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東京五輪招致疑惑:竹田JOC会長が退任を表明 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2019 年 3 月 21 日 20:11:53: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 東京五輪招致疑惑:竹田JOC会長が退任を表明 !

   竹田会長の深層・真相は ?

(blogos.com:2019年03月20日 18:55より抜粋・転載)

小宮山洋子:

2020年東京五輪招致疑惑で、フランス司法当局の捜査対象となっている、日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和(たけだ・つねかず)会長(71)が、3月19日、東京都内で開かれた、JOC理事会で、任期満了となる、6月27日に退任すると、表明しました。

国際オリンピック委員会(IOC)委員を、辞任することも明らかにしました。開幕まで、500日になっている中で、JOCの委員長が退任することで、大会への影響が懸念される、と報じられていますが、遅きに失した感もあり、任期満了まで待たずに、すぐに退任したほうがよいと思います。

任期満了まで待つ理由としては、すぐ退任すると、東京五輪招致疑惑を、認めたように見える、とのことですが、それで理解が得られるのでしょうか。招致疑惑は、東京の招致委員会が、シンガポールのコンサルタント会社に送金した、2億円超の一部が、当時、国際オリンピック委員会委員だった国際陸上競技連盟のディアク前会長の息子・パパマッサタ・ディアク氏に渡り、票の買収に使われた疑いがあるというものです。

竹田会長は、明治天皇である、父の恒徳氏と親子2代で、国際オリンピック委員会(IOC)委員会の委員を務め、現在10期目とのこと。長期にトップにいると、どうしても腐敗が進むのではないかと思います。

竹田会長は、不正はしていないとして、6月の任期後も定年を延長して、会長に留まるつもりだったが、国内外の包囲網によって追い込まれ、退く決断をした、とのこと。

IOCにとって、2016年のリオデジャネイロ大会に続く、招致疑惑への対応は、死活問題で、退任しない場合は、バッハ会長が、五輪1年前のイベントに出席しないと、早期退任の必要性を日本側に伝えていました。

竹田会長は、昨年12月に、フランス当局の事情聴取を受け、今年1月の記者会見で、潔白を主張しましたが、捜査中を理由に、質疑を受けず、7分余りで会見を打ち切り、批判を浴びていました。

その後は、国際会議を相次いで結成するなど、役割を果たしていず、退任は当然のこと、と受け止められています。竹田会長の退任で、疑惑が解明されるわけでは、ありません。

JOCのガバナンスの問題も、新体制で改めてもらいたいですし、JOCだけでなく、東京都や国も協力して、東京五輪を招致したのですから、全体で疑惑を解明する、必要があると思います。

それにしても、若者に、夢や希望を届けるはずの五輪が、このところ招致のたびに、疑惑が生まれるのは、どうしたわけでしょうか。五輪のあり方自体も、見直す必要があるのかもしれません。

(参考資料)

竹田会長のプロフィール:

竹田 恆和(たけだ・つねかず、1947年(昭和22年)11月1日 - )は、実業家、日本オリンピック委員会(JOC)会長(8期)。

国際オリンピック委員会委員。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長[1]。国際馬術連盟名誉副会長(終身)、日本馬術連盟副会長。アジアオリンピック評議会副会長。1972年ミュンヘンオリンピック・1976年モントリオールオリンピック馬術日本代表。旅行会社せとうちLTKトラベル(旧・LTKライゼビューロージャパン、東京都知事登録第2-7127号)代表取締役会長。東京都出身。

○人物・来歴

2016年東京五輪招致活動当時の竹田恒和(右から2人目が竹田、2009年8月8日)

旧皇族・竹田宮恒徳王の三男。母は恒徳王妃光子。今上天皇(平成の天皇・明仁様)のはとこにあたる。父の恒徳王は、恆和(つねかず)の誕生直前の1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱を行ったため、戦前生まれの他の4人の兄姉と違い、恆和が皇族であった時期はない。

慶應義塾幼稚舎より慶應義塾に学び、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業する。

父は日本スケート連盟と日本馬術連盟の会長もしていたので、父に連れられてよく両方の大会の観戦に行っていた[2]。スポーツは何でも好きで、小さい頃からいろいろなスポーツに親しんでいた[2]。

父は騎兵将校の職業的軍人で馬に乗ってはいたが、恆和は実際に父の乗馬姿を見たことはなかった[2]。父から「馬をやれ」と言われたこともなかった[2]。馬を始めたのは小学校5年生のときである[2]。たまたま同級生が乗馬クラブに通っていて「僕も連れていってくれよ」と頼んだのが馬術を始めるきっかけだった[2]。

中学生になったとき馬術部に入った[2]。3年生のときはラグビー部の選手が足りず、各部から足の速い選手が集められ、1年間ラグビー部のレギュラーもやっていた[2]。高校でもラグビー部に引っ張られたが、恆和は「馬術で行く」と決めていた[2]。

