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(回答先: 「核密約」報道と記者会見(ニュースの現場で考えること) 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 6 月 03 日 12:33:22)
沖縄返還38年目の真実
谷内正太郎・政府代表が語る「核再持ち込みの密約はあった」
(週刊朝日 2009年05月22日号掲載) 2009年5月13日(水)配信
北方領土をめぐる発言が波紋を広げている谷内(やち)正太郎・政府代表が、今度は1972年の沖縄返還をめぐり重大な発言をした。「核の再持ち込み密約はあった」。5月15日に沖縄が復帰から38年目を迎える直前、本誌にそう語った。じつは、この返還交渉をまとめたのは、「密使」として動いた谷内氏の恩師だった。その知られざる秘話とは──。
火種はまだ、くすぶっている。
〈私は3・5島でもいいのではないかと考えている。(中略)択捉島の面積がすごく大きく、面積を折半すると3島プラス択捉の20〜25%ぐらいになる。折半すると(3・5島は)実質は4島返還になるんです〉
毎日新聞4月17日付朝刊に載った政府代表の谷内正太郎(65)のインタビューである。前外務事務次官で、首相の麻生太郎が外相時代に「自由と繁栄の弧」構想を打ち出したときからのブレーンだ。内閣支持率が低迷する今年1月、首相の「特使」に起用された。
その谷内が、政府が原則とする「4島返還論」ではなく「3・5島返還論」を容認する発言をしたため、波紋が広がった。外相の中曽根弘文が「厳重注意」したものの収まらず、4月28日の衆院本会議では、麻生も火消しに追われた。5月11日に来日するロシアのプーチン首相とのトップ会談にも影を落とす。
北の島々を取り戻す途中でつまずいた谷内が師と仰ぐのは、南の島を取り戻す立役者となった男だ。沖縄返還交渉でアメリカ側から「ニンジャ」と呼ばれた、元京都産業大教授の故若泉敬(けい)。首相の佐藤栄作が難航する交渉を打開するために起用した「密使」だった。
67年夏、若泉は佐藤に会う。かねて知り合いだった自民党幹事長の福田赳夫に引き合わされた。前年、米国防長官マクナマラとの単独会見記を月刊誌「中央公論」に発表するなど、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)の客員所員として培った米政権中枢との太い人脈を見込まれた。
〈この一九六七年九月二十九日で、私の第一の人生は終り、第二の人生が始まったようなものであった〉(若泉著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)
若泉は家族にさえ察知されないよう隠密に行動する。孤独な闘いが始まったのは、37歳の秋だった。
2カ月後の11月、佐藤・ジョンソン会談で両首脳は「両3年以内の沖縄返還」に合意し、敗戦後アメリカが握ってきた沖縄の施政権が72年までに日本に返されることが決まった。
その後、返還交渉の焦点となったのが核の問題だった。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/1.htm
被爆国である日本には核アレルギーが強く、日本側は沖縄返還時にそれまで貯蔵されていた「核の撤去」を求めた。一方、ベトナム戦争を戦っていたアメリカ側は、基地を自由に使用できることのほかに「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利」を要求した。そこで、若泉と米側の交渉窓口となった米大統領補佐官キッシンジャーは、
〈日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう〉
との一文を盛り込むことで合意にこぎつけた。
つまり、日本側は事前協議が行われなければ、日米安保条約の定める「重要な装備の変更」はないものととらえ、「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れることができる。一方、アメリカ側も「遅滞なく必要をみたす」との言質を取ることで、有事には核を持ち込めるというわけだ。これが「核密約」のからくりである。
ニクソンとの首脳会談まで1カ月を切った69年10月23日、若泉は佐藤を前に、
「私は佐藤栄作個人のためにやるのではありません。あなたが、日本国の総理大臣だから、やらせていただくのです」
