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元後藤組組長がつづった、創価学会とヤクザ
http://www.asyura2.com/10/hasan68/msg/179.html
投稿者 gikou89 日時 2010 年 5 月 20 日 02:28:38: xbuVR8gI6Txyk
 

(回答先: 売られ続けてきたポンドとユーロの先行き 投稿者 gikou89 日時 2010 年 5 月 20 日 02:15:28)

http://dailycult.blogspot.com/2010/05/blog-post_5884.html

 先週から、複数の週刊誌で話題になっている新刊書籍があります。元後藤組組長・後藤忠政氏の『憚りながら』(宝島社)です。何が話題って、創価学会が1960年代末から70年代にかけて静岡県富士宮市で土地を買い漁っていた頃、地元住民の反対運動を封じるために後藤組を利用していたエピソードを、一方の当事者である後藤氏自らがつづっているからです。

 本書は、5月29日付で発刊されたもので、元山口組後藤組の組長・後藤忠政氏(現在は天台宗で得度し、得度名は忠叡)の自叙伝です。後藤氏の生い立ちから現在までがつづられる中、「創価学会との攻防」に一章が割かれています。

 後藤組が創価学会から依頼を受けたのは、創価学会がまだ日蓮正宗から破門される前。当時、創価学会は日蓮正宗の本山である大石寺の周辺の土地を買い漁り、正本堂や霊園の建築・造成を進めていました。しかし左翼などの反発にあい、地元で反対デモなどが起こりました。このとき後藤氏は、創価学会の顧問弁護士だった山崎正友氏(故人)から、「何とかならんか」と相談を持ちかけられたといいます。山崎氏は1980年に創価学会から除名されますが、公明党関係者が後を引き継いで、引き続き後藤氏に時もいと対策を依頼。後藤組が反対派と「話をつけた」そうです。

 本書によると、反対派対策が終結した後、創価学会は「山崎とあんたが勝手にやったことで、ウチは一切知りません」という態度になったとのこと。そこで後藤氏は創価学会に内容証明郵便を送ったそうです。一部を抜粋します。


『憚りながら』100ページ

百条委員会に関しては中心人物、河原崎(澄雄)市議を自宅に呼び、説得に説得を重ねました。私は常に物事に対処するときは、自分の生命を賭け、明日を考えずにその一事、一事、に全力をぶつけて力一杯生きています。ですからこの件にしても、もしこれが刑法二二三条に於ける処の強要罪になったとしても、信念を持ち行動して来ました。
(略)
この件に関して私と学会は一心同体のはずです。先にも書いたように、藤桜自然墓地霊園造成問題に関係した、私の若い者が学会のために六年もの刑を受け今だ(ママ)に受刑中です。それを知り、あえて私に百条委調査打ち切り、市民会議解散、山崎正友の証人喚問阻止を依頼して来た事実は拭うことのできない事実であり、私の信念五分、学会側の依頼五分を言うのも分かって頂けると思います。
(略)

 この内容証明で後藤氏は、「池田大作氏の真の声を聞きたい」としています。

 ところが返事は来ず、この3カ月後に、富士宮署に突然「後藤組壊滅対策本部」が開設され、後藤組では「若い衆が片っ端からパクられていった」(本書より)そうです。こうした経緯から、1985年に東京・信濃町の創価学会文化会館で、後藤組系幹部らが発砲事件を起こすに至ります。

 これに対して、学会から「X」なる人物が後藤氏に詫びを入れに来たとのこと。後藤氏はX氏の名を明かしていませんが、編集部の註によると、この人物は藤井富雄・元公明党東京都議会議員とのことです。このときの両者の密会ビデオが、後にメディアで取りざたされました。

 後藤氏が創価学会とのかかわりを語るのは、これが初めて。その理由は、「あいつら(学会)のやっていることが、俺が付き合っていた30年前と同じ、いやそれ以上に悪くなっているから」「創価学会、いや「池田教」が、この日本という国家を乗っ取ろうとしていることが、見過ごせない」からだそうです。

