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http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2009/07/post_312.html
「高野論説」
民主党は郷原信郎を法務大臣にしたらどうか/その2——第三者委員会報告書の問題提起
造船疑獄は、戦時中に大量の船腹を失って疲弊していた海運業界を立て直して貿易立国の道を突き進むべく、政府が商船建造のための長期低利資金を提供して計画的に造船を促す「計画造船」政策の一環として、「外航船建造利子補給法」を制定するにあたって、飯野海運はじめ業界から政治家・官僚に莫大な賄賂が贈られたとして、東京地検特捜部が1954年1月強制捜査を開始、政財官71人を逮捕するという、史上稀に見る一大贈収賄事件となった。
その中で、検察は4月、当時の第5次吉田内閣の与党=自由党幹事長だった佐藤栄作(後の首相)を逮捕する方針を固めたが、佐藤の求めに応じて吉田首相が犬養健法相に「指揮権発動」を指示、佐藤逮捕は中止された。が、野党とマスコミの反発は激しく、非難囂々の中で犬養法相は辞任、それをきっかけに政局不安が続く中で、結局、吉田内閣は8カ月後に倒壊した。
ところが肝心の裁判では、起訴された主だった被告7人は全員無罪、それ以外の17人もすべて執行猶予つきというほとんど竜頭蛇尾の結果となった。そのためこれは当時から「第2の帝人事件」と呼ばれて、検察捜査の行き過ぎが指摘されたが、世間的には、「正義の味方=検察」に「不正義の悪徳政治家」が不当な圧力を加えたというミーチャンハーチャン的な印象だけが澱のように残って、以後、「指揮権発動」などとんでもないことだという“常識”がまかり通るようになった。
これを事件化することが無理筋であったのは、第1に、そもそも計画造船は政府の重要政策であって、業界が自分らに有利な法案を通そうとして贈賄しなければならない必然性がなかった。
第2に、佐藤の容疑がそうであったように、確かに海運業界は与党幹事長としての佐藤に法案の取りまとめを誓願したかもしれないが、それは業界と与党の関係としては当たり前であり、他方、同業界は(佐藤個人にではなく)自由党に多額の献金をしているが、それもまた業界と与党の関係としては当たり前である。さらに、佐藤は実際にその法案の取りまとめに尽力しただろうが、それは政府の重要政策を推進する幹事長の職務として当たり前であったろう。その3つの“当たり前”を一緒くたにして「汚職だ」と断定した検察の想定はいかにも無茶である。
第3に、渡邉文幸『指揮権発動/造船疑獄と戦後検察の確立』(信山社出版、05年)によると、事件当時に法務省刑事局長だった井本台吉(後に検事総長)は、佐藤に対する捜査が実は行き詰まっていて、「名誉ある撤退」のために検察側から吉田に指揮権発動を働きかけた策略の結果だったと証言している。また、06年6月14日付朝日夕刊「ニッポン人脈記」では、造船疑獄当時に地検特捜副部長だった神谷尚男が「あのままでは佐藤を起訴するだけの証拠がなかった」と言い、第一線検事だった栗本六郎も「捜査は行き詰まっていた。拘置所で指揮権発動を聞き、事件がストップして正直ホッとした」と言っている。
郷原信郎は、日経ビジネスONLINEの6月17日付「法務大臣の指揮権を巡る思考停止からの脱却を」で、渡邉の著書や06年の朝日夕刊の報道などを引用しつつ、次のように述べている。
「造船疑獄の検察捜査は、“暴走”を通り越して“爆走”に近いものだった」と断言し、さらにこの事件によって「『検察の正義』を神聖不可侵のもののように扱い、外部からの圧力・介入を断固排除すべきという考え方を生じさせる一方、その行く手を阻んだ法務大臣の指揮権は、検察庁法に規定されていても、実際にそれを行使することは許されない『封印されたもの』のように理解されることとなった」
「渡邉氏が解き明かした造船疑獄事件の真相も意に介さず、第三者委員会報告書に『指揮権発動も選択肢』との記述を見つけただけで、過剰反応するマスメディアの報道姿勢こそ『思考停止』そのものと言うべきであろう」
