2010年07月02日 10:48山の安全全体に公開 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-9921 昨年7月16日のトムラウシ山遭難事故から、まもなく1年になります。
あのとき私は、事故の救助活動の模様をつたえる翌17日朝のテレビで、この遭難を知りました。状況からすぐ思い浮かべたのは、この数年、北海道のツアー登山などで繰り返されてきた低体温症による遭難死でした。そこで、昼すぎに、次の内容をヤマレコ日記にアップしました。 トムラウシ遭難――低体温症とツアー登山、2つの問題 http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691 この事故の経過が明らかになるにつれて、低体温症の実態、その独特の怖さを私自身も再認識しました。「疲労凍死」「気象遭難」とされた過去の遭難死の、本当の原因について、多くの登山者が新しい認識をすすめる契機になった出来事でもありました。 その後、日本山岳ガイド協会は、トムラウシ山遭難事故調査特別委員会を設け、昨年11月に「中間報告書」をまとめました。 トムラウシ山遭難事故。山岳ガイド協会の中間報告書にみる「低体温症」の実際 http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521 私はこのスレッドの最後のところで、「中間報告書」の内容と構成にたいして2つ、意見を書きました。 1つは、低体温症の脅威と対応を登山界全体が認識できる体系的な構成にしてほしい、ということです。 報告書は、低体温症が、犠牲者の直接の死因であることを指摘しながら、このパーティーが低体温症にたいしてどう認識し、どう備え、どう現場で対応したのかについて、一貫した視点での記述と総括が不十分だったからです。そのために、この中間報告書はマスコミに、ガイドのスキル、力量不足一般に原因があったとして報道されてしまいました。中身はけっしてそういうものではなかったのに。 この遭難の最大の原因は、ベテランの領域に入ったリーダー・ガイドをふくめ参加者の全員が、低体温症の脅威について認識がなく、無警戒だったことでした。ほんの数年前に、同じ山で同じ季節に、2つのパーティーが低体温症で死亡者を出していたことも、全員が知りませんでした。不幸だったのは、そのリーダーが遭難にいたる最初の段階で、低体温症の症状である判断不能に陥り、別のガイドも渡渉で転倒して低体温症に続いて陥り、パーティが瓦解したことでした。これではガイドのスキルの発揮どころではありません。 中間報告書は、経過の記録や専門家の詳細な調査から、この原因が読みとれる内容があるのに、大事な問題が部分部分に埋もれてしまっていました。 2つめは、原因の一端をガイドの力量に求めるのならば、ガイドの水準、認識を向上させ、ガイドが参加者の命にかかわる問題で的確な判断を保障しうる制度が必要ではないか、ということです。 ガイドは人の命を預かるのですから、当然にも営利優先となる会社からは独立した立場で、安全の可否を判断しなければならない。ツアー登山には、専門的なガイドを配置することを義務付け、ガイドの判断によってその地位や生活が脅かされない立場を保障する、そういう制度を提言してほしいということです。 実際上は、停滞、中止の判断が保障されていない不安定な地位にガイドはいます。停滞の予備日もないもとで、無理が先に立つ判断を強いられる。避難小屋を出発しないと、同社の次のツアー団体が、その小屋に入ってくる……。 こういう抜本的な改善がなければ、事故のたびに個々のガイドが司法で裁かれてきただけという状況は、ちっとも変わらず、同じことが繰り返される。 今年3月、「最終報告書」が出ました。 http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf
この間にいろいろなところから意見がよせられ、検討がすすめられたのだと思います。最終報告書では、私が思ってきた第1の点は、大幅と言っていいくらいに内容と構成が拡充されました。 第2のガイドの地位の問題は、現状ではいけないという認識は反映されて旅行会社に管理運用上の改善策を提起しています。ガイド団体にもスキルアップの角度から提案しています。しかし、これだけでは運用上の範囲にとどまり、旅行会社の自由裁量になってしまう。制度問題と法的なルールに踏み込んだ内実が提言されないと、旅行会社は動かないと思います。もっと大胆に提起して、世論を喚起してほしかったと思います。 しかし、そういうことはあっても、最終報告書は、多くの登山者がこの大量遭難事故のななから、低体温症の脅威と備え、リーダーが果たすべき役割、日本の登山界のなかでのガイドの地位と力量の向上を考えるうえで、他に替わるものがないほどの、大事な事実と探究、痛切な教訓がおさめられていると思います。登山者にとって、とても大事なレポートです。 このスレッドでは、最終報告書のなかから、とくに低体温症への対応を中心に、事故にかかわる新しい事実、登山者として学んだ大事な点を、いくつか紹介していきます。 形式上、最終報告書からの紹介と検討が順にすすみますが、みなさんとともに考えていきたい問題ですので、いろんな角度からのコメントをいただくのはもちろん歓迎します。 (画像は、ランドサット衛星画像と国土地理院数値地図をもとに、カシミール3Dで描いたトムラウシ山西面、カウンナイ川) ///////////////////////////////////// 2010/7/2 17:22
RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 たいへん参考になる書き込みを有り難うございます。「最終報告書」をじっくり読ませていただきました。 遭難被害を出さなかった伊豆ハイキングクラブのパーティも,危険な状況にあったのですね。 昨年7月16日のトムラウシ山での大量遭難が起きた日に,私は旭岳〜白雲岳避難小屋のコースを歩きました。 強い風雨の中,旭岳を目指して歩き出したものの,7合目を過ぎたところでかつて経験したことのないような猛烈な風に危険を感じ,一旦避難小屋まで退避。しかしながら,天候は回復するとの予報が出ていたことから,少し風が収まったところで無謀にも再度スタートし,強風に吹き飛ばされそうになりながらも,なんとか白雲岳避難小屋まで歩き通しました。 でも,本当は自重すべきだったと,今でも反省しています。 一歩間違えば,自分も遭難しかねない状況であったわけですから。 亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。 私の山行記録はこちらをご覧ください。 http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-67545.html RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
