http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/721.html
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(回答先: 2006年10月 白馬岳4人死亡 山岳ガイドに有罪判決 投稿者 中川隆 日時 2017 年 6 月 06 日 18:44:07)
2012年5月4日 白馬岳 医師グループ _ 防寒着をリュックに入れたまま「Tシャツに合羽」で 6 名全員凍死
栂池 - 白馬岳 地図
http://f.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509114735
白馬岳〜栂池縦走 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%A0%82%E6%B1%A0++%E7%99%BD%E9%A6%AC%E5%B2%B3
2012年5月4日の白馬連峰 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YHHP2jIqkmc
2012白馬岳2号雪渓 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=N4cQ9ulRwis
この日、天候が急変して、稜線では多数の登山者が遭難しました。
このビデオは、白馬ハイランドホテルの屋上に設置したライブカメラが捉えた当日の天候の推移です。
2012年ゴールデンウィークの遭難事故を検証する
北アルプス・白馬岳を登山中の6人パーティと連絡がとれない、という家族からの届け出が大町警察署にあったのは、5月4日の午後5時40分ごろのことである。
6人は北九州市の医師ら 63〜78歳の男性で、前日3日に栂池高原スキー場からゴンドラリフトを利用して入山。
栂池ヒュッテに1泊し、この日は白馬乗鞍岳、小蓮華山、白馬岳を経て白馬山荘に宿泊する予定だった。ところが夕方になっても到着しないことから、山荘のスタッフが家族に連絡し、家族が大町署に届け出たのだった。
6人が栂池ヒュッテを出発したのは朝5時ごろ。このときの天候は無風で青空ものぞいていたという。ところが、午後になって天候が急変した。この日、6人とほぼ同じコースをたどった単独行の登山者は、白馬山荘のスタッフに「船越ノ頭で稜線に出たとたん、みぞれ混じりの強烈な向かい風に見舞われた」と言っていたそうだ。彼が小蓮花山に着いたのは午後1時ごろで、振り返ってみると下のほうに6人パーティが見えたという。
また、新聞報道によると、午後1時半ごろ、小蓮華山から白馬大池方面に10分ほど下った地点で6人とすれ違った10人パーティがおり、そのなかのひとりがすれ違う際に「先生、どうしましょうか」という話し声を聞いている。状況から推測するに、6人はこのまま前進するか引き返すかの相談をしていたものと思われる。
届出を受けた大町署の署員は、6人全員が所持していた携帯電話に次々電話をかけてみたが、5人はつながらず、もうひとりは呼び出し音はするものの応答がなかったという。
翌5日の朝5時40分、長野県警ヘリが松本空港を飛び立って6人の捜索に向かったが、場付近の稜線には雲がかかっており風もそうとう強かったため、接近できないままいったん帰投した。その後、午前8時ごろになって、白馬岳北方の三国境付近を通りかかった登山者が稜線で倒れている6人の登山者を発見、白馬山荘を通じて警察に通報した。
天候が若干回復した8時20分、県警ヘリが再度、現場へ向かったところ、小蓮華山で滑落した別の登山者を発見。まずこの遭難者を救助したのち、再び現場へ引き返していき、9時41分、通報どおりの場所で6人が倒れているのを発見した。
6人のうち5人はひとかたまりになっていて、2人は手袋をしていなかった。素手でなにか作業をしようとしたのだろうか、そばには脱いだ手袋が落ちていた。もうひとりはその場から滑落したもようで、100mほど下のところに倒れていた。
「何人かは生存しているものと思って早朝から無理して飛んだんですが……。まさか6人全員亡くなっているとは思っておらず、ショックでした」(長野県警航空隊・櫛引知弘隊員)
遭難者の体の一部(風上側)は厚さ10cmほどの氷漬けとなっていて、地面に張り付いていた。このため、救助隊員は体を傷つけないようにピッケルで氷を割り、動かせるようにしてからヘリコプターに収容した。
「通常、吹雪だったら雪がエビのしっぽ状に着くはずなのに、つららが成長していくような感じで氷が付着していました。たぶんみぞれのような雪が猛烈な風によって氷化したのでしょう」(櫛引隊員)
遭難者は2人ずつ3回に分けて搬送されたが、最後はガスがかかってきてしまい、間一髪の収容となった。遭難者といっしょにザックも回収するつもりだったが、そばにあった2つのザックを回収するのがやっとだった(ほかの荷物は、後日、白馬村山岳遭難防止対策協会の隊員が回収した)。6人の死因は、いずれも低体温症であった。
4日午後になって猛吹雪が荒れ狂ったのは、後立山連峰だけではない。前日に上高地から入山した福岡県の56〜71歳の男女6人パーティは、4日朝、宿泊していた涸沢小屋を出発し、北穂高岳を経て穂高岳山荘を目指していた(6人が北穂高小屋に立ち寄ったかどうかは不明だが、立ち寄ったのを記憶している小屋のスタッフはいないという)。ところが、オダマキのコルまで来たところで、61歳の女性メンバーが悪天候による低体温症で行動不能者に陥ってしまった。時刻は午後3時〜4時の間だったそうだ。
このため、リーダーともうひとりのメンバーが女性に付き添ってその場に留まり、ほかの3人が穂高岳山荘に救助を求めに向かったのだが、その3人も涸沢岳に登り着いたと同時に猛烈な風雪に見舞われ、身動きできなくなってしまう。3人はなんとか山荘へのルートを探そうとしたものの、猛吹雪のなかでは方向が定められず、午後5時ごろにはやむなくビバークの態勢に入ったという。
「涸沢岳の山頂から山荘まで、ふだんだったら10分かからないんですが、あのコンディションでは、どっちに行けばいいのか、方向がわからなかったと思います。たとえコンパスがあったとしても、風速20mもの猛吹雪のなか、風を避ける場所もないところなので、果たして動けたかどうか……」(穂高岳山荘スタッフ)
穂高岳山荘に常駐していた岐阜県警山岳警備隊に救助要請の電話が入ってきたときは、すでに午後7時を回っていた。電話はオダマキのコルで女性に付き添っていたリーダーからのもので、「ああ、やっと通じた」という第一声から、それまで何度も連絡をとろうとしていたことがうかがえた。また、この通報により、先発隊の3人がまだ小屋に着いていないことも判明した。
要請を受け、3人の警備隊員がただちに現場へと出動し、遅れて穂高岳山荘のスタッフ4人がそのあとを追った。吹雪は依然おさまっておらず、風速は15〜20m、視界は20〜30mほど。自分の庭のように周辺の地形を熟知しているはずの山荘スタッフが束の間、方向がわからなくなるほどの激しい風雪のなかでの出動であった。
警備隊員が涸沢岳の山頂に上がってみると、そこにビバークしている3人の遭難者がいた。
「3人はひとかたまりになってツエルトを被っていました。この時点では3人ともわれわれの問いかけに応じられるくらい意識ははっきりしていて、なんとか自力で行動できそうに見えました」(岐阜県警山岳警備隊・佐々木拓磨隊員)
この3人を救出すべく下降点の設置作業を行なっているところへ、後発の山荘スタッフ4人が合流した。そこで救助隊は二手に分かれ、3人が涸沢岳で救助作業を引き継ぎ、ほかの4人はその先のオダマキのコルへと向かった。
ところが、下降点の設置を終え、3人を山荘に連れ帰ろうとしたときに、アクシデントが発生する。パーティのなかでいちばん高齢だった71歳の男性が、低体温症の進行によって意識朦朧となり、自力で行動できなくなってしまったのだ。悪天候・夜間・急峻な岩場という悪条件のもと、3人の遭難者を3人だけで救助するのは無理がある。やむなく山荘に応援を求め、新たに数人のスタッフらが駆けつけてきて救助活動に加わった。
行動不能となった男性を背負ってどうにか山荘まで運び込んだのが午後9時過ぎ。男性はこの時点ですでに心肺停止状態に陥っており、警備隊員がただちに心肺蘇生を開始した。ほかの2人の遭難者は、スタッフらのサポートを受けながら自力で山荘にたどり着いた。
一方、オダマキのコルに向かった4人が現場に到着してみると、最初に低体温症になった女性が意識朦朧とした状態でおり、そばに男性2人が成す術もない様子で付き添っていた。3人はいちおうツエルトを被っていたが、女性の半身は外に出ていて、あまり用を成していなかった。この行動不能の女性を警備隊員と山荘スタッフが交代で背負い、ほかの2人は自力で歩けるリーダーともうひとりのメンバーをフォローしながらあとに続いた。
だが、涸沢岳まで来たところで、とうとうリーダーが力尽きて倒れてしまう。このリーダーを搬送するために、再び山荘から応援部隊が投入された。先行していた女性は10時前に山荘に運び込まれ、もうひとりの遭難者はなんとか自力でたどり着き、最後にリーダーが11時前後に収容された。
現場で指揮に当たった岐阜県警山岳警備隊の川地昌秀隊員は、次々に遭難者が運び込まれてくる模様を、「まるで野戦病院のような状況だった」と形容した。6人の遭難者は全員が大なり小なり低体温症に陥っており、山荘のスタッフが総出で応急処置に当たった。この日、山荘の主泊客のなかに医師と看護師がおり、騒ぎを聞きつけて「なにかできることがあれば」と協力を申し出、夜を徹して治療に当たってくれた。
いちばん最初に収容された男性は30分以上に渡って心肺蘇生を受けたが回復せず、医師によって死亡が確認された。意識朦朧としていた女性は加温措置によって持ち直し、約3時間後には正常な状態に回復しつつあった。その女性よりも重症だったリーダーは半ば錯乱状態に陥っていたが、医師やスタッフらの懸命な処置によって朝方には回復した。
山荘スタッフのひとりが、このときのことを振り返ってこう言う。
「現場がオダマキのコルだったから救助できましたが、それより遠かったら救助は翌日以降になっていたでしょう。また、たとえ小屋に遭難者を運び込んでも、低体温症に対する処置ができていなければ、間違いなくあと2人は亡くなっていたはずです。そういう意味で、できることぎりぎりの状況下での、総力戦の救助活動でした」
なお、この遭難事故の2日後の6日、新穂高から入山してジャンダルムの飛騨尾根を登攀した愛知の山岳会の男性3人パーティが、奥穂高岳から間違い尾根に入り込んで滑落するという事故が起きた。3人ののうちひとり(38歳)は自力で尾根に登り返して救助を要請したのだが(本人は長野側へ滑落したものと思い、110番通報してそう告げた。電話は岐阜県警から長野県警に転送され、最初は長野県警の救助隊が出動したのだが、のちに岐阜県側での案件であることが判明する。長野県警はそのまま救助を続行)。このとき現場に駆けつけていったのも穂高岳山荘のスタッフだった。
奥穂高岳の山頂付近で確保された男性は、軽度の低体温症にかかっていたが自力で歩行できたため、スタッフが付いて山荘まで下山した。
この救助活動中、吹雪のなかから男性登山者が突如「あの〜」と声をかけてきてスタッフを驚かせた。大阪市からやってきたその男性(55歳)は3日に単独で上高地より入山。北尾根から吊尾根経由で5日に奥穂高岳山頂に到達したが、悪天候のため下山できず、頂上付近に雪洞を掘ってビバークしていた。そこへたまたま穂高岳山荘のスタッフが現れたため、助けを求めたのであった。
最初のうちは元気そうに見えた男性は、スタッフといっしょに山荘へ向かう途中、みるみるうちに弱ってきて、とうとう自力で歩けなくなってしまった。幸い涸沢に常駐していた長野県の山岳救助隊員がサポートに駆けつけてきてくれたため、どうにか担いで下ろすことができたのだが、低体温症の進行により昏睡状態と錯乱状態を夜中まで繰り返した。その後は徐々に容態が落ち着いてきて、朝にはすっかり回復していたという。
間違い尾根から転落して行方不明になっていた愛知の男性2人(35歳と31歳)は、翌朝発見され、岐阜県警のヘリコプターで収容されたが、すでに亡くなっていた。死因はやはり低体温症であった。
北アルプスで3件の事故が起きた5月4日、現場周辺の複数の山小屋関係者は、「朝の天気はそれほど悪くなかった」と口を揃える。
〈(前日からの)雨は大降りにはならず今朝まで霧雨程度で推移してきました。9時頃からはその雨も止み、時たま薄日が差して外は明るくなるものの、キリの中から抜け出せません。早くすっきり晴れて欲しいですね。気温は11時現在+5℃、今日はあまり気温が上がらず肌寒い感じです〉
