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(回答先: 宮本顕治の息子は「麻生首相のブレーン」で前検事総長のお仲間 投稿者 日光仮面 日時 2009 年 4 月 18 日 16:33:17)
首相「安心社會見取り圖を」 實現會議が初會合−北海道新聞(政治)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/158842.html
首相「安心社會見取り圖を」 實現會議が初會合(04/14 00:54、04/14 08:55更新)
政府は十三日、社會保障や財政など中長期的な國家ビジヨンを檢討する有識者會議「安心社會實現會議」の初會合を首相官邸で開いた。六月に結論をまとめ、經濟財政運營の指針「骨太方針二〇〇九」に反映させる。
會議は、増田寛也前總務相、宮本太郎北大大學院法學研究科教授、藥害肝炎全國原告團の山口美智子代表、渡邊恆雄讀賣新聞グループ本社會長ら十五人で構成。坐長に電通最高顧問の成田豐氏を選び、政府からは麻生太郎首相、與謝野馨財務相らが出席した。
麻生首相は「日本が目指す安心社會の見取り圖と醫療、年金、雇傭などで優先するべき政策目標を示してほしい」とあひさつした。
出席者からは、社會保障分野で「政府、企業、家庭などの役割をもう一度見直すべきだ」、「將來世代へツケを殘してはならない」と云つた意見が出された。
次囘以降、年金や介護など社會保障制度に關する財源問題が主要テーマに成る見通し。社會保障費の削減や景氣恢復後の消費税引き上げなどに就いても議論する。
西園寺公一
出典: フリー百科事典『ウイキペデイア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%B8%80&oldid=24626549
來歴・人物
明治39年(1906年)11月1日、公爵西園寺家の嫡男としてb奈川縣に誕生。學習院を經たのち英吉利へ留學。昭和5年(1930年)、オツクスフオード大學を卒業した。
歸國後は外務省囑託職員、太平洋調査會理事などを歴任。近衞文麿のブレーンとして軍部の臺頭に反對し、對英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また「汪兆銘工作」にも參畫、「自立した新政權」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意嚮が強く反映された政權と成つた。
昭和15年(1940年)9月には再度外務省囑託職員と成り、對米戰爭囘避のための努力を行つた。此の時期、松岡洋右外相に同行して歐羅巴を訪問、ヒトラーやムツソリーニとも會つてゐる。昭和16年(1941年)7月には、内閣囑託に。近衞首相より、日米交渉に就いて、陸海軍の意見調整を圖る、と云ふ任務が與へられた。
同年10月、風見章が主催する晝食會の席上で、尾嵜秀實の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾嵜秀實とは共に近衞内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行つてゐたが、其れを「國家機密漏洩」であるとされて、懲役1年6箇月、執行猶豫2年の判決を受けた。此れを契機に、西園寺家の相續權を抛棄する事と成つた。
戰後は、新設プロ野球球團である「セネタース」(現在の北海道日本ハムフアイターズ)のオーナーを短期間務めた。參議院議員選舉に出馬して當選。昭和29年(1954年)には京都市長選舉に出馬して落選する。
昭和33年(1958年)には日本共産黨に入黨するも、のちに路線の對立を生じさせた結果、昭和42年(1967年)に除名處分と成る。其の直後に家族とともに中華人民共和國へ移住、日中文化交流協會常務理事等として北京にて國交正常化前の日中間の民間外交に先驅的役割を果たした。