遭難事故から1日遅れの行動での山行記録、読ませていただきました。 大雪から十勝にかけての稜線は、樹林帯がない吹きさらしなだけに、あの日、一帯を襲った猛烈な風のすごさを、記録からも感じとることができました。 rikimaruさんの場合も、その日にトムラウシを越える長丁場の行程であれば、問題のパーティーや静岡県のパーティー、そして美瑛岳のパーティーと同じで、生死にかかわるような行動になった可能性がありますね。 寒さをかなり感じていた様子ですから、紙一重で低体温症にいたらなかったように読めます。 それは、行動を続けるだけの体力、筋力、カロリー補給と、行程の短さのせいだったように思います。ウエアは、できれば行動前にもっと着込む必要があったですね。 トムラウシは、長丁場で、自力で我が身を守るしかない山です。ツアー登山のパーティーは、リーダー・ガイドがこのルートは初めてで、これは想像ですが少々の悪天候でも、2100メートルそこらの山なら、十分越えて行けると、当初は思ったのではないかと思います。 本州の感覚なら、そうでしょう。 しかし、実際には、北アの薬師岳並みのロングルートで、日中なのにその気温は同時期の北アでも記録的なほどの水準に低下していた。しかも山頂付近に小屋はない、途中に人はほとんどいない。他者の助けをえられないということが、どんなに深刻なことか、ツアー登山のパーティーと静岡のパーティーは厳しい状況に立たされました。 最終報告書が指摘していますが、ツアー登山のパーティーは悪天候下でこの山を乗りこせる主体的な力量と認識が欠けていたのだと思います。 このスレッドでこれから順次書いていきますが、低体温症の脅威について、どう対応するかについて、rikimaruさんは体験を通して、一つの到達点を示していただいているように受けとめました。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 衝撃的な出来事からまもなく一年がたとうとしていますね。 まだこの頃は登山もほぼ中断中、ヤマレコを見ておらずにただ驚くばかりでした。 その後で登山再入門してこの遭難の詳細を知ることとなった立場です。 その際に大変tanigawaさん含めたヤマレコユーザーのご意見、検討が大変役に立ちました。感謝申し上げます。 そして、示唆に富んだ意見を頂けること、大変ありがたいことと存じます。 夏山シーズンを迎えるにあたって、今年こそは同じ轍を踏むようなことのないことを祈ります…。
この一年で低体温症の恐ろしさは本当に浸透したのでしょうか。 少なくとも、安全に普段から気を遣っている人にとってはそうであると信じます。
しかし、山岳情報に無頓着な観光気分の人はどうでしょうか。 はたして、山の雑誌もチェックせず、誰かに引率されて自分の行く先も現在地も正確に把握せず、装備も人の言うままの人達がどれだけの認識をもつようになったのか…。 そしてたとえ防寒着を持っていても面倒と思うことなく先手をうって使用していかないと効果的ではありません。その判断をできる人達がこのような人の中にどれだけいるのでしょうか。 そのようなことはガイドに任せている、では何ともならない事も浮き彫りにもなりました。 これらの人、また、この遭難を知らずに山を始められた方々にいかにうまく伝える事ができるかが今後の課題になるのではないかと思っています。 低体温症の恐ろしさは、その進行の早さと判断力の低下を来す点であることは間違いないでしょう。tanigawaさんのご指摘の通りと思います。
それが起こる前、震えの出現と停止の段階で処置しなければ発症は止められません。 そして、これすらも条件が悪いと一足飛びに進行していくということも生存者の証言から判明しました。 つまり、雨風の気象条件、どれだけの運動持続が可能か、体の濡れをどれだけ防ぎうるか、非常時の待避が可能な装備か、総合的な判断を下して発症するような条件にならないように行動をしていくしかないということになります。 私たちができる最大の対策は、勉強して備えることです。 遭難事件は悲劇ですが、そのなかで適切な処置によって意識障害を来した重症の方でも生還されました。
このことを一筋の光として認識したいと思います。 風をよけて体温を保持すること。乾いた衣服を身につけ、暖かいものと速やかに熱源となる糖分を摂取すること。 つまり、熱のロスを最小に、加熱を最大にするように心がけるというとてもシンプルな事。 いかにこれが大切なのか。 最後に…
1に体力(発症させない行動維持能力と耐寒能力) 2に知力(発症する条件を知り、状況を判断する能力) 3に装備(的確な処置を行うための装備と条件をよくするための着衣) 優劣つけがたいですが、低体温と戦うための武器はこれだと思っています。 といっても頭だけの初心者ですから、安全を確保しながら体験していくしかないだろうと思います。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 あれから一年ですね。 ちょっと質問なんですが 例えば ツアー参加者が本能的に危険を感じてツアー全体の意向に反して停滞や撤退などを強行(ツアーパーティーを離脱)することは許されるの でしょうか?
RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 komadoriさん、すごいです! 私がこれから紹介しようとしていることの大事な要点を、簡潔にみなまとめちゃってる。それに何と言っても、低体温症が新たにどうとらえられてきたのか? 1人1人が登山者としてどういう心構えや備えをすべきか? その新しい内容をしっかり押えられてますね。 私が、中間報告書と、最終報告書で強く印象付けられたのは、 「低体温症とは、登山者にとって、薄壁一枚の向こうにあるような、身近な脅威であること」 「登山の様ざまな危険の一つとして絶えず意識して備えをとっておくべきことで、不意打ちでくらったら、自分には判断も、対応もしようがないこと」 このことです。 あの日、トムラウシで8人と1人、美瑛岳で1人、我が身に何が起こったのか、おそらく認識できないまま意識を失っていったのだと思います。低体温症が、代謝にも大きな攪乱を起こすことが今回、調べられました。ものすごく苦しいなかでのことでもあったように想像します。 89年秋には、立山の大量遭難もありました。一人一人が事態を知ることで、登山の世界のきちんとした常識に、この問題をしていきたいと思っています。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応
ほんとうにあれから1年という感じですよね。あのとき、miccyanさんからコメントをいただきましたが、あれが最初のmiccyanさんとの「会話」だったように思います。 >例えば ツアー参加者が >本能的に危険を感じて >ツアー全体の意向に反して停滞や撤退などを強行 >(ツアーパーティーを離脱)することは許されるの >でしょうか? 旅行の規定では、パーティーのメンバーはリーダーの指示に従ってもらう、従わない場合は、それにともなう経費と危険は自分持ち、というルールだったと思います。 しかし最終報告書からは、一部に意見がでた程度でした。出発というときの個人の気持ちのなかで「停滞したい」という心境だったことを、あとで語った人がいました。 でも、ガイドの決めたことに反する行動をとろうとしたということは、なかった様子です。 人間には、危険にたいして、備え、回避する本能が確かにあるはずです。 ところがそれは、表立っては発揮されなかった。 その原因として、低体温症への認識以前のこととして、参加者の経験、技量の問題がやはりあります。生存者の男性は、「これほどの長丁場の行程だと知っていたら、絶対出発なんてしなかったのに」という趣旨の話をしています。ガイドを批判する内容ですが、客観的に見れば、自分でルートすらしっかり調べていなかったということです。リーダーの出発の判断も、ルートの長さ、厳しさを体験していないゆえのものではないでしょうか。 つまり、危険にたいする本能的な認識を効かすには、この山でこの条件で、何が危険かを判断するだけの、また備えを考慮するだけの、的確な知識と二次的もいいから体験が必要ということではないかと、私は思います。 一方、静岡県のパーティーの場合は、出発も、途中でも、前日にも、内部でさまざまな意見があり、それが持ち越された様子です。 その1)急性低体温症と、急激な意識障害、行動不能
