http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/10336.html
Tweet |
沖縄の「慰霊の日」は、沖縄戦で、犠牲になった人たちに、
祈りをささげる日だ !
沖縄戦とは何か ?
(「植草一秀の『知られざる真実』」:2018/06/23より抜粋・転載)
────────────────────────────────────
1)沖縄の「慰霊の日」は、沖縄戦で、犠牲に
なった人たちに、祈りをささげる日だ !
沖縄が、6月23日、日本の敗戦から73年目の「慰霊の日」を迎えた。
6月23日は、太平洋戦争末期に、おびただしい数の、住民を巻き込んだ、激烈な地上戦が繰り広げられた沖縄で、組織的な戦闘が、終わった日とされ、犠牲になった人たちに、祈りをささげる日だ。
最後の激戦地となった沖縄本島南端に位置する平和祈念公園で、6月23日正午前、追悼式が開会された。沖縄戦が始まったのは、1945年3月末であった。
2)1945年4月1日から、米軍の沖縄本島への上陸が始まった !
4月1日に米軍の本島への上陸が始まった。
この沖縄戦で、当時の県人口の4人に1人にあたる県民12万人以上が犠牲になった。
日米の軍人を合わせた死者は、20万人に上るとされる。
1990年6月23日、海部俊樹内閣総理大臣が、歴代首相として初めて、県主催の「沖縄全戦没者追悼式」に参列した。命をつないだ人々も、敗戦後の米軍占領下で、過酷な生活を強いられた。
1952年4月28日の、サンフランシスコ講和条約発効によって、敗戦後に、連合国軍の占領下にあった日本は、独立を果たしたが、沖縄や奄美は、日本から切り離された。
3)沖縄が、日本復帰するまでの27年間、沖縄は、米国施政権下にあった !
沖縄が、日本復帰するまでの27年間、沖縄は、米国施政権下にあった。
この間に米軍基地は、本土から沖縄へ移転された。
沖縄では、日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙(じゅうりん)された。
過重な基地負担など、現在まで続く、沖縄差別の源流ともなった、4月28日は、「屈辱の日」と呼ばれている。安倍内閣は、第2次安倍内閣が発足した直後の、2013年4月28日に、政府主催の「主権回復式典」を開催し、天皇、皇后の出席を求めた。
4)日本は、サンフランシスコ講和条約に調印したその日、
日米安保条約にも署名した !
日本は、サンフランシスコ講和条約に調印したその日、日米安保条約にも署名している。
*補足説明:サンフランシスコ講和条約とは ?
(朝日新聞掲載「キーワード」の解説より抜粋・転載)
第2次大戦を終結させるため、1951年9月8日、米国など48カ国と日本が米サンフランシスコで署名した。
冷戦を背景に共産圏の旧ソ連、旧チェコスロバキア、ポーランドは署名を拒否した。
52年4月28日に発効し、連合国による日本占領が終わった。
日本は独立を回復したが、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は本土復帰までの間、米国の施政下に残った。
(2014-03-03 朝日新聞 朝刊 特設A)
沖縄を含む南西諸島を切り捨てて、米国に従属することと引き換えに、「見せかけだけの独立」を得たのである。
5)安倍内閣が、「屈辱の日」を記念して、式典を開催し、
これを国民の祝日にする事は、米国の家来の証拠だ !
この4月28日に式典を開催した、安倍内閣は、この日を国民の祝日にする考えを併せ持っていたのだと推察される。沖縄にとっての「屈辱の日」を記念して、式典を開催し、これを国民の祝日にしようとすること自体が、安倍内閣の本質を鮮明に示している。
要するに、アメリカのポチにしか過ぎないのである。
その沖縄でいま、巨大な米軍基地建設が進められている。
―この続きは次回投稿します―
(参考資料)
沖縄戦とは何か、深く知るためのQ&A
(www.asahi.com:2017年6月23日00時00分より抜粋・転載)
朝日デジタル・木村司:
沖縄はきょう、72年目の「慰霊の日」を迎えました。沖縄戦による日米両軍と民間人らを合わせた死者は約20万人。この日に組織的戦闘が終結したとされ、沖縄県民の4人に1人が亡くなったとも言われます。
現地で何があったのか、知っていますか。
(朝日新聞が発行する中高生向けの教育特集「知る沖縄戦」から引用したQ&Aです) ◇
Q1、なぜ沖縄が戦場になったの?
みんなのお父さんやお母さんが生まれるずっと前、日本は米国やイギリスと戦争をしたんだ。太平洋戦争だ。太平洋の島々を奪った米国は、次に沖縄を占領して日本本土を攻めるための基地、つまり前進基地(ぜんしんきち)として使おうと考えた。
これに対し日本は、日本本土に攻め込まれたら困ると考えて、沖縄になるべく米軍をひきとめて時間をかせぐ「持久戦(じきゅうせん)」の作戦をたてた。
Q2、「沖縄戦」ってどういうものなの?
