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2011年01月04日(火)
マスメディアへの「同化」から「異化」をめざそう
テーマ:政治
似たような番組、似たような紙面。何を見ても、どこを読んでも、うんざりするような「おせち情報」ばかり。
サンデル教授の「ハーバード白熱教室」や、坂本龍一の「スコラ」を一挙放送してくれるなど、年末年始ならではの特典もあったが、たいがい、テレビ画面にあらわれるのは、タレントたちの撮りだめ映像であり、新聞に載っているのは記者の書きだめ原稿である。
情報の受け手であるわれわれは、いわば、番組や新聞製作スタッフの正月休みに仕方なく協力しているわけだが、それは別に合意しているわけではなく、言ってみればほとんど「強制」されているのである。
ここに、メディアはメディア自身をメッセージとして強制するものであるという、マクルーハンやボードリャールの言葉を引っ張り出すまでもない。
しかし、われわれの疑似体験ツールとして生活に組み込まれてしまったテレビは、否応なしに、メッセージを「強制」するものであるという、怖さの現実をこの休暇中に、自らの日ごろの仕事ぶりから省みた番組スタッフはいるだろうか。
テレビは、政治や社会の分野においても人気者を製造し、その魅力で視聴者の注意をひきつけようとする。これが視聴率を上げるいちばん手みじかな方法であることを知っているからだ。
サンデル教授の話術は、政治哲学に興味を抱く人々を魅了するが、彼の場合は人を説得するために、参加者の中から反論を募り、対立概念をうまく利用するかたちでロールズの「正義論」などを理解させる。
サンデル教授と比較する愚かさはこのさいご容赦いただくとして、日本のニュース関連番組には、対立概念の提示といったものはなく、つねに人気司会者やキャスターの主観に同化させるように番組が進行してゆく。
視聴者は、あの人がああ言うのだから間違いないだろうなどと、感情移入し、無批判に受け入れるため、いつしか大脳に、ある特定の人物の限られた情報や判断力から生まれる模擬的事実が刷り込まれることになる。
筆者は今、みのもんた氏、古舘伊知郎氏、辛坊治郎氏らを頭において書いている。もちろん、彼らに対する筆者のイメージも電波から伝わってくる間接的情報にもとづいて構築されたにすぎず、実体と乖離していることは承知のうえだ。
ただし、彼らは話術が巧みであるがゆえに、感情移入と同化の達人でもあるのだ。そこがわれわれ一般人とは違う危険なところだ。
政治家で、国民を自らに感情移入させ、同化させる天才だったのはヒトラーだが、参院で郵政民営化関連法案が否決されたことをもって、衆院を解散するという道理もへったくれもない暴挙をやってのけた小泉元首相の、テレビで国民に訴える演説は、まさに感情移入を誘う迫真の演技力であった。
社会や政治、あるいは、自分や、自分をとりまく状況をより正確に認識するためには、快楽、娯楽の素となる「感情移入」は邪魔な心理作用である。
たとえば、みのもんた氏が小沢一郎氏を嫌いなら、みのもんた氏に感情移入する視聴者も小沢一郎氏が嫌いになる。
その心理回路のなかで、小沢はなにか悪いことをやっているに違いないというメッセージが、みの氏の表情や、目つきや、言葉の端々から伝わってくれば、小沢氏はその人の大脳の整理箱のなかで、確固たる「悪」の引き出しに分類されるだろう。
もはや、はるか昔の映画になったが、ゴダールは自らの映画の主人公に対する観客の感情移入を妨げるため、ストーリーと関係がないように思える場面をしばしば挿入した。
ブレヒトの演劇論に言う「異化効果」をねらったもので、感情に流されて自らの置かれた現実を見失いがちな、平和で豊かな時代にすむ人間に、あえて「水を差す」試みであったと思う。
いまわれわれに求められているのは、マスメディアがつくりだし、垂れ流すおびただしい情報から醸し出される感情的な空気に「水を差す」ことである。「同化」より「異化」が必要なのである。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
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