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http://www.mofa.go.jp/Mofaj/area/israel/kankei.html
イスラエル概況
平成19年11月
基本データ
(1)面積:2.2万平方キロメートル(日本の四国程度)(注1)
(2)人口:705万人(2006年)
(3)首都:エルサレム(注2)
(4)言語(公用語):ヘブライ語、アラビア語(英語も通用)
(5)民族・人種:ユダヤ人(約76%)、アラブ人その他(約24%)
(6)宗教:ユダヤ教(76.8%)、イスラム教(15.5%)、キリスト教(1.7%)、ドルーズ教(1.6%)(2005年)
(7)政体:共和制(1948年独立)
(8)元首:シモン・ペレス(Mr. Shimon Peres)大統領(任期7年、2007年7月就任)
(9)議会:一院制(120議席、全国一区の完全比例代表選挙制度)
(10)政府:首相:エフード・オルメルト(Mr. Ehud Olmert)
外相:ツィピ・リヴニ(Mrs.Tzipi Livni)
(11)GDP:1,378億ドル(2006年)、1人当たりGDP:19,900ドル(2006年)
(12)経済成長率:5.1%(2006年)
(13)失業率:8.7%(2006年)
(注1)数字はイスラエルが併合した東エルサレム及びゴラン高原を含むが、右併合は我が国を含め国際的には承認されていない。
(注2)(我が国を含め)国際的には認められていない。
1.内政
A.政治
(1)概観
イスラエル内政は、1948年の独立以来ほぼ30年間に亘り、建国時の基本的理念でもある社会民主主義を奉ずる左派労働党が代々の政権を担当してきたが、独立以降の度重なるアラブ諸国との戦争を背景として、大イスラエル主義(より広大な領土にユダヤ国家建設を図ろうとする考え方)を唱える右派が徐々に勢力を拡大し、1977年の総選挙で、右派リクードの率いる政権が初めて誕生した。これ以降、2005年11月に中道新党カディマが結成されるまで、労働党とリクードの2大政党による勢力拮抗時代が続くことになる(その間、リクード政権、労働党政権及び両者による大連立政権が次々と交代。)。そうした中で、イスラエルの政党政治は、有権者の関心の細分化(政治・安全保障、宗教政策、移民政策、経済政策など)に伴い、多数の小規模政党が林立する状況となっている。
(2)政界再編(二大政党制から三大政党制へ)
(イ)1999年に中東和平の進展を最大の目的として成立した労働党のバラック政権は、結局2000年9月の第2次インティファーダ(パレスチナ民衆蜂起)の勃発に然るべく対処できないまま退陣してしまったため、2001年2月の首相直接選挙(首相を直接選ぶ制度は、この選挙を最後に廃止)で選出された右派リクードのシャロン首相(当時)は、同年3月に左派労働党を含む8党からなる大連立政権を立ち上げ、治安の維持を内政上の最優先課題として取り組んだ。各与党間の主義・主張の違いから政権運営は当初より困難を極めたが、同首相は巧みな政治手腕で内政の諸問題を克服し、2003年1月の総選挙においても、同首相率いるリクードが前回選挙に引き続き最大議席数を獲得し(38議席。後に他の右派政党2議席が合流したので最終的には40議席に増加。)、同年3月に右派・中道の第2次シャロン内閣を発足させた。
(ロ)同政権は、2003年4月に発表されたロードマップを受け入れ、2005年9月には与党内右派から多くの造反分子が生じる中にありながらガザ等からの撤退計画を成功させ、確固たる国民の支持を確保するとともに、国際的評価を大いに高めた。しかし、こうした左派的な路線への強硬な政策転換とそのために正統派宗教政党までも連立入りさせようとした結果、これらに反発した極右及び世俗中道の政権与党が相次いで連立を離脱することとなった。更に、ガザ等からの撤退計画を進めるために2005年1月から連立に加わっていた左派労働党も、同年11月のペレツ新党首の誕生に伴い連立を離脱したので、政権基盤は著しく弱体化し、リクードは単独少数与党に転落した。しかも、ガザ等からの撤退計画の実施是非を巡って生じた党内右派との緊張関係は解消されず、リクード内部の足並みも揃わなくなったため、結局シャロン首相は政権運営不可能と判断し、同月、議会を解散し総選挙を前倒し実施することを決定すると共に、自らもリクードを離党して中道新党「カディマ」を結成した。同新党には、リクードのみならず、労働党からも多くの有力議員が合流したため、イスラエル政局は事実上2大政党制から3大政党制に移行することとなった。
