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(回答先: 日本が望んだ「密約」 対米依存外交の原点(毎日新聞) 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 5 月 05 日 15:10:52)
http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2009/05/05/20090505ddm010030135000c.html
アメリカよ・新ニッポン論:検証(その2) 沖縄返還交渉
■検証・沖縄返還交渉
◇有事の「核持ち込み」容認
沖縄返還(1972年)が正式合意された69年11月の日米首脳会談の初日。冒頭、ニクソン大統領と2人だけの会談を終え、愛知揆一外相らの待機する控室に戻ってきた佐藤栄作首相は、喜色満面で「B案で話がついた」と言った。外相も外務省の随員も首相が何を言っているのか理解できなかった。佐藤首相がポケットから紙を取り出した。「核抜き返還」に関する日米首脳の共同声明の案文だった。
外務省条約課長としてその場にいた中島敏次郎氏は「愛知外相は『これは何だ』となった。自分だけ知らなかったと思ったようだが、外務省も知らなかった。この案は誰が作ったものだという話になった」と証言する。中島氏が「B案」をチェックすると、外務省が作成した共同声明案と言い回しが微妙に異なり、手書きの書き込みがあったという。
沖縄の「核抜き」返還をめぐっては後に、佐藤首相の密使を務めた若泉敬・元京都産業大教授(故人)が、有事の際は非核三原則に反し、沖縄に核兵器の持ち込みを認める密約を、佐藤首相とニクソン大統領の首脳間で結んでいたことなどを明らかにしている。
若泉氏の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」によると、「A案」「B案」は若泉氏とキッシンジャー大統領補佐官が、密約について交渉している過程で浮上した複数の共同声明案で、首脳会談では「B案」で合意することも事前に打ち合わせ済みだった。
後に佐藤首相がノーベル平和賞を受賞したのは、「核抜き沖縄返還」の正式合意を達成した功績が理由の一つだったが、返還の実態は交渉の過程から「核付き」密約とセットだった。
外務省は、米国が核抜きでは返還に応じないとの見通しを持っていた。下田武三事務次官は67年2月に「日本国民が、米国が沖縄で自由に基地を使用することを支持するようになれば、返還を促進する」と発言。各紙は「核持ち込み容認が前提?」(毎日)などと報じた。
当時、米国はベトナム戦争の真っ最中。沖縄の在日米軍基地は、後方基地として極めて重要な位置を占めていた。沖縄から出撃した海兵隊は、ベトナムにおける米軍主力部隊の一つ。米国が沖縄の基地を、核兵器を含めて自由に使用する権利を手放すはずがない、という見方は根強かった。
愛知外相が就任した直後の68年12月、神奈川・箱根で沖縄返還についての外務省、防衛庁幹部らの勉強会が開かれた。愛知外相は「米国はベトナム戦争をやっているので、『核抜き』での返還には、日本として展望が開けない」と指摘。「核付き」返還協定の試案作成を指示したという。
◇中国向けだった「核の撤去」
佐藤首相は69年3月の参院予算委員会で、「核抜き」返還を表明する。しかし、その時点で日本政府に「核抜き」返還の確証があったわけではない。
佐藤首相の秘書官だった楠田実氏は、首脳会談直前の69年10月になっても政府内で「核抜き」返還の見通しをつけられず、保利茂官房長官、田中角栄自民党幹事長らが集まり、田中氏が「(核抜きが)うまくいかなかったら投げだそう(総辞職)。ジタバタするよりもいさぎよい。うまくいったら解散しよう」と言っていた秘話を伝えている。
だが、米国で公開された公文書によると、米国の国家安全保障会議は69年5月、すでに沖縄の核兵器について「緊急時の貯蔵と通過の権利を条件に核兵器の撤去を考慮する」とする政策文書を決定していた。