 富士宮市において創価学会が後藤組を利用していたことはすでに知られていましたが、本書は、それについて改めて当事者自らが証言している点で、非常に価値あるものと言えます。

 ただし本書は、創価学会を主題としたものではなく、後藤氏がどういった考え・感覚で生きてきたのかを綴ったものです。実は私は、引退後の後藤氏が天台宗で得度しようとした際のエピソードにも興味を覚えました。後藤氏の友人である住職が支援を約束してくれたものの、「元ヤクザ」ということで、天台宗が難色を示し、住職に対して「もし(後藤に)何かあったら、私は天台宗を辞めます」と念書を書かせたそうです。


『憚りながら』298ページ

「悟りの世界は、すべての生きとし生ける者に平等に与えられている」という教えに基づいて、「多くの人々と共にその世界へ行こうと互いに努める」と謳っている天台宗が、だよ。たかがヤクザやってた男一人が得度するっていうだけで、何をそんなに大騒ぎしなきゃならんのかと思ったよ。
(略)
そもそも俺は、僧籍が欲しいわけじゃなかった。これまでの人生のけじめとして、得度したかっただけなんだ。だから俗世の得度ということで充分だし、天台宗の僧侶としてではなく、住職の弟子として仏門に入れば、それでよかったんだ。それにせっかくヤクザを辞めて、組織というものから自由になったのに、わざわざ僧籍とって、また坊さんの組織に入ることもないなと思ってさ(笑)。

 ヤクザ組織から自由になったはずなのに、今度は宗教組織の煩わしさ……。信仰より組織で動く伝統仏教の悲しい一面が見える気がします。しかし後藤氏は、「私の命に懸けても」という住職の熱意によって、最終的には無事、得度を果たします。後藤氏はこの住職の意気込みについて、「堅気の中にも極道以上に極道らしい人がいるってことだよ」と書いています。自分の信念を貫く“覚悟”の強さについての表現としては、うなずけます。

 創価学会に関する記述が話題になっていますが、全体的に読み応えのある一冊です。
 

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コメント
 
01. 2014年8月30日 00:09:01 : 3hhl3ucZ82

日本が危ない
http://cultbokumetsukonzetsu.web.fc2.com/04shoseki01.html

憚りながら

宝島社 2010年5月

後藤忠政著


第4章 創価学会との攻防

 富士宮の小佐野賢治

 創価学会は、もともと日蓮正宗の信徒の集まりで、かつては富士宮の大石寺が本山だったから、地元で揉め事を扱っていた俺とは、自然と関わり合いも出てくるわな。

 初めて接点を持ったのは俺が三十二、三(歳)ぐらいの時(1975〜76年)で、まだ川内組の枝だった頃だ。その5、6年ほど前(69〜70年)から、学会は大石寺周辺の土地という土地を買い漁って、境内を拡張して大本堂(正本堂)を建てたり(72年建立〉、その近くにバカでかい墓地(現在の「創価学会富士桜自然墓地公園」、80年完成)を作ったりしていた。何しろあの当時、大石寺絡みの土地売買や建設工事で、富士宮に流れ込んだ金は莫大だったんだ。

 大本堂で300億円、富士桜(自然墓地公園)で200億円、その周りの土地を買うのに数百億円といった具合に、全部で1000億近くになったんじゃないか。もちろん、この学会の建設ラッシュで地元は潤ったが、俺たちにとっても昭和40年代、50年代の富士宮での最大の利権だった。それこそ、ヤクザ、堅気問わず、富士宮中の悪という悪が、その利権に群がって丁々発止を繰り広げたんだ。

 そんななか、富士桜の造成を一手に引き受けていたのが、地元じゃ有名な「日原」という男だった。


 日原博は富士宮市で建設・造園業「日原造園」を営む傍ら、1967(昭和42)年から富士宮市議、79(昭和54)年から静岡県議を務め、自民党富士宮支部支部長を兼ねる実力者だった。


