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(回答先: 反原発運動は中国・朝鮮工作員が扇動していた 投稿者 中川隆 日時 2017 年 5 月 06 日 07:45:54)
アホが書いた日本国憲法 _ 護憲運動はCIA・中国・朝鮮工作員が扇動していた
経済コラムマガジン 15/6/15(848号)
22才のベアテが作った日本国憲法条文
•日本の憲法学者の素性
6月4日の衆院憲法審査会で、安保法案の審議に影響を与えかねないハプニングが起った。与党の参考人の憲法学者がなんと「集団的自衛権は違憲」と表明したのである。野党側参考人二人はもちろん「集団的自衛権は違憲」としているので、三名の参考人全員が違憲を表明したことになる。野党はこの「棚からぼたもち」的発言に飛びつき、反安保法案の攻勢を強めている。
安倍政権は安保法案を今夏までに仕上げる予定であったが、この憲法学者の不規則発言がとんだ逆風になっている。直接的には関係のない衆院憲法審査会が、現在の重要法案審議の足を引張る形になった。マスコミも事態を面白がり、連日、これを取上げている。
そこで今週は、経済から離れ日本国憲法と憲法学者を取上げる。まず筆者は、昔から「日本国憲法はばかばかしく」、また「日本の憲法学者は怪しい」とずっと思ってきた。図らずしもそれを示してくれたのが、衆院憲法審査会での三名の憲法学者の意見表明というハプニングであった。
よく知られている話であるが、日本国憲法とその成立過程は本当にデタラメであった。新憲法の原案をGHQがたった8日間で作成し、これを和訳して日本政府に示した。日本政府はこのデタラメの原案を元に体裁を整え日本国憲法を策定し、47年5月3日に新憲法は施行された。この成立過程を見れば、いかに現行の日本国憲法がデタラメであるか理解できるはずである。
しかし卑怯者の日本の憲法学者は、当然、成立過程の真相を知っているのに、ほとんどこの真実に触れない。むしろ日本国憲法の正統性を声高に唱えるばかりである。そもそも成立過程が本当にデタラメなのだから、一つ一つの条文を吟味することは無意味とさえ筆者は考える。この無意味でばかばかしいことを毎日やっているのが、ほとんどの日本の憲法学者である。
このデタラメさを示す一例として、ベアテ・シロタ・ゴードンという当時22才の女性が日本国憲法作成に関与した話を取上げる。ベアテ女史は、両親がウクライナ系ユダヤ人であり、元の国籍はオーストリアであったが(ロシア革命でユダヤ人が排斥されたため両親がウクライナからオーストリアに移住した)、後に米国に変った。父親レオは有名なピアニストで、演奏会を開くため半年の滞在予定で来日した。しかし東京音楽学校(現在の東京芸大)の教授の職を父親のレオが得たため、5才のベアテは両親と共に日本に住むことになった。
彼女は大森ドイツ学園とアメリカンスクールで16才まで教育を受けた。途中でアメリカンスクールに移ったのは、ドイツでナチスが台頭し、ユダヤ人のベアテが大森ドイツ学園に居づらくなったからである。両親は教育熱心で、ベアテにフランス語と英語の家庭教師を付けた。この結果、彼女は、ドイツ語、ロシア語だけではなく、フランス語、英語、さらにラテン語にも堪能になった。また10年間も日本に住んでいたため日本語もできた。この語学の才が後に日本国憲法起草に関わるきっかけを作った。
16才で彼女はサンフランシスコのミルズ・カレッジに留学した。一時、両親も訪米したが、大平洋戦争開戦の直前に日本に戻った。戦争で両親との連絡が途絶え、仕送りがなくなったベアテは、アルバイトとして米連邦通信委員会(FCC)で日本短波放送の翻訳の仕事を得た。さらにFCCから戦争情報局(USOWI)に移り、ここでは対日プロパガンダの原稿作成のアルバイトを行った。彼女はタイム誌を経て、終戦後、両親が住む日本に戻りGHQ民政局に職を得た。GHQに採用されたのも、ベアテが日本語が堪能であったからである。とにかく当時の米国には、日本語を理解する者がほとんどいなかった(日本語が出来る白人は全米で60名程度)。
•日本国憲法は「埋草」
GHQは、日本の占領統治に法律の整備が必要と考え、まず憲法を新たに制定することにした。ところが時間に迫られ、憲法の原案を一週間で策定することになった。ここで狩り出されたのが、日本語が出来る22才のベアテ女史であった。まるで冗談のような話であるが本当の事である。
実際、彼女は日本国憲法の24条、25条、27条の制定に深く関わった。特に24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)はほぼベアテ女史が原案を策定したと言って良い。GHQ上層から日本国憲法策定の指示を受けた彼女が参考にしたのは、ワイマール憲法、米国憲法、フィンランド憲法、そして何とソ連憲法であった(都内の図書館でこれらを閲覧)。ちなみにソ連憲法を参考に「土地の国有化」を日本国憲法に取入れようと条文を作ったが、さすがにこれは上司が削ったという。
このように日本国憲法の成立過程は相当デタラメであった。ところがこのデタラメさはGHQにとって決して不合理ではなかった。とにかく早急な日本統治に必要な法体系の整備に迫られていた。明治憲法を廃する以上、これに替わる新たな憲法を作る必要があった(もちろん暫定的な憲法)。つまり明治憲法の「埋草」が新しい日本国憲法である。したがって「埋草」だから体裁が整っておれば何でも良かったのである。
GHQは、連合国の占領が終わり日本が独立すれば、当然、日本国民は自分達で憲法を新たに制定するものと考えた。しかし少なくとも占領終了までは憲法は形として必要であり、したがって占領政策を邪魔するものでなかったなら何でも良かった。法律を専門に学んだわけでもない22才女史のアルバイト感覚で作った憲法の条文も可であったのである。また暫定的な憲法だからこそ、素人の22才の女史に憲法原案の策定を命じることができたのである。むしろ占領が終結して60年以上も経っているのに、このデタラメな憲法を改正しない日本の方が異常と米国は考えていると筆者は思っている(内政干渉になるから口には出さないのであろう)。
問題の戦争放棄の第9条も日本の占領政策に沿うものである。当然、敗戦国の日本が占領軍にクーデターを起こすことを警戒した条文と考えられる。しかし未来永日本が戦力を持たないということは全く想定していなかった。それどころか第9条を押付けておきながら、早くも新憲法施行の翌年の48年には米側の関係部署で「日本の限定的再軍備」という答申がなされている。
再軍備は日本側が働きかけたのではなく、新憲法で日本に戦争放棄を迫ったはずの米国から打診されたのである。むしろ再軍備を渋ったのは、吉田茂首相率いる日本政府の方であった。たしかに戦後の経済の混乱で食う物も食えない状態の日本にとって、とても再軍備の余裕はなかった。
しかし朝鮮戦争の勃発などによって、米国からの再軍備の要請はさらに強くなった。ついにこの要請を受け入れ日本は、50年に警察予備隊を設立、また52年はこれを保安隊に改組し、さらに54年には自衛隊を発足させた。これから解るように戦争放棄を唱った第9条は、米側(GHQ)の手違いみたいなものであった。実際、筆者は、新憲法の施行が1年遅かったなら、戦争放棄の第9条は憲法に盛込まれなかったとさえ思っている。
筆者は、日本国憲法のいい加減な成立過程を考え、大半の憲法学者を筆頭に日本の護憲派に対して強い嫌悪感を持つ(はっきり言って彼等は軽蔑の対象である)。護憲派は、嘘つきで詐欺師とさえ思っている。またなぜか憲法学者には、不遜で理由もないのに他人を見下すような者が多い。
衆院憲法審査会で「集団的自衛権は違憲」と表明した憲法学者の中には、よくテレビでよく見かける者がいる。彼は討論番組に出ると他の出席メンバーを「もっと勉強しろ」と罵倒する。しかし意見を聞かれると決まって「憲法を改正するのが筋」としか言わない。まるで小学生の答えである。もちろん現憲法の改正が事実上無理と解っていての発言である。筆者は、この憲法学者がテレビに登場すると直にチャンネルを変える。
http://www.adpweb.com/eco/
英米派と大陸派の憲法観の違い
世界の中で日本だけが「憲法」を異常な捉え方をしていると筆者は思っている。年中、憲法で騒いでいるのは日本ぐらいである。このような事態になったには、先週号で取上げたように戦後の左翼勢力と左翼思想の存在が原因としてある。また日本のマスコミと憲法学者がこれを助長してきたと筆者は思っている。こんな中、今週は安倍政権に対しいくつかの提言を行いたい。
まず観念論者は、全体の法体系の中で憲法というものを位置付ける。理想的な憲法がまず出来上がり、その下に各種の法律が制定される。もし法律が憲法を逸脱していたなら違憲ということになる。
しかしどれだけ完全で理想的な憲法を作っても、時間が経ち状況が変化すれば、現実に合わなくなる。そこで憲法の改正という話になる。しかし一般の法律と異なり、どの国でも憲法改正の条件を厳しくている。例えば議院議席の3分の2以上の賛成というのが一般的である。さらに日本のように全ての条項の改正に国民投票を課す国がある。ただそのような国は少数派である(アイルランド、オーストラリア、韓国など)。
ところで案外知られていないことであるが、憲法に重きを置いている国とそうではない国がある。前者の国は成文憲法を絶対と捉え、一般の法律が憲法に逸脱することを許さない。ドイツやフランスといった大陸派の国である。したがってこのような国では頻繁に憲法の方が改正されている。戦後だけでも、ドイツ59回(先週号で58回としたのは間違い。ドイツが異常に多いのはおそらく東西ドイツの統合も影響)、フランス27回、イタリア16回という具合である。
これらの大陸系の成文主義に対して、英米のような成文憲法を軽く見る一方で、むしろ判例を重視する国がある。このような国では憲法改正にこだわらない(ただそれでも米国は戦後6回の憲法改正を行っているが)。特に英国は成文憲法さえ制定していない。
日本は、事実上憲法改正が不可能なので、これまで憲法の事実上の解釈の変更で現実に対処してきた。典型例が砂川事件裁判での最高裁判決「日本には自衛権がある」である。この判例を元に政府は自衛隊の整備を進めてきた。これは英米派に近い対応だったと言える。
ところがこれに対して日本の左翼やその取巻きの憲法学者は、ずっと大陸系の成文主義にこだわってきた。したがって自衛隊は違憲と強固に主張してきた。もっとも保守陣営にも成文主義を唱え、憲法改正を推進する者がいる(憲法を改正して自衛隊の立場を明確にすると主張・・既に必要がないのに)。
GHQがたった一週間で作った憲法原案を占領下の日本政府に示し「ほれこれで憲法を作れ」としたのも、米国が憲法というものに重きを置いていないからと筆者は思っている。新憲法施行後、たった1年で日本の再軍備を画策したり、本当に米国は憲法を軽んじる国と理解する必要がある。ちなみに筆者は、昔、改憲を支持していたが、今日、憲法不要論を唱えている。
上記で述べたように成文憲法を軽視する英米に対して、成文憲法を重視する大陸系(ドイツやフランスなど)に分けられる。しかし大陸系の国々は、成文憲法に重きを置く結果、何十回も憲法を改正するという馬鹿馬鹿しいことをやっている。あまりにも憲法に細かい事柄を盛込むからこのような事態に陥るのである。むしろ憲法は、抽象的で未来永劫変ることがないような価値観だけを条文化すれば良いのである。そしてこれを突き詰めれば憲法不要論となる。
また日本の憲法学者の「立憲主義」という言葉は、怪しくしばしば誤解を招くと筆者は思っている。筆者は、立憲主義は王権に対抗する概念と理解している。つまり欧州における歴史的な王権と民権の緊張関係から生まれた言葉なのである。国王(君主)の自分勝手な振舞い、例えば国民に住民に重税を課したり、無謀な戦争を始めるといったことを牽制するための議会と王との間の取決めが憲法の始まりと筆者は認識している。
立憲主義は、王権を制限する概念と筆者は捉えている。つまり国王の暴走から国民を守るものが立憲主義であり憲法と思っている。ところがドイツやフランスには既に国王は存在せず、政治を司るのは選挙で選ばれた政治家である。そもそも中世の欧州のように国王(君主)が絶対的な政治権力を持つような国は、今日、少なくとも先進国には見当たらない。つまりどの先進国でも、政府は選挙民の投票行動でひっくり返るのである。もはや政府を憲法で縛る必要はない時代になっている。つまり大陸派の成文憲法の重視という考えは、本当に時代錯誤で時代遅れである。
•憲法改正の可能性は全くない
今日の最大の政治的テーマは安保法制である。安倍政権はこの法案成立を目指し9月まで国会の会期を大幅に延長した。しかし一連の法案が憲法に抵触すると言って、野党は強い抵抗を示している。これに対して与党は、法案はギリギリ合憲の範囲内と突っぱねている。
また安保法案に関連し、憲法改正を先行させるのが筋という意見が多い。しかしこのもっともらしい話が曲者と筆者は見ている。今日、憲法を改正しようという動きはむしろ安保法案成立の足を引張ると考える。安倍政権が本当に安保法案の成立を目指すのなら、憲法改正の動きを中断するか、一層のこと止めるべきと思っている。もっとも憲法が不要と考える筆者にとっては、憲法改正なんて論外ではある。
そもそも日本国憲法を改正することは不可能である。まず両院で三分二の賛成を得ることが考えられない。小選挙区比例並立制になり、衆議院だけはかろうじて与党が三分二の議席を得るケースが稀に出てきた。しかし参議院で与党が三分二の議席を得ることは絶望的である。