一方、著しく支那共産黨寄りだつた姿勢や、言論人として責任を負はなかつた態度には批判が多い。文化大革命開始當初にいち早く此れを支持し、毛澤東・江青夫妻や林彪などを禮賛した。 また文革を疑問視する保守派政治家や言論人、臺灣關係者を非難する言動を繰り返してゐた。西園寺の言動は支那國内で文革の宣傳・煽動にも用ゐられた。然し昭和51年(1976年)の毛澤東の死後、文革が終結し、華國鋒によつて江青ほか四人組が逮捕されると態度を一變させた。 更に昭和56年(1981年)、江青らに死刑判決が下ると早速此れを支持し、江青を非難するに至つた。 當時の日本に於いては西園寺以外にも文革禮賛者が少なくなく、一定の理解者まで含めると相當數に及んだ。大半の者は言論責任を負ふことをしなかつたが、其の多くは口を閉ざし、或は論壇から退場していつた。然し西園寺は自身の不見識を棚に上げ、なほも支那共産黨に阿り、更に論壇にも居殘らうとする態度を取り續けた事から、保守派はもとより中立的な言論人からも嚴しい批判を受けた。「自己批判」を口にし乍ら「江青にだまされてゐた」等と言ひ譯に終始し、自分が何を間違へたのか檢證しやうともしない姿勢は批判者を呆れさせるほどであつた。
かつての文革禮賛者は其の後新興宗教やカルト的團體に接近する者が少なくなかつたが、西園寺も晩年は子息とともに創價學會に傾倒。入會こそしなかつたものの、外部の理解者の立場にあつた。 支那寄りの創價學會に賛同しなお影響力を誇示しようとしてゐたやうであるが、一方の創價學會にとつて、支那とのかかはりが深く名門の末裔でもある西園寺父子は組織の「權威附け」には重寶な人物であつた。
平成5年(1993年)4月22日、老衰のため86歳にて死去。
國民新聞(平成15年7月)「敗戰革命」實施の左翼は靖國の英靈に謝罪せよ 窪田孝司
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1507/1507011apologize.html
ゾルゲ・尾嵜秀實の仲間であつた西園寺公一も、晩年は中共の黨員で
あつた。
昭和49年後半と記憶するが、NHKテレビで西園寺が
「あの戰爭は俺達がやつたんだ」
とニヤニヤし乍ら語つてゐた事は、今も腦裏から離れない。腹立たしい事實である。
共産主義者の活動は、樣々に化ける忍者のやうに變幻自在なのである。其れを容易に
してゐるのが、祕密黨員とか僞裝轉嚮と云ふ仕組みであり、口頭や祕密文書による指令
である。日本を守る爲には、其れを見破る努力を怠つてはならないのである。
戰前戰中に「治安維持法」があつても、コミンテルン、共産主義者の「敗戰革命」
に、日本は敗れたのである。
宮本太郎
出典: フリー百科事典『ウイキペデイア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E&oldid=25332941
日本共産黨名譽役員であつた父の故宮本顯治と母の大森壽惠子との間に長男として生まれた。家庭教師に當時東京大學工學部の學生だつた志位和夫(現・日本共産黨幹部會委員長)を迎へてゐた事がある。2007年、父宮本顯治の密葬で喪主を務める。
其れと渡邉恆雄は僞裝轉嚮臭ひ。
恐らく此の狸は未だにバリバリの共産主義者であらう。
こいつ等は深く靜かにだが然し確實に、日本を破壞する敗戰革命を成就せんと
畫策してゐる筈である。
略歴では天皇制に嫌惡して共産黨に入黨したと成つてゐるが、
恐らく東京帝國大學時代に敗戰革命思想に共鳴したのであらう。
帝國大學新人會と云ふフリーメーソン組織があつたと云ふ。
渡邉恆雄
出典: フリー百科事典『ウイキペデイア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%81%92%E9%9B%84&oldid=25248044
略歴
1926年 現在の東京都杉竝區に生まれる
1939年 開成中學校に入學
1943年 東京高等學校に編入學。網野善彦、氏家齊一郎と知り合ふ
1945年 東京帝國大學文學部に入學。同年7月に陸軍砲兵聯隊に入營するも、終戰の2日前に除隊
1946年 天皇制への嫌惡から日本共産黨に入黨
1949年 東京大學を卒業して東京大學大學院に入學する
1950年 讀賣新聞に入社。週刊讀賣に配屬される。高校時代からの學友である氏家齊一郎を誘ふ
1952年 日本共産黨山村工作隊を取材するため奧多摩のアジトに潛入し、拘束される。無事解放されるが、此のとき隊のリーダーだつたのが、『生きる事の意味』の著者、高史明であつたと云ふ。此のスクープが認められて政治部に異動。
1954年 結婚。大野伴睦の番記者に。
1956年 中曾根康弘と知り合ふ
1958年 兒玉譽士夫と知り合ふ。初の著作『派閥』を上梓