●第三者委員会報告書の問題提起
早野記者はたぶん、自社の新聞の06年6月14日付夕刊の記事も、日経ビジネスの郷原論文も読んでおらず、まだ第三者委員会報告書も精読していないに違いない。それでいて、まさに郷原が批判している造船疑獄についての“常識”という名の俗説にどっぷり嵌って「こんな意見がまかりとおっていいのか」などと偉そうにホザいている。
第三者委員会報告書とそれへの補足説明としての日経ビジネス郷原論文は、戦前からの権力主義的体質を戦後になっても維持している検察に対する民主的コントロールの必要性についての(小沢秘書がどうしたとかいう次元を超えて)重大な問題提起を含んでいるので、必ず全文熟読して自分で考えて貰いたいが、ここで私なりの整理を提出しておく。
端的に言って、検察は必ずしも正義でなく、むしろ正義でないことのほうが多い。それに対してどうしたら民主的チェックを働かせることが出来るかという場合に、まず第1に念頭に浮かぶのは「検察審査会」である。
検察審査会は、裁判員制度の先駆的形態とも言えるもので、市民から無作為に選ばれた11人の審査員が、検察の起訴・不起訴の処理に対して不服の申し立てがあった場合にこれを審査して、
(1)不起訴相当(検察官の不起訴の判断に誤りはない)(2)不起訴不当(検察官の不起訴の判断に疑いがある)(3)起訴相当 (検察官は起訴すべきである)
のいずれかの判断を下す。不起訴不当の意見が過半数以下(5人以下)であれば不起訴相当となる。過半数を超えれば不起訴不当となり、それが8人を超えると、より強い表現の起訴不当となるが、審査会の判断が(1)(2)(3)のどれであったとしても、従来は、検察は言わば参考意見として聞き置くだけで、それを無視することが出来た。ところが、裁判員制度導入と関連する法改正で今年5月からは、審査会が同じ件で2度、「起訴すべきだ」と決議すると、検察はそれに従って起訴しなければならないことになった。周知のように、西松建設から二階俊博経産相への献金疑惑事件で大阪の市民オンブズマンが行った告発を検察が不起訴としたことに対して、検察審査会はすでに1度、不起訴不当を決議しており、再度決議すれば二階は自動的に起訴されるというので、成り行きが注目されている。宮崎の林国家公安委員長に対する告発も、そこに狙いを定めたものであることは言うまでもない。
(1)〜(3)を眺めてすぐに気付くのは、「(4)起訴不当」が欠けていることである。これについて第三者委員会報告書は、「不起訴の場合には、検察審査会……の制度が用意されている。これに対して、不当な起訴がなされた場合、人権侵害の危険性は不起訴の場合より直截的であるにもかかわらず、わが国では制度的手当てがない。そのため、学説上、この点は一種の法の欠陥であるとして、『公訴権濫用論』が唱えられ」ていると述べている。これは、法学者の間では常識なのかもしれないが、少なくとも私にとっては初めて気付かされたことで、新政権は検察審査会法を再改正すべきかどうかを検討課題とすべきだろう。
第2に、裁判所は検察暴走の歯止めにならないのか、という問題がある。報告書は上記部分にすぐ続いて、「不当な起訴については裁判所が公訴を棄却すべきであるという主張がかねてからなされている」と述べている。確かに、裁判所が自立していれば公訴棄却は検察チェックの武器となるが、戦前以来の裁判所の検察への従属が今も尾を引いている現状では、これは制度的保証とはならないだろう。しかし、これも検討課題である。
第3に、裁判所の判断における「統治行為論」の考え方を、検察に対しても準用すべきではないかという問題がある。報告書は言う。
裁判所が判決を行う場合に、憲法学上で「統治行為論」ということが言われる。統治行為論とは「高度に政治性のある国家行為については、たとえ裁判所による法律判断が可能であったとしても、事柄の性質上裁判所が審査をしない問題領域を認める考え方をいう。これは、政治問題は国民の代表者からなる国会および国会に信を置く内閣において解決されることが本来望ましく、裁判官は選挙によって選任されていないという意味で直接的な民主的正当性を持たない以上、政治問題については判断を差し控えることが好ましいという配慮に基づいている。このように、司法権ないし司法官僚たる裁判官の判決行動につき民主主義への礼譲を説く考え方を司法消極主義という」。