実際、これまでの参議院選で与党が三分二の議席に近付いたことさえない。特に与党にとって難しいのは複数議席の選挙区であり、ここは事実上の中選挙区になる。中選挙区では各党が議席を分け合うことになり、与党にとって不利である。そして複数議席の選挙区の定員が増えている。したがって与党が三分二の議席を得ることがますます難しくなっている。つまり衆参の与党が同時期に三分二の議席を占めるということは奇跡であり、未来永劫ないことと筆者は思っている。
そして意外と問題なのが国民投票と筆者は見ている。各種の世論調査を見ても、憲法改正に賛成する国民は5割を超えている。しかし憲法第9条の改正に限れば、賛成が5割を大きく下回る。つまり第9条含みの憲法改正案は、国民投票で否決される可能性が大きい。与党はこのことを甘く考えている。
もし国民投票で第9条含みの憲法改正案で5割以上の賛成を得るには、よほどの状況に日本が置かれた場合しか考えられない。筆者は、5年前の中国漁船の海上保安庁の巡視船への体当たり事件みたいなものがタイミング良く起らない限り、5割以上の賛成を得るということはないと見ている。つまり仮に奇跡が起って衆参で与党が三分二の議席を占めたとしても、国民投票で否決される可能性が極めて高く、その場合には憲法改正は大失敗に終わるのである。安倍政権としては、この大きなリスクのある方向に進むべきではないと筆者は考える。
また奇跡的に憲法改正が国民投票の段階を迎えれば、護憲派という左翼勢力は実力以上の力を発揮し大いに張切るはずである。左翼というものはどの時代でも自分達の非力を自覚している。しかしその分プロパガンダに長けているのが左翼である。マスコミを取込むのもうまく、今日の安保法案審議の報道にも左翼勢力の影響が見受けられる。むしろボロボロなのが保守陣営であり、彼等は「けんか」の仕方を知らない。特に若い保守派政治家は、左翼のことを全く解っていない。
日本の左翼勢力(=護憲派)は、ソ連の崩壊や成田闘争の敗北などで(他には労働組合の弱体化など)ほぼ消滅したはずであった。ところが福島原発事故をきっかけに少しずつ盛返している。ひょっとすると今回の安保法案闘争は、保守と左翼の最終決戦になるかもしれない。この大事な時期に憲法改正という左翼にとって「絶好の餌」を投入れるなんて信じられないことである。
安倍政権は今の安保法案の成立を目指して真直ぐに進めば良い。憲法を改正しようとするから下らない憲法学者が大勢しゃしゃり出てくるのである。特に憲法を先に改正すべきという憲法学者は「隠れ護憲派」と見なして良い。少なくとも憲法改正の動きは、安保法案成立にとって邪魔なだけである。
今の安保法案は憲法の許容範囲を越え違憲という声が大きい。しかしそれは個人や団体の意見に過ぎない。法案成立までの手続きに瑕疵がなければ、当然、法律は制定されることになる。
ただ法案成立後、もちろん新しい法律が違憲と訴えられるかもしれない。しかしその場合は最終的に最高裁がどのような判断をするかである。まず最高裁が高度に政治的な問題と判断を回避することが考えられる(統治行為論)。また部分的に違憲と判断することも有りうる。その場合には成立した法律の手直しが必要になるかもしれない。しかしこれらは今の段階で考えることではない。そして今日の安倍政権にとって最も需要なことは、日本国民が被る可能性がある軍事的な脅威に対する必要な法整備である。あまり時間はない。
http://www.adpweb.com/eco/eco850.html
161 :山師さん:2015/06/28(日) 12:59:52.28 ID:Q8XtQQ6v
割と分かりやすい、自衛権の合憲性の根拠。
憲法の立法主旨からの見方で、アメも意図的に自衛権の禁止は外したと証言してるよ。
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私はその憲法作成の実務責任者であるチャールズ・ケーディス氏に長時間インタビューして、当時の実情や占領軍側の考えを詳しく聞いた
(『憲法が日本を亡ぼす』ではその記録を全文収録した)。
占領軍がいかに大ざっぱに、一方的に、日本の戦後の憲法を書き上げたかを、ケーディス氏は米国人らしい率直さで認めるのだった。
同氏の明かした日本憲法の真実を簡単にまとめると、以下のようになる。
(1)新憲法は日本を永久に非武装のままにしておくことを最大の目的とした。
(2)日本の自国防衛の権利までを否定する方針で、その旨の明記が最初の草案にあったが、ケーディス氏自身の考えでその否定の部分を削除した。 ← これ
(3)「交戦権」という言葉はケーディス氏にも意味不明であり、「国の交戦権を認めない」という部分はもし日本側から要請があれば、すぐに削除した。
(4)第9条の発案者が誰だったのかはケーディス氏には分からない。
(5)米国側は日本が新憲法を拒むという選択はないと見ていた。
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これ以外で、枝野や長谷川の集団的自衛権合憲論も有るけど・・・。
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憲法9条を作ったのは、GHQのケーディス大佐であることは知ってますか?
ケーディス大佐とは、チャールズ・ルイス・ケーディス(Charles Louis Kades、1906年3月12日 - 1996年6月18日)はアメリカの軍人・弁護士であり、GHQ民政局課長・次長を歴任し、日本国憲法制定に当たっては、GHQ草案作成の中心的役割を担い、戦後日本の方向性に負の大きな影響を与えた人です。
GHQは、連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部、連合国最高司令官総司令部)の略で、太平洋戦争(大東亜戦争)の終結に際してポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の機関です。
憲法9条は上に挙げた、GHQのケーディス大佐によって書かれました。
その時、39歳です。
書いたケーディス大佐が、後に、
「まだ、あの憲法9条を改正してないのは、驚きだ。」
と述べています。
また、彼は、弁護士であるけれども、日本語及び日本の法律に疎く、
「9条に
『国の交戦権はこれを認めない』
と書いてあるけれども、私は交戦権の意味がよく分かっていなかった。」
と後に述べているのです。
さらに、あほのケーディスは、
「交戦権を放棄すると、戦争ができなくなるが、それがどういうことを意味するのか、よく分かっていなかった。」
と述懐しています。
ケーディスの人間性を表すものとして、ケーディスは不倫をしています。
鳥尾敬光子爵夫人と不倫関係になり、ケーディスにも妻がいましたが、マッカーサーはケーディスのようなケースが増えないように高官に限って妻子を呼び寄せたほどです。
ケーディスの妻キャサリンは来日すると、キャサリン宛に一本の匿名電話がかかってきました。
「あなたの夫に日本人の恋人がいるのをご存知か」と。
すったもんだして結局二人は離婚しました。
そして、共産主義者として有名で、
ケーディスは帰国すると国務省のジョージ・ケナンを訪ね、こういわれます。
「あなた方は、日本を共産主義国家にしてソ連に進呈しようとしていたのだという噂もありますよね」
ケーディスは企みがあばかれ、民政局を辞任しました。
その辞任の日は、わざわざ昭和24年5月3日のGHQ憲法記念日にあわせたのです。
吉田総理はマッカーサーに
「日本を赤化させるつもりですか」
とストレートに言ったといいます。
ケーディスに対しても昭和24年1月の総選挙の勝利の後、
「Did you enjoy staying in Japan?」
と言っています。
直訳すると
日本での滞在をご堪能されましたか?
という意味ですが、
「まだ日本にいるつもりか?」
という皮肉の意味で使いました。
ケーディスが民生局を辞任した際、他にもこうも言われています。
「彼は日本人に自ら手本を示した。
空虚な理想主義者は奢りと腐敗に溺れ、自滅する、と。」
日本進駐の経験のあるロバート・アイケルバーガー(当時、陸軍中将)がコメントしました。
http://ameblo.jp/adgjmptwadgjmpuwadgjmptw/entry-11494227701.html
憲法9条 総司令部案の真相 西修先生
http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/tag/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E5%A4%A7%E4%BD%90
憲法9条がどのような経緯でできたか、理解することが大切
憲法9条を正しく解釈するには、同条がどのような経緯で成立したか、その真相を理解することが肝要です。以下でポイントを書きとどめることにしましょう。
9条の原点は、昭和21(1946)年2月3日、マッカーサー元帥によって示された『マッカーサー・ノート』の第二原則にあります。次のようです。
「国の主権的権利としての戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえも、戦争を放棄する。日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な意思に委ねる。いかなる日本の陸海空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も日本軍隊に決して与えられない」
総司令部案の変更点
ここでとくに注意を要するのは、戦争には「紛争解決の手段としての戦争」と「自己の安全を保持するための手段としての戦争」の2種類があり、その両方とも放棄するよう『日本国憲法』に明記しなければならないと考えられていたことです。
前者の文言は、すでに1928年の『戦争放棄に関する条約』(不戦条約)に存在していました。そしてこの規定は、自衛戦争を排除するものでないことが国際的合意となっていました。そのことを承知のうえで、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」、すなわち自衛戦争の放棄をも憲法に加えるように求めたのです。
ところが、連合国軍総司令部内で検討された結果、2月13日に日本側に示された『総司令部案』は、次のようになっていました。
「国権の発動たる戦争は、廃止する。武力による威嚇または武力の行使は、他国間との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍その他の戦力は、決して認められることはなく、また交戦権も、国家に対して与えられることはない」
ケーディス氏の証言
どこが違うでしょう。一番大きな違いは、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」の部分がすっぽり削られ、新しく「武力による威嚇または武力の行使」が加えられていることです。このように変えたのは、総司令部民政局次長で『総司令部案』をとりまとめたチャールズ・ケーディス大佐です。
私がマサチューセッツ州郊外のケーディス氏宅を訪れたのは、昭和59(1984)年11月のことです。ケーディス氏は、私に語ってくれました。「マッカーサー・ノートにあった『自己の安全を保持するための手段としての戦争』の文言を削除したのは、それが非現実的だと考えたからです。また当時、国連憲章で『武力による威嚇または武力の行使』(2条4項)の限定的な放棄が規定されていたので、加えたのです」
こうして、この段階で「非現実的」な内容(自衛戦争も不可能)から、「現実的」な内容(自衛のための武力行使は可能)に変更されたのです。
____
当時の吉田茂政権は明らかにGHQの傀儡(かいらい)で、これは否定しようがない。
例えば、アメリカから「定員法」のように何十万人もの人員を整理する法律を作って日本経済を効率化し、アメリカ資本を投下できる下地を作れと言われれば、「はいはい、その通りにします」と、吉田政権は首切り法案を作って大量解雇をやるわけです。
でも、これって今と同じじゃないですか? アメリカが日本に戦争を手伝わせたいから法律を作る。アメリカが基地を欲しいから沖縄の民意を平気で踏みにじる。TPP問題なんかも同じです。
こうして、アメリカがもたらす「利権」が政治と深くつながり、日本の政治がアメリカの言いなりになってゆく。その転換点となったのが「あの夏」であり、「下山事件」なのだと思います。
―もうひとつ興味深いのは、同じGHQの中でも、現行の日本国憲法を事実上、起草したといわれる「GS」(民政局)と、戦後の対共産主義対策や下山事件にも深く関わったと思われる「G2」(参謀第二部)のせめぎ合いです。
柴田 新憲法制定をはじめ、GHQにおいて日本の民主化政策の中心を担い、労働組合の組織化も進めるなど左派リベラル的な性格を持っていたGSのトップが、汚職問題(昭和電工事件)で失脚させられます。それも白洲次郎や当時の警察、吉田茂らが裏で手を引く形で。
すると、GSによって「公職追放」されたり、巣鴨プリズンに入ったりしていた政治家や右翼などが「共産主義対策」の名の下、ライバルのG2によって次々と復活する。その中には児玉誉士夫(よしお)や笹川良一のような右翼などもいて、今の総理の祖父、岸信介もそのひとりです。
その後、G2が実権を握っていく中で、アメリカの利権を介して、こうした政治家や経済界、右翼などが水面下で強く結びつきながら日本の「戦後」が作られた。そうなると今度は事実上、「GSが作った」日本国憲法が邪魔になってきた。しかし憲法は簡単には変えられない。彼らにとってはそれがずっと「取れない重し」になっていたのです。
―別の言い方をすれば、今、しきりに議論されている憲法の問題も、その根っこはGHQの内部にあった「GS対G2」の構図の中にあるとも言える、と?
