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(回答先: 【9.11テロ】に疑惑を持つ前なら、話半分で読んだと思います 投稿者 SeaMount 日時 2009 年 3 月 31 日 07:06:23)
各項の結論的な部分、興味深い部分を、それなりに流れがわかるように抜粋させていただいたつもりです。全体の分量の、およそ4分の1です。
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いま我々は学びつつある @
●仏の嘘をば方便と言ひ武士の嘘をば武略と言ふ
これをみれば土民百姓はかわゆきことなり
●嘘は国の生存と巨大企業の成功にとっての中心である
いま我々は学びつつある A
●《終りの無い利益追求》というイデオロギー
●ラテンアメリカの歴史から学べること
いま我々は学びつつある B
●「敵」はどこにいるのか?
●民主主義と戦争
●「私」の自由と社会の貧困
いま我々は学びつつあるC
●知的エリートの役割と裏切り
●そして我々はいま学びつつある
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《いま我々は学びつつある》 @
●仏の嘘をば方便と言ひ武士の嘘をば武略と言ふ
これをみれば土民百姓はかわゆきことなり(明智光秀)
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「全能の神(悪魔?)のような陰謀主体」を想定して、すべてをそこに演繹的に帰結させるような考えは単なる知的怠惰であろう。このような考え方は要するに一神教的世界観のグロテスクな変形に過ぎない。したがって例えば「ユダヤ人が何百年も前から仕組んできた陰謀」であるとか、「フリーメーソン」「イルミナティ」等々に、様々な現象を結び付けて説明して「事足れり」とするような態度にも、私は「偶然史観主義」と同様に強い違和感を覚える。
この世に陰謀、謀略、だまし、やらせ、詐欺、でっち上げ等々が存在するのは当然なのだが、あくまでも人間の世界は多元的・相対的・流動的でしかなく、どのような陰謀主体も無様につぶれることもありうるし途中でその意図を変更させざるを得ないこともあろう。陰謀・謀略を練る者が意図を持った人間であり、それを見破って打ち破ろうとするのも、すべてが意図を持った人間だからだ。
●嘘は国の生存と巨大企業の成功にとっての中心である
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ところで、この嘘をつくために生まれてきたような男、マイケル・レディーンの言葉自体は正直なのか? もちろん嘘である。彼もまた平然と嘘を付いている。嘘が中心となっているのは「国の生存にとって・・・」ではなく、「国家機構を利用できる者達の生存にとって・・・」と書き換えるべきだろう。ただしいずれにしても「民の生存にとって・・・」ではないのだ。
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さらにレディーンは言う。「もし我々の敵が・・・」と。彼が言う「敵」とはいったい誰のことなのか。ヒトラーやムッソリーニの時代、あるいは冷戦の時代であれば具体的に「顔の見える敵」がいた。一国の指導陣が行ういかなる言動も、(仮想)敵国の動向を念頭に置かねばならない以上、素知らぬ顔で嘘をつく能力は必要不可欠といえるだろう。しかしレディーンは誰を指して「我々の敵」と言うのか 。すでにソ連も消滅し米国の生存を脅かす仮想敵は存在しなかった。サダム・フセインなど敵の数のうちに入るような存在ですらなかった。もちろん中国とロシアを仮想敵としていることは考えられるが、それが20世紀末の米国にとって「国の生存」を脅かすほどのものだったか?