 日原は地元じゃ、「影の市長」とか、「富士宮の小佐野賢治」とか呼ばれてさ。ちょっとした有名人だったんだよ。後で、この富士桜で儲けた金を隠してて、脱税で挙げられるんだけどな。その後も東名(高速道路)なんかに食い込んで、ボロ儲けしていた。バブルの時に手を広げ過ぎてパンクしちまったが、今でも再起を目指して頑張ってるそうだ。バイタリティーのある男だよ。

 俺は初め、その日原から頼まれて、用心棒みたいなことをやっていた。何しろ当時は学会利権≠ノありつこうと、色んな悪い奴が次から次へと集まってきたから。ただ当時はまだ、俺もチンピラみたいなもんだったから、今から考えたら鼻くそみたいな小遣いで、日原のために動いてやったんだ。

 ところが、日原が、富士桜の儲けを独り占めするもんだから、他の業者から散々、反発を買ったんだよ。やり過ぎたんだ。墓石でもさ、台湾か中国で買ってくれば1000円か2000円程度のものを5000円で売って、据え付けたら1万円ぐらいになって、それが何万基もあるんだから。そんなこんなで日原は怪文書を撒かれたり、告発されたりしてたんだが、日原の悪口と一緒に、ウチの組の悪口を書いたビラを、ご丁寧にも新聞に折り込んで撒いたMという男がいた。それに怒ったウチの若い衆が、相手ん家にブルドーザーで突っ込んだんだ。


 1977(昭和52)年11月21日、後藤組幹部が富士宮市内のM宅に12トン用の大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10メートルにわたって破壊。その後、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2カ月の怪我を負わせ、翌日、殺人未遂の容疑で逮捕された。


 後から聞いた話だと、相手もなかなか腹の据わった奴だったらしいよ。「いつでも来い」とか言って、自分も日本刀持って寝てたらしいから。この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ。


 山崎正友は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作・創価学会会長(当時。現在は名誉会長)の。お庭番≠ナあると同時に、「宮本顕治・共産党委員長宅盗聴事件」など、過去に創価学会が行なった数々のダーティーワークの指揮官でもあった。


 学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしてたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ。けど、この告発の黒幕が実は日原で、山崎は日原を懐柔するために日原と組んだんだ。それからは、何をするにも山崎と日原は二人三脚だった。

 ところがだんだん、学会と日原のこれまでやってきた悪事がバレてきて、富士宮の中でも左翼の連中を中心に「日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議」とかいうのができたりして、(創価学会に対する)反対運動が起こった。デモが起こるぐらいに盛り上がったんだが、その時に山崎から(反対運動が)「何とかならんか」という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから。

 創価学会への内容証明郵便

 一方の俺も、その頃には多少は力が付いてたから、もう日原なんか相手にしないで、山崎と直で話をしてたんだ。そのうち(富士宮市)議会に、「百条委員会」なんかができて、山崎を証人喚問に呼べだの、池田の名誉市民(称号)を取り消せだのという話になって、いよいよ学会がのっぴきならない状況になってきた。


 百条委員会とは、地方自治法100条に基づく特別調査委員会で、関係者の証人喚問、強制調査、さらには証言拒否や偽証には禁錮や罰金刑を科せる、という強力な権限を持つ。富士宮市議会では1980(昭和55)年末から、この百条委員会設置に向けた動きが始まった。


 この間(80年)、山崎は学会を破門(除名)になって失脚するんだけど、山崎が作った俺とのパイプは生きていて、今度は地元の公明党の連中を通じて(百条委員会を)「何とかして欲しい」という相談があったんだ。それで(百条委員会設置)賛成派の連中に話≠したわけだ。


 富士宮市議会での百条委員会は1981(昭和56)年3月、いったん設置されたものの、公明党など反対派の猛烈な切り崩しによって同年12月、何ら機能しないまま終結した。

