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検察の劣化
2009 年 5 月 14 日 魚住 昭
http://uonome.jp/article/topic/259
起訴から1カ月以上たち、あれだけ激しかった「西松建設事件」の報道はほとんど見ることがなくなった。振り返れば、この間、マスコミは報道機関として何をしたのか。単に“劣化”した検察に追従しただけだったのではないか。元検事の郷原信郎氏とジャーナリスト・魚住昭氏が、一連のマスコミ報道を徹底検証した。(週刊朝日5月15日号から転載)
***
魚住)皮肉っぽく言えば、各全国紙を見ていて、今回の「西松建設事件」を巡る報道は、従来の検察報道に比べればかなりマシだとも言えるんですよね。
例えば、小沢一郎・民主党代表の第1秘書、大久保隆規被告が起訴された際、毎日新聞(3月25日付朝刊)は社会部長名で「検察は説明責任果たせ」とのタイトルで解説を載せました。これは、なぜ総選挙間近のこの時期に、この程度の容疑で野党第1党代表の側近を立件したのか、と強く疑問を投げかける記事でした。僕の知る限り、大新聞がここまで検察を面と向かって批判することは、これまではなかったことです。
一連のマスコミ報道を見ると、もちろん全体的には検察主導の報道合戦がずっと続いたわけですが、この毎日新聞を筆頭に、各紙が一定の検察批判をせざるを得なかったのは、それほど捜査が異様だったということでしょう。
郷原)今回の事件は、これまでの特捜事件とはまったく違う、“異常”な捜査だと思います。その異常性からすると大手新聞やテレビの検察批判は、全然足りない。
結局、基本的にはこれまでと同様、検察の意向に沿った報道でした。それは、日本という国が実は、物凄く遅れた国だということで、暗澹たる思いです。日本は近代国家・法治国家だと思っていましたが、実は違ったのです。
今回の検察の政治への介入に対しては、憲法上の三権分立(立法・行政・司法)とは違った意味で、政治・メディア・検察の三つの権力がお互いに均衡関係を保つことが必要なのに、今回、メディアも政治も司法に対してまったく「抑制作用」を果たすことができないことがわかったのです。
魚住)先日、霞が関の道ばたで元検察高官とばったり会ったのですが、
「今回の検察のやり方はヒドいじゃないですか?」と言ったら、
「そんなことはない。『国民の目線』で捜査をしなきゃいけないんだ」と答えた。
「なるほどね」と思いましたよ。
恐らく、樋渡利秋検事総長以下、特捜の現場の検事もみんな、そう思っていることでしょう。
内心では摘発のための“ハードル”を大きく下げたとわかっていながら、われわれは「国民の目線」で必要なことをしているのだ──という論理です。
でも、その言葉のウラには、彼らの密かな欲求が隠されている。一つは、検事たちの目立ちたいという個人的な欲求。もう一つが、摘発のハードルを極めて低くすることによって、検察の威信、検察の政治権力に対する影響力を増大させたいという組織的な欲求です。彼らは「国民の目線」という言葉で、これらの欲求を覆い隠しているんです。
郷原)これまでも検察の中では、小さな政治資金規正法違反事件などでも違法は違法なんだから片っ端から捕まえてしまえばいい──と思っていた人間はいたでしょう。でも、検察内でゴーサインが出なかった。なぜかというと、世の中がそれを許さないと思っていたからなんですね。
今回の事件は、そもそも政治資金規正法違反ではない、単なる捜査の“やり損ない”だったと思います。しかし、それでも、多少の批判はあっても、メディアは基本的に検察側についた。これは、検察にとって「うれしい誤算」だったのでしょう。
魚住)僕もかつて検察担当記者をやっていたから、記者の気持ちはある程度わかるんですが、“まっとうな感覚”というのは、検察担当の記者になった途端、ほとんど消えちゃうんですよね。
簡単に言うと、「ネタ」を取りたい、「特オチ(自社だけネタを落とすこと。特ダネの反意語)」は避けたいという気持ちで、ただひたすら当局からネタを取ることに全神経を集中させますから、ほかの神経はなくなってしまう。だから一般の人たちから見たら、非常におかしな論理がまかり通ってしまうのです。
郷原)例えば、産経新聞は、3月8日付紙面で「小沢氏、監督責任も」と報じました。法律上、政治団体代表者の責任は「選任及び監督」に過失がある場合で、会計責任者がダミーだった場合ぐらいしかありえないのに、「監督責任」だけで小沢氏を議員失職に追い込めるかのように報じている。しかも記事では、それを「捜査関係者」が言っていることになっている。