しからば、それはいわゆる「テロリスト」なのか? ご冗談でしょう! 「史上初めて起こった米国本土に対する攻撃」は、米国が「史上初めてありとあらゆる防衛手段をゼロにした」ときに起こったのだ! つまり米国はあの「テロ攻撃」の間「国家であること」を自ら放棄していたのである。そしてその防衛手段の放棄に対して、その責任を誰一人として取らなかったばかりか、その詳細も原因も理由も追究されることはなかった。この事実があの9.11事件の本質 を最も明らかに表明している。
いま我々は学びつつある A
●《終りの無い利益追求》というイデオロギー
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『ベネズエラにおけるブッシュ・ファミリーのいかがわしい商売』に登場するベネズエラの富豪ルイス・ヒウスティの『この場で主権だの愛国心だのという概念が振りかざされる。もうたくさんだ』という言葉が彼らの態度を代表するだろう。そして皮肉なことに『資本には良心も思想も無い』と語る世界有数の大富豪シスネロスの言葉が彼らの思想を見事に語っている。それは《終わりのない利益追究》という強烈な思想である。それは一切の歯止めを取り払った資本の原理主義的なイデオロギーなのだ。「市場原理が自動的な歯止めになる」という機械的唯物主義に基づいた「自動進行理論」がいかに狐狸のまやかしに過ぎないのかが、もういい加減で学ばれても良いのではないか。「事実はそうなっていない!」の一言で矢を放つのみである。
その《終りの無い利益追求》のイデオローグたちは、政治機構であれ法であれ武力であれ謀略であれ思想であれ言論であれ、ありとあらゆる手段を行使する。例えば歯止めの無い資本主義にとって、米国という国家は《終りの無い利益追究》のために利用する道具でしかない。それは経済活動に対する国家の口出しを拒否するどころか、国家機構を用いて他国に作った動乱を自らの活動の場にし、その活動が行き詰ると天文学的数字の国家予算を合法的に吸い上げることまで平然と行うのだ。またもちろんだがネオコンという「思想グループ」やいわゆる「ロビー」ですらその道具でしかあるまい。そして道具は、不要になれば捨てれば良いのである。
●ラテンアメリカの歴史から学べること
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ラテンアメリカ現代史については『ラテンアメリカに敵対するアメリカ帝国とCIA』『ベネズエラにおけるブッシュ・ファミリーのいかがわしい商売』『戦争は嘘をつく』もご参照いただきたいのだが、そこで政治的混乱や紛争、軍事独裁とネオリベラル経済が常に表裏一体となって登場していることに気付かされる。その中心をなすのが、先ほど取り上げたロシア軍元参謀総長レオニード・イワショフが「世界エリート」「世界の秩序を不安定にする中で利益を得る政界と財界のサークル」「寡頭支配者たちとそれに従う政治家たち」と呼んだものだろう。彼らは現在の経済、政治、軍事、諜報そして情報メディアを支配する者たちである。
このラテンアメリカ地域の歴史の中に、レディーンの言う『嘘は国の生存と巨大企業の成功にとっての中心である』という言葉の意味が具体的に現れているのだろう。イワショフの言葉にある「世界の秩序を不安定にする中で利益を得る政界と財界のサークル」は《終わりのない利益追究》という強烈なイデオロギーの信奉者であり、その利益追求のためにはありとあらゆるものを動員する。そして彼らがその敵、レディーンが「我々の敵」と呼ぶものに向かっては常に嘘をその征服の手段として用いる。
いま我々は学びつつある B
●「敵」はどこにいるのか?