沖縄返還交渉当時、外務省条約課長だった栗山尚一氏は、在米大使館に勤務していた返還実現後の74年、米国防総省の担当者から「米国が沖縄からの核撤去をいつごろ判断したと思うか」と聞かれた。栗山氏が正直に「最後まで分からず心配だった」と答えると、相手は「実はだいぶ前から決めていた」と言って笑ったという。
「核抜き」は米側の譲歩ではなく、事前方針通りの妥結ラインを確保しただけだった。
佐藤首相の言動と思惑は複雑だ。「核抜き」を表明したのは、国内世論が「核付き」を容認しないとの政治判断からと見られる。一方で、佐藤首相は65年1月、ジョンソン米大統領との首脳会談に臨んだ際、「日本の国内感情とは違うが、中国が核武装するなら日本も核を持つべきだ」と発言。マクナマラ米国防長官との会談では、64年に行われた中国の核実験に関連し「(東西の冷戦状態が)戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と語っていた。
有事の際に沖縄に核持ち込みを認めた密約にかかわった若泉氏は、著書で自らの「責任は重い」と苦悩している。だが、佐藤首相の持論に沿えば、密約は日本に対する米国の核の傘を確保するためにこそ必要だったと言えるはずだ。
69年11月に「核抜き返還」に合意した共同声明案作りにかかわった中島敏次郎氏(当時条約課長)は、「核抜き」についての条項で「事前協議に関する米政府の立場を害することなく」という表現があることが、合意の要だと説明する。
佐藤首相は国会などで「核持ち込みは許さない」と答弁していた。しかし、中島氏によると、共同声明は有事の際の核持ち込みについて日本が事前協議をする、つまり核持ち込みを「初めからノーではない」と確認したことを意味し、一内閣の首脳の意思表明を上回る法的な約束になるという。
当時、沖縄に装備されていた核装備の中距離弾道ミサイルはメースBという旧式のタイプだった。また、潜水艦発射弾道ミサイルの進歩により、長距離爆撃機も含めた陸上配備の核兵器の重要性は低くなっていた。
表に出せば反発を受ける核の傘の実効性を確保したかったのは、米側より佐藤首相の側に、より強い動機があったと見られる。
「核抜き」問題を巡る日本国内の関心は、被爆国の反核感情と沖縄に対する本土のしょく罪感情が大半を占めていた。だが、米国にとって沖縄の核問題は、それと次元の異なるもっと大きな世界戦略のひとコマだった。
当時、米国は中ソ対立が深刻化している情勢をふまえ、中国との関係改善を視野に入れて動いていた。メースBは、実質上は中国向け。撤去は中国への重要なシグナルになる。米国が沖縄からの核撤去に踏み切ったのは、地上配備核の重要性低下以上に、国際政治のダイナミズムがもっと大きな理由だった。
返還交渉に外務省アメリカ局長としてかかわった吉野文六氏は「沖縄の核抜き返還は、キッシンジャー米国務長官が中国に対して色をつけた意味がある。頭がいいやり方だったが、当時、我々は全くそうとは意識していなかった」と振り返る。
米軍は「核抜き」返還の合意後、大っぴらにメースBの撤去作業を行い、日本の新聞でも写真が載った。その映像を日本世論向けとばかり思い込み、中国政府向けの重要なサインだったことを理解していなかった日本は、間もなくニクソン米大統領の電撃訪中宣言(71年7月)に「外務省最大の悪夢」と驚くことになる。
ニクソン・キッシンジャーが主導した米国外交は、世界中の外交課題を相互に連関(リンク)させながら進められていた。だが、対米依存志向が染みついていた日本は、世界を見ない自国中心主義から、「潜在敵」(中国)に対抗して「核の傘」(米国)に固執する固定的な発想から抜け出せず、米側の求めに先んじ自ら申し出て密約を結び、今日なお、その事実を公式には否定し続けている。
◆加藤紘一元自民党幹事長に聞く
◇最重要国だからこそ米を客観視すべきだ
日本の防衛政策には、二つの問題がある。
一つは独立国でありながら、外国軍が常駐していることで、その存在はいつかは解消しなければならない。そのためには、朝鮮半島の緊張を緩和しないといけない。
二つ目に、核の傘の下にいる。これを本気で議論すると、「一切の核を拒否する」という世論とは矛盾する。唯一の被爆国でありながら、核の傘の下にいないと安心できない。私は、国際政治で核が大きな働きをしていることは事実だから、核の傘は必要だと思う。
