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安倍首相・人物への識者の見解・詳報は ?(上)
安倍晋三首相の歴史観と国家観を問う
(gendainoriron.jpより抜粋・転載)
「国家が自由と人権を担保する」はずがない
筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員・千本秀樹:
1.安倍首相の歴史観
2.アメリカと対等になりたい
3.「国家が自由と人権を担保する」
4.国家と社会は本来対立するもの
5.「国のために死ぬのはいやだ」といえる日本
6.教育のさらなる国家統制へ
1.安倍首相の歴史観
安倍首相による憲法改悪がいよいよ政治日程にのぼってきた。しかし予算国会、統一地方選、天皇代替わり、参院選というスケジュールのなかで、当選回数だけ多くて閣僚になれなかった入閣待ちの政治家を中心とした「最低の内閣」は閣僚不祥事を連発しそうで、安倍首相の憲法改悪のもくろみは追いつめられているようにも見える。
朝鮮半島をめぐる国際情勢の激変と、日本とかかわりが深い国々の政治指導者がナショナリズムを強めるなかで、右翼政治家である安倍首相がうまくやっていけるのだろうかという懸念は、誰しもが持っていることだろう。
もっとも安倍首相は、表面的にはトランプ、プーチン両大統領、習近平主席ともそれなりにやってきたから、今の時点では、安倍首相の歴史観がさほど話題にのぼることはなく、国家主義者同士で肌が会うのかもしれない。
安倍首相の歴史観は、どちらかというと、国内政治にかかわって議論されることが多い。集団的自衛権と戦争法制を頂点とする国家再編は、安倍首相の歴史観にもとづいて実行されてきた。
しかし、金正恩委員長との日朝首脳会談、日朝国交樹立などが想定されているけれども、安倍首相の歴史観はそれに耐えられるのか。
本稿では、12年前、安倍晋三が最初に首相に就任する直前に執筆した『美しい国へ』(文春新書、2006)を中心に、彼の歴史観と国家観を、現実と照らし合わせながら検証してみよう。
2015年の戦後70年首相談話で、彼は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持を表明してきました。
その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み」と述べた。
「アジアの人々に強制した」ではなく、「歩んできた苦難の歴史」と、まるで他人ごとのようだが、「先の大戦における行いについて」「反省とおわび」としているから日本が主語だといいのがれするかもしれない。
しかし、朝鮮半島に強いた苦難は35年間に及ぶものであり、「先の大戦」4年間のものだけではない。それに対しても、少し前の段落で「植民地支配から永遠に訣別し」と書いてあるからわかるだろうというかもしれないが、その段落にも主語がなく、日本の責任を問わない一般論に読める。
なによりも「朝鮮半島」とはせず、「韓国」と限定して北朝鮮を除外し、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、これからはもう謝罪しないぞと宣言した。
では、今後、北朝鮮には謝罪しないのか。安倍首相は『美しい国へ』で、2005年のアジア・アフリカ会議にいたるまで、中国だけにでも21回、正式に謝罪していると書いている。それだけの回数の謝罪をしても、それが本心からの謝罪ではないと見抜かれていることを、安倍首相は気づいていないのか。
金委員長が求めてくるのはおそらく経済的関係であって、大人の対応をするだろうけれども、興味深いのは、最後まで北朝鮮を敵視してきた安倍首相がどんな顔で首脳会談に臨むかである。
2.アメリカと対等になりたい
集団的自衛権と戦争法制で、日本はいよいよアメリカの戦争に巻きこまれる危険が増したとよくいわれるが、安倍首相の意図はそうではないだろう。アメリカと、より対等に近い関係で、日本がアメリカを中心とする戦争にかかわり、あるいは独自にでも戦争を発動したいというのが、彼の願望ではないのか。
60年安保改定反対の論理も、「巻きこまれ論」だった。しかし、最初の52年安保条約にくらべると、60年安保改定の目的は、明らかに日帝自立志向にあった。安倍首相は『美しい国へ』で、「祖父(岸信介首相)はこのとき、この片務的な条約を対等にちかい条約にして、まず独立国家の要件を満たそうとしていたのである。
