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祝祭にはいつも次が待っている(三上治)
http://www.asyura2.com/09/senkyo58/msg/391.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 1 月 22 日 16:24:16: twUjz/PjYItws
 

(回答先: ソマリヤ沖に鬼退治にでも行くつもりなのか(?) 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 1 月 22 日 16:11:37)

http://9jyo.asia/index-6-47.html

論評

祝祭にはいつも次が待っている
三上 治

2009年1月21日

 映画やスポーツ番組で深夜までテレビを見ていることはあるが、それ以外ではひさしぶりだ。9月11日のテロ事件やアメリカのアフガニスタンやイラク戦争以来のことだろうか。オバマ大統領の就任式を見ていた。政治的な祝祭であり、アメリカ人の興奮はやはり大変なものだったのだろうが、僕の方は演説にさしたる迫力を感じなかった。同時通訳で聞いていることも多分にあるのだろう。好意的に感じたのは想像もしなかった場所にきてしまって戸惑っているような見えたところだ。自信よりはそのふるえのようなところに共感した。願わくば、過剰な自信ではなく、ふるえるこころを維持されんことを。

 テレビを見ながら、あれこれ考えていたのだけれど、僕の脳裏を去らなかったのはやはりアメリカの時代の終わり、ということだった。僕がここで言うアメリカの時代は第一次世界大戦後以降のことだが、あの時代にはじまったものだ。一言で言えば、新世界というアメリカ幻想だった。第一次世界大戦がヨーロッパに対する幻滅をもたらしたとしたら、その結果として出てきたのは新世界という幻想である。アメリカと革命のロシアとアジアの新興国日本がこの幻想を代表したのかも知れないが、日本の幻想は第二次世界大戦で、革命ロシアの幻想はベルリンの壁で消えた。そして、今、アメリカの幻想が消えて行こうとしているのだと、思う。

 オバマが演説の中で繰り返し、述べていた自由ということ、あるいはその強調はアメリカの幻想の終わりと深く関係しているのだと、思えてならなかった。
自由こそがアメリカの幻想の核にあったものであり、人々を魅了し、人々がどこかで信頼を寄せてきたものである。その自由と戦争(武力)と投機が切り離せないものであることを示したのがこの間の事態であるように思える。その意味ではブッシュは最もアメリカ的な大統領であったのではないか。

 オバマ大統領はこのアメリカの自由(自由=普遍)を越える普遍にいたる道を切り開くのか、その可能性はあるのか。自由の道ではなく、普遍の道。そんなことをテレビのアナウンサーの声の中で反芻していた。

■関連記事
http://9jyo.asia/index-6-45.html

年頭の所感って言うと大げさだが これも長めの論評
三上 治

2009年1月8日

 以前は年参りに近くの神社(松蔭神社)に出かけていたのだが、拝殿まで長い行列ができるようになったので最近は止めている。それでも、元旦にはお参りして、御神籤を引くのが恒例の行事みたいになっている。自然と神社に参っていたのだが、時折、人出の多さにこれはなんだろう、と考えることもある。友人が腹立たしいので「おめでとう」なんて年始の挨拶はしないと語っていたのに同感だったから今年は止めにするかと思ったが、つい出掛けてしまった。御神籤もさえなかったが、こういう年こそ何かいいことが起こるぞと自分で無理やり気分を盛り上げた。「空なる望み」でいい気になっているつもりはないが、さて、今年はどうなることやら(?)

多くの人に頂いた年賀の中で、「今の時代に有効な言葉なんてあるのだろうか」というのがとても印象的であった。勝手に引用させてもらって申し訳ないのだけれど、こういう思いはむかしからずうっとあった。だが、年々、深まって行くように思えてならない。だから、自然とこのことを考える機会も増える。ある時期はこのことを考えるたびに自己嫌悪が強くなって困ったこともあった。自己嫌悪に駆られて飲み、それでまた自己嫌悪が増すという悪循環から脱するのに大変だったこともある。これらのことをあれこれ考えていたのだけれど、久々に吉本隆明さんがテレビ(NHK教育)に出ると友達が知らせてくれたので、1時間30分の番組をかじりつくように観た。1月4日のことである。

