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『領土と城壁を越える人材』
■外の世界で活躍する人
藤原
さきほど中国人とアングロサクソンの問題を城壁との関係で話しかけ、途中で亡命のことにそれてしまったけれど、閉鎖社会とハードウエアとしての領土に話題を引きもどすことにします。そうすると、城壁の中にハードウエアが残り、ソフトウエアは外に活躍の場を見出すという対照がはっきりしてきて、モデルとして興味深いものが作れます。
小室
日本列島も海が城壁だという結論が出てくるのではないですか。
藤原
そうですね。まず中国の例から考えると、大陸に陣取っている十億の中華人民共和国民は、ある意味で閉じこめられた人民であり、城壁の中の人々です。北京政府がああやって官僚支配による閉鎖体制をとっている以上は、あそこは缶詰め国家といっていい。もっとも、台湾だって政治的には官僚統制が厳しいから、一種の缶詰めかもしれないけれど、経済的にも社会的にもよりオープンだという点は疑いないでしょう。
小室
日本が鎖国国家だというのと同じ意味で、台湾も閉ざされた国です。大陸と台湾とどちらがより閉ざされていないかを論してもナンセンスであり、政治的には運命共同体であることは変わりなく、存在様式が違うにすぎない。
藤原
台湾と大陸が違うというのは、日本が台湾を日清戦争で領土化して以来の虚構であり、それを蒋介石政権が変な具合に利用したにすぎず、この二つは本来はひとつのものです。だから、全体をひとつと見て中国人を考え、中華思想が支配する領域の中国に住む人間と、その外部に移り住んだ中国人としての華僑の問題として見ればいい。
小室
東南アジアや日本だけでなく、アメリカやヨーロッパに住んでいる中国人を含めて華僑を考える。そうすると、興味深いことに、中国系の人間はアフリカや中東のような猛烈に暑いところや、シベリヤみたいに寒さの厳しい場所にはあまり入り込んでいない。おそらく中国人が農耕民であり商人だからです。
藤原
ことによると、あまりパイオニア的でないせいかもしれない。あれだけ強烈な文明化する文化を誇る民族だから、厳しすぎる自然の中で耐えるだけの強靭さを喪失しているのかもしれません。
小室
なにしろ、あれだけ野蛮さを軽蔑した国民です。南蛮だとか北狄とか勝手な呼び方をして人間扱いにしない。蛮は虫だし狄は火を使うケモノであって、東夷の夷だけはかろうして人間で弓を持っているけど、これが昔の日本を指していたのです。
藤原
ところが、日本人は自分よりももっと東のほうに住む野蛮人のことだと誤解して、征夷大将軍などと名のって喜んでいた。おめでたいですね。
小室
中国の皇帝から人並みに扱われたから感激したのでしょう。弓まで持っているとほめられたし....。
藤原
野蛮人の領域のはるか彼方に別の文明があることは、張騫や班超、それに甘英なんかの西域探険がもたらせた情報だけど、中国人が華僑として外国に移住し始めたのは、かなり最近と違いますか。
小室
明の時代の中国人は南アジアから中東やアフリカまで遠征をしていて、有名な鄭和の大航海ではメッカまで行っています。しかし、移民が本格化したのはもっとあとで、十九世紀になってからです。移民というのはヨーロッパの例を見てもわかる通り、人口が増え、飢饉に見舞われて故郷を捨てたり、戦争によって逃げ出したりすることがきっかけになる。十九世紀の中国は戦乱が絶えなかったし、生きるために逃げる手段としての航路も発達していたから、大量の中国人が着のみ着のままで脱出したのです。
藤原
そうやって外国にたどりついた一世は下積みの労働者だったが、二世や三世になると、その中から世俗的な成功者やプロフェッショナルになった人材が生まれるようになる。日本人の移民史だって似たようなパターンを持っていますよ。
小室
ところが、そこから先が違う。中国人は海外に足場ができると本国からそこをめざして続続と人間が集まり、たちまちチャイナタウンを作ってしまう。日本人の場合は、ともすると同化して吸収されてしまう。その理由は、日本人は成功すると故郷に錦を節って帰ってしまうから、強靱な拠点ができ上がらない。逆に、中国人は成功すればするほど、その土地で勢力を拡大して、絶対に本国へもどりたいなどと考えない。そうやって実力をつけた中国人が各地に砦を築き、そこが結びつけられてネットワーク化していくのです。
藤原
もちろん華僑にだってピンからキリまであるが、キリの部分はどの民族だって同じだから問題にするまでもないです。単なる権力保持者ではなくて、人材としての最高の人間が各国のポテンシァルを代表する意味からすれば、知識集約型のソフトウエアを持った人間こそピンにあたる。いうなれば自由人です。商取引をしたり事業活動をする人、自然科学や技術部門、そしてプロフェッショナルに属する人間で世界に通用すれば、国際舞台で活躍する。もちろん、ロケット工学の大家の林博士のように、アメリカの仕事を捨てて大陸にもどった人もいるけれど、あれは非常に例外的です。要するに、中国は大陸の外側に世界の水準で活躍できる、優れたソフトウエアを持つ人材をたくさんかかえていて、とくにアメリカの産業社会の中に大量に分散させている。一時預けで人材をアメリカに置いてあって、現在の状況では誰も大陸にもどろうとはしないが、状況が変わって大陸が開放的になれば役に立つかもしれない。
小室
アメリカだけでなく、世界各国に散らばっている中国人の中には、それぞれの分野の実力者として尊敬されているだけでなく、コミュニティの中で評価される活動をしている人も少なくないです。
藤原
スイスに住んでいたハン・スーインみたいに、欧米の読者を対象に中国を舞台にした小説を英語で書いている人もいるけど、日本の作家は全員が日本語で日本人に向かって書いているだけです。もっと酷いのは、日本文化の世界性を日本語で力説したり、シェイクスピア論を日本語で得意になってやっているけど、相手になっているのは日本人ばかりというケースが多すぎます。
小室
国内に氾濫している日本論のほとんどがそうだし、新西洋事情といったたぐいのものが、そのシェイクスピアと同じだ。井の中の蛙の議論か、アメションの見聞録です。
藤原
洞察力や眼識力でものごとをとらえようとする姿勢がないから、軽薄なものがもてはやされる時代性に受けるのです。それにユニバーサルな次元で活躍している人は、高尚すぎて大衆受けしないということで、その発言や考え方が日本ではあまり紹介される機会がない。結局、日本にとって海外で活躍している日本人というのは、日本に向いている人たちだけのことになってしまう。しかも、日本のナントカ会社から出張を命じられて派遣された人材は、ほとんどが一時的に出ている人ばかりで、コミュニティ問題にほとんど興味を持つ余裕もないのです。どこかに『東京本社を振り向くな』という本がありましたね。
小室
語学力が大きな壁になっていることと、日本でいわれている教養が世界のレベルでの教養に較ぺると、日本的バイアスがかかりすぎて通用しないことが多い。とくに、日本人は一般的な歴史は知っているが、日本が直接関係しないとなると戦争について何も知らないし、軍事問題になるとまったく無知というほかない。共同体的発想の弊害とでもいったらいいのか、日本が関係することには関心があっても、外部の問題は他人ごととして興味を持とうとしません。
藤原
国際舞台で活躍するということは、外部の問題を自分とのかかわり合いにおいてとらえることです。それができる人がきわめて少ないのに、ちょっと目立つとすぐに日本に連れもどしてしまう。「人文科学研究所の教授になって欲しい」とか、「副社長にするので東京に移ってもらえないか」という具合に日本へ呼び込んでしまう。日本列島の中にひとたび引きずり込まれると、古めかしい共同体的官僚制の中でひとつの歯車になってしまい、人材が人材でなくなってしまうのです。
小室
その逆もあって、外にいる人間が「自分は日本人になりたい」と希望しても、まずそれは不可能で、日本人には絶対なれない。台湾にいる人で、自分は日本国籍を放棄していない、といって裁判を起こしても、なかなか認められない。「そんなに日本にきたいなら帰化しろ」とまではいうけれど。「私は帰化などする必要はない。私は日本の国籍をいまだかつて一回も放棄したことはないのだから、明らかに日本人である」といって争っているが、台湾に住んでいて自動的に日本人化させられ、日本国籍を放棄したわけではない以上、これは論理的だし筋も通っていますよ。