「最終報告書」で改めて裏付けられたのは、パーティーのなかで行動に支障を起こす人が、かなり早い段階で生まれたことです。 この点では「山と渓谷」の今年3月号が、生存者の証言から、ヒサゴ沼避難小屋から縦走路にあがる雪渓、また縦走路に上がってすぐの地点で、2人が介助されなければ歩けなくなったと、していました。 パーティーは、5時すぎに小屋を出発して1時間もたたずに行動に大きな支障が出ていたことになります。 最終報告書は、「最初に体調を悪くした人が、疲労ではなく、低体温症の始まりであったことがその表われである。」としています。また、「低体温症の前兆はロックガーデンであったと思われる。」と記しています。時刻は8時30分頃。 女性客Gさん(64 歳)の証言。 「ロックガーデンの登りで、男性客M(66 歳)さんが脚を空踏みし出して、ふらふら歩いていた。支えて歩かせていたが、次第に登る気力が失せたのか、しばしば座り込むようになった。これでは自分の体力が持たないと考え、ガイドに任せた」(最終報告書) ロックガーデンでは、2,3人が低体温症の兆候を示していたとのことです。 午前10時ごろ、北沼へ。ここまでコースタイムの2倍の5時間を費やしています。 低体温症の症状は、北沼に上がって、沼の増水のため渡渉したあと、意識を失う人を介護するため烈風のもとで行動をやめた段階で、パーティー全体に拡がります。 女性客Gさん(64 歳) 「北沼は白く大きく波打っていた。小さな沼がこんなに、と怖かった。渡渉後、その先で皆休んでいたが、女性客K(62 歳)さんが嘔吐し(何も出ない)、奇声を発していた」(最終報告書) 「聞き取り調査によると、北沼分岐の待機でほぼ全員が低体温症の徴候を示していた。」(最終報告書) パーティーにとって深刻だったのは、ガイド3人のうち、リーダー・ガイドをふくむ2人までが、低体温症に見舞われたことでした。 ガイドの体制は、リーダーA(61 歳、北沼で死亡)、ガイドB(32 歳、唯一のルート経験者)、ガイドC(38 歳、渡渉時に冷水を浴び、発症。その後、意識を失う)、の3人。 「全員、渡渉を終える。「どこか風を避けられる所はないか」というリーダーA のリクエストに応えるべく、ガイドB が出発しようとしている時、ガイドC(38 歳)から「ずっと肩を貸して歩いてきた女性客J(68 歳)の様子がおかしい」との指摘がある。スタッフ3 人は懸命に女性客J の体をさすったり、声を掛けて励ましたり、暖かい紅茶も飲ませたりしたが、しだいに意識が薄れていった。」(最終報告書) 一行は、意識を失う人が出たためガレ場でそのまま約1時間停滞します。 ガイドCの証言。 「リーダーA(61 歳)が『俺が看るから』と言うので、『それじゃ、お願いします。私は本隊を追いかけますので』と言って別れた。彼は男性客D(69 歳)が貸してくれたツエルトで女性客J(68 歳)を包んでさすってあげていた。風が強いので、ツエルトを巻こうにも巻けない状態だった。そのころの彼の表情は、どこか虚ろだったように思う」 女性客H(61 歳)の証言。 「リーダーA(61 歳)さんは度々お世話になっているが、特別調子が悪そうには見えなかった。ただ、ザックカバーを飛ばされているので、体もザックも濡れて、寒いだろうな、と心配していた」 現場は、「岩がゴロゴロした遮蔽物が何もない場所で、プロのガイドがビバーク・サイトとして選ぶ場所ではない」(最終報告書)ところ。 *3人のガイドがいるのに、一度は移動を指示したものの、その場で介護としたこと、 *以後もパーティー全体に風の弱い地帯への退避を指示しなかったこと、 *ツエルトも満足に扱えない(風とガイドらの行動能力の低下)、リーダー自身が我が身さえ守ろうとしなかったこと、 *動けるメンバーが退避行動に移った直後に、行動不能者が次々とあらわれたこと、 などから、「ほぼ全員が低体温症の徴候を示していた」ということは、現実のことだったと思われます。 「そのような対応ができなかったということは、リーダーA自身に危急時対応の経験が少なかったか、あるいは体調不良であったか、はたまた本人も低体温症に罹っていて、判断能力が低下していたものと推測される。彼が亡くなっている今となっては、確かめる術がないのが残念である。」(最終報告書) この時点で、パーティーは構成員の多くが下山行動に耐えられたない、遭難段階におちいりました。 最終報告書が指摘しているのは、低体温症の急激な進行です。 生存者に聞き取り調査した医師のコメント。 「体温下降時の症状は前述したとおりで、体温が下がる過程で体温下降を防御しようとする「震え」が、必ず35 ℃台でくるものと思っていた。 しかし、その「震え」の過程を見ると、「震え」がほとんどなく意識障害にすぐに移行した例や、「震え」と同時に「眠気」に襲われた例、震えながら意識が飛んだという症状が見られたことは、体温下降の過程で同じ症状が段階的に進行していくのではない、ということが分かった。 行動中のどこかの時点で「震え」があったものと思われるが、行動していれば低体温症にならないということではなく、体温を作り出す「熱量」がなくなれば、「震え」がこずに体温が低下すると思われた。 「行動中に意識が飛んだ」「ストーンと落ちていくように意識がなくなった」という証言は、急激な意識喪失がきたものであるが、これは寒中の街で起こった低体温症の患者の例には見られない症状で、山で起こった偶発性低体温症の特徴的な症状とも思われる。」(最終報告書) 今回の急激な発症を、この医師は登山の場合(偶発性低体温症)に起こる稀れな事例ではなく、「特徴的な症状」であると指摘しています。 低体温症が、特定のメンバーにではなく、パーティー全体に一気に現れるというのは、昨年の最初のスレッドに書いたことであり、実は登山における低体温症の発症の、かなり基本的な現れ方ではないかと、私は思います。「疲労凍死」という「事件」名称は、この点でも一掃しなければなりません。 1人が動けなくなると、その場で、介助者をふくめ何人もが行動不能に陥る。89年の真砂岳の大量遭難死も同じことが起こりました。1913年、長野県中箕輪高等小学校の木曽駒ヶ岳集団登山における遭難事故(11人死亡、「聖職の碑」)がありますし、私の郷里の吾妻連峰でも同種の遭難があります。 常でない震えがきてから備える(退避、重ね着)のでは、次に来る意識障害や行動不能に、間に合わない場合がある。そして、それが登山の特徴的な現れであるからこそ、来るときは同じ状況にある登山者に(もちろん最初の兆候はあるにしても)一斉にくる。 低体温症は、追い込まれてから対応することは困難である。登山の危険の基本要素として、気象や行程から予測事項に入れて、予防的に対応する、そういう相手である。このことを、トムラウシの犠牲者と生存者が身をもって登山界に訴えているように、私は受けとめています。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 tanigawaさん 当日の私の状況について,少し説明をさせて下さい。 >寒さをかなり感じていた様子ですから、紙一重で低体温症にいたらなかったように読めます。 > それは、行動を続けるだけの体力、筋力、カロリー補給と、行程の短さのせいだったように思います。ウエアは、できれば行動前にもっと着込む必要があったですね。 この点についてですが,実は,私の場合,行動中はそれほど寒さは感じておりませんでした。
衣服の状況ですが,夏山用の薄手の長袖シャツと長ズボンの上にゴアテックスの雨具を着用していました。 最大瞬間風速30メートルを超えるような風に立ち向かって歩いていましたので,相当の熱量消費により,体温が維持されていたのではないかと思います。ゴアテックスのおかげで風による冷えを遮断できていたこともあると思います。一方,手先だけは,グローブをしていても凍え,とても冷たく感じました。 また,行動中は一度も震えを感じませんでした。ところが,避難小屋の中に入ってから2〜3分で体中が震え出しました。文字通り歯がガチガチと音をたてて震えました。 これは,行動が終了したことで発熱がなくなり,急激に体温が低下したためと考えています。 私が思うに,低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持することではないかと思います。 そこで重要なのは,行動を継続できるだけの体力と,発熱を維持できる量のカロリーの摂取です。 私の場合,登山途中で避難小屋に戻り,十分なカロリー摂取ができていたことが,その後の行動維持に寄与したと思います。 トムラウシ山遭難事故では,ロックガーデンの登りで既に一部の方に低体温症の症状が出始めたということですが,あの暴風雨の中で行動を続けられなくなったために発熱を維持できず,体温低下に至ったのはないでしょうか。 今回の遭難では,ロックガーデンの先,北沼付近で長時間待たされ,発熱が止まってしまったたことが,低体温症発症の最大の原因ではないかと思います。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 rikimaruさんへ >実は,私の場合,行動中はそれほど寒さは感じておりませんでした。 