魚住) 基本的に各社が取材に行く検察幹部は、特捜部長、副部長、東京地検次席検事、検事正、高検検事長、高検次席検事、それから検事総長、次長検事といったところでしょうか。
僕の経験からいえば、ある時はおしゃべりな上層部がいて、またある時はおしゃべりな現場の検事がいる。僕らは、そういうところを見つけて情報を取るのが仕事です。それで当局と互いに情報交換しながら、お互いの利益をはかる。その中で、検事と記者の一体感が生まれるのです。
郷原)今回、メディアは検察を抑制できなかったどころか、検察の意向に利用された面があるんじゃないでしょうか。
大久保秘書の起訴を受けて、小沢代表が会見で改めて捜査の不当性を訴え、代表続投の意向を表明した直後の25日午前0時から翌朝にかけて、今度はNHKが「小沢代表秘書が虚偽記載を認める」という内容のニュースを流しました。これをきっかけに、多くの新聞、テレビが「大久保秘書が大筋で認める」などと続きましたが、27日、大久保秘書の弁護団はこの「自白」を真っ向から否定しています。しかし、こんな報道に接すればみんな、「秘書が認めているのに、なぜ小沢は辞めないのか」と思いますよね。
魚住)記者たちは、大事件が起きると毎日、続報を書かなくてはいけない。まさに正念場です。とにかく一歩でも半歩でもいいから他社に先駆けたいという気持ちなんです。
そんな中、恐らく検察幹部が、「カネの出所は西松だと認める供述をした」とにおわすようなことを言ったんでしょう。当然、記者は「それは自白したってことじゃないですか」と食いつきます。それで各社のニュースになったんだと思います。
郷原)現場で取材している記者の心理からすると、そうなるんでしょうが、メディアとしては絶対にそうならないようにしないといけない話ですよね。目の前にエサをぶら下げられて、パッと食いつく(笑い)。それがそのまま記事になるんだったら、必ず意図的な形で誘導されるようなことが起きる。メディアには、それに対する抑制が働かないのでしょうか。
魚住)これは断言できますが、働きません(笑い)。メディア自体にそういうことをやるなと言っても無理な構造なんです。なぜならば、各社が競争をしているからです。その競争といったら、大変なものです。記者一人ひとりの人生がかかっている。特に検察庁といえば、社会部記者たちにとっては最大の主戦場なんですよ。そこで特オチを連発したら、その人はその後、事件記者としてもう浮かばれない。大変なプレッシャーの中で取材をしているのです。
郷原)それは特捜検察も同じ構造です。(笑い)
初めて特捜部で勤務したときに、その評価がすべてを決めるんです。その後、特捜検事として何年か活躍して、検察の現場の中枢を上がっていけるかどうかが決まるのだから、本当にプレッシャーがかかってくる。
その状態で、「お前、こういう調書をとってこい。調書に署名させてこい」などと言われれば、「被疑者、参考人が言っていることを調書の内容にする」という当然のことが、組織の論理の中で「悪いヤツをやっつけるんだから、それぐらいのことはやってもいいんだ」という考え方になる。そのために、無理な取り調べをすることになる。従軍記者としての司法記者とまったく同じなんですよ。
魚住)まったく同じ心境の人間が霞が関の一角で“共同作業”を繰り広げる。戦時中、軍部と記者が一体化し、戦線が拡大していったのと同じです。だから、何でもアリなんですよ。
郷原)結局、世の中はそれでまわってきたし、両方でやっているわけですから検察もメディアも批判を受けない。いままでは、それが続いてきたんですね。
魚住) 二階俊博経産相側についても、各紙が「今週にも立件へ」などと報じましたが、結局、まだ立件に至っていない。あの種の記事は“書き得”なんです。検察は「やらない」ということは公的に言いませんから、ずーっと後になってやらなかったことがわかる。でも、その時はもう忘れられているから、セーフなんですよ(笑い)。「あの時はそういう状態だった」という言い訳も立つ。ただ、今回の特徴は、そのマスコミが予測した捜査の動きよりも、はるかに実際の捜査が進まなかったということです。
郷原)報道の10分の1も進んでないでしょうね。
魚住)マスコミは先へ先へと書きますから、だいたいこういう傾向にはなりますが、報道と捜査の進展がこれだけ落差があるのは珍しい。(笑い)