西松事件のように、総選挙間近の時期に野党第一党に大きな打撃を与え、国民による政権選択の可能性を事実上奪いかねないような場合には、裁判官の権限行使における統治行為論と同様の発想に立って、検察官は、たとえ法律的には逮捕・起訴が可能でも、敢えてそれを控えることがあってもいいのではないか、と。
これはなかなか微妙なところで、単に検察官の心構えというレベルに止まれば実効性はない。
第4に、この文脈の中で、早野もその一部を引用した報告書の次の下りが出てくる。
「本件のように重大な政治的影響のある事案について、単に犯罪構成要件を充足しうるという見込みだけで逮捕、起訴に踏み切ったとすれば、国家による訴追行為としてはなはだ配慮に欠けたとの謗りを免れないというべきであろう。逮捕・起訴を相当とする現場レベルでの判断があったとしても、法務行政のトップに立つ法務大臣は、高度の政治的配慮から指揮権を発動し、検事総長を通じて個別案件における検察官の権限行使を差し止め、あえて国民の判断にゆだねるという選択肢もあり得たと考えられる。また、本当の意味で法務省と検察庁とが独立した官庁なのであれば、このような観点からなされる法務大臣の指揮権発動を、法務省が組織的に支えることは可能なはずである。いずれにせよ、本件を契機として、指揮権発動の基準について、改めて研究・検討がなされて然るべきであろう」
早野のように「指揮権発動」と聞いただけで「とんでもない!」と思ってしまう、郷原が言う「思考停止」状態を打破して、これを本来の意味で活用することを研究することは、新政権にとって検討課題になりえよう。
さらに言えば、報告書には書かれていないが、第5に、検察庁法第15条に規定された検事総長、次長検事、各検事長の内閣による任免権を形骸化されたままにしておかないで、文字通り是々非々で適格性を十分に吟味し、検察の体質改善のために活用することも必要だろう。
このように、報告書は、単に突出的に小沢秘書の一件について「指揮権発動をすべきだった」と言っているのではなく、検察の横暴を民主的に制御する方策についていろいろな角度から検討すべきことを問題提起している中で、指揮権発動の不当なタブー化についても検討課題に挙げているのであって、それを、繰り返すが、早野のようなベテラン政治記者が「こんな議論がまかりとおっていいのか」の一言で片づけようとしているのは残念極まりない。
検察はもちろん必要だし、そのFBI的な独自の捜査機能も恐らく必要だろうと私も思う。しかしそれは、軍隊が歴史の現段階では一種の必要悪としてその存在を認めざるを得ないけれども、放任すれば他国にも国民にもとんでもない災禍を及ぼす危険物として厳密に文民によって統制されなければならないというのと同じ意味で、徹底的に民主的な統制の下に置かれるべきである。ところが実際には、そのための法的な仕組みは、報告書が指摘するように、ほとんど全く未整備であり、いくら新政権が出来たとしてもその議論には相当の時間が必要となる。その間、率先して検察の横暴や各種冤罪事件の多発に対してチェック機能を発揮しなければならないのはジャーナリズムであるはずだが、そのジャーナリズムが先頭を切って「検察は正義の味方」という幻想を増幅する側に回っているのだから話にならない。
こうして、検察の改革は、小沢一郎の言う「明治以来100年の官僚体制を打破する革命的改革」の重要な一部として位置づけられるべきであり、来るべき民主党政権は正面切ってこれに取り組まなければならないだろう。
郷原を法務大臣にしたらどうかというのはもちろん一種のジョークで、閣僚人事に口出しをしようとしていると受け止められると困ってしまうので(このサイトの読者には生真面目な人が多いですね)、民主党の皆さんは第三者委員会報告書の重大な問題提起を政権の課題としてちゃんと受け止めていますか?という同党への問いかけと理解して頂きたい。
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