4日のブログにこう綴っているのは、白馬山荘スタッフだ。また、長野県警航空隊の櫛引隊員は、「ガスで稜線は見えず、風もそこそこ吹いていた」と言うが、朝方1時間ほど、槍・穂高連峰で行方不明になった単独行の登山者をヘリコプターで捜索している(後日、南岳の山頂付近で遺体が発見される。死因はやはり低体温症と見られている)。つまりヘリコプターを飛ばせないほどの悪天候ではなかったということだ。
ところが、昼前後から天候が急変した。
「昼前から天候が崩れ出し、ぐんぐん気温が下がってきました。最初はみぞれ混じりの雨だったのが、午後になって吹雪に変わりました。警備隊員になって10年以上経ちますが、これほどいっきに風が強く吹き出したのは経験したことがありません。自分としては急変したな、という認識でした」(岐阜県警・川地隊員)
「いったんやんだ雨がしばらくしてまた振り出し、それが雪に変わりました。午後になって風が出はじめたかなと思ったら、瞬く間にブリザードのような吹雪になってました」(白馬山荘スタッフ)
この日、小誌の前編集長も、猿倉から小日向のコルに向かう途中の午後3時ごろ、天候の「激変」に遭遇する。つい1時間前までは青空が見えて半袖で歩けるほどの暖かさだったのに、西からやってきた黒雲が天を覆ったのと同時に気温が一気に下がり、冷たい雨が落ち始めたのだ。それから10分もしないうちに雨は横殴りとなり、午後4時には完全な暴風雨に変わっていたという。標高2000mに満たない場所でこの状況だったのだから、3000mの稜線上は猛烈な吹雪になっていたことは想像に難くない。
「あの日の天候の変化はまさに突発的で、荒れ方も尋常ではありませんでした。たとえ装備が完全であったとしても、あの時間帯に吹きさらしの稜線にいたということだけで、生存の可能性は限りなくゼロに近かったと思います」
ただ、急変したことはさておき、この日の天気が芳しくないのは事前に予想されていたことだった。「3、4、5日は天気が悪くなるという予報だったので、『予報どおりだな』という印象でした」と言うのは北穂高小屋のスタッフである。長野県警・櫛引隊員も、「一般登山者がどれだけ認識していたかわかりませんが、上空に寒気が入ってきて山が荒れるのは事前にわかっていたことでした」と言っている。
また、気象予報士・猪熊隆之氏は、日本山岳会の春山天気予報配信にて、北アルプスにおける4日の荒天をぴたりと的中させている。
「4日の天候は冬山の気象の典型的な疑似好天パターンでああり、予想天気図をチェックしていれば天候の変化は予測できたはずです」(猪熊氏)
さて、悪天候が予想されるとき、あるいは悪天候に遭遇してしまったときにまず考えなければならないのは、どの時点でどういう判断(計画を決行するか撤退するか)を下すか、だ。それを誤ると、悪天候につかまって命を落としてしまうことになる。
白馬岳で遭難したパーティが事故当日にたどった栂池ヒュッテから白馬山荘までの行程上には、エスケープできるルートや山小屋はまったくない(白馬大池山荘は営業期間外)。しかもいったん主稜線に上がってしまったら最後、白馬山荘までは風雪を避けられるような場所も皆無といっていい(風下側に逃げようとしても滑落してしまう危険がある)。だとしたら、すでに天候が荒れはじめていたと思われる主稜線に上がった時点で、引き返すという判断を下せなかったのだろうか。穂高連峰でのケースでも、北穂高小屋に着いたときに予定を変更して停滞するという選択肢をなぜ選べなかったのか。
この2つのパーティはどちらも6人メンバーで、九州からやってきているという点も共通している。6年前(2006年)の10月には、やはり九州から来たガイド登山の一行7人が祖母谷温泉から白馬岳へ向かう途中で悪天候につかまり、4人が低体温症で亡くなるという同様の事故も起きている。
これらの事例から想起されるのは、遠方から来ていることが計画の強行につながっていなかったか、そして6、7人という人数が悪天候下でのスピードダウンをもたらさなかったか(ほかの登山者の目撃談や救助要請した時間などから考えると、両パーティの行動ペースは明らかに遅い)、という疑問だ。それらが判断ミスの一因となった可能性は否定できない。
今回の白馬岳と穂高連峰のパーティのメンバーは、決して初心者というわけでなく、経験の長い山慣れた人が多かったという。両パーティとも事前に登山計画書を提出しており、白馬岳のパーティの場合は所要時間を標準コースタイムの1・5倍で計算してあったそうだ。
そうしたことを考えると、当然、豊富な経験に基づき、さまざまな判断材料を考慮して決行を決めたのだと思うが、いずれにしても結果的にどこかで間違った判断を下してしまったと言わざるを得ない。
もちろん、同じ日に同じコースをたどった登山者はほかにもいる。そのなかのあるパーティは途中で引き返してきて難を逃れ、またあるパーティはなんとか無事に歩き通している。彼らと、遭難したパーティとの差はどこにあるのか。それを詳しく検証することができれば、より明確な教訓が得られるはずである。
ところで今回の白馬岳での遭難をめぐる報道では、関係者の当初の発言として、遭難者が全員軽装だったことが大きく報道された。曰く、
「Tシャツの上に夏用の雨がっぱを着ただけの軽装備だった」
「6人とも防寒用のダウンやフリースを身に着けていなかった」
「この時期、冬山装備が常識の北アルプス登山では考えられない軽装」などなど。
しかし、長野県警が最終的に確認したところによると、後日回収されたザックの中にはダウンジャケットなどの防寒具は使われないまま入っていたというが、6人のなかにはダウンジャケットを着ていた人が2人いたし、最新のレイヤードを取り入れ上半身のウェアだけで7枚重ね着していた人もいた。いちばん薄着だった人でさえ、半袖と長袖のシャツにアウターのジャケットを着ていたのだ。
春山で行動するウェアとしては決して軽装ではないし、現場では使用した形跡のあるツエルトが発見されるなど、悪天候に対処しようとした工夫も見られる。
それがなぜ「薄着だった」ということになってしまったのか、理解に苦しむ。
間違った情報は多くの人に誤解を招き、遭難者やその家族にいわれなき誹謗中傷が浴びせられることになる。自戒を込め、関係者やマスコミは正確な事実を発表・報道すべきである。
なお、白馬岳で遭難したパーティについては、なぜひとかたまりになって亡くなっていたのかという疑問も残る。登山中に悪天候に遭遇して低体温症になる場合、パーティのメンバー全員が同じタイミングで同じように動けなくなることはまず考えられない。いちばん先に病状が進行した者がまず行動不能になり、まだ動ける者は救助を求めるための行動を起こすというのが、これまでの事例で見られたパターンだ。前述の6年前のガイド登山の遭難や、3年前のトムラウシ山でのツアー登山の遭難では、力尽きた順に倒れていったので、結果的にパーティはバラバラになっている。
それがこのケースに限っては、なぜバラバラにならなかったのか。いちばん最初に倒れたメンバーを介抱しようとしているうちに、全員がその場で低体温症になってしまったのか。あるいは6人が寄り添って猛吹雪をやりすごそうとしたのか。その謎も残念ながら明かされることはないだろう。
http://www.sangakujro.com/column/201206.html
(24.5.7) 中高年登山の限界 白馬岳6人パーティーの遭難死
今年も春山で中高年齢者の遭難が相次いでいる。特に白馬岳(2932m)に登ろうとして小蓮華岳(2766m)近くの稜線で遭難した医師のパーティー6名の遭難死は春山の恐ろしさを教えている。
私も何回か春山登山をしており、この白馬岳にも今から40年ぐらい前の5月の連休期間中に登っている。
私が登ったルートは今回遭難した6人のパーテーのちょうど逆ルートで、白馬から栂池(つがいけ)高原に下りるルートだった。
私が登山したときは6人が遭難した辺りに春山特有のブロック雪崩(ダンプカー位の雪の塊が落ちていた)の跡があって、肝を冷やしたものである。
今回の遭難の原因は天候の急変で4日の午後から白馬岳の稜線では吹雪になっていたと言うから冬山と変わりがない。
春山の登山の難しさは晴れていれば夏山とほとんど同じであり、一方吹雪くと冬山に一変することだ。
したがって春山に登るときは冬山の装備をしていくのが普通で、私も常に冬山装備で春山に登っていた。
しかし冬山装備はなんと言っても重い。衣類など厚手のものが数枚ほしいし手袋も靴下も2枚履かなければならない。ズボンは厚手でしかも2枚必要だし、アイゼン、ピッケル、スパッツは必須だし、場合によってはテントや寝袋やコンロをしょっていかなくてはならない。
それに高齢者はグルメだから食料もうるさい。
私が春山登山をしなくなったのはこの装備の重さに耐えられなくなったからで、年をとると20kgを越える荷物はそれだけで体力を消耗させてしまう(私は若い頃は25kg〜30kg程度の荷物を背負っていた)。
今回の医師のパーティーの年齢構成は78歳、、75歳、75歳、66歳、63歳、63歳だからどう見ても体力があるとは思われない。
特に75歳以上の人が3名いるが、こうした人が重い冬山の装備をして登ることは体が動かなくなってしまうので最初から無理なのだ。
新聞記事によると防寒機能のない雨具とその下は夏山程度の薄着で、手袋をしていない人もいたと報道されている。
このため全員低体温症で死亡した。
どの記事を読んでも「軽装登山で軽率だ」との指摘がなされているが、老人になってみれば分かるが軽装登山以外できるはずがない。
本人にしてみれば天候は晴れると思い夏山登山感覚だったのが、急に冬山になってしまい遭難したと言うのが実態だろう。
注)一部になぜ雪洞を掘って避難しなかったかとの報道もあるが、これなどはほとんど冗談の世界だ。雪洞を掘るにはスコップが無ければ不可能だし、掘る作業そのものも大変な体力がいる。老人が雪洞など掘っていたらそれが原因で死んでしまう。
今日本の山は中高年者のラッシュでどこに行っても今回のパーティーのような老人に出会う。
昔だったら70歳代になれば孫の面倒を見ていたのが普通だが、3000m級の山に登っているのだからなんとも元気だと思うが、これは夏山だけの話で冬山になったらまず無理だ。
春山は夏山と冬山の両方の顔を持っていて、後者の場合は死神に会ったようなものだ。
今回の遭難死は老人登山の限界を教えてくれており、中高年者は今回の遭難を他山の石とすべきで春山を甘く見ないことだ。
(5月10日追加)
その後の報道によると遭難者は防寒用のジャケットやズボンを保持していたという(ただし全員かどうかは分からない)。ただしそうした防寒着をつけることなく凍死をしており、急激な気温の低下に対応できなかったものと思われる。
せっかくの装備もつけられる体力が無ければ無駄でやはり老人登山の限界を示している。
コメント
続報によると荷物の中には防寒衣料も入れていたそうです。
予備的に着ておくのは暑くて体力を消耗することや、あまりの急変に着るのが間に合わなかったらしいことが、ピッケルか何かを取り出そうとして息絶えた様子、と記されています。
寒気団が予想以上に張り出してきているという変化もちょっと頭に入れておく必要がありそうです。
(山崎)続報を私も見ました。せっかく防寒具を持っていながら着れなかったのは体力が消耗したのと身体が寒さで硬直してもう何もできなくなっていたからでしょう。
投稿: 横田 | 2012年5月10日 (木) 15時36分
「全員が下着とシャツの上にジャンパーや雨がっぱの軽装」との報道に疑問を感じなければならない。
彼らは白馬岳山頂付近の山小屋泊まりの予定、山小屋には基本的に暖房はない、当然に防寒着は持っていたはず。リュックサックの容量や重量の報道がなされず見落とされているのは記者の思考力の欠如だろう。
登りでは体は発熱する、それゆえ着込まないのが基本、多量に発汗すると体力を消耗する、また、汗で衣服を濡らすと汗冷えの原因となる。
一定の行動を続けられれば―10度でも発汗する。しかし、何かの理由で行動不能となった。多分、強風で歩けなくなった人がいたのであろう。
行動不能になった途端、体の発熱は停止するので体温は急速に奪われる、特に雨がっぱを着ていたことから下着が汗で濡れていれば顕著である。それゆえ、彼らは低体温症に気付かないまま脳の機能が低下し防寒着を着ることも考えられないまま死に至った。
このことは北海道のトムラウシ山で起こった、低体温症遭難事故でもいえる。
ツアーリーダーの61歳のガイドはテントを持っていながら使おうとしないで死亡している。