柴田 そう、結局すべては「下山事件」が起きた時代と地続きなんです。そして僕はその時、日本が踏み込む道を間違えたのではなかったのかと思う。
例えば、原発の問題もそうです。下山事件の時に国鉄の総電力化で政治家が利権をむさぼっていたのと同じようなことが、福島で原発を造った時にも起きていた。それもアメリカの言いなりになって、もう使わなくなった古い型の原子炉かなんか買わされてね。
今も集団的自衛権を含む法整備をやっていますよね。あれも日本のために必要な法整備ではないし、当然、憲法改正もせず、その解釈を無理やり変えてでもやろうという話でもない。実は集団的自衛権で焦っているのはアメリカのほうなんですよ。アメリカはたぶん、中国と南シナ海の問題で一戦あってもおかしくないと踏んでいる。その時にアメリカだけが泥をかぶりたくないから日本の自衛隊も使いたい。
そうやって、日本は永遠にアメリカの言いなりになり続ける。本当に今の日本はアメリカの植民地ですよね。僕は昔から言っているんだけど、最近、本当にそうなってきた気がします。
http://www.asyura2.com/15/senkyo191/msg/261.html
2015年08月23日
「憲法学者」とは何者? GHQが指示し東大が育てた狂気の学問
「憲法学」は日本にしか無い学問で、GHQの憲法を合法化するために創作された
今年の夏は「憲法学者」が活躍し、正義のヒーローとして悪を退治した(とマスコミが言っている)
だが「憲法学」は学問ではなく、GHQから「違法な新憲法を合法にしろ」と命令されて作ったのです。
でっち上げ憲法
現在の日本国憲法は合法と思われているが、1940年台や50年代には違法だと思われていた。
知られているように日本国憲法は日本人が草案したものではなく、アメリカ軍が考案しアメリカ軍が強要した。
アメリカ軍は日本を軍事占領していたので拒否権はなく、日本の国会で強制的に可決させました。
この時、国民投票や日本国民の民意を取る手続きは一度も行われなかった。
1946年(昭和21年)5月16日の帝国議会で可決し、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
日本軍の停戦が昭和20年8月15日で、米軍が上陸したのは9月以降なので、実質半年しかありませんでした。
1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサー(米軍人)は日本政府に憲法改正を命令し、同時に多くの指示を出した。
政治犯の釈放や天皇批判の合法化、警察解体などを法的根拠無く勝手に行いました。
当時はアメリカ軍人が銃を構えて東京を占領していたので、違法であっても皆が従いました。
東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が違法なので「従わない」と回答し総辞職しました。
一介の軍人に過ぎない人間が日本の支配者になり、憲法改正を命令した、これが現在の憲法の最大の問題点です。
日本側は憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正する姿勢を示した。
マッカーサーは違法に憲法を改正して「合法化しろ」と指示した
「違法な憲法を合法にしろ!」
1945年11月ごろに委員会が中心になって憲法改正の協議をし、46年1月にGHQに提出した
天皇を中心とし、米軍の希望を取り入れて帝国憲法を発展させる内容だったが、マッカーサーは突っぱねた。
米軍が望む憲法は天皇と日本人を「犯罪者」として権力から追放し、アメリカに従わせるものだった。
マッカーサーは日本側の改正案を無視して、勝手に憲法草案を作成していた。
憲法改正ではなく「新憲法」の制定であり、過去の日本を否定する内容になっていた。
新憲法は2月4日から10日の7日間で作成されたが、法の専門家は参加せず、GHQの臨時職員などが作成した。
この英語の文章を適当な日本語で翻訳したものが「日本国憲法」で、3月7日の新聞で国民に発表された。
ここまで日本人は憲法作成に一人も関わっておらず、英文を翻訳しただけである。
後は先に書いた経緯で、5月の帝国議会で可決したが審議は実質的に何もしませんでした。
「アメリカと戦争をするか新憲法を可決するか」どちらかの選択肢しかなかったからです。
新憲法には当然ながら「違法である」という批判があり、法学者には「無効な憲法である」という人が多く居た。
ここで誕生したのが「憲法学」であり、GHQから「新憲法を合法化しろ」という命令が出されたのである。
学問ですらない「憲法学」
日本側の改正案を「無資格の軍人」に過ぎないマッカーサーが否定し、銃を突きつけて可決させたのが現行憲法です。
誰がどう考えたって違法で無効ですが、米軍はここで「東京大学」を利用する事にしました。
日本の国法学を支配していたのは東大で、現在も最高学府として法学を支配しています。
東京大学で最も権威ある教授が「合法」と言いさえすれば、国法学者全員が従うシステムだったのです。
当時帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。
しかし改正後にGHQから圧力が掛かると態度を一変させ「実は合法でした」と言い出した。
くそみたいな説だが「8月15日に日本が降伏したのではなく、国民が革命を起こして天皇を倒した」のだそうである。
どう見てもフランス革命やロシア革命の猿真似、パクリでGHQからの指示でそう言っていた。
当時はいわゆる「戦犯裁判」が行われていて、GHQから目を付けられると戦争協力者として刑務所に入れられたのである。
東大教授ならどんな理由でも戦犯に仕立て上げられる訳で、宮澤俊義教授も自分の命が掛かっていたから従ったのでしょう。
こうして宮澤俊義を開祖として、新憲法は合法であるという「憲法学」が誕生し、GHQの命令で憲法学者が活動を始めた。
「憲法学」とは最初から新憲法は合法という立場に立つものなので、そもそも学問ですらも無かったのです。
一介の軍人が無資格で銃を突きつけて「日本国憲法」を強要し、合法化しろと迫ったので、東京大学が発明したのが「憲法学」です。
現行憲法を改正するとかしないとか、現行憲法に照らして合法か違法かを議論しているが、その前に議論する事がある。
現在の「日本国憲法」そのものが、違法であり無効だという事です。
http://thutmose.blog.jp/archives/40859147.html#more
―憲法研究会の「憲法草案要綱」をめぐって― - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ」
http://alter-magazine.jp/index.php?%E2%80%95%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1%E3%80%8D%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6%E2%80%95
日本国自主憲法試案 憲法研究会編:憲法9条改正
http://jpconstitution.blog129.fc2.com/blog-entry-11.html
日本国憲法は、 「日本国民が主権を保有していない時期」 すなわち、1945年8月15日から、サンフランシスコ条約が発効になった1952年4月28日の「間」に作られた
幣原首相が憲法九条を提案したとして、一体、何の権利を持って提案したのか、という問題が生じます。幣原首相は、日本国民の主権を代表する立場だったのですか?
何しろ、当時の日本国民には主権がなかったわけで、「存在しない主権を代表する」ことはできません。幣原首相が憲法九条の提案者だったとしても、「主権がない時期に制定された憲法」であることには変わりませんし、むしろ幣原首相は一体全体「何の権利」に基づき、憲法九条を提案したのか、という別の問題が出てきてしまいます。
憲法九条の提案者については、諸説あるようですが、問題はそこではなく、主権という「根本的な話」なのです。
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。
マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。
日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。
1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。
日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。
アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。
軍事政権が作った憲法
マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。
こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。
当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。
先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。
日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。
するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。
東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。
当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。
GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。
これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。
GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。
帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。
、
新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。
これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html
2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html
マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg
日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。
日本国憲法の珍論争
日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。
8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。
「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」
この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。
「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。
バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。
実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。
『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。
国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。
終戦後に軍事政権樹立した日本
ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。
集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。
バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。
英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。
時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。
8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。
マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。
それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。
マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。
日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。
1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。
日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。
アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。
軍事政権が作った憲法
マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。
こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。
当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。
先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。
日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。
するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。
東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。
当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。
GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。
これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。
GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。
帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。
、
新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。
これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html
2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面
マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0
憲法改正の日程
安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。
首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。
また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。
自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。
日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。
改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。
国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。
日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。
GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。
2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。
その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。
2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。
日本国憲法の根本的矛盾
2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。
緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。
衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。
世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。
この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。
少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。
なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。
この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。
誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。
だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?
連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。
1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。
トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。
独裁者になった尿漏れ男
1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。
マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。
厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。
マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。
マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。
1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。
1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。
特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。
イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。
脅迫で可決した日本国憲法
マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。
GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。
ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。
ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、
GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。
若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。
東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。
例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。
東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。
日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。
リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html
日本国憲法、アメリカが書いた 2016-08-17
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12191064891.html
我が国の憲法(日本国憲法)は、 「日本国民が主権を保有していない時期」 すなわち、1945年8月15日から、サンフランシスコ条約が発効になった1952年4月28日の「間」に作られたからこそ、問題なのでございます。
誰が日本国憲法を書いたかといえば、もちろんGHQです。
などと書くと、すぐに、
「いや、憲法九条は幣原喜重郎首相(当時)が提案したとマッカーサーが語っている。日本国憲法は『押し付け憲法』ではない」
などと、妙な反論をされてしまうのですが、誰が提案したとしても、日本国憲法が「日本国民に主権がない時期に制定された憲法」であることに変わりはないのです。
ついでに書いておくと、幣原首相が憲法九条を提案したとして、一体、何の権利を持って提案したのか、という問題が生じます。幣原首相は、日本国民の主権を代表する立場だったのですか?
何しろ、当時の日本国民には主権がなかったわけで、「存在しない主権を代表する」ことはできません。幣原首相が憲法九条の提案者だったとしても、「主権がない時期に制定された憲法」であることには変わりませんし、むしろ幣原首相は一体全体「何の権利」に基づき、憲法九条を提案したのか、という別の問題が出てきてしまいます。
憲法九条の提案者については、諸説あるようですが、問題はそこではなく、主権という「根本的な話」なのです。
『バイデン副大統領「日本国憲法、米が書いた」
http://mainichi.jp/articles/20160816/k00/00e/030/200000c
バイデン米副大統領は15日、東部ペンシルベニア州スクラントンで民主党大統領候補のヒラリー・クリントン前国務長官(68)の応援演説をし、「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」と語った。共和党大統領候補の実業家、ドナルド・トランプ氏(70)を批判する中での発言だが、米政府高官が、日本国憲法を「(米国が)起草した」と明言するのは極めて異例だ。 』
核武装させないためというよりは、日本国を二度とアメリカの脅威に成長させない「瓶の蓋」として機能させるために、「アメリカ」が日本国憲法を書いたのでしょうが、それをアメリカの有人が認める発言したのは、初めてではないかと思います。いずれにせよ、わたくしたち日本国民が、アメリカが書いた憲法により政治的な制約を受け、安全保障が弱体化していっていることは紛れもなき事実なのです。
ちなみに、わたくしは憲法九条の改正論者ですが、例えば、
「日本国憲法はアメリカが押し付けた憲法だ。無効だ!」
などと、ラディカルなことを言いたいわけではありません。同時に、今すぐ憲法九条(及び前文)を改正するべき、と主張したいわけでもありません。
と言いますか、現在の日本が憲法九条改正を巡り国民投票をやった日には、間違いなくブレグジットの英国以上に国民が分断され、国民統合が壊されることで逆に安全保障が揺らぐ可能性が高いと思います。中国という仮想敵国の脅威が本格化しているこの時期に、国民統合を壊す国民投票を実施するのは、むしろ危険だと思います。(そういう意味で、イギリスの国民投票は本当に参考になりました)
ならば、中国にどう対処するべきか、と言われそうですが、ですから尖閣諸島の問題は公務員(自衛隊)を常駐させれば、とりあえずは終わります。南シナ海の問題は、より厄介ですが、こちらは東南アジア諸国(及びアメリカ)と集団安全保障の道を探るしかありません。
いずれにせよ、まずは国民が、
「自分たちは外国(アメリカ)が書いた憲法下で安全保障に関する制約を受け、さらに中国という仮想敵国の脅威が高まっている」
という「事実」を認識した上で、議論していくべきだと思うのです。
上記を認識すれば、例えば憲法九条をご神体のごとく崇める行為が、いかに愚かであるかが分かります。草案者がGHQだろうが、マッカーサーだろうが、幣原首相だろうが、誰であろうとも、日本国憲法が「日本国民が主権を持たない時期」に制定されたことに変わりはないのです。
ちなみに、別にわたくしは反米ではありませんし、上記の「事実」により反米感情を高めたいわけでもありません。アメリカは、あくまで自国の国益のために、日本国憲法を書いたわけです。もちろん、先日も書いた通りハーグ陸戦条約違反ですが、それを日本国側から追求しないのが問題なのです。
この手の「事実」が国民に広く共有されて初めて、我が国はアメリカの「瓶の蓋」から逃れることができるでしょうし、中国との「軍事バランス」を均衡させることも可能になります。
それにしても、アメリカの政治家が「日本国憲法、アメリカが書いた」と堂々と発言してしまうわけですから、時代の移り変わりをまざまざと感じさせられました。
日本は現在でも米国の軍事占領下にある _ 日本の政治を決定している日米合同委員会とは
なぜ、日本では国会議員が地方議員の仕事をしているのか 2015年6月15日
http://www.yamamotomasaki.com/archives/1991
日本政治を図らずも30年近く見てきて、いつも不思議に感じてきたことがある。
それは、「地方分権」と言われながら、いまだにすべての情報は中央、東京に集中し、内政における大枠の情報がほとんど東京に集中していることである。しかも国家主権にわたる外交、安全保障、国の経済政策、教育政策、福祉政策、医療政策、その他の分野でも大きな方針、政策は、すべて霞ヶ関から、国会議員に「勉強会」という形で官僚から卸されてくるのである。
そこで国会議員になった人間は、その中の一つか二つの分野に精通し、期数を重ねることによっていわゆる族議員というものになって、その内政の利権のお裾分けに預かる。この仕組みが、今も続く戦後の日本政治である。
さらに不思議なことは、その霞ヶ関に大きな政策を棚卸ししてくるのが、戦勝国であるアメリカなのである。
今回は、その大きな役割の一つを担っている「日米合同委員会」なるものを改めて紹介したい。不勉強の小生はこの組織のことを知ったのが、十年ちょっと前である。2011年の311以降、ネットや一部の本でもやっと言及されるようになったが、多くの日本人はマスコミがほとんど報道しないので全く知らないのではないだろうか。
そのためにいまだに一般の日本人には、認識されていないが、「日米合同委員会」というものが、戦後日本政治をコントロールしてきた最重要会議であることは間違いないのである。憲法で規定された国権の最高機関である国会を現実には超越していると言っても過言ではない。今回の安保法制を巡ってもテレビのニュース等で、あたかも日本が独立国としてこの法制を審議しているかのような報道がなされているが、残念ながら、このような報道は戦後に創られた共同幻想を維持するためものでしかない。
ところで、話題の書である矢部宏治氏は『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で、矢部宏治氏は、「日米合同委員会」についてこう書いている。
日本はなぜ帰途と原発を止められないか
「官僚というのは法律が存在基盤ですから、下位の法体系(日本の国内法)より、上位の法体系(安保法体系)を優先して動くのは当然です。裁判で負ける側には絶対に立たないというのが官僚ですから、それは責められない。
しかも、この日米合同委員会のメンバーがその後どうなっているかを調べてみると、このインナー・サークルに所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。
とくに顕著なのが法務省で、省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会の元メンバー(大臣官房長経験者)が占める割合は、過去17人中12人。そのうち9人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです」
日米合同委員会の構成メンバーを見ると、米側がほとんど軍人である。
米側代表は在日米軍司令部副司令官である。
代表代理として在日米大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海軍司令部参謀長、在日米海兵隊基地司令部参謀長である。在日米軍の軍人が威嚇するかのごとく居並んでいる。
日米合同委員会の日本側代表は外務省北米局長である
代表代理は、法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米局参事官、財務省大臣官房審議官である。選挙で選ばれた政治家は一人も入っていない。
これは極めて象徴的な演出で、米国側は意識的に軍人を出している。現在も日本が米国の軍事占領下にあることの象徴なのだろう。わかりやすく言えば、日本官僚はネイティブの日本支配者であり、在日米軍の意向を受けて官僚の利権を維持拡大しているというわけである。
そして、日米合同委員会から多くの検事総長を出す。そして日本の対米隷属に異を唱え、真の独立を目指す人間を裁判にかけて攻撃する。その対象になったのが、最近では小沢一郎氏であった。
また、日米合同委員会で決まったことが公表されることはない。記録として残されることもない。いわば密約である。それが日本官僚を通じて政権与党である自民党に降ろされている。前回のレポートでも指摘した覇権国である米国経済の実情を考えると、もっと多くの日本人がこのことを知るべき時を迎えている。
日米合同委員会1日米合同委員会2
下記の参考資料を読んでいただければ、総理になった人間ですら、日米合同委員会のことを知らなかったことがわかる。日本の政治は見事なまでに空洞化しているのである。
<参考資料>
(*週プレNews 2014年12月16日より)
「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」で話題の矢部宏治が鳩山友紀夫と“日本の真の支配者”を語った!
