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天才が老害になるまで ヘンリー・フォードの場合
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/743.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 7 月 28 日 06:23:17: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 森鴎外は医者失格、科学者失格の無能人間だった 投稿者 中川隆 日時 2017 年 1 月 29 日 10:12:57)


天才が老害になるまで ヘンリー・フォードの場合

フォードが作った最初の車、技術者として冴えていたのはこの後10年くらいで、後は他人の邪魔をしただけだった。
引用:https://i.guim.co.uk/img/static/sys-images/Guardian/Pix/pictures/2013/7/31/1375288810231/f75a5594-2105-4143-a9d4-5e0ba0701d93-2060x1682.jpeg?w=700&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=d8cb0122a0d51680b0f7605979669eda

デトロイトの天才少年

フォードの創業者ヘンリー・フォード1世は20世紀で最も偉大な実業家として知られている。

T型フォードで世界初の量産自動車を販売しただけでなく、大量生産や消費者も作り出した。

フォード以前には手工芸的な機械しか存在せず、またフォード以前に「消費者」は存在しなかった。



ヘンリー・フォードは天才技術者として華々しく登場したが、最後はもっとも有害で無能な経営者として世を去った。

80歳のときフォード社長に復帰したが、喜ぶものは誰もおらず、83歳で無くなった時、多くの人が実際にはほっとした。

フォード社の人達は、これでもう仕事を邪魔される事が無く、会社が倒産する事もないと考えていた。


フォード1世はミシガン州の田舎で農家の長男として生まれ、父親はやっと手に入れた農場を、息子が継ぐのを希望していた。

父のウィリアム・フォードはアイルランドで食いっぱぐれた貧困小作農で、ジャガイモが不作で破綻したアイルランドからアメリカに移住した。

持っていたのは大工道具一式だけだったが、アメリカには大工仕事が山のようにあり、数年で自分の家や自分の農場を買う事が出来た。


フォード1世は子供の頃から機械いじりが得意で、近所中の時計を分解しては組み立てて修理したりしていた。

農場の仕事を嫌って都会のデトロイトに出てきて、いくつかの機械関係の仕事を経た後に、自動車をつくる事にした。

最初の自動車会社を設立したのは36歳のとき、デトロイト自動車会社で最初の自動車を作ったが、パッとせずすぐ解散した。

ヘンリー・フォードの時代

38歳の時に再びヘンリー・フォード・カンパニーを創業したが会社を去り、40歳のときに紆余曲折を経てフォードモーターを創設している。

フォードの経営が安定するまで少なくとも2回創業に失敗し、資金難からの経営危機にも見舞われていた。

フォードは自動車メーカーが無数に現われたデトロイトでチャンピオンになったが、この頃行われるようになった自動車レースが大きな役割を果たした。


レースによって人々は見た目とか大きさではなく、始めて「性能」で自動車を比較するようになり、フォードが作った車は当時の世界記録を連発した。

フォード1世はピストンから自動車を手作りした訳ではなく、自動車製造に必要な技術が既にデトロイトには存在した。

馬車が普及していたので初期の自動車の車体は馬車そのもので、金属加工や皮細工、腕の良い大工職人なども多く居た。


蒸気機関も既に存在したので、後にガソリンエンジンで必要になるエンジン部品の加工技術もあった。

