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(回答先: 「一日も早い人の死を望む」脳死臓器移植のハードルを取り払うA案の衆院可決を批判する 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 6 月 18 日 20:57:06)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1135705409&owner_id=7752448
私は、今年の4月12日に「再び・心臓のお値段について」という日記を書いているのだが、いよいよ衆議院での「臓器移植法案」の審議が大詰めを迎えている。
A案、B案、C案、D案…とあるそうだが、私自身の立場は昔から「臓器移植」には反対なのである。
人間は「霊長類」などと言っているが、しょせん「動物」に過ぎない。
つまり、どうやっても生まれてきた以上、遅かれ早かれ死ぬのである。
「医療の進歩」がなければ、≪他人の臓器を移植する≫などということは出来なかったはずだ。
これは、明らかに「生命倫理」に反する行為であり、「神の意思」に逆らう行為でもあるのではないか…とも思うのだが、「臓器移植」とか「再生医療」というものへ人間が興味を示して、研究開発技術が進むのは、やがては「人類がこの地球を棄て、宇宙を放浪する時代に備えてのこと」なのだろうと、私は想像している。
つまり、やがての未来において、人類の大半はこの地球と共に滅亡するであろうし、そのとき極く少数の人類を乗せた宇宙船が地球から飛び立った後、宇宙船の中で長い長い世代を交代する時間を想定しての、人体実験が始まっているのだろうと想像するのだ。
人類は、寿命を数百年延ばさねば「宇宙旅行」は出来ないのである。
「カルネアデスの板」という話がある。これは「緊急避難」の話だ。
カルネアデスの板(かるねあですのいた、Plank of Carneades)は、古代ギリシアの哲学者、カルネアデスが出したといわれる問題。「カルネアデスの舟板」ともいう。
舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、一片の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。
現代の日本の法律でも、刑法37条の「緊急避難」に該当する為、この男は罪に問われない。
脳死に基づく「臓器移植」というのは、この話に似ている。
「誰かの死」が「誰かの生」に繋がるという意味では同じことだ。
その微妙な選択の瞬間に、人間の邪な心やおカネが介在してくると、これはもう何の救いにもならない。
すでに、世界では「救いにならない臓器売買」の話が横行している。
自分の子供の命を救うために、他者の死を願わねばならない…という心は私には少々理解しにくいのだが、それとて≪生き残る順番≫まで考えねばならないとすれば、正しい判断など出来なくなるではないか。
つまるところ、「自然死」では心臓移植が出来ないから、「脳死」などという「新しい死の概念」まで考え出して、移植をしたいのである。
しかし、「新鮮な臓器」が欲しいと言う欲求が強くなれば、「生体から臓器を取り出す」ことすら、人間は考え始めるものなのだ。想像するだに怖ろしい思想が生まれて来ることになる。
究極的に言えば、「地球最後の日」を迎えるまでもなく、100億の人類が生存をし続けることが困難となれば、必然的に人類は「選択」されることになるだろう。
「少数の人間が生き残り、大多数の人間は死ぬしかない」という政治選択が「カルネアデスの板」の如く、正当な決断であったとされる時代がやって来る・・・ということだ。
誰を助け、誰を見放すのか・・・それは、そのときの政治や権力が決定することになる。
私には、「臓器移植治療技術」の進歩は、結局≪少数の権力者や富裕層に奉仕するための医療≫としか思えないのである。
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