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この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば  唐に據る大和軍事占領の走狗 虎(唐)の衣を借る狐(藤原)
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/849.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 8 月 12 日 06:19:13: yX4.ILg8Nhnko
 

(回答先: 「ヒエタノアレモコロサレキ」(稗田阿禮も殺されき) 古代日本は唐に占領された ― 漢字文化に抹殺された眞實 投稿者 不動明 日時 2011 年 8 月 12 日 06:17:05)

 
 
 
 
なにゆゑ大和に何の基盤も無かつた百濟王子豊璋(中臣鎌足)と云ふ
藤原勢力が絶對的な權力を掌握し得たのか。
其れは倭國(蝦夷[エミシ])勢力、畢竟、蘇我勢力の排除と云ふ
中大兄皇子(天智天皇)の利害の一致と、大和を軍事占領してゐた
「唐」と云ふ、壓倒的・絶對的な存在の後ろ盾
虎(唐)の衣を借る狐(藤原)、唐の大和占領政策の走狗として存在したがゆゑ。

ではなにゆゑ唐は其處までして大和を占領せねばならなかつたのか。
焚書坑儒を斷行し、蝦夷(エミシ)の、そして大和の
文字を、歴史を抹殺せねばならなかつたのか。
其れこそが、此の問題の核心の筈である。
 
 
 
 
    「天皇」を語るには、タブーがあるとされている。
     しかしその幻想の皮をはぎとれば、
     じっさいのタブーは「天皇」にあったのではなく、
    「天皇」を隠れ蓑にして私利私欲に走った権力者
    「藤原」にこそかけられていたのではあるまいか。
     天皇の正体を明かすということは、
     藤原の歴史を白日のもとに曝す作業にほかならないからである。
 
 
    藤原氏の歴史をそのまま素直に書き連ねれば、
    それだけで、藤原に対する辛らつな批判になってしまうのだ。
    史学界がいまだに、藤原氏の肩をもつことこそ、
    奇怪でならないのである。
    考えれば考えるほど、藤原とは不思議な一族である。
    藤原氏の繁栄と日本人の幸福は、相容れない。
    それはなぜかといえば、藤原氏が他氏との共存を拒んだからだ。
    それにもかかわらず、彼らは千数百年の間日本に君臨し、
    今でも門閥の頂点に立ち、
    隠然たる力を維持しつづけているのである。
    この生命力は、いったいどこから来たのだろう。
    そして、「藤原の呪縛」から、
    いつわれわれは解き放たれるのであろうか。
 
 
    此れこそが藤原僞史ネツトワークの就せる業
 
 
 
 
 
 
 
 
はじめに

 七世紀、逆臣蘇我入鹿諜殺で活躍した藤原(中臣)鎌足の登場以来、藤原一族は、
日本の頂点に君臨しつづけた。極論すれば、日本の歴史は、藤原氏の歴史そのものな
のである。
 平安時代、藤原道長は、