ガソリンエンジンは蒸気機関よりも小型で高回転なので、より精密な加工技術が必要だったが原理は大して違わなかった。

デトロイトはアメリカの東西を結ぶ交通の要衝で、自動車の需要があり、この土地で自動車産業が生まれる要素が揃っていた。


フォード1世が45歳の時に最初の量産自動車「T型フォード」を発売し、これが世界史を変えるほどの産業革命を起こした。

T型フォードは最初非常に高価だったが、流れ作業やベルトコンベアなど量産技術を導入し、低価格化が進んだ。

T型フォードは1908年に825ドルで発売されたが、1917年には360ドルまで値下げされた。


この間にフォード労働者の賃金は日給2ドルから6ドルに上昇し、最後には60日間分の賃金でT型フォードが買えるようになっていた。

現代では日給1万5千円の労働者なら、約60日間分の賃金で一番安い軽自動車を買えるが、そのような時代がアメリカでは100年前に到来していた。

この大量生産と豊かな消費者が生み出す経済力によって、アメリカは超大国になり、第一次・第二次大戦も物量と豊かさで圧倒する事になる。


このころ日本人の9割が農民で、牛や馬を持っていればマシな方、人力で田畑を耕して蒸気鉄道がやっと普及しようとしていました。

天才から老害へ

フォード1世はT型フォードの生産方法を改善する事に尽くし、溶けた鉄から製品まで最初1ヶ月掛かっていたが、最後は4日になった。

熟練工1人が最初から最後まで製造していたのを、100人が100の行程で単純作業するようにし、素人でもできるようにした。

販売台数は爆発的に増加し、1914年に47万台を販売し、T型フォードトータルでは1500万台も売れ、世界で販売される自動車の半分にも達したと言われている。


ただしフォード1世はT型フォードを自分の分身か芸術品のように扱い、いかなる改良や変更も一切認めなかった。

1912年にフォード1世が欧州旅行に出かけた隙に、フォード幹部はこっそり改良を施した。

車体を少し長くしたり、乗り心地を良くしてユーザーに答えたもので、きっとフォードが喜ぶだろうと考えていた。


改良型を見せられたフォード1世は無言のままハンマーで車をバラバラに破壊し、飽き足らずに改良した幹部と技術者をクビにした。

燃料装置を改良してパワーを上げた改良型を開発した幹部も居て、ある日フォード1世にそれを見せた。

フォード1世はエンジン出力を下げるよう命令し、その幹部も後にクビになった。


やがてフォード1世はT型フォードを自分自身と見做すようになり、どんな変更や改良も自分自身への否定と考えるようになった。

ある日黒一色だった色を追加しようと提案され、「もちろんいいとも、ただし黒に限る」と答えたとされている。

こうしてT型フォードは最初から最後のモデルまで何も改良される事なく、自動車業界の盟主の地位をGMに明け渡した。


フォード1世は社長を退いて息子のエドセルが継いだが、実質的にフォード1世が社長のままであり、81歳まで独裁者であり続けた.

晩年までフォード1世は自分が作り上げたフォード社への、あらゆる変更や改革を禁止し、盾つくものは追い出していった。

フォード1世の偏狭さのお陰でライバルのGMは世界一になり、2度とフォードが世界一の座を取り戻す事はできなかった。


そしてフォードや米自動車業界は、70年代のオイルショックや2000年代のリーマンショックでも、同じような失敗を繰り返す事になる。
http://www.thutmosev.com/archives/71879618.html


ヘンリー・フォード(2) 語られない後半生 家族にも疎まれた

ヘンリー・フォード1世(右)は自分以外の人間を無能扱いし、特に息子のエドセル(左)を虐めの対象にしていた
引用:http://www.hindustantimes.com/rf/image_size_960x540/HT/p2/2017/05/23/Pictures/henry-ford-edsel-ford_6b36887c-3f7c-11e7-a718-97a052f84fc6.jpg