とありますので、以下の私の記述のうち、寒さの点は削除いたします。 >>寒さをかなり感じていた様子ですから、紙一重で低体温症にいたらなかったように読めます。 それは、行動を続けるだけの体力、筋力、カロリー補給と、行程の短さのせいだったように思います。ウエアは、できれば行動前にもっと着込む必要があったですね。 それで、「紙一重」だったのかということですが、rikimaruさんはこのときの山行記録に、次のように書かれています。 >なんとか頑張ってここをやり過ごし,白雲岳避難小屋を目指しますが,徐々に体力が落ちていく感じがしました。手袋をしていても指がこごえて,うまく動きません。ゴアテックスの雨具を着ていても,霧状の雨が中の衣類を濡らします。 途中の岩陰で休憩をとり,ウェストバッグに入れておいたアメ玉を頬張ってエネルギー補給です。ザックを開けて食料を食べるような余裕はありませんでした。 小屋に入ってザックをおろした途端,寒さと安堵感で全身が震えました。 白雲小屋は、先代くらいの時期の小屋の前を秋に通過したことがあります。いまのものもそうですが、きちんとした避難小屋で、風も避けられます。 そこに行き着いて、間をおかず、猛烈な震えがきたということは、このときの体温が、「最終報告書」の目安でいえば、次のレベルだったことになります。 **たとえば、「全身的な震え」が始まったと思われる症状があった時を35 ℃、意味不明の言葉を発した時を34 ℃、意識不明になった時を32 ℃以下としたが、確定ではない。 これが、私の「紙一重」の根拠です。 行動を終了したことで、熱の産生が落ち、そのことで体温が下がることはありますが、小屋内で風のない条件で、一方で熱の喪失という点では、戸外にくらべて格段の違いがあります。 この差引をどう見たらいいのか。 A)微妙な状況にあったからこそ、35度水準の震えがすぐに来たといえるのか、あるいは、
B)気持ちが落ち着いたところで、体の正常な反応が始まったのか。 定かではありませんが、体温は警戒信号を発し始める水準ではなかったかと思います。 このことと、手の冷たさ、インナーのウエアの濡れ、休憩しても食事をまもとに摂取できない状況について、rikimaruさんは、書かれています。 もしも、あと1キロ、白雲小屋が遠ければ、rikimaruさんが現場で思案したビバークを実際に実行していたかもしれません。 そこでわが身を守れるか否かは、低体温症の脅威の認識と、カロリー補給と、的確な保温対策にかかっていたと思います。 なお、上記のAとBについては、最終報告書が、震えについて、必ずしも予兆として起こるとはいえず、起こらないまま進行する場合もあるとしていることに、私は注目しています。 つまり可能性としては、小さいと状況にてらしていえますが、次の可能性もわずかにあります。震えがくる水準に体温が下がっていたが、なんらかの原因で震えのプロセスが飛び越えられていたのかもしれない、ということです。 rikimaruさん以外にはその経過を体験していないので、rikimaruさんの記憶や確認がなにより有力です。 rikimaruさんの記録でもう一つ重要なのは、ゴアテックス雨具の下のインナーウエアなどが雨の吹き込みで、小屋で着替えが必要な状態に濡れたと書かれていることです。 これは、汗ということはなかったのでしょうか? 雨にまちがいなく体表がひんやりしていたとすれば、トムラウシ遭難でもう一つ、問題になる、ゴアテックスの機能や雨具のつくり、そこから来るインナーのウエアの保温性の確保という問題が出てきます。 この件で予防的にいえば、低体温症が心配される条件では、予防として、下着、中間着の保温性に気を配る必要があります。 rikimaruさんに、もう一枚着るべきだったと書いたのは、その理由からです。 なお、行動を続けることの可否については、最終報告書も新しい見解をのべています。別に1項をとって紹介します。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 tanigawaさん 詳しい分析をしていただき,恐れ入ります。 私の状況について,若干補足させていただきます。 1 衣服の濡れについて 行動を再開した午前11時頃以降,雨は小降りとなり,視界30メートル前後のガス状となったことは私のレポートに書いたとおりです。登山をされる方ならだれでも経験があると思いますが,濃いガスの中を歩行すると,かなり衣服が濡れます。雨具を着ていても,袖口や首周りの開口部周辺が濡れることがあります。当日は,大変強い風の影響で,細かい水の粒子が,開口部から進入したと考えています。 避難小屋に到着した時,着替えたのは長袖シャツのみですが,全体が濡れたわけではなく,袖や首周りが濡れていて気持ちが悪かったので,着替えたわけです。下着やズボンは着替えていません。雨具の性能には問題なかったと思います。問題があるとすれば,それは,一眼レフカメラを首から下げたまま雨具の内側に入れて歩いたため,開口部の面積が広がったことが考えられます。 2 体の震えについて 避難小屋に到着してから体の震えが起きるまでに,ある重要な状況変化があります。それは,小屋に入り,小屋番さんに宿泊の申し込みをしていた時に,小屋番さんから,ザックを降ろすよう促され,床にテント装備の大型ザックを降ろしたあとに,震えが来たという事実です。 歩行中はずっとザックを背負っていましたが,ザックが保温材となって,背中の冷えを防いでくれていたのではないかと思います。それがザックを降ろしたことで,背中から体温が一気に放出された。と同時に,行動に伴う「熱の産生が落ち」たことで,震えが来たのではないかと。 あのときの震えは,例えば真冬に暖房の効いたクルマから薄着のまま外に出たときに発する震えによく似ていました。外に出てすぐに震えが来るのではなく,少し時間が経過してから震えが来るというパターンです。震えていた時間もわずか数分だったと記憶しております。 3 遭難パーティとの差異について 私の歩行時間を昭文社の山と高原地図のコースタイム(CT)と比較するとこうなります。 (CT)旭岳石室(2:30)旭岳山頂(1:50)北海岳(1:40)白雲岳避難小屋 計6時間 (実際)旭岳石室(1:50)旭岳山頂(1:40)北海岳(1:10)白雲岳避難小屋 計4時間40分 あれだけの厳しい気象条件でも,ザック重量20キロをかついでCTを1時間20分短縮しています。 (ちなみに快晴となった翌日は,写真撮影に熱中してCTを大幅に上回りました。) 一方,遭難したパーティの行動記録では,ヒサゴ沼から北沼までCT2時間半のところを倍の5時間かけています。 歩行に相当な困難が伴い,遭難パーティが北沼に到着したときには,皆,疲労困憊ではなかったでしょうか。 私が岩陰でビバークを考えながら休憩したのは,丸4時間,休憩らしい休憩をとらずに歩きつづけ疲れがたまったためです。4時間も行動をしていれば,誰でも,疲れを感じると思います。しかし,疲労困憊していた訳ではありません。思考も冷静でした。あの厳しい状況下でも,ポイントごとに記録写真を撮っていますし,地図とGPSで現在位置を確認するという余裕もありました。 したがって,「紙一重で低体温症にいたらなかった」状況と指摘されると,正直,違和感があります。 RE: 09年トムラウシ遭難――「最終報告書」にみる低体温症への対応 rikimaruさんへ 状況のご説明、よく納得しました。 >したがって,「紙一重で低体温症にいたらなかった」状況と指摘されると,正直,違和感があります。 この件も了解いたしました。 限られた情報のなかでの私の書き込みのために、ご説明のお手数をおかけして、申し訳ありませんでした。 rikimaruさんのケースは、GPSの積極的な利用によって、状況を打開していった、たいへん典型的な事例だと思いました。北海平は、残雪が多いこの時期には、年によってはルート判断がたいへんなところですね。 また、rikimaruさんの経験が冷静な位置確認と判断を生みだされていたように思います。 その2)ガイドは低体温症を認識していたのか? そもそも認識とは?