藤原 日
本人は内と外を差別する習慣が強いけれど、とくに朝鮮や中国の人に対していわれのない蔑視がものすごいですね。
小室
日本特有な根強い階層意識がその基盤にあって、それを日本の内と外に適用している。それは自己のすぐ下を下限にして、自分を上界に属すものと規定し、この限界よりも下のものを軽蔑するというタイプの差別です。いわば「傾ける階層」とでも名づげたらいいものです。
藤原
だから、長らく留守にしていたという理由だけで、差別されることにもなる。海外出張や留学がそのいい例で、長く留守にしていれば、出世の妨げになったり除籍されるということが、企業にはよくあります。
小室
アカデミーの世界だって同じで、一定以上留守が続くと、空席はふさがっていて帰ったときには身を置く場所も残っていない。たとえ、本来の位置に復帰しても、今度はいろんな形での差別が始まります。
藤原
僕は日本を出てから二十年近いけど、日本国籍は手放さないで持っています。フランスに五年、カナダに十年住んだから、それぞれの国で国籍が取得できたのだけど、取らなかった。日本の法律によると「外国の国籍をとったら日本国籍は棄てなければならない」ということで、二重国籍を認めないのです。万一他の国で国籍をくれるといっても、それを拒否しない限り日本へくるときに差別されて面倒になる。一度捨てたら日本人でないというわけで、下手をすると追っ払われかねない。
■人材を取り込む思想
小室
日本では家を出たとか会社を辞めたということばがいい響きを持たない。国籍を捨てたなどといおうものなら、家族を捨てて蒸発したのと同じ扱いをうける。そして、一度捨てたとなると裏切り者と同じ扱いで、とてももとの状態に復帰などさせてもらえません。
藤原
誰でもが簡単に国籍が取得できるわけではないけど、居住権くらいはもっと簡単に与えたらいい。日本の場合、厳しすぎるのではないですか。
小室
日本人の体質として根強いのだが、日本人はよそ者を自分の国の中に受け容れるのが嫌いである。この頃はそうでもなくなったが、国際結婚をするなんて話が出ると、親戚中が総出で反対することがままありました。
藤原
その点で、同じ島国といっても日本とイギリスは大違いですね。イギリス人は三割くらいが国際結婚じゃないですか。
小室
イギリスに留学した学生たちがイギリス娘と結婚して国に帰る。そうすると、ほとんどが支配階級になるわけだから、イギリスはいながらにしてその国の支配層に足がかりを持つことになって間接支配がやれます。
藤原
似たようなケースはアメリカにもいえて、アメリカの産業社会がこれだけ画期的な成功を果たした最大の理由は、アメリカにきたい人をみな受け容れたせいです。人材を国に取り込むくらい有利な貿易はないのです。ハードウエアを輸入したところで附加価値はたかが知れていて、単に金の問題にすぎない。ところが人材となるといくらお金を積んでも、そう簡単には集まってこないです。
小室
自由があるということが魅力で人材をひきつけることもあります。
藤原
働く環境としていいものがあれば、金をつまなくたってきてくれるだろうし、希望と理想があれば、それを価値と考える人をひきつけます。とくにそういった人材は人間性の面でも優れている場合が多い。よその国で大学教育を受けた人を「この国で働いて社会に貢献するなら、住みついて五年後に国籍を取る資格を与える」ということで移住させるのは最も利口なやり方です。
小室
アメリカやカナダはそうやって技術者や研究者を優遇している。とくに医者なんかをそうやって集めて医師不足を補っている。
藤原
日本なんか、思い切って国立大学を一部閉鎖して、よその国の政府が教育費を払って養成した人材に呼びかけ、世界の一流の人材を日本で活躍させることを考えてもいい時期にきています。私学補助をして、幼稚園もどきの大学を乱立させているから、赤字国債を発行して税金の無駄使いをしなければならなくなる。学園の中で大学生たちがマンガを読んでいる限り、大学の保育園化はさけられないし、人材が育つ歩留りは悪くなる一方です。それというのも日本が閉鎖社会であり、世界を相手にした人材の自由競争がないために、どんどん質が低下していくからです。
小室
実に馬鹿げている。なにも税金を使ってろくに勉強もしない若者を遊ばせるために学校へ行かせなくったって、勉強をして実力を持ち仕事のしたい人間が世界にはたくさんいるのです。ところが、日本では二世でさえたかだか通訳くらいの仕事しか与えないし、外国の大学へ留学した日本人にも大した仕事をやらせない。外国の大学を出るということはそう簡単じゃないし、それをやりぬいた人材を日本の企業が大いに使いこなしたら、結局は得だと思うんですがね。
藤原
生まれが日本であろうとなかろうと、日本で仕事をしたいと希望する者に機会を提供したらいい。そうすれば、国内にトラブルがあるとか、戦争のために故国にもどれない優秀な人たちが、日本に集まってくるかもしれませんよ。
小室
問題は日本語と日本人の社会的仕組みでしょうな。最後まで差別が残る....。
藤原
面白い例としては、現在ソ連の人材としてものすごいポテンシァルを持っている人間が、ユダヤ人であるがゆえに大量に脱出しています。僕が住んでいたカナダのカルガリーは世界第二の情報センターとして石油ビジネスの拠点です。そこにいると、シベリア開発の第一線で十年間働いたとか、スモーレンスク周辺でパイプライン建設の全体計画の統括責任者だったという人間が流れついていて、テクニシァンみたいな仕事をしているんです。日本のコンソーシアムがシベリア開発をやるのなら、どうしてそういった人材を取り込んで、日本のシステムの中でプランニングをする段階で生かさないのかと思うんです。
小室
その国の人間を水先案内人にするというのは最良のやり方です。ところが日本人はおかしな民族でして、何から何まですべて自分でやらないと気がすまない。たとえ失敗しても自分でやる。
藤原
それは閉鎖的な発想法であり、もし日本がオープンのシステムをとれば、シベリアで十分な実務経験を持つユダヤ系の人間が、日本のために喜んで味方になってくれる。せっかくのチャンスを生かさないなんて、実にもったいないですよ。
小室
これほど完全に日本の企業が外国人に対して門を閉ざしている時代は、かつてなかった。明治時代はまだましだったし、高度成長以前の頃はまだ少しばかりは残っていたけど、最近は大企業となると上から下まで日本人一色だ。外国人どころか外国に長く住んでいた日本人だって差別されていて、純粋な子飼いでないとどうしようもない。
藤原
閉ざされた門を開くという点では、トップの問題意識にかかっていると思うんです。トップがそういうことに対して理解を持ち、しかも、決断力を持って事にあたれば、なんとか次の段階に移行できるんじゃないですか。
小室
とんでもないことで、とてもトップの決断などで解決するようなことではなくて、社会のシステムの問題です。それに、日本には決断という概念さえ存在しない。日本では決断のできる人間は絶対にトップになんかなれないのです。
藤原
日本は長老が君臨する社会だから、リーダーのように決断はいらなのです。
小室
何もしなくたって、下から徐々に進言があがってくるようになっている。そして、全体の空気がそういうふうになったということで、全体をまとめたふりをする人がトップになれる。まさに長老というか幹事役です。
藤原
日本の社会は司会役が一番偉くなれるところであり、司会役のアナウンサーが代議士として通用する奇妙な社会です。しかも、そういった本質を見ぬけない御老体が、『指導者のナントカ』だとか『決断のナントカ』といった本を書いている。ところが、連中が論じているのは指導者のことではなくて、長老の理論でしかないのです。
小室
日本の歴史を眺めると、たとえば、織田信長のような独裁者でさえも、会議のときには絶対に自分の意見は述べず、自分の見解と同じ意見をいった者がいたら、その意見を採用するというやり方をした。信長でさえかくのごとしだとしたら、他は推して知るべしです。だから、秀吉が「信長はいまこういうふうに思っているんだな」と推定してその通りをいったら、たちまち抜擢されたのです。信長ほどの日本人離れした独裁者でさえそうだとしたら、彼ほどの能力も決断力もない人であれば、なおさら全体の顔色をうかがうに決まっている。