沖縄で最初の大きな被害は1944年10月の「10・10空襲(くうしゅう)」だ。死者は軍人と民間人あわせて668人とされる。
1945年になって、航空機で軍艦(ぐんかん)に体当たりする日本軍の「特攻(とっこう)」攻撃も始まった。特攻による死者は数カ月間に約2500人ともいわれている。
米軍は1945年3月末、空襲や海上の軍艦からの砲撃につづき、慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には沖縄本島中部の西海岸に上陸した。このころから約3カ月にわたる戦いを一般に、沖縄戦と呼んでいる。
沖縄本島の上陸地から本島北部にかけては約2週間で、米軍に占領された。日本軍がおもに待ち構えていた本島中部では、約40日間にわたって激しい戦いがあった。
しかし、追い詰められて、首里(しゅり)城地下にあった司令部を捨て、日本軍は本島南部へしりぞく。大きな戦いはその後約1カ月間続いた。
Q3、住民は巻き込まれなかったの?
戦争はふつう、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものだが、沖縄戦は、10代前半の子どもも含む住民が、足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も、武器をもたない住民も、まぜこぜになったまま地上戦がつづいた。
日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていったんだ。
こうしたことで、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたといわれる。
かつて日本が統治していたサイパンやテニアン、サハリン、満州などでも地上戦があったけど、いまの日本で、そんな体験をしたのは沖縄だけだ。
沖縄戦の教訓(きょうくん)として「日本の軍隊は住民を守らなかった」と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はもちろんいる。
でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした人たちがたくさんいる。
Q4、地上戦ってなに?
太平洋戦争の間、日本本土では、飛行機から爆弾を落とされる空襲で大変な思いをした人がたくさんいる。
一方、沖縄には米軍が上陸し、住民が暮らしていた場所で、米軍と日本軍が戦った。
空からの攻撃にくわえ、陸からは銃(じゅう)や大砲(たいほう)、火炎放射器(かえんほうしゃき)で襲われ、海からは艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で狙われた。
爆弾が大嵐のように降り注いだことから「鉄の暴風」とも言われる。米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場とよんだんだ。
地下に日本軍の司令部があった首里城も跡形もなくなった。
地形も変わってしまったくらいなんだ。
とくに多くの住民が犠牲になった沖縄本島南部の喜屋武(きゃん)半島では、1カ月間に約680万発、住民1人あたり50発ほどが撃ち込まれたともいわれているよ。
Q5、どれくらいの人が戦ったの ?
米軍はおよそ55万人、日本軍はおよそ10万人。
武器の量や性能をあわせた戦力の差は、米国が日本の10倍以上だったそうだ。
そのうえ、日本軍の10万人のうち、2万数千人は、沖縄にいる一定の年齢の男子を急きょ兵隊として集めてつくられた「防衛隊(ぼうえいたい)」や「義勇隊(ぎゆうたい)」、いまの中学生や高校生くらいの生徒たちでつくる「学徒隊(がくとたい)」だったんだ。
防衛隊の年齢は17歳から45歳というけれど、実際にはもっと幼い子どもや高齢の人もいたといわれる。
軍隊の訓練も受けず、武器もないまま戦いに参加させられることもあった。学徒隊では「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」が代表例だ。
Q6、いったい何人が亡くなったの?
米国側は1万2520人。日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったとみられている。
このうち沖縄県出身以外の日本兵は6万5908人。沖縄県出身の軍人・軍属(ぐんぞく)(正規の軍人、防衛隊や学徒隊など)は2万8228人。
一般の住民は9万4千人。
沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなったといわれている。
ただ、いずれも推計した数字だ。戸籍も焼けてしまって、亡くなった人の数ははっきりわかっていない。家族全員が死んでしまった家もたくさんある。
名前もわからなくて戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」に、○○さんの「長男」とだけ彫られている人さえいる。
子どもだった人のなかには、両親が亡くなって自分の生年月日も、名前さえわからない人もいるんだよ。
米軍の砲弾や銃弾を受けただけでなく、自ら命を絶つ「自決(じけつ)」で亡くなった人や、餓死や栄養失調、マラリアで死亡した人もたくさんいる。
沖縄から疎開(そかい)(避難(ひなん))したのに亡くなった人もいる。
沖縄戦前年の1944年8月、九州へ向かっていた船「対馬丸」が米軍に攻撃されて、多くの児童が海で溺れて亡くなったんだ。
Q7、自決って?
自らのことを自分の意思で決めるという意味もあるけど、軍人が自ら命を絶つ、つまり自殺することを「自決」といったんだ。
当時の日本軍には「戦陣訓(せんじんくん)」という教えがあって、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」、つまり捕虜(ほりょ)になるくらいなら死を選べ、という考えが大切にされていた。
沖縄の日本軍のトップ、牛島満(うしじまみつる)司令官は、本島南部においつめられて「自決」している。
大けがを負って洞窟内に寝かされたたくさんの軍人に、毒が入った飲み物が配られて死に追いやられたことを「集団自決」ということもある。
一方で、住民の「集団自決」もあった。米軍の激しい攻撃が続くなかで、家族や近所の人たちが壕の中や森でまとまって命を絶つといったことが、慶良間諸島や伊江(いえ)島、沖縄本島各地で起きたんだ。
「集団死」と呼ばれることもある。
日本軍は、住民も、役所も、兵士と同じように命をかけて国を守れという「軍官民共生共死(ぐんかんみんきょうせいきょうし)」という指導方針をとって、住民が米軍に投降(とうこう)することもゆるさなかった。そうしたことが背景にあったんだ。
―以下省略―
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。