日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 1 昔の日本はアメリカ並みのあくどさ:
1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。 『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。 http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。
日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。 http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html 遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。
拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。 植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。 http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html 日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?
“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。 過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。 「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。 そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。 恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。
「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」
というのが、この問いに対する正解なのである。 朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。
なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。 具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。 そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。 満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。 すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。
だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。 もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。
しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。 そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。 確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。 しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。 そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。 http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html 要するに、当時の日本の政治家もやはりアメリカの手先で、朝鮮統治政策はアメリカの指示通りだったのですね。
96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0
李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。 その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。 1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権
ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)
アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権) イギリス(海関管理権、金鉱採掘権) ドイツ (金鉱採掘権) 日本 (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)
列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。 http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001 李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:
1896年 ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権 鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権 アメリカには京仁鉄道敷設権 雲山金鉱(平北)採掘権 イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権 フランスには京義鉄道敷設権
1897年 ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権 軍隊の教育訓練権 ドイツに江原・金城、金鉱採掘権 1898年 アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権 日本へ京釜鉄道敷設権 イギリスに平南・殷山金鉱採掘権 1899年 ロシアへ東海岸における捕鯨権 1900年 ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権 日本に京畿道沿海の漁業権 1901年 フランスに平北・昌城金鉱採掘権 http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp ________
日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 2 大野「現代の農業問題の原点は大正時代の米騒動にあると思っています。はじめてその頃、日本で食糧問題が出てきました。1918年の米価高騰は、凶作と買い占めが原因で、帝国内自給といって、朝鮮半島、満州、台湾でジャポニカ米を作って、本土に持ってきました」
大野「朝鮮の農民に対する“コメの強制連行”とも言われ、技術と品種を持っていき、韓国に農地試験場を作り、食料の本格的な国家統制が始まったのです。『稲もまた、大和民族なり』と言う言葉がありました。コメが植民地支配の尖兵だったと言えます」 大野「朝鮮の在来品種を作っていたら、引っこ抜かれ、日本が奨める品種の栽培を強制されたと言われています。満州事変のあと、満蒙開拓として、日本の失業者を大陸の農村に押し込んで、土地も強奪し、入植した、ということです」 http://sun.ap.teacup.com/souun/16641.html 朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
朝鮮で飢餓が起きるのは毎年決まった時期だったから、日本統治以前はみんなそれを計算に入れて生活していた: 朝鮮では三月から六月までは食糧が不足する春窮期である。
春窮期を迎えると、朝鮮人は朝鮮総人口の約六割が山野で草根樹皮を採集して 食べる習慣であった。 http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp 朝鮮には春窮という言葉があるようです。秋に収穫した米、トウモロコシ、芋などの食物を冬のうちに食べつくし、春になると餓死者が出るようです。中世の言葉と思いきや、北朝鮮では今でも現実のようです。
どこの国でも収穫の季節はあるものです。逆にまったく収穫の期待できない土地なんて、人はほとんどすんでいません。収穫があるということは年中飢えているわけではなく、収穫があって数ヶ月は食料があり、それを食べつくしたころに飢餓が起きるのが通例ではないでしょうか? http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3998244.html 要するに、戦争や伝染病や特別な事態が起きない限りは春窮位はなんとか凌げるので、それ程は困らなかった。
それから、李朝末期は森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に押さえられたので、そういう特別な事態が起きていた時代でもあった: 1896年 ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権 鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権 アメリカには京仁鉄道敷設権 雲山金鉱(平北)採掘権 イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権 フランスには京義鉄道敷設権
1897年 ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権 軍隊の教育訓練権 ドイツに江原・金城、金鉱採掘権 1898年 アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権 日本へ京釜鉄道敷設権 イギリスに平南・殷山金鉱採掘権 1899年 ロシアへ東海岸における捕鯨権 1900年 ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権 日本に京畿道沿海の漁業権 1901年 フランスに平北・昌城金鉱採掘権 http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp しかし、それらの中でも特に困まった事態が日本の朝鮮統治だった訳で、それで朝鮮人は日本の統治時代には春窮を越せなくなった:
日本の施策によって農民が収奪された日本の朝鮮統治時代
当時の大半の農家は小作農です。
つまり販売する以前に小作料を取られます。 で、日本の統治時代の朝鮮では小作料で生産量の5割を取ることがまかり通っていたそうです。 そして手元の半分の米のうちいくらかを売り、それで来期の籾を買う。残った米ではとうてい生きていけないので、春窮となる、故郷を捨て流浪するという例がいくらでもあります。 朝鮮半島全体の春窮農家戸数については1930年、朝鮮総督府編「朝鮮の小作慣行」(1932)によると、
自作農 92(18.4) 自小作農 323(37.5) 小作農 838(68.1) 千戸(全体の割合) で全体の48%以上が春窮だそうです。 日本の統治時代はまともな治世では無いですね。 次に、では小作農以外はどうだったかと言いますと、次の情報をご覧ください。
農民の戸数とその層の割合を示したものです。値は%です。 全体で100%にならないのは兼業農家がいたためです。 また、地主1は自分で小作を行わない地主、2は一部を自作する地主です。 自小作農は、自作と小作の兼業をしている農家です。 年 農家戸数 地主1 地主2 自作農 自小作 小作農 火田民 1918 2,652,484 0.6 2.5 19.7 39.4 37.8 1920 2,720,819 0.6 2.8 19.4 37.4 39.8 1922 2,712,465 0.6 3.1 19.7 35.8 40.8 1924 2,704,272 0.7 3.1 19.4 34.6 42.2 1926 2,753,497 0.8 3.1 19.1 32.4 43.3 1.3 1928 2,799,188 0.7 3.0 18.3 31.9 44.9 1.2 1930 2,869,957 0.7 2.9 17.6 31.0 46.5 1.3 1932 2,931,088 1.1 2.4 16.3 25.4 52.7 2.1
見てわかるとおり、自作、自小作が減り小作農が増加しています。
日本の統治時代の朝鮮では自分の土地を手放さざるを得ないほどの状況だったのがよくわかります。 さて、この人々は何が原因でそうなったのでしょうか? 貴方が何度も示しているように米は十分に生産していたのですよね? なら豊かになるのではないでしょうか? 問題ない生産を行いながら貧しくなるとするなら、それは生産に対して正当な対価が支払われなかったことを意味します。当然ですね。
つまり
「当時の朝鮮の農家は日本の施策により米を収奪された」 というのを共通理解としてよろしいですね? また、自小作農とありますが、終戦直後1945年の韓国のデータによると、
自小作農は716,000戸、そのうち耕地の50%以上を小作で行っている、 つまり実質的に小作に近い農家は378,000戸となっています。 完全自作農と自作の割合の方が多い自小作農は全体で3割程度。
当時の食料消費量の変遷について、単位は石(全体からの%)、 元データは朝鮮総督府農林局編「朝鮮米穀要覧」だそうです。 年平均 米 麦 粟 豆類 その他 合計 1915-18 0.70(35.6) 0.42(21.2) 0.28(14.4) 0.26(13.2) 0.31(15.7) 1.9766 1921-24 0.64(31.6) 0.42(20.6) 0.36(17.9) 0.26(12.9) 0.35(17.1) 2.0211 1926-29 0.51(28.1) 0.40(21.8) 0.37(20.2) 0.23(12.7) 0.31(17.2) 1.8163 1931-34 0.44(26.7) 0.42(25.2) 0.31(19.1) 0.21(12.5) 0.27(16.5) 1.6487
輸入していても消費量は見事に落ちていますね。
米の消費の割合が落ちている(それだけ貧しくなった)のも顕著です。 「日本の政策のもと、当時の朝鮮半島の農家は飢餓に苦しむほど困窮していた」で共通理解として良いですね?