 一方、山崎は日蓮正宗と学会に生じた対立の影響などで80(昭和55)年、学会を除名される。81年には学会を恐喝したとして逮捕・起訴され、その後、懲役3年の実刑判決を受けた。出所後は週刊誌上で学会批判を展開していたが、2008(平成20)年に死去した。


 ところが、だ。あいつら(学会)の依頼で協力してやったのに、その後(百条委員会が終結した後)は知らんぷりだ。それどころか、俺が今まで山崎から相談を受けて、学会のために協力してきたことを、「それは山崎とあんた(後藤)が勝手にやったことであって、ウチ(学会)は一切知りません」という態度になった。市議、県議といった地元の公明党関係者も、みんな。

 それは話が違うだろう、と。山崎はあくまで学会とのパイプ役、池田の使いとして来てたんだ。べつに俺は山崎に使われてたわけじゃない。あくまで大石寺、池田のために協力してやったんだ。あんまり他人様になっちゃいかんぜ≠ニいう話だよ。

 それで地元の学会や公明党の連中に話をしても埒が明かんから、神奈川の「伏木」(和雄・元衆議院議員・元公明党副委員長)という人間に話をしようとした。ところが、こいつが逃げを打って、門前払いを食らわせた。ならばしょうがないと、竹入(義勝・元衆議院議員。当時は公明党委員長)さんと、矢野(絢也・元衆議院議員、当時は公明党書記長)さん宛に内容証明(郵更)を出したんだ。


『実録 創価学会=七つの大罪』(吉良陽一著、新日本出版社)などによると、後藤が出した内容証明郵便には、このように記されていたという。〈昭和五五年一二月、富士宮市議会における百条問題は学会にとって大変な出来事でした。斉藤滋与史氏(編注:元自民党衆議院議員、後に静岡県知事)にしろ、杉山憲夫氏(同:当時は自民党県議、元自民党衆議院議員)にしろ、百条問題調査打ち切りに関しては多少なりの力添えはあったにしろ、現実はそのような甘いものではなかった。四方八方に手を尽くしてもどうにもならなかった学会側は、以前の富士桜墓地霊園(公園)造成の時と同じ様に、今度は百条委員会調査打切り、池田大作先生の名誉市民剥奪を叫ぶ市民会議解散、山崎正友元弁護士の証人喚問阻止を、土橋(昌訓〉公明党富士宮支部長、公明党元代議士・高橋繁、公明党稲田(圭佑〉市議の三氏が、学会側の代理人として私の元に依頼してきたのです。私はこの問題解決のため全力を尽くし解決いたしました。

 百条委員会に関しては中心人物、河原崎(澄雄)市議を自宅に呼び、説得に説得を重ねました。私は常に物事に対処する時は、自分の生命を賭け、明日を考えずにその一事、一事、に全力をぶつけてカ一杯生きています。ですからこの件にしても、もしこれが刑法ニ二三条に於ける処の強要罪になったとしても、信念を持ち行動して来ました。

 また、市民会議の代表者である川村、黒田の両氏を喫茶店『ミミ』に呼び、市民会議を解散するよう得々と説得いたしましたし、山崎弁護士に対しては、私自身かなり強い態度で接して私の真意を伝えました。

 この件に関して私と学会は一心同体のはずです。先にも書いた様に、富士桜自然墓地霊園造成問題に関係して、私の若い者が学会のために六年もの刑を受け今だに受刑中です。それを知り、あえて私に百条委調査打切り、市民会議解散、山崎正友の証人喚問阻止を依頼して来た事実は拭う事の出来ない事実であり、私の信念五分、学会側の依頼五分を言うのも判って頂けると思います。(中略)

 しかるに学会側は、そんな私の心を踏みにじる問題を投げつけてきたのです。私は地位も名誉もないが仁義は守り、その上での意地があります。(中略)学会の指導者はおのれだけの権力志向を欲望に生き、口先きだけの勤行を唱えているにすぎない。私は池田大作氏の真の声を聞きたい〉


