鍛えた女性は男に勝てると証明する。嘉納治五郎(役所広司)はスポーツが育ってきた日本でオリンピックを開催できるよう神宮外苑競技場の完成を急ぐ。方や、孝蔵(森山未來)おりん(夏帆)夫婦は、貧乏と夫の酒浸りの生活のせいで破局寸前になる。

その折、関東大震災が発生。混乱の中で孝蔵は妻をかばう。

 大河ドラマ58作目。2013年前期の連続テレビ小説「あまちゃん」で社会現象を巻き起こした脚本家の宮藤官九郎氏(48)が大河脚本に初挑戦し、オリジナル作品を手掛ける。20年の東京五輪を控え、テーマは「“東京”と“オリンピック”」。日本が五輪に初参加した1912年のストックホルム大会から64年の東京五輪まで、日本の激動の半世紀を描く。“近現代大河”は86年「いのち」以来33年ぶり。

中村勘九郎は、「日本のマラソンの父」と称され、ストックホルム大会に日本人として、五輪に初参加した金栗四三(かなくり・しそう)、阿部は、水泳の前畑秀子らを見いだした、名伯楽で64年の東京大会招致の立役者となった、新聞記者・田畑政治(まさじ)を演じる。

主演リレーは00年「葵 徳川三代」以来19年ぶりとなる。

「昭和の大名人」と呼ばれる、落語家・古今亭志ん生(1890〜1973)が、物語をナビゲート。

志ん生役にビートたけし(72)、若き日の志ん生・美濃部孝蔵役に、俳優の森山未來(34)を起用。志ん生の視点が、加わることにより、ドラマは重層的になる。

(参考資料)

T 金栗四三とは ?

(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載

金栗四三(かなくりしそう[注釈 1]、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加し、また各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりするなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される[3]。

 当時の金栗はランナーとして最も脂がのっていた時期であり、1914年(大正3年)3月に東京高師を卒業して間もない4月10日に石貫村(現玉名市)の医者の娘である春野スヤと結婚した後、神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)、獨逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)、東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)などで地理の教師として教壇に立ちながら[2]、さらに走りに磨きをかけ、同年11月23日の第2回陸上競技会選手権では再び世界記録を大幅に更新する2時間19分20秒3の記録を樹立した。

1916年(大正5年)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが第一次世界大戦の勃発で大会そのものが開催中止になり、その後の1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープでは40km近くまで入賞圏内の5位につけながら、雨と寒さというコンディション下で脚を痛め最終的に16位、続くパリでは32.3km地点で途中棄権に終わっている[2]。

1917年(大正6年)、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508キロ、23区間)の関東組のアンカーとして出走する。1920年(大正9年)、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、金栗もこの大会開催のために尽力している[3]。

また現役当時は地下足袋で走っていたが、オリンピック出場後、東京の足袋屋・ハリマヤの黒坂親子に頼んで足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変更、さらにはストックホルムで外国人選手がゴムを底に付けたシューズを履いていたのを見たことがヒントとなってゴム底の「金栗足袋」を開発し、多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走ることとなった[2]。

金栗は3度のオリンピック参加を通じて、日本でのスポーツ振興の必要性を痛感した。特に女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘し、1921年(大正10年)東京府女子師範学校に勤めると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、1923年(大正12年)には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に尽力する[2]。

さらに地理の教師のかたわら、学校をまわって学生らと一緒に走り、スポーツの重要性を語り、競技会や運動会に顔を出してはマラソン普及に努め、暑さに強くなるように真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けたほか、日本体育・マラソン普及のため、1919年には下関―東京間約1200kmを20日間で走破、その後樺太―東京間(1922年)、九州一周(1931年)を踏破、全国走破を成し遂げた[2]。

1931年(昭和6年)、39歳で故郷の玉名に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走を開催するなど、県内外においてマラソン普及に努めた。1936年(昭和11年)には日本での初オリンピック準備のため再度上京し、十文字高等女学校(現・十文字中学校・高等学校)にて教員を務めながら開催準備に奔走するが、日中戦争の戦況悪化のため日本は開催を返上することとなった[2]。

金栗はその後、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで私立の青葉女学校に勤め、同年3月に再び玉名へ帰郷し、以降同地で生涯を送った[2]。1946年(昭和21年)4月に熊本県体育会(後の熊本県体育協会)が創設されると初代会長に就任し、1947年(昭和22年)の第1回金栗賞朝日マラソン(その後日本で初めて国際マラソン選手権に指定、1974年(昭和49年)以降現在に至るまで福岡国際マラソンとなる)等の開催に尽力した[2]。

1953年(昭和28年)にはボストンマラソン日本選手団長として渡米し、選手団の1人である山田敬蔵が当時の世界記録2時間18分51秒で、日本人参加者としては1951年(昭和26年)の田中茂樹以来2年ぶり、同大会日本人2人目となる優勝を成し遂げた。1960年(昭和35年)には熊本で行われた第15回国民体育大会の最終聖火ランナーとなった[2]。また、この間の1948年(昭和23年)には熊本県初代教育委員長に選出されている[2]。

U 関東大震災

(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載)

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろ(日本時間、以下同様)[注釈 1]に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である[注釈 2]。

◆被害状況

190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。

東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが続いた。

非焼失の全潰・半潰は焼失および流出、埋没の被害を受けていない棟数。

津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人あまりが行方不明。関東大震災では建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で全体像が明確になっていなかった。

津波の高さは鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5mから7mの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記『大正鎌倉餘話』で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が由比ヶ浜滞留所にあったと書いている[22]。静岡県伊東市宇佐美、旭光山行蓮寺には、[1]が現存している。

この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:ヨコシネ ディー アイ エー)の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および横浜市中央図書館に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない[23]。

◆人的被害

震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年解体、1972年博物館明治村に移築)

2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし近年、武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘された。その説が学界にも定着したため、理科年表では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千あまり」としている[24]。

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故で100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。

◆関東大震災により死去した著名人

寛子女王(閑院宮載仁親王第四王女)- 小田原・閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊。

師正王(東久邇宮稔彦王第二王子)- 避暑先の藤沢にある別荘が倒壊。

佐紀子女王(山階宮武彦王妃)- 鎌倉の山階宮別邸が倒壊。

松岡康毅(枢密顧問官・日本大学総長)- 葉山の別邸が倒壊。

園田孝吉(実業家・男爵)

磯部四郎(政治家・法学者・弁護士)- 避難先の被服廠跡で焼死。

厨川白村(英文学者・評論家)- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去。

辻村伊助(園芸家・登山家)- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子とともに犠牲となる。

富田木歩(俳人)- 向島の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死。

五代目麗々亭柳橋(落語家)

ウィリアム・ヘーグ(イギリス外交官・草創期のサッカー振興に関与)- 勤務先の横浜の領事館が倒壊。

ジェニー・カイパー(フェリス和英女学校校長)

伊東荘次郎(新派の俳優、元落語家の古今亭志ん橋)- 諸説あり。

村岡斎(日本の印刷業者・上記の村岡敬三の実弟)- 横浜工場の社屋が倒壊し、社員約70名とともに犠牲となる。

當り矢信太郎(元力士) - 死没地は不明。

梅垣直治郎(元力士)- 死没地は不明、妻子とともに死亡したという。

三遊亭花遊(落語家、音曲師)- 死没地は不明。

帰天斎小正一(奇術師)- 被服廠跡で被災したという[25]。

山田天心

五明楼国輔(落語家)- 諸説あり。

初代吉田久菊(浪曲)- 横浜寿亭に出演中、梁の下敷きとなって死亡。

 

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