参考資料: 朝鮮における産米増殖計画 河合和夫著 朝鮮食料品史 朴容九著
おまけ
穀物の輸入出 年,輸出(石),輸入(石), 1915-1919,3467857,387670,5年平均 1920-1924,5147524,1370072,5年平均 1925-1929,6284434,3649237,5年平均 1930-1936,11734219,2875314,7年平均 1937,8601017,2369537, 1938,12505611,1454957, 1939,8120099,2453789, 1940,1665637,3456780, 1941,4831000,1107000, 1942,7032000,786310, 1943,1576000,2048620,総督府資料に基づく 1944,4486000,1927166,朝鮮食料品史 朴容九著より 食品生産量 ,米,麦,豆,小豆,粟,キビ 1919,12057,7270,3281,460,3816,538 1929,13702,7212,3990,810,5244,91 1939,14356,7570,2333,419,5029,89 1944,16052,7672,2696,605,3916,47 単位は千石 朝鮮食料品史 朴容九著より,,,,,, http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=1586;id=
植民地下の朝鮮は8割以上を農民が占めていました。 日本の植民支配は軍と警察による力の統治でした。 日本人地主と朝鮮人地主の権力は日本より強固で多くの小作人を支配する農村の社会構造でした。 日本の支配下に年々自作農は少なくなり、小作農が増大しつづけたのが基調でした。 朝鮮農村社会は小作農が52%、これに火田民、農業労働者を入れると57%の人々が土地を全く持たない農民でした。 これに自小作農24%をプラスすると81%の人が小作をしたいたといいえます。 自作農は19%弱に過ぎませんでした。(1939年現在) また、小作農といっても零細な農家が多かったのです。 朝鮮南部では人口が増加し零細農民が増加する要因になっていましたが、基本的には地主からの高小作料徴収などが農民を没落させていました。 総督府はこうした地主制を維持し、支配の基盤としていました。
農民の多くが食べることが出来ませんでした。 端境期には食べるものがなくなる人が多くなり、総督府はこれを「春窮民」といいました。 総督府は春窮が毎年の年中行事のようにあることを認めていました。 「草根木皮」を食べて暮らさなければならない農民が小作農の大半になっていました。 農民の多くは動物性のタンパク質は採ることが出来ずに、たまにミョルチ(日本のにぼし)を食べれれば良い方でした。 タンパク質はテンジャン(味噌)から得ていました。 こうした食の状況から起きた総督府支配下の朝鮮農村の社会現象を取り上げてみましょう。 その一つは子供の死亡率が著しく高くなっていたことです。
高い乳幼児死亡率 京城帝国大学医学部教授水島治夫の論文によれば朝鮮人の1歳から5歳までの死亡率は38%にも達していました。 日本人も低い方ではなく21%になっていますが朝鮮人は日本人の2倍弱になっています。 統計に出ない子供の死亡を含めて言えば40%の子供が生き残れなかったのです。 乳幼児の死亡率が高いために朝鮮人の平均寿命は37歳前後となっています。 日本人に較べると約10年の差があります。 栄養状態が悪く一番弱い子供達が多く死亡しました。 多くの死亡原因は食糧不足から来る栄養不良でした。 子供達だけでなく青年達の身長も年々低くなっていました。 特に下層農民の青年の体位の低下が大きかったのです。 子供の高い死亡率と青年たちの体位低下は総督府の政策下に起きていたことです。
窮迫する農家に救済政策がなかった、あるいは役立たなかったことを示しています。 典型的な事例を挙げておきましょう。 朝鮮に於ける行路死亡人数
行路死亡人は路傍、畑などで死亡し多人々をいいますが、ここで取り上げるのは 死亡した人たちの内、身元の分からなかった人を引き取り手を捜すために朝鮮総督府官報に掲載された場合に限って取り上げてみます。 官報に掲載された、公認された場合のみを取り上げていますから、実際に身元が分かり、あるいは引き取り手があった場合は官報に掲載されません。 したがって、実際の死亡者はもっと多かったと想定されます。 行路死亡人を取り上げるのは農村社会を象徴するような出来事だったからです。 朝鮮農村では窮迫した小作農が小作地のみでは暮らしていけなくなり、他の小作地に追い出される人が多かったこと、自然災害などで小作地を失ったりしたこと、などの要因で土地を追われる人が多かったのです。
一部は満州に、一部は火田民として、あるいは都市の下層民として暮らすことになりましたが、落ち着くまでに食糧がなくなり、家族とも離れてしまうことも多かったのです。 農村から離村し、流浪することになります。 ついには路傍で死亡してしまう人も多かったのです。 行路死亡者数一覧 年代 男 女 計 一日あたり死亡者数 行路病人死亡者数 計 1939 4039 669 4708 12.8 866 5574 1940 3863 662 4485 12.3 894 5379 1941 2708 514 3222 8.8 1913 5135 1942 5271 612 5883 16.1 680 6563
15,881 2,417 18,298 12,5 4,353 22,651 ※女性の数が少ない 1939年は旱害があり、離村、流浪する農民が多く、死亡者も多くなっていますがこの4年間の合計で18,298人の人が死亡しています。 死因は餓死、栄養不良がもっとも多く凍死、病死と続きます。 1940年3月1日付けの朝鮮総督府官報には46人の死者が掲載されていますが24人が餓死と栄養不良、8人が凍死、6人が病死などと記録されています。 一日あたり20人以上が死亡している年もあります。 行路病人とは一応の救済施設があり収容されたが死亡した人を言いますが、これも行路死亡人として考えると実数は更に多く22,651人になります。 官報に搭載されていない人を含めれば更に多くなります。 家族が同行していて死亡した場合は官報には掲載されていませんから更に大きな犠牲者が存在したと考えられます。 日本人の行路死亡者数と比較すると官報掲載者のみでも朝鮮のそれは実に15倍(人口比)にもなるのです。
小作地を奪われたり、生活が出来なくなった農民たちは死を覚悟して流浪せざるを得なかったのです。 これが植民地統治の実体です。 更に強制連行との関連で戦時下朝鮮農村の重要な問題を取り上げておきたいと思います。
朝鮮社会を深刻な状態に追い込んだ米の徹底的な供出政策です。 農民から米を奪う
日本と総督府は朝鮮の戦時体制下の要求として労働力と米の供出を求めていました。 戦時下の日本では米が主食でしたが特に軍の食糧は白米中心でした。 朝鮮では1939年に大旱害があり米の減産があり、40年は2100万石、41年は2400万石ほど収穫がありましたが、42年からは16百万石前後に落ち込んでしまいます。 42年から45年まで3年間は大凶作でした。 理由は天候も関係しましたが農村から男子労働力が動員されたこと、肥料不足等を揚げられますがなによりも米の供出が強化されたために起きたのです。 深刻な米不足のなかで1945年には200万石の日本への移出を実施しています。
供出は愛国班(日本の隣組のような相互監視組織)に割り当てられ、愛国班長の家の庭で警官、面の職員、郡の督励員が立ち会って割当量を集めた。 これに従わない者は罰せられ、検挙されました。 割当量は多く、自家消費量を超えて供出しなければなりませんでした。 また、供出割当の定量に達しない者の家は家宅捜査が行われ、あらゆる所を検索し、発見すると容赦なく供出させた。 生産した物を消費できない農民が多くなりました。 たりない分は満州雑穀を配給しましたが大豆粕などで肥料用に農家に配給した物を代用したのです。 小作農民は農業をしても生産した作物を満足に食べられなくなったのです。
また、米の統制が厳しく自由に売買が出来ず、食糧不足を激しくしました。 米以外でも農民が自分で作った作物を消費できないような統制 が実施されたのです。 これに加えて供出米の代金から自動的に愛国貯金などが差し引かれ、物価は上昇し農民の困窮が一層進んだのです。 農民は農業で食えず、生産する気持ちも萎えてしまっていました。 農業より賃金を得る労働者になれば配給米を受け取れるので下層民ほど離農する人が増加しました。 農民が生産意欲をなくしたのが米の生産減少の最大の要因といえます。 そうした人を高賃金で家族に送金できると説明し、日本に大量に動員したのです。 日本への募集に応じたのはやむを得ないこうした理由が背景がありました。 この他にも戦時下の朝鮮での暮らしはそれまでにはない困難な条件が多くありました。
例えば経済統制で綿花の作付け統制が実施され、全量供出となり、自家消費が出来なくなり高い衣料品を買わねばならず、白衣の実質的な禁止やもんぺの普及が進められました。 住宅不足も深刻になり暖房も「低温生活」が進められました。 戦時下の朝鮮では基本産業の農業が疲弊し、統制が強められ暮らしが困難の度合いを深めていました。
こうした朝鮮社会で賃金をくれて、食事も保障され、家にも送金できるなどというふれこみで募集が始まったのです。 朝鮮人にとって生死ををかけたような植民地支配が存在した中で募集に応じたのは自由意志と言うより、それ以外の道がない閉塞状況が朝鮮社会に存在したということです。 そのようにしたのは日本の植民地支配です。 そうした状況の中から労働者を連れて来るというのは「連行」そのものではないでしょうか。 「強制連行はなかった」論の虚構は植民地支配の悲惨ともいえる農民生活の実態を無視した議論です。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data2/data2-2.html 日本統治前の朝鮮人が毎日大食らいできた理由: イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より
大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。 ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。 裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。 わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。 「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。 一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。 赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。 朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。 http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-573.html 要するに日本人はアホだから歴史に学べないだけ:
仙台藩の主な産物は米である。
江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。 また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。 その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。 一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。 そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。 また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。 これによって藩財政・農民の暮らし共に潤った時期もあった。 ただし買米制にも凶作に弱いなどの弱点があった。
ひとたび、凶作が起きると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までがバダハタと餓死した。
これは他の藩には全く見られない現象であった。 現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩・寛永の大飢饉などにより江戸時代初期から貧乏で幕末に殖産興業に成功してようやく好転した薩摩藩よりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩で使節を送るほどの力を有していた。
江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。 ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。 佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。 だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。
凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。
まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9
小規模自作農で飢饉に強いのは、日本じゃ、アホみたいに、戦前まで米以外に粟や稗を作付け、農作物を多様化している農家だった。
ただ、これをやると農家は基本、貧乏だ。
換金作物を作らず、そのスペースで粟とか稗とか作り、穀物の来年の収穫の見通しがつくまでは新米には絶対に手をつけない用心深い農家だった。 もうけは出ないが、生産量が安定するから飢饉にも強い。 農業経済では、農民が貧困だが安定的な状態ってのが存在していて、うちのご先祖の相模農民なんかは、典型的な貧乏だけど飢饉には強い農民だった。 二宮尊徳のエピソードで、ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。 村人に冷害に強いヒエを植えさせた。 二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3 用心深い農民ってのは、別に二宮に言われずとも、昔っから、保険として粟とか稗を作付けするもんだったの。
ただ、仙台藩のように、換金作物である米をひたすら推進し、他の産品の開発動機を失わせる農業経営をやっちゃうと、儲かる時は凄く儲かるけど、飢饉になると破滅的な影響がでてしまう。
典型的なギャンブル農業でね。 仙台藩は天候に左右されやすい米みたいな作物を冷害が多発する地方で主要作物にして代替的に推進したせいで、飢饉になると破滅的な影響をうけてしまった。 人口増(子供への医療品の配布)と換金作物推進(農業生産性と収益性の増加)っていうのは、日本の仙台藩の経営と同じだから、素人にはお勧めできない。
というか、仙台藩ならまだいいけど、日本でもっとも一揆が多発した飢饉超発生地帯、盛岡藩になったら悲惨すぐる。 http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20091101/p1 これが飢餓輸出の実態:
天明大飢饉は人災だった
日本の【飢餓】を心配される方が多い原因に、江戸時代の飢饉が誤って伝えられていたこともあるかと、最も酷かったとされる【天明の飢饉】について書かせていただきます。 結論を先にいっておきますと、これらの飢饉は【人災】でした。 日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。 江戸では風のたよりに知る程度でした。 もちろん食料は例年と比べかなり不足しましたが、全体としては、それほどのことはありませんでした。 もちろん総論の結論です。 天明に入ると、農作物の収穫が減少しましたが、特に【天明三年】は異変の年で(1783)浅間山が大噴火を起こし、この火山灰による大洪水や山崩れなど大規模な自然災害が発生します。 また異常気象が目立ち、海外ではアイスランドのラカギガルム火山が大爆発、また同地のグリームスヴォント火山も大爆発、テムズ川もセーヌ川も凍りついたと伝わります。 ヨーロッパは冷害となり、このときの飢饉が【フランス革命】のきっかけとなります。地球全体が火山灰の微小粒子に覆われた結果とされています。 国内の気象は、浅間山爆発の天明三年の冬は異常な暖かさ、年が明けても変わりません。雨はほとんど降らず、その後、雨が少し降ったので五月に田植えが始まりましたが、逆に冷気がつづき、夏になっても綿入れを着るほどの低温だったといいます。このため稲は青立ち(穂が出ないこと)となり、他の作物もほとんど結実せず、大凶作となり関東から東北地方にかけて被害を受け、北に行くほど酷いものでした。
三月、四月になると冷雨が続き、雨の降らぬ日は七日だけ、それもうす曇で晴天の日は一日もありません。五月六月も同じで、雨の降らぬ日はそれぞれ四日、六日という有様だったといいます。 「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」といいます。
「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」とあります。 「八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、前例のない大凶作となった」と続きます。 飢饉が予測された津軽藩では、藩主・津軽信寧(のぶやす)は参勤交代で江戸にあり、側用人の大谷津七郎が、藩政を掌握、さまざまな飢饉対策を行っていましたが、 藩は長いこと藩財政が苦しく、大阪商人に借りた借入金が返せず、京坂の商人に代理返済して貰っており、この年にはどうしてもコメを京・大阪へ送らねばならない事情がありました。 【お救(たす)け小屋】の準備をしながら、前年農民から藩に上納されたコメ、「四拾万俵」をすべて大阪と江戸に送り換金しました。
飢えの恐怖におののいている領民の見守るなか、四十万俵のコメを積んだ船が通り過ぎていったと伝わります。
このため領内のコメは尽き、よって農民たちは、飢えの恐怖が現実になり衝撃を覚えます。 「穀物の価格は高騰し、さらに金を出しても買えなくなり、飢えにさらされた領民たちは山菜の根をあさり、そば、大豆の【殻:カラ】までも口にした。 飼料が尽きたので牛や馬を飼うこともできず、すべて捨てて、牛馬が原野を歩きまわった」との記録があり「牛馬を食料にすることは食習慣になかったが、これらを殺して食うものが増した。 また口べらしのため子供を川に流すものが数知れず、大百姓をふくめて多数の農民が田畑、家を捨て、家族とともに【伊勢参り】をよそおって、碇ケ関から秋田藩領へのがれた。世をはかなんで深い森に入り首をくくったり、石を抱いて川に身を沈めたりする者もいた」とつづき 「このような中で強盗、追剥(おいはぎ)が横行し、盗みに入った者が家に火をつける例も多く、火災が頻発した。天明三年九月から翌年六月まで、津軽藩領では男女八万千七百二人が餓死した」