と覚悟を伝え、決断を迫った。
「一国の宰相にふさわしい聡明な決断をされ、歴史に責任を負っていただかないと困ります」
ただ、密約が外に漏れれば交渉が台無しになる。若泉とキッシンジャー、ふたりの「密使」が描いたシナリオは次のようなものだった。
会談の最後に、ニクソンが佐藤に大統領執務室の隣にある小部屋で美術品を鑑賞することを提案する。ふたりだけで小部屋に入り、核問題に関する秘密の合意議事録にサインする。署名はイニシャルのみで、それぞれ1通ずつ保持する──。
しかし、実際には、ニクソンがフルネームで署名したため、佐藤もそれに倣ったという。
若泉が、こうした核再持ち込みの密約について明かしたのは94年。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)と題した600ページを超える大著を発表し、交渉過程を詳細に綴った。69年に秘密合意議事録を交わしてから25年後。ちょうどアメリカが情報公開法により開示を定めた期限が訪れる年だった。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/2.htm
谷内は昨年暮れ、月刊誌「文藝春秋」(08年12月号)の「死ぬまでに絶対読みたい本」という特集で、この一冊を挙げた。
〈「守秘義務」を守るか、真実を明らかにして「天下の法廷の証人台」に立つか。「二つの良心」の間で揺れた結果がこの本なのである〉
単なる本の紹介とはいえ、谷内みずからが「核再持ち込みの密約」を認めているに等しい。
谷内にあらためてたずねると、こんな答えが返ってきた。
「私は、若泉さんの人柄をよく知っています。武士道を尊び、誠実さを貫き通した。あれだけ詳細な記述を残して嘘をつく理由もないし、嘘をつく人でもない」
だから、と続ける。
「核の再持ち込み密約はあった、と私は思います」
05年から3年間、外務事務次官を務め、政府代表でもある谷内が、政府・外務省が一貫して否定し続けてきた日米間の密約を初めて認めたことになる。
「若泉さんが願ったのは、対米依存、対米追随の外交から脱するためにも、日本でも正面から安全保障をめぐる議論を始めることだった。それは現在の日本にもなお、当てはまるのではないでしょうか」
谷内が若泉に初めて出会ったのは、いまから40年以上前、東大生だったころにさかのぼる。当時、参加していた「土曜会」という大学横断の読書サークルにOBとして顔を出していたのが、防衛庁防衛研修所教官の若泉だった。その後、谷内は大学院に進み、京都産業大世界問題研究所(東京・千駄ケ谷)に移った若泉のもとで新聞切り抜きのアルバイトを続けた。
まもなく、学者ではなく外交官の道を選ぶことを決め、69年に外務省に入省。独身寮の抽選に漏れたあと、偶然、出会った若泉から下宿先を紹介される。それはほかでもない、東京・荻窪の若泉邸だった。1年ほど居候している間、若泉は内外を飛び回りながら、
「国事に奔走している」
とだけ語っていたという。それが沖縄返還交渉だったと谷内が知るのは、四半世紀後に出た『他策ナカリシヲ〜』によってだった。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/3.htm
本の冒頭には「宣誓」と題して、こう書かれている。
〈永い遅疑逡巡の末、/心重い筆を執り遅遅として綴った一篇の物語を、/いまここに公にせんとする。/歴史の一齣(ひとこま)への私の証言をなさんがためである。(略)何事も隠さず/付け加えず/偽りを述べない〉
若泉と親交のあった弁護士の田宮甫(はじめ)(75)はこう振り返る。
「本が出版されれば国会に証人として呼ばれるだろうと、若泉先生は覚悟していました。だから、証人喚問のときは付添人になってくれと依頼されていたのです」
だが、長い葛藤を越えて国を思うがゆえに投じた一石は事実上、黙殺された。それどころか、首相の羽田孜は、
「密約はありません」
と否定し、外務省も「存在しない」との立場を崩さなかった。
若泉は失望し、祖国を「愚者の楽園」と称するようになる。福井県鯖江市の自宅「無畏無為庵(むいむいあん)」に引きこもり、表舞台から姿を消した。
出版から1カ月ほどたった「沖縄慰霊の日」の6月23日、若泉は喪服姿で沖縄・摩文仁(まぶに)の丘を訪れた。約18万人の遺骨が納められた国立沖縄戦没者墓苑の碑の前で正座し、『他策ナカリシヲ〜』を花とともに供え、手を合わせた。そのまま頭を垂れたまま動かない。