 吉本さんの話は昨年の講演を収録し、編集したものだが何よりも吉本さんの顔がよかった。年を経ての顔は勲章のようなものであるというが、本当にそう思った。この講演は芸術言語にとっては沈黙こそが幹であり、根である、表現は枝や葉のようなものだ、というところからはじまった。これは講演を終始貫いていたものだった。吉本さんがここで芸術言語ということで話しているのは、芸術のための言語ということではなく、人間の存在にとって根源的な言葉ということであった。芸術は人間の存在のあり方を指す言葉であって俗にいう芸術のことではない。いうなら精神の営みとしての人間という意味である。以前に吉本さんが『言語にとって美とは何か』という本の中で、「他人との交通の欲望や必要から発生」してきた言葉ということに対して、「自己自身との交通の欲望や必要から発生した」という言葉を抽出していたのを想起した。この場合の他人とは個人に対する他者のことではなく、言葉(自己)から見られた他者(言葉を本質としない存在)のことである。別の言い方をすれば労働(仕事)を本質とする人間関係、あるいはそれを核にしてできる社会関係のことである。労働(仕事)を主体とする社会関係の中での交通の欲望や必要としてある言葉という意味である。これに対して自己自身との交通の欲望や必要というのは個人という意味の自己自身ではなく、精神の営みがそれ自体として交通の欲望や必要とすることである。言葉はだから二重の存在である。仕事を本質とする社会的関係の中での言葉であり、精神の営みを本質とする社会的関係の中の言葉である。言葉の本質はこの後者であるが。この言葉のあり方や人間存在にとっての意味は違う。ここで吉本さんが沈黙の言語といったのは精神の営みを本質とする世界での言葉のあり方である。精神の営みの自体性としての言葉のあり方を沈黙の言語といったのである。僕にとってこの言葉の二重性の指摘は人間の存在を理解する上でとても重要であった。例えば、これは人間が社会的存在であるというときに、この社会的ということは二重の意味があるというような理解に連なるものである。あるいは人間的というとき、その意味は二重にあるということに他ならない。これは観念論か唯物論かという枠組みを超えて、人間の存在を理解する導きの糸になった。

 僕は自分が吉本さん講演から若い日に示唆された社会や人間の理解の仕方(そうした概念のとらえ方)を想起していたのだけれど、僕らが時代として受け取っている言葉とは、このことから見てどうなのだろうということを考えてもいた。吉本さんの口から吐かれる言葉を追いながら、先ほどの「年賀の言葉」の「今の時代に有効な言葉なんて」ということと考えていた。人間の社会はその人間的なもの(自身に対象的になった労働と言語)を発生させたが、これは高度化して現在にいたっている。この発生から高度化にいたる過程は歴史とよばれる。現在という歴史の流れの中で、この二つの言葉を考えていた。

先ほどの年賀での言葉もこの言葉の存在に照らせば二重の問いかけになっているのだと思う。その一つはこれまで一般に使われてきた意味での社会的・政治的関係の中での言葉の現在についての問いかけである。仕事という日常の営みと社会の動向がどうなっていくのかを見極めていく言葉の問題である。そこで自分にとって指南力のある言葉を見出せないということが一つである。もう一つは精神の営みとしての中での言葉のことある。そこでは納得の行く言葉を見出せないということがあるのではないか。この二つにそって僕が考えていることを少し語ってみたい。

社会的関係の中での「有効な言葉」とはなんであろうか。それは先ほどの言葉で言えば「他者との交通の欲望や必要」を満たす言葉である。その言葉は指示性ということになる。この指示性は自分の日常から社会の動向までをさすことである。それは自己の日常と社会の全体性を像としてつかみながら、その動向を指示する言葉ということになるのだろうか。少し、格好をつけていえば、社会の動向を分析し構想する言葉であり、具体性から理念まで幅を持つ言葉である。この言葉の指示性ということは二つの面において困難性に直面しているように思う。この一つは社会の多様化である。多様化の中で社会は局地化度を進める、僕らが仕事などで日常的に存在する場所(存在する空間)は細分化され局地化する。経験的、場所的に生きることはそのような日常にあることだ。社会の全体像は得にくい。情報として全体像や動向を指示する言葉がないわけではない。自分の経験や場所からは想像超えたと思う事件などを出会だけでなく、他の領域としてある社会的な存在を包括した指示的言葉は得がたいのである。社会という像が自己の日常経験(場所的経験)を超えてあり、他者像を構成しにくいということであろうか。