確かほかにも、こんな内容のことを書いたと思うよ。「俺は決してあんたら(学会)に刃を向けようというんじゃない。ただ、今まで俺や若い衆らがやってきたことを、虫ケラを踏み潰すような形で抹殺するようなことはしないでいただきたい」とか、「あんたたちは宗教人として、俺たちも任侠に生きる人間として、仮にも看板上げているからには信義は守ってくれよ」とか……。

 けれど、しばらく待っても返事が来んから、念のため、同じものをもう一回出した。それでも返事は来なかった。つまり池田は俺の内容証明を無視したというわけだ。

 元公明党都議との密会ビデオ

 ところが、最初の内容証明を出して(83年3月)から3カ月後ぐらいに、富士宮署に突然、「後藤組壊滅対策本部子できたんだ(同年6月設置)。当時はまだ、山一戦争も始まってなかったし、地元では、それまで散々大暴れしてたのに、そんなもんができたことは一度もなかったんだ。

 この対策本部ができてからというもの、ウチの若い衆が片っ端からパクられていった。それこそションベンしても屁をひってもしょっ引かれて、1年足らずの間に60人以上がブチ込まれたんだ。ガサ(家宅捜査)の時は決まって、(静岡県警)本部から、わざわざ本部長がヘリに乗って飛んできて、(後藤組の)事務所の上グルグル回って伊、本部長自ら、(家宅捜索を)指揮してたんだよ。

 その時、思ったね。ああ、そうか、お前ら(学会)はいざとなるとこんな汚い手使ってきやがるんだな、と。そりゃ、国会だったら公明党使って、警察庁に圧力かけりゃあいい話だし、池田のお膝元の(東京)都議会でも、公明党は昔から与党だったしな。予算握ってるもんで、警視庁に圧力かけるのも造作はないわ。

 けど、これには本当に頭にきた。「じゃあ、池田先生に直接、ものを言いに行くしかないわな」と思ったよ。

 そうこうしているうちに、若い衆が、池田が東京女子医大に入院したという話を聞きつけて、俺より先に「池田先生」に会いに行ったらしいわ(笑)。ところが、それを知った池田が急に退院しちゃったもんで、若い衆は(東京都新宿区)信濃町の学会本部(創価学会文化会館)まで出かけて行ったんだ。


 1985(昭和60)年11月12日、新宿区信濃町の創価学会文化会館で、後藤組系幹部ら3人が発砲。銃刀法違反で現行犯逮捕された。


 これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々でパン≠チて音が、するんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いのもんが飛んできて、詫びを入れてきたんだ。この人間は山崎と違ってまだ生きてるし、俺はべつにこの使いのもんが心底憎いとか、嫌いというわけじゃないから、本人の名誉のためにも「X」とでもしておこうか(笑)。

 このXが、山崎の後の、俺と学会との窓口≠ノなったわけだ。「陸軍中野学校の出身」とか言って、山崎がいなくなった後はこのXが裏≠フ仕事を担当してたんだ。このXを通じて池田が詫びを入れてきたことで、その後はまた学会に協力してやることになったんだ。


 1991(平成3)年11月、日蓮正宗は池田大作・創価学会名誉会長を破門し、これ以降、宗門と学会は激しく対立。翌92年4月には学会と対立する大石寺「妙遠坊」で発砲事件が発生。同年5月には大石寺「奉天寮」に火炎瓶が投げつけられるという事件が発生した。


 俺は山崎より、このXのほうと波長が合った。山崎というのは、組織(学会)に対して誠実じゃなかった。自分の懐に金を入れることばかり考えてさ。海産物業とか変な商売を従兄弟にやらせて、20億か、30億の損を出して倒産しちゃったんだよ。それを帳消しにするため、今度は学会を脅かして、金を出させようとして恐喝でパクられて……。