(ハ)2006年1月、シャロン首相が脳卒中に倒れ事実上政界を引退したため、新党「カディマ」は、同首相の和平路線を継承して西岸入植地の統廃合と早期の国境画定を標榜するオルメルト首相臨時代理によって率いられることとなり、同年3月に実施された総選挙では、同党発足当初の勢いには翳りが見えたものの、他の2大政党を抑えて第一党としての議席数を確保した(29議席。因みに第二党の労働党は19議席。リクードは12議席。)。
(3)オルメルト政権
(イ)2006年5月、新党「カディマ」は年金党と統一リストを結成するとともに、労働党及び宗教政党「シャス」との連立合意に達し、与党67議席を基盤とするオルメルト政権が発足した。
(ロ)発足当初、オルメルト首相はシャロン前首相の正統な後継者としての期待を集めたが、公約であった西岸からの撤退計画について具体策を提示できないまま、同年6月にガザでのイスラエル兵士拉致事件に遭遇。更に、7月には、北部レバノン国境付近でもヒズボラによって兵士2名が拉致されたため、レバノンに大規模な軍事侵攻を行ったが、ヒズボラによる予想以上の抗戦により、交戦が長期化することとなった。こうした中で右傾化したイスラエル国内世論は紛争処理における首相及び国防相の指導力に不満を抱くようになり、当時偶々発覚した度重なる閣僚や軍幹部の各種スキャンダルとも相俟って、政権支持率は著しく低下した。このため、同年10月、極右のロシア系移民政党であるイスラエル・ベイテイヌを連立に加えて与党78議席とすることで当面の政権基盤弱体化を凌ぎ、2007年度予算をはじめとする重要法案をクネセットで大過なく成立させたが、政権支持率は依然低迷し続けており、更に極右政党の連立参加によって、オルメルト政権の当初の主要アジェンダである西岸からの撤退構想は益々実現困難となりつつある。
(ハ)今後、2006年7月のレバノン紛争に関する調査委員会の最終報告書が2007年末にも発表される予定であり(注:同年4月に発表された中間報告は、首相及び国防相の戦争責任を厳しく追及する内容であったため、同報告により、しばらくの間、首相退陣要求の世論が高まった経緯あり。)、また、首相自身がこれまで関わったとされる贈収賄疑惑の噂も依然絶えないので、オルメルト政権は引き続き厳しい内政運営を行っていかざるを得ないと思われる。
B.国防
(1)国防政策
イスラエルの国防政策の基本は戦争の抑止であり、このために有効な抑止力を保持することにある。一方、狭い国土と限られた資源のため、一度でも負ければ国家の滅亡につながるという強い危機感があり、侵略を受けた場合に限らず、その可能性が顕著である場合には、躊躇せず実力を行使する傾向がある。
(2)国防組織
国防政策決定の最高機関は、首相、外相、国防相等の主要閣僚から構成される安全保障閣議であり、国防に関する重要な案件を決定する。軍の最高指揮官は参謀総長(中将)であり、参謀総長は国防相に服する。
(3)軍組織
(イ)軍は、陸軍(北部・中部・南部の3個方面軍)、海軍、空軍に分かれる他、イスラエル軍独自の組織として、大規模テロ発生時や有事の民間防衛を担当する民間防衛軍がある。
(ロ)平時は正規軍(職業軍人約6万人と徴兵兵士約11.7万人から構成)が主に活動している。有事等、必要な場合には予備役が召集されて部隊を編成し、急速な戦力増強を行う。
(4)国防予算