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上記の「アルカイダ、ビン・ラディン」等々のイメージを使った作戦は、日本においてはおそらく「北朝鮮」「テポドン」に相当するだろう。米国人が「ビン・ラディン」と聞いたとたんにジンマシンが出るように、日本人は「テポドン」と聞くと条件反射として鳥肌を立てる。「学識深い人々」がいとも簡単に狐狸に化かされて 同じところをグルグルと周るのである。米国政府と自民党はこの日本国民の条件反射がある限り安泰、というわけだ。
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私は別に資本主義自体が「悪の経済制度」であるとは思わない。人間は誰でも「起業家」足りうるし、その工夫と努力が報われる社会は人間にとって必須の条件だろうと思う。また人間は決して平等ではありえず「機会の均等」は主張できても「結果の平等」が達成されることは永久にあるまい。しかし、それがあらゆる歯止めを失い、すでに頂点に上り詰めている者達やその周辺の者達が《終わりのない利益追究》を遂行した場合、それは人間の社会にとって最も恐るべき《邪悪のイデオロギーの発露》へと堕してしまうだろう。
民主主義という社会制度や自由という概念にしても同様のことがいえる。歯止めを失い節度を失った場合、あらゆる理想は地獄を生み出すことになる 。
●民主主義と戦争
多くの人々は、特に日本人は、民主主義というと平和なものだと思い込んでいる。そしてそれを独裁やファシズムと対置させるという思考パターンを植えつけられている。そしてその紛れもない民主主義の中からヒトラーが登場したことには口をぬぐって知らん顔をする。そればかりではない。民主主義こそが近代の戦争をより残虐で大規模なものにしていることに気付こうともしない。
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しかし近代国家は戦争のあり方を一変させた。民主主義のタテマエのもとでは戦争もまた「民意」でなければならない。逆にその「民意」が戦争を支持するなら中世とは比較にならない強力な戦闘能力が可能である。国家の構成要素のすべてを用いて、戦場でも銃後でも国民のすべてを動員して「国全体の意思」として戦争をおこなうわけである。国民は戦争のためにせっせとお金と労力と命を提供する。それは同時に敵国の民を敵と見なすことにつながる。戦争の中で一般民衆を敵と見なす戦術的な大量虐殺行為は20世紀以後の戦争の特徴である。つまり近代国家の「民主主義」はより大規模で残虐な戦争を効率よく生み出すことにもつながった。
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近代の「民主主義」は資本主義と表裏一体になって広まり定着してきた。そしてその資本主義には元来《終わりのない利益追究》願望という毒素が内包されている。それはコントロールの仕方次第で毒にも薬にもなるのだろうが、それが歯止めを失い国家自体をその「政治部」として利用する場合にその猛毒が際限なく吐き出されることになる。メディアは彼らの意図つまり嘘の垂れ流し機関として公的な機能を獲得し、「支配されるべき永遠の敵対者」たる一般の我々、明智光秀の言う土民百姓に、プロパガンダ装置として刃を向けることになる。彼らは永遠の詐欺師、我々は永遠のカモとなる。そのとき、民主主義は史上最悪の独裁制度として生まれ変わることになるだろう 。
●「私」の自由と社会の貧困
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「民営化」は英語のprivatizationの訳語とされるが、この単語は一目で分かるとおりprivateやprivacyと同じ部分を持っている。つまりこの英単語の正確な訳語は「私営化」である。訳語によるゴマカシの見事な例だ。「民主主義」の「民」でもそうなのだが、日本のように人々の一体感が強い社会ではこの漢字を使うだけで何だか自分たちのものになる、自分たちに身近な存在になるかのようなイメージを作ってしまう。しかしこの私営化の「私」とはいったい誰なのだろうか? まさか私ではない。この文章を読んでいるあなたでもない。では誰なのだろうか? そこが問題だ。「民営化」つまり私営化とは、つまり「誰かさんが個人的に運営するもの」なのだ。そこではその「私」=「誰かさん」の自由が十分に保証されるのである。
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【それらは征服戦争であるが、侵略者は爆弾を投下したり部隊を派遣したりするのではない。民間人の服装をしたこれらの国際機関のテクノクラートたちがやってき て、貧しい国々をその状態のままで屈服させたうえで、民営化か死か、と迫るのである。彼らの武器は強要と罰則という致死的な凶器なのだが、かさばりもせず 大音響をたてることもない。】
いま我々は学びつつある C
●知的エリートの役割と裏切り