それにもう一つ社会の流動というか流れが速く、全体像を捉えがたいということもある。僕らの社会的の言葉は社会の多様な層や場所への分化と流動化の流れによって歴史的流れを指示性として組み込むことが難しいのではないか。社会的な関係の中の言葉は日常的なものから、政治経済の動向を分析する抽象度を持った言葉まで多様なものとしてあるが、そこで言葉の有効性が問われることについてもう少し言及してみたい。僕はその一つに歴史段階ということがあると思う。前回の論評でアメリカ発の金融恐慌には世界的な生産と消費の不均衡という矛盾があることを指摘した。この不均衡はアメリカの過剰消費社会を可能とする、資金の還流や基軸通貨ドルという制度的矛盾と同時に、第二次産業経済の段階の社会的存在様式(生産と消費)の問題があることも指摘した。
どちらも歴史的な流れの中で考察可能なことだ。前者は社会的制度の矛盾とその止揚についての指示の問題である。資本主義制度の終末に近い段階の矛盾を露呈させたのが、金融投機経済の破綻である。ただ、この制度的矛盾を制度の変革として指示する言葉(構想やその展望を持った言葉)は提起しにくいことがある。この後者は生産(消費)の人類史的段階の問題であり、それが新しい段階に突入しながら、その輪郭は未だ見えずに混沌とした状況にあって、その像を描きにくいことがある。例えば、第二次産業経済を中心にした社会観(労働観)は近代的な社会観であり、第一次産業経済が中心の農本的な社会観(労働観)とは歴史段階的に区別される。農本的の社会観(労働観)でも、近代的社会観(労働観)でもないものが生まれる必然にありながら、それを人類史の次の段階として指示する言葉は生まれていない。現在はその過渡にあるように思える。他者と交通の欲望や必要を満たす有効な言葉が生まれるべくして生まれていないということになるのだと思う。資本制社会という制度の問題と人間と自然の相互関係の新しい歴史段階を指示言葉が困難という問題に僕らは直面しているのではないだろうか。

それなら、この言葉はどのように見えてくるのか。言葉の指示性をどのように獲得しえるのか。ここには経済的な物の動きと言葉の関係がある。これは社会が変わるとか、それが変革される動きが出てくるというとき、それは物的基盤において現われるのだが、その動きに対して指示性として言葉は対応する。この言葉が単なる知識や教養ではなく、実践的なものとしてある。言葉が変革に関わり、実践を促す言葉としてあるということだ。指示性は分析に基づく構想力としてあり、それが実践的であること、そこに社会的言葉の生きた力(能動性)がある。これが左翼的な社会言語観であった。知識や教養ではない言葉の物との関係であるが、この言葉の実践性について疑念が今生じているように思える。現実の社会の動きは激しいし、その動きは予想を超えて事態を生みだす。それは、社会の矛盾を露呈させ、社会が変わっていく道を裂け目として浮かび上がらせる。それに対して分析と構想でもって対応し、指示性としての機能を果たすべき言葉は実際は後追いしているだけではないかという思いがする。

社会を変革する力のことを構成的権力という言葉でいえば、この動きは自然発生的に、現在の空白を埋めるように登場するのであって、分析や構想という言葉が有効に機能して構成的権力は生まれない。理論的道具としての政治的言葉(分析や構想)は構成的権力の登場に関わるものとして期待されてきた。革命理論というのはこういう期待の言葉であった。それはいつだって「言ってみるだけ」というようにあるのではないか。革命理論は科学の理論として期待されたことはあったのだろうが、「それは言ってみるだけではないのか」。僕らが社会の中で有効な言葉が見出せないというように実感することはこのことからきているように思う。それならば、僕は何故、論評のような政治経済動向の分析や構想を続けようとするのだろうか。構成的権力の登場に対してさして有効な力にはならないと思いながら、このような作業を続けようとするのか。僕はこのような自問に対して有効な解答を持っているとは思っていないが、社会の動向に対して対象的になろうとする営為は必要であり、それを必要とすることがあるという思念を捨てられないためである。この思念はいわしの頭を信じるようなことかもしれないが、まだ自分には捨てられない。理論的分析と構想というやり方は手馴れているということに過ぎないが、その根底には僕らの社会的存在に対して対象的になろうとする人間的営為をどこか信じていて、捨てられないことがあるように思える。政治経済(社会)の動向に対して、分析と構想の提示は「言ってみるだけ」だけかもしれない。それは労働を本質とする社会のなかでの言葉の位置(機能)からやむを得ないことであるように思える。労働の総和による社会構成とその動きに対して指示性として関係することが言葉の意味や役割である。そして指示性は実践的であるが、その実践性は「言ってみるだけ」というようにしか存在しえないのではないか。それでもこういう形での対象的になろうとする営為は必要なのではないのか。「言葉が有効か」か、という問いかけに対する答えになっていると思えないが、さしあたって僕はこんな風に考えている。

