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薩摩藩が「幕末最強組織」になった 特異な理由とは ?
(article.auone.jp:2018年09/14 11:00より抜粋・転載)
◆薩摩藩独自の人材育成・軍事システム !
西郷隆盛や大久保利通が属する薩摩藩は、幕府を倒して、明治維新を牽引したが、その原動力となったのが、他の藩にはない、独自の人材育成・軍事システムだった。
◆謎1:なぜ大量の兵士を維持できたのか ?
第1の謎を解き明かすためには、まずは薩摩藩ならではの特異性をみる必要がある。薩摩藩は、鎌倉時代から続く名門・島津家が治めてきた。
始祖の島津忠久は鎌倉幕府・初代将軍源頼朝の庶子だったという伝承もあり、江戸300藩の中でも飛び抜けた名門だった。
島津家は、関ヶ原合戦後に徳川家に仕えた外様大名だが、徳川家に屈しなかったという“誇り”があった。関ヶ原の戦いでは敵側の西軍に属したが、大胆な敵中突破で武名を高めた。
徳川家康は島津征伐を検討したが断念し、最終的には西軍でありながら取り潰されず、それどころか所領が安堵されるという特別待遇を受けた。
こうした経緯もあってか、薩摩武士には「徳川とはあくまで対等の関係」という考えがあった。
島津家は、引き続き九州南部を治めることになったが、それゆえに戦国以来の体制や習慣が根強く残った。
江戸時代の日本には士農工商という身分制度があり、兵農分離で武士層と農民層が明確に分かれていた。
武士層は人口全体の7〜10%で、多くが城下町に住んでいた。
◆薩摩藩の武士階級は、人口比約30% !
ところが、薩摩藩の武士階級は、人口比にして何と30%近く。
他藩に比べるとはるかに高い数値である。
これは藩内に「徳川とは対等」という独立意識があり、「何が何でも領土を守る」という意識が働いていたからだと考えられる。
いざというときに対処できるよう、常に大兵力の維持に努めていたのだ。
とはいえ、火山灰地に覆われていた、薩摩藩領の生産高は低く、表高(所領の表向きの石高)は、77万石だったが、実質石高は、30万〜35万石だった。
しかも参勤交代では、藩主が薩摩と江戸を往復しなければならなかったので、通常のやり方で、大兵力を養うのは難しかった。
そこで、領内の村々に、自給自足の「外城士(とじょうし)」と呼ばれる、郷士身分を大量に配置した。
◆薩摩武士は、剣術修行にも熱心 !
彼らは、家禄がなくても、年貢免除や苗字帯刀などの、武士特権を与えられたので、藩主に対する、忠誠心も厚かった。
彼らは、武士であることを誇りに思い、武士としての自覚から、日々の鍛錬も欠かさなかった。
剣術修行にも熱心で、平和が続いたことで軟弱化した他藩の武士とは、対照的だった。
薩摩藩は年貢免除や苗字帯刀など、武士にとってはこれ以上ないインセンティブを与えた。
その結果、普段は農作業をしている下級武士たちもモチベーションを保ち続けられたのである。
(学びのポイント)年貢免除や苗字帯刀などの武士特権が、いわばインセンティブとなり、モチベーションの高い戦力を、大量に維持できた。
(教訓)金銭以外のインセンティブが組織の結束を強くする
◆謎2:なぜ有能な人材が輩出されたのか ?
幕末に活躍した薩摩藩士は西郷隆盛や大久保利通だけではない。
家老の小松帯刀、勝海舟から「薩摩では大久保利通に次ぐ傑物」と評された村田新八、「人斬り半次郎」と呼ばれた桐野利秋など、さまざまな人物が活躍している。
また、第2代内閣総理大臣の黒田清隆、日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎、実業界で活躍した五代友厚など、明治期にも多くの薩摩人が活躍した。
薩摩出身のリーダーは、大事な場面で常に適切な判断を下してきた。
なかには藩校でエリート教育を受けた者もいたが、藩校で学ばなかった下級藩士出身のリーダーも多い。
現に西郷や大久保などは下級藩士の出だが、リーダーシップを発揮するための判断力や実行力、決断力はずば抜けていた。
こうした人材を輩出することができた背景には、「郷中(ごじゅう)教育」という薩摩藩独自の教育システムがある。
鹿児島城下における家臣の居住地域は家格によって区分され、それぞれの町で「郷中」と呼ばれる少年たちのグループがつくられた。
「稚児(ちご)」と呼ばれる6〜15歳ぐらいまでの少年たちが集まり、「二才(にせ)」という15〜24歳の年長武士が教える。
郷中教育には“教師”が存在せず、先輩が後輩を教育しているのだ。
どんなことを教えるか、誰から学ぶかは子供たちの自由で、決まった学び場もない。子供たちは早朝に好きな先生の家を訪ね、儒学や書道などを学んでいる。
さらに川遊びや相撲、武芸などにも励み、身体を鍛える。学んだ後は子供たちだけで集まり、車座(くるまざ)になって、その日学んだことをひとりずつ口頭で発表する。
これによって知識が共有され、話す本人も口頭で伝えることで復習になる。
藩校ではテキスト重視の教育が行われるが、郷中教育では会話が重視される。
ときには熱い議論になることもあるが、こうした口伝えの教育が実践的な力につながり、テキストだけでは身につかない決断力や実行力、判断力が身につくのだ。
郷中で一緒に過ごす時間が長いので、同じ郷中で育った者の絆は深くなっていく。
その一方で、年長者に従う意識も強くなる。
その結果、目上の者の命令には異議を唱えることなく黙って従うという独特の気風も生まれた。
(学びのポイント)薩摩藩独自の教育制度「郷中」で育まれた実践的な力が、薩摩からの有能な人材の輩出につながった
(教訓)教える側と教わる側という固定的な関係ではなく、むしろ仲間同士で学び合うことで組織が成長する
◆謎3:なぜ産業近代化にいち早く成功したのか ?