2002年度以降、国防予算は毎年削減され、2006年度予算は約340億シェケル(約9,300億円)となっていたが、2007年度国防予算は、レバノン紛争のあおりを受け、約400億シェケル(約1兆1,200億円)へ増加した。さらに、上述予算以外に、イスラエルは米国から年約23億ドル(約2,600億円)に上る軍事援助を受けている。
(5)兵役制度
(イ)兵役義務は、ユダヤ教正統派宗教家及びアラブ系市民(除ドルーズ系)を除く全てのイスラエル国民に課されており、男性の場合18歳〜29歳の間に36ヶ月間、女性の場合既婚者を除き18歳〜21歳の間に24ヶ月間、正規軍兵士として徴兵される(なお、将校に選抜された者は、さらに48ヶ月間の兵役が必要となる。)。
(ロ)義務兵役終了後、男性は40歳まで(将校は45歳まで)、女性は既婚者を除き38歳までの間、毎年職域毎に定められた日数(年1ヶ月程度)、予備役として軍に勤務する。また、有事など国家安全保障上の緊急時には、国防相は、クネセット(議会)外交防衛委員会の承認を受け、必要な予備役を召集することができる。
2. 経済
(1)概観
(イ)社会民主主義国家として建国したイスラエルはもともと移民国家であり、独立後の移民流入等による人口増加に伴って経済規模を徐々に拡大してきた経緯があるが、その背景には、米国および在外ユダヤ人からの支援が大きな役割を果たしてきた。
(ロ)一方、同国は周辺の敵対国の存在や対パレスチナ治安対策のため、国家財政に占める国防・安全保障費の比重が非常に大きく、独立以来今日に至るまで同国経済発展に大きな重荷となっている。特に、対外経済の進展も中東和平プロセスの進展が前提となっており、和平問題が経済に及ぼす影響は非常に大きい。
(ハ)死海のマグネシウム等を除けば天然資源に恵まれていないが、ダイヤモンド研磨等の高付加価値品の加工貿易を志向する産業構造となっており、最近はハイテク分野の成長が著しい。
(ニ)現在、イスラエル政府は、1985年以降、市場経済における政府の関与を低減させるため、競争政策の促進や国営企業の民営化等を中心とする経済政策を展開しているが、建国以来全国レベルで組織化されている労働組合の力が極めて強いため、通信、電力、水道等の主要部門の民営化への動きは鈍く、港湾部門以外で近年目立った進捗は見られていない。
(2)近年の景気動向
(イ)1990〜1996年は、中東和平プロセスの進展、エレクトロニクス及び情報通信産業等の高付加価値産業の成長、移民増加による内需拡大等を背景に、年平均6%の経済成長を達成したが、1996年以降は中東和平プロセスの停滞、テロ等の影響により成長が鈍化した。
(ロ)1999年以降、情報通信器機やソフトウェアを中心とするハイテク産業の発展、米国の好景気、アジア経済の回復等を背景に一時的に景気が回復し、2000年の経済成長率は6年ぶりに前年を上回る6.4%の高成長を達成した。しかし、同年9月に発生した第2次インティファーダ、爆弾テロ事件の多発、ハイテク製品の輸出先であった米経済の減速などの影響を受け、国内経済は再度停滞し、2001年及び2002年の経済成長率は各々-0.9%(過去10年間で最低)及び-0.8%となり、2年連続のマイナス成長を記録した。
(ハ)他方、2003年以降、通貨シェケルの対ドル・レートが低位に安定し、かつ、国内賃金の停滞等を背景として輸出競争力が向上するとともに、イラク戦争終結によってビジネス環境が改善したこと等により、2003年の経済成長率は1.3%と3年ぶりにプラス成長に転じ、2004年は4.3%、2005年は5.2%と回復基調が継続している。2006年についても、7月のレバノン紛争にも拘わらず、IT分野を中心に輸出が好調であったこと等を主因として、5.1%の成長を記録した。なお、2007年についても、引き続き好調な輸出等により、約5.0%の成長が見込まれている。
(3)失業率
(イ)1996年以降の経済成長の鈍化に加えて、旧ソ連諸国からの移民が大量に労働市場に参入してきたため、失業率は、1996年の6.8%を底に上昇することとなり、2001年に9.0%、2002年に10.4%、2003年には10.9%、と悪化の一途を辿っていた。