との記述が残っています。また人間だけでなく「馬一万七千二百十壱頭」と記録にあったといいます。 南部藩(八戸藩・七戸藩)でも被害は甚大でした。 【久慈街道】という八戸市と久慈市を結ぶ街道があり、途中にウミネコの繁殖する島、蕪島(かぶしま)があるというところから、たぶん海沿いの国道45号線のことかと思いますが、十里ほどの道程で途中に新井田村があり、ここの【対泉寺】には天明飢饉を悼む石碑があり、このうちの四文字が素人と思われる手で削られているとか。 そこには【人を食った記述】があったと郷土史家の【中里さん】が語った」と、東北文庫の【久慈街道】に小説家の故井伏鱒二氏が書いています。 人肉の話は事実だったようで、『街道をゆく』の司馬遼太郎氏は確か『久慈街道』で、「これ以上の惨状を書くのは忍びがたい」としていますが、吉村昭氏はそのまま記しています。 両者とも【高山彦九郎】の詳細な日記を引用しています。現在は山門脇に【餓死供養塔】があり、詳細も記されているとか。筆者は中間というか、皆様があまり不快になりそうな表現は避けています。 「野草の類も食いつくすと、人々はイノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマも食いあさり、それらも絶えて人の肉を食うようになった。 親が死ぬと子はそれを食い、子が死ねば親が食う。さらに山中や野外に捨てられた人の死骸も、彼らの食欲の対象になった。 その頃、人の肉を食った村人に聞くと、馬の肉の味はサルやシカのそれよりまさり、さらに人肉のそれは、ウマの肉より優れている、と語ったという」 とあり「村内で人肉を食ったものは、それがたたったらしく十人中七人は死んだ」と記されています。
このような残虐な例は今まで読んだ限りでは、津軽・南部藩(八戸藩・七戸藩)に限られるようです。 津軽は【財政破綻に瀕した好例】であり南部藩は【行政の大失敗】があるようです。
原因のひとつに、この藩には資本主義が日本で最後に入った場所、人々は馴れていないため、商人貸し付けの金銭返済ができず、田畑や家屋などが質流れし、ほとんどの百姓が商人の奴隷となり、百姓から年貢が取れない藩は、百姓の富を奪っていた商人から、無理矢理に金銭を取り立てました。
(たしか戦後、当時の学者で、安藤昌益という今でいう共産主義者が発見されもてはやされましたが、それなりの風土がありました。) 天明三年の大飢饉の際にも、他藩のほとんどは、まさかに備えて十分な準備をしており、特に有名なのが米沢藩、白河藩でした。
このとき、ただ一人の餓死者も出さなかったと伝わります。 http://hoihoihoi.iza.ne.jp/blog/entry/1654370/ 要するに、東北でやっていたのと同じ悪事を朝鮮でも繰り返した訳ですね。
________ 日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 3 李氏朝鮮はそんなにひどい国家だったのか? 嫌韓バカや歴史捏造ウヨクが、よく使うロジックとして「李氏朝鮮の暴虐と悪政」というのがあります。
この「李氏朝鮮の暴虐と悪政」というマジックワードは、様々な自慰史観を正当化するのに利用されてます。 例1)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「韓国併合した日本は朝鮮人を助けてやったのだ!」 例2)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「朝鮮人が駄目な証拠、差別されて当たり前!」 例3)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「朝鮮人が残虐な証拠、南京虐殺も朝鮮人がやった!」*1 こんな感じです。 実際には、江戸時代日本と大差ないんですけどね。
嫌韓バカが強調する李氏朝鮮の暴虐の事例など、ほとんどは江戸時代日本で同様の事例を見出すことが出来ますし。 では、その事例を見て行きましょう。
人口問題
韓国の歴史歪曲検証:人口増加ベースに見る日帝の暴虐と搾取の虚構性 (間違った論証の例) 日本が直接的に朝鮮を収める1905年までの朝鮮の人口増加ベースは、上記からも分かるとおり1850年の李朝末期を基準にとると1906年の日本の保護国なった翌年までの56年間に30%程度の増加ベースでしかない事が分かる。
そして1906年より日本の敗戦の前年1944年までの38年間の人口増加ベースは、156%という驚異的な増加ベースを辿っている。 さらに上記で注目されるべきは、1753年の朝鮮半島内の人口730万人が約100年後の1850年の時点でも750万人にしか増えていない点である。 これは李朝時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを李朝政府が行ってこなかったことの動かぬ証拠である。 データを見るにおいて、日本が朝鮮半島に直接関与し始めた1905年以降とそれ以前の人口増加ベースを比べれば、朝鮮で日本が「史上最悪の暴虐と搾取」を行っていないことが確信できるのではないだろうか? http://konrot.at.infoseek.co.jp/rekisi02.htm こちらは人口の推移をもって、李氏朝鮮の悪政を糾弾しているわけですが・・・
ここで挙げている1753年から1850年の人口推移を日朝で比較してみると・・・ 時期 年 日本の人口*2 増加率 朝鮮の人口(推計) 増加率 朝鮮の人口(嫌韓提示ママ) 増加率 I 1600年(日本)・1592年(朝鮮) 1227万人 39.2% 1192万人*3 74.5% - - II 1756年(日本)・1753年(朝鮮) 3128万人 - 1600万人 - 730万人 - III 1841年(日本)・1850年(朝鮮) 3230万人 103.3% 1650万人 103.1% 750万人 102.7%
なお、増加率は「1756年(日本)・1753年(朝鮮)」を基準として計算した。 参考として1600年頃の人口も付加しましたが、これについては後で考察。 さて、1750年頃から1850年頃までの100年間の人口推移を日本と朝鮮で比べてみると、ほとんど変わりないことがわかりますね。
何の事はない。この時期はこういう時代だった、というのが適切な評価でしょう。 まさか100年間でわずか0.2%に過ぎない差を誇ったりするほど厚顔無恥な人はいないと思いますが。 で、
李朝時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを李朝政府が行ってこなかったことの動かぬ証拠 とか言うのなら、 「江戸時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを江戸幕府が行ってこなかったことの動かぬ証拠」 ということになりますね。嫌韓バカはこれに同意せざるを得ないわけですが・・・ ま、とにかく、人口が大して増加しなかったからといって、取り立てて酷い政治が行われていたとは言えないというのは確かでしょう。
ちなみに日本でこの時期、人口が停滞した直接的な理由として、少子化・晩婚化の傾向があったことが知られています*4。
若者の都市への出稼ぎが晩婚化をもたらした他、意図的な人口抑制として、陰惨な方法としては間引や堕胎、それ以外に禁欲や授乳期間を長く取ることによる次の子の妊娠を遅らせるなどの方法がとられていたそうです。 また、そもそも14世紀末から19世紀半ばまでは「小氷期」という地球規模で冷え込んだ時期なのは良く知られています。
このため、日本でも度々飢饉がおきているわけです。 日本よりも高緯度にある朝鮮も当然その影響を受け飢饉が頻発しています。 1850年ごろまで人口が停滞したのが、別に政治のせいとばかりは言えないわけです*5。 1600年の人口も含めた仮説
では、1600年頃の人口を含めた考察をしてみましょう。
1600年頃の人口は、日本も朝鮮もほぼ同じくらいでした*6。 これが150年後には大きく差が開きます。 人口が急激に増加する要因としては、それまで戦乱が続いたことによる人口抑制と、戦乱期に蓄積された人口増加の潜在力が、戦乱の終結に伴い枷が外され、人口爆発になるというモデルが考えられます。 現在の人口を見ても、もともと日本の国土が養える人口は、朝鮮の国土が養える人口より多いのではないかと思いますが、1600年時点で日本と朝鮮の人口がほぼ拮抗していたのは、日本が1467年*7以降ほぼ150年にわたった戦国時代を経験していたのに対し、朝鮮は1392年の李朝建国以降おおむね平和が続いた点にあるといえるでしょう。 朝鮮は、15世紀前半の世宗の時代に国力が最も充実し、同時期に戦国時代に突入した日本と違い、人口を抑制させるような社会要因は少なかったと言えます。 このため、朝鮮の人口は15世紀前半から16世紀後半まで安定的に増加したと考えられます。 実際、15世紀前半については、耕地面積や戸数が増加したといいます*8。
もちろん、権力闘争はありましたし、倭寇の襲来や倭寇討伐、対馬侵攻などもありましたけど、日本の戦国時代や後の秀吉の朝鮮出兵や清の朝鮮侵攻に比べるべくもありません。 したがって、15世紀から18世紀にかけて朝鮮の人口が抑制させられる要因となったのは、秀吉の朝鮮出兵と清の朝鮮侵攻であってこの影響を受けていた時期の人口が約1000万人であったということになります。
朝鮮の戦乱がひと段落した17世紀後半から人口が再度増加を始め、18世紀半ばには1600万人にまでなったというところでしょうか。 しかし、朝鮮の戦乱より遥かに長い期間、人口抑制の要因となる戦乱が続いていた日本の場合は、戦乱終結後の人口爆発は朝鮮よりも激しく、16世紀末から17世紀半ばまでに人口は1200万人から3000万人にまで倍増したのでしょう*9。 ___________
*1:南京虐殺も朝鮮人がやった!」*
ここまでの馬鹿はそうはいないと思うが、いることはいるんだよね。 ちなみに南京事件のあった当時、朝鮮人は徴兵もされてないし、志願兵も募集されていない。 旧大韓帝国軍からの継続として極一部の朝鮮人将校がいたに過ぎず、兵士としては日本人と結婚・養子縁組などして日本人戸籍に入った朝鮮系日本人がいたくらいだろう。 いずれにしても日本軍全体から見て例外的な事例に過ぎない。 _________
*2:「人口で見る日本史」より *3:「朝鮮の役」参謀本部より、日本が予測した朝鮮の石高より推定 *4:「人口で見る日本史」P88-103 *5:むろん、飢饉対策などは政治の責任だが *6:ただし、朝鮮人口は日本による朝鮮の予測石高に基いた推定。
予測精度の問題の他、石高計算は純粋な食糧生産以外も含む場合もあり、実際の人口はこれより少なかった可能性は高い。 丙子胡乱で虜囚となった朝鮮人60万人の苦難 | Chosun Online | 朝鮮日報によると、1630年ころの朝鮮の人口は1000万人程度という。 *7:応仁の乱の勃発年。ただし関東などではそれよりも早くから戦乱が勃発している。
*8:「朝鮮」金達寿、岩波新書、P83 や、「入門韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書」石渡延男監訳、三橋広夫共訳、明石書店P167
*9:ただし、1600年の日本の人口については、1500万人という説もある。また、この頃実施された検地による石高は1800万石で、これには畑や屋敷地などが含まれている http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081102/1225647411
________ 日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 4 悲惨な朝鮮農民の生活 投稿者:まっぺん 投稿日:2010年 7月29日(木)10時53分19秒
あ呆は「人口増加」を朝鮮人の米消費減少の「原因」とする。 では実際に統計数字を比べてみよう。 以下は朝鮮総督府の調査結果を基にした資料だが、次のようになっている。 年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た 日本人一人当た (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)
1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068 1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126 1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118 1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100 1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122 1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131 1928 | 7,405 | 0.5402 1.129 '31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)* 資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版 次に当時の朝鮮人の人口増加についての調査資料だ。 1717年 1500万人(朝鮮政府統計683万口からの推計) 1753年 1600万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計) 1777年 1804万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用) 1850年 1650万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計) 1877年 1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用) 1906年 980万人(警察調査まま) 1910年 1631万人(警察調査1313万人からの推計) 1915年 1703万人(警察調査1596万人からの推計) 1920年 1763万人(警察調査1692万人からの推計) 1925年 1902万人(警察調査1854万人からの推計) 1930年 2044万人(警察調査1969万人からの推計) 1935年 2221万人(警察調査2125万人からの推計) 1877年までの調査はすでに説明したように人口戸主の数であり女・子どもの数は含まれていないので、そこから推計している。 その中で明らかに1906年のデータはおかしい。これは当時、朝鮮全土で義兵がおこり、抵抗闘争の中での調査であったため、まともな調査ができなかったと考えるのが妥当だ。 なお、「1石」とはひとりの人間が1年間に食べる米の量とされているから、 日本へ輸出した米の量を「人間の数」に置き換えることができる。 人口増加率と比較すると次のとおりになる。 年次 日本に輸出した米の量 前回と比較した増加量 人口の増加
1912 │ 291万人分 1915 │ 5年で 72万人 1917 │ 129万6千人分 5年で-161万4千人分 1920 │ 175万人分 3年で+ 45万4千人分 5年で 60万人 1922 │ 331万6千人分 2年で+156万6千人分 1924 │ 472万2千人分 2年で+140万6千人分 1925 │ 5年で139万人 1926 │ 542万9千人分 2年で+ 70万7千人分 1928 | 740万5千人分 2年で+197万6千人分 1930 │ 5年で142万人 '31-34 │ 845万6千人分 1〜4年で+105万1千人分 以上は「米の増加量と人口の増加量を比較したものだ。
ふたつの資料の統計年がちがうので完全に同じ比較はできない。 また1912年には大量に輸出しているので5年後の輸出量は減少となっていることは考慮しなければならない。 緊急対策として大量に送ったのだろう。 また、この米輸出の統計資料が、毎年輸出されている中から一部を抽出した数字なのか、それとも2〜3年毎にしか輸出されなかったのか不明だが、もし2〜3年毎なら1912年から34年まで(31年から34年は毎年輸出され、その平均値)を合計すると6065万2千人分の米が日本に輸出された事になる。 これは25年間で約500万人増えた人口と比較すれば、ほぼ同等の数字となる。 またその間に増産運動が行われ収穫量が約2倍となったと記録されていることからも相当の増産となったことが窺われる。 しかしそれでは朝鮮人の米の摂取量の減少を説明できない。 したがってこの数字は毎年の輸出の中からの抽出と考えるのが妥当。 そこで輸出量の伸びを見れば、人口の伸びは5年ごとに60万〜142万人であるのに対して米の輸出量の伸びは2年〜3年毎に45万〜197万人分。5年毎で比較するなら200万〜300万人分も輸出量が増え続けている。 もしも米の増産がそれを上回っているのなら、朝鮮人の米消費量が減少するのはつじつまが合わない。 したがって、朝鮮人の米の消費が減ったのは「人口増加が原因」とする「あ呆説」はデマ。 飢餓輸出が原因という事になる。 なお、朝鮮農民の当時の生活についてNHKの番組を見た半月城さんが以下のように解説している。 これをみても、「農民が自主的に換金用に食べる分以上の米を売った」などというあ呆の妄想には根拠がなく、むしろむしり取られていった朝鮮農民の姿が浮かび上がる。 そうした歴史を、数年前の米騒動の時、NHKがTV番組「米に揺れた 日韓近代史」と題して放映していました。
番組では産米増殖計画の歴史的背景 や実施状況などをつぶさに検討し、あわせてこの政策を直接体験した農家の窮 状を具体的に紹介していました。 それによると、農民が秋に米を70俵収穫しても、水利税や肥料代なども ろもろ差し引かれ手元には2割の15俵くらいしか残らないそうでした。 しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人 は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうで した 。 これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の 中に埋めたり隠したりするのですが、冷酷な借金取りもさるもの、鉄棒で地面 をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。 このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本 の農家をも苦しめました。 安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。 http://8816.teacup.com/mappen/bbs/20127 ________ 日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 5 1. これが詐欺師の論理
朝鮮半島のほうが日本より平地割合が低いらしい。 朝鮮半島では日帝支配以前の主食は米飯ではない。 さらに、1人当たりの米消費量は、おそらく単純に収穫量/人口を出したものなのでは?