いまから思えば、日米関係を強化しながら、日本の自立を実現するという、政治家として当時考えうる、きわめて現実的な対応であった」と書いている。誰もがいうように、安倍政治は岸政治の延長線上にある。
自民党の政治家の発言は、党員としての場合と首相・閣僚としての場合とでは、齟齬することが往々にしてある。
安倍首相は日本の核武装は主張しないが、首相ではなかった2002年5月、参院予算委員会で、「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持することは憲法第九条第二項によっても禁止されていない、したがって、そのような限度の範囲内にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではないとの解釈を政府は取っているということでございます」と答弁した。
当時官房副長官であったから、一党員ではなく、準閣僚としての政府答弁である。いま、多数におごる彼は、今後、首相としてもそこまでいうかもしれない。いまのところ、アメリカが許さないから核武装をするとはいわないが、いずれは核兵器を持って、アメリカと対等に近づきたいのであろう。
安倍晋三は大学卒業後、神戸製鋼に入社し、ニューヨーク事務所での研修中、先輩から「アメリカ人と交渉するときは、……同じ立場だと思って、対等につきあうべし」と学んだという(『美しい国へ』)。
こう書くのは、たんなるサラリーマンの処世術ではない。また同書に、「日米同盟における双務性を高めてこそ、……わたしたちの発言力は格段に増すのである」とも書いている。安倍首相がめざしているのは、アメリカと対等に近づくことであって、だからこそ英霊にこたえる会や日本会議などの鬼畜米英思想とも親近性を持っている、あるいは彼の本音なのである。
3.「国家が自由と人権を担保する」
安倍首相は国家に最高の価値を置く。自由も人権(わたしは人権とは西欧的価値観であると思うので、ほとんど使わないのだが)も国家が保障する、国家あってのものだという。わたしは、自由と人権をもっとも侵害するものが国家だという立場である。
安倍首相は書く。「個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国の支配によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう」「わたしたちが守るべきものとは何か。
それは、いうまでもなく国家の独立、つまり国家の主権であり、わたしたちが享受している平和である。具体的には、わたしたちの生命と財産、そして自由と人権だ」(前掲書)。
安倍首相も、政府は国土・国民と並んで国家の3要素のひとつであるということはわきまえているのだろうが、3要素のうち、国土と政府、とりわけ政府の比重が大きいのだろう。国家の要素の中で政府の比重が増したとき、国民は政府に従属せざるをえない。だから労働者の賃上げに政府が介入し、官邸主導の春闘という事態が起こる。
「国家権力は抑圧装置であり、国民はそこから解き放たれなければ本当の自由を得たことにはならない、と国家と国民を対立した概念でとらえる人がいる。しかし、人は他人を無視し、自ら欲するまま、自由にふるまうことが可能だろうか。そこには、すべての要求が敵対し、からみあう無秩序社会――ジャングルの中の自由があるだけだ。そうしないために、近代社会は共同体のルール、すなわち法を決めた。放埓な自由ではなく、責任をともなう自由を選んだのである」(前掲書)。
まるで前近代には法がなかったかのような書きぶりだが、江戸時代にも法はあった。しかも明治維新後にくらべて、自治のある時代だった。はるかにさかのぼって、人間もその一種である類人猿の社会にもルールはあった。
類人猿ではないサルにも社会があることは、動物園に行ったことのある人にはわかっているはずである。わたしたちの祖先は、ジャングル、森から出ることによって、人間になった。社会とは、ルールのある世界である。狩りを行なう人間は、必要によって狩りのルールを、そして平等に分配するルールも作った。
弱肉強食のルールは、人間以外の動物にも共通しているが、人間の世界ではそれが強化されてきたように思える。かつて狩りのできない障碍者は、共同体の守り手として尊重された。弱肉強食の基準は変化し、現代では金儲けの上手い、下手が基準であり、ルールなき資本主義ともいわれる。ただ人間は弱肉強食にいごこちの悪さを感じ、福祉というものを発案した。日本列島では少なくとも奈良時代には実行され、飛躍させたのは徳川綱吉である。