今回の遭難死の直接の死因は低体温症でした。 最終報告書は、この件で、そもそも旅行会社のガイドの研修でも、また日本山岳ガイド協会の研修でも、低体温症がほとんど位置付けられてこなかったと述べています。 登山のなかでは、事故・遭難にいたる危険について、通常の場合、登山者は地形や積雪などから、あらかじめその危険を予測し、回避する対応をしています。 ところが低体温症の場合は、これまで「疲労凍死」という誤解を生む名称が通ってきたために、実際には「疲労」そのものとは異なったしくみで、そして「凍死」とは言えないような気温の条件と季節に起こることが、十分認識されず、登山者に伝えられてきませんでした。 今度のパーティーはどうだったのか? 「生存者ほぼ全員が低体温症について知らなかった、と答えた。また、2002 年に同山域で、低体温症で亡くなった事例があることも知らなかった。 2 名のガイドは低体温症については知っていたが、その詳細については知らなかった、と述べた。」 「ツアー会社、ガイド、ツアー客に低体温症の知識がなかった」 「今回の遭難の直接的な原因は、低体温症である。近年、低体温症に対する注意がたびたび喚起されており、活字にもなっているが、スタッフはそれほど深刻には認識していなかったのではないか。」 亡くなったリーダー・ガイドがどこまで低体温症について認識していたのかについては、本人の証言が得られません。しかし、最終報告書がいうように、実際の言動に移すまでの認識はなかったと見るほかありません。 1)遭難のすべての過程で、とくに発症者が出た後でも、3人のガイドも、参加者も誰一人、「低体温症」と言葉で話したものはいなかった。 2)出発の判断から、最初の発症者が出たロックガーデンでも、本人が行動不能におちいるまでの過程で、低体温症からパーティーを予防し、発症者が出たあとは拡大を防ぐ対応がない。 何が起こったのか、次にどういう危険がくるのか、認識していた形跡がない。 こうしたなかで、パーティーは低体温症に無防備でさらされ、遭難におちいってもなを、認識がないまま個々に対応することになります。 男性客F(61 歳) 「引き返してみると、M(66 歳)さんが直立不動で立ち止まっているのが見えた。岩場の通過ではM さんを抱えて歩かせ、ほかの女性たちを先に行かせた。さらにM さんをなんとか歩かせようとするが、脚を出せと言っても、左右の区別ができない。平らな場所でもしゃがみ込んで、立ち上がれない。なぜ歩けないのか、自分には分からなかった」
男性客D(69 歳) 「低体温症で疲労し、意識が朦朧としている人を担いでテントに入れる場面は、いくら考えても何が原因か、摩訶不思議だった。」 「女性客H(61 歳) 「とにかく寒くて気がついたら、テントの中で女性2 人と並んで寝かされていた。夕方だったから19 時ごろか? ガスコンロが一晩中、燃えていた。それでも寒いのでダウンを着て、さらにガイドB(32 歳)さんがレスキューシートを貸してくれた。それでもなお、自分は低体温症だとは思っていなかった」 ガイドC(38 歳) 「低体温症の知識は、文字の上では知っていた。しかし、実際に自分がなってみて、こんなにあっけなくなるんだと感じた。この分岐に着いた辺りから『あぁ、俺はもう死ぬんだ』と思い始めていた」 今回の最終報告書のなかで私が気付かされたのは、そもそも、研究の分野からも、登山時の低体温症がどのように進行するのかさえ、まだ調べが途上だというのが、現状だということです。 ロックガーデンでの明瞭な発症から、2時間で、最初の犠牲者が出たことにも、研究者は驚きをのべています。 35度前後で始まる体の震えも、自覚できなかった人がいます。 詳細に血液等の検査がおこなわれたガイドCの検査結果からは、熱の産生や思考機能にもかかわるようないくつかの異常値が見つかっています。 低体温症については、今後、さらにその脅威が明らかにされていくのではないか? その途上にある今の段階では、カロリー補給でも、着衣でも、行動時間の限度の問題でも、低体温症の危険がある条件では、気付かないうちに敷居をまたいでしまうことがないように、十分な対応が必要。こんなことを、現時点では考えています。 その3)静岡県のパーティーはなぜ生還できたか? 行動続行の当否
最終報告書には、静岡県の別の6人パーティーが、同じ日の同じルートを行動し、1人が低体温症となったなか、回復の措置をとって、全員下山したケースを検討しています。 まず、パーティーが低体温症に見舞われた状況は次のようなものでした。(いずれも最終報告書から) 「ヒサゴ沼分岐に到着して、風の強さに驚く。天沼の木道を8 時ごろ通過。ロックガーデン付近で風雨が強く、寒いと思った。しだいに震えがきて、盛んに眠気がして転倒した。このロックガーデンでアミューズPを追い越したのが9 時30 分過ぎ。彼らはあまりにも遅すぎるという印象だった。」 (注、転倒した人、震えや眠気が来た人は、1人のよう) 北沼で。「立ち止まると寒いので、休憩は取らずに歩き続けた。」 「トムラウシ分岐付近よりメンバーのA(67 歳、女性)さんがよろよろし出し、足がふらついてまっすぐ歩けず、仲間の問いに対する返答が覚束なくなった。仲間に荷物を持ってもらってトムラウシ公園付近の岩陰で休憩し、仲間が差し出したお湯を5 杯飲んだ。この時、ザックからダウンジャケットを出して雨具の下に重ね着した。」 「トムラウシ公園には12 時ごろに着いた(出発から6 時間経過)。ここでパーティを2 つに分け、Aさんは男性2 人に挟まれた格好で後方を歩いた。前トム平付近で風が止んだ。コマドリ沢への下りにある雪渓付近で体調が戻り、しっかり歩けるようになった。」 「ヒサゴ沼避難小屋を出発して13 時間後にトムラウシ温泉に着き、アミューズPの遭難を知った。たびたび転んだため雨具にたくさん穴が開いて、下半身には打撲痕があった。」 A さんの証言。「自分が低体温症だったとは知らなかった。仲間には「夢遊病者のような歩きだった」と言われた。低体温症から脱することができたのは,仲間が助けてくれたためと思っている。昼ごろ、休憩した時にお湯を5 杯飲んだのと、ダウンジャケットを重ね着したことが、体温を回復させてくれたと思っている、と語った。」 次は、この状況を調査し、分析した医師のコメントから。 「しかし、トムラウシ分岐に差し掛かると、メンバーの一人が低体温症を発症した。 まっすぐに歩けない、転倒する、会話がしどろもどろになった、などの症状から体温は34 ℃、もしくはそれ以下に下がっていたと推定できる。34 ℃という体温は山中で回復可能なぎりぎりの温度で、条件が悪ければ、そこからどんどん下降することがある。」 「立ち止まることなく歩き続けたことは、結果的には良い結果に結びついたと思われる。しかし、それはあくまでも結果論的なことで、場合によっては低体温症が悪化して、アミューズPと同じ遭難が起こったかもしれない。低体温症の症状が悪化し出した時に風がやんだこと、お湯を飲んだことで熱源? と水分の補給ができたこと、ダウンジャケットを重ね着して、体温の放射を防ぐ空気の層ができたことが、体温の回復に繋がったと言えるだろう。」 「このパーティがアミューズPと同じ時間、同じコース、同じ気象条件下でありながら無事下山できた理由は、周到な準備、仲間意識、前日の短い行程による体力の温存、長時間の停滞がなかったこと、などが挙げられる。 しかし、天候の予測とパーティの行動決定については、意見をまとめることに苦慮していた。行動に不安を感じたら、やはり安全策を優先させるべきだろう。結果的に無事下山できたとはいえ、あの悪天候の中、ヒサゴ沼の避難小屋を出発すべきではなかったと思う。」(以上、最終報告書から) このパーティーの場合は、トムラウシに次のような準備、訓練、装備をもって、望んでいました。 「リーダーは6 年前にトムラウシ登山の経験があった。6 名が参加することになり、出発までにそれぞれ役割分担を決めて計画を練った。メンバーは女性4 名、男性2 名で、平均年齢が65 .8 歳。 1 日の行程は年齢を考慮して5 〜6 時間とし、山中3 泊4 日で、1 日予備日的に余裕を持たせた。テント2 張を持参、食料計画も立てた。防寒対策としてフリース、ダウンジャケットを持参し、荷物は一人13 Kg 以上になった。出発までに4 回のミーティングを重ね、ボッカ訓練は15 kg 以上の荷物を背負って1 人3 回のノルマで山行を行ない、また、北海道は雨も予測されるので、雨天の訓練山行も行なった。」(最終報告書) 私がこの経験と記録から学んだことは、次の点です。
