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「死に際に『当方滅亡』と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。」
☆ウィキペディア「太田道灌」の項→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%81%93%E7%81%8C
文明14年(1482年)、古河公方と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。
道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救った。「太田道灌状」で「山内家が武・上の両国を支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。
道灌の活躍によって主家扇谷上杉家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。
『永享記』は道灌が人心の離れた山内家に対して謀反を企てたと記している。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ定正に讒言したともある。これらの中傷に対して道灌は一切弁明しなかったが、『太田道灌状』で道灌は主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を和議の人質を名目として足利成氏に預けている。
文明18年7月26日(1486年8月25日)定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌はここで暗殺された。享年55。
『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。
後に『上杉定正消息』で定正は道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また、道灌が顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。
道灌暗殺の原因については、定正が力が強くなりすぎた道灌が自身にとって代わりかねない下剋上を恐れたとも、扇谷家の力を弱めるための顕定の画策に定正が乗ってしまったとも言われる。また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。
道灌暗殺により、道灌の子の資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人、地侍の多くが山内家へ走った。定正はたちまち苦境に陥ることになった。
翌長享元年(1487年)顕定と定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げる。
やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになる。
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