(ロ)しかし、2003年以降の景気回復に伴い労働需要が徐々に拡大し、また、近年の政府による外国人労働者に対する制限等の施策が効を奏して、2004年の失業率は10.4%と悪化傾向に歯止めがかかり、2005年は9.0%、2006年は8.7%と改善傾向にある。
(4)インフレ
(イ)1980年以降のイスラエル経済は激しいインフレが常態となっていたが、通貨切り下げ、財政支出削減、経済構造調整策などイスラエル当局の努力もあり、インフレは1997年より沈静化し、2000年には史上初のゼロ・インフレを記録した。
(ロ)その後、2003年には-1.9%という建国以来初のデフレを経験したが、原油高騰等を背景に2004年は1.2%、2005年は2.5%となり、とりあえずは政府としての目標値である1〜3%の範囲に落ち着いた。
(ハ)しかし、2006年、通貨シェケルの対ドル高基調、エネルギー価格の低下等を背景に、2006年下半期は-1.7%を記録し、通年でも-0.1%となった。これに対し、中央銀行は、インフレ率を政府目標値の範囲内とするため、2006年9月以降、公定歩合の累次引き下げを実施している(5.5%(2006年7月)→4.0%(2007年3月現在))。
(5)貿易
(イ)2000年9月に勃発した第2次インティファーダによる治安悪化及び景気停滞等の影響を受けて、2001年から2002年にかけて輸出入がともに減退する現象が生じたが、2003年より回復基調に転じ、総貿易額は、2003年の660億ドル(総輸出318億ドル、総輸入342億ドル)から2006年には942億ドル(総輸出464億ドル、総輸入478億ドル)にまで拡大している。また、純貿易額を見ても、純輸出は394億ドル(対前年比7.5%増)、純輸入は472億ドル(対前年比6.2%増)と、近年順調に成長している。
(ロ)イスラエルの貿易は、長年米国市場に依存した構造(輸出の約40%、輸入の約20%)となっていたが、近年、その割合は徐々に低下しており(2006年は輸出の約38%、輸入の約11%)、輸出先としてはEU(28%(2003年)→31%(2006年))、輸入先としてはアジア諸国(16%(2003年)→20%(2006年))の割合が急増している。
(6)対内外国投資
イスラエルによる外国による直接投資は、IT、医療、バイオ分野等を対象に、2006年は、前年比300%増の約140億ドルと大幅に増加した。特に、レバノン紛争があった同年においても、その増加傾向は顕著であり、イスラエル経済の基盤の強固さが改めて国際社会に印象づけられた。また、同年5月には、米国の著名な投資家であるバフェット氏がイスカル社(切削工具メーカー大手)に対し資産評価額の80%に当たる40億ドルという過去最大の投資を行った。
3. 外交
(1)概観
(イ)イスラエルの外交方針は、自国の安全確保を第一としている。そして、国外のユダヤ人コミュニティーからの支援を後ろ盾としつつ、特に米国との友好関係を最重要視している。
(ロ)アラブ諸国のうち隣接するエジプト、ヨルダンと和平を結んだことにより、周辺国との戦争の可能性が低下した一方、その外縁部にあるイランの脅威が相対的に浮上し、同国における弾道ミサイルや核、化学・生物兵器等の開発の動向に警戒感を高めている。
(ハ)1991年のマドリード会議を皮切りに始まった中東和平プロセスは、これまでオスロ合意の締結、ヨルダンとの和平条約締結等により、一部アラブ諸国との関係改善を成し遂げる等、大きな進展を見せたものの、2000年9月のパレスチナとの衝突発生以来、同プロセスが停滞した。2005年1月のアッバース・パレスチナ自治政府大統領就任以降、2005年2月及び6月、2006年12月、2007年3月に各々イスラエル・パレスチナ首脳会談が開催され、また、2005年9月にはイスラエルによるガザ等からの撤退が完了するなど、中東和平プロセスの前進に向けた兆候は屡々見られたものの、イスラエル・パレスチナ間の暴力はいまだに続いており、また、2006年1月のシャロン首相の緊急入院による事実上の政界引退、またその後のパレスチナ立法評議会においてイスラエルの生存を認めないハマスが勝利し、パレスチナ自治政府を主導するようになってしまったことなど、事態は依然流動的である。