マスコミは「あっせん利得罪だ」「小沢代表までいく」「いや、次は二階経産相側だ」などと予測をし、それをにおわせる書き方をするわけですが、検察の捜査がそこまでいってない。今になってわかるのは、検察がずっとやっていたのは、小沢氏側の「悪性の証明」、つまり、政治資金規正法違反でなんとか公判維持するための材料集めで精いっぱいだった。
郷原) だから、私が大久保秘書の逮捕直後からずっと、そう言っていたじゃないですか。あっせん利得や談合による再逮捕はないと(笑い)。ところが、マスコミは「あっせん利得だ」と信じてね。胆沢ダム建設を巡る談合疑惑なども盛んに報道されましたが、ゼネコン間の談合があったとしても、3年以上前のことですべて時効です。
小沢代表元秘書で民主党の石川知裕衆院議員も、参考人というだけなのに「事情聴取へ」と大きく報じられました。それに対して、同じく元秘書で、次期総選挙で岩手4区の小沢代表への「刺客」となる高橋嘉信元衆院議員の「聴取」は小さな記事で終わった。
魚住) 記事の扱いの大きさについては、「現議員」と「元議員」の違いがありますが、それ以上に影響していることがある。おそらく高橋氏が検察に協力的な立場なのに対し、石川議員は小沢氏側で、彼を聴取することは事件の“拡大”が見込まれる──ということです。検察が「石川をやるよ」などと言えば、パクッと食いつきますよ。検察としては、それで小沢陣営にダメージを与えることができるし、うまくすれば大久保秘書の自白、あるいは小沢辞任までいけるかもしれない。それは、検察とマスコミの利益が一緒になっているんです。
郷原) そもそも違反になるかということに加えて、問題は、この事件の処罰価値です。名義の問題はあっても寄付の事実自体は収支報告書に書かれているので、収入総額に偽りはない。これでやれるんだったら、検察がその気になればほとんどの政治家を摘発できます。
魚住) 今回の事件の最大のポイントは、やはり政治と司法のバランスが大きく損なわれたという点です。かつては検察全体に、議会制民主主義の根本的な仕組み、つまり、総選挙で民意を問うて政権が決まるシステムに下手に手を突っ込んではいけないという常識があった。今回の事件を聞いたとき、検察をある程度知っている人間だったら誰もが、「なんで上層部が止めなかったのか?」と思ったはずです。
ところが、ブレーキはまったく利かなかった。これは恐ろしいことです。簡単に言うと、検察の承認なしには政権はできないということを、如実に示したわけです。
郷原) いままで日本の政治は、基本的に「55年体制」を引き継いでいて、自民党が政権を握っていることが前提のシステムでした。そこでの検察捜査は、言ってみれば「野党」の役割でした。「権力」に対する「反権力」ですね。だから、マスコミはその反権力を応援した。それに対して、政権側に配慮して、捜査を抑制してきたのが、検察上層部や法務省でした。
しかし、今回の事件は違います。政権を取ろうとしている野党第1党の党首側の摘発というのは、本当の意味で政治権力のバランスの中に検察が手を突っ込むことです。それは、民主主義全体にとって大変危険なことです。ところが、その抑制機能が法務省・検察・メディアのいずれにも働かなかった。
魚住)冷戦崩壊以降、検察は何でもアリになってしまいました。ライブドア事件(06年)では、当時の松尾邦弘検事総長が「事前規制型社会」から「事後制裁型社会」への転換を打ち出した。つまり、市場は市場に任せるという従来の常識から、今後は積極的に摘発に乗り出すことを宣言したのです。そして、その言葉どおり、それまで手をつけてこなかった「市場」に介入した検察が、今度は露骨に政治に介入してきた。
郷原)私は、今回の検察の動きが意図的・計画的な政治介入だったとは思いません。むしろ、誤算や「読み違い」が重なって、「失敗捜査」をしてしまったのでしょう。しかし、それに対してメディアからの批判も少なく、社会からそれほど批判されなかったということになると、それが「けがの功名」になって、今後は、意図的にこうした捜査が行われる危険すらあります。
魚住)まさに、02年に検察の裏金問題を暴露する直前に逮捕された三井環・元大阪高検公安部長の事件の「教訓」ですね。あんなに明白な“口封じ”だったのに、ほとんどの大手マスコミは何もできなかった。あのとき検察とメディアが一体化する構造がどんなに恐ろしいかは、強く感じました。メディアが検察を追認するやり方は、残念ながら、そのまま変わっていません。この「負の慣習」は、変えていかなければいけません。
<構成 週刊朝日編集部・鈴木 毅>
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