 この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

 という、傲慢きわまりない歌を残した。
 傲慢だが事実である。朝堂は藤原一党に牛耳られ、他の氏族は藤原氏のご機嫌をう
かがい、平伏するほか手はなくなっていたのである。
 藤原摂関家は日本各地の土地を貪欲にもぎ取り、
「他人が錐を突き立てる隙もないほどの領土をひとりじめしている」
 と批難されるほどであった。
 藤原氏が日本中の土地を占有したという話は、やや誇張が込められていたようだが、
天皇家の外戚となることによって、揺るぎない権力を手に入れたことは事実だ。気に
入らない天皇を自由に退位させられるほどの力である。
 この時代、日本は藤原氏の私物と化したといっても過言ではなく、その後も、この
一族はしぶとく生き残っていく。
 中世にいたり、貴族社会が没落した後も、藤原氏は巧妙に武家社会に血脈を拡げ、
時の権力者を陰で操る、という七世紀来の繁栄の手管を保ちつづけるのである。
 近世の貧窮はあったものの、近代にいたり、明治維新と共に、不死鳥のように蘇る。
 藤原氏は天皇にもっとも近い一族だったから、華族の筆頭に持ち上げられ、以後、
新たな門閥、閨閥を再構築し、エスタブリッシュメントとして、日本社会に隠然たる
影響力を及ぼしつづけている。恐るべきことに、藤原の血脈は、政界、官界、経済界、
学界と、現代日本の中枢の隅々にまで張り巡らされているのである。
 例えば、田中角栄元首相が今太閤と呼ばれ、また庶民宰相とも呼ばれたのは、日本
を実質的に支配する門閥の外から権力の中枢に登りつめたからにほかならず、だから
こそロッキード事件で、エスタブリッシュメントにはめられ排斥されたという話が、
まことしやかに語られるわけである。
 このように、日本の歴史を語り、現代社会の実相を知るために、「藤原」は避けて
通れない。だが、これまで「藤原」について、日本人はあまりに無知であり、無関心
でありすぎたように思う。
 なぜ「藤原」は忘れ去られていたのであろうか。一つ穿った考えを許されるなら、
それは「藤原と天皇家が近すぎた」からではあるまいか。
「天皇」を語るには、タブーがあるとされている。しかしその幻想の皮をはぎとれば、
じっさいのタブーは「天皇」にあったのではなく、「天皇」を隠れ蓑にして私利私欲
に走った権力者「藤原」にこそかけられていたのではあるまいか。天皇の正体を明か
すということは、藤原の歴史を白日のもとに曝す作業にほかならないからである。
 本書は、日本を支配する「権力の一族」藤原氏の実像を、古代史に遡って読み解こ
うとするものである。
 なぜ藤原氏は、尋常ならざる権力欲を千年に渡って持続できたのか、そして、権力
を手放さなかったのか……。その理由は、この一族の成り立ちの中に隠されているは
ずである。
 
 
 
 
おわりに

『日本書紀』に中臣鎌足が登場する直前のこと、気になる記事がのこされている。
 百済王豊璋が、三輸山で蜜蜂を飼おうとしたが失敗した、という話である。
 天香具山同様、三輪山は神聖な山であり、人が入ることはできなかったはずである。
その三輪山で豊璋が蜜蜂を放ったというこの記事は、いったい何を意味しているのだ
ろう。そして、その直後の中臣鎌足神抵伯任命記事である。二つの記事に、何か関係
があるのだろうか。
 推理をたくましくすれば、百済王豊璋が何かしらの「出雲の神の山」への冒涜をお
こない、それが「蜜蜂」で暗示されていた、ということであろうか。あるいは、百済
救援に見向きもしない飛鳥の政権に対し、百済王豊璋が不穏な動きを見せた、という
ことであろうか。
 ところで、百済王の「蜜蜂」は、もう一つの意味で、暗示的である。
 昆虫の蜜蜂をめぐって、こんな話がある。
 日本在来種の蜜蜂の群の中に西洋蜜蜂を放っても、両者は共存するが、西洋蜜蜂の
群の中に日本蜜蜂を放つと、西洋蜜蜂は日本蜜蜂を徹底的に叩きのめし、全滅させて
しまう、というのだ。したがって現在では、養蜂家のほとんどが西洋蜜蜂を飼い、蜜
を集めているのである。
 また、蜜蜂は湿度に弱く、一定の極点に達すると巣の中の幼虫が死滅してしまう。
そのため働き蜂が巣の中に風を送り込むが、そのとき西洋蜜蜂は頭を外に出すのに対
して、日本蜜蜂は尻をだして無防傭なのだという。
 なぜこのような差ができてしまったかというと、日本には花が多いが、かたやヨー
ロッパには花が少なく、共存共栄がはかりにくいからだ。しかも、日本の夏は長いの
に対し、ヨーロッパは短くまた天敵も多い。そして、西欧人の「より強い蜂(天敵)
を使い、邪魔な蜂を駆逐する」という発想が、現在の西洋蜜蜂を育て上げたといわれ
ている(会田雄次『日本人の意識構造』 講談社)。
 ようするに、外敵の少ない日本の蜜蜂はお人好しなのである。そして、このような
日本蜜蜂の習性は日本人そのものの属性とも通じている。いや、日本人のお人好しが、
日本蜜蜂の属性を形づくったといった方が正確なのである。
 このような日本人の習性の根は深く、すでに縄文時代に形成され、弥生時代の渡来
人受け入れに繋がっていったはずである。
 では、なぜこのような特殊な民族が生まれたのかといえば、それはなんといっても、
日本が東海の孤島だったからであろう。常に隣人と接触し、喧嘩をしてきた民族から
すれば、日本列島人の「お人好し」は、噴飯ものであったかもしれない。日本人が
「多神教」というおだやかな宗教観を保ちつづけてこられたのも、「海」という防波堤
があったからにほかなるまい。
 そして、日本蜜蜂と西洋蜜蜂の話は、七世紀の飛鳥の都で新たな国家建設を目論ん
でいたヤマトの豪族と、その隙をついて権力を独占しようとした藤原氏の姿に重なっ
てくる。
 藤原氏が千年王国を築き得たのは、藤原不比等の手腕によるところが大きいが、そ
のいっぽうで、律令制度の導入期の混乱が不比等に味方したこと、そして、ヤマトの
豪族層の「日本蜜蜂」的な属性が、「西洋蜜蜂」的な藤原氏にとって、格好の餌食と
なったことが大きな要因であろう。
 なお、今回の文庫化にあたっては、新潮社常務取締役松田宏氏、新潮文庫編集部の
青木大輔氏、同内田諭氏、潟Aイブックコミュニケーションズ代表取締役の的場康樹
氏、歴史作家の梅澤恵美子氏のみなさまにお世暗になりました。改めてお礼申し上げ
ます。