若き優れた指導者

優れた指導者には若い頃、優れた指導者だった人と、年取って優れた指導者になる人の2種類が居る。

一生涯優れた指導者なら申し分ないが、そのような人はまず現れません。

フォード創業者のヘンリー・フォード1世は若き指導者の典型で、新しい時代を切り開きました。
       
フォード1世がなくなってから、良く在る事だが故人の悪口を言うのは憚られるようになり、偉大な人物としてのみ歴史に残っている。

だが天才技術者が経営者になり、会社が大成功を収めた瞬間から、周囲に害悪を撒き散らすようになっていた。

1863年に農場の子供として生まれ、農場を継ぐのを嫌って16歳でデトロイトに出て、機械技術者としていくつもの会社で働いた。


電球を発明したエジソンの会社でも働き、当時としては破格の給料を貰い、自動車生産のアイディアを話したところエジソンの賛同を得た。

それからいくつかの自動車会社を興しては潰し、1903年40歳でフォードの前身になるフォード・モーター・カンパニーが設立された。

1908年10月に世界初の量産自動車、T型フォードを発売し、当時もっとも高性能で最も安い自動車として大成功を収めた。


他のメーカーが金持ち相手の高級車だったのに対し、フォードは「農民が買える自動車」を目指して低価格化を進めた。

また自動車生産は労働者を豊かにしなくてはならないと言って、工場労働者に破格の高額給料を支給した。

それを可能にしたのはフォードが考案した分業による大量生産で、熟練職人が10日以上掛けていた工程を、素人が数時間で出来るようにした。

新しい時代に馴染めなかったフォード

こうしてフォード1世は50歳までに全米でもっとも優れた指導者、最大の富豪になったが、称賛されたのはここまでだった。

1916年にはフォードの工場労働者は働いた給料で自動車を買えるようになっていたが、フォード1世自身がこうした「資本主義」に適応できなかった。

彼は次第に労働者や会社の重役、技術者などを憎むようになり、自身の作品であるT型フォードだけを愛するようになった。


T型フォードは1908年に登場してから1927年に販売終了するまで、改良もモデルチェンジもされなかった。

エンジンとか発電機とかサスペンションとか、何であれヘンリー・フォード1世が作ったものを変更する事は許されなかった。

改良を加えたT型フォードをフォード1世に見せた重役や技術者は、例え創業時からの盟友であっても解雇された。


解雇の仕方も普通ではなく、フォード1世は会社の中で門番とか警備員だけを信頼し、「腕っ節」の良いゴロツキを周囲に配置した。

ある日創業以来の功労者であるクーリックという技術者が、守衛に呼ばれてT型フォードのステップに乗ると、守衛は車を走らせて門の外に放り出した。

それがフォード1世の解雇のやり方で、荷物を取りに入ることも許されず、幹部であっても人間扱いしなかった。


工場労働者にたいしては「機械のほうがましだ」と言って限界まで働かせるようになり、労働条件はどんどん悪くなっていった。

ある年は労働者1人を雇うのに10倍の数を雇ったと記録されていて、10人中9人は定着せずやめていった。

1929年にアメリカは大恐慌に見舞われてフォード社も打撃を受けたが、フォード1世は「不況がもっと長く続けば良い」と発言した。

誰とも意思疎通できなくなった

不況が短すぎて「あの怠け者の労働者どもが心を入れ替えないから」だと言うのだった。

フォードの工場内ではフォード1世お気に入りの守衛たちが巡回し、「怠け者ども」を殴りつけて働かせる仕事をしていた。

当時のアメリカではまだ、労働者を殴って働かせるのは普通の事で、文句を言ってくればまた殴るだけだった。


