http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/705.html
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(回答先: マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 投稿者 中川隆 日時 2017 年 5 月 07 日 04:13:51)
朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一
朝鮮部落なんか存在しない伊那の田舎出の本多勝一を在日朝鮮人とか、笑っちゃうね
本多勝一みたいに体制側に都合の悪い真実を明らかにすると、何一つ反論できないから朝鮮人認定して真実を否定しようとするのですね:
【南京大虐殺を捏造した】本多勝一は在日です【在日確定】日本の国難は全部朝日新聞のデマから
2014年09月22日
【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く[桜H26-1-2] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw
2014/01/02 に公開
安倍政権発足から一年を経て国全体に明るい兆しも見えてはいるものの、「戦後日本」からの脱却はなお容易ではなく、草莽一人ひとりの覚悟がますます問われている。これから日本は何処へ向かうのか?真に国を想うその信念に従い、政治家として日々奮闘している国会議員諸氏と、優れた洞察力で時代を先見し、有為な視点を示してきた保守の重鎮達それぞれにお話を伺う新春特別対談です。
ゲスト:渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」
渡部:朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。
人殺しが実験なら苦労しません。
不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。
日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では
南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。
しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、
爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。
それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる
朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。
そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、
その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。
だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。
しかもデマの発祥地は反省しない。
http://hosyusokuhou.jp/archives/40319566.html
朝日の「南京大虐殺」説は“朝鮮人”記者が書いた? 2011-07-14
朝日新聞に「南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺された」と虚偽を書いた本多勝一、本名は崔泰英
生年が著書により1931年、1932年、1933年と3通りある不可解さ
著書名 記された生年月日
「中国の旅」1933年生まれ
「殺される側の論理 」1933年生まれ
「南京への道」1931年生まれ
「裁かれた南京大虐殺」1933年生まれ
「天皇の軍隊 」1932年生まれ
「南京大虐殺の研究」1933年生まれ
「貧困なる精神Z集」1932年生まれ
「ジャーナリズムと歴史認識」1931年生まれ
他に生年月日抜きで発表されたのは「中国の日本軍」
「南京大虐殺否定論13のウソ」
この本多勝一、 本名は崔泰英 としてあちこちで目にします。
(じっくり調べてみます。諸説あり、いまだ確定には至っていません)
仮に事実なら、朝鮮人記者が朝日新聞という中国密着新聞に中国共産党の言うまま、検証も無しに記事を掲載、 「南京大虐殺」の「広宣流布」に大きな役割を担ったということですが。
もし日本人だとしてもその精神性に於いて大いなる疑義を抱かざるを得ません。
虐殺30万人が真実なら報道されることになんの異議もありませんが
さまざまな角度から検証してみるに、まずもって「物理的に無理」が結論です。
【この事実に注目】
日本の中学校教科書に初めて「南京大虐殺」が記述されたのは、
昭和53年(1978年)。
しかし中華人民共和国の教科書には「南京大虐殺」の記載はこの時点でも無かった。
「南京大虐殺」の1937年から実に43年間、中共の教科書にさえ記載されていない、
という事実に着目。
「南京大虐殺」は「朝日新聞」(1987年)の虚構報道により、更に広く日本国民に「事実」として
認識され、中共に利用されるに至りました。
もう一度言います。 「南京事件」の1937年から実に43年間、中共の教科書にさえ載ってはいません。事実なら、あの中共が43年間もこの事件に触れないでいるでしょうか。
場合によったら、ですが日本人のふりをした朝鮮人によって捏造された事件を中共が利用し始めて現在に至るという
構図ではないでしょうか。南京大虐殺館建設にお金を出したのも極左の日本人・元日本社会党委員長、田辺誠です。
その物理的出自のいかんを問わず彼らは「日本人ではない」。少なくともこの日本を護る立場には
あらず何らかの理由で毀損に走った人物だと思われます。
「30万人は学術的に根拠はなく、中国の研究は、日本で高まった南京事件否定説に対抗するイデオロギー的なもので、
自分が当館を経営していれば、この数字は使わない」(張連紅・南京師範大教授)
【備考】南京重慶に従軍していた父を持つ方のレポート。
父が南京重慶方面に従軍しており、話を聞いております。 あまりに捏造なので代わって抗議します。
これだけの人数を銃殺処分するとなると当時は、英国などの記者も沢山在所していたので、
川に流したとしても絶対に写真が海外に出る。 写真がないのは事実がないからだ。
川辺は沼地状態で万単位の捕虜を確保はできない場所で、多くの住民が目撃可能な場所だ。
この話が本当の話なら、そんな危ない街の南京の人口が数ヶ月で何故急増したのか?
馬賊も出没しなくなり、安全になったからだ。
また、この元兵士の「日記」だが、このような詳細な軍行をしかもいち兵隊が書いて残していたら、
憲兵に発見されたら軍律違反で銃殺もの。
もっと云えば、引き揚げ上げ時には身体検査があり、絶対に持ち出せない筈。
若い人達はテレビにウソばかり教えられている。 ウソである。
この兵隊も本当なら実名で名乗れる筈だ。 また連体は2000人前後の旅団で65連体など存在しない。
当時の出兵記録を調べたら分かる 以上
「反日グループ」週刊金曜日のメンバーとしても本多勝一は名を連ねています。
石坂啓 永六輔 中山千夏 落合恵子 佐高信 椎名誠 (故)筑紫哲也 本多勝一 石倉直樹
*筑紫哲也も朝鮮名がしきりに出まわっていますが、こちらも未確認です。諸説あり。
最近、その遺産隠しが露見して修正申告(という名の)“脱税”が報じられました。
動画で見る本多勝一
本多勝一さん週刊金曜日創刊のころ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9e6O49Q4LsI
こいう講演をわざわざ聴きに行き、なごやかに笑っている人たち、何者。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/819f12c54bc6165c57fa69c51a35e248
本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/
本物のプロの取材方法とは
本多勝一氏の取材方法は、ひたすら歩いて、見て、聞いて、ノートを取る。
インタビュー相手の話が脱線しても、既知の話題が出ても、相手を遮ることはせず、とにかく聞く。
はっきりとしない部分は通訳を通じて何度も聞き直す。そして写真撮影。
本多勝一氏と巡るハーレム 32年振りの再訪
http://www.nybct.com/2-62-honda.html
今から32年前の1969年。当時、朝日新聞の記者だった本多勝一氏は、アメリカの主に黒人とネイティブ・アメリカンをルポするために単身渡米し、ハーレムや南部を半年に渡って取材。その記事はまず朝日新聞に連載され、後に1冊の本にまとめられて「アメリカ合州国」として出版された。当時、アメリカの黒人社会にここまで深く潜入して書かれた本は、日本ではほとんど出版されておらず、大きなセンセーションを巻き起こした。
その本多氏が2001年にハーレムを再び訪れた。あれから32年、その間にハーレムの何が変わって、何が変わらずにいるのかを取材するために。前回の取材時はハーレムに住む“ブラウン君”という黒人青年がガイド役を務めているのだけれど、そのブラウン君の行方を探すことはもはや不可能で、今回、私がブラウン君に代わって本多氏を案内することとなった。
・・・・・
本多勝一と言えば、まさに硬派ジャーナリストの代名詞のような存在。かつては敏腕新聞記者として世界各地を巡って数々のルポを書き、それらは今も書店の棚に並んでいる。また戦争やジャーナリズムについてなど、議論を呼ぶこと必至の著作も多く、論争や非難の渦中にあったことも数知れず。さらに朝日新聞を退社後は「週刊金曜日」という、これもまた硬派な週刊誌を立ち上げ、そこからは「買ってはいけない」のベストセラーも出ている。
ところが、ハーレムにほど近いホテルの朝食ルームでお会いした本多氏は、いたって温和で物静か。取材用のノートとカメラを肌身離さずに持ってはいるものの、とても辣腕ジャーナリストには見えない。「初めまして。本多といいます。今回はよろしくお願いします。ところで、どこかカバンを買えるところはありますか? カメラを入れるカバンを成田で買おうと思っていたんですが、時間がなくて …」と、本多氏はケースにも入れていない、剥き出しのカメラを携えて丁寧な挨拶をされた。
・・・・・
32年前、本多氏はハーレムYMCAに宿泊して取材をしたと「アメリカ合州国」にもある。今回の取材では、そのYMCAも含め、前回訪れた場所を再訪したり、現在のハーレムを良く知る人たちをインタビューして1969年のハーレムと、2001年のハーレムとの比較にポイント置いているとのことだった。
本多氏の取材方法は、ひたすら歩いて、見て、聞いて、ノートを取る。インタビュー相手の話が脱線しても、既知の話題が出ても、相手を遮ることはせず、とにかく聞く。はっきりとしない部分は通訳を通じて何度も聞き直す。そして写真撮影。
数日間に渡るハーレムの取材を終えた本多氏は、通訳兼アシスタントの“カズ君”と共にアメリカ南部の取材へと旅立って行った。この一連の取材の成果は「週刊金曜日」に連載されるとのことなので(時期は未定)、ハーレムの変化に興味のある方は「アメリカ合州国」と読み比べてみられてはいかがでしょうか。
●本多勝一「アメリカ合州国」朝日文庫 ¥544
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E5%B7%9E%E5%9B%BD-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/402260803X
1969年に単身アメリカに渡った本多氏が、ハーレムやアメリカ南部諸州をまわり、主に黒人の生活や人種差別の実態について書いたルポ。ハーレムではYMCAや廃虚のようなアパートに暮らし、人は良いけれどお金にだらしのない“ブラウン君”と共にハーレムを取材。南部紀行では、自身が激しい人種差別に遭遇。また戦後に黒人兵と結婚して渡米した日本人女性も取材している。なお、ハーレムの章の写真撮影は、氏の友人でもある吉田ルイ子氏。
●今回、プロのジャーナリストである本多氏の取材に同行できたことは、とても幸運でした。何よりプロの取材方法を真近で見ることができましたし、ハーレムを案内しているあいだに、私自身がハーレムの“今の姿”を再認識できました。
今、南部を旅行中の本多さん、どうもありがとうございました。また今回、私を本多氏に紹介してくださった中澤まゆみ氏にも感謝いたします。中澤さん、どうもありがとうございました。
http://www.nybct.com/2-62-honda.html
チャンネル桜が本多勝一が在日朝鮮人だというデマを流したのは この本を読まれると困るからだね:
中国の旅 (朝日文庫) 本多 勝一
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4022608056/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=0&sortBy=recent#R2NV3WY7ECK8F2