8代藩主の島津重豪は藩財政を悪化させた張本人だが、薩摩藩の近代化の礎を築いた人物でもあった。
藩校の造士館を設立して教育の普及に努めたほか、明時館(めいじかん)という天文学の研究施設や漢方を学ぶ医学院も建てた。
書物の編纂にも取り組み、薬草を研究した『質問本草』や農学書の『成形図説』、中国語を研究した『南山俗語考』などを刊行した。
また、重豪自身も「蘭癖(らんぺき)」の異名を持つほど蘭学に興味があり、自らオランダ語を習得したり、来日したシーボルトと会見して西洋事情を聞いたりした。
こうした重豪の“洋学かぶれ”は、曾孫で11代藩主の島津斉彬(なりあきら)に受け継がれた。列強諸国の脅威を敏感に受けとめていた斉彬は外国の先端技術を導入し、軍事と産業の近代化にいち早く取り組んだ。
鹿児島郊外にはアジア初の近代的洋式工場群を建設し、大砲の製造や洋式帆船の建造、武器弾薬や食品の製造、紡績事業やガス灯の実験などを行った。
これらの事業は工場群の名称にちなんで「集成館事業」と呼ばれ、のちの明治維新期に活躍する人材も育てた。
斉彬が先進的な事業を起こすことができたのは、当時の薩摩藩が海外情勢をいち早く入手できる環境にあったからだ。
江戸時代は完全に国交を閉ざしていたわけではなく、4つの窓口(対馬(つしま)・蝦夷(えぞ)・長崎・琉球)を通して諸外国と交流していた。
なかでも琉球は薩摩藩の管轄下にあり、琉球を通して海外の情勢を知ることができた。
薩摩藩も高い情報収集力を誇り、それが維新の礎にもなったのである。
◆理想に直進した長州藩、現実的な行動原理の薩摩藩
また、薩摩隼人といえば、「チェスト!」の掛け声で勇猛果敢に挑むイメージがあるが、一方で、現実的で冷静な面もあった。
長州藩は理想に向かって直進する傾向があったが、薩摩の場合はギリギリまで幕府とは表立っては対立せず、しっかりと力を蓄えた状態で戊辰(ぼしん)戦争に突入している。
薩摩藩士には尊王攘夷思想に傾倒する者も多かったが、藩首脳部はその暴発を抑え、幕府が推進する公武合体政策を支持した。
そして、京都では会津藩と協力して長州藩の尊王攘夷派を追い出した。
幕府と表立って敵対することなく、その内に入って影響力を強める画策をしたのだ。
理想に向かい直進する長州藩とは違って、むしろ薩摩藩には現実的な行動原理があったといえよう。
着実に力をつけながら、薩長同盟の締結により、ついに幕府との力関係は逆転した。そして、倒幕へと動きだす。この冷静な行動が成功へとつながったのである。
(学びのポイント)尊王攘夷という無理な理想を追わず、現実の世界情勢を正しく認識。リアリズムに徹する対応をしたことが、近代化につながった。
(教訓)理想だけを追う組織は危うい。地に足をつけたリアリストが社会を動かす
(09/14 11:00 東洋経済オンライン)
(参考資料)
★「大室寅之祐」がニセ明治天皇になった !
そこで、睦仁天皇も邪魔だということで「弑逆」されて、行方がまったくわからなくなったのです。
「大室寅之祐」(伊藤博文の子分:朝鮮人部落の人間)という名前の人物を「睦仁にすり替えて」詐称しているからです。
日本国民が、「孝明天皇弑逆事件」の真相を明らかにして、それ以降の日本には歴史的正統性が存在しないということを明確に日本人が認識する・・・ということが必要ではないかと思うわけです。
*孝明天皇弑逆説:山陰基央、徳富蘇峰、山岡荘八、鹿島昇、大田龍、鬼塚英昭、
加治将一
なお、明治初期・中期、京都の公家、有力市民の多くは、孝明天皇弑逆を知っていた。
(ブログ「心に青雲」より抜粋転載)
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