藤原
日本の社会は減点法で出世が決まるシステムだから、自信を持った人はトップには達しない。実力者が上にいないから必然的にボトム・アップの形式をとらざるを得ないし、恩の与え合いで持ちつ持たれつの関係が成立する。その中で親分子分の関係ができ、派閥の次元での対立が一種の外人嫌いとしてのゼノホビア的気分を生むのです。
小室
そこが微妙だ。ゼノホビアは日本人の特徴というよりも、いまの組織形態自体がそういう心理を生まざるを得ないということです。日本の場合は、機能集団が共同体になってしまっている。ところが、機能集団というのは本来がディビジョン・オブ・レーバー・アンド・コーディネーションだから、それだげでいいはずだ。それが共同体になってしまうと、機能集団の理論が少しも働かなくなり、共同体の論理にのっとられてしまう。
藤原
しかも、運命共同体だからとても強烈になる。
小室
共同体の特徴は内と外を厳格に区別する二重規範の存在にある。ところが、近代の資本制社会ができるためには、伝統主義的な共同体が壊れて、一般規範が生まれてこなければいけないし、よいことは誰がやってもいいし、悪いことは誰でもが悪いということが認められなくてはいけない。誰であってもまたいかなる場合でも、取引において嘘をついたら悪いのであり、そんなことをする者はギャングスターだということになる。ところが、日本の場合は、嘘をついていいのか悪いのかは前後の関係で微妙に違ってくる。あのときにはよくて別のときには悪いという二重規範だと、おさまりがつかなくなるのです。
藤原
状況によって判断が変わるんでは一般性が出てこない。そんな価値観はコンテックスの度合の高い社会でだけ通用するのであり、しかも、足場がないのに勝手にアジアはひとつと考えて、大東亜共栄圏とか日中経済協力などということばで一体感を強調して自己陶酔するんですよ。
小室
だから恐ろしいのであり、ソシァル・ストラクチャーからいうと、中国やインドのほうが欧米に非常に近くて、日本だけがまるで異質だ。というのは、中国やインドはいまだに血縁社会であり、日本人は勝手に自分たちも血縁的だと思っているが、これはとんでもない誤解で、日本は世界でもめずらしい無血縁社会である。また、日本は無宗教社会でもあり、宗教や規範なんてものは、この国には存在しないのです。
藤原
ところが、日本人は自分たちは宗教や規範を持っているし、血縁社会を維持していると信じて疑おうともしませんね。だから、日本人は、実際は非常に主観主義的な国民でありながら、自分がいったいどれくらい極端に主観的であるかまったくわかっていないのです。
■血縁相続と杜会の掟
小室
いろいろと研究してみた上での結論は、人間と猿の最も違う点は、人間は血縁集団を持つ存在であり、宗教と規範を持っている。ところが、日本人はこのすべてを持っていない。だから、地上に存在する人間の中で最も猿に近いといわざるを得なくなるのです。
藤原
そこまでいい切ると袋叩きにされますよ。結局、ヤマトニズメーションというのは、動物的本能の世界が純粋な形で人間の中に生きていることであり、プレ・ホモ・サピエンスの世界です。
小室
血縁集団は非常にプリミティブな社会にもちゃんとある。アフリカの研究が一九五〇年頃からさかんになり、人類学者がアフリカの非常に原始的な部族をくわしく調べてわかったことは、どんなにブリミティブな連中でも厳格なパトリモニアル(血縁)・システムを待っている点です。中国やインドでは完全な世襲の形での血縁中心が存在しているのに、日本に全然ない。この証明は実に簡単で、日本には婿養子という制度があるが、これは血縁社会では成立し得ない形式です。なぜならば、婿養子の場合は、そこの娘と結婚して子供になるわけです。ところが、これは近親相姦のタブーを犯すことになるのであって、血縁社会だったらあり得ない様式です。中国で養子にする場合には、本当の養子は同じ血縁グループの中で相続するわけだし、養子というのは例外中の例外で、子供がなければ家を潰していいのです。
藤原
だから、三国志の劉備玄徳のように、漢一族の末裔だということで正統を主張したり、奏帝国の滅亡に続いて劉邦と項羽が楚漢の争いをした有名な物語りだって、羊飼いをしていた楚の懐王の孫を捜し出して義帝にした。このエピソードは有名であり、血の繁りが非常に重要視されている証拠ですね。
小室
血縁グループで正統を主張するのが血縁社会のルールであり、日本のように血がつながっていない養子で家を守るというのは、世界の例外です。日本には系図を作る系図屋があり、系図を買うなんてことが行なわれている。こんな商売があるのは血縁社会でない証拠であり、ほんとうの血縁社会なら、系図など作っても何にもならない。
藤原
ヨーロッパの歴史を見て面白いのは、血縁の濃厚の序列があって、王位継承権や遺産相続などで血で血を洗う骨肉の争いなんてのが実に多いですね。逆に、それがヨーロッパの抗争史の主流だった時代もあったし....。
小室
キリスト教が支配している国では、妻以外の存在としての妻は、現実には存在しても論理的には存在しえない。それは妾の子には王位継承権や財産の相続権がないということであり、社会的には嫡子として認知されない。それに対して中国は違った社会システムが成立していて、妾は立派に存在し、妾の子供も権利を持っていた。それどころか、社会的身分に従って妻の数が定まっており、周代だと天子は十二人の夫人を持てたし、諸侯は八人ということになっていました。
藤原
いわゆる第一夫人とか第二夫人という具合に序列があったわけですね。
小室
官僚制が定着するともっと明確な区分けが行なわれ、唐代の天子は皇后が一人、妃が四人で貴妃、淑妃、賢妃、徳妃といった具合で、それからあとは昭儀から妥女にいたるまで合計で百二十二人もいた。しかも、夫人が何人で妾が何人といった具合に、妻の定員がすべて決まっていたのです。要するに、妻であるか妻でない妻かで、女性の在り方が制度としてはっきりと決まっていた。だから、日本のように妻であるようだしないようだといった中途半端な存在や、日陰者の内縁関係という奇妙な立場は、血縁社会にはありようがないのです。
藤原
制度として一般化する以上は、社会的に基準がはっきりしていないといけないし、ロジックがいるわけですね。
小室
集合論的に筋道がはっきりしていることが必要です。たとえば、イスラム教の世界では妻が四人ということになっているが、四人まではよくても五人目は絶対駄目。日本人なら四人も五人も大差ないと思ってしまうが、万が一に四人の妻がいてさらに五人目の女性が好きになり、どうしても結婚したいとなると、従来の四人のうち一人は離婚して定員を維持しなければいけないのです。
藤原
日本なんか国電に定員百十人と書いてあっても三倍も四倍も乗客を詰めこむし、国鉄が尻押しのアルバイトを雇ったりする。学校の定員だって守られなくて、すし詰め教室をやっていて、規範があるようで実は存在していませんね。
小室
アメリカあたりじゃ映画館だって座席の数しか観客を入れないところがほとんどだが、日本じや立見のお客のほうが多い。人れることができる限度まで押し込むのです。例外は飛行機だけで、あればかりは危ないから立ち席というわけにはいきませんや。
藤原 要するに、全体という枠組みが存在するとともに、その中の最小単位として個人の存在がはっきりしているせいでしょう。
小室
規範があるかないかが決め手です。相続の順序が血縁によってはっきりしていれば問題がないのです。血縁相続が原則だと考えられていた徳川時代にしても、十四代将軍を誰にするかについて大紛糾し、家茂か慶喜かで徳川一族だけでなく、外様や田舎大名までが巻き込まれて騒ぎ立てたのです。血の濃さでやらないのなら、蒙古のように家来たちが会議して投票するとか、前将軍が指名するとか原則がはっきりしていたらいい。ところが、状況によって好きなようにできるから、わけがわからなくなって、お家騒動がすぐ始まってしまう。 それが現在の政党のトップ争いになったり、会社や学者仲間の派閥争いにも反映しているのですね。自民党の総裁選なんて、その最たるものだ。
小室
宗教だって絵かきだってみな同じで、派閥の中でワイワイと騒ぎ立てるのです。日本人は派閥の中で仲間意識を作り、そこで喜怒哀楽に明け暮れることで生き甲斐を感じているといっていい。
藤原