彼らはミスを犯したことは間違いない。小蓮華山(2766m、白馬岳の手前のピーク)で進退を判断するべきだった。当時、西風が吹いていたと推定される、東側から小蓮華山に登るため山かげで風は比較的弱い、小蓮華山頂で風の強さが実感できたはずだ。
彼らは進むと判断した、ここから白馬岳との中間部分の三国境まで標高差で100m距離1.5キロの下りとなる、登りと違って発熱量は低下し徐々に体は冷えていく、その後の報道でリュックサックの容量は60L、防寒着も十分持っていたとある。進むのであれば小蓮華山頂付近で防寒着を着るべきであった、体が冷えてから着たのでは効果は薄い。
彼らは小蓮華山頂で誰からも拘束されない自由な意思決定を行い命を失うリスクを負ったのだ、ミスを犯して命を失った者に死者に鞭打つようなバッシングはするべきでない。
なぜならば、人々はミスによるバッシングを恐れ、まわりを気にして、受け売りに徹するだろう。皆で間違えても叩かれないからだ。
ミスを恐れ、萎縮した社会では経済発展も望めないだろう。少数意見を評価しない社会では福島原発事故のような事故が再び起こる可能性があるだろう。
投稿: 自由の戦士 | 2012年6月17日 (日) 18時10分
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-5924.html
2012年05月09日 資料から検証
白馬岳の低体温症遭難 1)当日の目撃者の証言
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-34876
現場がGWの北アだけに、ある程度の目撃証言があると見てきました。
報道と、ヤマレコの記録とから、貴重な内容と思われるものを紹介していきます。
3年前のトムラウシ遭難で「疲労凍死」という誤った認識が、ようやく「低体温症」という正当な認識にあらためられ、その独特の進行過程なども登山者の間に初めて広く認識されてきたと、私自身は考えてきました。
トムラウシ山遭難事故。低体温症と、ツアー登山。2つの問題
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691
09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-9921
しかし、今度の遭難を見ると、それが依然として徹底されてこなかったことを痛感しています。
現地の遭対協や警察発表にくわえて、独自の取材による調査報道も始まっています。
低体温症の本当の怖さを知るには、実例をリアルに見ることが何より重要と思います。
今回は、生存者がいなかったために、トムラウシの事故にくらべて、リアルな過程を知ることには困難があります。しかしだからこそ、限りあるなかで得られてくるデータは貴重だと思います。
今回、犠牲になられた方々の中には、ある時期までは判断力が機能していて、「無念さ」を思った方もおられたことでしょう。
事実とそれにもとづく考察という形で、データと情報とから、何が起こったのかを考えていくことにします。
///////////////////
6人の足どり。天候の悪化と行動との時間表
それぞれの証言と確認とから、天候の悪化と行動経過を時系列で表わしてみます。
(この時間表の裏付けとしたデータ、証言は、コメント部分に提示しています。)
◇5月4日
5時30分ごろ。
6人の遭難パーティーが栂池ヒュッテを出発。
全員が弁当を2人前ずつ持って白馬岳へと向かった。
(別の10人パーティーも前後して栂池を出発。このほかに、男女ペアパーティーも先行していた。)
気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午前9時時点で0度。
「午前中晴れ」。(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
「午前中は青空が見えていた」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)
「栂池ヒュッテから天狗原、乗鞍、大池方面へはバッチリ踏み跡があり最高に登りやすかった。」(同時刻に蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)
10時50分。
「10:50頃よりガスと雨、でも晴れている変な天気。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)
このころ、先行した男女ペアパーティーは、小蓮華岳にとりついたあと、天候の変化を考え、引き返し、6人パーティーと大池付近で会話する。6人パーティーは、「白馬へ行く」と話す。(蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)
11時すぎ。
6人パーティーが大池を発つ。
(コースタイムから2時間20分遅れ。)
11時ごろ?
「白馬岳方面に、すごい高山が見えたと思ったら、雲が山の形を作っていた。」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)
*上空に局地的に現われた小さなレンズ雲か?
11時30分すぎ。
「急に天候が悪化し始め、やがて大粒の雨と強風が吹き出し」た。(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)
12時10分。
「稜線(2150m)に出たところで風雨により撤退決定」(雪倉岳のヤマレコ・ユーザーの記録)
「不帰の嶮側から強風、雨も強くなる体感温度もかなり下がる。ハイマツ帯の切れ目に退避して冬パンツ重ねばき、フリースにアルパインジャケット、ビーニー・・・しかし濡らしてしまった袖口と膝付近がかなり冷たい、行動中は良いが休むと冷えが襲う。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)
12時30分。
雪倉岳をめざしていたヤマレコ・ユーザーのパーティーが撤退を開始。
13時ごろ。
三国境まで到達した10人パーティーが、天候悪化のため引き返す。
13時30分。
小蓮華岳の10分ほど下の位置で、10人パーティーが、6人パーティーに会い、挨拶しあう。
「全員が疲れた様子で別の人のザックを担いでいる人もいた」(「毎日」9日付)。
「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」(「毎日」6日付)
14時前。
「天候はすれ違って20分もしないうちに急変。」(10人パーティーによる)
14時ごろ。
「急に雲が出始め、風の強さが増す。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
15時ごろ。
「標高 2,500m では風速 15-20m (推測)、みぞれ混じりから、雪に天候が変化。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
15時すぎ?。
遭難パーティーが、三国境の手前まで到達し、行動を停止。
午後には「目が開いていられないような猛吹雪だった」(爺ヶ岳 種池山荘の小屋主、「日経」5月6日付)
17時40分。
遭難パーティーの1人から携帯電話でSOSが家族(福岡県)に入る。
家族は大町署に救助を願い出る。
「夕食のころテントを張っていた方も撤収して、小屋へ。寒くておられないとのこと 」(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)
18時
白馬山荘では、気温が零下2・5度。
20時。
「午後8時頃からさらに風速が強まり、深夜1時に突風。
テントは半分がひしゃげ、フライを支えるポールが曲がる。」
(白馬3峰で幕営した、ヤマレコ・ユーザーの記録)
21時。
気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午後9時に氷点下0・7度。
◇5月5日。
4時20分ごろ。
「本来なら御来光の時刻 外は全く氷の世界 アイゼンバリバリに効く」。(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)
7時40分。
白馬岳から大池へ下山中の愛知県の登山者が、6人の遺体を発見。110番通報。
「6人のまわりにテントのようなナイロンが散らばっていた。風で飛ばされたような状態だった。」
8時。
現場を通った埼玉県の登山者が、6人を目撃。
「5〜6人が倒れているのが見えた。
2〜3mおきに倒れていたり、体育すわりのような姿で集まっていた。」
「6人の手袋やネックウォーマーなどが落ちていた」。
「雨具の中に夏山用のシャツなどを着ただけの軽装だった。」(「毎日」5月6日付」
「6人は断熱材のない雨具に、綿のズボン、ウールのシャツの軽装だった。」(「読売」同)
「遭難時に避難のために掘る雪洞を作った形跡は付近になかった。」(白馬村遭難防止対策協議会のH救助隊長の証言)
コメント
「先生 どうしましょう」。すれ違った登山者の証言。
「毎日」5月9日付夕刊が、遭難パーティーと小蓮華岳で行き違った登山者の証言を伝えています。
10人パーティーのこのグループは、遭難した6人パーティーに先行して小蓮華岳を越え、主稜線の三国境まで達したのちに、13時前後、天候悪化で引き返しを決定。小蓮華岳より10分ほど下で、遭難パーティーに出会いました。
13時30分ごろ。
10人パーティーのリーダーは、遭難パーティーについて「全員が疲れた様子で別の人のザックを担いでいる人もいた」と証言。
また、「1人が、『先生どうしましょう』というのを聞いた」とも証言しています。
リーダーは、「天気が崩れて、疲れているようなので、引き返すかどうか、相談していたのだと思う」と述べています。
記事では、「天候はすれ違って20分もしないうちに急変。」
「ひょうのようなものも降ってきて痛かった」と書いています。
5月5日夕のNHKテレビでは、小蓮華岳の上部で15時ごろ、下山中に遭難パーティーと行き違った登山者の証言を報道していました。
疲れた様子で、手袋をしていない人がいた、 この時期の北アにしてはあまりに装備が少なかった、と、この登山者は語っていました。
**以下、私の補足コメント**
遭難した6人パーティーは、小蓮華の下の地点で、栂池ヒュッテを出てから、すでに8時間も行動していました。
しかもこの地点で、すでにザックを担げないメンバーが出ていたことになります。
しかし、目撃されたこの場所から、6人はさらに登り、小蓮華のピークを越え、三国境の手前で、亡くなっています。
行程などから見て、目撃された場所から、遭難地点までは、1時間余りはかかっていたと推測されます。
行動時間の大幅な遅れの疑問
6人の遭難パーティーは、栂池ヒュッテから白馬乗鞍岳をへて白馬大池を経由し、白馬岳を目標にして行動し、白馬山荘へ4日午後の到達をめざしていました。
通常の夏タイムで、白馬大池まで2時間40分、そこから小蓮華岳をへて主稜線の三国境まで2時間10分。
栂池ヒュッテの出発は朝5時半でした。
大池には、夏タイムならば9時すぎには着けた可能性がありました。
ヤマレコの次の記録に、目撃証言があります。
*印の見出しのみ、tanigawaによる。
///////////////////////////////
衝撃:白馬遭難パーティーのトレースを歩いていた。(栂池テント→乗鞍→大池→蓮華温泉テント→振子沢→栂池)
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-187612.html
5/4:6:30栂池-8:30天狗原-10:15白馬乗鞍岳-11:30白馬大池-13:00天狗の庭-14:30蓮華温泉(テン泊)
*大池までのルート。
「栂池ヒュッテから天狗原、乗鞍、大池方面へはバッチリ踏み跡があり最高に登りやすかった。」
*乗鞍から大池
「乗鞍山頂で休憩中、少し風が強くなってきた。大池への下り途中、男女ペアの方とすれ違い、
「どちらから?」
「小蓮華で天気が悪くなったので引き返してきた。どちらまで?」
「蓮華温泉です」
「下るのなら大丈夫かな」
「5, 6人パーティーとすれ違いませんでした? あの方たちも蓮華温泉?」
「白馬岳までと言っていました」
ここでお礼を言うのは諦め、すごいなぁ、などど思ったのだったが、まさか、あんな事になるとは。
*大池で11時34分撮影の写真の記述
「大池で乗鞍ピークでお会いした男性が大池の南側に下りて小蓮華への稜線へ直登していきました。
凄い、頑張れ!