(2)対米関係
イスラエルにとって最も重要な外交関係は対米関係であり、イスラエルは政治、防衛、経済などの各分野で多くを米国に依存している。米国はイスラエルに対し、毎年多額の無償資金援助及び軍事支援を行っている(2006年は24億ドル)。また、イスラエル・米国間には1989年に自由貿易協定が締結されている。2006年に入り、米国は「テロとの戦い」の関連で、特にハマスおよびヒズボラに対しては強硬な姿勢をとり、イスラエルの政策を全面的に支持している。
(3)対EU関係
ECとは1975年に自由貿易協定を結び、従来から経済や観光を中心に良好な関係を有している。近年では、EUはカルテットの一員として、中東和平問題にも積極的に関わっていることから、イスラエルもEUとの関係を重視している。2006年は、パレスチナ問題及びレバノン情勢などで、外相レベルの頻繁な往来が行われるなど、積極的な外交が展開された。
(4)対アラブ・イスラム諸国
アラブ・イスラム諸国中においてイスラエルと外交関係を有しているのは、エジプト、ヨルダン、モーリタニアの3カ国のみであるが、近年はアラブ・イスラム諸国との関係改善に力を入れている。特に、2006年夏のレバノン紛争以降、イスラエルは中東域内の関係を「穏健派対過激派」と捉え、イラン、シリア、ヒズボラ、ハマスといった「過激派」を牽制すべく、「穏健派」(ヨルダン、エジプト及びGCC諸国)との関係を重視するようになっている。そうしたことから、2006年にオルメルト首相が二度ヨルダンを訪問したほか、サウジアラビア要人との会談も報じられた。
(5)イランの脅威
イスラエルは、イランの核問題を国家の存亡に関わる最大の脅威と捉え、現イラン大統領による「イスラエル抹消」や「ホロコースト否定」発言とあわせ危機感を募らせている。また、イスラエルはこの問題をイスラエル対イランとの構図ではなく、国際社会が一致して取り組む問題と位置づけ、イランに対して圧力を加えるべく米国や欧州等と緊密な協議を継続している。
(6)国連等
従来、国連においては、アラブ諸国が対イスラエル批判を繰り返してきたことから、イスラエルは国連外交に消極的だったが、2005年、ギラーマン常駐代表が第60回国連総会の副議長を務め、同総会においてイスラエル提案の「ホロコースト決議案」が採択されるとともに、ジュネーブ諸条約第三追加議定書外交会議において新たな標章が採択され、赤盾ダビデ社が国際赤十字社の活動に参加するための道筋が開ける等、国連及び国際場裡におけるイスラエルの立場及びイメージが改善されつつある。
4.我が国との関係
(1)政治関係
(イ)1952年5月、我が国はイスラエルと外交関係を開設したが、これはサンフランシスコ講和条約発効(1952年4月)の直後に当たる。即ち、イスラエルは、戦後GHQの占領下にあった我が国が主権を回復して直ちに国交を結んだ国の一つであった。また、イスラエルにとっても、日本はアジア諸国の中で初めて外交関係を結んだ国となった。以来55年に亘り、両国は一貫して友好関係を維持し、二国間関係を増進させてきた。
(ロ)中東地域は、世界の石油埋蔵確認量の約6割、世界の原油年間生産量の約3割を占めている世界の主要なエネルギー源であり、同地域の不安定化は、直接に国際社会の安定と繁栄に影響を与える。特に日本は現在もなお原油輸入の約9割を中東地域に依存していることから、同地域の不安定化により大きな影響を受けることになる。更に、中東和平問題の焦点となっているアラブ・イスラエル紛争は、第二次世界大戦後の世界において最も長く続く地域紛争であり、国連をはじめとする国際社会が問題の平和的解決に取り組み続けてきた重要な国際紛争の一つであることから、我が国としても、国際社会の平和と安定に主要な責任を果たすべく、中東和平達成に向けて積極的な関与を行っていく必要がある。かかる認識の下、我が国は中東和平の進展に向けた両当事者の和平努力を積極的に支援すべく、特に1990年代の和平プロセス開始以降、その重要な当事者であるイスラエルとの二国間関係を一層強化しつつ、「政府ハイレベルによる政治的働きかけ」、「対パレスチナ支援」、「当事者間の信頼醸成のための措置」を柱として中東和平問題に積極的に取り組んでいる。