矢部宏治
鳩山友紀夫元首相(右)と矢部宏治氏が日本が「真の独立国」として新しい戦後を歩むための方法を議論
<民主党・鳩山政権の崩壊と沖縄の基地問題を出発点に、日本の戦後史を振り返った話題の新刊
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%80%8C%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%80%8D%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E7%9F%A2%E9%83%A8-%E5%AE%8F%E6%B2%BB/dp/4797672897
の著者・矢部宏治(やべ・こうじ)氏。
そして、まさにこの本を執筆するきっかけとなった鳩山友紀夫元首相。
このふたりが、辺野古移設反対派の圧勝に終わった11月の沖縄県知事選や総選挙を踏まえ、事実上、今も米軍の占領状態が続いているこの国の姿と、日本が「真の独立国」として新しい戦後を歩んでいくためにはどうすればいいのか、その方法を考えた!>
首相の時はわからなかった「見えない敵」の正体
―まずは鳩山さんに、矢部さんの本を読まれた率直な感想から伺いたいのですが?
鳩山 正直申し上げて“ぶったまげた”というか、矢部さんがここまで勇気を持って取材され、この本を書かれたことに敬服しました。先にこの本を読んでいれば、私も総理を辞めずに済んだかもしれない、と(笑)。
もちろん、私は自分の非力について言い訳する気はありません。総理として一度は沖縄県民に期待感を与えながら(県外移設を)実現できなかったのは私に大きな責任があります。
ただ、この本を読んで、当時、自分がもっと政治の裏側にある仕組みを深く理解していれば、結果が違っていた部分もあるのかなとは思いました。それだけに、自分が総理という立場にありながら、この本に書かれているような現実を知らなかったことを恥じなきゃいかんと感じるわけです。
矢部 鳩山さんは以前、インタビューで「官僚たちは総理である自分ではなく『何か別のもの』に忠誠を誓っているように感じた」と言われていましたが、その正体がなんであるか、当時はわからなかったのでしょうか?
鳩山 物事が自分の思いどおりに進まないのは、自分自身の力不足という程度にしか思っていませんでした。本来ならば協力してくれるはずの官僚の皆さんには、自分の提案を「米軍側との協議の結果」と言って、すべてはね返されてしまって。分厚い壁の存在は感じながらも「やっぱりアメリカはキツイんだなぁ」ぐらいにしか思っていなかった。その裏側、深淵の部分まで自分の考えは届いていなかったのです。
しかし、矢部さんのこの本はもっと深いところで米軍と官僚組織、さらには司法やメディアまでがすべてつながって一体となった姿を見事に解き明かしてくれて、いろんなことが腑(ふ)に落ちました。この本を読んで、目からうろこが何枚落ちたかわからないくらい落ちましたね。
矢部 在日米軍と日本のエリート官僚で組織された「日米合同委員会」の存在は、当時ご存じなかったということでしょうか?
鳩山 お恥ずかしい話ですが、わかりませんでした。日米で月に2度も、それも米軍と外務省や法務省、財務省などのトップクラスの官僚たちが、政府の中の議論以上に密な議論をしていたとは! しかもその内容は基本的には表に出ない。
私が総理の時にアメリカから「規制改革をやれ」という話があって、向こうからの要望書に従って郵政の民営化とかがドンドンと押しつけられた。そこで「この規制改革委員会はおかしいぞ」というところまでは当時もわかっていたのですが。
矢部 日米合同委員会は基本的に占領以来続く在日米軍の特権、つまり「米軍は日本の国土全体を自由に使える」という権利を行使するための協議機関なのですが、この組織が60年間続いていくうちに、そこで決まったことには、もう誰も口出しできないという状況になってしまった。
なかでも一番の問題は、日米合同委員会のメンバーである法務官僚が、法務省のトップである事務次官に占める割合は過去17人中12人、そのうち9人が検事総長にまで上り詰めている。つまり、米軍と日本の高級官僚をメンバーとするこの共同体が、検察権力を事実上握っているということなんです。
しかも、在日米軍基地の違憲性をめぐって争われた1959年の砂川裁判で、当時の駐日米国大使だったダグラス・マッカーサー2世が裁判に不当な形で介入し、「日米安保条約のような高度な政治性を持つ問題については、最高裁は憲法判断をしない」という判例を残してしまった。ですから日米合同委員会の合意事項が仮に憲法違反であっても、日本国民にはそれを覆(くつがえ)す法的手段がない。
鳩山 それはつまり日米合同委員会の決定事項が、憲法も含めた日本の法律よりも優先されるということですよね。そのことを総理大臣の私は知らなかったのに、検事総長は知っていたし役人も知っていたわけだ。
矢部 ですから、鳩山さんの言う「官僚たちが忠誠を誓っていた何か別のもの」、つまり鳩山政権を潰(つぶ)したのは、この60年続く日米合同委員会という米軍と官僚の共同体であり、そこで決められた安保法体系だというのが現時点での私の結論ですね。
―そうした仕組みの存在を知った今、鳩山さんはどのような思いなのでしょうか。
鳩山 日米合同委員会に乗り込んでいきたいぐらいだね。「何をやってるんだ、おまえら!」みたいな感じで。
ただ、そういうものが舞台裏で、しかも、憲法以上の力を持った存在として成り立っていたとしても、決してメディアで報道されることもないし、このメンバー以外にはほとんど知られないような仕組みになっているわけですよね。
矢部 このような「見えない力」の存在は、政権内にいないと、野党の立場ではまったく知り得ないものなのでしょうか?
鳩山 私も自民党時代がありましたので、8年は政権党にいたわけですが、当選1回や2回の新人議員の間は、官邸内部で何が動いているか知りようもありませんでした。でも与党の一員としては扱ってもらっていたと思います。
それが野党となると、与党、特に与党の中枢の方々とは情報量が圧倒的に違う。官僚も野党に話す場合と与党に説明に行く場合では、丁寧さも説明に来る人の役職も全然違う。そのぐらい野党に対しては、官僚は区別し、冷たい対応をしていました。
つまり、自民党政権と官僚機構が完全に一体化していたということです。野党は圧倒的に情報過疎に置かれているのは事実で、国民はその野党よりも情報が少ない。
この先、特定秘密保護法によって、ますます国民には何も知らせない国になるわけで、非常に恐ろしいことだと思います。
日本全土が「米軍の基地」という現実
矢部 「横田空域」という、1都8県の上に米軍が管理している広大な空域がありまして、日本の飛行機はここを飛べない。これなんか典型的な「米軍が自由に日本の国土を使える」事例ですね。
鳩山 私も横田空域のせいで、日本の航空会社が非常に不自然な飛行ルートで飛ばされていることは知っていましたが、「沖縄と同じように、米軍の優位性というのが東京や関東周辺にもあるんだな」という程度にしか理解していなかった。
しかし、具体的に図を見ると、関東上空がこれほど広範囲に米軍に「占領」されているという事実に仰天しますよね。沖縄だけではなくて、実は日本全体がアメリカに今でも支配されているも同然ですから。
矢部 飛行ルートの阻害もありますが、それより問題なのは、米軍やCIAの関係者が日本の国境に関係なく、この空域から自由に出入りできる、入国の「裏口(バックドア)」が存在することです。これはどう考えてもおかしな話で、こんなことは普通の主権国家ではあり得ません。
この問題なんて国際社会にアピールしたら、みんなすごく驚くと思うんです。これは今、日本で起きているほかの問題、特に原発の問題にも絡んでくる話ですが、日本という国が置かれている状況の歪(ゆが)みやおかしさを伝えるいい事例になると思っています。
結局、日米安保条約とは、米軍が「日本の基地」を使う権利ではなく、「日本全土」を基地として使う権利を定めたものなのです。
旧安保条約の第1条で米軍にその権利が認められ、60年の安保条約で文言は変わっていますが、その権利は残されている。これを「全土基地方式」というのですが、これはなんとしても国際社会にアピールして変えていかないといけない
鳩山 矢部さんの本だと、米軍がそんなことをできる根拠は、敗戦国である日本を今でも「敵国」と見なした、国連憲章の「敵国条項」があるから、という話でしたが。
矢部 そこの説明は少し複雑で、旧安保条約第1条には、そうしたメチャクチャな軍事利用のあり方は、日本側が望み、アメリカ側がそれに応えたものだということが書かれている。そうした戦後処理を日本が望んだ以上、日本の主権や国民の人権がいくら侵害されていても、国連は口を出せないというロジックになっているんです。一種の法的トリックと言ってもいい。
ですから、日本にちゃんとした政権が誕生して、国際社会で堂々と議論し、「全土基地方式はやめてくれ」と言ったら「それは敵国条項があるから無理だ」とは絶対ならないと思います。
米軍の占領状況を米国民に訴えろ!
鳩山 矢部さんのような方の努力もあって、私もようやく目隠しが外れて真実が見えてきたわけですが、問題はそこから先をどうするかです。やはり一部の人たちだけが目隠しを外すんじゃなくて、日本の国民の多くに触れられるPR戦術というか、日本の戦後の背後には何があるのかをきちんと解き明かす手段が必要だと思いますね。
それと、日米関係に関わっている米軍関係者を除けば、アメリカの議会や国民は日米合同委員会なるものがどういう役割を果たしてきたのか、それが今も日本の主権をさまざまな形で侵害している事実も知らないと思います。しかし、こうした状況はアメリカの国民から見ても「異常なこと」だと映るはずですから、われわれが海外、特にアメリカの議会や国民に対して「日本は今も事実上、米軍に占領されているけれど、本当にこれでいいのか?」と訴えることが重要です。
矢部 情報発信という意味では、今、ドイツなど多くの国が日本の原発汚染に対して「何を考えてるんだ!」って相当に怒っている。基地の問題だけだと「勝手にやっててくれ」となるかもしれないけれど、原発の問題はそうはいかない。全地球的な問題です。
あれだけ深刻な原発事故を起こした日本がなぜ、今再び原発推進への道を進もうとしているのか? その背景には「日米原子力協定」という、自国のエネルギー政策すらアメリカの同意なしには決められないという、客観的に見ても非常に歪(いびつ)な構造がある。それをうまく国際社会にアピールできたら、こうした日本の歪んだシステムに世界の光が当たる可能性はあります。
鳩山 そうですね、日本のメディアも完全に取り込まれてしまっているのであれば、基地の問題だけではなく、原発も併せて海外に訴えるほうが、圧倒的に意義があると思います。
ただし、そうした「外圧」に頼るだけでなく、結局はこの国の政治を変えない限り、そして多数派にならない限り、こうした流れは大きく変えられません。
*2015.03.16 NEWSポストセブンより
「米軍幹部と日本の官僚が進路決める「日米合同委員会」の存在」
東京都港区南麻布。都内屈指の閑静な高級住宅地も、そこだけは異空間が広がる。
入り口には屈強なガードマンが立ち、脇には「100%、IDチェック」と書かれた案内書きがある。米軍施設の「ニューサンノーホテル」である。
在日米軍関係者は、
「ここは赤坂の米国大使館以上に、米国にとって重要な施設。表向きは来日した米軍関係者の宿泊施設ですが、米海軍情報部や CIA の拠点が置かれていて、日米のインテリジェンスの集積地です」
と説明する。
日本のメディアどころか、政治家も立ち入れない。そんな場所で、日本の高級官僚と在日米軍関係者は、定期的に会合を重ねていた。それが日米合同委員会後述するが1960年に締結された日米地位協定(※注1)をどう運用するかを協議する実務者会議だ。
※注1/1952年に旧安保条約と同時に発効した「日米行政協定」が前身。1960年に日米安全保障条約を締結した際に改めて交わされた。
そこでは、日本の安全保障の根幹に直接かかわる問題から、米軍基地と周辺住民の諍いまで協議される。 前者は在日米軍基地の移転・縮小、米海兵隊の新型輸送機オスプレイの配備といった問題、後者は基地内のゴミ処理、航空機の騒音問題などだ。
かつては、米兵の犯罪並びにその処遇も、開かれた法廷ではなく、密室の話し合いによって、解決がなされたこともあった。
日米合同委の組織は、米国側は在日米軍司令部副司令官、在日米大使館公使など、日本側は外務省北米局長を代表として法務省大臣官房長、防衛省地方協力局長といった面子だ。
日本側の代表者及び代表代理は、将来的に事務次官を狙えるポストにある。そんな高級官僚が、在日米軍や米大使館の有力者と密議を交わすことから、日米合同委は「影の政府」との異名もつく。
ただし、彼らが一堂に会するわけではない。同委員会は、基地問題、刑事、環境など35の分科会や部会に分かれ、担当ごとに参加者が決まる。実際に出席したことのある官僚が明かしてくれた。
「日米の責任者(担当者)が最低一人、書記および通訳などの職員が最低二人は出席する。対話は基本的には日本語で行なわれますが、日本側も英語の話せる通訳を連れているため、微妙なニュアンスで日米の解釈が異なるという事態は生じない」
関係者らの話をまとめると、毎月2回ほど開かれ、開催場所は米国と日本で持ち回りとなる。米国ならニューサンノーホテル、日本の場合は外務省を中心に、分科会や部会ごとに代表者の所属する官庁内で開催されているという。
だが、会合の中身は一切明かされない。合意の一部は外務省、防衛省のホームページに公表されているが、それも簡潔に記されているだけだ。
同委員会を所管する外務省北米局に日米合同委の詳細を問い合わせても、「回答できるのは、既に公表しているものだけ」の一点ばりで、防衛省広報課に問い合わせても、「外務省が所管なので、外務省に聞いてください」という堂々巡りだった。
元琉球新報論説委員で、在日米軍基地問題に詳しい沖縄国際大学大学院教授・前泊博盛氏は語る。
「日米合同委に合意内容を公表する義務はない。日米双方の合意がない限り公表しない取り決め(※注2)になっているからです。」
※注2/1996年2月に、日米両政府は日米地位協定の9項目についての運用改善で合意。「日米合同委員会の公表」もそこに含まれた。しかし、結果的に「合意内容」の公表こそ一部改善はされたものの、会合内容が公表されることはなかった。
「基本的に軍事関係の取り決めなので米軍側は、情報を出したくない。また、米軍に有利に推移した合意内容を表に出して、日本人の神経を逆なでしたくないという思いもある。日本側としても、米国との交渉に負けた、との誹りを避けるために、できるだけ隠密に事を収めたい」
必然的に日米合同委は「密約の温床」になってしまう。(終わり)
http://www.yamamotomasaki.com/archives/1991
アメリカは1943年の時点で日本には未来永劫 自主防衛力は持たせないという方針を決めていた
日本はアメリカの仮想敵国 _ 米軍は日本が独立するのを阻止する為に日本に駐留している
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/528.html
アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。
アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」
日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。
三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。
こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm
日本はアメリカの仮想敵国 _ 米軍は日本が独立するのを阻止する為に日本に駐留している