 それに比べたら、後から窓口役になったXは実に組織に忠実だったよ。私利私欲じゃなしに、俺とのトラブルを含め、学会の抱えているさまざまな問題を何とか収めようという姿勢だった。だからこそ、俺もまた学会に協力してやろうという気になったんだ。あんたたちが、この「X」のことを誰と想像しようが勝手だが、俺自身はXを悪い人間とは思っていない。一番の悪はやっぱり裏で、山崎だの、Xだのに汚れ仕事≠ウせといて、表では善意に満ち溢れた教祖サマ面してる、池田大作だろうな。


 この「X」という人物の名前はもちろんのこと、素性についても、後藤は一切語ろうとしないが、過去の創価学会関係者の証言、さらにはこれまでのメディアの報道から判断すると、この「X」が、藤井富雄=元公明党東京都議会議員であることは、もはや疑いようのない事実だ。

 藤井は、定年制(66歳以上は原則として再度立候補できない制度)を導入した公明党の中で、例外的に都議を11期まで務めた重鎮で、初代「公明」代表にも就いた。2005年に引退した後は、公明党最高顧問を務め、現在も公明党が設立した財団法人「公明文化協会」の理事を務めている。

 この藤井と後藤との関係をめぐっては、東京都港区内で2人が密会≠オた様子を収めたビデオの存在が、メディアなどでたびたび取り沙汰された。『月刊現代』04年2月号に掲載されたジャーナリスト魚住昭のレポート「野中広務『権力二十年戦争』――創価学会を『折伏』させた胆力の光と影」によると、ビデオの内容は次のようなものだったという。


〈「野中(編注:広務・元自民党衆議院議員)さんが会いたいというので久しぶりに会ったんだが、とんでもない話だった。『公明』代表の藤井富雄さんが暴力団の後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。そのテープを自民党側に届けた者がいるということなんだが……」

 藤井は創価学会名誉会長・池田大作の側近といわれる東京都議で、後に野中とともに自公連立の牽引車となる人物である。当時は新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる「公明」代表をつとめていた。

 その藤井が山口組きっての武闘派として知られる後藤組(本拠・静岡県富士宮市)の組長・後藤忠政と密会している場面を隠し撮りしたビデオテープがあるというのである。(中略)

 住専国会で新進党切り崩しの材料になった「密会ビデオ」。その存在が永田町の一部で密かに取りざたされるようになったのは、これより三ヵ月前の九五年一二月ごろのことである。

 当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井が「命を狙われている」という噂が流れた。まもなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井の車はつねに警視庁の警備車両二台にはさまれて移動する騒ぎになった。村上正邦の元側近が語る。

「騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオのなかで、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら四人の名前を挙げ『この人たちはためにならない』という意味のことを言ったというんです。受け取りようでは後藤組長に四人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。それで亀井さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって対策会議が開かれたんです」

 会議にはビデオの実物は出されなかったが、登場人物二人のやりとりを筆記した書面があった。その場の話ではビデオの映像はかなり画質が悪いうえに雑音が混じっていて声が聞き取りにくかったが、専門家に鑑定してもらった結果、登場人物は藤井と後藤にほぼ間違いないと分かったという〉

 池田大作の見苦しさ

 そのビデオが撮影されたのは、俺の知り合いで、Xとも懇意にしていた六本木の会社社長の事務所だ。俺はその時、ビデオを撮られていたことは知らなかったが、後になってそう聞いた。Xとどんな会話をしたかなんて、そんなことは憶えちゃいない。当時はXとしょっちゅう密会≠オてたもんでな(笑)。その後、知り合いの社長がそのビデオをどうしたかについても知らない。ただ、最終的には亀井(静香・現金融・郵政改革担当大臣、国民新党代表)が持っていったと聞いているが……。


