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GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 8 月 27 日 14:53:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 森鴎外は医者失格、科学者失格の無能人間だった 投稿者 中川隆 日時 2017 年 1 月 29 日 10:12:57)


GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://blogos.com/article/242547/?p=1



連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。


前線視察のため金浦飛行場に到着、米軍第24師団の兵士を閲兵するマッカーサー国連軍最高司令官(韓国/写真=時事通信フォト)


■仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。

しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。

1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。

直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

■「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。

この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。

一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。

10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。

“Where is Kim Buck Tooth?”

(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

■ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。

中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。

マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。

1948年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

■プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。

体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。

マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。

このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。

マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。

度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。
http://blogos.com/article/242547/?p=1  

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コメント
 
1. 中川隆[-6598] koaQ7Jey 2017年8月28日 07:50:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


2. 中川隆[-6597] koaQ7Jey 2017年8月28日 07:50:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html


3. 中川隆[-6560] koaQ7Jey 2017年8月30日 00:22:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


4. 中川隆[-6571] koaQ7Jey 2017年8月30日 08:20:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」

この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


5. 中川隆[-6554] koaQ7Jey 2017年8月31日 21:33:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。


6. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2018年12月09日 22:58:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21886] 報告
朝鮮戦争は八百長だった


ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!

7. 中川隆[-13802] koaQ7Jey 2018年12月14日 17:21:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22147] 報告


2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで


プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている

画像引用:https://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg

日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。




こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。

各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。

GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
http://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

8. 中川隆[-13218] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:45:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219] 報告

アホのマッカーサーはアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった


馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著


9. 中川隆[-9576] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:11:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2898] 報告
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

10. 中川隆[-13578] koaQ7Jey 2020年2月23日 17:54:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-92] 報告

2020年02月23日
日本国憲法は憲法違反という事実


マッカーサーは自分が大統領になりたいという野心のために日本を利用した。
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


日本国憲法の違法論争

ある種の人々に言わせると、戦後75年の平和は日本国憲法のお陰でもたらされたという。

日本国憲法の改正を巡って有識者が対立し、自衛隊や選挙が憲法違反かどうか、議論が白熱している。

ところが今から75年前、”新しい憲法”を憲法違反のゴリ押しによって、ある独裁者が日本人に押し付けた。





その独裁者は安倍首相の爺さんではなく、ダグラス・マッカーサーというアメリカ軍人でした。

マッカーサーは憲法の規定や議会の手続き、民主主義などを無視して「この憲法を成立させないともう一度空襲して日本人を滅亡させる」と言って成立させた。

日本国憲法改正には国民投票が必要だが、そもそも最初に国民投票なしで強要しました、


当然日本国内の有識者に「日本国憲法は憲法違反の違法な憲法だ」というマンガのような議論が巻き起こった。

だがマッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた。

『憲法学』は世界で日本にしか存在せず、学問として認められてもいないが、日本人はその事実を知らされていない。


誰も学校で「憲法学という学問は、違法な憲法を押し付けるためにアメリカが作りました」とは教わらないので、日本人だけが知らない。

1945年8月28日に帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーが降り立った。

9月2日には陸海軍解体を命令したが、むろん法的根拠は一切なかった。

独裁者マッカーサー

全ての新聞に内容の書き換え、発行停止、共産主義者を必ず雇用することなどを指示し、この時から日本の全新聞が「左翼新聞」になった。

「文化人」が一斉に日本や天皇、日本人などを罵倒し始めたのもこの時からで、現在も続けられています。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、警察解体、政治犯釈放、天皇を批判するよう新聞に命令したりもした。


東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が民主的でなく、憲法違反だから従わないとして総辞職しました。

マッカーサーはただの軍人に過ぎないのに、日本の独裁者として君臨し、我が物顔に振舞っていました。

日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。


後に判明した事は、この時マッカーサーは大統領選挙への出馬を狙っていて、「自分が日本を降伏させ統治した」という実績が欲しかったのです。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


マッカーサーの意向は日本人と天皇を『犯罪者』と定義し、帝国憲法を破棄する事だったのでした。

マッカーサーはアルバイト職員に、2月4日からの7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

国会議員や総理大臣が内容を知ったのは、3月7日の新聞を読んでからという有り様で、日本人は新聞に載ったのだから政府が作ったのだと思いました。


マッカーサーは日本政府や議会に無断で新憲法を新聞に掲載し、これを承認しろと迫った。
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引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/4a/40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204.jpg

違法な憲法に従う事はできない

この時全ての新聞はGHQの支配下にあり、検閲によって米軍が内容を決めていたのです。

またこの頃、NHKラジオは日本軍がいかに大陸で酷い戦争犯罪をやったかという放送を、連日朝から晩まで流していましたが、内容は全て作り話で、従軍慰安婦などもこの時でっち上げられました。