1)まず食糧計画が、両パーティーで根本的に異なる。 アミューズ社のトムラウシツアーパンフレットは、「背負える最大荷重の目安」として女性の場合、「50歳では12キログラム、60歳では8キログラム」としてきた。 参加者は自前のコンロをもたず、調理はガイドのお湯の配給に頼っていた。メニューと量は制限された。 「生還者が食べていた内容を大まかに言うと、朝食としては、インスタント・ラーメン、アルファ米(前夜の残りの半分という人もいた)、スープなどの回答が多かった。行動食については、カロリーメイト、ソイジョイ、ゼリー飲料、バナナ、チョコレート、アメなどを食べていた。また夕食では、アルファ米とカレー、調理済みのアルファ米(半分だけ食べるという人もいた)、スープ、野菜といった内容だった。 これらのエネルギーの総和は、多めに見積もったとしても1000kcal台の前半から後半にしかならず2000kcalを超えている人はほとんどいないように思われた。」(中間報告書) これは日常生活で摂取しなければならない必要カロリーをも下回っている。 ヒサゴ沼の出発の是非が一時、検討されたときの、参加者の証言。 女性客A(68 歳) 「・・・私個人としては1 日停滞しても、キャンセル費用は掛かるが、命には代えられないと思った。 ただ、私は用心のため8 食持ってきたが、ほかの方は6 食ぎりぎりではないか。最悪、皆でシェアすることになるな、と思った」 このカロリー摂取の大きな違いが、冷たい風雨のなかでも静岡県のパーティーの行動の継続をささえ、低体温症におちいる仲間を最小限に抑える基盤になったと思われる。 2)静岡パーティーは、出発の判断については大きな意見の違いがあったにしても、最初の発症者が出たあと、ついに行動に支障が出た時点では、体温保持、お湯の摂取などの対応を組織的にとったこと。 これによって、発症したメンバーは体温と判断、行動の力を回復した。フォローしあえる体制があった。 ここで大事なのは、静岡県のパーティーには低体温症の症状や介助について、明確な認識がなかったように思われること。なぜなら、発症したAさんの証言にあるように、歩けなくなった理由について、本人も低体温症と認識していない。 おそらく現場の会話の中にも低体温症の言葉はなかったのではないか? 認識があれば、最初に兆候があらわれたロック・ガーデンの時点で、なんらかの対応と会話が残ってきたはず。 寒いこと、消耗したことなどから、ある時点で危機は認識され、トムラウシ公園まで下降を始めたところで、行動不能になり、ダウンジャケットを着たり、カロリー補給の手立てがとられた。 3)低体温症の脅威にさらされる気象条件と行程のもとで、このパーティーの場合はコースタイムから3時間ほど遅れたものの、行動を継続することで、体温低下を防ぎ、危険な標高から脱することもできた。 医師が述べているように、「それはあくまでも結果論的なことで、場合によっては低体温症が悪化して、アミューズPと同じ遭難が起こったかもしれない。」 また、この経験は、誰にでも、どのパーティーにも、あてはまるものとはいえない。 食糧計画がずさんで、カロリーを行動中もふくめて補給できない場合、 長い行程を強風下で、なんども転倒しながら行動を継続する、その基礎体力が欠けている場合、 気温・強風の度合いや防寒服装などの不足から、行動中にも、発熱量が喪失する熱量に負けている場合、 こうした場合は、行動を続けることは不可で、一刻も早くより安全な場所でビバーク態勢に入る必要が出てくる。しかも、上記の状況は事前には予測しがたく、他のメンバーの体調を的確に把握する必要が出てくる。低体温症へのしっかりした知識もいる。 その点では、このパーティーの場合も、認識・判断もふくめて適切だったといえない面を残している。 最初の自覚症状としては全身の震え、足のもつれ、指先が使えないほどの冷たさなど。パーティーメンバーに発症者が出る場合も、危険信号。このパーティーでは、ロック・ガーデンからがその始まりだった。 本来ならここで、保温用の衣類を重ね着する、即効性のある行動食をとるなどしてもよかった。以後の経過はかなり変わったはず。 そして、なお歩行に支障が出る状況が改善しないのなら、北沼にいたる前に、引き返すか、天人峡へ下山の判断もあった。 私の意見では、静岡パーティーの場合は、発症者の症状が行動を続けられる範囲だったことが幸いしたとしか言えない。1人完全に動けなくなれば、どういう結果になっていたか。 これほどの準備をしたパーティーにとっても、この日は過酷な気象条件と長い行程だった。 もう一つ、行動継続に幸いしたのは、発症者が歩行が困難になり、介助を受けた場所が、行程が下降に入った十勝側の下山への分岐付近だったこと。 もしも北沼で「カロリー切れ」が起こっていたら、行動を続けることには、困難が大きくなる。十勝側は、よく踏まれており、地形も穏やか、あとはどんどん下降するだけで、主稜線をはずれ風も弱くなっていく場所だ。 現に、アミューズ社のパーティーが北沼からトムラウシ公園一帯で風にさらされていた時刻に、静岡県のパーティーは前ト平へいたり、風が弱まったことを証言している。 行動の継続か、とりあえず風をよけられる場所を選んででビバークするかは、状況と体調、残されたルートの難度次第。今度の件から一面的な教訓化はできない。動けるうちに、時機を逃さずその判断をすることが必要になる。 4)では、静岡パーティーの出発の判断はどうだったのか? 遭難事故後のいまの段階で低体温症への認識がすすんだなかでふりかえるならば、医師がのべているように、出発の判断は正しくなかったと思う。 これは静岡の同クラブの代表者が、事故の経過、教訓として、「経験がありそうに見えたガイドがいるアミューズ社パーティーが小屋を出発して行ってしまったので、自分たちも出発することにした」と十分な検討がなかったことを報告している通り。このパーティーの場合も、下山口の宿の予約と航空機の予約の制約があったと伝えられている。 それならば、どうしても行動を起こすというなら、3時間以内で森林限界に降りられる天人峡をめざすべきだった。 両パーティーはどこが違っていて、どこが同じだったのか? このような気象条件で登ることに、ふりかえって考えて何の意味があるのか? 答えを問い続ける意義はあると思う。 その4)その日のトムラウシの悪天候は、特別なものではなかった 気象の検討からも、低体温症との関係で新しい情報や考え方が、最終報告書には盛り込まれています。(中間報告書と同趣旨のものです。) 1つは、あの日のトムラウシの気候は、数十年に一度というような、特別の悪天候だったのか? という点です。 いま1つは、北アなど本州の山岳では夏季に同じような気象条件になることはないのか? という点です。 (1)7月16日の悪天候はめったに起こらないものだったのか? 最終報告書は、過去の観測データを検討して、こう記述しています。 (過去6年間の高層天気図と高層気象データからの検討) 「札幌の7 月午前9 時の800 hPa での月最低気温、月最大風速の極値を示す。月最低気温の極値を見ると、1 位が0 .5 ℃、10 位が4 .5 ℃で、遭難日16 日の気温8 .4 ℃は10 位の記録にもはるかに及ばない。また、月最大風速を見ると、1 位が31 m/sec、10 位が27 m/sec であり、16 日の記録20 m/sec よりもはるかに大きな値となっている。