1959年 中曾根康弘らと「サイエンテイフイツク・ポリテイクス研究會」を始め、6月には中曾根康弘の岸改造内閣への入閣に盡力
成甲書房刊
平成十五年(西暦二〇〇三年)二月二十日發行
渡邊悌治氏著
「猶太は日本に何をしたか―我が愛する子や孫に語り繼ぎ度い」
第五章 猶太の陰謀に踊らされた日本人達
帝國大學新人會
百七十四頁據り
帝國大學新人會
東亞聯盟を含む世界聯邦論とか世界國家論に於いても古くからフリーメイソン結社員に據つて主唱され、同時に其の實現の爲の努力もなされてもゐた。そして此れ等の人々は、自らを國際人と稱して、日本に於ける親英・親米のルートを形成し、猶太の世界支配の爲の機構を作り上げる手助けをして來たのであつた。
此のやうな世界機構を作り出す爲に、猶太が試みて來た方式には種々のものがあるが、其の主たるものとしては、羅馬教王の派遣する特使に據つて世界を統治しようとする基督教世界國家、世界の赤化による國際共産主義的世界統一機構、フリーメイソン組織と金權力とに據る世界共和國體制等も其の類ひである。
此の三つのものは、外延的にはおのおの異質のものであるやうに振る舞ひ乍ら、内包的には常に同一の精b的影響を與へ乍ら作用しあつて、國家の解體を策して來たところのものである。
日本に於いても、まづ姉埼正治・吉野作造・新渡戸稻造・小嵜弘道ら一聯の自賛國際人のフリーメイソン結社員らが、此の世界支配機構確立の運動に參畫し、更に魯迅を中核とする一聯の輩を加へ、其の運動の前衞と成る直接行動部隊としての戰士養成の爲、帝國大學内に新人會を作つたのである。
此の帝國大學新人會なるものが、實はフリーメイソン結社員達が、自らに代はつて戰つて呉れる前衞部隊を義成する爲に設置した機關であり、世界の富の全てを掌握しようとする猶太の戰士育成の爲のものであつた事實を鮮明にしておく事は、日本の社會運動史上の諸問題を理解するうへで、極めて重要な鍵と成る事を忘れてはならない。
スパイ・ゾルゲの同志であつた尾嵜秀實もまた新人會の徒であつた。尾嵜はペンネームを白川次郎とし、東京帝大時代に新人會に入つた。大森義太郎のブハーリン研究會に參加し、理論と實踐活動を通じて共産主義の信奉者と成つた。大正十五(一九二六)年五月、東京朝日新聞社に入社。ペンネームを草野源吉として日本勞働組合評議會關東出版勞働組合東京支部新聞班に加入、朝日新聞オルグと成つた。其の後三・一五事件でも檢舉を免れ、昭和三(一九二八)年十二月、特派員として上海に渡つてゐる。
當時、上海では共産主義的潮流が怒涛の如くであり、同文書院生・水野成(みずのしげる)、中西功(なかにしいさお)や他の中共關係者、更には左翼學生へと交際範圍を廣げた。王學文との交渉も其の一例である。スメドレーと會ひ、ジヨンソンの假名を用ゐてゐたゾルゲと接觸を持ち、集めうるかぎりの日本國内の情勢、日本の對支政策の現地實績を求められ、毎年一囘、南京路にある料亭やスメドレーの居室でジヨンソンと聯絡し、情報を提供、意見を述べてゐた。尾嵜がソルゲと云ふ名を知つたのは昭和十一(一九三六)年の九月、帝國ホテルでの太平洋間題調査會IPRの茶會で、蘭印代表からジヨンソンを獨逸新聞通信員ドクター・ゾルゲと紹介されてであつた。ソルゲは尾嵜を重用してゐたが、其れまでは名を祕してゐたのである。
尾嵜は情報に意見を附してゾルゲに聯絡してゐた。内閣の顧問に成り、最高機密を入手し、滿鐵の調査室の囑託ともなり、滿鐵の機密資料もゾルゲに手渡してゐたし、シベリアに於ける農畜産事情に僞報告を行なつて國の方針を誤らせる大事も行なつてゐる。上海にゐた頃は、中共黨員で叛帝同盟の地區責任者の楊柳青に昭和五年から七年の歸國まで月に二十元づつ、更に楊の活動資金として二十から三十元づつを提供してゐた。其れによつて尾嵜は中共黨員と同等の取扱ひを受けてゐたのである。
此れはフリーメイソンの前衞部隊である新人會の一員の行跡を提示したにすぎない。新人會の新人とは、フリーメイソンらが、祖先の靈統を捨てて「フリーメイソンとして新たに生まれ變はつた人」との意味である。國もなく、祖もなく、歴史も無き者を云ふ乎稱なのである。
終戰後の日本顛覆、すなはち革命は、親米・英フリーメイソン派と親ソ共産革命派との合作、詰り新人會によつて行なはれたものだと云へる。
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