今でもNHKが一日中日本の悪口しか放送しないのは、この時のアメリカ軍の命令を今も守っているからです。


マッカーサーは「新憲法を承認するかもう一度戦争をするか」と迫り、5月の帝国議会で可決させました。

審議は一切行われず、もちろん国民投票もなかったが、自分が作った憲法では「改正には議会の3分の2の賛成と国民投票が必要」と勝手な事を書いた。

こんな憲法は無効だと日本の言論人や有識者は一斉に騒ぎ始めたので、適当な理由で片っ端から逮捕しました。


マッカーサーはさらに「新憲法を合法化しろ」と東京大学に要求し、東京大学は『憲法学』をでっち上げました。

帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。

だがマッカーサーから脅されたのか「日本はアメリカに降伏していない」「日本国民が天皇を倒して革命を起こし、新憲法を制定した」と言い出しました。


どこにもそんな事実はないが、そう言わないと宮澤教授は戦犯として極刑になるという事です。

東大の最高権威が合法だと言ったので、子分達も合法だといい始め、違憲論は鎮圧されました。

これが日本国憲法が成立した経緯であり、どこからどう見ても立派に「違法」で、これが合法ならヒトラーも立派に合法でしょう。


日本国憲法が合法だなどと言うのは、独裁者の無法行為を認め、民主主義を否定するという事です。

マッカーサーの野心は自分が大統領になる為に、日本を貶め利用する事で、原子爆弾や絨毯爆撃もそのために行いました。


憲法学という犯罪者の学問とともに、葬り去られるべきものです。
http://www.thutmosev.com/archives/64413173.html

11. 2021年4月13日 09:42:12 : 34i32T20cM : VjNnTnE1eGhXTzY=[15] 報告
GHQの「日本キリスト教化」政策
2020/09/17





日本を占領し、アメリカに都合の良いあらゆる政策を行ったGHQ。
憲法や安保ばかりが目立っているが、彼らが「日本をキリスト教化」しようと暗躍した事実はあまり知られていない。
敬虔なクリスチャンのマッカーサー元帥の指示のもと、アメリカ本国を巻き込んだキリスト教の大布教キャンペーンの全容を解説します。
12. 中川隆[-5780] koaQ7Jey 2021年4月13日 10:03:07 : 34i32T20cM : VjNnTnE1eGhXTzY=[20] 報告
【ゆっくり歴史解説】マッカーサーをマザコンにさせた毒親ピンキー
2020/08/09




アジアの最前線から日本を降伏させたマッカーサー元帥。
一時は大統領選に出馬するなど、アメリカでは英雄視されている人物。
GHQの最高司令官として、超法規的な措置で日本政府を言いなりにし、日本の戦後体制を作った張本人の一人です。
しかしながら、彼が幼少期から母親に植え付けられたマザコンと苦悩の生涯は、あまり知られていません。
今回はマッカーサーと母親のピンキーについて解説します。
13. 中川隆[-12957] koaQ7Jey 2022年8月09日 16:23:43 : sQqtduSLQ2 : RmxRbXM5Q1k0WW8=[5] 報告
2022年08月08日
支那と米国は裏で繋がっているのかも?! / 戦前から続く赤い絆
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html

米支共通の敵だった日本

John Paton Davies center & Mao & ZhouPhilip Jaffe & Owen Lattimore & Agnes Smedley
(左 : ジョン・デイヴィスと親しくなる周恩来と毛沢東 / 右 : 支那大陸に赴いたフィリップ・ヤッフェとオーエン・ラティモア)

  日本の保守派言論人というのは、目の前の事件に振り回されるばかりで、世界政治を歴史的に鳥瞰することはない。つい最近、テレビや新聞では下院議長のナンシー・ペロシが台湾を訪問したことで、ちょっとした政治騒動になっていた。だが、大局的に観れば大したことじゃないだろう。一部の政治評論家やジャーナリストは、「台湾を巡って米支の熱い対決が起こるのでは?」と心配しているが、合衆国海軍が本腰を入れる大規模な軍事衝突にはならないだろう。おそらく“プロレス”のような“喧嘩”程度じゃないのか。

  令和の小学生や中学生は知らないと思うが、1973年11月5日、「狂える虎」との異名を持つインド人レスラー、タイガー・ジェット・シンは、倍賞美津子と一緒のアントニオ猪木を新宿の伊勢丹前で発見し、猪木夫人に罵声を浴びせル暴挙に出た。猪木にライバル心を燃やすインド人レスラーは、いきなり猪木を襲撃したというが、両者の乱闘は警察沙汰にはならなかった。(良い子のみんなは、お爺ちゃんかお父さんに当時の話を訊いてね。昔は、夜9時台のテレ朝で放映されたほど大人気だった。ちなみに、報道番組のアンカーマンをしていた古舘伊知郎は、元々プロレス中継のアナウンサーであった。)

  たぶん、新宿の警察署も「ヤラセ」と判っていたのだろう。この喧嘩は無料のTV宣伝になったらしい。だいたい、街中で乱闘騒ぎを起こした「猛虎」が、宿泊先の京王プラザ・ホテルに帰ると、仔猫のように“おとなしかった”なんておかしいじゃないか。警官の方も馬鹿らしくなったと思う。そう言えば、シンは試合のリングに現れた時、いつも愛用のサーベルを持っていたけど、それを使って猪木や藤波辰巳、坂口征二を刺すことはなく、グリップの部分で叩くだけだった。試合の無い時は、猪木とシンは結構仲良しだったというから、日本のプロレスは微笑ましい。

  脱線したので話を戻す。大東亜戦争の前から、日本は既に米国の仮想敵国だった。共産主義に好意的なフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)大統領は、西歐列強の支那進出くらいは容認できても、東洋の異国である日本が満洲支配を握り、支那大陸での権益を拡大する事には我慢がならなかった。彼が日本人を嫌い、銭ゲバの支那人を好んだのは祖父(Warren Delano)からの伝統だろう。(尚、デラノ家の闇歴史に関しては、「James Bradley, The China Mirage, New York : Little, Brown and Company, 2015」の第1章が詳しい。)