それは日本文化の原型が天の岩戸の前での乱痴気騒ぎと、一億総懺悔のミソギの儀式に集約されていて、踊ったり歌ったり、飲んだり食ったり子供を作ったりすることであり、それがシンボライズされたのが天皇制です。
小室
日本人が無意識のうちに天皇制に対して、これは抗すべきもないものだという気持に支配されるのは、制度として古代中国の王朝と同じものを持って、血縁的なつながりを何十代にもわたって保持しているところに理由があるかもしれない。とくに平安時代の貴族としての藤原家とか、封建時代を通して近衛家や一条家といった具合に、近親相姦に近い閉鎖的な血族関係を保っています。
藤原
近親相姦といえば、兄と妹である木梨軽皇子と軽大媛とか、異母兄の履中天皇に嫁いだ仁徳天皇の皇女幡梭媛のようなケースがいろいろあるし....。
小室
中国にも玄宗皇帝のように息子の寿王の妃を奪って、有名な揚貴妃とのラブロマンスを残した人物もいた。しかし、楊貴妃は無理矢理であったにしても離婚させられている。たとえ、その夫が自分の息子であっても、人妻をものにするに際しては前夫から奪って自分の妻にしなければいけない。離婚させて奪い取った以上は自分のものだから、何をしようと文句をいわれる筋合いのものではない、というのが中国人の論理です。それに対して、日本人のように奪いもせず姦通しただけというのでは、これはスキャンダルでしかなく、そのプロセスにたとえ暴力が介入するにしても、奪いたいのなら堂々と奪うことで物事にはっきりとけじめをつけろ、というのが、論理社会における考え方です。
藤原
壇ノ浦で平家の一門をうち破って、京都に凱旋する船の中で源義経が建礼門院に通じたケースだって、女を夫から奪い取ったのではなくて、何となくいい寄って関係を持ったというだけで、いかにも日本的です。まさに日本文学の伝統である私小説の世界と同じです。
小室
日本人が中国の歴史書を読むと、その中に征服者が誰の妻を奪ったとか娘を妻にした、と書いてある所がたくさんあるので、中国人は手当り次第に女をものにするとんでもない連中だと思い込みやすい。ところが、中国人にしてみれば、社会的に認められている手続きに従って女を自分の所有にしているだけであり、目茶苦茶をやったり、いい加減なことをしているのではないという自覚を持っている。しかも、同姓の者は近親相姦の掟にふれるので、絶対にそれに抵触しないという規範だけは守り抜いている。要するに、首尾一貫しているというか、自分の規範には徹底して誠実だという、英語のインテグラルに相当する自己の規定の仕方があります。
藤原 そ
その意味では、理論性を基盤にしている理性社会と、日本のように論理よりも感性を中心に動いていく非理性社会の違いというのは、想像に絶するほどの差がありますね。
小室 これはもうものすごい断絶です。
■虚妄の文化産業論
藤原
だから、ここであまり日本文化と強調しすぎるのは危険であり、それをやりすぎると日本は世界からいよいよ孤立するばかりだと日本人は気づく必要がある。それにもかかわらず、軽薄な思いつきにすぎないのに、文化産業論をとなえる者がいて、日本文化を輸出しなければならないと発言すると、マスコミ界が大騒ぎしているけれど、あれは日本を破局に導く破滅の論理ですよ。
小室
文化を輸出するなんてとんでもない議論でして、それをコメントすると、文化産業論なんてものは文化の本質を知らない妄論です。第一に深くものごとの本質を考えないまま文化外交なんてやったら、それこそ相手は本気になって怒るし、日本に対しての反感は永遠に不滅のものになってしまう。もっとも、戦争に負けて日本に軍事占領されたり、経済的な競争に敗北して市場を日本商品に占有されたのなら、これは実力競争で破れたのだから仕方がない、ということになる。
藤原
それは力学が支配する力の世界だからですよ。
小室
ところが、それを文化の領域にまでおし広げてやるのは誤りであり、「俺たちには自分の文化が立派にあるのに、文化を押しつけるとはなにごとだ」と猛烈に怒るはずだ。ところが、日本人にはそれがさっぱりわからないのです。
藤原
それはちょうど日本の民族主義者たちが、敗戦とともに導入された教育制度やアメリカ的な民主思想に反発して、反米運動をしたのと同じです。日本では右翼や自民党だけでなく、中道を自称する連中から社会党や共産党まで、右から左までのすぺてのスペクトラムが民族主義に塗りこめられている。そして、ちょっとしたインパクトを契機にして反米が尊王攘夷に結びついて、国粋主義運動に発展してしまいかねない。
小室
そこに日本文化の偏狭性が存在しているのであって、文化を強調しすぎることは日本にとって命取りになりかねない。自分を理解しないし、他人をも理解しない者が、自分を他人に解させようと無理強いをすれば、破綻するに決まっています。
藤原
多様性の存在を認め合い、相手と自分は境界を持って共存し合うという確認がない限り、文化なんてものは他人の中に持ち込む筋合いのものではないのです。それは文化は歴史が作るものであって、しかも、古ければそれでいいというものじゃない。日本人は自分が日本的だと勝手に判断して、埃だらけの能や歌舞伎、それに生け花や日本舞踊なんかを引っ張り出し、それを日本文化の典型だと思い込んでいる。
小室
そういったものを海外に持って行って外国人に見せれば、それで日本文化の紹介はできたと思うし、日本的な終身雇用を海外工場に適用すれば、それもまた日本的な経営として文化輸出の一翼を担ったと考えてしまう。
藤原
だいたいにおいて、文化がよその文化圏に拡がる場合というのは、なにもこちらが努力して輸出しなくたって、向う側が自然に受け容れるものだし、ときには積極的に努力して輸入してくれます。ほんものを求めて修業にくる人間もいるし、留学を志願するのであって、むしろ、受容れ体制を整えることのほうが筋だと思うんですよ。
小室
へーシンク時代の柔道がそうだったし、参禅のために日本にやってくる外国人などに、そういったタイプのパイオニアがいた。しかし、日本人が最も文化の精髄だと考えている華道や茶道が、真剣な外国人を思ったほどひきつけていない点に注目しなくてはいけない。
藤原
日本文化の中でも、そういったものは特殊だからです。枠組みをはっきり習得すことによって、自己の存在を規定するというか、非常に主観的な芸術として美意識に依存しすぎるから、特別な人間以外にはやってみようというだけの魅力を持ち合わせていない。
小室
価値観共同体として、同一文化の中にいる限りは創造的であり得ても、より広い世界に出ていくと、今度は逆にコミュニケーションとしての役割を果たせなくなる。そして、好奇心の対象にはなっても、その内部に入って自分もそれを芸術活動としてやってみようというインパクトを持ち得ない。
藤原
そうであれば、そのようなものを日本文化の精華だと考えて、文化輸出の先鋒にしようとすれば、日本人は世界の中でいよいよつまはじきされかねない。見せ物として観客を集める程度ならかまわないけど、すべてが家元制度として金集めのパイプライン用システムになっているものを輸出し、名取代とか師範代といって日本に吸いあげれば、封建的な収奪制だと袋叩きになるに違いないです。
小室
日本文化のエッセンスになればなるはど封建的だから、相手が封建的なところとならうまくいくが、近代化しすぎているところでは正面衝突する。
藤原
相手がアラブ人なら日本人と同じナニワ節の世界だから、ことによると馬が合うかもしれない。しかし、日本のナニワ節のように義理と人情の板挟みなんていう女々しい世界と違って、スケールの大きいアラブ世界は、権力を奪うためには父を殺し弟を裏切るということが日常茶飯事だから、安心しすぎると日本人はアラブ人にバッサリやられてしまう恐れがある。それから、アラブ人たちの生活がコーランの規範に基づいて朝起きたときから寝るまで決められているのに対して、規範としての宗教を持たない日本人はまったく放縦でしょう。この点に注意を払わなくてはいけないと思うんですよ。
小室
日本には元来回教徒なんてあまり存在せず、わずかに何十人とか何百人という単位の日本人しか、マホメット教を宗教として信じていなかった。ところが、ここ十年くらいの間に猛烈に増えたけど、それはなぜかというと、一九七三年の石油危機のときに片っ端から入信したせいです。アラブ人たちがビックリしてしまい、汝は何ゆえアラーを信ずるやと聞くと、石油が欲しければなり、という答なんです。これを見ても、日本に宗教がないということがよくわかる。しかも日本人は宗教をとんでもない具合に誤解している。つまり、日本人は自分の尺度でよその国のことを計ってしまうから、外国に宗教があるということがほんとうにはわかっていない。これが一番恐ろしいことですよ。
