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(回答先: butoh dance 2011年レクイエム (1) 投稿者 愚民党 日時 2011 年 6 月 17 日 01:38:30)
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2010年12月の暮れだった。
音楽・音響家の曽我傑氏と藤沢の喫茶店で、1月5日公演の打ち合わせをした。
「これでは、できない。舞台の中心は何処にあるのだ! でんちゃんは何処にいるのだ!」と突きつけられた。
わたしの構成・演出における空虚と空洞が明確になった。
緞帳が上がる。ほし☆さぶろうたちは鎮魂の舞をする。円舞である。それを迎える女の神社主、これは音響家の曽我傑氏による振り付けアイデアである。
2010年3月21日、湘南の舞踏家鈴木ヱイ子氏が亡くなった。
2006年3月21日に亡くなった、おーるさんと同じ日だった。
通夜、告別式に参加したわたしは、酒に酔いながら、若林淳氏に電話した。
「追悼公演をやるので出演してほしい」
その後、時間がたち、わたしは逃げようとしていた。
2010年7月、若林可南子氏の絵をもらいに藤沢市の長後駅までいった。
やはり絵を描いている若林誠氏、若林可南子氏と長後のホツモン焼き店で飲んだ。
そのとき、若林可南子氏から「逃げる気なの?」と問いかけられた。
わたしはもう逃げられなかった。
2010年7月末から、わたしは「鈴木ヱイ子氏偲んで」公演の準備を開始した。
まず、若林淳氏と打ち合わせをした。
ほし☆さぶろう氏と打ち合わせをした。
大石玲氏と打ち合わせをした。
ほし☆さぶろう氏とは、とりふね舞踏舎公演で何度も共演した。2006年6月のイタリア・ミラノ公演でも一緒だった。
大石玲氏とも何度もとりふね舞踏舎公演で何度も共演した。2006年6月のイタリア・ミラノ公演、2000年のクロアチア・スロベニア旧ユーゴスラビア公演で共演した。そして大石玲氏は歌い手でもあった。大石玲氏は最初の電話で出演を承諾してくれた。大石玲氏の故郷は3・11の大地震大津波の被害にあった宮城県である。
2011・06・17
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構成台本より
客席通路下手、先手・ほし☆さぶろう、岩田尚子、多屋民、斉藤吉彦
はでんちゃんを黄泉から舞台へと運ぶ・・・・・。ほし☆さぶろうの衣裳は作業服、岩田尚子と多屋民の衣裳は稽古着とする。舞台裏方塚原勝美は、2005年5月に亡くなった故郷の親友、中学校のクラスメートである伊藤修二氏と2006年3月21日に亡くなったおーるさん、高橋正作氏への哀悼をこめて緞帳を開ける。客席通路ほし☆さぶろうたちの歩行線確保の確認のため、舞台下手袖に塚原勝美が戻れなかった場合は、日高明人が緞帳を開ける。
故郷である栃木県もそうだが日本全国で50歳代の死は過酷な現実をきわめている。この公演はでんちゃん鈴木ヱイ子氏への追悼公演であるばかりでなく、死者たちへの追悼でもある。死者たちへの追憶によって新春という扉を押し開く時代閉塞の申し子たち。
舞台下手花道では地獄の番人(警備員)塚原由紀夫が敬礼をしている。塚原由紀夫にとっては、2004年5月に亡くなった妹・鬼城純子氏への哀悼敬礼でもあるだろう。ほし☆さぶろうたちは舞台上手一番前の袖へとはける。
塚原由紀夫は下手一番前の袖にはける。日高明人が袖へと誘導をする。
1部
ピアノは舞台下手、ピアニスト板付き、「枯葉」の伴奏が始まる。
舞台上手奥から大石玲(マイク使用)が歌いながら登場。舞台は今だ子午線のごとく薄暗い。
大石玲が舞台定点に立ったら明かりが入る。
1場シャンソン=大石玲 ピアノ=永縄眞百合(20分)
1、枯葉 2.話してよ愛の言葉を
でんちゃん(鈴木ヱイ子氏)の思い出を語りながら・・・・・
3、ラ・メール
4、バラ色の人生 5、愛の賛歌 6、時はすぎてゆく
「愛の賛歌」のころ、ほし☆さぶろうの上手袖スタンバイを舞台裏方は確認する。
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