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/528.html
平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html
米中は昔から常に利益を分け合い、手を携え前に進む仲間だった
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/527.html
(伊藤貫) 米中衝突は起こらない! アメリカが日本を守らない理由
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/524.html
西部邁ゼミナール 「『核』が日本を沈没から救う」 伊藤貫
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/523.html
西部邁ゼミナール 「アメリカ帝国大混乱」伊藤貫〔評論家ワシントンD.C.在住〕
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/520.html
西部邁ゼミナール 「アメリカニズムを如何にせん」 佐伯啓思×伊藤貫×西部邁
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/521.html
西部邁ゼミナール 「アメリカ文明は欠陥品である」 伊藤貫
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/522.html
天皇一族は何故 護憲派なのか
1946年11月3日に公布、47年5月3日に施行された日本国憲法の柱は天皇制の継続、民主化、交戦権の放棄だと言えるだろう。
敗戦後も維持するつもりだった支配システムとは天皇制官僚国家。官僚にとって天皇制の継続は大きな問題だっただろう。
しかし、日本の外では、当然のことながら、天皇に対して違った見方をしていた。
日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から
「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」
と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)が、侵略されたアジアの人びとだけでなく、イギリス、オーストラリア、ソ連なども天皇に批判的だった。
日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は事実上、アメリカ軍だったが、時間を経るに従って天皇に批判的な声が高まることは必然。
第2次世界大戦の前から日本の支配体制と強く結びついていたアメリカの支配層、つまり巨大資本としても天皇制官僚国家を維持したかったはずで、民主主義と平和主義の衣をまとった天皇制を定めた憲法を速やかに作り上げることになった。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607050000/
新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。
当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。
そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。
1937年12月に日本軍は南京を攻略している。
中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。
そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)
日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。
つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。
新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。
占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)
ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。
月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/
戦後日本の「安保」はこうして作られた 〜アメリカ・昭和天皇・吉田茂 「戦後レジームの正体」
「日米安保条約は、憲法と同じように、アメリカ側が強要ともいえるかたちで日本に求めた」
「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」
占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけた。
憲法は、GHQがいわば密室作業でつくり上げたのだが、日米安保条約が、アメリカの強要によるとはどういうことなのか。あらためて日米安保条約が結ばれる経緯をたどってみることにする。
■踏みにじられた正論
1950年、朝鮮戦争が勃発する直前に、国務省の顧問だったダレスが日本にやって来た。東西冷戦が激しくなり、アメリカは日本を西側陣営に取り込むために、講和条約と日米安保条約の取りまとめを急ぎ、その交渉のために訪日したのである。
ダレスは、当時首相だった吉田茂に「再軍備をせよ」と強く要求した。だが吉田はこの要求を頑として断った。
吉田茂〔photo〕gettyimages
「『経済もいまだ回復していないのに、再軍備をするのはおろかなことだ』というのが、吉田の主張であった。それに、日本が再軍備をすればアジア近隣諸国が日本軍国主義の復活を恐れるだろうし、だいたい、日本は憲法で軍備を持たないことになっているから、持てるはずがないと彼は付け加えた。そして、吉田は彼の主張を支える手を打っていた。彼はマッカーサーに対し、日本の再軍備は無理だという立場を前もって説明しておいた」
当時京都大学助教授だった高坂正堯は『宰相吉田茂』(中央公論社)の中で、こう書いている。
ダレスと吉田は、翌1951年1月末にも「再軍備」の話し合いを行った。
「ダレスは前年と同じ議論をくり返し、吉田もまた同じように反駁した」(前掲書)ということだ。つまり、アメリカ側が執拗に再軍備を要求するのを、吉田は懸命に拒んだということになるのだが、豊下楢彦(元関西学院大学教授)は、著書『安保条約の成立』(岩波新書)の中で、この構図を否定している。
ジョン・フォスター・ダレス。日米安保の"生みの親"〔photo〕gettyimages
ダレスは、吉田と会う前のスタッフ会議で、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である」と述べているというのである。つまり、日本の再軍備への約束を獲得することが最も重要な課題ではなかったというのである。
もっとも、吉田は、独立後もアメリカが占領時代と同じように日本に軍事基地を持つことに反対だったようだ。
1950年7月29日に、参議院で社会党の金子洋文の質問に対して、吉田は「私は軍事基地は貸したくないと考えております」「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と明言し、連合国の側も日本に軍事基地を「要求する気もなければ、成るべく日本を戦争に介入せしめたくないというのが、日本に平和憲法を据えるがいいと希望した連合国の希望だろうと思います」と答弁しているのである。
だが、被占領国である日本が、占領国のアメリカに対する「バーゲニング(交渉)」能力を持てるはずがなく、吉田首相の筋の通った「正論」は、いわば無残に踏みにじられてしまい、ダレスが述べた「我々(※筆者注 アメリカ)が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得してしまうのである。
■日本を無期限に縛る不平等条約
1951年9月8日のサンフランシスコ講和会議で日本が独立してまもなく刊行された「フォーリン・アフェアーズ」誌(1952年1月号)で、ダレスは講和会議の日の午後に調印された日米安保条約について、「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障する、いかなる条約上の義務も負っていない」と明言しているのだ。
そこで、豊下楢彦の前掲書を引用して、日米安保条約の核心を点検しなおしたい。
「まず、安保条約の第一条では、米軍の日本駐留は義務ではなく米側の『権利』と規定されている。したがって米側は、みずからの判断でいつでも『権利』放棄をして米軍を撤退させることができるのである。
さらにこの米軍は、『日本国の安全に寄与するために使用することができる』のであって、ダレスのいうように安全を保障する義務を負ってはいない。しかし、他方において同じ米軍は、日本の『内乱』に介入し『鎮圧』することができるのである。
より重要な問題は、これら在日米軍の“任務”を規定した条文の最初に、『極東条項』がおかれていることである。しかもそこでは、『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するためと述べられているだけで、米軍の“行動基準”はなんら示されていない。極東とはどの地域を意味するのか明示されていないし、国連との関係にもまったくふれられていない。
要するにこの規定は、米側が『極東』とみなす広大な地域における、日本を拠点とした米軍の『一方的行動』を“保障”したものにほかならないのである」
「第三条では、米軍の配備を規律する『条件』が行政協定で決定されることが謳われている。五二年二月に締結された行政協定では、基地を設置する地域を特定する規定(米比〔※筆者注 アメリカ・フィリピン〕基地協定にさえ明記されている)が欠落した『全土基地化』の権利が米側に保障されている。
さらに、基地外で公務中ではない米軍人の犯した犯罪についても、フィリピンにさえ与えられている裁判権が日本には付与されていない。要するに、米軍には『治外法権』が保障されているのである」
さらに第四条では有効期限も定めず、日本を「無期限」に縛る、占領下と変わらないひどい不平等条約である。
■すべては天皇を守るため
「バーゲニング」能力が全く持てない吉田首相の精いっぱいの抵抗は、講和会議に出席しないこと、「忌避」することであった。吉田は講和会議には「外交界の長老であり、前総理・衆議院議長であった幣原喜重郎」(吉田の発言)に全権を委任するという決意をダレスに示していた。ところが1951年3月10日に幣原が80歳で他界した。
そして4月に訪日したダレスとの会談では、吉田は、佐藤尚武参議院議長に全権を委任すると主張した。首相の自分は日本を離れられないというのが理由であった。
だが、吉田は講和会議を忌避しているのではなく、同じ日に調印することになっている不平等きわまる日米安保条約を忌避するつもりだったのである。
7月7日には会議の開催地がサンフランシスコと決まったが、吉田の「忌避」の姿勢は変わらなかった。
だが、ダレスを含めて米国側は、吉田首相以外の全権は全く想定していなかった。そして吉田首相の「日米安保条約」の「忌避」を認めなかった。結局、吉田首相は「忌避」を翻すのである。どういういきさつがあったのか。
豊下楢彦は、前掲書で「推測」を交えて、それまで誰も示していなかった大胆なストーリーを展開している。
「それでは、かたくなに『異常』なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであったろうか。それは、天皇への『拝謁』であった。(中略)一九日(※筆者注 1951年7月)の朝に天皇に『拝謁した後に』、吉田は日本の全権団を率いることに『同意』した」というのである。
そして豊下は次のように書いている。
「推測の域を出るものではないが、ダレスは吉田への圧力として“最後の切り札”を切ったのではなかろうか。ダレスは『然るべきチャネル』を通して、吉田への『御叱り』と『御下命』を天皇に要請したのではなかろうか」
徹底的に「固辞」する吉田首相に「全権」を引き受けさせるために、ダレスは昭和天皇を使ったというのである。
占領体制の延長のような安保条約を吉田首相が認めず、全権を「固辞」したのは、それこそ精いっぱいの正論であった。それを、なぜ昭和天皇は「叱り」、吉田首相を翻意させたのだろうか。昭和天皇は、占領体制の延長のような安保条約をどのように捉えていたのか。
豊下は、次のように説明している。
「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった(中略)昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』岩波書店)
占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけたのだというのである。
しかし、これは豊下が勝手に決めつけているのではなく、安保条約が調印されて10日を経た1951年9月18日に、マッカーサーに代わったリッジウェイ司令官との会談で、昭和天皇は講和条約を、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」だと高く評価して、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」「日米安全保障条約が成立し貴司令官の如き名将を得たるは我国の誠に幸とするところである」と、安保条約の成立を絶賛している。
繰り返し記すが、昭和天皇にとっては、天皇制を内外の共産主義から守ることが第一義で、そのためには米軍駐留の確保が絶対条件だったわけだ。
こうして、占領体制の継続ともいえる日米安保条約は、交渉の最高責任者である吉田首相が固辞するのを、ダレスと天皇の圧力によって翻意させ、締結にいたったのである。
http://www.asyura2.com/16/senkyo203/msg/767.html
21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。
ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html
ホイットニー文書 昭和天皇の日本国民に対する見解全文
http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/430.html
http://www.asyura2.com/16/senkyo210/msg/302.html
ホイットニー文書に昭和天皇の日本国民に対する見解が記されていることは、ご存知の方が多いだろう。
■ホイットニー文書は、1946年(昭和21年)10月16日(日本時間)、第3回天皇とマッカーサーの会談で天皇の通訳を務めた寺崎英成による英文の会議録である。したがって、英訳された天皇の言葉が大半を占めるわけだが、その中には、マッカーサー元帥の極めて重要な言葉が含まれていたのだ。
【原文抜粋】
I said that we Americans believed that Allied objectives for Japan were in the best interests of the Japanese as well as the world at large and we looked forward to the development of a democratic and economically sound Japan which would respect the rights of other nations and become a cooperative member of the Commonwealth of Nations.