                                            合掌
 
 
 
 
文庫版あとがき

「藤原に何か恨みでもあるのか」
 と、聞かれることがある。
 友人に藤原君がいるわけでもないし、藤原さんにいじめられた覚えもない。学校で
習った通り、子供のころから、中臣鎌足こそが大化改新の立役者であり、天皇家中
興の英雄と信じて疑わなかった。
 千数百年の間、上流階級でありつづけてきたことに対するやっかみがあるわけでも
ない。
 ところが、仏像に魅了され奈良に通い始めるようになって、
「本当に、藤原氏は、人々の期待を一身に背負った英雄だったのだろうか」
 という疑念が頭から離れなくなってしまったのである。
 そう考えた理由は、いくつもある。
 奈良ホテルから元興寺(がんごうじ)にかけての一帯は、「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれていた。平城京
の人々は、この地に飛鳥の面影を探し出していたようなのだ。元興寺は飛鳥の法興寺
(ほうこうじ)(飛鳥寺)を移築したもので、法興寺は飛鳥のシンボルであった。
 現代人も、なぜか「あすか」言葉の響きに、懐かしさを感じてしまうのである。
 天智天皇の御子(みこ)・志貴皇子(しきのみこ)も、飛鳥には深い思い入れがあったようだ。『万葉集』
に、次の一首がある(巻一―五一)。

 うねめ
 采女の袖吹きかへす明日香風都遠みいたづらに吹く

 飛鳥から藤原京への遷都のあとに作られたもので、「明日香風(飛鳥に吹く風)」が、
今は何の甲斐もなく、いたづらに吹いているという。飛鳥は藤原京からみて、すぐ目
と鼻の先にもかかわらず、志貴皇子は飛鳥の里に、深い郷愁の念を抱いていたのであ
る。
 志貴皇子に限らず、古代人は飛鳥に、「古き良き時代」を感じとっていたようなの
だ。大伴坂上郎女(おおともさかかみのいらつめ)の歌に、つぎのようなものがある(「万葉集』巻六―九九二)。