 ところで、「今の時代に有効な言葉なんて」というとき、明らかにもう一つの問いかけがあるように思える。それは精神の営みとしての言葉の現在についての問いかけである。人間は精神的営みを人間的本質として持ってきたが、これは言語としての人間の活動であり、政治経済的な社会活動としてとは別に世界(領域)のように存在してきたのである。人間の精神的営みを精神的身体の生成というなら、この精神的身体の生誕から死滅への歴史を自己存在史として持ってきた。この生誕から死滅への過程は、生理的存在としての人間の生誕から死滅へとは別の軌跡を持つものだ。この精神的営みが精神的身体として生み出される秘密は、人間は自然の一部でありながら、動物と違って自然から疎外されてあるほかないためである。この自然から疎外される(自然に対象的になるほかない活動)は労働と言語としてある。労働は自然の人間的加工として出てくるが、自然との相互規定性の中にあるための制約を持つ。人間は自然の制約を超えるために労働を通してそれを加工し、自然を非有機的身体とする。労働を通した社会関係は制約された関係である。これに対して精神の営み(精神の身体)はそれに反省的になるものとして、つまり労働の自然との相互規定性から外れたものとして現われる。それが精神の身体が生成される理由である。労働の延長上にある身体は自然を加工したものであっても自然の制約の中にある。だから、精神の営みは人間的にはより本質的なものである。例えば、死について考えるとこのことはよく分かる。自然という制約の中での死は生理的な死であるが、精神の中における死はこれとは違う。そこでは死は生理的死ではなく、死を糧として考えること、人間的存在に対して対象的になることとして死の概念はある。死ということはどちらが本質的(人間的)か考えればこのことは明瞭である。労働は人間の避けられないものであるが、人間的なものの存在という意味では精神的営みはより本質的なものである。そしての精神的身体の形成は宗教や文学などの精神的営みを本質とするものの基盤となるが、その言語活動は労働の領域の活動にはあまり役には立たないのである。例えば、「芸術の革命」というのは人間の精神存在の革命であるが、社会革命のためには直接はあまり役に立たないのである。「革命の芸術」というのは政治社会的な革命運動に奉仕せんとするものであるが、精神存在の革命には役に立たない。政治社会的な運動に役立つとすれば指示性として理論であって、芸術ではない。

人間の精神的営みは精神的身体の生成としてあり、それは歴史的には発生段階から現在までの累積の中にある。この精神的なあるいは心の動きは生理的身体を台座とする個人的な精神的身体の生成史であると、同時に人類史的な生成史である。精神的身体を基盤とする精神や心の動きは、社会的諸関係からみれば役には立たない人間的活動であり、それを吉本さんは沈黙という言い方であらわしたのである。僕らは仕事という社会関係の外部で、個的な宇宙というようにこの世界を持っているのである。政治経済という社会とは別の社会が存在しているのである。沈黙の言語を基盤とする社会は、政治経済社会とはあたかも別の領域のようにあり、それは言うなら陸に対する海のようなものであり、そこでの存在様式(活動様式)は異なっているのである。

 僕らは経済社会の一員として社会の中にあり、そこでは仕事という活動をしながら生きているが、同時に精神的な営みによっても社会的存在となっている。僕らは精神的、あるいは心的活動を日常的にやっているのであるが、その精神的な動きは個々の精神的身体の活動であって、経済社会的な協業関係の中での活動ではないから、一見すると孤立した活動のようであるが、精神的な心の動きや活動は誰にでもあって、個別的でありながら全体としてつながっている。経済社会関係とはつながり方が違うのである。

言葉自身の身体性を吉本さんは表出という言葉で表していた。これは先ほどの指示性に対するものである。この領域で「今の時代に有効な言葉は」という疑念があるとすれば、それはどういうことであろうか。それは言葉の表出性に停滞感を持っていることだろうか。精神の身体の動きそのものに停滞感があるということでもいいのだろう。言葉が自己自身との交通の欲望や必要を感じているのにそれを満たしえないということであろうか。「もののあわれ」という人間が事物にであったときのこころの動きは、こころが動きの基底としてある。それらを基底にしながら、近代自我というような表出性が累積してきた、そのところで停滞があるのではないか。近代自我の解体ということは表出感覚の変化を根底にしているが、そこを超えていくことができずに、停滞感としてそれがある。例えば、軽い鬱の時代というのはそれを象徴している。久しぶりの吉本さんの講演に刺激されて。こんな論評になってしまった。

 

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