本多勝一は、ベトナム戦争に従軍し、精力的に記事にした。そこでは、南ベトナム軍も民族解放軍も、更には米軍でさえ虐殺していた。ならば、中国で日本軍は何をしたのか?
投稿者イエスちゃん!2015年5月2日
本多勝一は、ベトナム戦争に従軍し、精力的に記事にした。敵の北ベトナム側にも取材に行っている。
そこでは、南ベトナム軍も、反政府・民族解放軍ベトコンも、更には米軍でさえ、膨大な農民、老人、女、子供を虐殺していた。
それならば、先の日中戦争では、中国において日本軍は何をしたのか?に、記者として関心が高まった。
ベトナム戦争において、多数の証言者に対して、証言者の内容が信頼できるかどうか、吟味する方法を習得していった。
実際に本人が体験した証言と、単に人から聞いた証言・うわさ証言では、明確に差が出て来る。
証言者は多くは農民で、初めての取材であり、慣れていない。順序だって論理的に時系列で話す訳ではない。
最初に、自分の伝えたいことを先に話し、証言はいろいろと脇道に飛び、発生した時間の流れを前後する。
その膨大な部品・ピース・断片を、本多勝一は、自分の頭の中で、整理して、全体を再構成する。
そこで、まだ聞いていない部分・空白の部分を、何度も質問して、少しづつ埋めて完全に近づけていく。
もしも、証言者が自分の体験ならば、まだ話していないだけで、いくらでもその事について詳細に証言できる。
この過程で、記憶があいまいな証言者は、記事として使えないとして、外していった。
つまり、新聞記者のプロの眼で、情報の確度の選別、吟味をしている。
(なお、北ベトナムでの取材でも、共産主義の国だから、証言者は北ベトナム政府が、記事の希望に沿って、探し出したものである。)
結論から言って、日本軍も、中国において、多くの虐殺を行っていた。
この事実を認めることから、和解と再発の防止ができる様になる。
是非、多くの日本人に読んでもらいたい。
● ● ●
なお、平頂山事件は、精神的に異常な一人の軍人が起こした虐殺事件である。
(妻の自害の真の理由が不明、自分の為に死んだ妻の葬式も出さずに満洲に)
『撫順の守備隊の<一大尉>が、匪賊を匿うたとの廉で、部落の『婦女子』を集めて機関銃で掃射鏖殺したとのことであった。
この事件のあった少し前、内地の一新聞に満州へ出征した一大尉の夫人が、夫君に後顧の憂いなく御奉公するようにとの遺書を残して白装束で自害したとの記事があり、戦時婦人の典型だとて評判になっている旨を伝えていたが、件の大尉こその婦人の夫であった。』
(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀--外交官の回想』)
それに対して、戦後、蒋介石の戦犯軍事裁判で、無実の撫順炭鉱の所長が、でっち上げ冤罪で、死刑にされた。
(この真の戦争犯罪者・軍人は、当時、満洲にはいなかった。戦後も、日本にて、生きながられた。運命は不公平である。)
この死刑は、復讐そのものであり、別の新しい犯罪行為である。中国側は、このことも知る必要がある。
両方とも追及・糾弾して、再び起こらない様にする必要がある。
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4022608056/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=0&sortBy=recent#R2NV3WY7ECK8F2
1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。
”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。
本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。
問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。
日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。
今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”
朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より
チャンネル桜は南京大虐殺が捏造だというデマを必死に流していますが、
当時の記録がちゃんと残っているので30万人虐殺は絶対に否定できないのですね:
30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報
【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。
犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。
電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。
電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。
2002/12/21 09:31 【共同通信】
南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。
日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)
電文の内容は
「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」
というものだ。張生教授は
「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」
と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日
ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に
「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」
と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。
事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3
当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、
「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼、之が皇軍か」
と記述している。
※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html
日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少 2014年01月08日
吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。
同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。
同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。
1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。
今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。
1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年1月8日
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html
>>129 で本多勝一は在日朝鮮人だという根拠ゼロのデマを流した渡部昇一については
保守論壇の重鎮・渡部昇一の「昭和史」のデタラメを読み解く。
http://www.asyura2.com/10/senkyo91/msg/261.html
渡部昇一の流した悪質なデマの例
●重要なことは、蒋介石も毛沢東も誰も「南京大虐殺」を言った人はいないという事実。
「南京大虐殺」が最初出てきたのは東京裁判。それが忘れられた頃に騒ぎ始めたのは朝日の本多勝一で、それに乗ったのが当時の社会党の田辺誠と言われている。
《渡部昇一 「こんな日本に誰がした」》
実際は
1938年7月(南京陥落後)日中戦争1周年に蒋介石は「日本国民に告げる書」で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。
「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない。
蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている
「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。
10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・
このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」
毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。
「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。
これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html
渡部昇一の流した悪質なデマの例 2
●東京裁判における最重要証人たるマギー牧師(安全区の委員で、南京占領後も市内を自由に歩けた立場)の証言は、南京における膨大な殺人・強盗・強姦・暴行・累々たる屍…について見てきたようなものだった。2日間にわたり法廷で詳細な証言をした。
●しかし、マギーはブルックス弁護人から「あなたは具体的に虐殺された一般市民を何人見たのか」の問いに、「見たのは1人である」と答えた。その1人とは、日本兵が警備しているところを1人のシナ人が通りかかって誰何され、途端に逃げ出して撃たれた、というものだった。歩哨が誰何して逃亡した人を射殺するのは殺人ではない。これは全く合法な戦闘行為。
●強姦らしいものを1件見たとも証言した。それは現場を見たのではなく、マギーが通りかかると1人の日本兵が走り出していき、そのあとを見ると女がいたから、あれは強姦されたに違いないというものだった。日本兵がアイスボックスを民家から持ち出すのを1件見たとも証言している。
…マギーが自分の目で見たものは、たったこれだけなのである。このどこをどうこねくり回せば、大虐殺という言葉が出てくるのだろうか。
●戦時プロパガンダというのは、事実か嘘かは問題ではない。国際世論を味方につけ、自国民の戦意を高揚させ、敵の意欲を喪失させればいいのである。
《渡部昇一 「渡部昇一の時流を読む知恵」》
http://kenjya.org/nankinkyogen.html
実際は
マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。
殺害現場に立ち会わなかったのは当然。
いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。
もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。このことの方が重要な証拠となっている。
東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html
渡部昇一の流した悪質なデマの例 3
●私にとって印象深いのは、本多勝一氏と山本七平氏の「百人斬り論争」です。72年に『諸君!』誌上で半年ほど続き、あとはそれぞれの著書で持論を展開する形となりました。南京入りに際しての野田少尉と向井少尉の「百人斬り」を、本多氏は事実だと、山本氏は戦意高揚のためのフィクションだと主張しました。
●私が感心したのは、山本七平氏が『私の中の日本軍』(文芸春秋 1975年)で披露した卓論です。野田少尉は大隊副官でしたが、向井少尉の職務は新聞ではボカされていました。山本氏はそれが歩兵砲の小隊長であったことをつきとめます。だとすれば、2人は指揮系統も職務もまったく違います。
●日本軍は厳格な縦社会であり、軍人とは、直属の上官の命令以外、絶対に聞いてはならない存在です。実戦の最中に向井少尉が砲側を離れ、小隊長の職務を投げ出して、横の関係でしかない野田少尉と私的な百人斬り競争をすることなどありえない---山本氏はそう結論づけたのです。戦場経験のある山本氏ならではの、説得力のある議論に私は感心し、論争は山本氏の完勝だと思いました。
《渡部昇一 「朝日新聞と私の40年戦争」》
http://kenjya.org/sonota4.html
実際は
百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘
1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。
このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。
それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。
そうした試みの代表的な(そして最も「成功」を収めた)サンプルと言えるのが、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』です。
この本はその前半およそ半分を、南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎない「百人斬り競争」事件の否定に費やしています。鈴木氏はこの事件の信憑性に疑問を投げかけることで、本多氏のルポ全体、ひいては南京大虐殺全体が根拠のない「まぼろし」であるかのような印象を与えようとしたのです。
鈴木氏の「批判」が当たっていないこと、それどころか逆に『南京大虐殺のまぼろし』の方が証言の歪曲や捏造だらけであることは既に明らかになっているのですが、一時は多くの人がこの本に騙されました。
下記の議論が示しているように、最近になってさえこの件をネタに『中国の旅』を攻撃しようとする論者がしばしば現れます。残念なことですが、一度広まったデマは容易に根絶しがたいものなのです。
『南京大虐殺のまぼろし』後半部分については、そのデタラメさ加減を指摘する記事が「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。また、小林よしのりとの共著『朝日新聞の正義』でこの百人斬りを否定しようとする井沢元彦の無知ぶりとトリックを指摘する記事が、同じ「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/hyaku.htm
野田、向井両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。
鈴木氏の『南京大虐殺のまぼろし』や洞氏の『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』が書かれた時点では公開されていなかったのですが、今では中国側から公開された一部の記録(起訴状と判決書[8])を見ることができます。
この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、
「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」
という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。) もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。断定はできませんが、判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。
というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。
百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。
例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙が紹介されています。
ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところで紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示さ
れているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。
(1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に
「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」
とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。
(2)鈴木氏紹介の手紙には
『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見 ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』
と いう部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。
(3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には
『刑の執行の朝、彼等が、軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』
という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。
洞氏は、
『鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。
…鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつ たえられているか疑わしくなる。
フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 』
と述べていますが、私もまったく同感です。
また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。
肝心の石氏の証言も、鈴木氏のテープにあるという
『この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた』
とか
『向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた』
などという話は出てこず、逆に
『裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。』
とか
『二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。』
といった証言が得られています。
鈴木氏が石氏の証言として
『五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定された』
などと書いているにもかかわらず、判決書によれば実際の裁判官は*四人*であったことなどを考えれば、それは自明であると私は思います。
いまだにこのような「取材」によって書かれた本をネタにして本多氏の「ジャーナリストとしての姿勢」にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm
望月五三郎手記
望月五三郎氏は事件当時両少尉と同じ部隊におり、両少尉による「競争」を目の前で見ていた当事者である。望月氏は1985年に私家版として刊行した手記『私の支那事変』の中でこの事件についても触れており、この「競争」の実態が、捕らえた罪もない農民を二人で争って斬り殺した殺人競争であったことを赤裸々に描き出している。志々目証言とこの手記によって、百人斬りの真相はほぼ明らかになったと言っていいだろう。作り話でもなければもちろん戦闘行為でもなく、無抵抗な捕虜や農民に対する虐殺だったのである。
ちなみに、この手記は刊行後埋もれたままになっていたが、歴史否定勢力が両少尉の遺族を原告に仕立てて本多勝一氏や毎日新聞、朝日新聞などを「名誉毀損」で訴えた裁判の過程で、新資料として発掘された。愚かな否定派の策謀も真相究明に役立つことがある、という好例であろう。
百 人 斬 り 昭一二・一一・二七 〜 昭一二・一一・二八
線路に沿って西へと進む。無錫の手前八kmあたりで、敵の敗残兵約ニケ中隊に遭遇し、激戦の末、約三○名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。
速射砲が敵陣の壁めがけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にはもう弾は壁を砕いている物凄い破壊力である。引き続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する、援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊怒り心頭に達する。
やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。
常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。
「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。
このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第一一中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
この人が百人斬りの勇土とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。
「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの埋由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。 両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。
今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。(後略)
(季刊『中帰連』2004年秋号)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mochiduki.htm
向井氏の遺書
百人斬りの実行当事者である向井氏は処刑前に遺書を残しているが、この遺書には、東京日日新聞による報道は彼ら自身の話した内容を記事にしたものであることが明記されている。つまり、向井氏本人が、記事は浅海記者による捏造などではないと言っているのである。更に、「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります」と述べているとおり、向井氏は記事に書かれた百人斬り競争を行ったこと自体は認めている。(それは戦闘行為であって虐殺ではなかった、と言っている訳だが、銃器で武装した敵兵を戦闘中に何人も日本刀で斬り殺すことなどできるはずがないことは言うまでもない。)
以下、この遺書の一部を再録する。
この向井氏の遺書では、百人斬り競争を新聞記者に話したのは野田氏ということになっているが、野田氏の方は、話したのは向井氏だと父親への手紙に書いている。
なお、「百人斬り」を捏造だと主張する鈴木明氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』に向井氏の遺書を引用しているが、なぜかそれは下記の「辞世」の部分だけで、都合の悪い後半部分は無視されている。
[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房(1999) p.111
[2] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋(1973) p.77
辞 世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
中国の御奮闘を祈る
日本敢奮を祈る
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井 敏明
遣 書
母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽しましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐しい国です。
野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御託ぴして置きました。
公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。(後略)
巣鴨遺書編纂会 『世紀の遺書』 (1953年)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mukai.htm
志々目証言
帰国した野田少尉が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰氏が聞いたもの。勇猛な白兵戦として報道された「百人斬り」の実態が、実は捕虜虐殺の据え物斬りであったことが、本人の口から率直に語られている。
戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。
この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。
それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。