これを、朝鮮人の口に入った米の量で考え直すと、こうなる。 年次|人口|朝鮮人一人当たり|朝鮮での | |米消費量(仮)石|米消費量 1906| 980| | 1910|1312| | 1912|1318|0.7724 |1071.937 1917|1577|0.7200 |1135.656 1920|1691|0.6301 |1065.499 1922|1746|0.634 |1107.2148 1924|1802|0.6032 |1086.846 1926|1857|0.5325 | 988.959 1928|1913|0.5402 |1033.187 1930|1968| | 04の数字だけで「飢餓輸出が原因という事になる。」というのは阿呆の戯言である。 そもそも、米消費量が少ないだけで飢餓輸出であるならば、現代日本は米消費量0.4石で日帝時代の朝鮮より飢餓状態なんだが。 朝鮮には主食として高黍換金作物として有利であるから、米が輸出されただけと考えるのが妥当であり飢餓状態であったというのは悪質な嘘。 _________ _________
2.こっちが真理
朝鮮半島南部では古来より、米が食べられています。豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、当時の日本式の栽培方法が伝わったという記録もあります
朝鮮半島にも古代に中国から日本を経由して、稲作は伝わり継続されています。日本の水田跡の遺跡は最古のもので3,800年ほど前、韓国では2,000年ほど前です。 朝鮮半島北部の主食は日韓併合以前は高黍(別名モロコシ)でしたが、併合後は稲栽培を伝授されて、米に変化しました。 要するに、それまで常食にしていた高黍に代えて日本人の食べる米を強制的に栽培させられて日本にすべて輸出させられたから朝鮮人には食べるものがなくなったのです. これが飢餓輸出の意味なのです: 朝鮮半島北部は気温が低いため、米は栽培されていませんでした。 高黍(タカキビ)・粟などの雑穀が主食でした。
朝鮮半島南部では古来より、米が食べられています。 豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、当時の日本式の栽培方法が伝わったという記録もあります。 朝鮮半島ではその後日韓併合まで、品種改良や栽培方法の変化はなかったと思います。 日本に併合され、日本式の栽培方法や日本の品種が伝わり、現在も食べられていると思います。 日本の指導により単位あたりの収穫量は大きく伸びました。 また現在では日本で戦後開発された品種が、食されているかもしれません。 朝鮮半島にも古代に中国から日本を経由して、稲作は伝わり継続されています。 日本の水田跡の遺跡は最古のもので3,800年ほど前、韓国では2,000年ほど前です。 元来朝鮮半島の農民の主食は雑穀かもしれません。 併合中も米を日本に出荷し、その金で生活用品を整え、自分たちは雑穀を食べていたとの記録もあります。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135908896 現在の朝鮮半島の主食は米である。
しかし、本来の朝鮮の主食は高黍(別名モロコシ)という雑穀で、粥にして食べていた。 稲栽培における、灌漑技術、肥料、耕作方法などは日本の統治時代に日本から伝えられたもので、当時植えられた稲はコシヒカリの先祖にあたる「亀の尾」という品種であった。 元々は雑穀を食べていたが、日本の統治下で米食に移行、伝統食文化は失われた。 http://www.wdic.org/w/CUL/%E4%B8%BB%E9%A3%9F 今の韓国・北朝鮮では主食は日本と同様、米(ジャポニカ米)である。
現在は白米だけの炊飯で食されるが、日本と同様に、玄米の状態の炊飯や雑穀の入った炊き込みご飯を食べていた時期もあった。 韓国の料理にはビビンパやクッパなど米を他の食材と混ぜ食べるものも多く、かかせないものである。 一方北朝鮮は、現在の食糧難から米が十分に食べられず、トウモロコシやジャガイモを主食にしている国民が多いものと思われる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E9%A3%9F 170:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 23:53:15 ID:yf2dtPr70 イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より 大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。 ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。 裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。 わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。 「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。 一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。 赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。 朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。 ______ 181:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/19(火) 21:40:24 ID:cYc2nMmu0
人口増加ってのがあるけど、あれは豊かになったから人口が増加するのではなく、 貧しいからこそ人口が増加するんだよな。 人口爆発を起こしている国々をみてみると、かつて先進国の植民地となり、なかば強制的に換金作物(お金に換えるための作物。例えばコーヒー、紅茶、ゴムなど)を栽培させられた経験のある国々だということがわかります。 この換金作物こそが人口爆発の原因を探る大きな鍵となります。 かつてこれらの国々が自給自足を行っていた頃は、貧しいながらも人口は安定していました。 食糧の供給量以上に人口は増えることができなかったからです。 しかし先進国の登場によって換金作物の栽培が始まると、換金作物を売ることで一時的には食料の供給が増えて人口が増加します。 人口が増えた結果、再び食料が不足しますから、作物の収穫量を上げるためにさらに無理な生産をします。 けれどもそのために地力が落ち、次第に人口を養うだけの作物が収穫できなくなり、不自然な人口爆発だけが残されるのです。 _______
朝鮮人の米消費量、食習慣、などから考察すると、産米増殖計画によって、朝鮮人の大食習慣が失われ、人口増加による貧困の増加、米消費量の低下(途中で改善はされてはいるものの)、結局 朝鮮農民は飢餓線をさまよう状態になった。
184:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 01:49:49 ID:5/Okf5Sz0 その増えた人口の面倒を見切れず、数十万の朝鮮人が半島外へ流出
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001 米はいうまでもなく日本の統治時代以降は朝鮮でも主食になりました。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。
朝鮮の米穀輸出・消費量 年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た 日本人一人当た (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石) 1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068 1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126 1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118 1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100 1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122 1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131 1928 | 7,405 | 0.5402 1.129 '31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)* 資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版 この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加 にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、 植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。 これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定さ れました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。 日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢 性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。それに加え、タ イなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。 こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し 「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億85 00万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石 の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。 朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道 や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしん りき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さら に栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しまし た。 こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、か の江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考え をある程度私も認めたいところです。 しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消 費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。 http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187 即ち、日本の搾取がなければ朝鮮人が食ってけなくなって日本に移民してくる事もなかった。
________ 日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 6 日本人はアホだから、美味しい所はすべて英米に持って行かれた “朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る危険性がある。
しかし同時に、あくまでも冷静に、普通の目線で当時の朝鮮における“日常”を見つめることで、新たな発見をすることが必要でもあるのだ。 たとえば、過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、読者の皆さんはどのように答えるだろうか。
「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。
そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。 恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。
「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」 というのが、この問いに対する正解なのである。 朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。
なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。 具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。 そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。 満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。
すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。 だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。 もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。
しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。 そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。 確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。
しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。 そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。 http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html ________
日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 7 日本統治のせいで朝鮮の古き良き文化が堕落した 淫売婦が日本の最大の輸出品となっているのは、衆目の認めるところである。日本人の行くところ、いかなる土地でも売淫の市が開かれないところはないが、わが国においてはとくに甚だしい。その淫風は、わが国古来の礼俗を破壊し、わが人命を害し、風紀を乱すことこのうえないものになっている。 [朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年] 日本国内どこの大衆浴場でもみられる風景を、はじめて見る韓国人が驚くことがある。日本の銭湯の番台は、男女に分かれている脱衣場のどまんなかの高台で両方を眺望することができるからである。われわれの知る「男女七歳不同席」の儒教の原則は、日本では通じないのだ。 [朝鮮日報編『韓国人が見た日本』1984年] 日本のテレビでは、昼間でも女性の裸が見られる。それどころか、主婦向けの朝の番組でも、女性の上半身ヌードをよく見かける。(略) 夜11時過ぎると、成人用ビデオ女優がパンティー姿で現れ、服を着た男性タレントとセックスする素振りを見せる。 ただそのものズバリを見せないだけのことで、これではまるごとポルノ映画だ。むしろポルノ映画以上のいやらしい身の動き、そして水準以下の幼稚なセリフがテレビには溢れている。 [田麗玉『悲しい日本人』1994年] この地球上、女性を裸にして金を儲けようとしない国は一つもないといっても、いいすぎではない。(略)だが日本の場合は、その異常さに問題がある。
彼らが好む対象は幼児であったり、体の一部に支障のある女だったり、あげくには知能の低い白痴女だったりする。一言でいって、社会的、精神的意味で徹底的に弱い者をセックスの対象と考えるのだ。 セックスに異常な関心をもっている日本人は多くのマスメディアを通して、女性をただのおもちゃとして売り、買い、もてあそぶ。そんなものを見る時私は日本社会独特の非人間性に怒りを感じる。弱者を残忍かつ執拗にもてあそぶ日本の一面を見たような思いがするからだ。[同] (日本という)出版大国の底辺にはものすごい量の低質、ポルノ本が乱舞している。(略)以前、韓国のスポーツ新聞がこのような方向に流れたと言って物議をかもしたことがあるが、日本のスポーツ新聞を見ると本当に韓国は道徳君子の国だということを再度感じる。 [金永明『日本の貧困』1994] 日本女性の多くが韓国の女性に比べて顔がまずく、特に歯並びが悪い女性が大部分で、これは日本の風土病の一種ではないかと思われる程である [シン・ピョン『日本の地、日本の風』1990年] 我々と異なり、日本人には歯並びがひどく悪い人が多い。専門分野ではないから確言はできないが、先天的に我々より歯並びが悪い民族であるようだ。 [金燦「一事一言」朝鮮日報 1994年11月8日]
日本が三国の圧力に屈服すると、朝鮮では明成皇后[閔妃]を中心に日本の勢力をくいとめるためにロシアに接近する動きがあらわれた。これに日本は、彼らの勢力をばんかいするために軍隊を先頭にして宮中に侵入し、明成皇后を殺害する野蛮な行為を犯した。これを乙未事変という(1895)。 [中学国史 1996年版] 刺客は、各部屋をすみずみまであまねく捜索し、ついに王后を刺して弑逆した。遺体は緞衾につつみ、松坂の上に安置し、殿庭から鹿園の林の中に運び出し、遺体の上に薪をのせて油をそそぎ、これを焼いた。 [朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年] 八月二十日、ニ、三十人の日本の大陸浪人が、景福宮の閔妃の寝所に踏み込んで斬殺した。それは三浦の命令であった。一国を代表する公使が、外国の王妃斬殺計画の首謀者になるとは、世界史でも稀な事件である。しかも、斬殺した屍体に石油をかけて、王宮の庭で焼いてしまうという蛮行を重ねた。 [金両基『物語韓国史』1989年] 少女の柳寛順は日本の警官や憲兵の銃剣の前にたってもひるまず、後に韓国のジャンヌ・ダルクと称えられた。彼女は水原の警察でひどい拷問にあいながら、「独立万歳」を叫びつづけ、殺されていった。[同]
ソウルで独立運動が展開された日、まだ年のいかない女学生が、右手に国旗をもち「万歳」を叫んだ。 日本兵は、剣をもち、その右手を切りおとした。女学生はさらに左手で旗をあげて「万歳」を叫んだ。 日本兵はまたその左手を切りおとしたが、女学生はなお「万歳」の連呼をやめなかった。 日本兵はその頭をつき刺してこの女学生を殺した。[同] 日本兵二名が左右にあって、一人は女学生の手をきつくにぎり、一人は竹針をたばねて頭に刺した。しかし、それでもなお屈服せず、激烈となり、かえって日本人を怒りののしった。