これらから、16 日は低温強風の悪条件下ではあったが、数十年に一度というような極端な気象条件下ではなかったということができる。」 「7 月の最低気温を見ると、6 年間の平均で2 .8 ℃と低く、極値では0 .2 ℃(1993 年7 月)という氷点下に近い値が記録されている。これは、7 月16 日の最低気温3 .8 ℃と比較しても低い値である。これらより、遭難時と同様の低温は大雪山では7 月に毎年のように記録されていることが分かる。」 (風の強さは、どの程度の水準だったのか) 「五色観測サイト(2015 m)での2009 年7 月の気象観測結果を図4 に示す。図より、遭難日の16 日に匹敵するような強風、低温の悪天候が7月8 日に見られる。平均風速が17 m/sec、最大瞬間風速が25 m/sec に達し、最低気温は6 .6 ℃を記録している。また、7 月10 日の悪天候では最低気温が4 .1 ℃となっている。これらより、2009 年7 月のわずか1 カ月間でも遭難時と同様の気象状況が起きていることから、遭難時の状況は大雪山として決して特異な状況ではなかったということができる。」 「これらより、7 月16 日のトムラウシ山の気象は、大雪山では例年起きている気象状況であり、決して特異な現象ではない。」 あの日のトムラウシの天候は、入山した登山者をあそこまで苦しめたものだったにしても、気象条件としては夏季に毎年のように起こっている範囲のものだったということになります。 なお、この項の筆者は、トムラウシの地形が風を強めるものだったことの検証は、それとして必要としています。 (2)北アなど本州の山岳では夏季に同じような気象条件になることはないのか? (立山・内蔵助山荘と、大雪・白雲岳との比較) 「平均気温を見ると観測年は異なるが白雲岳避難小屋、内蔵助山荘とも7 月が10 ℃前後、8 月は11 .5 ℃前後とほぼ同じ値であった。7月の月最低気温は、白雲岳避難小屋が平均2 .8 ℃、内蔵助山荘が平均4 .4 ℃と白雲岳避難小屋の方がやや低かったが、8 月の月最低気温は白雲岳避難小屋、内蔵助山荘とも平均で4 ℃前後とほぼ同じであった。また、白雲岳避難小屋では1993 年7 月に0 .2 ℃、内蔵助山荘では、2002 年8 月に0 .1 ℃と夏期にもかかわらず氷点下近くに達する低温が記録されていた。以上のことから白雲岳避難小屋と内蔵助山荘の7、8 月の気温状況は平均的に見るとほぼ同じであり、両山域とも夏でも気温が氷点下近くまで下がることがあることが分かった。」 「2000 m 級の大雪山の稜線付近の気象状況は、3000 m 級の北アルプスの稜線付近の気象状況に匹敵するものであり、夏山といえども氷点下近くの低温下、風速20 m/sec 近くの強風下に曝されることがある」 「寒冷前線通過時には夏の北アルプスでもトムラウシ山で遭難が発生した7 月16 日に匹敵する強風、低温といった気象現象が発生している可能性が高い」 ツアー会社は、事故後、事前の準備や用意の「想定を超える悪天候」という趣旨を連発していますが、実は過去の悪天候時の遭難例から、当然備えるべき範囲でした。ガイドの体制も十分な備えが本来必要でした。ここでも、2泊3日の強行軍で大雪・トムラウシを縦走するプランに比べての、必要な下調べの欠如が浮き彫りになります。 北アでこの種の事故が登山者数の割合には少ないのは、おそらく小屋が多いためでしょう。一方では、それだけ様々な装備とレベルの登山者が入っていることになり、潜在的な危険性はつねにあることになります。 (3)低体温症の危険性が高まる気象条件を登山者はどのように察知、予測できるのか? 3つめに、最終報告書の気象の検討に、過去の低体温症の遭難事例のデータと、勤労者山岳連盟などが実施したこの遭難事故のシンポジウムの報告資料なども基礎にして、危険な気象条件の察知・予測について書きます。 http://www.imsar-j.org/2009-04-23-09-38-06/2009-04-23-10-26-43/97-2010-03-04-08-13-46.html 危険の予測という点では、まず第一に、この遭難事故は、北海道の低体温症による遭難では典型的といっていい気象条件のもとで起こりました。 1999年9月 後方羊蹄山で3人ビバーク、うち2人が低体温症により死亡。 ツアー登山者がパーティーからはぐれる。台風が北海道を通過した直後の暴風雨のなかを登山。台風は、オホーツク海で猛烈に発達。 2002年6月 十勝岳でツアー登山のうち1人が低体温症により死亡。 強風、冷雨が稜線ではみぞれになるなか登山。亡くなった方は雨具をバスに忘れ、上半身にアノラックを着ただけ。歩行不能になったなか、避難小屋に放置され、パーティーは山頂に立った。 2002年7月 トムラウシでガイド付き登山など2パーティーが遭難。2人が低体温症で死亡。 本州に上陸した台風が岩手県沖へ抜け、この日釧路に再上陸するなかをトムラウシをめざす。台風は北海道沖で猛烈に発達。 2009年7月(問題の遭難事故) 発達した低気圧が宗谷海峡を抜けて、オホーツク海でさらに発達。低気圧にともなう前線が北海道を通過。大陸方面から寒気が強風とともに流れ込む。平地では雨は山を越したが、上空に雨雲が残り、大雪では暴風雨。 遭難事故はいずれも、悪天候をもたらす低気圧(および台風)が襲来し、北海道の北東海上へ抜けて発達。そこへ北西から冷たい強風が吹きこむという条件のもとで起こっています。 09年のトムラウシ遭難の場合、前日にくらべて16日は強い風と気温の低下が著しく、雨も残りました。低気圧の動きや風の強まりから発達の程度を予測すれば、少なくとも出発時に危険信号は察知できたし、とくに稜線に上がった時点では「2002年の遭難」を当然、連想できる条件でした。 ところが、おそらく、ガイドも参加者もそもそも2002年の遭難を知らなかった! シンポジウムの報告では、最終報告書と同じ事情を記述しています。 気象を読めなかった根本原因に、低体温症と遭難事故そのものの認識の欠如がありました。 第二に、シンポジウムでの気象問題の報告者は、「ガイドが平地の気象予報を参考にしていた」ことを問題にしています。「昼に回復する」は平地の予報。北海道では低気圧が抜けた後に、風と寒気がやってくるのが通常であり、山岳部ではそのことを注目しなけらばならないという指摘です。 この報告者は、高層天気図の情報(短波放送やインターネットで公表される)をなぜつかまなかったのか? 高層天気図には雨の予測も、寒気の入り込みも、読みとれるものだった、とも問題提起しています。 避難小屋の現場でどこまで可能だったかということもありますが、大きなパーティーなのだから、社として専門会社と提携して情報を得られる体制もとっておくべきだったとの意見です。なるほど、翌日には同社の別パーティーが小屋に入ってくるくらいですから。衛星電話の携行(遭難時の連絡用も考慮)も問題提起されています。 出発を遅らせるほど迷うのなら、事態を見極めるための情報をさらに集めるべきだった。 平地と山岳の気象の違いに注意をはらう。少なくともこのことは現場で気象情報から目を向けることが可能です。しかし、この努力も、過去の遭難事例を知らないのでは、「魂」が入りません。ガイドのレベルアップが必須です。社としてのバックアップにしても、事故後も「参加者の自己責任」をいうA社にはこれは無理なお願いかも。 テレビやラジオの一般気象ニュースにとどまらない情報を、どう登山者に提供するかは、全国の山小屋や公的な救助機関の問題にもかかわります。月に1,2度という悪天候が予想されるときの、警戒情報です。今後の安全確保の大事な問題です。 第三に、本州の山でも、遭難事例を知ることは、低体温症の危険の予測につながります。 とうのも、低体温症の遭難事故の気象条件は、北海道の場合と同様に、本州なりの共通性があるからです。 1989年10月8日、立山の真砂岳の稜線で関西の登山者10人が猛吹雪に遭い、 8名が死亡(低体温症)。低気圧が台風並みに発達。強い冬型気圧配置。ザックから食糧や衣類を出した形跡もないまま、遺体はある場所にまとまって倒れていた。 2006年10月7日、九州の男女7人のパーティのうち、4人が死亡する事故が起きた。4人は白馬山荘や村営頂上宿舎から300mまでたどりついて死亡している。 2つの台風が発生し、東北を北上、964hPaで完全な台風並みの勢力。8日にかけて北海道東岸まで移動している。7日からは西高東低の冬型。 パーティは7日に雨の中、祖母谷温泉小屋を出発、途中で吹雪に。 本州の北アなどでの低体温症による遭難も、秋の事故は冬型の気圧配置の烈風のもと、登山者が十分な耐寒装備などの備えを欠いたなかで起こっています。 少なくともリーダー役やガイド役は、急な強風と低温に見舞われる典型的な気象条件(天気図)は頭に入れて、行動、ウエア、行動食を考える必要があります。 その5)保温に役立つものは、意外なものでも、何でも使う