私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。私自身その三年のちに陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響――日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死した――を強く受けて、熱烈な海軍ファンだったからかもしれない。
さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……
実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」
これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。
そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。
「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」
という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。
その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……
だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。
そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受けいれることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。(後略)
志々目彰「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」(『中国』1971年12月号)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/shijime.htm
報道関係者の証言
浅海一男 元東京日日新聞特派員 (第1報〜第4報共同発信者)
(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。(中略)筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。(中略)
両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。
両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。
(中略)
事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。
例えば確か丹陽の少し手前(上海寄り)にあった中華民国歩兵学校が占領されたとき、その裏手の広場に、数十体の国民党軍の兵士の遺体が横たわっていて、それらの遺体にどれひとつとして頚部から上の部分が見られなかったときの筆者の驚ろきと暗澹たる心情は忘れがたいのです。
(中略)
このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。(後略)
浅海一男「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.340-347)
鈴木二郎 元東京日日新聞特派員 (第4報共同発信者)
(前略)わたくしたちは昭和十二年十二月十二日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京*線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の百人斬り競争≠ニいう特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。
この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となたのである。
南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの百人斬り競争≠フ始末をのべてみる。
(中略)
検事の喚問は、やはりこの競争≠『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の競争≠フ真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの競争≠計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、
二人とも逃げるのは斬らない
といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、
『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない、虐殺ではない』
と強調した。
検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。
しかし、両将校は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)
鈴木二郎「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」(月刊『丸』1971年11月号)
(本多『殺す側の論理』p.190-191)
そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。
本人たちから、“向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです
『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36
(前略)一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中にゴール#翌チた二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。南京入城の際私は三十歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮かに脳裡に浮かぶのである。
(中略)
しかし、残念な事に、資料Cとして紹介された月刊誌『中国』の一九七一年十二月号にある志々目彰氏の「日中戦争の追憶」――百人斬り競争≠フ文が、私を愕然とさせた。その文章には、鹿児島県出身のN少尉が小学校での講演で「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……」とまず、私ども東京日日新聞(現毎日新聞)の百人斬り競争%チ電を裏付けた発言が紹介されていたのは当然の事ながら、つぎのような驚くべき発言があった。
実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかってニーライライ≠ニ呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
二人で競争したのだが、あとで何ともないか、とよく聞かれるが、私は何ともない……
とあり、更に志々目氏は、つぎのようにつづけている。
「ニーライライ≠ニいうと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる」という言葉は今でもはっきり覚えている。ニーライライ≠ニいうのは、お前来い来い、という意味だそうだ。(中略)
だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという勇士の体験談は、私にはショックだった、云々。
志々目氏が小学生のころ、本人から聞いて知って受けたというこのショック≠ヘ、二将校の「逃げるのは斬らない」という言明を深く信じていた私どもには、あの特電≠ゥら四十年にもなろうとする現在、大変なショックを覚え、「裏切られた」という感じで一パイである。
戦後、浅海一男君ともどもこの百人斬り競争≠フ特電をもとに、市ヶ谷台の東京裁判で、南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際、特に二人が強調したのは「二人とも逃げるのは斬っていない、立ち向かう敵だけを斬った、虐殺ではない」ということだった。そしてまた、その事を信じての特電だったからだ。
志々目氏の聞いたN少尉の講演は、或いは同少尉が、戦捷のさ中に、帰国して勇士≠ニして歓迎され講演を頼まれ、いささか調子に乗って、話を面白おかしく(当時として)する気持ちで話したのかも知れないが――
聖戦≠信じ、勝つある事を信じて、夢中で戦場を馳け回り、九死に一生を得て、今日ある時、今更ながらわれらの「特電」の空しさに反省させられたのである。
鈴木二郎「当時の従軍記者として」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.356-358)
佐藤振寿カメラマン (第4報掲載写真撮影者)
とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。
私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。 “へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ。
あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけれど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。 ――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ。
『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.35
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/houdou.htm
据え物斬り体験者の証言
鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。(小見出しは高橋による。)
________________________________________
1942年5月、最初の斬首体験
竹薮を背に、私は半身に構えて農民の左後方に立った。彼の瞼は腫れ、口からは血が流れていた。祐定を抜くと、一五人許りの日本兵のざわめきが消えた。 ……
苦し気な農民の息づかいだけが聞こえる。刀を構える直前、農民の斬撃点である後首を見て、一瞬当惑した。斜め下に見るそれは僅かに二センチ位にしか見えない。沙陽鎮の立木とは雲泥の相違である。外れると後頭部か肩を横一文字に斬ることになり、その瞬間、将校としての威信失墜必至である。而も初体験であり、成功の保証はない。 ……二秒、三秒、グッと刀を振り上げた。――
「エイッ!」
ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、九分通り斬れた首が胸に巻きこむように倒れた。斬った瞬間真っ赤な血が噴水のように三、四本吹きあがり、胴体は血溜りの中にのめりこんだ。自分自身が下手人であり、それこそ万死に値する罪を犯したのに、逆に私はホッとした心境で刀の血糊を拭いた。
(略)
御稜威≠フ下(天皇の威光の下)赫々たる「戦果」に酔っていた皇軍の一つの側面は、明らかにその底流で敗戦の要素が比重を高め、進行しつつあったことである。だが、私はそんなことなど露知らず、勝手な総括をしていた。――
一、祐定は切味と重さのバランスがよく、うまく斬れた。刃こぼれや目釘損傷なし。
二、日本刀は無抵抗の人間(奮戦したが刀折れ矢尽きて不幸にして逮捕された捕虜)の「据え物斬り」には最適である。つまり小銃拳銃の如きでは射撃音響が大きくて殺人現場が喧騒となり、まかり間違えば友軍(味方)を殺傷することもある。その点日本刀は軽便にして殺傷力大で、殺人現場は概して静粛に保たれ、日本刀使用者の技量のかなり低い者でも十分成果が期待し得る。従って刃がしっかりし、折れ・曲りの顧慮少ない刀の場合は、一挙に五名乃至十名の連続斬首は十分可能と思われる。但し「警備地区内」での殺人は予め穴を掘り、斬首後直ちに埋没の準備をしないと、最大の欠点たる大量の流血のために「刑場汚染」となり、具合悪く、注意を要する。
三、但し白兵戦闘の場合はその刃渡り(刃部の長さ)はとても着剣小銃に対抗できず、而も軍刀として外装したものは重くて成果は期待し得ず、従って単に将校の単独軍装として兵を指揮する場合のサーベル的役割を果たせる程度のものに過ぎない。
1944年、民間人9人の連続斬首
私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……
つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。
(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。
(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
(失敗だ!落ち着け!)