Warren Delano 001Sara Delano & FDR 009932FDR 4432FDR & James Roosevelt & Sara
( 左 : ウォーレン・デラノ / サラ・デラノ / フランクリン・D・ローズヴェルト / 右 : 父のジェイムズと母のサラ、息子のフランクリン)

  また、以前にも紹介したように、大富豪のロックフェラー家が財団を通して支那大陸に食指を伸ばしていた。つまり、4億ないし6億の人口を擁する支那は、涎(よだれ)が出るほどの巨大市場であったから、アメリカのエスタブリッシュメントは何としても支那を独占したかったようである。(註 : FDRの母親サラ・デラノはウォーレン・デラノで、フランクリンの祖父は「Russel & Company」に雇われた密輸業者であった。彼は冒険商人のように支那大陸で阿片貿易に携わっていたという。一時は財産を失ったものの、ウォーレンは香港で財産を築き、戦争省の医薬部局に阿片を納入していたそうだ。)

  ローズヴェルト政権は真珠湾攻撃を画策して大東亜戦争を引き起こしたが、「敵の敵は味方」ということで、合衆国政府は日本軍と対峙する国民党軍を支援した。重慶の蒋介石には二人の強力な参謀が附いており、その一人が支那・ビルマ・インド・ルートの戦線で総司令官を務めていたジョセフ・スティルウェル(Joseph Warren Stilwell)大将である。もう一人は「フライング・タイガース」を率いていたことで有名な陸軍航空隊のクレア・シェノールト(Claire Lee Chennault)少将であった。共産党に敗れた蒋介石と一緒に台湾へ逃れたシェノールト少将は、戦争終結を機に軍を退き、民間航空会社を創設する。そして、1946年、彼は最初の妻であるネル・トンプソン(Nell Thompson)と離婚した。ちょっとビックリするけど、二人の間には8人の子供ができていたというから凄い。これじゃ「猛虎」はなく「種馬」みたいだ。

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( 左 : ジョセフ・スティルウェル / 中央 : 蒋介石と宋美齢と一緒のスティルウェル / 右 : クレア・シェノールト )

  英国系アメリカ人の妻と別れたシェノールト少将は、これまた鰥(やもめ)の中年男らしく、赴任先の支那で現地妻を娶ることにした。彼は「アンナ(Anna)」と呼ばれる陳香梅という支那人と再婚し、二人の子供をもうけた。(夫が54歳で妻は22歳。) この新妻は元々通信社に勤めるプロパガンダ記者であったが、やはり単なる平民じゃない。彼女は結構、裕福な家庭に生まれた御嬢様。「アンナ」の父親である陳應榮は外政官で、メキシコの領事をしていたらしい。上流階級の支那人は老獪で利益に目敏く、子供達には西歐の教育を授けたりする。彼も客家のように国際的であったから、娘を香港の学校に入れて英語を習わせることにした。ところが、西洋の勉強をしていた香梅は、日本軍の進撃によって香港を逃げ出す破目に。

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( 左 : 陳香梅とシェノールト少将 / 右 : 子供をもうけたシェノールト夫妻)

  年の離れた亭主と結婚すれば、若い女房は早めの未亡人になりやすい。23歳も年上だったから、シェノールト少将は1958年に他界する。夫を亡くした陳香梅は、専業主婦で終わる気など更々無く、米国に移住してチャイナ・ロビーの活動家となった。如何にも在米の支那人らしいが、この通訳未亡人は、反共主義の共和党に目を附け、大統領候補になったバリー・ゴールドウォーターを支援すべく、彼の資金集めに奔走したそうだ。反共のユダヤ人と銭ゲバの支那人がタッグを組むなんてゾッとするが、冷戦時代には民族を超えたイデオロギーで異民族が結束することもあったし、狡猾な民族は共通の利益で悪党になることもある。

  外国での諜報活動と謀略戦ともなれば、OSS(戦略情報局)や国務省の役人が黙っちゃいない。心理戦の尖兵となれば、モスクワ本店に忠誠を誓う赤レンジャーや桃レンジャーの出番となる。丁度、その頃、米国本土から軍事顧問団の『ディキシー・ミッション(Dixie Mission / U.S. Army Observatopn Group)』が延安に派遣されたので、OSSは身内の局員を米国代表団に潜り込ませようと謀った。派遣隊長となったのは陸軍のデイヴィッド・バーレット(David Dean Barrett) 大佐で、彼のもとには数名のOSS要員が送り込まれていた。その中でも卓越していたのは、国務省から選抜された「三人のジョン」と呼ばれた役人達だ。支那通のジョン・S・サーヴィス(John Stewart Service)に、同類のジョン・P・デイヴィス(John Paton Davies, Jr.)、そして日本通のジョン・K・エマソン(John Kenneth Emmerson)という面々である。

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(左 : デイヴィッド・バーレット大佐と若き周恩来 / 右 : バーレット大佐と若き毛沢東)