1972年(昭和47年)、ミュンヘンオリンピックに日本代表として馬術の障害飛越競技に出場、乗馬はジョセフィンで、個人42位、団体16位であった。

1976年(昭和51年)、モントリオールオリンピックに出場、乗馬はフィンク、個人39位、団体13位の記録を残した。

その後のオリンピックでは、ロサンゼルスオリンピック日本選手団コーチ、バルセロナオリンピック日本選手団監督、シドニーオリンピック日本選手団本部役員(広報担当)、ソウルオリンピック日本選手団コーチとして携わった。

選手を辞めたあと、「世話になった慶應大学の馬術部に恩返しがしたい」と考え、コーチ、監督を12年間務め、学生とともに過ごした[2]。

1991年(平成3年)、日本オリンピック委員会(JOC)理事に就任[2]。1992年(平成4年)、FEI理事に選出[2]。1998年(平成10年)、FEI副会長に選出[2]。

2001年(平成13年)、この年の9月9日に死去した八木祐四郎の跡継ぎで日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任した。2002年ソルトレークシティオリンピックでは、日本選手団団長を務め、2003年(平成15年)、2005年(平成17年)、2007年(平成19年)、2009年(平成21年)、2011年(平成23年)3月、2011年(平成23年)6月、2013年(平成25年)6月にJOC会長に再任され現在8期目となり、また日本オリンピアンズ協会の名誉会長も務めている。

2012年(平成24年)3月、国際オリンピック委員会の理事会においてIOC委員への推薦が決まり、7月26日のIOC総会にて正式に委員に任命された[3]。

2013年(平成25年)、恆和が東京招致委員会委員長として地道なロビー活動を続けた国際オリンピック委員会が、9月7日(現地時間)にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで総会を開き、2020年夏季五輪・パラリンピックの開催都市として東京を選出した。東京では1964年以来56年ぶり2回目の五輪開催(2020年東京オリンピック・2020年東京パラリンピック)となった。1972年札幌、1998年長野の冬季五輪を含めると、日本で4回目の五輪開催となる。

2014年9月29日、2022年冬季オリンピックの立候補都市調査する評価委員会のメンバーに、2018年冬季オリンピックに続いて選ばれた。

2019年3月19日、6月の任期満了に伴い、日本オリンピック委員会(JOC)会長を退任すると表明した。 また、国際オリンピック委員会(IOC)委員を辞任することも明らかにした。

☆竹田恒和会長の父親:

竹田恒徳(たけだ つねよし、1909年(明治42年)3月4日 - 1992年(平成4年)5月11日)は、日本の旧皇族(竹田宮第2代)、陸軍軍人。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、竹田恒徳と名乗る。皇籍離脱前は竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)。陸軍少将竹田宮恒久王の第1王子で、母は、明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。妹の禮子女王は、佐野常光に嫁す。

☆竹田恒和会長の母親:

竹田宮恒久王妃昌子内親王(たけだのみやつねひさおうひ まさこないしんのう、1888年(明治21年)9月30日 - 1940年(昭和15年)3月8日)は、日本の皇族。竹田宮恒久王の妃。第122代明治天皇の第六皇女。母は園基祥伯爵令嬢・園祥子。第123代大正天皇の異母妹。第124代昭和天皇の叔母。第125代今上天皇の大叔母。作家で憲法学者の竹田恒泰の曾祖母である。

○明治天皇の側室C:園祥子(そのさちこ)

明治天皇の側室,園祥子

(明治天皇の側室:園祥子)

園祥子はわずか13歳で側室になります。

幼くして側室となった彼女は順調に娘を授かり、19歳で初めての出産をします。

しかしその娘もわずか1歳で死去してしまいます。

その後も明治天皇から愛された彼女は出産が続きます。

最終的に2男6女というたくさんの子どもを出産していますが、そのうち二人の息子と一人の娘は幼くして死亡します。

成人するまで生き残った子どもは、5人もいましたが、すべて女の子だったためどの子も皇太子となることはありませんでした。

なお、園祥子の産んだ2番目の娘(昌子)は、後の1908年に陸軍少将・竹田宮恒久王と結婚します。ちなみに、この竹田家の子孫が近年有名になったのが、作家の竹田恒泰さんです。

竹田恒泰さんは、今上天皇のはとこの子ということになりますね。

○明治天皇の側室について

(明治天皇の側室は何人?)

明治天皇の皇后は一条美子(いちじょうはるこ)という女性でした。

しかし、明治天皇と皇后の間には子供が生まれることはありませんでした。

皇后に懐妊の兆候がないことを知った宮中では、着々と側室をむかえる準備がなされていきます。

皇后・一条美子(いちじょうはるこ)

明治天皇の皇后,一条美子

(明治天皇の皇后:一条美子)

一条美子が皇后として立てられたのは明治元年のことです。

皇后・一条春子は1849年嘉永2年に左大臣・一条忠香の三女として生まれます。

その後1867年慶応3年に明治天皇の元で女御という官職に就きます。

この女御という官職は非常に高い身分を持つ女官で、明治天皇の寝所でも仕えていました。

そして1869年明治元年に皇后になります。

皇后に立てられたとき、美子(はるこ)は、若干20歳でした。

ところが、皇后には一向に懐妊の兆候が見られません。

もともと病弱ということもあり、その人生の最後まで実子をもうけることはありませんでした。

明治天皇には、5 人の側室がいました。

 

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