私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。
「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」
私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四○センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。
(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)
そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。
「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」
だが不安がふとよぎった。 ――
(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。……
そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)
そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀をふるって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、顎元がガタガタになって来た上、再び刀身の四○センチまでが右五度に曲った。そのために二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。
血の匂いはしばらく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。
この蛮行は勿論私の独断専行であったが、情報主任の権限として何等越権ではなく、寧ろ「天皇の軍隊」への反抗に対する統帥権の当然の発動とさえ思っていた。事実、翌朝、連隊長山田正吉大佐(陸士二九期)に情報・捕虜関係事項の報告の後この問題を詳細報告したところ、
「ウン、馬鹿に派手にやったな……」
と苦笑いしただけで、何のお咎めもなかったのである。
「百人斬り競争」に対する鵜野氏の感想
昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。
しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。
要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に
「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」
とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。
私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での無敵皇軍≠フ極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/uno.htm
その他の大量斬殺例
「衣」師団(第59師団)第45大隊の元伍長、鈴木丑之助氏が、「首切り浜野」と呼ばれていたある中尉について語った内容が、次のように紹介されている。
…「衣」の「秀嶺作戦」と、引き続く撤兵で、山東省という膨大な空白が残るが、ここに替わりの師団を配置する余裕はない。それで、「衣」各大隊から少しずつ兵を抜き出して独立警備大隊というのを作ったわけだ。規模も従来の大隊規模に及ばないものだった。
隊長には、第四五大隊の浜野仁中尉(栃木県出身)が任命された。浜野中尉は、皇軍で「首切り浜野」という異名を自他共に許していた。第四五大隊のなかに、彼が中国農民の首を日本刀で切り落とすのを、見なかった者はないとまで言われた。作戦に出て、途中見つけて案内人として使った中国人であれ、駐屯地周辺の部落民であれ、次々と首切りをしているうちに、彼は毎日一人は切らないと気が休まらなくなったようだと、兵士たちは思っていた。
彼の部下たちは、彼によって中国人首切りのコツを伝授された。彼によって、妊婦の腹の割き方、幼児の殺し方を教わった。その中には「人間がウドンを食べている途中で首を切ると、どう見えるか」などという“実験”まで混じっていたという。中国人民軍側は、彼に多大な懸賞金を掛けてその跡を追ったが、行った道と同じルートを、決して戻らないという彼の侵略行のやり方と皇軍の支援とで、九死に一生を得た。八路軍は、遂に彼を取り逃していた。「首切り浜野」を自他共に許す彼は、これによってますます優秀なる皇軍兵士としての立場を固めていた。
熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社 1974年)p.348
自らも連続9人の据え物斬りを体験している鵜野晋太郎氏は、軍刀で50人以上を斬ったと噂されていたある下士官について、次のように書いている。
そのころ大隊本部に、公式には「喇叭長兼本部書記」の肩書の藤井曹長がいたが、私は彼に妙に心をひかれた。もともと幹候出身将校に対し、下士官は悪意を以て接するものだが、彼のさり気ないさっぱりした気風は好感が持てた。それにもまして確度の高い噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。(略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……
「私が50人なのか100人なのかと聞かれても答える口はもちませんよ。差し料(自分の所持している刀剣)が普通程度のものであれば、白兵戦で敵と渡りあってガタガタにならない限り、据え物だったら相手が抵抗できんように痛めてあるから、100人位十分殺れるんじゃないですか。 …そして相手を人間と思わんことですよ。まあ私は犬コロくらいにしか思ってませんから、まず失敗なんてありっこないですよ。ホラ見てください、これを……」
藤井は差し料を引き抜いて切っ先の部分を指さした。 ――
「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。 ……首を斬った時につく頚骨が擦れた跡です。だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。
刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……
まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。
……日本の兵隊の着剣小銃での刺殺ならあり得ますよ。あれなら殺れますね。
……明治維新での新選組の池田屋の斬り込みは、最低三人が一団となってのことですから、あれでは斬れますよ。だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」
私は藤井の教訓を、敗戦までの間、私自身が犯した数多い斬首殺害の手本としての影響を強くうけたし、とりわけ藤井の差し料の頚骨の多数の擦過痕は私の心を捉らえ、一日も早く沢山斬りたいと言う衝動に駆られた。
(略)
昭和十八年はいろいろと戦闘の多い年で、負け戦もあった嫌な年であった。早春の頃、私は藤井と共謀――と言うよりむしろ彼に三拝九拝して、日本憲兵隊の密偵(中国人の漢奸)を暗殺して貰ったことがある。
あの頃の情報関係者は密偵に塩の独占搬入権を与えて使っていたが、憲兵が大隊の縄張りを荒すので、業を煮やしてその密偵をだまして連れ出し、藤井に背後から不意打ちさせて殺したのだった。彼の慣れた刀捌きに私は恍惚としたし、益々殺意が体中に漲った感じで、毎朝真刀(つまり軍刀)で“百本振り”をやって自慰したものである。
鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」
(本多勝一編『ペンの陰謀』 潮出版社 1977年 p.379-380)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/sonota.htm
日本刀の殺傷力
刀剣研究家成瀬関次氏は、戦時中刀剣修理の技術者として大陸に渡り、多数の損傷刀の修理を行った。氏は、実戦で使われた軍刀を修理した経験から、「研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼きつぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ」と断りつつ、「概して日本刀は強靭なものである」とその実用性を保証している。以下、氏の著書『戦ふ日本刀』からその一部を引用する。
今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人という敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、部下のかうした武功談を屡々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、5月初旬、蘭陵鎮へ行軍途中、左荘といふ部落の近くで、刀疵で倒れてゐる敵の死体十幾つかを見た事があつた。
…
蒙橿の天鎮城内で敵と戦った時、逃げようとすれば十分に逃げられるのに、日本軍の抜刀突撃にあつて、一たまりもなく気が挫けて了つたのか、城門際に折り重なつてひしめいてゐたので、敵が多すぎて斬るのに骨が折れたと、或る兵隊は語つてゐた。(p.25)