  支那研究者の間で有名なジョン・サーヴィスは、1903年に四川省の成都で生まれた。支那で育ったから当然なんだけど、彼は7歳で支那語をマスターし、上海のアメリカン・スクールに通ったそうだ。15歳になるとアメリカへ帰国し、カルフォルニア州の高校を卒業する。進学先はオハイオ州にあるオーベリン大学であった。その後、外政官の試験に受かって、雲南省の昆明にある領事館に勤めたという。

  5歳下のジョン・デイヴィスも四川省で生まれている。彼の両親はパプティスト教会の宣教師で、少年時代を支那の田舎で過ごした。アメリカ人の子供がいない僻地なら、現地語が上手になるのも当然だ。後に「チャイナ・ハンド」と呼ばれるデイヴィスは、米国のウィスコンシン大学に入るが、その途中で北京に赴き、燕京大学で1年ほど勉強したという。しかし、卒業したのは編入先のコロンゴア大学だった。まぁ、さすがに難解な漢字を使っての論文は書けまい。

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(左 : ジョン・S・サーヴィス / 中央 : ジョン・P・デイヴィス / 右 : ジョン・K・エマソン )

  一方、日本語が達者なエマソンは、日本じゃなくコロラド州のキャノン・シテイー生まれ。学んだ大学もフランスのソルボンヌやコロラド、ニューヨークの大学だ。1932年に外政官の試験を受け、見事合格するが、不運なことに世界恐慌のせいで外政官の募集が無かった。しかし、1935年の秋、国務省から採用の知らせが届いたのでワシントンに赴くことに。だが、そこでは国内の勤務か異国での海外赴任かを迫られたそうだ。当時、国務省は東アジアの専門家を欲しがっていたので、支那語か日本語を選ぶ役人が求められていた。そこで、エマソンは日本語を選ぶ。英語とは似ても似つかない言語を選んだ動機には、ハリーという伯父の影響があったらしい。少年時代のエマソンは、伯父が持ち帰った極東の珍しい話や写真に興味を持ったそうだ。若くて希望に満ちたエマソンは、極東の日本で冒険的な生活をして見ようと思ったらしい。(ジョン・エマーソン『嵐のなかの外交官』宮地健次郎 訳、朝日新聞社、1979年、 pp.2-3.)

  ところが、エマソンは日本にやって来ると、いきなり「二・二六事件」に遭遇して当惑する。それから後に支那へと派遣され、対日工作の任務を命じられたそうだ。重慶から延安へ向かったエマソンが面会を求めたのは、「岡野進」という偽名を使っていた野坂参三である。令和の高校生だと野坂の名前を聞いても判らず、「誰それ? 吉本のお笑い藝人?」と尋ねてしまうが、この共産主義者はコミンテルン日本支部(俗に言う「日本共産党」)で第一書記となり、名誉議長にもなった大物だ。しかし、晩年になるとソ連のスパイだったことが発覚し、1992年に共産党から除名処分を受けてしまった。一部の知識人はもっと懐疑的で、「米国や支那のスパイも兼ねていたのでは?」と思われている。まぁ、野坂のような狡賢い奴なら、自分の利益を考えて二重・三重の裏切者になってももおかしくはない。

  日本の敗戦後、ジョン・エマソンは再び日本へ派遣され、ダグラス・マッカーサー元帥の政治顧問となった。エマソンは支那大陸にいた時から、既に戦後処理の方針に着手していたそうだ。彼は重慶の頼家橋(らいかきょう)にいた鹿地亘(かじ・わたる)に会いに行き、「米国に協力する意思があるのか?」と尋ねた。というのも、鹿地はプロパガンダ作戦で使えそうな「駒」であったからだ。彼は治安維持法で検挙された共産党員であった。牢獄の中で思想転向したものの、その本質には変わりがなく、釈放後に武漢へ渡り、重慶で「日本人反戦同盟」を作っていたという。ただし、彼は「籠の中の鳥」状態。一応、鹿地研究室を与えられていたが、実質的には載笠(たいりゅう)による半隔離状態に陥っていた。

  日本語を流暢に話すエマソンは、鹿地に向かって日本軍に対する宣伝工作を語り、その協力者になってはくれないか、と頼んだらしい。話を聞いた鹿地は納得したのか、「同じ目的なら協力を拒む理由はありません」と答えたそうだ。プロパガンダ作戦を担当するOSSの第三部門は、日本の文字で書かれた新聞を作りたかったようで、依頼に応じた鹿地は米国から派遣された日系人志願兵等と一緒に働いていた。しかし、米軍のキャノン機関とへ移された時、彼と米軍の相違が明らかになってきた。朝鮮戦争を迎えた米軍は、北鮮に対する後方攪乱を求めていたが、野望に燃えた鹿地は「祖国革命工作」に専念したかったようだ。(大森実『赤旗とGHQ』講談社、昭和56年、 p.47.) 後に、彼は自殺を図り、沖縄の知念に移された。晩年の鹿地は日本で執筆活動に励み、1982年に亡くなっている。

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(左 : 鹿地亘 / 中央 : 支那での鹿地 / 右 : 野坂参三 )

  もう一人、エマソンが協力者にしたかったのは野坂参三である。エマソンは日本の天皇制をどうしたらいいのか、野坂に意見を求めたという。「日本革命の三段階論」を説いた野坂は、意外なことに、終戦に伴う天皇制の廃止に反対した。なぜなら、日本の人民はまだ、天皇制廃止に伴う心の準備ができていないからだ。野坂曰く、急激な天皇制打倒は得策ではないという。

  しかし、野坂は無条件に天皇制を認めた訳じゃなく、標的に対するアプローチを述べていた。

 (1) 天皇に代表権を全く持たせないこと。これは連合国側の直接軍政を意味し、天皇の全権能を停止すると共に、皇族を軟禁することを意味する。天皇の主権は否定しないが、事実上の植民地化にする。
 (2) 天皇の代表権能は認めるが、天皇を軟禁状態にする。これは天皇の名を用いて軍政を進める方法だ。
 (3) 天皇や皇族を軟禁し、連合軍の軍政下における責任を天皇に課す。(上掲書、 p.38.)