と思っているうちにガスに包まれていました。」
「先ほどのパーティー。小蓮華方面へ登っていきます。
この時は「いやぁー頑張るなー」などと思っていました。」
*連続して撮影した写真には、小蓮華岳へむかう6人が写っています。
///////////////////////////////
* 遭難パーティーは、11時少しすぎに大池を発っていたことになります。
ここまで出発から5時間経過。コースタイムから2時間20分遅れ)
雪が歩きやすく、先行の10人パーティーなどのトレースもありました。この遅れの問題は、ヤマレコ・ユーザーも5時間かかっているため、湿り雪の条件もあったのかもしれません。
先行の10人パーティーは出発時刻が不明のため比較できません。しかし、やはり夏タイムより条件が悪かったことが、三国境までの到達時刻から、推測されます。
前コメントの目撃証言では、退却して生還した10人パーティーが小蓮華岳の下で遭難パーティーに遭遇したのは、13時30分です。
6人パーティーは、大池から、2時間30分。(コースタイムからさらに1時間余り遅れ)
ここまで栂池から、8時間。この時点で、時間的に白馬岳を越えて白馬山荘に到達することは、晴天でも困難が出てきました。
そのうえに、10人パーティーに目撃された時点で、自分のザックを担げないメンバーがすでに生まれていました。
天候の本格的な悪化の時間帯が迫り、少なくとも2つの他のパーティーがUターンをするなか、終始大きく遅れる行動時間のまま、6人は主稜線へ、さらに進んだことになります。
貴重な現場周辺の当日の気象変化の記録
ヤマレコと、そこに記録をアップする登山者の威力を見せているのが、5月4日、遭難当日の現場周辺の気象観察の記録です。
その行動ぶり、果敢な挑戦と判断などとあわせ、どなたのものも、現場のそのときの様相を示し出してくれています。
アドレスを示していますので、ぜひ現物の記録を訪問されてください。
*印のみ、tanigawaのコメント。
@白馬岳主稜の登攀記録
白馬岳主稜:吹雪と雷とみぞれと強風と。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-188710.html
5/3:猿倉→白馬尻
5/4:白馬尻→3峰付近
5/5:3峰付近→白馬岳山頂→白馬尻
5/6:白馬尻→猿倉
この GW は、天候が非常に悪く、
・3日:雨のち晴れ
・4日:午前中晴れ、午後2時頃から急に雲が出始め、風の強さが増す。
東側には前線の影響と思われる積雲が立ち込め、動かない。
午後 3時頃から、標高 2,500mでは風速 15-20m(推測)、みぞれ混じりから、雪に天候が変化。
午後 8時頃からさらに風速が強まり、深夜 1時に突風。
テントは半分がひしゃげ、フライを支えるポールが曲がる。
・5日:午前中霧。もなか雪。気温は 0度程度(推測)。
風速は弱まるが、午前中いっぱいは霧が晴れず、11時頃から次第に霧が晴れる。
*この記録は、遭難現場から1キロ弱のもの。
現場の天気の変化をほぼそのまま再現していると思われます。
天候は14時に崩れ出し、15時ごろからみぞれまじりの風雪となっています。
風速については、主稜線ではさらに強かったと思われます。
しかし、風が現場より弱いこの記録の位置でも、夜半に冬用テントが倒されかけていました。
A雪倉岳周辺
雨の雪倉岳 敗退、山スキー
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-188087.html
5/4 曇りのち雨
06:40 ロッジ出発(シールなし)
途中でシールをセットして、兵馬ノ平南側をトラバース
08:20 瀬戸川通過ポイントを探してスノーブリッジ通過
沢コース(一般コース)をシール登行
12:10 稜線(2150m)に出たところで風雨により撤退決定、シール解除、スキー滑降準備
12:30 撤退開始
シール登行した同じコースをスキー滑降
13:00 瀬戸川スノーブリッジ通過点、シールセット -13:15
兵馬ノ平南側のトラバース
ロッジの前庭?のミズバショウ観賞
15:10 ロッジ着
*ロッジとあるのは、蓮華温泉ロッジです。
*以下は、写真の説明。
今日(5/4)は予報では、天気が回復方向であり、実際に午前中は青空が見えていたが。。。
標高 1900mあたりの尾根越えポイントで休憩する。まだまだ青空が出ていて気持ちがいい。しかし、のちの調査によると、これは『擬似好天』だったらしい。
白馬岳方面に、すごい高山が見えたと思ったら、雲が山の形を作っていた。もしかしたら、これが遭難を引起した悪魔なのか?
11時半をすぎてから、急に天候が悪化し始め、やがて大粒の雨と強風が吹き出し、我々は、標高 2150m地点で撤退を決めた。
*現場から1キロ北のこの場所では、昼前から悪天の兆候が出始めていました。12:30 撤退。
B八方尾根から唐松山荘
唐松岳 晴天を待って計画したはずが 束の間の晴れ、雨と烈風(こんな言葉はないと思いますが!)、氷の世界へ
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-188776.html
*5/4の行動記録
9:15八方池山荘〜10:10第3ケルン12:15丸山ケルン(途中ダケカンバのところで大休憩
10:50頃よりガスと雨、でも晴れている変な天気)
丸山ケルン出ると完全な雨と北西(右側)からの強烈な風
ハイマツ帯で風除け・冬装備に転換・・・
しかし濡れた袖口と膝のあたりが寒い、
行動を停止すると冷えて凍傷になりそう。
キックステップで登る急登よりもだらだらと長いゆるい尾根筋で風にふかれ、雨で腐った雪は本当に疲れる、また遮るものは何もない。
13:50唐松岳頂上山荘17:00夕食
*感想から
4日午前中快晴、第3ケルンあたりからぽつぽつ、でも空は真っ青ですぐ止みそうな具合。
ドライの長袖シャツに合物パンツ・ゴアのスパッツ、アイゼンは登り使用せず。
丸山ケルンすぎ不帰の嶮側から強風、雨も強くなる体感温度もかなり下がる。ハイマツ帯の切れ目に退避して冬パンツ重ねばき、フリースにアルパインジャケット、ビーニー・・・しかし濡らしてしまった袖口と膝付近がかなり冷たい、行動中は良いが休むと冷えが襲う、また急登はキックステップで登りやすいが、雨でじゅくじゅくになった雪は歩きにくく、また何も遮るものがない尾根筋でうける風はつらい。20k超の荷物も苦になってきた。
小屋着後 強風と雨はやむ気配なく、夜中に飛ばされるかもと(設営もままならない)思い小屋泊に変更
5日 4時20分 本来なら御来光の時刻 外は全く氷の世界 アイゼンバリバリに効く
*写真のキャプション
テント泊予定でしたが、この風雨では夜中に飛ばされます。
変更して山荘へ直行
同じ時間帯の単独行の方 2名も 小屋へ
夕食のころテントを張っていた方も撤収して、小屋へ
寒くておられないとのこと
本来なら御来光の時刻 小屋の玄関内部もこの通り 外は吹雪
*この記録は、現場からは10キロ近く離れた場所ですが、天候悪化と、機敏な着衣の着こみの描写がすばらしく、紹介しました。 夜半にテントを飛ばさかねないほどの強風、そして5日朝には一気に氷の世界に変じる様子も記録されています。
*ここでは各ユーザーの今度の事態への思いや体験がなかなましく綴られているため、私のコメントは遠慮して、別のコメントに書きます。
低体温症に懸命に挑み、あるいはこれを未然に防止する措置をとりながら、どれもずばらしい敢闘の記録と思います。
同時にあの日の午後と夜半とに、遭難者らを襲った悪天候の厳しさがリアルに伝わってきます。
6人の足どり。天候の悪化と行動との時間表
それぞれの証言と確認とから、天候の悪化と行動経過を時系列で表わしてみます。
◇5月4日
5時30分ごろ。
6人の遭難パーティーが栂池ヒュッテを出発。
全員が弁当を2人前ずつ持って白馬岳へと向かった。
(別の10人パーティーも前後して栂池を出発。このほかに、男女ペアパーティーも先行していた。)
気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午前9時時点で0度。
「午前中晴れ」。(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
「午前中は青空が見えていた」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)
「栂池ヒュッテから天狗原、乗鞍、大池方面へはバッチリ踏み跡があり最高に登りやすかった。」
(同時刻に蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)
10時50分。
「10:50頃よりガスと雨、でも晴れている変な天気。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)
このころ、先行した男女ペアパーティーは、小蓮華岳にとりついたあと、天候の変化を考え、引き返し、6人パーティーと大池付近で会話する。
6人パーティーは、「白馬へ行く」と話す。
(蓮華温泉へむけて行動していたヤマレコ・ユーザーの記録)
11時すぎ。
6人パーティーが大池を発つ。
(コースタイムから2時間20分遅れ。)
11時ごろ?
「白馬岳方面に、すごい高山が見えたと思ったら、雲が山の形を作っていた。」(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)
*上空に局地的に現われた小さなレンズ雲か?