藤原
日本文化論が持つあいまいさに原因しているのかもしれないが、日本人の宗教観とうのは、宗教ということば遣いよりも、むしろ自然観といったほうがいいものです。それも、自分が主観的に自然だと思うものを自然だと考え、ありのままの自然は自然として扱わない。そのいい例が盆栽であり、あれは自然ではなくて丹精して作り出した人工の極致です。それに、日本人が一番日本的だと思い込んでてる床の間や日本庭園など、とてつもなく人工的な産物なんだな。石や緑があれば自然だと思う日本的な発想は、よく考えてみれば人間に身を屈する程度の、一番自然の活力を失った弱々しいものだけを選択したというか、差別的にとり出したものにすぎないと思うんですよ。
小室
根底に劣等感があるから、日本文化を喜んで受け容れてくれる者には親近感を抱くのと同じで、反抗しないで従順な自然に対しては、優しい心で対してやるのです。
藤原
それに自然の中には美しいものもあれば醜いものもあるけど、面くいの日本人は自分が美しいと思うものだけを差別的に愛す傾向がある。そして、美しいものに対しては非常に敏感だし感受性も高いけど、醜いものに対しては猛烈に鈍感ですね。
小室
それが特徴的に表われているのが町づくりです。もっと論理的な規定の仕方をするなら、個人の範囲内ではきれいだとか汚いとかに対して非常によく気を使うが、一歩公共的なものになると考えが散漫化して、どうでもよくなってしまう。自分の家の庭や玄関前まではせっせと撮除してきれいにするが、門を出て道路になると、そこから先は自分と無開係の世界になる。要するに、内と外の差別がはっきりしすぎているのです。
藤原
自分の周辺だけを小宇宙と見たてる。それが最もよく表われているのが禊という儀式で、これは川などで体を洗って身を清めることであり、きわめて日本人の感性にぴったりしたものです。たしかに、川で汚れを洗い落とせば個人の次元では気持がよくてさっぱりできる。でも、より大きな次元で考えるなら、川は汚れたことになり、一種の環境汚染をしているわけです。
小室
結局、日本人自身が制度としてあまりにも封建的だと考えて、華道や茶道に若い人たちが魅力を感じなくなっている。そういったものが国際性を持つようになって、外国人たちに受け容れられるとは思えないし、それではいったい何が海外でスムーズにアクセプトされるかというと、実は何もない。
藤原
何もないと断言してしまうとさびしいから、なんとかして普遍性を持ったものを見つけたいと思うんだけれど、いざ本気になって捜してみると実にむずかしい。この間パリに行ったら宝塚の少女歌劇をやっていたけど、あれは日本のものというより、小林一三がヨーロッパのオペレッタを日本風に改良しただけだから、エピゴーネンのお里帰りでしかない。それに、弟子丸泰仙という禅僧の行動禅というのが評判になり、パリジャンたちの間で大盛況だというけれど、彼自身が曹洞宗の派閥紛争にあいそをつかして、日本脱藩してパリに行った人である以上、封建的であるがゆえに彼に見限られた日本の禅宗が、その成果を横取りして「海外進出を果たした日本文化」などといえる筋合いのものじゃない。
小室
日本で正統を名のる者は絶対に海外などに興味を持たず、異端者が日本にあいそをつかして世界に出ていくとき、新しいものが生まれる可能性があるのです。
藤原
だから、いまのままの日本文化をそのまま日本の外へ持ち出したところで無意味であり、伝統的な文化と対決し、それを乗り越えるだけのバイタリティと挑戦の意欲を持ったものだけが、海外という新しい環境の中にたくましい生命を植えつけることに成功し得るのです。その意味では、文化産業論というのは八紘一宇と同じで、自己中心的な甘ったれ論でしかなく、日本中が虚妄の説にふりまわされたのは、現代版ええじゃないかであり、実に奇妙な現象だったわけですよ。
小室 ちょうど自信過剰になったときに、経済的に手詰り状態に陥ったので、文化ということばに迷わされて大騒ぎをしただけです。
■孤立化と危機の構造
藤原
最近の日本のマスコミ界などが、アメリカの日本ブームをとりあげるときの筆頭として、ニューヨークには日本のスシ屋が二百軒以上もある、と騒ぎたてています。とくにダイエット・フードとして、アメリカの上層階級に人気がある点を強調しているが、要するに、スシがアメリカに上陸してはなばなしい戦果をあげたというよりは、占領軍とか朝鮮戦争やベトナム戦争などで日本にくる機会を持ち、日本の社会生活を直接的に体験したアメリカ人たちが、五年後十年後に社会的に安定した勢力になり、それと日本を脱藩して海外でなんとか一人立ちした人たちが結びついた。そういう意味では、これを日本文化がその成果だといって手柄に数えるのは僭越ですよ。
小室
日本中にマクドナルドのハンバーグの店やケンタッキー・フライド・チキンのチェーン店が軒を並べたからといって、何も日本人がアメリカ文化を評価してそうなった訳じゃない事の裏返しです。
藤原
ああいった店はジャンク・フードといって、まともなアメリカ人なら眉をしかめるしろものです。僕だって自分の胃袋を芥箱扱いしたくないから、アメリカに三年住んでも一度も行ったことはないけど、残念ながら、テレビの影響もあるらしくて、僕の娘の世代は行きたがるんで困ってしまう。あの種の店が日本で繁栄するなら、いいものに敏感な日本人が悪いものに鈍感だということで、グレシャムの法則が日本全体を支配するのは時間の問題なのではありませんか。
小室
その通りでしょうな。
藤原
手軽さが受けて即席ラーメンがアメリカでだいぶ売られているみたいだけど、あれが日本の食事文化をシンボライズする形で世界に広まったら、人類の食卓は実に味けないものになってしまいますよ。
小室
ラーメンは元来中国のものであり、スープにすぎないのを日本人が単品で食事にしてしまったのです。中国人の家に行けば、どんな貧乏人だって、スープだけで食事を終りにすることなんてありません。
藤原
フランス人だって同じだし、イタリーだってスパゲッティは前菜であり、スパゲッティだけで食事が終りになるのはアメリカと日本だけじゃないですか。アメリカにはスパゲッティィ・ハウスがスシ屋の五倍はあるし、ピッツァの店なら十倍以上だから、いまの段階で日本人があまり得意になりすぎると、イタリー人に笑われてしまいますよ。
小室
それに日本レストランのかなりの部分は、中国人や朝鮮人が経営していることも忘れないほうがいい。
藤原
たしかにその通りで、中国人や朝鮮人にしてみたら、日本というのは中国文明圏の一部であり、自分の親戚みたいな扱いです。ところが、日本人は自分の側からわざわざ中国や朝鮮とは違うんだという姿勢をとりたがる。相異点に注目して特殊性を強調するよりも、共通性がいかに多いかを見ていくほうが疲れないし、相互理解も深まると思うんですけどね....。
小室
一般論としてはたしかにその通りです。しかし、地理的に近いとか文明圏として同じだということで安心してはいけない要素が日本人にはあるのです。中国人や朝鮮人とつき合うときに、日本人は彼らを西洋人と同じに扱っておけば間違いがない。というのは、ものの考え方、感じ方、それから社会構造という面で見ると、インドを含めて中国や朝鮮の人は、日本人よりはるかに欧米人に近い。前にいった通り、彼らは血縁社会がベースであり、日本だけが例外的でそのベースが欠けているのです。
藤原
婿養子とか系図商売があるのは日本だけだということですね。
小室
向うの推理小説では、相続人殺しというのがひとつの重要なジャンルになっている。自分より相続順位が高い人間を次々に殺していき、財産を手に入れるという筋書きです。また、これまで乞食だった人間がいつの間にか遺産相続で大金持になる、というストリーもいろいろあるが、これは血縁社会だからあり得るのです。
藤原
『小公子』がそのいい例ですね。あの物語りはイギリスの貴族社会が生き生きと描かれているし、『小公女』や『家なき子』だってみな血のつながりでハッピー・エンドになってます。
小室