日本兵はいよいよ怒り、刀をぬいて唇をさこうとしたが、長官が引きとめ、「顔の表面は傷つけてはいけない」と言った。[同] 日本の野蛮人どもは、女学生のうち美貌の者何人かをえらび、輪姦をかさねた。(略) 日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて盧永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(苽)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。 そこでまた他の十字架にうつし、四肢と頭髪など五ヵ所を縛り、天空に架けて仰臥させ、膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ、冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて、血があふれるように流れ、大地を染めた。 日本の野蛮人どもは、大笑してこの残虐を楽しんだ。[同] 平壌では、拘留され入獄した女学生に対し、日本の野蛮人どもは、焼きごてをかの女らの陰部にあて、「男は何人いるか」など質問し、拷問を加え、いいしれぬ恥辱を与えた。[同]
朝鮮人女子は、監獄に入るとかならずはだかにされて訊問を加えられた。すでに判決をうけた女学生も、かならず日本人の姦淫暴虐をうけた。(略) 女子をはだかで仰臥させ、その腋毛、陰毛をぬいた。 また膏薬を煮解かし、女子の陰部にそそぎ、冷却して固まってから、いきなりこれをぬきとった。その陰毛はことごとく脱落した。[同] 1942年から始まった朝鮮での徴用の無慈悲さに就ては今更に喃々喋々を要しないであろう。戦時中朝鮮の官憲は日本への食糧供給を確保する為の「米穀供出」に狂奔し農家の糞溜の底まで目を光らした。
「労力供出」も之に劣らない方法、例えば市場とか村落をトラックを以て急襲して手あたり次第に捕えては頭数を揃えるとか、徴用逃亡者の為に山狩りをするとか等々の奴隷狩りを彷彿させる方法が取られた。 [朴在一『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』1957年] とくに大陸侵略と太平洋戦争の時期にいたって、日本帝国主義は戦時労働力の不足を打開するために、朝鮮人民を強制的に大量徴用した。 日本帝国主義は当時朝鮮人を連行するにあたり、夜中に農家を襲撃し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年たちを手当たりしだいに拉致していくなど、文字どおりの「朝鮮人狩り」をおこなった。 [朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』1965年] 日帝が太平洋戦争末期の一九四五年、教師らを動員、一二歳の国民学校少女までも挺身隊に引きずっていった事実が一国民学校の学籍簿で確認された。 この学籍簿には七六年に廃校になったバンサン国民学校(戦前の京城第二公立小学校)六年制の担任だった池田正枝(六八・日本生駒市居住)氏が過去、子供たちを挺身隊に送った後、良心の呵責を感じて昨年八月、日本フジテレビの取材チームとともにバンサン国民学校卒業生学籍簿を保管中だったソウル江南区逸院洞永禧国民学校を訪問し発見した。 一四日、永禧国民学校が公開した池田氏が直接作成した学籍簿には、池田氏が担任だった六年生四班(女学生班)生徒七〇名余りのうち一名が四四年二月二五日に、五名が七月二日に富山不二挺身隊として出発したと記録されている。[朝鮮日報 1991年1月15日] 私自身が絶対に許せないのは、その悪の制度化だ。人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。
強姦が犯罪なら、日本は集団的強姦を制度化したまれな国である。 私は、従軍慰安婦というのは日本がわが国の女性の全てを集団で強姦したようなものだと思う。おそらく日本はその血の代価をこれからずっと払い続けねばならないだろう。 [田麗玉『悲しい日本人』1994年] http://www7.plala.or.jp/juraian/panil.htm ________ 日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 8 『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著 1981
1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所 つねに満員だったと言う。
「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて 「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」 という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが 、村長は耳を貸さない。 この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ 。 村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。 5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を 渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」 http://194586245.web.fc2.com/11.html 従軍慰安婦は売春婦か? 1925年に当時の日本政府が批准した『婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約』では21歳未満を児童つまり子どもと規定している。 日本政府は本条約の植民地への適応を行わなかった*2が、朝鮮における公娼制の下限は満17歳であり、上図で16歳以下に限ってみたとしても16歳以下の元「慰安婦」は89名、全体の51.5%に及ぶ。 この傾向は、韓国を含めたアジア各国の元「慰安婦」でもみてとれる。以前のエントリで『DAYS JAPAN』2007年6月号の『特集「慰安婦」100人の証言』という記事を基に描いたグラフがあるのでそれを再掲する。 http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090728170811 http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080628173338 「年端もいかない子供たち」が「強姦」され、「売春」を強要され、日本軍の「性奴隷」を強要されたのだ。
日本の戦争責任資料センターの声明では 「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」 となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。 未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。 研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦
出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)
注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。 名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所
崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州 陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾) 鄭学珠 14 1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン 文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国) 姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール 林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国) 李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ 金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国) 洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海 李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾 金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾 金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東 *1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/15?from=1 朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。
現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。 もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。 慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。 しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/ 『慰安婦』にされた年齢 尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。
11歳 1名 12歳 1名 13歳 1名 14歳 3名 15歳 5名 16歳 16名 ←台湾での公娼の下限年齢*3 17歳 7名 ←朝鮮、満州での公娼下限年齢 18歳 3名 ←日本(内地)での公娼下限年齢 19歳 3名 20歳 - 21歳 1名 ←国際条約*4における成人女性の年齢 22歳 - 23歳 1名 29歳 1名
*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。
*3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく) *4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』 コメント一覧 貧寒 2008/09/27 11:07
韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。 2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。 おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。 Stiffmuscle 2008/09/27 21:47 子供〜青年前期に強姦の被害者になると、その後の人生に多大で深刻な影響を及ぼします。ましてや元「慰安婦」の方々は監禁されて連続強姦され、身体的にもボロボロにされました。 なぜ、日本軍の兵士はそのことに気がつかなかったのか? 相手を同じ人間として見ていたら、その子たちの将来や親のことを考え付いていたら、決してこんな惨いことは出来なかったと思います。戦争だったというのは何の免罪符にもならない。 Allen 2008/09/28 16:21 ここ数年、世界中で第二次世界大戦を振り返る事態が多くなりました。 何となく日本の小泉政権発足以降とほぼ重なるような気がするのですが、やはり日本の一部の政治家や御用学者による一連の「戦争肯定」行為が影響しているんでしょうか・・・ 東中野教授は裁判で事実上「学者失格」と言われ、藤岡教授や八木教授などが在籍する『作る会』は事実上内ゲバで分裂、安倍元首相は1年で政権放棄・・・ 日本の自称『保守』も崩壊寸前ですね。まあ自業自得な印象しかありませんが・・・。 Stiffmuscle 2008/09/29 00:59 「慰安婦」の記述が中学校の教科書の全てに載ってからの右派論壇、つくる会、皇国マンセー議員の妄言が跋扈跳梁した1996年以降の基調だと思います。 当初の攻撃テーマが「慰安婦」と「南京大虐殺」だったわけです。 その後、最近になって沖縄の集団自決の件が出てきますが、正直、あいつらの3連敗です。完膚なきまでに叩き潰されないと「おれたちのが勝ってる!」って醜態をさらし続けるのかも。 まぁ、新人の凄腕論客がいないので、先細りするだけでしょうが(爆) http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080923/p1 日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。
「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。 この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に 「俺もしたから、お前もやれ」 とそそのかし、私に×××させた。 私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。 かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。 http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm 『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』 耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で 切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。 http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/
日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました
私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。 ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。 住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。 私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。 彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。 弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。 その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。 男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。 水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。 私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。 私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。 兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。 私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。 到着すると将校が 「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」 と言いました。 私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。 あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。 それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。 ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。 兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。 その娘たちは兵隊に 「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」 と言いました。 そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。 血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。 彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。 そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。 拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。 女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。 ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。 板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。 そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。 私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。 すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。 この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。 ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。
私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。 私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。 私はここの「慰安所」に8年間いました。 体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。 1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。 http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html 日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか: A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。
さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で 『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』 と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。 B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。
C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。
D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。
E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。
F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。
G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。
筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、
「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」 と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。 http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm 朝鮮人「慰安婦」の証言 12歳で「慰安婦」に 李京生
私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。 ○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。
○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した ○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。
当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。 (リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101200.html http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/ 拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝
私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。
住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。 その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。 (リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101202.html 12年間の「慰安婦」生活 金大日
私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。
私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。 ○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる
○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける ○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む ○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す ○慰安婦150人を並ばせて斬首 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。
はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。
日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。 (キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101204.html http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/ 使い捨てにされた朝鮮女性 金英実
両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。
会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。 ここにいたらいつか私も殺されると思った。 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。 秋になって清津にでてきた。 (キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101201.html
チョン・オクスン(ChongOkSun)
現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。
「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。
13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。 10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。 その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。 一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、 彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。 最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、 「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」 と語りました。彼はまた 「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」 とも言いました。 ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。
あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。 ○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。
○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた ○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された ○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた ○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた ○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った ○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ ○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました 守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。
彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/ ファン・ソギョン(HwanSoGyun) 77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。
「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。 何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。 私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。 ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。 そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。 ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html ファン・クムジュ(HwanKumJu) 現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。
「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。
かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。 そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。 衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。 ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。 第一、天皇の命令。 第二、日本政府の命令。 第三、彼女が所属している陸軍 中隊。 第四、中隊のなかの分隊。 そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html キム・ボクスン (KimBokSun)
また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。 毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、 午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。 また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html 朴永心(パク・ヨンシム) 朴永心の証言 『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html −−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。
朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。
一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。 −−「慰安婦」として連れ回された経路について。 朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。 −−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。 朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。 −−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。 朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。 −−捕虜になった後どうなりましたか。 朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。 収容所には一年ほどいたと記憶しています。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2 李桂月(イ・ゲウォル)
1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。
十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。
駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。 私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。
○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/ 郭金女(カク・クムニョ)
1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。
私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。
私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。 すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」
と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。
○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。
八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。 http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/ 金英淑(キム・ヨンスク)
1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。
今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。
こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に 『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』 と言われたんです。 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。 「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、 「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」 と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」 と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。
○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。 ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。
部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。 http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/
アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、 最大で30万人もの14-20歳の女性たちを 強制的に徴集して性行為を強要したとしている。 さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。 慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。 逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている。 この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6 わたしを犯さず、やさしくしてくれた特攻隊員が一人いた。 彼はわたしに何度もいった。 『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きなければならない』 元「従軍慰安婦」、イ・ヨンスさんが証言 ルモンド東京支局長、フィリップ・ポンス氏が取材し報道
フランスのルモンド紙の東京支局長で、日本の歴史文化に明るいフィリップ・ポンス記者が3月5日、先にワシントンの連邦議会下院小委で証言したイ・ヨンス(李容洙)さん(78歳)と都内の韓国レストランで会い、彼女の話を聞いて記事にした。
ポンス記者はこう書いている。 「現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。 『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。 汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された」 台湾の特攻機地の慰安所での体験を、イさんはポンス記者にこう語っている。 「(慰安所になった)船上で、わたしたち5人は300人の兵にあてがわれました。年上のお姉さんがわたしを隠してくれました。その基地で、わたしは殴られ、犯され、死ぬまで放置されました。わたしの手は針金で縛れていました」 そんな地獄の日々のなかで、イさんはひとりの特攻隊員(パイロット)に会った。 「ひとりのパイロットがわたしにやさしくしてくれました。彼はわたしに何度も言いました。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きねばならない』と。その人だけが、わたしを犯しませんでした」 イさんの証言は続く。 「何ヶ月かが過ぎていきました。わたしがあてがわれた小さな船室には毎日、10人の兵士がやって来ました。船室には寝床と布団と消毒液がありました。 最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していました。(特攻隊員の)彼らもまた犠牲者だったのです」 そして、ついに光復の日が……。