フォードの工場はわずか数年で、全米でもっとも評判のいい工場から、全米最悪の労働条件になっていた。

フォード1世は自社の労働者を「くずども」とか「うすのろども」「怠け者ども」と呼び、重役や幹部であっても同じだった。

フォード社の中でただ1人フォード1世に意見を言っても解雇されなかったのが息子のエドセル・フォードだったが、「ダメ人間」呼ばわりされていた。


フォード1世のやり方は陰湿で、ライバル同士を争わせ、どちらかが絶望したり敗者になるのを見て「くずども」を眺めては楽しんだ。

息子に対しても同じで、エドセルに新しいプロジェクトを任せて、希望に満ちて取り組むのを眺めた後で、それを取り上げた。

そうして息子や有能な技術者が絶望するのを見ては、「くずども」が落胆するのを笑うのであった。


ライバルのGMが登場し6気筒エンジンとか新型サスペンション、新型変速機などを次々に実用化したが、フォード1世は絶対に許さなかった。

あるとき息子は父に6気筒エンジンを採用するよう説得したが、フォード1世は素人に説明するように「エンジンというものは4気筒でなくては機能しない」と話して聞かせた。

フォード1世が言わんとしたのは、お前は何も分かっていない赤ちゃんなのだ、という事であった。

家族にも憎まれた晩年

それでも息子達はとても熱心なので、6気筒エンジンの開発を許す事にし、エドセルらは心血を注いで新型エンジンを完成させた。

次にフォード1世は息子と技術者たちが開発した6気筒エンジンをベルトコンベヤに乗せ、スクラップとして潰させた。

こういう事がフォード1世のやり方だったので、有能で向上心のある人は全員フォードからGMに移っていった。


60歳になったヘンリー・フォード1世と意思疎通できる人間は、息子を含めて1人も居なかったが、それでいてフォード社の独裁者で在り続けた。

フォード1世が特に嫌ったのが会社の経理担当者で「あんなものは労働ではない」「労働とは汗水流して働くものだ」が口癖だった。

フォード社では社長の妨害によって経理の仕事ができないので、伝票を1枚1枚めくっては仕分けするという、旧来の方式を「社長に隠れて」こっそり行っていた。


年に何度か経理部門の部屋にフォード1世と守衛達が入っていて、「この”クズども”を今すぐ全員解雇しろ」と怒鳴るのが恒例行事だった。

こんな具合だったのでフォード社では今会社がどうなっているのか、幹部ですら詳細を把握していなかった。

フォード社を救ったのは第一次大戦と第二次大戦で、デタラメ経営だったのに軍需によって膨大な利益を得る事が出来た。


フォード1世は第二次世界大戦を信じようとせず、誰かの捏造だと信じていたらしい。

息子のエドセルは父による虐めがもとで、1943年に父より早くなくなったが、その時フォード1世は「エドセルを虐めた奴は誰だ」と怒り狂ったという。

もはやすべてが狂っていて、重役達は早くフォード1世がこの世を去ってほしいと願うだけだった。


1945年に家族の反乱によって社長の座を追われ、1947年に83歳でなくなった。

50歳頃までは優れた経営者であり優れた技術者だったが、後半30年はただただ他人を罵って、足を引っ張っただけだった。

そして死ぬ事によって最後の醜い30年間は無かったことになり、美しかった50年間だけが伝記などに書き残された。
http://www.thutmosev.com/archives/71932687.html  

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コメント
1. 2020年8月03日 16:25:51 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[14] 報告