                あをに  なら 
 ふるさとの 飛鳥はあれど 青丹よし 平城のあすかを みらくしよしも

 ふる里の飛鳥も懐かしいが、平城の飛鳥もまたすばらしい、というのである。
 なぜ人々は、「飛鳥」が忘れられなかったのだろう。「飛鳥」は「蘇我氏全盛時代の
都」なのであって、教科書で習ったように、蘇我氏が大悪人で、飛鳥時代が蘇我専横
の暗黒時代だったのならば、これは不自然ではなかろうか。
 明日香村の飛鳥寺と甘樫丘(あまかしのおか)の間に、入鹿の首塚があって、いくたびか通っている内
に、はっとした。
「そういえば、首塚に手向けられる花が、絶えたことがない」
 と気づいたのである。ちょっと不意を突かれた思いだった。
 橿原市小綱(かしはらししょうこ)の入鹿神社でも、似たような驚きを感じた。そこかしこの路傍に、無数
の石柱が立てられ、「蘇我入鹿公御旧跡」と刻まれていたからだ。「公」も「御旧跡」
も、極悪人に対して用いる言葉ではない。だからこの石柱は、戦時中「不謹慎」とい
うことで、すべて取り払われてしまったという。それでも今、入鹿神社の周辺で件の
石柱がみられるのは、戦後、この地区の人々が、もとに戻したためである。
 このような例をみているうちに、「なにかが違う」と、思い始めた。われわれの知
らない歴史が、奈良の地に埋もれているのではないかと、思えてならなくなった。そ
して、教科書に書いてあったことは、まちがっているのではないか、と疑い始めたの
である。
 こうして、『日本書紀』を読み直す旅は始まった。そして、蘇我の謎を追っていく
うちに、教科書では教えてもらえなかった藤原氏の裏の顔が見えてきたのである。
 筆者は、藤原氏が嫌いなわけではない。だが、藤原氏の歴史をそのまま素直に書き
連ねれば、それだけで、藤原に対する辛らつな批判になってしまうのだ。史学界がい
まだに、藤原氏の肩をもつことこそ、奇怪でならないのである。
 考えれば考えるほど、藤原とは不思議な一族である。藤原氏の繁栄と日本人の幸福
は、相容れない。それはなぜかといえば、藤原氏が他氏との共存を拒んだからだ。そ
れにもかかわらず、彼らは千数百年の間日本に君臨し、今でも門閥の頂点に立ち、隠
然たる力を維持しつづけているのである。
 この生命力は、いったいどこから来たのだろう。
 そして、「藤原の呪縛」から、いつわれわれは解き放たれるのであろうか。

   二〇〇八年九月
                                           関 裕二
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原氏の正体 (新潮文庫)
関 裕二 (著)
http://www.amazon.co.jp/藤原氏の正体-新潮文庫-関-裕二/dp/4101364710
 
 
内容(「BOOK」データベースより)

大化改新の英雄・鎌足以降、常に日本の中枢に居座り続けた藤原氏。しかし、その出自は謎に包まれ、未だ古代史の闇として秘され続けている。正史に輝く華々しい業績を持つ一方で、一族繁栄のためには政敵を葬ることも厭わないという負の横顔を持つ彼らは一体何者だったのか?著者独自の研究から、ついに明らかになったその素顔―。富と権力に驕れる一族の正体を暴く渾身の論考。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

関 裕二
歴史作家。千葉県柏市生れ。仏教美術に魅了され奈良に通いつめ、独学で古代史を学ぶ。1991(平成3)年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー。以後精力的に執筆活動を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
第一章 「積善の藤家」の謎