「ある朝、日本兵が突然、いなくなりました。街の方から中国語の叫び声が湧き上がりました。『戦争は終わった』と」 http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/992.html ________ 日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 9 天皇家の教育を任されていた福沢諭吉一派は朝鮮人を人間だと思っていなかった: 福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。
「時事小言」の社説で、
「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」
とか
「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」
などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)
この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。
福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。
これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。 福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。 ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。
しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。
この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。
しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。
彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。 問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。 この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。 結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html 岩上「続いて、福沢による他民族差別の言説を見て行きたいと思います。清国に対して、『チャンチャン』『豚尾』『豚尾児』『豚屋』『孑孑』などと、ヘイトスピーチの限りを尽くしています」
杉田氏「当時の辮髪を差して、『豚』と呼んでいるわけですね」 杉田氏「福沢の場合、こうした言葉が、漫言だけでなく、新聞の社説や著書にも出てきます。『豚尾の兵隊』『豚尾児』『豚尾奴』『豚尾兵と名づくる一種の悪獣』といった表現が出てきます」 岩上「他にも、中国人に対するヘイトスピーチはたくさんあります。『流民乞食』『彼(=支那)の国民の骨に徹したる淫欲の余毒』『半死の病人…豚狩り』などなど」 杉田氏「福沢は他の所で『こんなこと言ってはいかん』と、なんの反省もなく自己合理化しています」 岩上「朝鮮人に対するヘイトスピーチもたくさんありますね。『儒教主義に飽満して腐敗を致したる』『上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆』など」 杉田氏「朝鮮人に対しては、一貫して『腐儒』という言葉を使いますね。福沢の底流には儒教主義があるのですが」 岩上「こういう言説を見ていると、明治の時代精神とはこんなものなのか、と暗澹たる気持になります。 杉田氏「福沢が朝鮮や中国、台湾に対してどのような態度を取ってきたか、見ていきたいと思います。金玉均らが起こした甲申政変に、福沢が関与しています。しかし福沢はその後、この事実を執拗に隠すんですね。しかし、福沢が援助した事実が残っています」
岩上「金玉均や朴泳孝による甲申政変に関して、『自ら進んで役者を選び、役者を教え、また道具立其他万端を差図せられた事実がある』という文言が残っているわけですね。他国の政変を工作するなんて、とんでもないことです」 杉田氏「武器まで提供しています」 杉田氏「金玉均は、日本に来て福沢に対し『誠に申し訳ありません』と謝っています。福沢の期待通りに事を運べなかったことに対し、謝罪しているわけです。このことからも、どれだけ福沢が甲申政変に深く関与していたか、分かるかと思います」 杉田氏「甲申政変の段階で、井上馨による外交交渉が行われているなか、福沢諭吉は『我政府に於ても、止むを得ず曲直を兵力に訴るの外なかる可し』と、戦争を仕掛けろ、と鼓吹しています。日本人が殺されたことの弁償をしろ、という理屈です」 杉田氏「自分で仕掛けておきながら、支那と朝鮮が加害者だ、と福沢は言います。さらに、『御親征の挙、断じて行う可きなり』と言います。天皇が自ら乗り込んで戦争しろ、ということですね」 杉田氏「有名な『脱亜論』はこの時期に書かれます。この論説で明瞭なのは、列強によるアジアの分割に加わるべきだ、ということです。アジアの土地を奪え、遠慮はいらない、といった調子ですね」 岩上「次が台湾です。台湾に対してはよりあからさまです。『一人も残さず殲滅して』などということを書いています」 杉田氏「台湾で次から次に抵抗運動が起こります。そのたびごとに、台湾人を殺戮するよう煽る文章を発表しています」 杉田氏「時事新報に『雑報』という欄があります。この中に、『自分が見切れないで、とんでもないものが出てしまった』と書いています。しかし、台湾人の殺戮を煽っているような文章は、社論として書いています。平山洋さんが言うように、弟子が書いたものではない」 視聴者からの質問「福沢諭吉は病んでいるとしか思えない」 杉田氏「福沢としては、貧知者が生まれないように、かなり自覚的に差別を行っているのだと思います。それは、アジアに対しての視線でも共通しています」 岩上「最後に、日清戦争後に日本が膠州湾を租借した後の福沢の言動を見ていきたいと思います」 杉田氏「支那人の支配には日本人が最適だ、ということを言います。日清戦争の時にいかに日本が手際よく清国を倒したか、ということを強調しています」 岩上「今日の安倍政権が、改憲の動きや戦争法案の制定に動き出しています。さらに、安倍総理は『ポツダム宣言』は読んでいない、と」 杉田氏「これは、表立って否定する段階ではまだない、ということだと思います。すぐ、次の段階がくるでしょう」 杉田氏「集団的自衛権も含めて、かつての自民党ができなかったことを次々とやれるようになってきています。『ポツダム宣言を読んだことがない』というのも、かなり意識的に言っているのだと思います」 http://sun.ap.teacup.com/souun/17437.html 福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:
「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、
「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常…… 朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁) 朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。
「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……
「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」…… 「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」 「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」…… 「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」 (本書160−161頁) なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ
「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」
と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)
中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。
なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。
それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。 「目に付くものは分捕品の外なし。
何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。 其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」 という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに
「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、
老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」 という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)
目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。 「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、
その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、 『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、 百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、 金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。 たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、
“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、 学問・教育も一種の商品だから 金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する
という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、
豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ
という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、
「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」
と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)
筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。 http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html
福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔
1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像
1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。
実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。 たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、 福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、
日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。 天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。
また、『学問のすすめ』の
「一身独立して一国独立する」 は、 「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」 と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。
理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。
さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、 「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、
すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。
なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。
2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱
福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。
福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。 また同じ時期の、「台湾出兵」について 「こんなにお祝いすべきことはない」、
「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」 と述べ、「江華島事件」では
「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」
と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。
福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では
「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ
と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。
さらに国の独立確保を最優先するためには 「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」 であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち
「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、
また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から
「法螺を福沢、嘘を諭吉」
と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。
3.日清戦争と福沢諭吉
この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。
リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが 福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。
明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。 4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』
福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち
他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、
「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」
という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。
「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、
「朝鮮は国にして国に非ず」、 「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、 「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、 朝鮮人は豚や犬だというのです。
「支那兵…豚狩りのつもりにて」、
「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、 中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。
中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。
このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて
「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」
と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。
この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。
「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」 であり、
「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」 と書きました。
「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。
私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、 福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。 その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。 5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」