  共産党の戦略を体現する野坂は、「天皇制廃絶」の方針に反対していたが、だからといって皇室を擁護したり温存する気持ちは微塵も無かった。コミュニストどもは表面上、「民衆政治と平和祈願」を口にするが、その本音は相も変わらず君主政の撲滅にある。ただ、日本国民の大多数が配線にもかかわらず天皇陛下を敬愛し、皇室の存続を熱望しているから、もし占領軍が無理矢理にでも廃絶しようとすれば、いつ何時、激昂した民衆が暴動を起こしてもおかしくはない。それなら、徐々に天皇の権能を削ぎ落とし、実権の無い「お飾り」にした方が悧巧である。野坂は「天皇制打倒」というスローガンを掲げることで、旧来の支配層を刺戟し、支配階級と庶民が再び天皇のもとで結束するんじゃないか、と恐れていた。

  かつて会田雄次先生がぼやいたように、我が国は米国によって「嬲(なぶ)り殺し」の目に遭ってしまった。しかし、対日戦争は八月の停戦で終わらず、国民精神を改造するという静かな攻撃が続いていた。日本が永続的に米国の属州になるよう工作したのは、主に深紅やピンクの左翼分子であったけど、それを裏から操っていたのは、軍服を身に纏ったニューディーラーの一団であった。これはトルーマン政権の狙いなのか、それとも単なる嫌がらせなのか、日本に派遣された法律家や行政官の多くは、アメリカでも毛嫌いされるような劣悪な人物ばかり。つまり、アメリカで拒絶される左翼思想を日本で実現させたいと望む連中であった。これなら、日本人に対するロボトミー(脳内改造)が陰湿だったのも当然だ。

  以前紹介したように、占領軍にはチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)やセオドア・コーエン(Theodore Cohen)とった赤いユダヤ人に加え、ローズヴェルト大統領に共感する革新派や人権派が数多く潜んでいた。仕置き憲法の中に結婚条項をネジ込んだベアテ・シロダ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)も、褌よりも赤い極左であった。彼女は戦前、日本に流れ込んだ根無し草のユダヤ人。これまた、ベアテの上司もゴリゴリの人権派で、ピーター・ロウスト(Pieter Kornelis Roest)中佐はネーデルラント出身の左翼リベラル派であった。

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( 左 : チャールズ・ケーディス / ベアテ・シロダ・ゴードン /ピーター・ロウスト / 右 : ロベール・ギラン)

  公式的には特定の思想に組みしていないと表明するエマソンも、本音ではニューディール政策の共鳴者で、米国共産党(CPUSA)に属していないが、共産主義に好意的なリベラル派であった。しかも、彼は日本国内の共産主義者達を釈放する方針に前向きなんだから、どんな人物なのか普通の国民でも解るだろう。在日フランスにも共産党に親近感を抱く左翼がいた。『ル・モンド(Le Monde)』から東京に派遣された記者、ロベール・ギラン(Robert Guillain)はエマソンよりも一足先に府中刑務所を訪れ、徳田や志賀と会っていた。ギランには後れを取ったが、エマソンも日本の悪党に興味を抱き、政治顧問となっていたジョン・サーヴィスやカナダ人外政官のハーバート・ノーマン(Egaeron Herbert Norman)を伴って府中刑務所を訪ねることにした。彼らは徳田球一や志賀義雄、そして朝鮮人の金天海と面会し、日本共産党の過去や未来について事情聴取を行ったそうだ。エマソンによれば、徳田と志賀は、訪れたコーエンを完全に「味方」だと思っていたらしい。やはり、隠れ共産主義者のユダヤ人には同類の臭いが漂っていたのだろう。

Herbert Norman 111(左 / ハーバート・ノーマン)

  ちなみに、このハーバート・ノーマンは限りなくコミュニストに近い人物であった。彼は軽井沢で生まれ、17歳くらいまで日本で過ごしていたから、日本語や日本人の生活に関して詳しかったようだ。その後はケンブリッジ大学やハーバード大学に入り、歴史学を勉強したそうだが、再び日本に戻ることになった。彼は東京にあるカナダ大使館に務めていたが、公務の傍らでちょいと東京帝國大学に立ち寄ることがあると、あの羽仁五郎を教師にして日本史を学んでいたという。しかも、その交際相手が凄い。例えば、マルキストの英文学者たる中野好夫、フランクフルト学派の政治学者になっていた丸山眞男、日本の國體を憎む憲法学者の鈴木安蔵などである。さらに、ノーマンの親友というのが、これまた凄く、左翼の巣窟たる一橋大学で経済学を教えていた都留重人。もう聞いただけで目眩がしそうになるが、ノーノマンは反共主義者のチャールズ・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)少将に目を附けられ、ジワジワと窮地に陥るようになった。1958年、ノーマンはソ連のスパイじゃないかと疑われ自殺を遂げる。こんな奴を持ち上げた加藤周一と工藤美代子は頭がおかしい。