大化改新は本当に正義の改革だったのか
目に余った蘇我氏の専横
中臣鎌足と中大兄皇子の劇的な出会い
入鹿暗殺の顛末
腑に落ちない『日本書紀』の分注
崩れ去る常識
不審火に包まれる中大兄皇子の宮
非難されていた中大兄皇子
中臣鎌足を襲った祟り
斉明天皇につきまとう鬼
積善の藤家の謎
正史の落雷記事と「積善の藤家」の因果
崇りにおびえる藤原氏
「滅罪」こそが藤原氏の「善行」だった?
現代日本の閨閥を牛耳る藤原氏
昭和天皇の前で足を組んだ近衞文麿
多くの皇族を殺害した藤原氏
宿主の養分を吸い取る植物「藤(原)」
藤原という突然変異はどこから来たのか
 
 
第二章 謎に包まれた藤原氏の出自

出自のはっきりしない藤原氏
神話で大活躍する中臣氏の祖神
歴史時代の中臣氏のさえない活躍
唐突に歴史に姿を現す中臣鎌足
なぜ『日本書紀』は藤原氏の過去を描かなかったのか
天武天皇と藤原氏の間に横たわるわだかまり
中臣鎌足は常陸国鹿嶋からやってきたという説
武甕槌神・経津主神の謎
中臣氏の祖神は東国から勧請された?
中臣氏が成り上がりだったという梅原説
枚岡神社と春日大社の奇妙な関係
ヤマトの中臣氏が物部氏の没落によって東国に進出したとする説
鎌足の出自を解明するには、第三の仮説が必要
『古語拾遺』の訴え
なぜ中臣氏は神道の伝統を無視したのか
なぜ中臣氏は神道と関わっていたのか
物部氏の正体
ヤマト建国に活躍した諸地域
不比等が神話に葬った出雲は実在した
物部氏は吉備からやってきた?
零落した物部氏の神を横取りした中臣氏
藤原不比等が黒作懸侃刀を持ち出したわけ
 
 
第三章 律令制度で日本のすべてを私物化した藤原氏

日本の律令を整備したのは藤原氏だった
部民制と屯倉制
聖徳太子が先鞭を付けた律令制度
蘇我氏は律令潰しに走っていない?
大化改新の裏側
乙巳の変の原因は外交問題だった?
百済王豊璋と中臣鎌足の接点
白村江の戦いで姿をくらました中臣鎌足
『大織冠伝』の不思議な記述
中臣鎌足が豊璋であった証拠
百済王の中臣鎌足への贈り物
藤原千年の基礎を築いた藤原不比等
改革事業を漬しにかかった中臣鎌足
蘇我が作った律令
壬申の乱で豪族は没落していない?
天武天皇の目論見
なぜ天智の娘が天武朝で即位できたのか
天香具山の歌に秘められた暗示
神話に隠された持統の姿
天智系王家の復活
持統即位のきな臭い背景
高市と持統の蜜月
藤原が律令を制した意味
 
 
第四章 崇りにおびえる藤原氏

律令を悪用した藤原氏
藤原氏は独裁政治をめざしていなかった?
藤原氏を糾弾する『竹取物語』
藤原のための天皇に同情したかぐや姫
藤原に滅ぼされた長屋王
藤原の子聖武天皇の豹変
藤原に殺された安積親王
暴虐な藤原仲麻呂のふるまい
皇帝になった藤原仲麻呂
天皇家滅亡の危機を招いた藤原仲麻呂
静かな王朝交替
藤原に殺された井上内親王
ヤマトの崇りから逃れた桓武天皇
呪われた平安京
崇りによって藤原は馬脚を現した?
律令の理念の一角を崩した崇りの威力
平安王朝が空海や安倍晴明を求めたわけ
 
 
第五章 藤原氏と日本の官僚の根源

平安という暗黒時代
四家に分かれた藤原氏
藤原不比等の身勝手な法解釈
貴族になった藤原氏
自家以外の繁栄を拒んだ藤原氏
招婿婚と外戚の意味
藤原が仕組んだ政変
はめられた菅原道真
藤原摂関政治の本質
鎌足の墓をあばくのは不敬?
藤原氏はなぜ、歴史書を好んで編纂したのか
日本史の本当のタブーは藤原氏を語ること
 
 
 
 
 

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