福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。
家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、 天皇崇拝は「日本人固有の性」、
「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」
とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。 http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html
◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」). 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.
そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した. そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」) それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた. 諭吉は、天皇家の先生だった! 昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月〜1958年).
小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」). 皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年〜1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年〜1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした. 彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.
(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)
「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」
(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」) (1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁) 小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)
現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか? (注)
「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」 「部屋の大きさは二十畳ぐらい」 「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」 「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」 「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」 (小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」) http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html 天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」) (1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)
天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか? それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ) もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった. 天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか? http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_7753.html 「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」 靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です. (福沢諭吉全集 第20巻232頁) 諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた 「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」
その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる! 日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです! http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html 「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)
「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 ・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」 (死者に厚くす可し」 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁) (天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)
福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした. http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html 英国もフランスも、人の土地を奪っている! (対中侵略15年戦争の諭吉の布石)
「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」
「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・ 皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、 少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」 (1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁) 「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」
(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁) 「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」
(1882年 全集第5巻313頁) 「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」
(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜) 「目につくものは分捕品の外なし.
何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. ・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・
之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」 (1894年 「漫言」全集第14巻570頁) この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.
それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.
この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています. 日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが. http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html 福沢諭吉: 「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・ 本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。
事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」 (福沢諭吉全集第5巻108ページ〜) http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html 私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった
1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」 (福沢諭吉全集第20巻)
その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)
また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻) 東京招魂社が、靖国神社になったころです. 「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.
天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ! 死んだ後には靖国神社がある」 諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.
真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています. ダマス者が賢く、国民は愚民! それが、日本の伝統と文化でした. ___________
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!
「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (福沢諭吉全集 第5巻271ページ) 諭吉は、こう書いています.
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)
なぜ、彼はそう書いたのか? それは、次の理由によります.
◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」 これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)
◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる ◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる
◆自分は、支配者の側に立ちたい. 門閥制度で一生下級武士はいやだ!
◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.
◆だから、国民をだまさなければならない.
◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.
◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる. (若くして殺された特攻隊員がそうだった)
◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.
◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.
◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)
これが、福沢諭吉の真実です.
福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.
◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.
◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない. ◆そこで、天皇制を利用しよう. ◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう. ◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう. ◆そこで、彼は、天皇制についてこういった. ◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ) (福沢諭吉全集 第5巻271ページ) ◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした! ◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている) 日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.
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福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.
「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」
(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教えています. (1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁) 国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.
「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」
(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ) 中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.
国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ. 「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」 (1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ〜)
(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)
日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています. http://hibari-yukichi.blogspot.com/ 福沢のアジア侵略思想の歩み
1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国 政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、
「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」
を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。
また、これに続けて福沢は、
「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」
と公言して憚らなかった。
さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、
「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」
と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。
こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。
また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。 植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。 5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔
私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。
まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。
吉岡弘毅(元外務権少丞):
「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」 徳富蘇峰:
「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。
にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、
丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、 福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵―― とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。
戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。
権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。 しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。
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