面白い事は、兵種、戦闘の難易、地形其の他によつて、刀の損傷に共通点のある事で、例へば文字通りに血戦した部隊の刀を手にして見ると、判で押したやうに同じ傷み場所は、柄糸の磨り切れてゐる事、鍔元がぐらつき目釘が折れてゐる事、刀身の先の方が多くは左に曲がつてゐる事、同じ刀身の先の方に刃こぼれのある事の四つの点であり…(p.36)
自分は、日本刀の鑑識者ではなく、さうした知識には浅い者である。元来、古武道の内にくるめて、武用的方面から日本刀を見て来たのであるが、弾雨下の一線に従軍して、さうした所でなくては見られない血と泥≠フ破損刀を手がけ、二十数回の斬撃を目のあたりに見て、戦場で使ふ日本刀は、かうしたものでなくてはならぬといふ、本当の業物の姿をとらへて来たのである。(p.37)
斯様な事を述べると、一見斯道の異端者とも見えるだらうが、実際にあたつて見て、元来から物打に二分からの刃ギレのあつた刀で、敵十五六人も斬つて何ともならず、却つて他の部分に刃こぼれの出来てゐたものも見、切先が蛇の口(口を閉ぢたる)のやうな刀で七名から斬つたのも、他に疵はついても、その部分は何ともなつてゐなかつた。
概して日本刀は強靭なものである。ただ、研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼つぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ。
刀身の選定については、ただ名のある人といふよりも、刀の売買に関係のない、軍人などの鑑定家とか、実戦に経験のある人に見てもらふのが第一である。(p.40)
今、全国に残つてゐる昔鍛の日本刀はどの位あるか。推定四百万振といふのである。
…
右の内の約六七割までは、新刀新々刀とはるる刀であつて、大阪夏冬の陣前後から以降の作刀である。徳川時代から、明治大正にかけては、大量の日本刀を戦陣に於て試みるやうな機会はなかつた。
日清日露の両役にしても、今次の事変に比較して見ると、物の数でもなく、彼の天草の乱、戊辰戦争、西南の役にしてからが、量的にはさう大したものでは無かつた。
…
今次の事変では、…一面恐ろしい器械化戦が行はるると共に、他面一騎打の原始戦が盛んに行はれ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのやうなところさへある。その上、未曾有の廣い戦線で混戦的に戦ひつつあるのと、昭和九年来日本刀そのままでの使用が、事実上復活となり、戦線では軍の中堅をなす下士官全部が兵種を問はず佩用する事となつた等から、爾来日本刀が実戦に於いて有史以来の使用量を見せるに至つたのである。(p.41-42)
八木工兵中尉(此の人は静岡県相良町の名望家で、徐州戦当時筆者は共にその北部戦線に居た。)最近中支奥地からのお便りの中に、
……あつけない程脆く首が落ちた。昔からぬれ手拭いをはたく様な音がすると云はれてゐるが、まさにその通りでハツフツといつたとたんに四尺もすつ飛んで一声もない。(中略)この一戦で非常に大なる信念を得た。自分の刀で敵を斬り、その刀に信頼を持つた時から、武術が生きてくる。つまり刀も武術の内だ。云云。
中尉の佩刀は、大阪石堂康廣の若銘安廣で、二尺三寸余、自分には見覚えのある刀である。(p.57-58)
或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつて来た。…無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。
…
刀を見ると、血糊で白くなつてゐる。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刃まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刃こぼれも三ヵ所、刀全体がジツトリしてゐた。(p.77)
…陣中では、修理に出てくる刀の十振が十振いづれにも目釘の故障がある。それを一本一本竹を割つて削つてゐたのでは、徒に時間がかかつて急場の間に合わない。竹箸だと一寸削つて切つただけで用に立つ。しかも、何処の竹だか非常に堅くて、なかなか折れさうにもない。これは天が与へてくれたものと、自分はいまでもさう信じてゐる程である。
…
それから、最初自分の見込みでは、軍刀の故障は、刀身が六分外装が四分といふ考へで行つたところが、全くの反対であつて、殊に柄の故障の多かつたのは屡々発表したところであるが、それが為め早くも材料がなくなつてしまつた。(p.126-127)
さすがに第一線の戦闘部隊だ。一寸見ただけで其の損傷状態がまるでちがつてゐる。試みに手にした一刀、何げなしに抜いて見ると、刀身は鍔元から血糊でそれが稍褐色がかり錆のやうになつてゐる。プンと臭い。目釘が折れるか飛ぶかしたと見え、生木の小枝を打ち込んである。指先でつまんで抜くと。そこから黒褐色の悪臭をもつ汁がポタリと一滴落ちた。血の腐つたやつだ。戦ひの最中に、血が刀身をつたはつて、(金+祖)のすき間から柄の中に入り、それが間隙にたまつて腐つたのだ。柄木を抜いて見ると、その汁がダラダラと落ちる。
…
これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に溯つて見て、実際乱戦中に敵とわたり会つて血戦した事実は、小説や講談にあるやうにザラにあつたものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るといふやうな場合が多く、実際十人も二十人も斬つたといふやうな話は、例へば敵を城壁域内際とか袋路地のやうな所に追ひつめ、ひしめき合ひわめき合ふ処を片つ端から滅多斬りにした時などの事で、さうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いて見るに、四五人斬つたかと思ふ頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝はつて来る。斯様な時に、昔の柄巻の有難さが本当にわかるもので、殊に小倉木綿をそのままたたんで巻いたのなどは、手がすべらなくてよい。(p.153-154)
成瀬関次 『戦ふ日本刀』 実業之日本社 昭和15年
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』にも一部引用あり)
成瀬氏が指摘しているとおり、日中戦争では将校はもちろん下士官までが日本刀を戦地に持参した。彼らが、持参した日本刀の切れ味を試してみたくなったであろうことは想像に難くない。そしてそれを試すための最も容易な手段は、抵抗することのできない捕虜や住民を使った据え物斬りだった。これほど大量の日本刀が人間相手に実際に使われ、膨大な量の生き血を吸ったのは、有史以来このときだけなのである。
(2000.07.02)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nihontou.htm
日本刀VSピストル真剣勝負(笑)
ゴールデンウィーク最終日、普段は見ない『トリビアの泉』をボーっと見ていたら、「テレビ史上最も危険な実験 日本刀VSピストル真剣勝負の衝撃映像!!」というのをやっていた。日本刀とピストル、どっちが強いか実験して確かめる、というのである。
その方法は、日本刀をほぼ垂直(やや刃面が上向き)に固定しておき、その刀身の中央部に向かって銃器射撃装置で水平に固定したピストルから弾を発射する、というシンプルなもの。射撃距離は5メートル。
実験に用いた日本刀は、特別なものではない平均的な日本刀、ということで、市販価格90万円程度を目安に現代の刀工(小田九山さん)に作製してもらった新作刀。ピストルはかつての米軍制式拳銃であり、強力な大口径拳銃の代表とも言えるコルト1911ガバメントモデル(45口径)である。
結果は……日本刀の完勝だった。超高速カメラを用いた撮影により、日本刀の刃に命中したピストルの弾が真っ二つに切断され、泣き別れになっていくさまが克明に映し出されたのである。日本刀には刃こぼれ一つなく、弾が当たった部分に指先大の鉛がこびりついた痕跡が残っただけだった。この結果に納得できないアメリカの銃砲店主(実験に用いたピストルの提供者)からの要請で実験は数回繰り返されたが、結果は同じだったという。
これだけなら「日本刀は凄い!」で終わってしまうところだが、この実験には番組作成者がまったく意識していなかった重大な意味がある。言うまでもなく、百人斬り事件との関係である。
百人斬り殺人競争を虚報と決め付け、それを突破口として南京大虐殺を否定しようとする勢力は、執拗に日本刀の脆弱さを主張してきた。日本刀の威力などというのは伝説に過ぎず、とても百人もの人間を斬ることなどできない貧弱な代物であり、だから百人斬りなどありえない、というのである。偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサンこと山本七平など、自分の戦場体験からの結論だとして、一本の刀で斬れるのはせいぜい三人、と断言していた。
時速900キロで鉛の弾を撃ち込まれる衝撃に耐え、その弾を両断して傷つきもしない日本刀が、わずか三人の人間を斬っただけでダメになるものだろうか。要するに山本七平は、戦争体験者は黙して語らず、戦場体験のない世代には確かめようもないのをいいことに、大嘘を吐いたのだ。
フジテレビ(あのフジサンケイグループの)が全国に放映してくれたこの実験は、日本刀の性能に関する否定派の嘘を文字通り一刀両断にしてしまった。
まさに快挙である。