(ハ)最近の動きとしては、2006年7月、小泉総理大臣が日本の総理として11年ぶりにイスラエル及びパレスチナ自治区を訪問した。オルメルト首相との首脳会談では、小泉総理大臣よりガザ及びレバノン情勢の悪化に憂慮の念を示しつつ、事態の更なる悪化を防ぐために最大限の自制と理性的な対応を強く求めるとともに、域内関係者間の協力によってヨルダン渓谷の開発を図る「平和と繁栄の回廊」構想を提案し支持を得た。中東和平以外の二国間関係でも、外務次官級での政策対話の強化、ビジネス・ミッションの相互派遣、文化交流ミッションの派遣の提案など、政治、経済、文化の各分野における交流の強化につき話し合われた。その後、2007年1月にリヴニ筆頭副首相兼外相が訪日し、麻生外務大臣との間で政策対話の強化に関する覚書に署名を行った結果、同年2月に外務次官級協議の第一回会合が東京で開催され、また、同年8月には麻生外務大臣がイスラエルを答礼訪問するなど、二国間の要人往来は益々活発化している。
(ニ)UNDOFへの要員派遣
1995年8月、我が国はゴラン高原における国連兵力引き離し監視団(UNDOF)への参加を決定し、1996年2月以降、ゴラン高原において我が国の要員45名(自衛隊の部隊43名、司令部要員2名)が常時活動している。うち、イスラエル側(ジウアニ宿営地)には部隊員31名が派遣されており、主として食糧、生活用品等の輸送任務に当たっている。各部隊員の任期は6ヶ月であり、2007年9月から第24次隊が活動中。
<参考:近年の主な要人往来(肩書きは全て当時)>
我が国要人のイスラエル訪問 日付 要人
1988年6月 宇野宗佑外務大臣
1991年5月 中山太郎外務大臣
1994年5月 柿澤弘治外務大臣
1995年9月 村山富市総理大臣
1995年11月 河野洋平副総理兼外務大臣(故ラビン首相国葬参列)
1996年8月 池田行彦外務大臣
1997年7月 久間章生防衛庁長官
1998年1月 鈴木宗男北海道・沖縄開発庁長官
1998年12月 鈴木宗男内閣官房副長官
1999年1月 高村正彦外務大臣
1999年3月 町村信孝外務政務次官
1999年8月 中馬弘毅衆議院外務委員長
2000年3-4月 東祥三総括外務政務次官
2001年1月 石破茂防衛庁副長官
2001年7月 杉浦正健外務副大臣
2001年8月 鈴木宗男衆議院外務委筆頭理事
2001年9月 衆議院憲法調査会議員団
2002年1月 与党3幹事長一行
2002年5月 山崎拓自由民主党幹事長一行
2002年6月 川口順子外務大臣、有馬政府代表(中東和平担当特使)
2002年8月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2002年11月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2003年3月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2003年4月 川口順子外務大臣、有馬政府代表(中東和平担当特使)
2003年6月 茂木敏充外務副大臣
2003年8月 佐藤昭郎防衛庁長官政務官
2003年8月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2004年1月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2004年8月 衆議院イラク特別委員会派遣議員団、有馬政府代表(中東和平担当特使)
2004年11月 川口順子特派大使(総理補佐官:故アラファト議長弔問)
2004年12月 福島啓史郎外務大臣政務官