2020年08月03日
天才が凡夫になるまで ヘンリー・フォードの場合

フォードが作った最初の車、技術者として冴えていたのはこの後10年くらいだった。


デトロイトの天才少年

フォードの創業者ヘンリー・フォード1世は20世紀で最も偉大な実業家として知られている。

T型フォードで世界初の量産自動車を販売しただけでなく、大量生産や消費者も作り出した。

フォード以前には手工芸的な機械しか存在せず、またフォード以前に「消費者」は存在しなかった。


ヘンリー・フォードは天才技術者として華々しく登場したが、最後は凡庸な経営者として世を去った。

80歳のときフォード社長に復帰したが、喜ぶものは誰もおらず、83歳で無くなった時、多くの人が実際にはほっとした。

フォード社の人達は、これでもう仕事を邪魔される事が無く、会社が倒産する事もないと考えていた。


フォード1世はミシガン州の田舎で農家の長男として生まれ、父親はやっと手に入れた農場を、息子が継ぐのを希望していた。

父のウィリアム・フォードはアイルランドで食いっぱぐれた貧困小作農で、ジャガイモが不作で破綻したアイルランドからアメリカに移住した。


持っていたのは大工道具一式だけだったが、アメリカには大工仕事が山のようにあり、数年で自分の家や自分の農場を買う事が出来た。


フォード1世は子供の頃から機械いじりが得意で、近所中の時計を分解しては組み立てて修理したりしていた。

農場の仕事を嫌って都会のデトロイトに出てきて、いくつかの機械関係の仕事を経た後に、自動車をつくる事にした。

最初の自動車会社を設立したのは36歳のとき、デトロイト自動車会社で最初の自動車を作ったが、パッとせずすぐ解散した。

ヘンリー・フォードの時代

38歳の時に再びヘンリー・フォード・カンパニーを創業したが会社を去り、40歳のときに紆余曲折を経てフォードモーターを創設している。

フォードの経営が安定するまで少なくとも2回創業に失敗し、資金難からの経営危機にも見舞われていた。

フォードは自動車メーカーが無数に現われたデトロイトでチャンピオンになったが、この頃行われるようになった自動車レースが大きな役割を果たした。


レースによって人々は見た目とか大きさではなく、始めて「性能」で自動車を比較するようになり、フォードが作った車は当時の世界記録を連発した。


フォード1世はピストンから自動車を手作りした訳ではなく、自動車製造に必要な技術が既にデトロイトには存在した。

馬車が普及していたので初期の自動車の車体は馬車そのもので、金属加工や皮細工、腕の良い大工職人なども多く居た。


蒸気機関も既に存在したので、後にガソリンエンジンで必要になるエンジン部品の加工技術もあった。

ガソリンエンジンは蒸気機関よりも小型で高回転なので、より精密な加工技術が必要だったが原理は大して違わなかった。

デトロイトはアメリカの東西を結ぶ交通の要衝で、自動車の需要があり、この土地で自動車産業が生まれる要素が揃っていた。

フォード1世が45歳の時に最初の量産自動車「T型フォード」を発売し、これが世界史を変えるほどの産業革命を起こした。

T型フォードは最初非常に高価だったが、流れ作業やベルトコンベアなど量産技術を導入し、低価格化が進んだ。

T型フォードは1908年に825ドルで発売されたが、1917年には360ドルまで値下げされた。


この間にフォード労働者の賃金は日給2ドルから6ドルに上昇し、最後には60日間分の賃金でT型フォードが買えるようになっていた。

現代では日給1万5千円の労働者なら、約60日間分の賃金で一番安い軽自動車を買えるが、そのような時代がアメリカでは100年前に到来していた。

この大量生産と豊かな消費者が生み出す経済力によって、アメリカは超大国になり、第一次・第二次大戦も物量と豊かさで圧倒する事になる。

このころ日本人の9割が農民で、牛や馬を持っていればマシな方、人力で田畑を耕して蒸気鉄道がやっと普及しようとしていました。

天才から凡夫へ

フォード1世はT型フォードの生産方法を改善する事に尽くし、溶けた鉄から製品まで最初1ヶ月掛かっていたが、最後は4日になった。

熟練工1人が最初から最後まで製造していたのを、100人が100の行程で単純作業するようにし、素人でもできるようにした。

販売台数は爆発的に増加し、1914年に47万台を販売し、T型フォードトータルでは1500万台も売れ、世界で販売される自動車の半分にも達したと言われている。

ただしフォード1世はT型フォードを自分の分身か芸術品のように扱い、いかなる改良や変更も一切認めなかった。

1912年にフォード1世が欧州旅行に出かけた隙に、フォード幹部はこっそり改良を施した。

車体を少し長くしたり、乗り心地を良くしてユーザーに答えたもので、きっとフォードが喜ぶだろうと考えていた。


改良型を見せられたフォード1世は無言のままハンマーで車をバラバラに破壊し、飽き足らずに改良した幹部と技術者をクビにした。

燃料装置を改良してパワーを上げた改良型を開発した幹部も居て、ある日フォード1世にそれを見せた。

フォード1世はエンジン出力を下げるよう命令し、その幹部も後にクビになった。


やがてフォード1世はT型フォードを自分自身と見做すようになり、どんな変更や改良も自分自身への否定と考えるようになった。

ある日黒一色だった色を追加しようと提案され、「もちろんいいとも、ただし黒に限る」と答えたとされている。

こうしてT型フォードは最初から最後のモデルまで何も改良される事なく、自動車業界の盟主の地位をGMに明け渡した。


フォード1世は社長を退いて息子のエドセルが継いだが、実質的にフォード1世が社長のままであり、81歳まで独裁者であり続けた.

晩年までフォード1世は自分が作り上げたフォード社への、あらゆる変更や改革を禁止し、盾つくものは追い出していった。

フォード1世の偏狭さのお陰でライバルのGMは世界一になり、2度とフォードが世界一の座を取り戻す事はできなかった。


そしてフォードや米自動車業界は、70年代のオイルショックや2000年代のリーマンショックでも、同じような失敗を繰り返す事になる。
http://www.thutmosev.com/archives/71879618.html#more

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