(2004.05.09)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/trivia.htm
137. 中川隆[7701] koaQ7Jey 2017年4月12日 18:26:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8189]
▲△▽▼
>>129 に追記
朝鮮人認定された本多勝一
【南京大虐殺を捏造した】本多勝一は在日です【在日確定】日本の国難は全部朝日新聞のデマから
2014年09月22日
【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く[桜H26-1-2] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw
ゲスト:渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)
「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」
渡部:朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。
人殺しが実験なら苦労しません。
不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。
日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では
南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。
しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、
爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。
それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる
朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。
そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、
その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。
だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。
しかもデマの発祥地は反省しない。
http://hosyusokuhou.jp/archives/40319566.html
【拡散】南京大虐殺を捏造した朝日新聞の本多勝一は【 在日 】確定!!! 2014.09.21
「俺は知っている。やつは在日だ。」
で、なんの証拠も提示しないというw
渡部もこのサイトも訴えられればいいよ。
Posted by 名無し at 2014年09月22日 10:05
○○は在日詐欺もう飽きた
つか、明確なソース無しかよ
Posted by 名無し at 2014年09月22日 11:31
権威のある人の意見を鵜呑みにして、無条件で信じてしまういい例だと思います。
教授も「友人が調べたら在日らしい〜」と言ってる時点で、ソースが不確かな情報でしかないと言い様がありません。
別に自分は本多勝一を擁護するつもりは一切なく、単に間違っているのではないかと思うのでから書かさせてもらいます。
本多勝一は日本人です。
ソースは小学生の頃、本多勝一と同級生だった自分の父親。
自分の父親は昭和6年生まれで、信州伊那谷のとある町の出身。
本多勝一が子供の頃に在日だからいじめられていたという事実は一切無いそうです。
いじめられていた理由は、妹が障害者であったため、それが原因でいじめられていた事はあったそうです。
戦前の生まれで、排他的な地域の出身である事を考えると、在日である可能性は極めて低いです。
ちなみに親父の実家周辺がどれくらい排他的な所かと言うと、自分が25年ほど前レーサーレプリカのバイクで皮つなぎを着てツーリングがてら親父の実家に立ち寄った事があったんですが、それを見た近所の人が「○○の家にチンピラが来た!」と、その後に噂になったと、祖母から文句を言われました。
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 08:06
父親が本多勝一の同級生で、彼を日本人だと書いた者です。
自分の父親が本多勝一と同級生であったと言うソースは父親の証言だけでなく、以前に父親が出席した同級会から帰ってきた折、
「おまえ本多勝一って知ってるか?」
と聞いてきたので、自分が知ってるという旨の発言をした所、おもむろに同級会で貰ってきたお土産の中から「六十歳の記念に登った山山 本多勝一著 悠々社」の本を取り出し、
「こいつ同級生で、同級会でみんなにこの本を配ったんだよ」
と見せてくれました。
その本には、直筆サインと本多勝一の落款が・・・って落款押してあるって・・・。
これこそ父親と本多勝一が同級生だった事を思わせる一品だと思います。
今も自分の手元にあるので直筆サインと落款に興味がある方がいたら写真に撮ってどこかにうpしてもいいかなw
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 20:10
http://www.news-us.jp/article/405772710.html
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土井たか子元衆議院議員に対する在日認定
訴訟の原因となったのは、元産経新聞編集部長の花岡信昭が論壇誌 WiLL 2006年5月号に寄稿した「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事である。
記事の中で花岡は
「土井たか子は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」
と土井に対する在日認定を行った上で、
「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、すべて知った上で政治的演技をしていたのか」
と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだと土井を婉曲的に糾弾した。
戸籍謄本および改製原戸籍謄本の記載によると土井は日本人夫婦の次女として兵庫県神戸市に生まれており、花岡による在日認定は事実に反していた。
また花岡は土井に対する取材等の裏付けを全く行わず、インターネット上で流布されていた情報のみに基づいて在日認定を行っていた。
これに対して土井は記事によって名誉感情や信用を含む人格的権利を侵害されたとして、2007年4月18日、WiLL を出版するワック・マガジンズと同社代表取締役(当時)の花田紀凱、記事を執筆した花岡の三者を相手取り、1000万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求める民事訴訟を起こした。
神戸地裁尼崎支部は 2008年11月13日、記事はあたかも土井が朝鮮人であるがゆえに日本以外の本国の利益を優先して、日本国民の安全などの利益を蔑ろにするという日本の政治家としてあるまじき行為をしていたかのような印象を与えるものであり、土井の社会的評価を低下させたとして名誉権の侵害を、
また虚偽の在日認定について以下のように述べて名誉感情および人格的利益の侵害をそれぞれ認め、被告らに対して200万円の賠償を命じた。
謝罪広告については記事の影響力の小ささを理由に退けた。
被告らは判決を不服として大阪高裁に控訴したが棄却され、さらに最高裁に上告したものの、2009年9月29日に上告を退ける決定が下された。
これにより神戸地裁の判決が確定した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E8%AA%8D%E5%AE%9A
2007/06/03 筑紫哲也(朴三寿)というデマ
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html
2chで以下のような真偽の定かでないマルチコピペを見たことある人は多いと思う。
池田大作(→父:ソンジャンチョク、帰化人) (在日への選挙権推進、韓国での反日活動の実績)
土井たか子(→李高順(帰化前の本名)北朝鮮に親族多数
五島昌子(土井の秘書)本名、渡辺昌子は通名、つまり、在日朝鮮人(元社青同活動家の話より)
辻元清美(帰化人、赤軍派)
筑紫哲也(→朴 三寿:元朝日記者、共産キャスター)
本多勝一(→崔 泰英:「南京大虐殺」虚報の中共工作員記者)
佐高信 (→韓 吉竜:極左評論家)
福島瑞穂(→趙 春花、帰化前の本名:中核派)
永六輔(帰化人。反日活動、言動多し)
例えばこの中の
■土井たか子=李高順 説は?
月刊WiLL2006年5月号で元産経新聞記者・花岡信昭が、土井たか子=李高順という2chで流されたデマを事実のように書き、土井は花岡の記事を「事実無根の捏造 (ねつぞう)記事で、土井氏に対する取材に基づかない一方的な推測で作成したもので,名誉を毀損された」として、2007年4月18日、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを神戸地裁に起こしている。
つーことでこの件はデマ確定 調査終了
■次に、筑紫哲也=朴三寿 説は?