2004年12月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2005年1月 河井克行外務大臣政務官(パレスチナ大統領選挙監視団団長)
2005年1月 野呂田芳成衆議院議員(日・イスラエル友好議連会長)他一行
2005年1月 町村信孝外務大臣
2005年3月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2005年4月 岡田克也民主党代表他民主党代表団
2005年4月 中山泰秀衆議院議員他日・イスラエル友好議連一行
2005年6月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2005年9月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2005年11月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2006年1月 伊藤信太郎外務大臣政務官(パレスチナ立法評議会選挙監視団長)
2006年2月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2006年5月 三浦一水農林水産副大臣
2006年7月 小泉純一郎総理大臣、鈴木内閣官房副長官、有馬政府代表
2006年8月 伊藤信太郎外務大臣政務官
2006年11月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2006年12月 木村隆秀防衛副長官
2007年2月 有馬政府代表(中東和平担当特使)
2007年5月 小池百合子安全保障担当総理大臣補佐官
2007年8月 麻生太郎外務大臣、有馬政府代表(中東和平担当特使)
イスラエル要人の訪日 日付 要人
1985年9月 シャミール外相
1989年2月 ヘルツォグ大統領(大喪の礼参列)
1989年11月 アレンス外相
1990年11月 ヘルツォグ大統領(即位の礼参列)
1992年12月 ペレス外相
1994年12月 ラビン首相
1997年2-3月 レヴィ副首相兼外相
1997年4月 シャランスキー産業貿易相
1997年8月 ネタニヤフ首相、ネエマン蔵相
1998年5月 エイタン副首相兼農業相
1999年3月 ティホン・クネセット議長
2000年6月 ベン・エリエゼル通信相(故小渕恵三首相葬儀参列)
2000年8月 ペレス地域協力相
2001年12月 シトリート司法相
2002年2月 ハネグビ環境相
2002年8月 リヴリン通信相
2003年8月 シャローム副首相兼外相
2004年4月 サンドバーグ科学技術相
2004年5月 アハロニシュキー・イスラエル警察長官
2004年9月 ラッサービ・クネセット議員(イスラエル・日本友好議連会長)
2005年4月 オルメルト副首相兼産業・貿易・労働相
2006年2月 カラディ・イスラエル警察長官
2007年1月 リヴニ筆頭副首相兼外相
2007年2月 フィッシャー・イスラエル中央銀行総裁
2007年2月 アブラモヴィッチ外務次官(第1回外務次官級協議)
2007年3月 ヘルメッシュ・イスラエル日本友好議員連盟会長
2007年3月 ペレス副首相兼ネゲブ・ガリラヤ地方開発担当相
2007年8月 アハロノヴィッチ観光相
(2)経済関係
(イ)1990年代の中東和平の進展を受け、両国間では人の往来が活発化し、ビジネス環境の整備が進んだ(具体的には、1993年12月の二国間租税条約発効、1993及び1999年の2回にわたる経団連ミッション、1995年の科学技術協定締結及び1997年10月のジェトロによるテルアビブ事務所開設など)。特に、イスラエルのハイテク産業に対する関心の高まりを背景に、1994年以降、大手総合商社の事務所が相次いで開設され、製造業への投資等もなされるなど、日本企業のイスラエル進出が加速するとともに、イスラエル企業も日本市場に経済ミッションを派遣するなど、両国間の経済交流が発展した。しかし、2000年の第2次インティファーダ勃発以降、頻発する自爆テロ事件などから現地治安情勢に対する懸念が広がり、日本人企業家の訪問が激減、また日本の景気悪化による拠点見直しの影響もあり、日本企業の現地での活動も縮小傾向に入り、現在、駐在員を配置する日本企業は10社にも満たない状況となっている。