自分たちアメリカ人は、日本について連合軍の目的が、世界全体についてと同様、日本の最善の利益にあると考えており、日本が他国の権利を尊重しイギリス連邦の協力的な一員となり、民主的でかつ経済的に健全な国へと発展することを楽しみにしていると、マッカーサー元帥は話した。
文末の"Commonwealth of Nations"が、「イギリス連邦」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E9%80%A3%E9%82%A6
■wikipedia『昭和天皇』-[マッカーサーへの占領長期化の嘆願とその理由]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E3.83.9E.E3.83.83.E3.82.AB.E3.83.BC.E3.82.B5.E3.83.BC.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.8D.A0.E9.A0.98.E9.95.B7.E6.9C.9F.E5.8C.96.E3.81.AE.E5.98.86.E9.A1.98.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E7.90.86.E7.94.B1
【和訳全文】
2週間前の手紙で占領はあまり短くならないよう期待していると述べたことの根拠を説明したい。日本人の心にはまだ封建制度の名残が多々あり、それを根絶するには長い時間がかかるだろうと感じていた。日本人は全体として、民主主義のために必要な教育に欠け、また真の宗教心にも欠け、そのため極端から極端へと走りやすい。日本人の封建的特徴の一つは、人につき従うことを喜ぶ心。また日本人はアメリカ人のように自分の力で考えることを訓練されていない。徳川幕府は、民は彼らの領主に従うべきであり、忠誠心以外のいかなる道理も与えられるべきではないという論理の上に築かれていた。だから平均的な日本人は、自分で考えようとすると、因襲的な障害に直面してしまう。
やみくもにつき従う本能でもって日本人は今、アメリカの考え方を受け容れようと熱心に努力をしてはいるものの、労働者の状況が明かす日本人は身勝手で権利ばかりに意識を集中し、務めや義務についてを考えてはいない。この動機の部分は、日本人の思考と態度における長年の氏族的習慣に由来する。日本人が藩に分かれていた時代は、実際には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚を利益を希求する仲間とみなし、他人は利益を考慮してあげるに値しない敵と考えている。
日本人の間で宗教心が欠如していることについて、最近たくさん話した。天皇自身、神道を宗教と考えてはいない。神道は単なる儀式なのに、アメリカでは過大評価していると思っている。しかし、ほとんどの神道信者は大変保守的であり、彼らと神道家そして超国家主義を神道と同一視していた復員兵は、団結する傾向があり、まだいくらか危険な側面がある。信教の自由という憲法の下で現在、政府が彼らを取り締まる手段を持っていない状況が危険だ。神道分子とその同調者は反米であるため、注意が必要と考えている。
日本人のいかなる美徳についても話している場合ではなく、日本人の欠点を熟慮すべきと、天皇は感じていた。日本人の短所のいくつかは、「占領は長期化すべきという結論」に天皇を導いた、前述の考え方全般に示されている。
天皇は、マッカーサー元帥とその行いに大変感銘を受けている。マッカーサー元帥は、自分がアメリカと連合軍の両方の利益のために尽力する最もりっぱなアメリカ人の1人であり、天皇も知っているとおり、日本人の利益のために心から最善を尽していると話した。自分たちアメリカ人は、日本について連合軍の目的が、世界全体についてと同様、日本の最善の利益にあると考えており、日本が他国の権利を尊重しイギリス連邦の協力的な一員となり、民主的でかつ経済的に健全な国へと発展することを楽しみにしていると、マッカーサー元帥は話した。
賠償金に関する問合せへの回答について、マッカーサー元帥は、この問題をできるだけ早く解決するためには、日本の実業家たちが仕事に取り掛かり、そして食料の輸入や国内消費に必要な商品の生産ができるようにと、非常に焦っている。マッカーサー元帥とその部下は、日本における経済の安定を早めるためにできる、ありとあらゆることをこなしていた。そしてマッカーサー元帥は、産業とその振興の妨げになる日本人の倹約体質、また経済状況改善のための最善の努力を喚起する必要について、いくらかの意見をつけ加えた。
天皇は、対日理事会におけるアメリカの態度に非常に感謝し、そしてそれは安定効果があると感じている。しかし天皇は今、この国の労働状況に甚だ憂慮している。そして、アメリカの炭鉱ストライキが速やかに解決することを望んでいる。なぜなら、日本人労働者たちの摸倣する志向性に障り、義務などお構いなしに、アメリカの労働ストライキに影響されるからだ。
天皇は、彼の治世に付せられた名「昭和、平和を啓発する」が今は皮肉に見えているが、その元号を維持することを望んでいると何度も言った。そして、誠に「壮大な平和」の治世になることを保証するために、十分に長生きすることを希望している。
天皇は、鈴木貫太郎海軍大将の損失に、心を痛めている。降伏の準備をする内閣を率いるよう任命したのに、海軍の恩給だけならまだしも、文官としての恩給まで失ったのだ。彼は、長年天皇の大侍従長を務め、降伏の準備を整える任務を成し遂げたが、陸軍大将の軍位と首相としての戦時中の地位は当然ながら追われることとなった。彼の皇室での勤めに由来する恩給の受け取りは止められていない。天皇は、そうした剥奪が鈴木陸軍大将個人にとどまらず、日本人国民にも理解されずに、占領や日本自身のためにもならない反米感情を生み出しているため、不安を募らせている。
【出典】
●憂慮するアジア研究者紀要―Full Text of the Top-Secret "Emperor's Message"
http://criticalasianstudies.org/assets/files/bcas/v31n04.pdf p.22-23
●ホーリーネームズ大学―The Text of the Memorandum
http://www.jpri.org/publications/workingpapers/wp61.html
カトリック教徒になろうとした昭和天皇
昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、
本書を読んで驚いたのは戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。
1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。
これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。
つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。
これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html
東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?
天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。
天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね:
革命に恐れおののいていた天皇家の人々
梨本宮伊都子妃の日記
梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。
伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。
『昭和33年7月14日。
きみ、きっと、これが僕の運命だね。
明仁皇太子』
どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。
『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。
「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』
(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを
昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。
しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。
『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。
長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html
戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止―蒋介石が早期決定・中国
時事通信 8月2日(日)15時29分配信
日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。
蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。
時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。
国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。
これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。
蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。
最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。
蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。
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昭和天皇は太平洋戦争中から戦況を逐一把握しており
欧州でのフランス革命やロシャ革命での国王がどのように追放され処刑されたか
太平洋戦争後の日本で共産主義・社会主義政権が成立すれば天皇の地位はどうなるか
あらゆる情報を掴み的確に情勢判断が出来る立場にあった昭和天皇
国体護持に拘り条件付き降伏で敗戦の時機を失した責任は重大であると思う
昭和天皇は太平洋戦争敗戦にいたる責任追及が当然天皇に及ぶことを危惧し
戦後の日本社会で共産主義社会主義政権樹立を阻止する為に沖縄を提供することを含め進駐軍のマッカーサー元帥を再三訪問して米軍の日本駐留を熱望していたのである
ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。
ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/
よく知られていることだが、昭和天皇は、1947年9月、沖縄と琉球列島の 50年以上にわたる「米国支配=米軍占領」を依頼するメッセージを、寺崎英明(天皇御用掛)やシーボルト(占領軍政治顧問)を通じて、ワシントンのマッカーサー宛に送っている。これは、米国国立公文書館の資料から明らかだ。
いろいろ理由はあったにせよ、この「天皇メッセージ」は、天皇による「沖縄切り捨て」=「琉球処分」であった。
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米、在沖海兵隊撤退を検討 復帰直後 機密文書明記 日本が残留望む
琉球新報 11月6日(金)5時5分配信
1973〜76年に米政府がテニアンに米軍基地を整備することを検討していた計画案の文書
米国家安全保障会議(NSC)が1973〜76年に、72年の沖縄復帰を契機とした政治的圧力で在沖米海兵隊を撤退する事態を想定し、海兵遠征軍をテニアンに移転する案を検討していたことが、機密指定を解除された米公文書などで分かった。
遠征軍は米本国以外で唯一沖縄に拠点を置く海兵隊の最大編成単位。米海兵隊は普天間飛行場などを運用しているが、当時米側はその「本体」である海兵遠征軍ごと沖縄から撤退し、テニアンに移転することを想定していた。文書はテニアンに滑走路や港湾などを備えた複合基地を整備する必要性に触れ、同基地は
「返還に向けて沖縄の戦略部隊や活動を移転できる」
とした上で、対応可能な部隊として「最大で遠征軍規模の海兵隊」と挙げている。日米両政府が沖縄を海兵隊の駐留拠点にする理由として説明する「地理的優位性」の根拠が一層乏しくなった形だ。
米軍統合参謀本部史によると、73年に在韓米陸軍と在沖米海兵隊を撤退させる案が米政府で検討され、国務省が支持していた。同文書もテニアンの基地建設に言及しているが、計画は74年に大幅縮小された。理由の一つに「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」と記し、日本側が海兵隊を引き留めたこともあらためて明らかになった。
文書は野添文彬・沖国大講師が米ミシガン州のフォード大統領図書館で入手した。野添氏は統合参謀本部史でも詳細を確認した。
フォード図書館所蔵の文書はNSCが73〜76年に作成した「ミクロネシア研究」つづりに含まれている。海外の基地は「受け入れ国からの政治的圧力に対して脆弱(ぜいじゃく)だ」と分析し、米領内での基地運用を増やす利点に触れている。
一方、米軍統合参謀本部史(73〜76年)は、ニクソン政権が73年2月の通達に基づき太平洋の兵力を再検討、在沖海兵隊と在韓米陸軍の撤退を含む4案を議論したと記している。
国務省は77〜78年度にかけ最大の削減案を支持、軍部は最少の削減を主張した。73年8月、大統領は「現状維持」を選んだ。統合参謀本部史は「沖縄返還で当初予想された部隊移転を強いられることにはならなかった」と振り返っている。(島袋良太)
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総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡
主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解
国務長官殿 在ワシントン
拝啓
天皇の顧問、寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。
米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。
敬具
合衆国対日政治顧問 代表部顧問 W.J.シーボルト
東京 1947年9月22日
http://ameblo.jp/junzom/entry-12009830436.html
沖縄の米軍基地 ─「県外移設」を考える (集英社新書) – 2015/6/17
高橋 哲哉 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0-%E2%94%80%E3%80%8C%E7%9C%8C%E5%A4%96%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%93%B2%E5%93%89/dp/4087207900
―本書でもうひとつ、非常に重要な意味を持つのが「天皇メッセージ」に関する部分です。
敗戦直後の1947年、昭和天皇がアメリカに対して沖縄の軍事占領を希望するというメッセージを送っていたものですね。
高橋 当時はすでに今の日本国憲法が施行されていますから、本来ならば天皇は政治的な権能を持っていませんでした。それにもかかわらず、昭和天皇は占領軍に対して、当時の吉田政権の頭越しに自らのメッセージを発しています。その内容は
「日本国天皇は沖縄に対する米国の軍事占領が25年ないし50年あるいはそれ以上にわたって続くことを希望する。それが日本の防衛に役立ち、かつアメリカの利益になるだろう」
というものです。
この極秘文書は1979年に筑波大学の進藤榮一さんが発見したのですが、いまだにその存在があまり広くは知られてないと思います。日本のメディアがこれを大々的に報道するのを自粛しているように感じます。
実際に、日本政府はその後の主権回復と引き換えに沖縄を米軍支配下に譲り渡し、本土復帰を経ても、米軍が沖縄を占領しているような状態が今も続いている。あたかも日本政府は、70年近く前に昭和天皇が希望したように振る舞い、戦後の歴史が展開してきているわけです。
http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/113.html
天皇という力の正体とは?(10)〜米軍基地駐屯は天皇とロックフェラー財団理事長によって決定された〜
敗戦後の米軍基地駐屯は実は昭和天皇とロックフェラー財団理事長によって決定されたということです。
その後一環してロックフェラーが日本政府を支配してきたバックボーンに天皇の存在があったことがわかります。彼が来日の際には天皇に接見するのも、そうした歴史的な背景があったことが分かります。
天皇財閥―皇室による経済支配の構造 – 2011/2 吉田 祐二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%B2%A1%E9%96%A5%E2%80%95%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E5%90%89%E7%94%B0-%E7%A5%90%E4%BA%8C/dp/4054048773
から紹介します。
昭和天皇は終戦後も日本を代表していた。このことは、憲法を解釈しただけでは理解ができない。日本国憲法の上では天皇は「象徴」であり、実質的な権力は削ぎ落とされたと考えられたからである。しかし、先述したように、実際には、天皇は権力を行使していたのである。
但し、天皇は、憲法上の地位が変わったあとは、「民間人」として外交に携わったのである。「民間」とは、日本政府の外交を担当する外務省などの官庁ではなく、「private」であるということである。プライヴェートの立場から、天皇は外交及び国政に影響を与え続けたのである。
そのことは、カウンターパートであったアメリカ側がそうであったことをみても分かる。
豊下氏が
昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) 豊下楢彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%BC%9A%E8%A6%8B-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%B1%8A%E4%B8%8B-%E6%A5%A2%E5%BD%A6-ebook/dp/B0183IMPJE
のなかで書いているように、天皇とダレスの会見を取り持ったのは、『ニューズウィーク』誌の外信部長ハリー・カーンと、東京支局長パケナムという人物である。彼らは純然たる「民間人」である。ではなぜ、彼らが天皇とアメリカの交換であるダレスの間を取り持つことができたのだろうか。
戦後、天皇が「民間人」として外交交渉にあたっていたとは、驚きです。
そのことに切り込んだのが、ジャーナリストであるジョン・G・ロバーツとグレン・ディビスが書いた
軍隊なき占領―戦後日本を操った謎の男 (講談社プラスアルファ文庫) 2003/3
ジョン・G. ロバーツ (著), グレン デイビス (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E3%81%AA%E3%81%8D%E5%8D%A0%E9%A0%98%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%93%8D%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%AC%8E%E3%81%AE%E7%94%B7-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBG-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%84/dp/4062567199
という本である。ロバーツらは、パケナムとハリー・カーンは「AGJ」と略称される「アメリカ対日協議会(American Council on Japan)」というロビー団体のメンバーであったことを明らかにしている。
ロビー団体とは、民間である企業から資金援助を受けて、Client(顧客)である企業の利益になるように政治的な働きかけを行う団体のことである。
敗戦後の日本には、工業力を残した「財閥」たちがいた。彼らを今のうちに取り込み、アメリカの企業の役立つようにすることが彼らの目的であった。アメリカ企業の代理人として、アメリカ対日協議会の重要メンバーとしてジェームズ・リー・カウフマンがいる。
カウフマンは戦前に日本で法律事務所の共同経営者(パートナー)を務め、日本にあったゼネラル・エレクトリック社、スタンダード・オイル社、ディロン・リード社などのアメリカ大企業の日本における総代理人の立場として活動した。
政治、外交の世界は、民間企業の駆け引きの場で、それは戦後一貫して同じということだと思います。
マッカーサーら占領軍は当初、日本を本当に「民主化」しようとしていた。
つまり財閥による寡頭政治から、財閥を解体させて新に民主的な政府を創ろうとしていたのである。
しかし、右のようなアメリカの「財界」からの圧力により、また折からの朝鮮戦争により、アメリカは日本の民主化よりも、戦前からの財閥を復活させる道を選ぶ。これを「逆コース」という。
アメリカのビジネス団体ロビーであるAGJが、日本の財閥とアメリカの財閥を結び付けようとしていた。その意味で、天皇とダレスの会見は象徴的なものであった。
ダレスは来日時にはアメリカ国務省顧問の肩書きであったが、本当は「民間」の、ロックフェラー財団理事長として、アメリカ財界代表として、来日していたのである。
ダレスはこの後、1952年よりアイゼンハワー政権で国務長官を務める。「民間」である財界の実力者が、時と場合に応じて政府代表となることがあるのであって、その逆ではない。「民間」の方が力を持っているのである。
ロックフェラー財団が中心となって、日本の政治世界を意のままに操ってきたわけですね。まさか、天皇をバックにしていたとは・・・
そして、財閥復活によって日本は
日本の敗戦処理で最も重要な、米軍の基地駐屯が、憲法上権限のない天皇と、民間の財界代表であるダレスの間で決定されているのである。その後で開かれたサンフランシスコでの会議はセレモニーに過ぎない。本当の決定は、既に日本を代表する「財閥」のトップで行われていたのである。
敗戦で廃墟となった日本に対し、アメリカは再び工業化させるという「逆コース」政策を選択した。それによって、日本には財閥が復活することになる。しかし、それは戦前の形態とは少し異なっていたのである。
米軍駐屯が天皇によって決められたとは、ちょっとショックですね。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/04/4107.html
【戦後70年】日米安保『原型』芦田メモ 「米本国要人へ伝達」の証言記録 定説覆す可能性
2015.7.19 05:00 産経新聞
戦力を保持しない日本の安全保障は駐留米軍に委ねるべきだと戦後の日本政府が最初に打ち出したのが、占領期の昭和22年9月、芦田均外相下の外務省で作成された「芦田メモ」だ。日米安全保障体制の「原型」と評価されながら、メモは米国政府に届けられなかったという説が有力だったが、占領軍ナンバー2のロバート・アイケルバーガー米陸軍中将を通じ、対日占領政策決定機関の極東委員会トップら米本国の要人に伝達されていたという証言が、メモを中将に手渡した終戦連絡横浜事務局長、鈴木九萬(ただかつ)氏の日記に記録されていた。(渡辺浩生)
芦田メモは、占領軍でマッカーサー元帥に次ぐ地位にあった米第8軍(本拠・横浜)司令官のアイケルバーガー中将が、鈴木氏に占領軍撤退後の日本の防衛について見解を求めたのをきっかけに、外務省幹部が作成。芦田外相が決裁した。
米ソ関係が改善されない場合、再独立後の日本の安全保障は2国間の特別協定により米国に委ね、日本の独立が脅威にさらされた際には、米軍に国内の基地を提供するのが「最良の手段」と位置づけた。
22年9月、一時帰国する中将に対し、鈴木氏から私信として手渡されたが、メモが米本国でどのように活用されたかは、従来の公開資料でも不明で、研究者の間では「(中将は)自らの参考にするだけにとどめ、アメリカ政府の要人には見せなかったようである」(坂元一哉氏「日米同盟の絆−安保条約と相互性の模索」)という見方が定説となっていた。
遺族や親族の元に保管されていた鈴木氏の日記(大学ノートに英文で記載)には、翌23年7月下旬、中将と面会した際、前年9月に手渡した芦田メモに対する米国内の反応を尋ねた会話が記録されていた。
中将は、「自分は日本の将来の安全保障を扱ったその文書を大いに活用した」とし、「大勢の著名人が読んだ。例えば極東委員会委員長の(フランク・)マッコイ少将だ」と答えた。
極東委員会は占領政策の最高政策決定機関としてワシントンに置かれ、米英中ソのほか仏豪蘭比印など11カ国で構成され、マッコイ氏は委員長と米国代表を兼務していた。
実際、すでに公開されているアイケルバーガー中将の日記によると、中将は一時帰国中の22年10月にワシントンでマッコイ氏と会見。アイゼンハワー参謀総長やロイヤル陸軍長官ら陸軍首脳、グルー元駐日大使とも面会していた。こうした要人らにメモが閲覧されていた可能性が出てきた。
講和後の安保問題の検討は吉田茂政権に引き継がれ、25年、日本国内の基地を米軍に提供する意向が米側に正式に示され、26年1月の講和交渉と同9月の日米安全保障条約締結に至ったが、吉田氏は自著で芦田メモを「日米安全保障体制の基本をなす考え方と全く同一のものであった」(「回想十年」第3巻)と評価していた。
◇
■昭和天皇にメモ報告
日米安全保障条約の「原型」とされ、占領軍ナンバー2のアイケルバーガー中将を通じて昭和22年秋、極東委員会トップら米本国の要人に伝達されていたことが明らかになった「芦田メモ」。パイプ役を務めた終戦連絡横浜事務局長、鈴木九萬氏の日記によると、昭和天皇もメモの行方について報告を受けていた。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が日本の「非武装中立」を提唱する中、再独立後の日本の安全保障に天皇が寄せられた深い憂慮を改めて裏付けている。
昭和22年3月、マッカーサー元帥は早期講和を提唱し、憲法9条で戦力の保持を禁じられた日本の再独立後の安全保障は、国連に委ねるべきだとの考えを表明した。元帥の構想は米ソの協調維持を念頭に置いたものだった。
外務省は水面下で対応策の検討に着手。9月に芦田均外相の決裁で作成された芦田メモは連合国軍総司令部(GHQ)を介さず、鈴木氏を通じて一時帰国するアイケルバーガー中将に私信として託す手法がとられたが、米ソ関係悪化を予測して、駐留米軍による防衛という選択肢を日本自ら示す初めての文書となった。
■講和後の安保体制にご関心
この時期、昭和天皇の最大のご関心も、講和後の日本の安保体制の行方にあった。22年5月のマッカーサー元帥との会見で、「日本ノ安全保障ヲ図ル為ニハ、アングロサクソンノ代表者デアル米国ガ其ノイニシアチブヲ執ルコトヲ要スルノデアリマシテ、此ノ為元帥ノ御支援ヲ期待シテ居リマス」と懇願された(児島襄「日本占領第3巻」)。
「芦田メモ」が作成された同じ同年9月には、寺崎英成・御用掛(天皇の通訳)がGHQのシーボルト外交局長を訪ね、天皇の「沖縄メッセージ」を伝えている。「米国が沖縄および他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益になり、日本を保護することになるとの考え」を示したもので、同局長から米国務省にも報告された(「昭和天皇実録」)。日本の安全保障を確保する手段として沖縄への米軍の長期駐留の意向を天皇自ら示されたものとされている。
天皇は翌23年7月には、離任・帰国するアイケルバーガー夫妻を、戦後初の外国人の賓客として皇居での午餐(ごさん)に招待された。
■中将は日本の治安維持に危機感
一時はマッカーサー元帥の後任に目されたアイケルバーガー中将は、共産主義勢力に対する日本の治安維持能力に危機感を抱き、元帥の安保構想にも批判的だった。中将に「敬意を表し最善を尽くした」(鈴木氏)天皇のもてなしは、帰国後の協力を期待された“宮廷外交”ともいえる。
鈴木日記によれば、7月19日の午餐での天皇のお言葉は、戦前に御用掛として天皇に仕えた鈴木氏の助言で起草され、「思いやりと理解ある占領政策の指揮」への感謝と、「帰国後も日本の将来に関心を持ち続けてほしい」という要望を伝えられた、という。
鈴木氏はその5日後の24日、葉山御用邸を訪れ、約20分間拝謁。「陛下のご希望をかなえるよう最善を尽くすことを約束する」という中将のメッセージを伝えるとともに、「私が書いた昨年9月の機密文書と今用意している新しい機密文書についてご報告申し上げた」とある。
「昨年9月の機密文書」とは、鈴木氏が22年9月に中将に託した芦田メモを指す。鈴木氏はこの拝謁の3日前に中将から、「メモが極東委員会委員長のマッコイら米本国要人に読まれていた」という証言を聞き出していたので、おそらく天皇に報告したであろう。
「新しい機密文書」とは、中将の要望により鈴木氏が新たに作成したメモで、米ソ関係の悪化により、芦田メモで示したシナリオ通りに事態は向かっている−と分析。離日前の中将に手渡された。
「米国民が戦後の日本に対して一層理解を深めるよう中将の取り計らいを希望する」。天皇が鈴木氏に託したお言葉である。天皇は芦田メモの成り行きを通じて、安保構想をめぐる最新の検討状況を把握されていたといえる。
中将は帰国後、陸軍省顧問に就任。「反共のとりで」の日本は米国の安全保障と不可分だとして再武装などを意見具申し続けた。
◇
■現代史家・秦郁彦氏の談話「曲折たどり日米安保条約に」
昭和天皇はマッカーサー元帥との間で対等に近いトップ会談を続けた。一番重要な問題は日本の安全保障だったが、元帥は最初は国際連合に依存すれば大丈夫だと考えた。米ソ冷戦が厳しくなっても、憲法第9条を事実上作ったのは自分だから、再武装にも終始消極的。だから、天皇には元帥との信頼関係を保持しながらも、米国側の中にチャンネルを複数持ちたい、という戦略があったと思う。
そのひとつにアイケルバーガー中将が選ばれたのではないか。午餐も、儀礼的な要素をひっくるめて、天皇が大切に思っていますよという意思表示ができれば十分だったと思う。
沖縄を再開発し空から日本を守ってもらうという発想も、米本国にアピールするのが一番良いと、寺崎英成・御用掛を使って国務省の出先であるシーボルトGHQ外交局長に届けさせた。天皇の頭の中では、この「沖縄メッセージ」と「芦田メモ」はセットだった。外務省の正規ルート以外にいくつかのルートを設定し全体をみながら調整することを、自らおやりになったのだと思う。
芦田メモの存在は随分前から知られていたが、それが米国内でどういう形で議論され、回覧されたかはずっと不明だった。その点は今回裏がとれた。米国では『日本は東洋のスイスたれ』という元帥と本国との間に意見の乖離(かいり)があったが、客観的に見てメモが示した選択肢以外方法はなく、紆余(うよ)曲折をたどりながら日米安全保障条約につながっていく。
◇
芦田メモ 芦田均外相(片山哲内閣)下の外務省幹部が昭和22年9月13日付で作成。米ソ関係が良好となった場合、日本の安全は国連が担うとし、米ソ関係が改善されない場合(1)平和条約の実行監視に関連して日本国内に駐留する米軍が安全保障機能を担う(2)日米間で特別協定を結び、平時は沖縄や小笠原諸島を念頭に日本本土の周辺に展開する米軍の抑止力に期待して、独立が脅威にさらされる有事には米軍が日本国内に進駐して軍事基地を使用できるよう取り決める−との選択肢を提示。(2)が日本の安全保障の「最良の手段」とした。
鈴木九萬 明治28年茨城県生まれ。東大法学部卒。大正10年外務省入省。昭和12年宮内省御用掛(昭和天皇の通訳)。15年駐エジプト公使。日米開戦で9カ月の抑留生活を送り、17年交換船で帰国。20〜27年終戦連絡横浜事務局長。第8軍司令官、アイケルバーガー中将との間で築いた緊密な関係は、GHQを介さない対米チャンネルとして活用された。駐豪大使、駐伊大使を歴任し36年退官。62年死去。
ロバート・アイケルバーガー(1886〜1961年) 1942(昭和17)年以降、米陸軍第1軍団司令官、第8軍司令官としてニューギニアなど南西太平洋諸島、フィリピンでの対日戦を指揮。45年8月横浜に進駐し、本土の各地に展開した占領軍を指揮した。48年離任。49〜50年ヴォルヒーズ陸軍次官の対日顧問。54年大将に昇任。
http://www.sankei.com/life/news/150719/lif1507190017-n1.html
昭和天皇は戦争を選んだ! 2015/6/15 増田都子 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%EF%BC%81-%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%83%BD%E5%AD%90/dp/4907127146
目次
はじめに
1 育鵬社教科書、発行の経緯
2 育鵬社歴史教科書の昭和天皇記述を見てみよう
第一部 満州事変・日中戦争と天皇
第1章 満州事変と天皇
1 大日本帝国は不戦条約を最初に破った国となった
2 天皇は、皇軍の独断越境を許した
3 天皇は、謀略と知りながら、満州侵略軍におほめの勅語を与えた
第2章 日中戦争と天皇
1 五・一五事件と二・二六事件に対する天皇の態度の違いは?
2 天皇は、日中戦争拡大派だった
3 天皇の直接統帥命令である軍令で、大本営が設置された
4 「天皇は国策決定の御前会議では発言しない」というカラクリ
5 天皇は、板垣陸軍大臣に「朕の命令なく一兵も動かすな」と命令した
第ニ部 太平洋戦争と天皇
第1章 開戦決定と天皇
1 天皇が言う「八紘一宇の真精神」とは?
2 天皇の「八紘一宇の真精神」と「平和主義」
3 天皇の裁可により、日本軍は対米戦へのルビコン川を渡った
4 天皇は、対米戦に直結する南進作戦計画作成を命じた
5 天皇は、火事場泥棒を裁可した
5 天皇は、まだ対英米戦の決意はできなかった
6 天皇は平和主義者だったから、明治天皇御製を読み上げたのか
7 天皇は、対米戦を避け得る道を拒否した
8 大日本帝国憲法は立憲君主制か
9 「白紙還元の御諚」は、天皇の平和主義を証明するか
10 天皇は、対英米開戦の「要領」を納得して裁可していた
11 念には念を入れた天皇の「聖断」で開戦が決定された
12 天皇は、九月六日の御前会議で示した態度の理由を語っていた
13 天皇は、「自分の考えと異なる」ことのない開戦実行に満足していた
14 敗戦後の天皇の「開戦時」に関する発言を確認しよう
第2章 開戦後の天皇
1 天皇は、緒戦の勝利に舞い上がった
2 軍は国民も天皇も、欺していたか
3 天皇は、焦って軍に決戦を要求した
4 支配層の一部は一九四四年から「終戦」を考えたが、天皇は考えなかった
5 天皇は、近衛の早期降伏論も拒否した
6 天皇は、東京大空襲を受けても降伏を考えなかった
7 天皇は、一九四五年五月ころから、やっと終戦を考えるようになった
8 近衛の和平交渉条件には何が書いてあったか
第3章 敗戦と天皇
1 天皇は、原爆が投下されても降伏を考えなかった
2 天皇は、国民を救うために「降伏」を決意したのか
3 天皇は、八月十五日から「朕の一身は如何あろうとも、国民が戦火に斃れるのを見るのは忍びない」か
ら終戦にしたと大宣伝した
4 天皇は、「鬼畜米英」のマッカーサーに、協力を申し出た
5 天皇は、真珠湾奇襲の責任を東条に押し付けた
6 天皇は、マッカーサーとの第一回会見時、「全責任を負う」と発言したか
7 天皇は、食糧等の「配給量を一般国民と同じにし、粗末な食事をとっていた」か
第三部 日本国憲法制定後の天皇
第1章 天皇と日本国憲法
2 天皇の戦争責任免罪のため、日本政府は嘘で固めて敗戦後を出発した
3 天皇は共産党が嫌いだが、右翼は気に入っていた
4 天皇バンザイ教カルト信者は、平然と真っ赤な嘘を公表した
5 天皇は、アメリカの占領統治に役立つ協力者として免罪された
6 憲法第一条と第九条は天皇制を守るためのワンセット
7 昭和天皇は、いやいや、日本国憲法を受け入れた
8 昭和天皇は、戦争責任を認めず、退位を拒否した
9 東京裁判は、天皇免罪が大きなテーマだった
第2章 日本国憲法下の天皇と沖縄・安保条約
1 天皇は、ストを行う国民を憎悪した
2 天皇は、日本国憲法施行と同時に憲法を蹂躙する政治干渉を開始した
3 天皇は、沖縄を売った
4 天皇は、マッカーサーの袖にすがって退位を免れた
5 天皇は、側近だった木戸の退位進言を拒否した
6 天皇は、政府の頭越しに日本国の主権も売り渡した
7 天皇は、主権を売り渡した安保条約成立を慶賀した
8 宮内庁(天皇)は、『風流夢譚』事件のテロを助長した
9 天皇は、ずっと日本国憲法ではなく、大日本帝国憲法を守っていた!?