【筑紫】 朴 三 寿 【哲也】(魚拓)より以下、抜粋する。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1127868368/
28 :文責・名無しさん:2005/11/15(火) 22:46:50 ID:d3V7cvUI
朴三寿ってのはオレが数年前にメガBBSに書いたネタだった思う。
確か「有名人の本名を晒そう」みたいなタイトルのスレだった。
他にも本多勝一や佐高信なんかの韓国名もでっちあげてやったんだ。
まさかこんなところでお目にかかるとはなw
30 :28:2005/11/16(水) 22:54:24 ID:rInX2H7E
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=perform&vi=1027871248
元ネタはこのスレの124だ。
よく見たら数年前じゃなく去年だったが
(※ちなみに、これがリンク先)
筑紫哲也=朴三寿という在日認定を2004/06/04以前にしているブログが一切無いことから、これが元ネタとみてまず間違いない。
↓以下は同スレより筑紫哲也が在日ではないことを補足する書き込みを抜粋する。
54 :文責・名無しさん:2006/03/18(土) 11:45:56 ID:hUhDYHbR
代々、九州の医者の家系で滝廉太郎の親戚とか言うけど
実は筑紫の故郷には筑紫という姓の人間がいない
つまり架空の日本名をこしらえたってことさ
58 :文責・名無しさん:2006/03/21(火) 23:37:20 ID:iPNZ4lbX
>>54
筑紫姓はいるよ。
筑紫氏
筑紫君、筑紫国造、筑紫連、筑紫史、藤原秀郷流武藤氏族、
清和源氏、桓武平氏等。
62 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 12:58:26 ID:s1CTwA8y
>筑紫の大伯父は滝廉太郎だから
ソース出せや
64 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 20:08:57 ID:VPz1iqiD
>>62
国際メンデルスゾーン基金の公式サイトより
http://www.mendelssohn-kikin.jp/frmset_taki.htm
>嘱望を受けながら留学した瀧廉太郎は、留学中に病(結核)におかされ、
>翌1992年に青雲の志空しく帰国した。 帰国後は、故郷の竹田市で療養後
>100年前の1903年に23歳10ケ月で没している。療養した家は、「瀧廉太郎
>記念館」として公開されている。同記念館は、瀧廉太郎の姉の孫にあたる、
>筑紫哲也が名誉館長である。
89 :文責・名無しさん:2006/04/16(日) 21:33:55 ID:jxI3E12R
滝廉太郎の妹トミは筑紫の祖母って書いてるぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E
何か見た目や思想だけで言ってるだけだろ。
115 :文責・名無しさん:2006/05/19(金) 23:45:22 ID:GxkkCoNF
>>113
筑紫哲也は瀧廉太郎の姉の孫で、その縁で 「瀧廉太郎記念館」の名誉館長だ。
下記のページに電話番号が載っているから、嘘だと思うなら聞いてみなよ。
http://machi.goo.ne.jp/snd/spotID_%20TO44000491/leisure/details.asp
122 :文責・名無しさん:2006/05/21(日) 08:20:56 ID:Ubf6/77H
メンデルスゾーン基金のサイト情報が一番確かだな。
当人も日本名を名乗っているし、万が一彼が朝鮮人の妾の子だったとしても、
日本人であることにかわりはない。
そもそも朝鮮人の血などそれほど「濃い」ものではないだろ?
名前からして基本は中国式だし、それが日本式の筑紫哲也に変わっただけだ。(笑
俺自身は、筑紫の政治観は幼稚だと思っているがね。
156 :文責・名無しさん:2006/07/08(土) 12:15:25 ID:Sbii/mJV
先祖は大分県・日田藩。漢学者の広瀬淡窓が開いた咸宜園で学んだと聞いた。広瀬の子孫が今のテレ朝会長、大分県知事の兄弟。
95 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 15:42:20 ID:kSuz5YS6
大分県日田市に筑紫姓があるのかどうかだが、
>>58のソースは「日本の苗字7000傑」というHPから。
その中の"筑紫国造"の中に"筑紫国造磐井"という人物がいる。
この人物は(大分県がある)九州北部の有力者と「Wikipedia - 磐井の乱」に書いてある。
だから、筑紫哲也の祖先はこれと思われる。
ちなみに、「岩戸山古墳−筑紫国造磐井の墓−」というHPには、
"筑紫国造磐井"を含む「筑紫の君」一族は渡来人の末裔ではないか
と書いてある。
96 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 17:26:05 ID:kSuz5YS6
つまり、筑紫哲也のルーツとは、
筑紫国の「筑紫の君」一族の末裔で、
筑紫国は、後に筑前国・筑後国に分割された。
このことは「Wikkpedia - 筑紫国」に書いてある。
そして筑紫哲也の出身地である日田市は、
筑後川水系にあるため、筑前・筑後と歴史的につながりが強い。
このことも「Wikipedia - 日田市」に書いてある。
結論 「筑紫哲也は帰化人ではない。しかし、祖先は渡来人の末裔である。」
これで解決したな。
(以上)
つーことでデマ確定 調査終了
このように少しググっただけで、土井たか子と筑紫哲也は確実に在日ではなく、本多勝一、福島瑞穂、佐高信もおそらく違うだろうな、ということがわかる。
にもかかわらず、情報元を確認することすらしないリテラシーの低い、嫌韓・ネトウヨ厨は、今だに訂正すらせずにブログ上で事実として取り上げている。
例えば「筑紫哲也 朴三寿」で検索すると約9,350件ヒット、「朴三寿」では約11,100件もヒットする。
デマだとわかっても訂正すらしない確信犯的なデマブログの1つに、ランキング偽装疑惑のある「博士の独り言」がある。
2006/12/01(金)「博士の独り言」より以下一部抜粋する。
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-asyuracom-221.html
この集会で挨拶した本多勝一(本名・崔 泰英)、司会を演じた佐高信(韓吉竜)の2名はいずれも在日朝鮮人。永六輔は半島からの帰化人。関与した矢崎泰久、中山千夏は、昭和52年に、ばばこういちを中心に結成した「革新自由連合」の仲間であり、新左翼系の自称・文化人である。
良識以前に、最低限度の人倫すら問われるこの「芝居」は、これらの人物の「日本に対する怨念」が凝縮されている。それほど日本が恨ましいのであれば、日本にいていただいても百害千害万害を垂れ流すだけである。日本から出て行け!
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【筆者記】
なりすましのメディア人、文化人、政治家の言動にはおぞましいものがある。上記の他に、朴三寿(筑紫哲也)、社民党の李高順(土井たかこ)、趙春花(福島瑞穂)等々。実に紛らわしい。反日活動においては、通名ではなく、本名を名乗るべきである。
(ここまで)
いい歳こいたおっさんが、左翼=在日=朝鮮人で思考停止か
ダッセーなぁ。。。恥辱まみれなデマ博士
あんた、マジかっこわりぃYO!
土井さんが党首の時に社民党に質問したんですよね。
そしたら丁重な回答が寄せられました。
曰く事実無根なんだそうです。
とにかく、気に入らないのはみんな朝鮮人にするんだから困ったもんですよね。
ただ、朝鮮人といわれて名誉毀損てのはどうなんでしょうね。
朝鮮人が悪い連中だと土井さんが認めた事になるんじゃないでしょうかね。
朝鮮人が何故怒らないのかが判らないですね。
土井たか子の家系についてはすでに共同通信の田中章記者が取材ずみ。
それによると、祖父は広島県の土井好太郎、父はその次男で仁良市、現京都府立医大卒、母は京都の職業軍人の長女で貴代、姉は和賀子、妹が睦子で武蔵野音大、弟が良博、顕とのこと。
父は内科小児科を神戸市長田区野田で開業していた開業医であった。
ハッキリと否定しないの筑紫氏だけでなく上記に名前のあがっているサヨク全般に言えるでしょうね。まぁ、くだらな過ぎて相手にしてないんだと思います。
それと、そんなに疑う理由がよくわかりませんが、このエントリーを書いたとき週刊金曜日の方に連絡したんですが、石坂啓、落合恵子、佐高信、椎名誠、筑紫哲也、本多勝一は在日ではないとハッキリ言われました。
本多勝一さんは日本人
本多さんの友人と親しいし、会ったこともある。
長野県飯田市に行って調べれば直ぐに分かるよ。旧制飯田中学-->飯田高校。
悪魔の証明
言い出しっぺの在日朝鮮人で"ある"と言っている側には信用できる証拠を全く求めずにコピペを垂れ流し、在日朝鮮人で"ない"と言っている側にだけ「もっと信用できる証拠」を出せと言い続けるネトウヨの論理性には苦笑してしまう。
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html
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