  我々日本人が第二次世界大戦を学ぶ時、必ず頭に浮かぶのは「自由主義を掲げるデモクラシー陣営vs独裁政治で世界征服を目論む全体主義陣営」という図式である。しかし、これは常識的に考えれば間違いだ。むしろ、「共産主義のソ連を守る英米vs共産主義と闘う独伊」といった構図にすれば解りやすい。米国は支那大陸でも共産党の味方で、ソ連軍や八路軍と戦う日本を打ちのめした。しかも、戦後はジョージ・ケナン(George F. Kennan)の「封じ込め政策」に従って、ソ連を攻撃せず、核大国になるよう見守っていた。もちろん、米軍の正常な将兵や本国の一般人は、共産主義なんておぞましくて、とても決して容認できない。ステイルウェル将軍達は仕方なく蒋介石を支援していたが、本音では毛沢東や周恩来といった共産主義者を味方にしたかったそうだ。

George Kennan 1133Philip Jaffe 324Frederick Vanderbilt Field 1121
( 左 : ジョージ・ケナン / 中央 : フィリップ・ヤッフェ / 右 : フレデリック・ヴァンダービルト・フィールド )

  普通のアメリカ人とは違って、エマソンやサーヴィス、デイヴィスらは、毛沢東が民衆主義者に見えたようで、共産党への支援を本国の政府にそれとなく説いていた。それもそのはずで、彼らは思想的に共産主義のシンパ。特に、ジョン・サーヴィスは「アメラシア事件」でFBIに疑われた過去を持つから、この役人が国務省の赤い同志と連携していても不思議じゃない。この『アメラシア(Amerasia)』というは、ユダヤ人コミュニストのフィリップ・ヤッフェ(Philip Jacob Jaffe)とフレデリック・ヴァンダービルト・フィールド(Frederick Vanderbilt Field)が創刊した雑誌である。そして、これまたソ連贔屓のエドワード・カーター(Edward Clark Carter)が副主幹を務めており、共産主義者の巣窟となっていた。

  ちなみに、このカーターは「太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations / IPR)」の研究者でもあった。また、ヤッフェの相棒となっていたフィールドは、アメリカの名門財閥であるヴァンダービルト家の出身者である。日本の赤い華族と同じで、フレデリックは共産主義に惹かれる上流階級のリムジン・リベラルであった。一方、ヤッフェはロシア帝國生まれのユダヤ移民の息子だ。1915年には「米国社会党(Socialist Party of America)」に入り、図々しくも彼は1923年にアメリカ国籍を取っていた。

Andrew Roth 77342(左 / アンドリュー・ロス )

  支那贔屓のジョン・サーヴィスが、ソ連贔屓のヤッフェと知り合ったのは、元IPR研究員だったアンドリュー・ロス(Andrew Roth)の仲介によるものだった。このロスはハンガリー系ユダヤ人の両親から生まれ、左翼の牙城であるコロンビア大学で東歐史と支那語を学んでいた。卒業後、彼は合衆国海軍諜報局の極東担当者になったが、その親ソ連的な思考は拭いがたく、反共主義者のFBIのエドガー・フーヴァー長官に怪しまれ、スパイ容疑を掛けられてしまう。だが、狡猾なロスはフーヴァー長官の嫌疑を掻い潜り、英国で活動するジャーナリストに鞍替えだ。彼は世界的に有名な主流メディア、例えば「ガーディアン」紙とか「インディペンデント」紙に寄稿していた。一般の日本人は気づかないが、歐米のマスコミには正体を隠すユダヤ人がウジャウジャいる。

  戦後、OSSの局員が『アメラシア』のNY事務所をガサ入れし、編集部に連なるジョン・サーヴィスやアンドリュー・ロス、マーク・ゲインなどを検挙する快挙があった。検察側は容共色の強い『アメラシア』が、合衆国政府の内部資料や機密文書をソ連に流したんじゃないか、と疑っていたのだ。(M. Stanton Evans, Blacklisted By History : The Untold Story of Senator Joe McCarthy and His Fight Against America's Enemies, New York : Crown Forum, 2007, p. 113.) しかし、サーヴィスらは有罪とされず、起訴は証拠不充分で却下されてしまった。もし、ジョン・サーヴィスがソ連に通じる赤色スパイと判明したら、少なくとも国家機密をソ連に渡す人物ということでブラックリストに載っていたら、米国の対支那政策は違ったものになっていただろう。

Andrew Roth 8832Mark Gayn 546stanton Evans 222
( 左 : ジャーナリストに転向したアンドリュー・ロス / 中央 : マーク・ゲイン / 右 : メドフォード・スタントン・エヴァンス )

  ちなみに、『ニッポン日記』で有名なマーク・ゲイン(Mark Gayn)は、ユダヤ人の赤色ジャーナリストで、本名は「ジュリリアス・ギンズバーグ(Julius Ginsberg)」という。日本人読者層には、著者の素性に無徳着という人が多い。実際、ゲインの著書は知っていても、彼の血統を知っている者は少なかった。米国の左翼に関しては上記で紹介したメドフォード・スタントン・エヴァンス(Medford Stanton Evans)の本が詳しく、アメリカの政治思想に興味のある人は是非とも読むべきだ。