核兵器について、日米の話し合いはあまり行われていない。核兵器を持っていない日本は、核大国の米国と核について話すことに多少の遠慮を感じてしまう。米国は、核兵器を持つ緊張感と責任感を共有できていない国と話しても無駄と思うところもある。
だが、核のない社会を作るという意味では、日本にも発言力はある。唯一の被爆国ということだけではなく、核兵器を持とうと思えばいつでも持てる能力を持ちながら、持たないできた国の発言力を生かすべきだ。
日米同盟では、日本が海外で軍事展開をしないと決めていることを、米国に対し、もっと肯定的に言えなければダメだ。イラク戦争は、米大統領でさえ失敗だったと言っているのに、日本は米国を信じたことは間違いではなかったと、いまだに言っている。この戯画的な状況を放っておいてはいけない。
日米中の関係でも、正三角形の状況を作るべきだ。日米と日中が単純な等距離という意味ではなく、地理的、文化的には日中が近い、政治的価値観は日米が近い、経済的な関係は最近混沌(こんとん)としているが、こうした関係のすべてを含め、総合的、重層的に考えて正三角形であるべきだ。
米国も世界戦略を間違える。ウォール街も間違えた。だから、日本は自分の頭で世界戦略と国際金融を考えるべきだ。
米国は日本にとって最も重要な国だ。しかし、我々は客観的に米国を見る目が重要だ。国と国とはそれぞれ立場が違う。その距離感や心の中の客観性をきちんと持たないと、日本は米国からも意見を聞かれない国になってしまう。
◇沖縄密約事件は氷山の一角−−日本側の裏負担
1971年6月9日、パリの米大使館で、1週間後に迫った沖縄返還協定調印に向け、愛知揆一外相とロジャーズ米国務長官の大詰めの会談が行われた。会談に先立ち、8日行われた事務折衝は白熱した。
日本側の出席者は、吉野文六アメリカ局長、栗山尚一条約課長ら。米側は基地施設改善費について「地位協定を弾力的に解釈し、日本側が実質的に支出する形にしてほしい」と要求した。現在、吉野氏は密約を認め、栗山氏は否定しているが、8日の折衝で米側に「論理に合わない」(吉野氏)「地位協定をそのまま適用すべきだ」(栗山氏)と共に反論した点では証言は一致する。
地位協定24条は、施設・区域の提供以外の米軍の維持経費は原則として米国が負担するものと定めており、米国の要求は、協定から逸脱していた。
9日の日米外相会談のやり取りを報告する外務省の機密公電では、ロジャーズ長官が「リベラルな解釈を期待する」と述べ、愛知外相が「できる限りのリベラルな解釈をアシュア(保証)する」と答えたとされる。この公電が西山太吉毎日新聞記者(当時)の手に渡り「沖縄密約事件」につながった。
現在、複数の米公文書により、沖縄返還を巡っては日本側が、公表された額や内訳と異なる多くの財政負担をのんでいた事実が明らかになっている。「事件」で問題にされた密約は、全体から見れば氷山の一角に過ぎない。
栗山氏の前任の条約課長だった中島敏次郎氏は、現在「米国が死に物狂いのベトナム戦争をやっている最中に沖縄を返してもらうのに、しかつめらしく法律的に厳密なものでなければダメ、と言える状況でなかった」と打ち明ける。
表向きの日本側財政負担には核兵器撤去費7000万ドルが計上されていたが、「メースB(沖縄に配備されていた中距離核ミサイル)を撤去する費用なんて日本に分かるはずがない」(中島氏)。琉球大学の我部政明教授によると、米軍沖縄返還交渉チームが作成した報告書で、核兵器撤去費は500万ドルとされている。吉野氏は今日、7000万ドルの根拠を「核兵器撤去費が多ければ多いほど、日本の野党はますますこれで核は撤去されたと喜ぶから」と説明する。
当時、野党側は米軍が本当に沖縄から核兵器を撤去するか繰り返し追及していた。政府が7000万ドルという巨費を持ち出したのは国会対策だった。
中島氏の言う通り、米国に守ってもらっている日本は交渉上、弱い立場にあったにせよ、日本も「論理に合わない」支出に自覚的に便乗していた。「沖縄密約事件」は、氷山の一角に関心を集めることで、密約の全容を隠す効果をあげた。
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