 だが、その後、藤井の周辺で不審な事件が起こる。再び前出の魚住のレポートから引く。〈「密会ビデオ」騒ぎが起きてから二年近くたった九七年十月二十九日午前二時すぎ、東京都新宿区にある藤井宅の南隣の家の鉄製門扉が爆破された。近くに電池やリード線、タイマーなどの部品が落ちており、時限式爆弾によるものと警視庁は断定した。

 その後の調べで爆発物は魔法瓶のようなステンレス製容器に火薬を詰めたものと判明。使用された電池の形態などから、過激派による犯行の可能性は低いというのが警視庁の見方である〉


 俺が今回、初めて創価学会との経緯を話したのには、2つほど理由がある。ひとつは、あいつら(学会)のやっていることが、俺が付き合っていた30年前と同じ、いやそれ以上に悪くなっているからだ。学会、いや、池田大作のために、それまで散々働いてきた連中や、俺みたいに協力してきた人間を、用済みになったと思ったら、簡単に切り捨てるようなやり方が許せんのだよ。

 山崎にしたってそうだ。最後には私利私欲に走ってしまったが、それまでは池田のために汚れ役≠ノ徹していたのは紛れもない事実だ。にもかかわらず学会は、悪事がバレそうになったら、山崎ひとりに押し付けた。

 俺が昔、(池田に対する)内容証明を出した竹入さんにしろ、矢野さんにしろ、また然り、だ。それまで散々、池田のために尽くしてきたのに、ちょっとカをつけた途端に切り捨てられたんだから。そりゃ、竹入さんや矢野さんが居直る≠フは無理もない話だよ。


 竹入義勝は1967(昭和42)年の衆院選で初当選した直後に、公明党委員長に就任。以降、8期にわたって衆院議員を務めるとともに、19年間、同党の委員長を務めた。  しかし政界引退(90年)後の98年、『朝日新聞』に掲載された「55年体制回顧録」で、公明党と創価学会が政教一致の関係であったことを明らかにし、公明党からは除名処分を受け、学会からは永久追放となった。以降、竹入は、学会の機関紙『聖教新聞』等で、学会幹部らから徹底した誹諺中傷を受けている。

 矢野絢也も67(昭和42)年の衆院選で初当選し、竹入の委員長就任と同時に、公明党書記長に就いた。以降、9期にわたって衆議院議員を務めたが86年、竹入の退任にともない、公明党委員長に就任(89年に辞任)。93年に政界を引退し、政治評論家に転身後は、公明党.学会批判を強めていた。

 ところが2005(平成17)年5月、伏木和雄(元衆議員議員・元同党副委員長、前出)、黒柳明(元参議院議員・元同党副委員長)、大川清幸(元参議院議員)ら3人の公明党元議員が矢野に対し、政治評論家としての活動を辞めるように迫るとともに、矢野を脅迫し、自宅から一00冊近くの手帳を奪い去るという事件が起こった。

 この事件を報じた『週刊現代』(05年8月6日号/13日号)の記事に対し、伏木ら3人は名誉を傷つけられたとして、矢野と、同誌の版元である講談社を提訴。一審の東京地裁は07年12月、「強奪の事実は認められない」として、矢野と講談社に660万円の支払いを命じたが、二審の東京高裁は、伏木ら3人の元公明党議員が「矢野に対し、多数の創価学会員や公明党員が危害を加えるかもしれないなどと脅迫して、手帳などを提出させた上、妻の部屋まで捜索してプライバシーを侵害した」などと認定。一審判決を破棄し、伏木ら3人に対し、矢野に計300万円の慰謝料を支払うよう命じた。3人は即日上告したが、最高裁は09年9月1日、3人の上告を棄却し、矢野の逆転勝訴となった高裁判決が確定した。

 またこの間、矢野は、独裁国家建設を目指す池田の野望や、学会の違法活動の実態を告発した『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』(講談社)を上梓。さらには08年6月、民主党や国民新党の呼びかけに応じ、国会内で講演し、証人や参考人として、国会で証言することについて前向きな姿勢を示した。