後ろで見守っていた田宮には、喪服の左内ポケットに短刀らしきものが忍ばせてあるように見えた。世話役として同行していた福井県商工会議所連合会専務理事の鰐渕信一(61)は、ただならぬ雰囲気にも、若泉が沖縄の土を血で汚すようなことはしないだろうと思っていた。
30分ほどして若泉の肩が下がると、張り詰めた空気が緩んだ。
じつは、若泉は事前に「歎願状」と題した文章をしたためていた。
〈拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に新たな御不安、御心痛、御憤怒を惹き起した事実を切々自覚しつつ、一九六九年日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い「結果責任」を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します〉
宛名は「沖縄県の皆様」と「大田昌秀知事、関係各位殿」とあった。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/4.htm
沖縄の「核抜き・本土並み」返還は、核の再持ち込みについて密約を結んででもアメリカ側に保証しなければ実現できなかった。しかし、その後の沖縄は基地の負担と計り知れない犠牲を強いられてきた。かつて、沖縄戦で約8千人を指揮した大田実・海軍少将が自決する直前、海軍次官へ宛てた電報で、
《(沖縄)県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ》
と訴えた言葉を裏切るような現実が続いている。若泉には、そのことへの懺悔の思いがあった。
ところがなぜか、歎願状は自宅の金庫に置き忘れていた。理由は定かではないが、若泉はこう語っていたという。
「墓前で、英霊と対話するなかで(自殺を)思いとどまった。英訳版を出すことで、世界に日米関係の現状と沖縄の基地問題を知ってもらいたいと考え直したのです」
みずからの命を絶つ代わり、英訳版の出版を決めたのだ。
そのために動いたのは、現役外務官僚の谷内だった。英ケンブリッジ大教授を翻訳者に選び、ハワイ大学からの出版をとりつけた。
2年後、若泉は与那国島に渡り、英訳版の序文を書き上げる。しかし、すい臓がんに侵され、すでに告げられた「余命」をすぎていた。それでも6月23日には、沖縄で祈りをささげた。あのとき以来、毎年続けていた。
その直前、若泉は谷内を伊勢神宮参りに誘っている。谷内はロサンゼルス総領事への転勤を目前に控えていた。
「きょうの主役はあなただから」
境内に続く参道で、谷内に先を歩くよううながした。参拝をすませると、名古屋駅の新幹線ホームまで見送った。若泉はあらたまって居住まいを正すと、こう言った。
「どうか、この国をよろしくお願いしますよ」
谷内が乗り込んだ新幹線がホームの先に消えるまで、若泉は合掌したまま頭を下げていた。
そして、96年7月27日。
若泉は鯖江市の自宅に5人を招いた。谷内のほかに、著作権継承者に指名された世話役の鰐渕、遺言執行者である弁護士の田宮、文藝春秋の担当編集者と翻訳者である英国人教授である。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/5.htm
5人は2階の居間の大きなテーブルで若泉を囲むように座った。すると、A4判で7ぺージに及ぶ英文の出版に関する取り決め文書が差し出された。冒頭には「合意議事録(覚書)」と印字されている。
〈若泉敬にとって英訳版著作の公刊が本日この“集まり”によって保証確認された以上、最早志半ばにして斃(たお)れるのはあり得ないと深い安堵を覚えている〉
死をほのめかすかのような文章の末尾に、全員が署名した。若泉はおだやかな笑みを見せた。まもなく、鰐渕と田宮をのぞき、谷内たちは帰っていった。
若泉はベッドに横になると、冷蔵庫から「屋久島の水」を取ってこさせた。乾杯のため、自分のコップにも少しだけ注ぐ。
「これは長生きする水なんですよ」
3人がコップに口をつけた直後だった。若泉は突然、嘔吐し、全身を激しく痙攣させた。押さえても止まらない。秘かに用意していた青酸カリを水で流し込んだのだ。摩文仁の丘で思いとどまってから2年、若泉は言葉どおり「自裁」した。
しかし、66歳の最期はメディアには「がん性腹膜炎」と発表された。
谷内が訃報を知ったのは、東京の自宅に戻ってからだった。覚悟していたので驚かなかったという。その足で福井にとんぼ返りした。
9年後の05年1月、谷内は外務事務次官に就任する。さらに半年後、アメリカ国立公文書館が機密指定を解いた公文書が公開された。