  エヴァンスの著書は日本人にとっても非常に有益なんだが、なぜか大手の出版社から和訳されず、彼の経歴すらも紹介されることはない。彼はルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ(Ludwig von Mises)のもとで経済学を学び、保守派雑誌の『National Review』や『Human Events』に記事を投稿する知識人であった。彼は若い頃から保守的活動に勤しみ、「自由アメリカ青年(Young Americans for Freedom / YAF)」という政治サークルに属し、1970年代には「米国保守同盟(American Conservative Union)」の会長を務めていた。YAFの集会は、よくウィリアム・バックリー(William Buckley, Jr.)の家で開かれ、この団体には若き日(1960年代)のロナルド・レーガンも属していた。

Ludwig von Mises 002William Buckley 552Ronald Reagan 213Evans Carlson 213
(左 : ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ / ウィリアム・バックリー / ロナルド・レーガン / 右 : エヴァンス・カールソン)

  脱線したので話を戻す。不思議なことに、アメリカは共産主義を「敵」と見なしていたのに、なぜか政府の対支那政策では蒋介石の国民党を見限り、毛沢東の共産党に支配権を譲っていたのだ。本来なら、重慶の国民党を支援し、劣勢にあった八路軍を叩くべきだろう。ところが、重慶にいるジョセフ・スティルウェル将軍や彼のスタッフ達は、国民党よりも共産党の方が優れていると述べていた。シェノールト少将によれば、将軍の取り巻き連中は大っぴらに共産党を褒め称えていた、というのだ。確かに、スティルウェルとジョン・デイヴィスは1938年以来の友人であったし、漢口にいた海兵隊のエヴァンス・カールソン(Evans Carlson)大尉も共産主義者に好意的であった。そして、ジョセフ・マッカーシー議員によれば、スティルウェルとカールソンは極東の戦争において、共産主義者から英雄扱いされていたそうだ。(ジョセフ・マッカーシー『共産中国はアメリカがつくった』本原俊裕 訳、成甲書房、2005年、p.121.)

  確かに、合衆国政府へもたらされる支那情報というのは、支那大陸に派遣された国務省やOSSの赤色分子からの報告であったし、本国の省庁や大学にも共産主義のシンパが至る所に潜んでいた。支那やソ連の宣伝係となっていたのは、『大地の娘(Daughter of Earth)』や『支那赤軍の行進(China's Red Army Marches)』を執筆したジャーナリストのアグネス・スメドレー(Agnes Smedley)や、『支那の赤い星(Red Star Over China)』で有名になったエドガー・スノー(Edgar Snow)である。彼ら以前だと、支那で宣教活動をしていた作家のパール・バック(Pearl Buch)だ。彼女も支那人の本質を判っていながら、本国のアメリカ人を欺き、支那人に有利な偽情報を教会の仲間に送っていた。

Agnes Smedley 2324Edgar Snow 435Pearl Buch 111
(左 : アグネス・スメドレー / 中央 : エドガー・スノー / 右 : パール・バック )

  アメリカの行政機構にも多くの赤色分子が跋扈しており、有名なのは国務省のアルジャー・ヒス(Alger Hiss)で、「米国共産党」に属していたというから呆れる。彼はソ連諜報機関(GRU)のエージェントになっていた。重慶の延安派には、ジョン・サーヴィスやジョン・エマーソン・ジョン・デイヴィスらに続いて、支那学者のジョン・フェアバンク(John King Fairbank)が加わることになった。こんな連中が「専門家」となっていれば、米国の支那政策が毛沢東に傾いても当然だ。このフェアバンク博士も容共主義者で、IPRと繋がる左派の知識人であった。こんな光景を目にすれば、誰だって「アメリカのチャイナ・ハンドは共産党の応援団なのか?」と言いたくなる。

Alger Hiss 9921John King Fairbank 001Joseph McCarthy 088
( 左 : アルジャー・ヒス / 中央 : ジョン・フェアバンク / 右 : ジョセフ・マッカーシー)

  日本ではアカデミック界の大御所みたいに扱われているが、フェアバンクはマッカーシー議員からも目を附けられ、共産主義者のエージェントではないかと疑われていた。(Leonard H. D. Gordon and Sidney Chang, 'John K. Fairbank and His Critics in the Republic of China', The Journal of Asian Studies, Vol. 30, Issue 1, 1970, p.139) さらに、このフェアバンクは支那の歴史や言語に関する知識も疑われており、漢字だって300語くらいしか読めないんじゃないか、と疑われている。(上掲論文、p.146.)