一つの社会、一つの国家にとってエリートは貴重な財産であり宝である。政治的エリート、経済的エリート、知的エリートの質と層の厚さが一つの社会と国の力量を実際に形作っているだろう。それを知っているからこそ、イラクを占領した米国軍がイスラエル諜報機関の力を借りて、政治的エリートと知的エリートの抹殺を全力で行ったのだ。
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政治家たちや銀行家たちは最初から半分詐欺師の資質を持っており、また軍人達は最初から殺すことを義務付けられているのだから、はなから「そんなものだ」として見ることができる。しかしこれらの知的エリート達は「科学者」を自称しまたそのように認められている者たちなのだ。9.11事件をめぐって私が目撃したものは、ガリレオの墓に花を捧げた後で唸りをあげながらそれにツバを吐きかけ砂を蹴りかける大勢の科学者達の姿だった。同時に彼らは、自分達の地位と収入と名声を下から支えている非エリート達に対して、「科学」の名を借りてデマとトンデモを信じ込ませようとする。それは非エリートに対する軽蔑と背信の表明でしかあるまい。
しかし同時にまた現代のガリレオたち も存在する。大部分はいまだに潜在的なものでしかあるまい。しかしいつかはこの背信者たちに取って代わるときがくるだろう。そのときに、あの詐欺師の片割れに堕した知的エリート達と、彼らを従わせていた他分野のエリート達、特にメディア界の者達は、世界中で厳しく断罪され一切の地位と名声を剥奪されることだろう。彼らの罪業は限りなく重い。この者達の醜い姿は永久に記録され記憶されなければならない。
●そして我々はいま学びつつある
仏の嘘をば方便と言ひ武士の嘘をば武略と言ふ。これをみれば土民百姓はかわゆきことなり。(明智光秀)
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「土民百姓」である我々は一つ一つ学んでいかねばならない。どれほどの嘘が我々の頭の上に降りかかったときに、どれほどの大規模な詐欺が我々に対してはたらかれ、どれほどの悲惨な破壊が行われ、我々自身がどれほどの苦痛を被るものなのか、 ということを。
9.11事件はその学びのために格好の材料を与えてくれる だろう。この後に続く様々な「イスラム・テロ」事件は、その多くが密室殺人のようなものであり、公表されたデータや捜査経過、マスコミ発表などに対して、我々が疑問を発することはできても明白な嘘を断言できる要素が意外に少ない。物証はとうに破壊されたか隠匿され、写真もテロがおきている現場それ自体を記録したものがほとんど存在しない。しかし、9.11事件だけは例外である。
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正確に記録された一つ一つの事実とつき比べてその虚構の実態をあからさまにすることは、今からの我々の社会と世界で、破壊的な政治詐欺と経済的強奪に対する歯止めを作っていくための、大きなきっかけとなり貴重な見本を提供する作業になるだろう。私には、これらの映像資料の一つ一つが、この事件で亡くなった大勢の人々、日本人同胞24名を含む3000名近い人々が我々の未来のために残してくれた、他の何にも換えがたい遺産であるように思える。
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それは欺いた者達に対する復讐ではないし、また決してそうであってはならない。学びは殺すためではなく生かすために行われねばならない。我々は狐や狸とすら共存共栄する必要があるのだ。要は化かされなければよいのである。誰のいかなる利益の追求や自由にもどこかで歯止めがかけられるようになればそれでよいのである。下々の「土民百姓」たちが嘘を見つめその限度を見極める目と智恵を付けることで、初めて我々は民主主義という制度、資本主義という経済を有効に生かすことができるようになるだろう。
私には「9・11の真相」などはわからない。その決着は米国国民と米国国家、そして虚構を許さぬ世界中の専門家達の手によってつけられるべきものである。この9.11事件の見直しを通して我々世界の「土民百姓」が手に入れることができるのは、ラフカディオ・ハーンの言う「狐狸に惑わされない猟師の単純な常識」である。そしてその学びが無いかぎり、どれほど優れたシステムやモラルの体系が誰かの手によって作られようとも、すぐにそれは有名無実のものと化し新手の狐狸がその制度を利用して新しい手口で化かしにかかり、今までの悲惨で愚かな歴史を繰り返すだけであろう。
(参照)
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「9.11を合理的に直視・再考することの大切さ」
寺島実郎(日本総研会長)推薦!
「安手の陰謀史観ではなく、粘り強く事実を追い詰めることは、現代史を謎に終わらせないために不可欠である。世界には、主体的に時代を解析・考察しょうとする様々な試みがある。それらに目を行き届かせながら自分の頭で考えることが、複雑な情報操作の時代を生きる要件である」(本書オビより)
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