〈沖縄返還後の米国の核持ち込みと繊維問題に関する秘密交渉〉
69年11月12日付と13日付の大統領へのメモで、日米首脳会談に先立って、大統領補佐官のキッシンジャーが首脳会談の進め方を説明する資料としてニクソンに渡したものだった。
〈返還後の沖縄への核兵器持ち込みと繊維問題に関する秘密の日米合意に基づき、佐藤首相とあなた(ニクソン大統領)は次のような戦略をとる〉
核の再持ち込みが明記されていた。日本大学の信夫(しのぶ)隆司教授(日米外交史)が07年夏に見つけ、メディアでも報じられた。このときも、外務省は「密約はない」との見解を繰り返した。そのトップは、ほかならぬ谷内だった。
谷内はいま、こう語る。
「首相官邸や外務省内もすべて調べてみたのですが、該当する文書は見つかりませんでした。証拠となる文書が日本側にはない以上、公式に『あった』とは言えません」
ただ、「谷内個人としては、密約は100%あったと思っている」と重ねて語った。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/6.htm
佐藤・ニクソンが署名した密約文書はどこに消えたのか。若泉は『他策ナカリシヲ〜』の中に、こう記している。
〈「ところで総理、“小部屋の紙”(日米秘密合意議事録)のことですが、あの取り扱いだけはくれぐれも注意して下さい」
と、総理の眼をぐっと見つめる私に、
「うん。君、あれはちゃんと処置したよ」
と、総理は心なしか表情を弛めて言った〉
日米首脳会談の1週間後のやりとりだ。佐藤のいう「処置した」の意味は定かでない。ただ、首相秘書官だった楠田實は生前、「紙は残していない」と共同通信のインタビューに答えている。
いずれにせよ、日米同盟の根幹にかかわる文書を日本側は手元に保管していない。それどころか、密約の存在が歴代政権に引き継がれてさえいないことになる。
「仮に文書があったとしても、密約がいまも有効かどうかは疑わしい。4人しか知らない約束がその後の政権も拘束するかといえば、答えはNOでしょう。いまや死証文です」
谷内はそう語り、密約の実効性には疑問を投げかけた。
返還から2年後の74年、佐藤は日本人初の「ノーベル平和賞」を受けている。「日中戦争になれば、米国が核による報復をすることを期待している」(65年)、「非核三原則はナンセンス」(69年)などと発言していたことが米公文書で明らかになるのは後のことだ。密約についても問われることはなかった。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/7.htm
日本が第2次世界大戦で失った領土を、ベトナム戦争まっただなかのアメリカから外交というテーブル越しに取り戻すのは、確かに容易なことではなかっただろう。
しかし、その沖縄返還は有事の際の核の再持ち込みを含め、米軍基地の自由使用を保証することによって実現した。元沖縄県知事の大田昌秀(83)は、
「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」
と話す。
沖縄返還から37年。
これまでに明らかになったのは核の再持ち込みの密約だけではない。協定に書かれていない、土地の原状回復補償費400万ドル(当時約12億円)の肩代わりをはじめ、総額6億ドルを超える対米支出のカラクリも解き明かされている。
しかし、政府は説明責任も果たさず、いまだに「密約はない」と繰り返すばかりである。
「これで民主主義国家といえるのだろうか。まして、政治家は責任をとっただろうか」
大田はそう問いかける。
若泉は生前、沖縄の土に埋もれたままの遺骨収集に加わった際、案内役に「ヨシダ」と名乗ったという。それは密使として動いていたときのコードネームだった。若泉の死後、遺灰は遺言に沿って摩文仁の丘の沖に撒かれた。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090513-03/8.htm
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http://www.asyura2.com/08/senkyo55/msg/1020.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 11 月 17 日
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