11時30分すぎ。
「急に天候が悪化し始め、やがて大粒の雨と強風が吹き出し」た。(雪倉岳東面のヤマレコ・ユーザーの記録)
12時10分。
「稜線(2150m)に出たところで風雨により撤退決定」(雪倉岳のヤマレコ・ユーザーの記録)
「不帰の嶮側から強風、雨も強くなる体感温度もかなり下がる。ハイマツ帯の切れ目に退避して冬パンツ重ねばき、フリースにアルパインジャケット、ビーニー・・・しかし濡らしてしまった袖口と膝付近がかなり冷たい、行動中は良いが休むと冷えが襲う。」(八方尾根のヤマレコ・ユーザー)
12時30分。
雪倉岳をめざしていたヤマレコ・ユーザーのパーティーが撤退を開始。
13時ごろ。
三国境まで到達した10人パーティーが、天候悪化のため引き返す。
13時30分。
小蓮華岳の10分ほど下の位置で、10人パーティーが、6人パーティーに会い、挨拶しあう。
「全員が疲れた様子で別の人のザックを担いでいる人もいた」(「毎日」9日付)。
「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」(「毎日」6日付)
14時前。
「天候はすれ違って20分もしないうちに急変。」(10人パーティーによる)
14時ごろ。
「急に雲が出始め、風の強さが増す。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
15時ごろ。
「標高2,500mでは風速15-20m(推測)、みぞれ混じりから、雪に天候が変化。」(白馬岳主稜を登攀中のヤマレコ・ユーザーの記録)
15時すぎ?。
遭難パーティーが、三国境の手前まで到達し、行動を停止。
午後には「目が開いていられないような猛吹雪だった」(爺ヶ岳 種池山荘の小屋主、「日経」5月6日付)
17時40分。
遭難パーティーの1人から携帯電話でSOSが家族(福岡県)に入る。家族は大町署に救助を願い出る。
「夕食のころテントを張っていた方も撤収して、小屋へ。寒くておられないとのこと 」(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)
18時
白馬山荘では、気温が零下2・5度。
20時。
「午後8時頃からさらに風速が強まり、深夜1時に突風。 テントは半分がひしゃげ、フライを支えるポールが曲がる。」(白馬3峰で幕営した、ヤマレコ・ユーザーの記録)
21時。
気象庁の高層気象観測点の石川県輪島市の上空約3千メートルで観測された気温は、4日午後9時に氷点下0・7度。
◇5月5日。
4時20分ごろ。
「本来なら御来光の時刻 外は全く氷の世界 アイゼンバリバリに効く」。(唐松山荘のヤマレコ・ユーザー)
7時40分。
白馬岳から大池へ下山中の愛知県の登山者が、6人の遺体を発見。110番通報。
「6人のまわりにテントのようなナイロンが散らばっていた。風で飛ばされたような状態だった。」
8時。
現場を通った埼玉県の登山者が、6人を目撃。
「5〜6人が倒れているのが見えた。
2〜3mおきに倒れていたり、体育すわりのような姿で集まっていた。」
「6人の手袋やネックウォーマーなどが落ちていた」。
「雨具の中に夏山用のシャツなどを着ただけの軽装だった。」(「毎日」5月6日付」
「6人は断熱材のない雨具に、綿のズボン、ウールのシャツの軽装だった。」(「読売」同)
「遭難時に避難のために掘る雪洞を作った形跡は付近になかった。」(白馬村遭難防止対策協議会のH救助隊長の証言)
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-34876
2012年05月18日 検証 白馬岳低体温症遭難2)
カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253
今度は、白馬岳の6人パーティーを含め、幾つかの経験、事例から装備と食糧の面を検討したいと思います。
低体温症は、究極のところ、カロリー収支の結果が、事態をおおもとから左右することになります。
カロリーの「収入」の方は、食べて行動することによる熱の産生です。
「引き算」されるのは、外界へ熱が奪われることです。
体温の限度以下への低下(体幹部で35度未満)は、この熱の出入りと、登山者がその拮抗のレベルをどれだけの時間、耐えて行動し続けられるか、という継続時間の問題も加味されて、左右されてくると考えられます。
たとえば、たとえ体熱を奪われやすい気象条件で行動し、そのうえ装備の一部に弱点があっても、登山者が対抗できるだけ食べ、また行動による発熱量が、失われるカロリーと同等レベルであれば、行程の長さ如何によっては、 生還が可能です。
つまり、装備、あるいは天候という1つの角度だけから、○×式には、実際の問題を把握しがたいのが、低体温症の問題です。
今回の白馬岳の遭難では、着衣と装備については限られた範囲ですが、一定のデータがあります。発見時の着衣については、警察と遭対協の発表はほぼ一貫しています。
食事については、栂池ヒュッテの出発時に、2食分の「弁当」をもらったという情報があります。
これらに加えて、ほぼ同じ気象条件のもとで行動した登山者が、それぞれどう行動し、どのように身を守ろうとしたかの一定の情報もあります。
また、過去の記録には、気象条件としては低体温症の発症の危険が大きくあるなかで、行動し生還した登山者の、関連するデータも、参考にできるものがあります。
これらから、「カロリー収支」を定量的につかみことはできませんが、身を守る対応の様子と考え方は、見えてくる問題があるように思います。
以上のようなアプローチで、ケーススタディとして考えながら、低体温症にどう対応したのかを、考えていきたいと思います。
なお、設定する問題としては、
「始めから悪天候では行動しなければいい」
「入山しなければいい」
というご意見もあると思います。 これは私も通常は、そう努めたい単純明快な処方です。 でも、これを原則として固めてしまって済ませられないのも登山です。
登山者は、悪天候の中で、あるいは装備が不足するなかで、生還を期して行動する局面に、ときには立たされます。引き返し覚悟の登山もある。大雨のもと翌日の晴天を確信して目的地に入る登山もある。悪天時には退避する用意をしながら、数日かけて目的を遂げる登山もあります。
ヤマレコでも、雷雨や吹雪はもちろん、登山道からの転落、雪渓下の沢に転落、道迷いなど、所持してだけの装備と判断とで、予想外の災難に遭遇し、生還したケースが様ざま報告されてきました。とくに積雪期やエリアによっては、不測の怪我などが事態を悪化させる場合があります。
なんでもない、一般ルートであっても。
そのときに、用意した装備や食料を活かしながら、低体温症は、用心の大事な対象です。
山には絶対的な安全圏はないのですから、私も、できるだけ多くの事例から、学んでいこうと思います。
コメント
低体温症に限らすカロリー収支の考査。
小生・登山はもちろんですが、冬季になるとハーフ・フルマラソン(時に駅伝等)を中心にやっておる市民ランナーでもあります。
行動規範のパターンこそ違うなれど、やはりランニングのレースの時にもこのカロリーコントロールは重要な要素であってその辺の摂取配分を見誤ると、即正直にタイムに影響をきたす事間違いないです。
ここでスレ主の方の言われている消耗カロリーと摂取カロリーのバランスの事を書かれておりました。
内容的には「全くもって」という感触なのですが、問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーと変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがあるセオリーがございます。
要するに、そのような理想的カロリー摂取は自分の体にエネルギーとして変換されている状態にのタイムラグを考えて、事前に補っていかないと天候の急変等の憂い目に遭ってから摂取しても間に合わず、また時間経過を追うごとに体力的に吸収能力が衰えて、ますます悪循環に嵌ことになります。
(コレはマラソンレースでも同様。フルマラソンの時スタート5K・10Kの補給が一番重要であって、疲れた30K・35Kで補給しても今度は体が受け付けない。)
詰まりは、今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。
どうしても年齢を追うごとに、心肺機能や吸収機能の劣化は避けられない生理的事実と、ココの処の天気図に載らない「上空の寒気団」の存在をマークするという、情報収集も欠かせなくなってきていると思います。
平たく記述するとお腹が減ってから食べては遅く、のどの渇きを感じた時に飲んでも遅いという、事はマラソンのコーチにも良く言われる程です。
RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
私も最近の山行で、行動中の計画的なカロリー補充と給水が、個人の能力を最大限に発揮する為にとても重要であることを実感しました。
一方で、国際山岳連盟が推奨する十分なカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難です。たとえ、低山であっても行動が長時間に及ぶとカロリー収支をゼロに持っていくのは難しいでしょう。
”いわんや悪天候をや”
行動食についての情報は不明ですが、二人前の弁当だけでは明らかに不十分でしょう。
実は低体温でヒヤリとしたことがありますが、比較的早期にカロリー補充と給水を行い歩き続けることで切り抜けました。
きちんとした装備により体温喪失を少しでも減らすことも大事なのですが、以前よりご指摘の通り、体温を維持するのは骨格筋の運動、そして運動するにはカロリーが必要。また末梢循環を維持するためにも脱水は避けなくてはいけない。これらは全て軽量化とは相反する事ですが、リスク回避の為には避けられないのではないかと考えます。
朝ごはんと昼ごはんの摂取と、行動経過
>問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーに変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがある
食べたばかりの食料は、カロリー変換までにタイムラグがあるということですが、その間は、糖分や脂肪分など体に蓄えてきた分を、順次カロリーに変換しながら運動を維持し、つないで行くと考えればいいのですね。
しかも、高齢者ほど、この消化・変換は時間がかかる。
普通の街の生活でも、朝食べても、4、5時間もすれば腹がへる。
山登りでは、糖分、脂肪分などを行動食として随時、摂っていくことが大事になりますね。
>今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。
今回の天候のもとでは、行動中のカロリー、水分補給は、ほんとに大切だったと思います。
6人全員が摂れてないとは、想像できない。
しかし、行動食についての発表はありません。
今回の6人が、ヒュッテを5時半ごろに発つときに、受け取った2食分のお弁当は、おそらく朝と昼ではないかと思います。15時台に白馬山荘に到達する予定でしたから。
この件、行動食とあわせ、全体は見えていません。
夏タイム・プラス2時間なら、確かに15時台には山荘に達することができたはずでした。
しかし、取り付きの大池まで約5時間かかった。(大池出発が11時ごろ)
朝食休憩と、加えて何事かが、あったからかもしれません。
小蓮華の登りで撮影された写真を見ると、山スキーでもないのに、6人の間隔がそれぞれ離れすぎているように見えるのも、気にかかっていました。
衝撃:白馬遭難パーティーのトレースを歩いていた。(栂池テント→乗鞍→大池→蓮華温泉テント→振子沢→栂池)
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-187612.html
この写真が写されたところから、行程にして2キロほどの小蓮華岳のすぐ下で、すでにザックを担げないメンバーが 1人出ています。
時刻も13時30分。
ここまでで、問題がすでに顕在化していたことになります。
摂取すべき必要カロリーと、水の問題
>国際山岳連盟の推奨するだけのカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難であると思います。
トムラウシ遭難の事故調査報告書でも、同じ見地で、この遭難パーティーが摂取すべきだった必要カロリーを、計算しています。
体重76キロの男性Cさんの場合、3日目にトムラウシ温泉まで 8時間で歩ききるための行動時間(8時間)のエネルギー消費量は、2300〜2700キロカロリー。
さらに残る16時間の安静時の代謝量が、1040キロカロリー。
必要カロリーは、合計3350〜3750キロカロリー程度。
ところが、実際の食事を調べたところでは、1日分の食事で 1000キロカロリー台の半ばのメンバーが大半で、2000キロカロリーを超えている人はほとんどいないようだ、とのことでした。
トムラウシのツアー・パーティーは粗食だったことが、小屋の同宿のパーティーにも目撃されていますが、そこまでいかなくとも、必要なカロリー摂取はなかなかたいへんですね。
おにぎりだと、1個200キロカロリーにしかなりません。
水分摂取は、寒さを感じている条件では、テルモスに特別の飲み物を用意するなどしないと、体に入りませんね。
RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
expedition(遠征登山)においては1日あたり 4000kcal + 3L の水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。
私は経験も浅くまだ分からないことだらけではありますが、夏も冬も行動食の一部であるはずの食事を”弁当”スタイルで提供する小屋、受け取る登山者の双方が、”必要な熱源の確保”についてリスクを抱えているのかもしれません。
条件の厳しい山域にある小屋では、登山者の年齢、性別、体格、予定コースから必要エネルギー量を推計した上で、