日本では血縁ではなくて家という枠組みが決め手です。だから、遺産や家督相続なんかだって原則が決まっていないので、番頭から親威までみなが嘴を出してくる。
藤原
日本以外のアジア人が欧米の人間により近い理由に、個人主義のベースがあることは重要であり、実はこれがすべての根幹になっているといってもいい。日本人が個人主義的でないのは日本文化の反映であり、たとえば、住居の中にも一つ一つの都屋にしきりがなくて、個人が独立した存在として認められていない。そして、なんとなく同じ共同体の中では仕切りがないまま境界がモヤモヤしていて、人間がアモーフィック(潜晶質)というか個としての形をとらない状況で存在しています。
小室
むしろ、存在になっているのかどうかを問い直したほうがいい。
藤原
そうかもしれない。それに最近の傾向では、個人主義が育つ代わりに孤立主義が強まっています。同じ「コ」という発音だけれど、個人の個ではなくて狐立の孤だというのは、社会学的にも哲学的にも心配な傾向です。
小室
この頃は学校でもそうで、勉強をして頑張るよりも他人の足を引っ張る形で、受験競争の中で子供たちが孤立している。
藤原
昔はみながパチンコの機械の前で孤立していて、あそこに日本人の疎外された状況があったと思うんです。また、最近の日本ではマイコンが普及して、テクノロジーやテクニックの面ではたしかに進んでいるように見える。しかし、子供たちはマイコンを寄せ集めて一人で遊んでいるのであり、これは他の子供たちとコミュニケーションをする代わりに孤立化しているんです。
小室
他人とコミュニケーションできなくなっているために、孤立化の度合がいよいよ強まっていく。最近は子供たちのかなりの部分が自閉症に陥っているそうだけど....。
藤原
これは実に恐ろしいことであり、人間が砂粒と同じようにバラバラのまま孤立化して、人間としての連帯感を喪失し、最後にそれが自由からの逃亡ということで、全体主義の中に取り込まれてしまう。原始共産制という表現の仕方をしてみたけれど、現在の日本はほとんど全体主義に移行しかけており、社会機構自体が官僚を主体にした全体主義として、ソフトなファシズムが始まっています。アメリカでも、最近はソフトなファシズムという形容が現われているけれど、日本のものはソフトというよりは、むしろ、アモーフィックなファシズムと形容したほうがいいかもしれません。
小室
社会学的に定義をするなら、さしずめ構造的アノミーと呼ぶ現象です。これまでいく度も使ってきた無規範な状態というのはアノミー現象を直訳した用語だが、むしろ、意訳して無連帯状態といったほうがわかりやすいかもしれない。さらに細かく分析すると、アノミーには、単純アノミー、急性アノミー、複合アノミー、原子アノミーといったものがある。その問題は『危機の構造』で論じているので、詳細はそちらにゆずるにしても、ひとつだけここで強調しておきたいことがあります。それは現在の日本のアノミー状況が、ナチズムやファシズムが台頭した一九三〇年代のドイツやイタリーの状況よりも、はるかに危機的様相を呈している点です。
藤原
破局に向かってつっ走るという意味で、実に危ない状況にありますね。
小室
セルローズ・ファシズムという用語を使うわけだが、上のグループに対しては果てしなき反乱をするとともに、より下位のグループに対しては徹底的な弾圧を加えるという関係が一般化し、社会の機能集団が連帯を失って崩壊し、ついにはすべてが解体してしまうのです。
藤原
そうならないためには、各人が孤立化する方向ではなくて、個人としての自分を見出し、天上天下唯我独尊という個人的覚醒の境地を求めていくより仕方がないのではありませんか。それが宗教的なプロセスをたどる必要はまったくなく、むしろ、心理学とか哲学の領域での自覚でいいと思うけど....。
小室
しかし、現在の日本では、そういった意味での問題提起に誰も真剣に耳を貸さないし、問題自体がまともな形で提起される雰囲気もない。
藤原
それは日本文化の持つ限界の問題であって、日本語ではまだ議論のできるような状況にないせいです。たとえば、日本語にはこの種の問題を取り扱う上での述語が存在していない。一般に日本人は孤独ということばをよく使うし、気分的にも日本人好みの単語です。ところが、孤立は英語のロンリネスであり、これは物理的にも心理的にも一人ぼっちということで、他人を欠いている状況です。それに対して、日本語にはまだ日常語がないけれど、英語のアローンネスに相当する個の世界があり、これは独りであるという存在の仕方で、物理的には一人でも心理的にはすべての人間と連帯で結びついている状況です。そのベースには人間としての信頼と連帯が自分に対しての自信と結びついて存在しており、一人静かにすべての存在を心から楽しめるのです。何も欠けておらず、すべてが満ち満ちているんですね。昔の日本には、つつましさの中の豊かさを知り、それを楽しんで生きた人が多かったけれど、この頃の日本人は繁栄の中の貧しさにあえいでいる。その辺に人間としての孤立化と社会における危機の構造を生み出している、現代日本の末期的な精神風土があり、それがいま日本列島の上に出現している経済大国の正体だと思うんです。
■中国の近代化のつまずき
藤原
日本人が好んでやっている海外の大きな経済プロジェクトは、そのほとんどが総倒れになるというのが僕の持論です。イランで三井が大プロジェクトを推進しているといって日本中が得意になっていた時期に、僕は『サンケイ新聞』の「進路を開く」という連載対談で「三井はイランで潰れるんじゃないか」とコメントしたし、サウジの三菱やシンガポールの住友も危ないと、『日本丸は沈没する』という本の中に書いています。また、石油公団がやっているカナダの北極洋の天然ガス開発は第二の安宅になって、四億ドルの出資金をドーム社に完全にいただかれると発言しているので、日本の大手の会社からは煙たがられてます。しかし、これはプロとしての僕の判断した将来図であり、そのいい例が『中国人・ロシア人・アメリカ人とつきあう法』という本で予言した、中国における大プロジェクトの行き詰まりです。
小室
日本で成功したからといって、日本流の高度経済成長政策をそのまま中国に持ち込んだって駄目に決まっている。ところが日本人には理論的な発想ができないから、条件の違いや状況における大きな変化を読み取れないのです。
藤原
それに、日本人の物の見方というのは、日本側からの希望的観測一点張りであり、相手の、立場で考えることをしない。その上、日本の外国への進出の仕方は、常に日本の都合によって出ていくというパターンでしょう。中国がこれから近代国家としてまともな国になっていくために、いったい日本は何ができ、役割としてどのような場面でどんな形で協力すれば喜んでもらえるか、という発想に立っていない。だからとりあえず現在つくり過ぎの鉄を買ってもらうために、鉄を大量に必要とする製鉄所でも工場でも作るのに協力するし、資金がなければ金を貸してもいい、というアプローチしかやらない。これはまさに裏の世界の発想法ですよ。
小室
裏というよりは古いタイプの資本主義の発想です。いまと同じ経済関係が永久に続いていくはずだと考えて、全体がどのように展開していくかについて正確に把握しないまま、とりあえずガムシャラにでっちあげてしまい、あとは成行きにまかせようというやり方ですよ。
藤原
相手の立場に立つだけでなくて、相手の立場を見極めながら、何をギブ・アンド・テークするのが最良かを考えて、大枠をはっきりとらえることが第一のステップになる。その次に、できることとできないことを見極め、できないことには手を出さないし、すべて余裕を持ってやれる条件を育てていくのです。
小室
しかし、そんなことを考えているゆとりがない相手だし、日本側にもそれがない。ない者同士の組合せで事をやろうとするところに、そもそもの無理があった。
藤原
中国側としては、最初の頃は資金まで提供して事業計画に協力してくれるのだから、日本人は多少の下心があるにしても親切だと思っていた。だが、そのうちヤラズブッタクリの傾向が強くなってきたので、心配になって自信を喪失し始めた。日本人のベースでいっしょにやっていくと、日本人が設計した日本人好みの近代製鉄所を作ったことによって、中国という国が潰れてしまうのではないか、との不安が高まる。そうなると、プロジェクトそのものを潰してしまったほうが、破綻をあとに引き延ばすよりはるかにましだとの判断ができます。