社会とは、ルールのある共同体のことであり、それは自治的なものであった。ところが支配者が生まれた社会、すなわち、国家は社会を支配しようとする。支配者の思想が貫徹した社会、国家に支配された社会は、「世間」というものに変質する。世間が国家の機能を一部代替して、人々を支配する。
わたしが夢見るのは国家からの社会の独立であって、そのとき国家は消滅する。国家がなくても、人々は自治的にルールを創ることができる。
国家がなければ、無秩序で放埓な自由しかないという安倍首相は、よほどの性悪説で、人間というものを信頼していないのであろう。
4.国家と社会は本来対立するもの
「日本の国家と社会」というように、国家と社会という単語を区別せずに並列して使用するのは、国家が社会を支配していることを是とする国家主義者と同類になると思っているのだが、多くの人が何も考えずに使用しているのだろう。国家と郷土の関係も同じである。2006年の安倍教育基本法が「我が国と郷土を愛する……態度を養う」としたのは、郷土を愛するものは国を愛して当然という論理である。
郷土とは、人が育つ社会であり、風土と文化である。例外はあろうが、多くの人は、郷土に愛着を持つ。中小規模の面積の国家の国民は、支配者が国家と郷土をわざと渾然一体とさせて国民を愛国に誘導していることに気づくことが難しい。
わたしがこのようにいうと、若者から「千本は日本や郷土を愛していないのか」と反問される。わたしにとって、郷土の範囲は自分でも不明確だが、関西、少なくとも播州は、わたしという存在にとって切り離せないものであって、「郷土を愛する」というような甘ったるいことばで表現するのは不適当である。
日中貿易にたずさわる中国人が、「中国人には愛国心がないので、政府は愛国教育を必要としているのです。日本の書店には、『日本の〜』という本が山ほどありますが、中国には『中国の〜』という本は、政府刊行物以外にはまずありません」と発言していた。中国人は、郷土愛が日本人以上に旺盛のように見えるのだが、国土が広すぎて愛国心が育ちにくいようである。愛国心と郷土愛は必ずしも一致しない。それは、支配装置としての国家と、人類、動物が持つ社会とは本質が異なるからだ。
安倍首相は、「人は何かに帰属してはじめて、自己を確認する……若者たちが、自分たちが生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、まずは、郷土愛をはぐくむことが必要だ。国に対する帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか」(前掲書)と書いている。
人は色々なものに帰属する。自分がつくった人間関係、自分が選んで所属した組織。わたしはそこに自己を確認するが、日本国は自分で選んだ組織ではないので、そこでは自己を確認することはできない。安倍さんは、自民党にしても、日本会議にしても、自分で選んだ組織ではないのかもしれない。郷土愛の延長としての愛国心を強制されて、それでやっと自己を確認することができるとは、あまりにも自分というものがない、悲しくて寂しい人生ではありませんか。
―この続きは次回投稿します―
(参考資料)
評論家・天木直人氏の主張:安倍首相はサイコパス
(精神病質者)だと考えれば すべてに合点がいく !
(天木直人のブログ・2017-02-13より抜粋・転載)
(*補足説明:安倍政権下、(1)森友公文書の改ざん(2)虚偽答弁(3)交渉記録の廃棄(4)加計疑惑での隠ぺい(5)柳瀬唯夫元首相秘書官の虚偽答弁――というきわめて悪質な五つの行為が行われた。
自衛隊の文書も隠ぺい・虚偽答弁があった。安倍政権・自公維新は、強行採決を何十回も行ってきた。不正選挙疑惑も多数指摘されている。)
◆サイコパスの特徴
(www.excite.co.jp:2015年4月18日より抜粋・転載)
1)良心欠如、2)他人に冷淡、3)平気でウソをつく、4)口が達者、
5)自分の行動に責任をとらない、6)罪悪感なし、7)自己中心的
安倍氏が、首相になって以来、多くの人は、安倍氏が上記の7つの特徴を兼ね備えていると感じているのではないでしょうか。
☆サイコパス・安倍首相に従属する自民党議員・公明党議員の多数は、やはり、サイコパスか ?
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