・そのカロリーに見合うチョコバー
・ビタミンやミネラル(+アミノ酸)などのサプリメントのセット
上記セットを、弁当ではなく 1日分の行動食セットとして提供する、あるいは登山者にアドバイスするといった科学的なアプローチが必要な時代なのかもしれません。小屋番やガイドは登山者の食事量の観察も欠かせないことになります。また、テン泊であれば、日数に応じた必要カロリーを概算して、持ち歩くか現地調達できることがテン泊の条件になります。また、悪天候で停滞することは、エネルギー消費を抑えるという点でも有用です。トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。
大変質の良い食事を提供する山小屋の存在や、ヤマレコでも冬山の夕食で美味しそうな料理をガッツリ食べているレコを散見します。スタイルはどうあれ、”必要なエネルギー源の確保”という点でとても大事なことなのだと認識を新たにしました。
食料と摂取カロリーを検討することの大事さ
>1日あたり4000kcal + 3Lの水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。
このデータは、海外のより本格的な登山と思われる方もおられると思います。とくに水分については、高度障害の対策が若干加味されている数値ですね。
しかし、トムラウシの遭難報告では、向かい風15m、登り、という条件では、通常の登山のさらに2倍近いカロリー摂取が必要(8時間の行動中の必要カロリーとして)、と検討しています。
おにぎりに敢えて例えれば、10個ずつを朝、昼とっても、まだ足りない。
ですから、
>トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。
まさにそうでした。
しかし、あのパーティーは、あの日やってくる同じツアー会社の後続パーティーのために、避難小屋を空けるしかなかったのです。また、迎えのバスはトムラウシ温泉側へ、すでに回送中。
ガイドに判断できる裁量は、実質的になかったといえます。
今回のパーティーの場合、自前の行動食をどれだけ用意したかのデータはありません。
しかし、パーティーとして、予測される天候、トムラウシを越える標高差のある行程などを考えた場合、不測の事態にそなえるカロリーは大丈夫なのか、という検討がリーダーには必要だったように思います。
また、不足していることを確認したうえで、天候が悪化したり、行程が大きく遅れた場合には、あらかじめ大池までで引き返す確認なども、ミーティングしておくことも、あったかもしれません。
これらは、検討の有無もふくめて、実情は推し量れません。
遭難パーティーの装備のデータ
以下に、遭難した6人パーティーの装備のデータをあげておきます。
まず、装備全体の状況。
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北ア白馬岳遭難:回収ザックの中から冬山用ズボンなど発見
毎日新聞 2012年05月08日 20時19分
長野県の北アルプス・白馬(しろうま)岳(2932メートル)近くで、北九州市の男性医師ら6人が死亡した遭難事故で、回収されたザックの中に薄手の羽毛ジャケットと防風機能のある冬山用ズボンが入っていたことが8日分かった。
回収した白馬村山岳遭難防止対策協会(遭対協)の降籏義道隊長は「冬山に耐えられる羽毛ジャケットではないが、自覚症状のないまま低体温症に陥り、吹雪に見舞われた時にはザックから取り出す余裕がなかったのでは」と推測している。
遺留品は、遭難した当日の目的地・白馬(はくば)山荘の手前約2キロの地点にまとまってあり、遭対協の隊員2人が7日、4人分のザックと、下着などが詰まった大型のナイロン袋などを回収した。
降籏隊長によると、四つのザックは50〜65リットルの容量で、それぞれに薄手の羽毛ジャケット、冬山用ズボン、保温機能のある登山用下着、予備の手袋、500ミリリットル入りの水3本などが入っていた。
一番重いもので12キロ前後という。簡易コンロ二つのほか、6人がかぶっていたとみられるツェルト(簡易テント)1点と未使用のツェルトも回収した。
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NHK
白馬岳遭難 荷物の中に防寒着
5月8日 9時0分
北アルプスの白馬岳で、北九州市の男性6人のグループが死亡した事故で、現場から防寒着や簡易型のテントなどが回収されていたことが分かりました。
北アルプスの白馬岳で4日、北九州市から訪れた医師など63歳から78歳の男性6人のグループが行方不明となり、翌日見つかりましたが、全員が低体温症で死亡していました。
地元の白馬村山岳遭難防止対策協会は、7日、遺族の依頼を受けて現場の尾根から6人の荷物を回収しました。
搬送されたとき、6人の服装は、いずれもTシャツにジャンパー程度の軽装でしたが、山岳遭難防止対策協会によりますと、回収された荷物には薄手のダウンジャケットや簡易型のテント、それに手袋や毛糸の帽子なども含まれていました。
ダウンジャケットは、いずれもリュックサックの中に入っていましたが、簡易型テントは使った形跡があり、手袋や帽子は周辺に散らばっていたということです。
山岳遭難防止対策協会は「急な天候の変化で防寒着を着るタイミングを失い、簡易型テントも強風のためうまく使えなかったのではないか」と話しています。
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ザックにはこのほかに、冬用下着や、冬用山ズボンを用意していたメンバーもいたとのこと。
発見時の着衣の件は、下着は冬用ではなく、山シャツを着用。ベストを着ていたメンバーも確認されています。
荷物の重量についてですが、トムラウシの遭難パーティーの場合、避難小屋泊まりで各自2泊3日分の食料をいれて、10〜14キロでした。
今回は、食事付きの小屋泊まりで、最大で12キロ。
低カロリーも問題ですが…?
遭難パーティーの装備を見ると防寒の物もあったことを知り、遭難者らは動けなくなる瞬間まで危険性を感じていなかったのかな。それにしてもみんながみんな同程度の体力で、一人も危険を感じなかったのだろうか?
自分のことに置き換えてみると行動中に呼び掛けに応えないとか、反応の鈍化が見えたら、何らかの異常を考えないと、パーティーを組んで登る意味がないように思うけど 、基本的に登山では、行動食が当然だと思うけど。
ちなみに仲間と登る場合は、休憩のたびに飴玉を配ったり、ビスケットを勧めたり、おかげで昼食という感覚で休憩を取るということはほとんどありません。
RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
体の熱産生は主に筋肉で、単位時間当たりの熱産生量には限界があり、年と共に衰えます。みぞれで衣服が濡れ、そこに強風の吹雪が吹付け満足な防寒防風対策をとらなければ、奪われる熱の方が多くなり低体温症に至るでしょう。
私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。
ちなみに私はここ2年間、行動食は食べていません。登山前と登山後にアミノバイタル1袋づつ飲んで、行動中は水かお茶、夏は塩分補給をします。(岩塩/味噌/マヨネーズ)+きゅうりなど。下界でも朝晩の2食のみです。
判断する時間の余裕と、発症と
>遭難者らは動けなくなる瞬間まで危険性を感じていなかったのかな。それにしてもみんながみんな同程度の体力で、一人も危険を感じなかったのだろうか?
今度の白馬岳では、生存者がいないため情報がありませんが、福岡の家族への最後のSOSの連絡が17時30分少し前に行われています。
おそらく、判断力や知覚がなくなる低体温症の進行は、かなりの時間差があったものと思われます。
このシリーズの 1) に、目撃証言等から時系列を再現しています。
一気に気象条件が急変したというのも、事実と違う。
早いパーティーは、正午までに引き返しを行動に移しています。
いっぺんに、手の打ちようがないスピードで、症状が全員に広がったというのも、またかなり違うと思います。
13時台にすでに症状?が出たメンバーがいたことが、目撃されています。
問題は、徐々に広がっていた危機にたいして、経験があるリーダー役(複数?)が、予防や注意をふくめて、どうであったかだと思います。
警戒心と備えがどうだったか?
雨具に山シャツだけで、ザックの装備を生かせなかったことも、様々考えさせられます。
行動に困難を来たしだしてから(10人パーティーによる目撃)、さらに数百mを登り、最後のSOSまで、4時間があります。
カロリー摂取は、予防・緩和役。着衣と相まってのもの
>私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。
これまで議論されてきたことで、登山者が、急に大量のカロリーを要求される(奪われる)事態になっても、それを短時間に、あるいはリアルタイムで供給することは難しいことが、明らかになってきたと思います。
一方で、悪天候のなかで、大量の熱を奪われる、そのハンディを知り、低体温症に備えるためにも、出発前の食事でのカロリー補給や、即効性のある行動食、水分の補給が、緩和に役立つことも。
退却やビバーク、安全な小屋への逃げ込みの際は、重要な備えになると思います。
さらに、ここまででまだ議論になってこなかった下着を含めた服装の問題があります。
真冬の山で、このようなケースで低体温症になるのは、むしろ少ないように私は思う。
それは、始めから−15度、−20度の気温と強い風とに備えて、着衣と食事が根本的に違うからだと、私は思います。
GWや6月、そして秋の山での備えは、その応用問題でもあると思いますが、冬と異なるのは濡れですね。
補いきれないながらも、食べて生還したケース
コメントでも、人間が用意でき、その場で使うことができるエネルギー源は、多くない、というご意見がありました。
低体温症の実体験者でもある北海道の医師のサイトには、次のような解説もあります。
「人間が貯蔵できるグリコーゲン
通常は摂取カロリーの 60% 2000kcal×0.6=1600kcal しか肝臓と筋肉に貯蔵できない。
⇒従って、繰り返し行動中に摂取することが必要。」
しかし、予防には限度があるなかでも、そのときに懸命に食べ、あるいは少しでも食べる努力を重ねて、大事を回避したり、生還した事例があります。
いくつか紹介していきます。
◇2009年 トムラウシ遭難の生還者の証言から。
(同遭難調査報告書から)
○私は持参したカロリーメイトや魚肉ソーセージ、きな粉棒をたべたり、アミノバイタルやアリナミンV などを飲んだり、何分かおきに、何かを口に入れるようにしていました。
○「猛烈にお腹が空いたので食べた」「アメ玉1 個を食べただけで、こんなに違うのかと驚いた」
○「悪天時なので、身体を動かすために食べなければならないと判断して食べた」
○「(非常食として食べたもの)アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。」
○「トムラウシ公園の手前に来て、登山道脇の草むらに座り込んでビバークを覚悟した。生還した理由として、ビバーク地点にマットを敷いたことが断熱になり、体温を下げなかった、と語った。
どこで着たのか特定できないが、雨具の下にフリースを重ね着したこと、時々チョコレートなどを食べていたこと、南沼を過ぎたころには雨風が止んでいたこと、ビバークで体力を温存できたこと、もともと体力があったこと、などが生還できた主な理由と思われる。」(これは報告書執筆メンバーの医師の記述)
◇トムラウシ遭難の同じ日に、旭岳から白雲小屋まで行動したヤマレコのユーザーの体験。
「昨年7月16日のトムラウシ山での大量遭難が起きた日に,私は旭岳〜白雲岳避難小屋のコースを歩きました。
強い風雨の中,旭岳を目指して歩き出したものの,7合目を過ぎたところでかつて経験したことのないような猛烈な風に危険を感じ,一旦避難小屋まで退避。しかしながら,天候は回復するとの予報が出ていたことから,少し風が収まったところで無謀にも再度スタートし,強風に吹き飛ばされそうになりながらも,なんとか白雲岳避難小屋まで歩き通しました。
でも,本当は自重すべきだったと,今でも反省しています。・・・
・・・なんとか頑張ってここをやり過ごし, 白雲岳避難小屋を目指しますが, 徐々に体力が落ちていく感じがしました。手袋をしていても指がこごえて,うまく動きません。ゴアテックスの雨具を着ていても, 霧状の雨が中の衣類を濡らします。
途中の岩陰で休憩をとり, ウェストバッグに入れておいたアメ玉を頬張ってエネルギー補給です。ザックを開けて食料を食べるような余裕はありませんでした。
小屋に入ってザックをおろした途端,寒さと安堵感で全身が震えました。
また,行動中は一度も震えを感じませんでした。ところが,避難小屋の中に入ってから 2〜3分で体中が震え出しました。文字通り歯がガチガチと音をたてて震えました。
これは,行動が終了したことで発熱がなくなり,急激に体温が低下したためと考えています。
私が思うに,低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持することではないかと思います。
そこで重要なのは,行動を継続できるだけの体力と,発熱を維持できる量のカロリーの摂取です。
私の場合,登山途中で避難小屋に戻り,十分なカロリー摂取ができていたことが,その後の行動維持に寄与したと思います。」
RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
国際山岳連盟医療部会のガイドラインでは、行動中のカロリー摂取スケジュールについての記述も(やや曖昧ですが)あります。体重 75kgの私ですと、最初の 30分に凡そ 400kcal、以後 4-6 時間の間はは 2時間ごとに(おそらく)400kcalの補給が必要です。