「最終報告書」と、シンポジウムの報告資料などから、18人のパーティー全体のウエアと結果についてリストを紹介します。 亡くなられた方については、ウエアの空欄が多いのですが、これは当時、捜査にあたった警察以外にこのデータを入手、収集する条件がなく、公表もされていないためです。 また、リーダーがウエアについて、必要な時点ごとに確認・指示することをほとんどしてこなかったことも、情報の少なさに影響しています。山岳会のパーティなどの場合には、そのとき、その場で何を着るかまで、かならずお互いで声を掛け合うところです。 メンバー,年齢,結果,発症地点,行動終了地点,*** 雨具,保温着ほか ,,,,,,
女・J,68,死亡(ビバーク態勢とれず),北沼渡渉点,北沼分岐,***ゴアなど, ガイドA,61,死亡(ビバーク態勢とれず),北沼分岐,北沼分岐,***ゴアなど,ソフトシェルなし 女・N,62,死亡(ビバーク中),北沼分岐,迂回コース入口,*** ゴアなど, 女・I,59,死亡(ビバーク中),迂回コース入口,迂回コース入口,***ゴアなど, 男・M,66,死亡,ロックガーデン,迂回コース中間,*** ゴアなど, 女・K,62,死亡,北沼渡渉点,トムラウシ公園,*** ゴアなど, 女・L,69,死亡,迂回コース中間,トムラウシ公園,*** ゴアなど, 女・O,64,死亡(ビバーク中),迂回コース中間,トムラウシ公園,***ゴアなど,ビバークの際、シュラフを使用 ,,,,,, 女・H,61,ビバーク、救助,北沼分岐,迂回コース入口,*** ゴアなど,サポートT、ビバーク時にダウンJ着る ガイドB,32,ビバーク支援、救助,なし,迂回コース入口,*** ゴアなど,ソフトシェル 男・D,69,ビバーク支援、救助,なし,迂回コース入口,*** ゴアなど,(ツェルト携行) 女・B,55,ビバークでOを介助、救助,北沼分岐,トムラウシ公園,***ゴアなど,下着、長袖シャツ、Tシャツで行動。サポートT。これらはすべて着替えを携行・着用。フリースを北沼渡渉手前で着用。ビバークでマット、シュラフ使う。 ガイドC,38,救助,北沼分岐,前トム平下部,*** ゴアなど,ソフトシェル ,,,,,, 男E,64,自力下山,なし,,*** ゴアなど,ロックG手前でダウンJ着用 男・C,65,自力下山,なし,,*** ゴアなど,サポートT。ロックG手前でフリース着用 男・F,61,自力下山,なし,,*** ゴアなど, 女・G,64,自力下山,なし,,*** ゴアなど,ソフトシェルを着用。サポートT。(フリース携行) 女・A,68,自力下山,なし,,*** ゴアなど,北沼以後に、レスキューシートを体に巻いて雨具。寒くなくなった。 補足事項を幾つか。
シュラフはパーティー全員が携行していました。 ビバークのためのテントは、ガイドCがザックに1張りのみ携行していましたが、最後まで使われませんでした。 区分けのうえで、救助された方と、自力下山とを区分しています。しかし、救助された方には、自分でビバークを決めたり、あるいは他のメンバーの危急の介助をするためビバークをし、救命の活動を続けたメンバーが含まれています。 そのことを前置きにして、低体温症の予防という面からのウエアや対応の検討をします。 1)ガイドからは、ヒサゴ沼避難小屋の出発にあたって、低体温症の説明や前兆の症状への注意、雨具の中に何を着て、ザックから何を取り出しやすい場所に置くかなどの説明は、ありませんでした。 2)生還者のなかで、出発時の備えとしてしっかりした用意をされた方々がいます。女Bさんは、着替えをすべて用意し、前日に濡れた着衣はサポートタイツを含めてすべて着替えて出発。寒さを感じた時点でフリースを着用しています。ビバークの時点でもシュラフ、マット等を介助したメンバーとともに使用しています。 3)証言では、亡くなった方のうち少なくとも3人は、フリースをザックに用意していました。 生還者の多くが、ある時点でそれぞれ防寒ウエアを着用していることから、ガイドの的確な指示があれば、状況は大きく変わったことが想像されます。 4)代用品という限界はありますが、意外なものが、役だっています。 1つは、生還した2人のガイドが、雨具の下に着用していた「ソフトシェル」。小さくたためポケットにも入る防風ジャケットですが、撥水機能もあり、ゴアテックス雨具の機能が落ちたり、風が抜けたりする条件で、濡れ防止と保温作用があったようです。 いま1つは、レスキュー・シートを体に巻きつけ、その上から、雨具を着たら寒くなくなった事例です。 5)このことは、ゴアの雨具は防寒性能や、風の抜けにたいしては、頼みにならないことを示しています。 「ここで注意しておきたいこととして、雨具は防寒具ではないということも知っておくべきである。雨天時の行動では、下着のような薄い衣服を1枚だけ着た上に、直接雨具を着ている人がいる。これは無風の場合ならばあまり問題にならないが、今回のような強風時には、肌と外気との間に形成されるはずの空気による断熱層がほとんどなくなってしまう。つまり、裸体に近いような状態となり、急速に体温を奪われることになる。」(最終報告書) シンポジウムでは、「雨具の劣化<防水、撥水能力の実験が急がれる。アンケートではかなり濡れる報告が多い」とされました。 6)私は、保温性の向上という点で、薄手の保温下着(ポリプロピレン製など)の着用が効果的と思っています。 上下ともごく薄手のものがあり、併せても200グラムぐらいと軽量。肌に直接ふれる部分に、熱伝導性がない素材をつかうため、大げさにいえばセーターを1枚着たくらいの効果を感じます。 強風、低温など不安を感じる日、あるいはビバークが予想される際など、「勝負下着」として使えます。 夏用の汗抜けのみを考えた下着は、木綿よりは増しにせよ、保温性・断熱性とは逆の性能がもたされていたりします。 7)ビバークの際に何が役立つかも、今回は教訓的でした。 シュラフやマットレスは、使えうことができる体力と症状の人には、命の分かれ目でした。一方で、ザックの中身をほとんど何も使わず、倒れていったガイドやメンバーがいました。判断と行動がまずやられる低体温症に特有の事態だと思います。 シュラフカバーだけでも、大きな助けになりそうです。 ツェルトも、参加者が携行していたものが活躍しました。 そして、ここでも、保温ウエアです。 ガイドが、もっと早い段階でビバークの判断をし、連絡要員を派遣する一方で、現地調達を含めすべての装備・ウエアを利用していれば、天候は午後にはっきり回復したのですから、犠牲者はかなり減った可能性があります。 個人的なレスキュー装備、非常食・行動食の大事さ、パッキングの際の心得など基本的な事柄を、今回の事故は教えくれたと私は受けとめています。 https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-9921
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