  支那学の専門家として知られるオーエン・ラティモア(Owen Lattimore)も非公式の共産主義者で、これまたIPRの一味だった。国務省には他にも赤色分子がいて、ラティモアと繋がる外政官、ジョン・カーター・ヴィンセント(John Carter Vincent)も要注意人物だったが、それよりも深刻なのは、トルーマン政権で国務長官になったジョージ・マーシャル(George C. Marshall)将軍やディーン・アチソン(Dean G. Acheson)が容共主義の大御所であったことだ。特に、マッカーシー上院議員は支那を共産化したマーシャル長官を激しく批判していた。

Owen Lattimore 11John Carter Vincent 21George C Marshall 8832Dean Acheson 4
(左 : オーエン・ラティモア / ジョン・カーター・ヴィンセント / ジョージ・マーシャル / 右 : ディーン・アチソン )

  話を戻す。普通のアメリカ人なら到底信じられないが、ジョン・サーヴィスの現地報告書は明らかに“支那寄り”であった。毛沢東と会談したサーヴィスの見解を要約すると以下の通り。

 (1) 支那と米国の人民は、共に民主的で個人主義的だ。両国民とも元来、平和を愛し、非攻撃的、非帝国主義的である。それゆえ、相互理解が可能である。

 (2) 支那は経済発展を望むが、それを達成するための資金や技術を独自に調達できない。だから、アメリカには経済支援をしてもらいたいし、アメリカは支那の経済発展を助ける最も適した国家だ。将来、支那が重工業国家になっても、アメリカの競合国になることはないし、今のところ、支那は人民の生活水準を上げることに精一杯であるから、高度工業国家であるアメリカの敵になることはない。

 (3) 支那人口の4億5千万のうち3億6千万人は農民だから、支那はこれからも長期間に亙って農業国であり続けるだろう。

 (4) 国民党は人民の声を無視している。国民党は内戦の構想を持っており、それは国民党の自殺を意味する。米国は蒋介石の実態を解っていない。蒋介石は米国の力だけに頼っている。もし、アメリカがその支援を止めれば、人民からの支持が無い蒋介石は瀕死の状態隣、国民党は崩壊してしまうだろう。
(『赤旗とGHQ』pp.37-38.)

  こんな報告書はガセネタどころか、悪質な偽情報である。支那人が平和の愛好者なんて大笑いだ。もし、サーヴィスが「毒蝮は入れ歯だから危険じゃない」と言ったら、国務省のアメリカ人は彼を信じるのか? 旧約聖書の創世記ではヘビがイヴを唆したが、現実の世界では支那人がルシファー(悪魔)を手玉に取るくらいの詐欺師となっている。しかも、アメリカ人を歓迎する毛沢東は、インテリ風のマルクス・レーニン主義者ではなく、秦の始皇帝を何倍も残酷にした20世紀の独裁者でしかない。理知的な知識人に見えた周恩来だって、一皮剝けば伝統的な支那人の策士だ。周が温厚な紳士を演じていたのは、毛沢東の狂暴性を熟知していたからで、「この男だけには刃向かってはならない !」と解っていたのだろう。笑顔の毛主席が、急に冷酷な表情に変わった時の瞬間ほど恐ろしいものはない。

Mao Zedong 1111Zhou Enlai 88132Mao & Zhou 222
(左 : 支配者となった毛沢東 / 中央 : 主席の右腕となった周恩来 / 右 : 長征時代の毛と周 )

  とにかく、ジョン・サーヴィスは明らかにアグネス・スメドレーやエドガー・スノーと同じ赤いムジナである。もちろん、アメリカの一般国民や正常な軍人は、共産主義の拡大に反対していたが、ローズヴェルト路線に共感するニューディーラーや財界の大御所、CFRのようなシンクタンクの知識人などは、密かに「赤い支那」を望んでいたのだろう。それゆえ、田中角栄や竹下亘たちが、せっせと日本の税金を北京に貢いでも、これといった折檻は無かったし、「お咎め無し」という処分が罷り通っていたのだ。

  これはちょっと過去を振り返れば判るだろう。例えば、東芝はイチャモンとも思える「ココム違反」で袋叩きに遭った。本当に東芝の技術で、ソ連の潜水艦の音が消えたのか? 一方、田中派や創政会の連中は大っぴらに私腹を肥やし、加藤紘一や中曾根康弘も支那利権で幅を利かせていた。支那利権を巡っては米国でも同じで、民衆党や共和党の区別は無い。政治家のパトロンであるウォール街の旦那衆は、常に支那のマーケットを念頭に置いていた。ネルソン・ロックフェラーの子飼いであるヘンリー・キッシンジャーは毛沢東と密約を結んだし、実質的な「駐支那大使(Head of U.S. Liaison Office)」を務めていたジョージ・H・W・ブッシュも、将来性のある支那との関係を損ねないよう気を配っていた。だから、ブッシュ大統領は天安門事件の後、小姓の宮澤喜一首相を使って関係修復に努めたのだろう。徴兵逃れの宮澤が天皇陛下を江沢民に売り渡したのも、ワシントンからの「OK」サインがあったからだ。いきなりブッシュが訪問すれば、米国の世論が沸騰するから、属州の日本を使って事態の改善を図った方が「お得」という訳である。

Henry Kissinger & Zhou Enlai 223George Bush in China 111
(左 : 周恩来と ヘンリー・キッシンジャー / 右 : 支那に赴任したジョージ・H・W・ブッシュ夫妻 )

  アメリカは形式上、共産主義国の支那と対立する。だが、テーブルの下ではしっかりと脚を絡めて愛情を確かめ合っている。たとえ、台湾周辺で軍事衝突が起こっても、それがエスカレートして大規模な戦争、あるいは核攻撃にまで発展することはない。たぶん、バイデン政権は台湾海峡で波を高くして日本人の恐怖心を煽り、高価な米国産兵器を売りつける魂胆なのかも知れない。とにかく、日本の保守派知識人は人民解放軍の侵掠に騒いでいるけど、案外これは米支共同のプロレス・イベントなのかも知れないぞ。

  次回に続く。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html

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