小室
もうひとつの重要な点は、現在の中国のリーダーのほとんど全員が、そろいもそろって経済オンチだということがある。もし、日本が本当に中国のためを思っているのなら、まず最初にしなければならなかったことは、有能な経済顧問を送ることだった。計画はいうにおよばず、会計処理の仕方や財政スケジュールにしても、中国のやり方はまったくメチャクチャというか、デタラメに近いことで実に驚くべきです。一番致命的なことは、経済の相互関連性がさっぱりわかっていない点であり、これはレオンチェフ・モデルでも作って、逆行列の計算でもしてやればいいので、これこそまず最初にしなければならなかったはずだのに、それさえやっていません。
藤原
そんなむずかしいところまで行かなくたっていいのであり、どれだけの鉄を最小限国内で生産することが必要かについて、中国人が自分のポテンシァルと希望の間の調整をすることから始めたらいいのです。そうすれば、いったいどれだけ投資が必要になり、鉄の生産と利益が出るかという簡単な投資効率と原価計算ができる。しかも、現在の中国の力量からして、どこまでが自力でやれ、どこから外部の協力に依存しなければならないかを明確にして、次に誰をパートナ−として選ぶのが最良かを考えるのです。
小室 中国の近代化には莫大な基礎投資が必要であることは誰にでもわかる。しかし、その資金をいかにして調達するかとなると、大した資源もないし財源もないので借金をせざるを得ない。しかし、単に金を借りるということではなく、日本の企業の中国進出を迎え入れることによって、資金もいっしょに導入してしまうやり方をすればいいのです。
藤原
でも、金を貸して企業進出をする先兵役は、日本では商社です。ところがこの商社というのが自分のエクスパーチーズを持っているわけではなく、単なるコーディネーターにすぎない。しかも最も困ったことに、本質的にはヤラズブッタクリであり、多くの場合、戦前の日本軍よりも酷いんです。だから、商社といっしょにビジネスをやって下手に間違うと、プロジェクトだけじやなくて国が潰れてしまうことになりかねません。
小室 現実的に、中国が半分潰れかけているのは誰の目にも明らかだし、急性アノミーが猛烈な勢いで進行している以上、思い切ったやり方をしない限り救いがない。国内経済を開放することは、結果的に資本主義諸国に市場を喰い荒されることになるにしても、現在のような破産状態から立ち直る上では役に立つ。だから、日本にしても欧米諸国にしても、中国としては企業進出を迎え入れなければならないし、それを拒む根本理由は何もないのです。
藤原
しかし、やり方があるはずです。たとえば、宝山製鉄所を作る計画を推進するのなら、その前段階において、いったいどれだけの水が必要であり、電力や技術を持つ人間が要り、そのためには住宅や交通機関をどう整備するかという、インフラストラクチャーの問題をはっきりおさえなければいけない。しかも、次の段階で、現在の中国の力量からすると、どういったタイプの製鉄所がいるのかとか、鉄鉱石や石炭といった資源面での供給問題や、中国が将来に予想できる経済条件からすると、どれくらいの規模のものが最低限度必要で、それが経済メリットとデメリットをどれくらい持つかを考えるところから始めるべきです。ところがその辺をはっきりさせないで、最新鋭ということばの上で踊ってしまったのです。
小室
それこそ経済の相互関連性の問題です。ところが、中国には経済の相互関連性について理解しているような指導者が存在していない。だから大問題なのだし、あんな形で、一種のパニックに近い状態で近代化路線について大騒ぎしたのです。
藤原 それは長らく外部世界に向けて自らを閉ざし、物質的にも精神的にも鎖国状態を続けてきたせいですよ。
小室
ソ連にしたって、初めの頃は経済の相互関連性についてまったくわからなかったので、無駄な企画をたくさんやってしまった。そして、つい最近になってアメリカの経済学を輸入し、リニア・プログラミングやレオンチェフ・モデルなどをやり始めたことで、ソ連だってやっとそのレベルになったわけです。ところが、中国の場合は、とてもじゃないがそれすらやっていないので、いったい自分が何をやっているのか見当もつかないんだな。
藤原
日本みたいに海外の成果を取り入れることに明け暮れ、アメリカに学びに行ったり最新資料を大あわてで翻訳している国でさえ、精神的に開鎖した社会である以上、あい変わらず重工業偏重で行き詰りを見せています。まして、文化大革命とか百パーセントの自力更正路線を邁進して世界から孤立しており、閉鎖状態の中でマネージメントのトップに相当する人材が育っていない社会が、ここにきて突然扉を開いて外気を取り入れたので、ちょうどエジプトのミイラが外気にあたった途端に粉のように崩れ去ったのに似た現象を呈してしまった。こういった場合に、日本人がほんとうの意味でアドバイザー役ができるといいんですがね。
小室
日本人は歴史的に見ても、よその国のアドバイザー役をするのはあまり得意としなかった。それは常に学ぶ者の立場にあったので、教えるのが苦手なのと、論理的に教えるのがどういうことかが理解できていないせいです。ほんとうは教えることによって真に学び得るのだが、日本人は受け身の姿勢が強いから、学びに徹してしまった....。
藤原
日本人が反面教師の立場を心得て、「われわれはこんなやり方をしたことによってこんな失敗をした。だから、別のやり方をしたほうがいい」といった形でアドバイスできたときに、ほんとうの日中関係というものが成り立つんです。ところが残念ながらそうじゃなかった。
小室
中国側が日本の商社のやり方を見極めるだけの能力を持ち合わせていなかった。それは中国のトップの連中が駄目だったせいですよ。
■将来の中国の分立
藤原
いろいろと紆余曲析があったり、混乱や低迷がこれから続くにしても、中国が独自のやり方で活路を開いていくためには、鎖国体制を放棄して近代化路線を追求していかざるを得ない。そのときに、地理的に近いという特殊事情を持っているからといって、日本が単独で中国といろいろやるよりも、フランスやオランダあたりと手を組んだほうがいいと思うんですよ。そうしないと、結果として、日本はいつの間にか孤立しているということになりかねない。また、孤立した日本というのは孤立した中国よりも生存がおぼつかないですよ。
小室
その通りです。日本だけでやろうとしては絶対にいけない。私が予想するのは、中国市場をめぐって日米の投資競争が始まり、両国が死にもの狂いになって資本戦争をやるということだ。これからの二十年間はアジア大陸の魅力あふれた市場である共産中国をめぐり、日米の二大帝国主義国家が火花を散らして激突し、経済戦争をエスカレートさせる時代です。
藤原
でも、この道はいつかきた道であり、中国大陸をめぐって日米が対決せざるを得なくなるというのは、日露戦争以降の日米関係と同じパターンです。ポーツマスの講和でロシアから南満州鉄道の譲渡をうけた日本に対して、アメリカが共同経営を申し入れたでしょう。鉄道王のハリマンが桂首相に経営参加を申し入れたのを、小村寿太郎外相が体を張って斥けたところに、中国をめぐる日米間の敵対関係の始まりがあります。だから再び中国市場についての日米間の利害関係の差が対立を生むことは、十分に予想していいことです。
小室
予想していいなんてものではなくて、日米両国は敵対して激突せざるを得ない。それは力の論理をもって支配関係を打ち立てようとするアメリカに対して、規範を持たない日本人が状況や家庭の事情をふりかざして行動するときの対立であり、敵対は両国の宿命です。
藤原
でも、大平洋戦争でいやというほどアメリカに叩きのめされている日本は、なりふり構わず土下座することや、従属関係をとることによって、曲りなりにでも生きのびる努力をすると思うんですよ。いまの段階では、世界第二の経済大国だとかアメリカ何するものぞと強がりをいっているけれど、そのうちにアメリカの実力に較べたら日本の力などは、実は大したものではないと思い知るようになるという気がします。
小室