(ロ)イスラエルの全貿易額に占める日本の割合は2.3%(第9位。最大は米国で24.5%)、日本の全貿易額に占めるイスラエルの割合は0.2%となっており、両国間の貿易取引は必ずしも多いとは言えない。しかし、両国間の貿易取引額は、2002年に14億ドルであったものが、2005年は20億ドル、2006年には21億ドルと増加傾向にある。また、2006年夏以降、インテル社の大規模工場建設に伴い、数百人規模の日本人技術者のイスラエル滞在が見込まれている。その他、イスラエルが有するハイテク、医療、バイオテクノロジー分野での技術に関心を持つ日系企業は多く、今後、両国間のビジネス関係増進が期待される。
<参考>
(主要輸出品目:ダイヤモンド、機械類、化学製品、農産品等)
(主要輸入品目:自動車、機械類、光学・医療機器、化学製品等)
(進出邦人企業:伊藤忠商事、日健総本社(健康食品製造)等)
(3)文化交流関係
(イ)日本とイスラエルとの文化関係の発展は、両国関係にとどまらず広く欧米のユダヤ系市民の対日観にも影響する点で重要である。
(ロ)一般に多くのイスラエル人は、日本について、地理的に遠い異国であるが、伝統文化・歴史を維持しつつ、高度な産業技術を駆使して経済大国になった国というイメージを持ち、漠然とではあるが魅力を感じる国として捉えており、殊に日本文化に対する関心度は非常に高い(例えば、アニメ・漫画、ポップ・ミュージックなどの日本の現代文化が人気を博している他、寿司バー及び日本食レストランの増加、現地日刊紙への「数独」パズル掲載などに、その傾向を見ることができる。)。そのため、ユダヤ文化とは対極的存在の日本文化に関心を向けこれを習得しようとする国民も多く、研究者、ビジネスマン、建築・美術関係者等の中には、訪日・滞日経験豊富な知日家層が存在する。
(ハ)また、イスラエルの主要国立三大学(ヘブライ大学、テルアビブ大学、ハイファ大学)においては各々日本について学ぶ東洋学科が設置されており、高いレベルの学生が日本語を学び、日本研究に打ち込んでいる。更に、イスラエルには、中東で唯一の日本美術専門の美術館であるティコティン美術館(ハイファ市)が存在し、常時日本展示が行われている他、ラマットガン極東博物館やキブツ・ハゾレア美術館にも日本美術が展示されている。
(ニ)イスラエル人は一般的に芸術活動に関心が高く、音楽、舞台芸術、美術の分野で盛んに活躍しており、国内には劇場、美術館も多く存在する。また、こうした中で、日本・イスラエル両国の芸術家の交流も音楽関係を中心に活発に行われており、特に芸術水準の高さで世界的に有名なイスラエル交響楽団は、3年に1度の割合で訪日しコンサート・ツアーを実施し、国内で大きな好評を博している。また、当国では伝統文化と並び抽象芸術に長けた民族性から、我が国の抽象的な現代文化に対する関心も高く、前衛舞踏芸術「山海塾」のように当国で公演を重ね、高い評価を得ている団体もある。
(ホ)更に、イスラエルにおいては、合気道、空手、柔道等の日本の伝統的武道に対する人気も高く、2006年6月に佐渡ヶ嶽部屋の力士一行がイスラエルを巡業した際には同国大統領及び観光相をはじめとするイスラエル国民から大きな関心をもって迎えられた。
(ヘ)なお、第二次大戦中リトアニアで多くのユダヤ人にビザを発行して彼らをナチスの迫害から救った杉原千畝領事の名前は、同大戦の記憶のある高齢のイスラエル人に比較的よく知られている。因みに、杉原領事の出身地である岐阜県八百津町には、1996年からJETプログラムによってイスラエルの青年が国際担当として派遣されており、現在5人目のイスラエル人が同町で活躍している。
http://www.mofa.go.jp/Mofaj/area/israel/kankei.html