これは expedition における基準のようですが、素人が自身の限界にチャレンジするような場合にも参考にして良いかと思います。
>低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持
無事に生還した今だからこそ白状しますが、3月の雲取山で本当に危ない目に遭いました。
芋の木ドッケの巻き道で息子が行動不能に陥いりかけたのですが、その後あめ玉程度ですが行動食を与え続け、白湯を飲ませ、暖かい乾燥した装備への交換を行ったところ、山荘までの 10時間余りを歩ききりました。新雪のラッセルであったために大人の歩行速度が落ちた結果、皮肉にも子どもには無理の無い移動速度となったことも大きかったと思います。
(冬も山行を継続していたので、歩いていれば寒くないことを息子は体で覚えていました。樹林帯であったことや 3月で気温も -5度程度であったことも幸運でした)
息子の意思表示はいつもギリギリなので、その山行以後は以前にも増してよく観察し、しつこいくらいに声をかけるようにしています。
tanigawa様の結論に敢えて付け加えさせていただくならば
”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる
こちらのほうがbetterかと考えますが、いかがでしょうか。
RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
> ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる
こちらのほうがbetterかと考えますが、いかがでしょうか。
おっしゃる通りと思いますが、大前提としては、生死にかかわる深刻な状況に遭遇しないように、また、それに準ずる場面でも、着衣やカロリー補給で、登山者が状況にたいして用意で負けない対応を先手先手ですすめることだと思います。
気象条件の厳しさや登山者の側で基本的な防御体制が欠けているときは、行動をするのは事態を悪化させる場合があります。
トムラウシがまさにそうでした。
ロックガーデンの手前でハイ松帯を生かしてビバークし、シェルパのいるヒサゴ沼に伝令を出していれば、犠牲者はかなり減ったと思います。
しかし、彼らは人数分のテントがなかった。
とくにパーティーを組んでいる場合は、この優位性がしばしば、個人差が出てきて、瓦解の糸口になる。
その点で、紹介いただいた体験は、息子さんの体調との連携がうまくコントロールされていたケースと思います。
装備面のデータ 関連するもの
関連するものを、上げておきます。
◇やはりスコップは役立つ
同じ5月4日、白馬岳に別ルートで登って、ビバークした男性(61歳)がいました。(「読売」5月6日)
テントのそばに、高さ1・5mの雪の防風壁を作って、一晩しのいだとのこと。
「5日未明まで吹雪が強かった」と話しています。
この時期の稜線を、不安定な天候で行動するなら、やはり軽量スコップはビバークの必須装備になります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253
2012年05月22日 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)
持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495
ここまで見てきてどうしても不可解なのは、6人は全員が軽ダウンジャケットをザックに用意していながら、なぜ、それを着込むことができないまま、低体温症にすすんだのか? ということです。
「日経」5月9日付夕刊は、こう伝えていました。
見出しは、「防寒具は持参 身守れず」。
4個のザックは、記事に写真があります。
「遭対協によると、7日現場から回収されたリュックは4個で、容量はいずれも60リットル程度。全てに薄いダウンジャケットが入っていた。現場にはツェルトと呼ばれる簡易テントが残っていた。回収した山岳関係者は「全然軽装じゃない」と言い切った。」
ここには、低体温症の遭難に特徴的な状況が、はっきりと現れています。
なぜ、用意した装備を使うことなく、亡くなっていったのか?
9人が亡くなった2009年のトムラウシ遭難では、その調査報告書に次のような記述があります。
「生還者のコメントを見ると、自主的にフリースやダウンのジャケットを着たり、レスキューシートを身に着けた人が何人かいる。このような人では、それをしなかった人よりも体温の低下を防ぐことができ、生死を分ける要因となったことも考えられる。」
このトムラウシの遭難の場合は、過度な軽量化によって、出発時に小屋で着込もうにも、その用意のない参加者が多かった点で、今回とは異なる状況がありました。
一方、8人が亡くなった1989年10月の立山遭難では、現場の発見者が次のように証言しています。
「8人は翌朝、発見。男女1人ずつは発見時に息が あり、男性は「救助隊の方ですか?」としゃべった。
死亡したうち他の6人のザックにはセーターがあったが、いずれも使われていなかった。」
この立山遭難は、ザックの防寒装備が役立てられなかったという点で、今回の白馬岳と共通点があります。
以下、この問題を検討しながら、低体温症の進行の独特の様相を考えていきます。
体感温度の問題。保温性能と濡れの有無とが、むしろ影響大
本論に入る前に、幾つか基本データと情報を掲げておきます。
まず、低体温症の角度から見た「体感温度」について、書いておきます。
登山者の体の熱の奪われ方には、大きく分けて、「乾性寒冷」(冬山)と、「湿性寒冷」(3季の風雨)とがあります。
風速が1m増すごとに1度ずつ体感温度が下がる、という「算出法」でいえば、冬山では、「体感温度マイナス30度」は、ごく普通の条件。
それよりも「体感温度」がはるかに高い春や秋山などで、低体温症の遭難事故が起こるのか、数字のうえでの疑問が出るところです。
トムラウシ遭難調査報告書で、調査チームの医師は、「乾性寒冷」よりも「湿性寒冷」の方が、実は熱を奪われやすいと述べています。
これは、水の気化熱が1ccあたり約350カロリーもあることから、濡れた衣類と体からは大量の熱が逃げていくため。
さらに
「風が強ければ、体温の下がる速度は加速度的で、低体温症の悪化が早い。」、
「体温の放射を防ぐには、乾いた衣服を重ね着して、肌との間に空気層をつくることが重要。」
としています。
また、この報告書では、従来言われてきた「体感温度」は、裸の人体の条件でのもので、保温衣料を用いることで大きく条件は緩和されるとしています。
低体温症の危険がありうる条件では、保温用の衣類をタイムリーに用いることが、死活的になってきます。自分は、この衣類で保温するということで、しっかり用意し、臨機に使う。
この際に、セーターやフリースとともに、肌に接する下着がかなり肝心であることを強調したいです。
またゴアテックスなどの雨具や冬用ジャケットなどの防水性能をしっかり確認して、濡れに備えることが必要になると思います。
下着については、私の下記の日記に。
低体温症の対策) 予防的なウエア、装備
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787
3つの遭難の、気象条件と行動―立山の場合
検討する前提として、まず低体温症による3つの遭難の、気象条件と経過を掲げておきます。
白馬岳については、このシリーズの1)目撃者の証言から、のスレッド末尾に、天候の推移と行動経過を記しています。
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○1989年10月8日 立山・真砂岳
遭難場所の真砂岳付近では、風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。
10人パーティー。8人死亡、2人救助。
40歳から60歳代。
一行のほとんどは、冬山経験はなかった。
室堂出発時、天気は快晴。気温はマイナス6度。風はほとんど無し。
冬型の気圧配置となり、一ノ越から雪が降りだす。
全員が雨具を着用。
12時ごろ、雄山山頂で1人が足を痙攣。風雪。
14時ごろ、富士の折立手前で追い抜いた2人組の登山者が、このパーティーを目撃する。男性1人が抱えられ、女性2人が立っていられずに座りだしたりする。
パーティーは2つに分かれる。
16時ごろ、真砂岳付近で、10人がいったん合流。
風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。
男性2人が内蔵助山荘へ救助へ向かうが、視界がなく雪で道わからず、剣御前小屋へ向かい、途中の別山付近でビバーク。翌朝、登山客に発見される。
8人は翌朝、発見。
男女1人ずつは発見時に息があった。
他の6人のザックにはセーターがあり、使われていなかった。
付近には、コンロや食糧が散らばっていた。
3つの遭難の、気象条件と行動―トムラウシ山の場合
○2009年7月16日 トムラウシ山
(データは、同遭難事故調査報告書による)
ツアー登山。
一行はガイド・スタッフ3人、メンバー15人の計18人。
ガイド1人をふくむ9人が低体温症で死亡。
自力下山は5人。
前日に低気圧が通過して、北海道東方で発達。
16日の山の天候は気温 6℃、風速 20m/secだった。(新得警察署 遭難対策本部)
入山3日目、5時30分、ヒサゴ沼避難小屋出発。
雨は出発時、弱くなった。
6時10分、稜線のヒサゴ沼分岐。
風強まる。ガイドが耐風姿勢を教え、風の弱まる瞬間を狙って前進するほどに。
8時30分、大岩を上がるロックガーデン。
男性客 M(66歳)さんが、しばしば座り込むようになる。
まっすぐに立って歩けない風になる。
「札幌管区気象台の高層観測によると、16日 9 時の 1900m 付近の気象は、気温が8.5℃と急下降し、風速も 19m/secを記録している。
また、風向は西北西に変化している。12時の天気図では、従来の低気圧の隣にもう一つ小さな低気圧が発生して、この低気圧の発達が大雪山の天気回復を遅らせたことも考えられる。」
北沼周辺で亡くなった人の内 2〜3名は、北沼以前(ロックガーデン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。
10時00分ごろ、北沼渡渉点。
渡渉後、動けない人が出て待機。
女性客K(62 歳)さんが嘔吐し(何も出ない)、奇声を発していた。
女性客J(68 歳)の意識が薄れる。
行動の指示がないままでの強風下の待機。
メンバーは小さな岩陰に三々五々座り込んでいたが、風に曝されていた。
10時30分ごろ。
北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行動に移った。
以後、パーティーはばらばらになる。
リーダーA(61歳)は渡渉地点近くで、動けなくなる。(第一ビバーク地点)
11時30分ごろ。
ガイドB(32歳)とともに歩行不能な女性客 3人と付き添いで男性客D(69 歳)1人は、第二ビバーク地点でテントに収容。
ガイドC(38 歳)が引率して歩行可能と思われるメンバー 10人の引率役で下山再開。
13時30分、南沼キャンプ場。
パーティーはばらばらになり、さらに行動不能のメンバーが出る。
15時5分。
前トム平で、女性客G(64歳)が携帯電話で自宅を通じて、110番通報。
17日、
9人の遺体が収容。生存者が救助される。
「多くの遺体が下腿に打撲痕があった(転倒したためだろう)。」
・・・・・・・・・・・・・・
体温の低下と、症状の現れ
もう1つ、低体温症による体温の低下と、症状の段階的な進展についての目安を上げておきます。
「IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編」によると、低体温症の症状は、体温の低下と症状の進行ごとに、次のように規定されています。
(一部訳文あり。http://www.sangakui.jp/medical/ikar/)
段階
HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。
HT2 32−28度。 震えなし。意識障害。
HT3 28−24度。 意識なし。
HT4 24−15度。 生命兆候なし。
HT5 15度以下。 死亡。
それから、トムラウシの遭難事故調査報告書でも、体温と症状を、次のように示しています。
36 ℃
寒さを感じる。寒けがする。
35 ℃
手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻痺したようになる。しだいに震えが始まってくる。歩行が遅れがちになる。
35 〜 34 ℃
歩行は遅く、よろめくようになる。筋力の低下を感じる。震えが激しくなる。
口ごもるような会話になり、時に意味不明の言葉を発する。無関心な表情をする。眠そうにする。軽度の錯乱状態になることがある。判断力が鈍る。
*山ではここまで。これ以前に回復処置を取らなければ死に至ることあり。
* 34 ℃近くで判断力がなくなり、自分が低体温症
になっているかどうか、分からなくなっていること
が多い。この判断力の低下は致命的。
34 〜 32 ℃
手が使えない。転倒するようになる。
まっすぐに歩けない。感情がなくなる。
しどろもどろな会話。意識が薄れる。
歩けない。心房細動を起こす。
32 〜 30 ℃
起立不能。思考ができない。錯乱状態になる。震えが止まる。筋肉が硬直する。不整脈が現れる。意識を失う。
30 〜 28 ℃
半昏睡状態。瞳孔が大きくなる。脈が弱い。呼吸数が半減。筋肉の硬直が著しくなる。
28 〜 26 ℃
昏睡状態。心臓が停止することが多い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上のデータに、実際の遭難での経過にそくして、
「6人がザックの防寒具を役立てられずに亡くなっていったのは、なぜなのか?」、
私の見方を以下に述べてみます。
低体温症の危険信号は、本人には自覚しにくいことも?