それにアメリカもそのうち自信を取りもどして、日本の繁栄を支えている自由貿易制の根幹にふれるようなことを考え出すかもしれない。そうなったら経済大国など真夏の夜の夢と同じで、一瞬のうちに消え去る幻みたいなものです。その点を日本人は忘れてしまっているが、中国人は将来のパートナーとして、日米のいずれかがより頼りになるかについて、はっきりと自覚しているはずです。伝説的に見たって、アメリカにとってのアジアのフロンティアは中国大陸だし、中国にとって最後の頼りになる救世主はアメリカ人であることは、第二次大戦がはっきりと物語っています。
藤原
一応はアメリカを本命と頼んだ蒋介石がいて、その両側にいざというときにソ連とパイプを持った毛沢東と、日本につながった汪兆銘が存在していたが、大元の孫文はアメリカを足場にしていた。いずれにしても、中国人は天下三分の計が実に上手ですよ。また、政治的な視点で中国をとらえるならば、あの国は三つか四つに分かれている状態がノーマルであり、一つに集まっていることは、中国の長い歴史において不自然であるといえます。北京のように北のはずれを足場にして中央集権政治をやろうとすること自体が無理です。
小室
北京などという町は、歴史的にいったって夷狄の都です。北京は元や清の都だが、中国人が一番重要視するのは長安や洛陽、それに揚子江流域にかけての町であり、あそこが中国の文化や経済の中心です。だから、国民政府も本格的に政治の拠点を作る場合には、首都を南京に持っていったのであり、北京を都にしてしまったというのはどう考えてもおかしい。むしろ、西安をキャピタルにしたほうがはるかにまともです。なぜならば、西安は昔の長安であり、歴史からいっても中国共産党の伝統からしても、新しい中国の首都になる資格を十分に備えています。
藤原
再度いいますが、だいたい中国という国は三つくらいに分かれているのが一番安定しているのであり、それを中国人の知恵がシンボライズして作ったのが三本足を持った鼎です。江青の裁判を見ていえることは、あれは新しい中国革命がすでに始まったということであり、そのうち彼女は揚子江の南か雲南省、あるいは四川省の奥に拠点を作って独立を宣言するんじゃないか。そして、彼女の一党が独立国を作ったときに、まずどんな形で批判ののろしをあげるかといえば、中国人民の偉大な自力更生路線を裏切った実務派は、帝国主義勢力と手を結んで中国経済を外国に売り渡し、国家を破産状態におとしめた、と決めつけます。そして、北京の現体制を徹底的に批判するとともに、日本に対して猛烈な攻撃をするでしょうね。そのときに日本がどこまで準備ができているかというと何もないでしょう。
小室
日本人はそんなことになろうなどとは夢にも思っていないですよ。
藤原
そのような状況が到来したときに、日本としてはどのような準備をしていなければいけないかについて、現在において考えておく必要があります。戦略というのは起こり得るあらゆる可能性を想定し、それに対してどのような対応をするかについて、前もっていろいろと考えておき、しかも、新しい情勢の変化に対して柔軟なやり方でいかに応じていくかを構想することです。これは自らの生存条件を確実にする上で最もたいせつなことだけど、日本にはそういった戦略的な発想がいまのところ皆無であるだけでなく、戦術的な発想さえない。日本にあるのは、戦闘におけるマニュアルばかりです。
小室
ナントカの傾向と対策という本を読んで、大学に入って出世した人たちが偉くなった国だから、日本のやっていることが支難滅裂になるのは仕方がないです。それに中国を理解する場合でさえ、日本人は日本的な国家観で中国を考えてしまうところに問題がある。日本人が中国を一つの国だと思うところに、そもそも大きな間違いがあると気づくべきですな。なにしろ、中国なんてところはヨーロッパ全体よりもはるかに大きなだけでなく、多種のものが入り混じっている。だから、あそこにたくさんの国が分立したところで、少しも不思議じゃないし、不自然さもない。文化の面でも言語からいっても、それに民族的な特性から見たって百種に近いものがあります。
藤原
戦国時代は当然にしても、中国の地図を見ればいろんな国が分立しています。たとえば、春秋時代などは、周を中心に秦や衛や魯が黄河に沿って存在するし、揚子江の方角には楚や蔡と並んで呉や越があります。それに、三国時代は有名な魏と蜀と呉を中心にして、小さな国がたくさんあるし....。
小室
中国を統一した形で支配した秦や唐を考える場合、あれを一つの国とするよりも、むしろ神聖ローマ帝国のようにとらえて、非常に大きな統一体であるとしたほうがいいのです。
藤原
そういう意味からすると、現在の中国はまさにひとつのユニフィケーションに他なりません。それぞれの地方が正式に独立国を表明しているわけではないけれど、中華人民共和国の名のもとに代表されている現代中国は潜在的には独立国の統合体です。だから、さっき鼎の例を引用して三つか四つに分かれたほうが安定がいいといったのです
。
小室
中国の歴史を大きな視野で眺めるなら、たしかにそういったいくつかの単位を中心にして、バランスをとって動いてきたのは事実です。
藤原
過去においてそのような法則性をもって動いてきた歴史があるなら、今後において似たようなパターンで変化するのではないかと予想するのは、一応筋が通ったものの見方です。だから、これからの中国に対してどのようなつき合い方をするのが最良かを考えるためには、日本人は『三国志』や『史記』なんかを、繰り返して読まなくてはいけない。
小室
そうすれば、戦略思考も身につくし、政治のやり方も理解できるようになる。タイミングのいいことに、ここにきて中国の古代史を物語りふうに書いた本が、エンターテイメントとしてよく読まれているらしい。
藤原
単なるエンターテイメントから一歩ぬけ出して、古代の中国人の知恵を現実の政治の中に反映するようにして欲しいな。たとえば、これは外交における初歩的な布石だけれど、北京の日本大使館にすべてを集中するようなやり方ではなくて、上海や南京を始め、西安、成都、重慶、広州、武昌、桂林といった具合に、中国各地に領事館をたくさん分散させておくのです。仮に将来、中国がいくつかのユニットに分解することになったり、地方独自の政治経営が具体化するときには、そのような拠点を足場に作り上げた人脈の中で、それぞれの指導者や地方の実力者などと協力してやっていけるような、そういう準備をいまからしておいたらいい。
小室
それだけの先見性が日本人にあれば問題ないのだが、日本人は目先のことばかりに追われててバタバタ駈け回っている。しかも自民党から共産党までまったく同じ行動様式に支配されていて、すべての日本人が北京参りをしているから始末におえない。
藤原 右から左まで同じことをやっていたのでは、危険分散はでないし、多様なチャネルは作れません。マンスフィールド駐日大使について論じたときにいったように、たったひとつしかないチャネルというのは、実はチャネルがないのと同じであるという点について、日本人はその意味をよく理解して欲しいですね。多様なチャネルを持てば、それだけ安全回路が増えるのだし、それによって選択の可能性もよりよいものになって、国家の安全保障にとっても貢献する度合が高まるんです。
小室
それは中国に限ったことではなく、東南アジア諸国やアメリカだって同じです。日本は在外公館の絶対数が少なすぎるし、現地での活動もあまり積極的とは思われない。その辺にも、日本が閉鎖的であるということが現われている。現在は、いうならば乱世なんだから、受け身の姿勢ではなくて、自ら進んでどんどん働きかけないなら、あらゆる面で遅れをとってしまう。積極果敢に行動することが何にも増して必要です。
藤原
その積極果敢で思い出したことだけど、そういった行動ができるのは遊牧民的な特性であって、中国人もロシア人もそれが苦手なんですね。だから非常に面白いことに、中ソ間の敵対意識の中でお互いの虚像をジンギスカン的なものに見出して、両国民がともに相手を侵略的と恐れたり嫌悪したりしている。中国人はソ連を夷狄の住む油断のならない国だと考え、ソ連は中国人というのはジンギスカンと同じで、略奪をする乱暴な連中だと決めつけている。お互いに内蒙古と外蒙古を支配下におさめているくせに、相手側に属しているモンゴールをもって、相手の全体像に置きかえているんです。
小室
とくにロシア人の場合は、ジンギスカンだけでなくナポレオンやヒトラーの侵略体験も強く印象に残っているので、被害者意識はたいへんに強烈だ。
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