 逆に言えば、自分の手下に次から次へと居直られるような池田大作という男は、たいした人物じゃないってことだ。他人様から到底、褒められるような人物じゃないから、自分で自分を褒める本をせっせと作っては、学会の信者に買わせてな。ああいう見苦しい生き方もないもんだ。

 そんな池田が裏で何をしてたかといったら、山崎やXをパイブ役にして、俺たちヤクザを散々利用し、仕事が終われば知らんぷりだ。それで俺たちがちょっとでも、もの言おうもんなら、今度は警察権力を使って潰しにかかる。で、それがマスコミにバレそうになったら、今度は頬かむりだ。竹入さんにも、矢野さんにも、俺にした仕打ちとまったく同じことをしてるんだよ。だから、俺もこうして公の場で居直らせてもらったわけだ。

 国家に入り込んだ宗教

 それともうひとつ、創価学会、いや「池田教」が、この日本という国家を乗っ取ろうとしていることが、見過ごせないんだよ。

 日蓮正宗という宗教を利用して、人を集めて、会員にして、その学会員から莫大なカネを上納させて、さ。日本では信教の自由が認められているから、キリスト教だろうが、日蓮正宗だろうが、わけの分からん新興宗教だろうが、宗教を持つこと自体は構わんよ。けど、それ以上のこと、公明党を作って政治に入り込んだり、創価大学作って、優秀な人材≠官僚にしたり、法曹界を牛耳るために人を送り込んだりしちゃいかんだろう。

 外務省には、池田にノーベル平和賞を取らせるためだけに働く、学会員の組織があるらしいじゃないか。法務省にも、池田を守るための組織ってものがあるんだろ?だいたい神崎(武法・元衆議院議員、公明党常任顧問。元検事。09年に政界引退)にしろ、浜四津(敏子・参議院議員、元弁護士)にしろ、もともとはあの山崎の弟子だしな。

 どんな宗教信じるかは勝手だ。しかし、その宗教のために国会や官僚組織に入り込むというのは、筋が違うんじゃねえか。特定の宗教の利益を目的とする人間が、国家権力の中枢にいるのはまずいよ。あいつら(学会)が何を信じようと勝手だ。また池田個人がどんな考えを持っていようと構わん。だけど、その宗教の理屈を国に持ち込む、さらにはそれで牛耳ろうとするのは、少なくとも自由主義国家じゃ許されることじゃねえだろ。そもそもこんな組織(創価学会)が、「自公連立政権」だとか書って、国家の中枢でデカイ面してきたこと自体が、間違いなんだよ。

 でも、誰かが言ってたな。「公明党はいずれ自然に消滅するだろう」って。なぜって、党員も学会員もじいさん、ばあさん、貧しい人が多い。新しい血が入らないんだ。10年、20年経てば年寄りは死んでいくし、貧しい人には上納する金なんかない。かといって、ここまで悪事がバレてたら、今さら「折伏」されて、学会員になろうっていう者もいないだろう。「公明党の最大の支持層がこれじゃあ、消滅していくしかない」って。これには納得したなあ。

 池田や学会、公明党がガタガタ言ってくるんなら、いつでも相手になってやるよ。なんなら民主党も、学会と反目になって『黒い手帳』とかいう本を出した矢野さんと俺を、国会で証人喚問したらどうだ。

 もっとも、それまでに民主党も、学会票欲しさに、公明党とくっついちゃうかもしれないけどな。実際、小沢(一郎・民主党幹事長)さんも昔は、学会と仲良しだったわけだから(小沢は新進党時代、公明党と連立政権を組み、当時の市川雄一・公明党書記長とは「一・一ライン」と称されるほどの密接な関係を持っていた)。

 過去、創価学会とはいろいろあったが、今回、池田大作にはあらためてモノを言っておくよ。

この国の将来を憂うひとりの元極道としてな。

情報協力:
れいな様


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