「何故、ザックの中のダウンジャケットを生かすことができなかったのか?」
それは、これまで言われてきたよりも早いピッチで、体温低下が進行し、危険認識や防衛本能などを麻痺させる次のフェイズに進んでいるからではないか?
低体温症による遭難事故の経過を見ていて、こんなことを思っています。
そう思う根拠は、単純なことです。
体温低下は、低体温症の症状を一段一段、時間的余裕をもってゆっくり下がっていくわけではない。
とくに薄い防備で強風にさらされた場合は、症状の各段階を短時間で駆け抜けてしまうからです。
だから、自分や周囲が「危うい」と自覚できる瞬間は、実際にはしばしば見逃されてしまう。
例えば、体温の低下が進みだしたとき、低体温症の危険を本人が察知できるのは、激しい寒さの感覚と猛烈な震えです。
この猛烈な震えは、自分で低体温症におちいりかけていることに気づく、最初で、そして最後の関門になっています。
ここを過ぎると、寒さの感覚や震えによる熱の産生という自己防衛反応はなくなる。
救助にあたっても、
「活発な震えは熱産生に最も重要な手段である。糖分を含む飲物でカロリーを補給し、震えを促進する(糖分を含む事は温かい飲料より重要)」(アラスカ州寒冷障害へのガイドライン2003(2005改訂))
http://www.sangakui.jp/medical/alaska/alaska02.html
とされるほど、大事な指標になっています。
ところが、その大切な局面で、保温が不備だったり、パーティーの事情があって行動を停止・あるいは制限するなどして、熱の産生が負けていると、体温の降下は、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」の体温水準を、短時間で通り過ぎて、より下がってしまう。
トムラウシ山遭難事故では、15分当たりコア体温1度低下という、猛烈な体温低下も検証されています。
その体温降下の途中の段階で、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」という段階は短時間で突破され、寒さを感じなくなり、危険に無関心になる無防備な段階にいたってしまう。
こうして、登山者は、本人らは大丈夫だと思っているうちに、もはや自分一人では後戻りできない感覚や意識障害の段階に入って行ってしまう。
つまり、低体温症の一連の症状の中には、ここが、地獄の三丁目! という「震え」のフェイズが多くの場合にあるのですが、
ところが、防寒が不備で気象条件が激烈なときは、そこを本人が自覚しないうちに通りすぎてしまうのではないか、ということです。
「震え」のフェイズがかならずあるかといえば、これには個人差があります。ない場合もある。
しかし1つのパーティーのなかで、1人にこの関門のスルーがあると、パーティーは行動不能になるメンバーを、次の段階でかかえることになる。
また、同じ条件で行動してきたメンバーは、やはり体温低下の過程に入り込んでおり、ここからも行動不能が広がる条件が生まれてしまう。
今回の白馬岳の6人パーティーの場合、少なくとも、11時に白馬大池を出発する前の、大池到達時点あたりまでは、体温低下は始まっていなかったと思われます。
コースタイムからすでに2時間20分遅れですから、大池での長い休憩などがあれば、そこから体温低下が始まっていた可能性を残します。
大きなカロリーの喪失は、天候急変で周辺の山岳にとりついていたヤマレコ・ユーザーらが撤退を開始した、12時前後から。
13時30分、小蓮華岳の手前で、「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」様子が目撃されています。
この時刻が、パーティーのメンバーに「最初の関門」越えが始まった段階と思います。
○HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。
○35 ℃
手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻
痺したようになる。しだいに震えが始まって
くる。歩行が遅れがちになる。
しかし、「先生どうしましょうか?」という相談の結果は、さらなる前進でした。
ここで、「震え」のフェイズの突破があったのかもしれません。症状はもっと進んでいた可能性があります。
いずれにしても、低体温症のシグナルは見すごされました。
白馬のパーティーは、さらに1キロほど登って、稜線の三国境の手前で行動を停止しています。
ペースから見て、さらに1時間以上、吹きさらしの向かい風のなかを行動。
この時点では、体温低下はメンバーにさらに広がり、複数の行動不可能者が出た可能性があります。
ザックを開けてテントを取り出し、みんなにかぶせようと努めた、それだけの体力と危機の判断力とを残していたメンバーもいました。
「周囲は踏み固められ、ツェルトをリュックから出して使おうとした形跡があった。」(「日経」5月9日付夕刊)
しかし、稜線の吹きさらし、強風・吹雪のもと、体温低下が進むなかでは、それが最後の防衛行動だったのかもしれません。
体温の急激な低下についてのデータ
◇体温の急激な低下のデータとしては、トムラウシの事故調査報告書に記述があります。
「低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるために「全身的な震え」が 35 ℃台で始まるのが特徴的であるが、今回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行した例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が抑制され、30 ℃以下に下がっていったと思われる。」
「マイクル・ウォードは『高所医学』という本の中で、
「低体温症になると 2 時間以内に死を来すことがある」
と述べている。この遭難事故でも、発症から死亡まで 2 時間と思われる症例がある。条件が揃えば、人体の核心温が一気に下がり、死に至る温度の 30 ℃以下に、急激に下がるのに 2 時間とかからない、ということになる。
なぜ急激な体温低下を来したのかは、体力、気象条件、服装を含めた装備、エネルギー源としての食料摂取などを、総合的に検討してみる必要がある。」
「体温の下降は 1 時間に約 1 ℃ の割合で下がった計算になるが、本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言している。」
「小屋を出発した時の体温が 37 ℃に近い温度だとして、心停止の温度が 28 ℃以下だとすれば、体温が 9 ℃下がるのに 2 時間と要していなかったことになる。これは単純に計算すると 15 分で 1 ℃下がったことになり、この急激な下がり方であれば、「震え」で体温を上げることはとても間に合わないことになる。」
◇別の資料から
「震え(shivering)を唯一のT°の指標とすべきでない。」
(IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編)
RE: 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?
以下は、ヤマレコ日記であるにコメントしたものです。
ここにも張り付けておきます。
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Gさん、予兆から軽度の低体温症の発症までを範囲とする「予防」の段階を超えて、登山者の備えや対応をテーマにすると、なかなか微妙な問題がありますね。
以下、提起されている問題に即して、ちょっと長めになりますが、コメントします。
(1)中度より重い低体温症の現場での対応、搬送されて以後の医療の対応は、かなり基本的な処置の点で、医学的にも探究途上だったり、不一致の面があります。症状によってもかなり違う。そもそも、そこまでの問題になると、医師にも知識がない方が大勢です。
具体的には、同じ中度の患者の場合でも、種々の検査をして症状とどこが危ういかをつかまないと、その処置が良く出ることもあれば、致命的になってしまうこともある。
例えば、加温による心房細動の誘発があります。これは、どこまでが急加温かが、むずかしい。実際には、意識を失うまでに体温が下がった場合に、山という条件では、あらゆる加温措置が動員されても、まだ足りない場面が予想されます。
逆に、低体温症の患者が低体温になることで、脳の活動を抑え、血液と酸素供給が少なくとも、命だけは守り、搬送後に的確な措置で蘇生する事例が幾つもあります。この場合は、穏やかな加温であっても、脳の活動を再開させてしまって、それによって脳が酸欠となり、死亡してしまう場合がある。
雪崩に長時間埋まっていたり、低体温症にかかって体温が大きく低下した人を救護する場合は、脳を守るために、加温せず保温(保温材やシートなどによるラッピング)だけで搬送されることもあります。
できるだけ早くその場から安全なエリア移送して、専門医師の処置を受けるしかありません。
これは、救助隊なども、実際にルールとしているのではないかと思います。
低体温症の場合、心臓も、低いレベルで活動を続けている場合がありますから、脈拍を短時間見ただけで、心臓マッサージをすることなども、医師の判断なしには避けたいところです。
登山者が何ができるかは、中度以上(意識喪失以下)にまで進行してしまった低体温症では、他の怪我などにくらべて、むずかしい問題があります。
(2)その一方で、蘇生の手立てが限られる山の条件でも、患者の様子によっては、心房細動の危険を度外視して加温する場合も、判断としてはあります。多くは、そのことまで考えないで、とにかく必死で加温されて助かる例があります。
実際に、トムラウシ山遭難では「第2ビバーク地点」で、助かった女性への処置がそうでした。彼女は、意識を喪失していました。男性の参加者が懸命の保温と加温の措置をとって助けました。
新田次郎の「芙蓉の人」(基本は実話)では、富士山山頂の観測小屋から瀕死の容態で退却して、八合目の小屋に担ぎ込まれた男性主人公が、必死の加温と摩擦によって命をつないでいます。
いずれの場合も、意識喪失とはいえ、まだ中度の症状の入り口あたりだったから、生還できたとも言えます。
(3)私たちとって大事なことは、意識喪失以下にまで進行した段階のことではなくて、やはり予防だと思います。
その一線にいたる前に予防する。
低体温症では、1人でも症状が進んだら、パーティー全体の行動が困難になりますから。
具体的には、震えの時期を通り越してしまう前に対応する。つまり、体温がさらに低下し、当人が保温に無関心になる、足がふらつきだすような段階の前に、震えの段階までに先手で手立てをとってしまう。
震えの段階までに、着込み、カロリー補給、天候判断と退却などの対応を、すすめることです。
その前提として、震えには個人差があり、進行速度にも個人差があることを、知る。
これはリーダーと当人が、低体温症の独特の進行の怖さを認識していないと、手遅れもありえます。
そして、予防の根本は、天候と行動のそもそもの判断、下着や濡れ対策、食糧計画など、出発時の用意と判断だと思います。
私は、予防の上では、「低体温症」という言葉を要所でパーティー内で口にして、互いに注意し合い、観察し合うことも、大事なことだと思います。
トムラウシの遭難では、出発時も行動中にも、遭難に至ってからも、誰一人、「低体温症」という言葉を発しなかったことが、生存者全員の聞き取りと証言から判明しています。
言葉が発せられなかっただけでなく、ガイド1人を除いて、そもそも知らなかった。
その気象条件で最大の脅威であったはずの対象が、最後までノーマークだったのです。(これも証言から)
雪崩の危険個所や岩場などでは、パーティーは必ず相互に声をかけあいますが、低体温症については、意識的に努めないと、そこまでマークがいかない。
ここにこの難題に特有の「穴」があります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495
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