10 天皇は、自分の戦争責任を暴露する高松宮に激怒した
11 天皇は、初訪米で謝罪したかのような発言をしたが、日本国内向けは違っていた
12 『裸の王様』の死後も、明仁天皇と政府は虚飾の衣装を賛美し続ける
おわりに
1 敗戦後五〇年、昭和天皇死去から六年後、初めて日本政府は「侵略と植民地支配の過去」を認めたが…
2 敗戦後七〇年、歴史の歯車を逆回転させる、戦争する憲法を作っていいか
2017-03-18
戦争は起きるし平和は実現しないという圧倒的な現実がある
2017年3月17日、ドイツのアンゲラ・メルケル首相がアメリカのトランプ大統領と対談している。
その中で、メルケル首相が「難民の受け入れは正しい解決策」と言ったのをトランプ大統領は完全に無視し、握手を促されても応じなかったという場面があった。
選挙期間中、トランプ大統領はドイツの移民・難民政策を「惨劇」と呼んで切り捨てていたのだが、メルケル首相が行ってきた実質的な「多文化主義」をトランプ大統領が非常に嫌っているのが鮮明になった場面だった。
すでに「多文化主義など、単なる理想論だ」という声が圧倒的になっており、メルケルの路線はドイツ国内でも疑問視されている。ドイツだけではない。オランダでもフランスでも疑問視されている。
多文化主義が成り立つのは、自分たちの生活がきちんと守られているという前提が必要だが、EU(欧州連合)はその前提を保証しなかった。
すでに完成されている文化の中に、移民という異質を無理やり押し込めて、「さあ、融和しろ」と投げ出してうまくいくと誰かが思ったのだ。しかし、実際にそうしたらうまくいかなかった。
その結果、人々はやっと「理想」と「現実」の違いを認識するようになった。現実は、理想を圧倒するのである。
社会には「理想」と「現実」というものがある
社会には「理想」と「現実」というものがある。
人間社会の営みは決して「理想」で動かない。黒いものを白と言って目をつぶる部分もあれば、昔からそうだというだけで非効率なものを続けている部分もある。
何事も白黒と決着を付けないで、曖昧な状態のまま運用して、やっと何とかなっている部分もある。それが「現実」なのだ。
理想主義者になってもいいが、理想主義者は常に現実の前に破滅する。理想は現実社会の前で実現されることはないからだ。天国はない。天国は作れないし、天国は一度も存在したこともない。
理想と言えば、ドイツと共に移民を大量に受け入れたフランスも「自由・平等・博愛」という精神がある。しかし、これは単なる理想であり、現実社会には自由も平等も博愛もない。
現実的になるとは、どういう考え方をすることを指すのか。
「自由・平等・博愛」が単なる理想論であるのであれば、これをひっくり返すと現実的な考え方になるというのは、ご存知だろうか。つまり、現実的になるというのは、こういうことなのである。
「世の中は、自由ではないと認識する」
「世の中は、平等ではないと認識する」
「世の中は、博愛ではないと認識する」
「自由・平等・博愛」をひっくり返したものが現実であると考えれば、現実主義者になれる。現実が何かを知りたければ、どうすればいいのかがここにある。「理想」が実現できないと認識するのが、世の中を知るということなのだ。
存在しないものを説くから宗教家は存在できる
宗教家が「人類愛」を説いているのであれば、「世の中は、人類愛はないと認識する」ことによって現実主義になれる。たしかに誰も争いは望んでいないが、実際にはそれぞれの立場があって、利害が衝突し、人々は激しく対立する。
人類愛は理想だが、現実ではない。だから、宗教家はそれを説き、現実主義者はそれが存在しないことを悟る。存在しないものを説くから宗教家は存在できるのである。
政治家が「平和」を説いているのであれば、「世の中は、平和はないと認識する」ことが重要なのだ。平和はたしかに重要なものだが、実際には人間の社会は憎悪と戦争にまみれていて、今でもそれが続いている。
理想は現実化しないから、いつまで経っても政治家という職業はなくならないのだ。
日本人だけが「世の中は平和だ」と思っても、現実はまったくそうではない。日本人もまた反日国家である中国・韓国に憎悪され、敵視されているのは言うまでもない。
このような現実に対応するためには、現実主義者でなければならないのは当然のことだ。
そうでなければ世の中から乖離してしまう。現状認識をするためには、現実主義者になるしかないのである。
「中国・韓国とは仲良くなれる」という理想や、「戦争は起きない」という理想や、「平和は実現する」という理想が先にあると、現実に裏切られて、現状が受け入れられなくなる。
理想はどこかの馬鹿な大学教授の頭の中にだけに存在すればいいのであって、それを現実社会に持ってくるから世の中の捉え方がおかしくなってしまう。
私たちは、早く現実に目覚める必要がある。
理想を逆さまにして、現実感を取り戻せ
日本がおかしくなっているのは、日本人の一部があまりにも強く「理想」に洗脳されてしまい、そこから抜け出せなくなっていることに理由がある。
もう、私たちは理想主義を唱えている場合ではなくなっており、現実主義者にならなければ日本自体が消滅する危機に陥っている。私たちがやらなければならないことは明白だ。
「戦争は起きない」
「平和は実現する」
これらのすべてが理想だったと気付いたのであれば、今度はそれを逆さまにして現実を取り返すことである。すなわち、このように考えて現実の世界に降りて来なければならない。
・戦争は起きる。
・平和は実現しない。
現状認識をするというのは、理想を忘れるということだ。理想が頭の中に残っていると、現状認識が中途半端になって正しい現実が見えなくなる。
どこの国も例外ではない。
もちろん日本もまた例外ではない。現に、中国や韓国のように、激しく日本を敵視している国もある。
民族憎悪は昨日今日はじまったのではない。数十年にも渡る対立の中で叩き込まれている。もはや通常の手段では是正できないところにまで達しているのだ。
憎悪は止まらない。民族間の憎しみはそれぞれの民族の骨髄に達している。感情が暴走しているので、民族憎悪は行き着くところまでいく。
憎悪は平和を呼び込むのではない。戦争を呼び込む。
憎悪と対立がマグマのようにくすぶっているのであれば、いずれはそれが大爆発を起こして衝突し、最後には戦争になる。それが、現実なのである。
人類愛? 平和? そんなものもなさそうだ。憎悪と対立がマグマのようにくすぶっているのであれば、いずれはそれが大爆発を起こして衝突し、最後には戦争になる。それが、現実なのである。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/03/20150109T1916500900.html
【上島嘉郎】憲法論議の前提
日本国憲法が施行70周年を迎えました。安倍晋三首相は憲法改正に強い意欲を示し、改憲派が同日東京都内で開いた集会にビデオメッセージを寄せて、憲法9条に自衛隊の存在を明記した条文を追加した憲法改正を行い、東京五輪が開かれる2020年を「新しい憲法が施行される年にしたい」と明言しました。
ところで、共同通信社がこの3〜4月に18歳以上の男女3千人を対象に実施した憲法に関する世論調査結果があります。それによると、日本が戦後、海外で武力行使しなかった理由は、戦争放棄や戦力の不保持を定めた「憲法9条があったからだ」とする回答が75%、9条の存在とは「関係ない」は23%でした。9条改正に関しては必要が49%、必要ないが47%で拮抗していますが、安倍首相のもとでの改憲には51%が反対で、賛成は45%でした。
(*注 無回答を省略しているため合計は100%にならない)
9条改正の必要性をめぐって賛否が二分する一方で、戦後の日本が海外で武力行使をしなかった理由が「9条があったから」と答える人が75%もいるとは……かつて司馬遼太郎がこう語っていたのを思い出します。
曰く「日本人というのは不思議な人種やなあ。多くの連中にとってある種の観念の方が目の前の現実よりも現実的なんやから」と。
北朝鮮による日本人拉致被害、竹島や尖閣諸島の領有権問題、直近の北朝鮮情勢の緊迫化等々、一体日本人はわが国を取り巻く「現実」をどこまで認識しているのか。今そこに危機があっても、憲法9条がある限り、現実に迫ってくることはないと思っているのか。
「平和」とはある国家なり社会の現実に在る姿で、ただ心に念じればたちどころに現出するというものではない。現実的な手立ての積み重ねが必要です。この当然の話が「憲法9条信仰」の前では容易に退けられ、自由な現実的議論さえも危険視され封じられてしまう。
筆者はここで「自由な現実的議論」のため、先の世論調査にあった「日本が戦後、海外で武力行使しなかった理由」という設問に関して以下の事実を指摘しておきます。
マッカーサーは、憲法9条の不戦条項、戦力不保持条項、交戦権不行使条項を「あらゆる条項のなかで最も重要な条項」と評価し、昭和21年(1946年)3月6日にこう語りました。
「この保障と制約によって、日本は、本来その主権に固有の諸権利を放棄し、その将来における安全と存続自体を、世界の平和愛好諸国民の誠意と公正にゆだねたのである」
ところが、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発するとこう変わるのです。
「日本の憲法は、国政の手段としての戦争を放棄している。この概念は、近代の世界が知るにいたった最高の理想ではないにしても、最高の理想のひとつを代表している。(中略)
諸君がみずからに課したこの制約は、迫りきたる数々の嵐の脅威にもかかわらず、国家安全保障の問題に関して、諸君の思考と行動を厳密に律してきた。しかしながら、かりに国際社会の無法状態が、平和を脅かし人々の生命に支配を及ぼそうとし続けるならば、この理想があまりにも当然な自己保存の法則に道を譲らなければならぬことはいうまでもない。そして国際連合の原則の枠内で他の自由愛好諸国と協力しつつ、力を撃退するために力を結集することこそが、諸君の責務となるのである(後略)」(昭和26年〔1951年〕元日のメッセージ)
朝鮮戦争の勃発を受け、占領軍として日本にいた米軍は即時朝鮮半島に派遣されました。これによって日本国内に軍事的な真空が生じ、これを埋めるため米国は、日本を再び米国の「脅威」たらしめないという戦後の基本政策と、それを反映させた憲法9条に直接抵触せざるを得ない選択を決断します。
マッカーサーは、7万5千人の警察予備隊の創設、8千人の海上保安庁要員の増員を日本政府に命じました。自ら「戦力不保持条項」を破ったわけです。このとき海上保安庁は機雷の掃海任務に就くことを求められ「特別掃海隊」を編制、日章旗ではなく無標識の掃海艇で出動(朝鮮海域にあるときは国際信号旗のE旗だけを掲揚)するという超法規的なことをやらされました。事実上日本の海上部隊は朝鮮戦争に参加したのです。そしてその任務において多数の”戦死傷者”を出しました。
「憲法9条によって守られている」――こんな観念はとっくの昔に破綻しているのです。
日本を再び米国の「脅威」たらしめないためには、日本をいつまでも非武装状態にし、不戦の誓いを守らせ、交戦権を放棄させたままにしておくのが望ましい。しかし現実問題として冷戦下の北東アジア情勢は緊迫化し、米国の世界戦略上も日本にある程度の軍事力を持たせる必要が生じた。マッカーサー発言の変化は、日本国憲法が本質において米国の都合による欺瞞の産物であったことを示すものです。
その後も現実には軍事力を一定程度保持することを認めつつも、日本人の精神には憲法9条という枷(かせ)をはめておく。この枷は「先の大戦を反省した日本人が平和を希求するため自ら求めたものだ」という虚構の建前に立っていて、日本を再び「脅威」たらしめないという米国の基本政策の反映だとは見えないようになっている。
米国の脅威とならないということが、戦後の日本の言語空間では、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という理想主義的な言辞に置き換わって、人類の普遍的な価値観を先導するかのごとく、ある種の酔いの心地よさに日本人を耽溺させるようになっています。酔っているから、憲法9条と日米安保条約がコインの裏表のような関係になっていることが見えません。
入江隆則氏は『敗者の戦後』でこう述べました。
「真に脅威を取り除くには敗戦国民の精神に自分たちの過去への嫌悪の念を植えつけると同時に戦うこと一般への忌避の気持を育て、しかもそれが勝者の戦後処理の政策として押しつけられたのではなくて敗者の自発的選択として為されたようにする。
勝者への復讐心を取り除くためには、勝者は敗者に対して寛大だという印象を与え、思想改造を強制する場合も、それが勝者による強制だという印象を薄めて敗戦国民の自発的な自己批判の形をとらせるのがよい。
戦勝国から強制されたとなれば、占領の終結と同時に元に戻ってしまうが、自発的変身だと信じ込ませておけば、より長期的な効果が期待できるからである。この精神的武装解除がかつてなかったほど巧妙に実施された典型的な例が日本の戦後であると思う」
――護憲であれ、改憲であれ、議論の前提はここにあります。
https://38news.jp/archives/10415
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