★阿修羅♪ > リバイバル3 > 529.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html
投稿者 中川隆 日時 2014 年 1 月 27 日 00:04:27: 3bF/xW6Ehzs4I
 


宇野功芳1930年5月9日 - )は、東京都生まれの音楽評論家、指揮者。

国立音楽大学声楽科卒
幼少のころから音楽が身近にある環境に育つ  
1952年にワルターに手紙を出したところ返信が届きその後ワルターが亡くなる前年まで交信が続きました

ワルター没後50年の今年宇野さんが編集長になり作家 作曲家 バイオリニスト 等が寄稿したとワルター特集の本も出しています


1930年生まれ 生れた時に蓄音機があった 父が音楽好きだった
  
父は牧野周一 漫談家  失業して漫談家になった 活弁家だった

話すこと、映画が好きで オーケストラがボックスに居た (新宿武蔵野館 武蔵野管弦楽団) 
映画説明するのが調度有っていた

府立4中(戸山高校)に入学(質実剛健の校風 帝大コース)  
戦争中なので音楽の合唱班等は無かった

終戦後は合唱部で合唱していた(男ばかり) 
当時は5年生だった(声変わりしていないものもいたので)ので混成合唱をして コンクールに出たりもした(他に無かった)
1位は6中(新宿高校)に持って行かれた
  
卒業時は都立4高(戸山高校) 上智大学英文科に入る 
カトリックの学校男子が軟弱に見えた
途中で音楽学校に受ける 父親を説得した が結核になってしまう
  
昭和27年に手術して 昭和31年国立音大声楽科に行く  

合唱の指揮者になりたかった

卒業後は都立定時制(小松川高校 7中)の非常勤講師になる
  
合唱部の指導した
 
最初に定時制高校の歌を聞いたときに感激した 

22人でこの合唱団は良くなると思った スパルタ教育をした
 
日曜日も指導した(日曜でも夜しか使えなかった)  「故郷を離るる歌」

ブルーノ・ワルターに  22歳の時にファンレターを出す   
ベートーベンのバイオリン協奏曲 毎日のように聞いていた

友人がドイツ語をやっていて其の友人を介して彼の先生(ブルーノ・ワルターのファンだった)にドイツ語に翻訳して貰って手紙を出した。

返事が来て吃驚してしまった  大げさに言うと命の恩人 手術をしてから十数日目に其の手紙を読んで感激して大いに喜んだのが病気に対しては良かった

一回で終わらないで文通が10年間も続いた  
今年ブルーノ・ワルター没後50年になる
どこの馬の骨とも判らない東洋人に対して世界的な指揮者が良くも手紙をよこしてくれた  
アメリカに行ってから華美な迫力の有る演奏に変わった 
其の事に私はちょっと不満を感じてその事を手紙でしたためた事もあった

ブルーノ・ワルターはナチスに追われたアメリカに渡る ユダヤ系のドイツ人  
1933年にナチスが政権を取ってからナチスに追われる

子供時代から幸せな生活をしてきたがこれを機に厳しい生活に置かれる 
ドイツからパリに逃れて ヨーロッパに居られなくなって皆でアメリカに亡命する
カルホルニアに住むようになる   

手紙のやり取りが無かったなら今の私は無かった  
ブルーノ・ワルターの事を書いてくれとの周りからの話があり書くようになる
音楽評論家の道に進むようになる 指揮者になりたかった気持ちは変わらない
  
音楽評論は生活の為
他の批評家はどこからつつかれても困らないように防壁を立てて書いている 

私の場合はいつ辞めてもいいという思いで書いているので厳しい評論となるのかも
いつも本当の事をいっているだけ 

ブルーノ・ワルターでも悪いものは悪い、名も知れぬような指揮者の演奏でもいいものは良いと言っているだけ

クラッシクの聴き方 垣根が高いという先入観があるが クラッシック音楽は20歳になるまでに好きにならないと好きに成れない

演奏家はもっと厳しくて6歳ぐらいまでかもしれない
 
3〜4歳が一番良くって 6歳でピアノとかバイオリン等をやってしまわないと中学になってやったらプロに成れない

音の世界なので聞く方も高校生ぐらいまでにクラシックを好きにならないとあとでいくらいい音楽をきいても頭で聞く事になってしまう

ベートーベンはこういう人だとこういう曲なんだと そういう書いてあることをなぞりながら聞くだけで 本当に判っているのかは疑問ですね

おそらくは判っていないと思う  或る程度の感動はあるかもしれないけれども 其の演奏が判るというのは大変なことなんですよ
 
眼に見えない 音楽と言うのは  旨いまずいは判るが 感動させるかさせないかと言う事でこれはやっぱり若いうちに習得してしまわないといけない

学校の音楽の先生の責任ですよ  音楽の授業で音楽が嫌いに成るので本当に残念
   
私の一番驚いたのはベートーベンのシンホニーを聞いた人は一人もいなかった

(音楽学校の声楽科) 一般大学のクラシックを聴いているが音楽学校に入った人は自分の専門しか興味はない 

そういう人が音楽の教師になった場合はそれは良い授業はできませんよ 
 
自分が演奏によってとっても演奏するという事が大変なこと

そういうのに熱心に取り組んでいる人は自分の体験を中心に授業をすれば生きたものになると思うんですよ
 
借りてきた猫みたいに聞いてもいないベートーベンのシンホニーなんかを喋るから生徒には通じないと思う  自分が好きでなきゃあいけない

合唱でも早くやるにはいい方が決まっているが 高校で合唱の名門校が有っていつもコンクールでいつも1位になるとか そういう人達は卒業した途端に、完全燃焼してしまって 合唱から離れるケースがある コンクールの弊害だろうなあ
  
コンクールに物凄いハードな練習をする

小松川高校でやったのはハードとはちょっと違って人間の心の問題として音楽をやっていたから彼女たちに通じたと思う

優勝するのは嬉しいけれども本当に音楽を好きになったか 本当に音楽が自分の血となり肉になったかと言うと疑問があると思う

小松川高校の合唱は 下町の持っている色んな苦しみ悲しみが出てくる 同じころ山の手のお嬢様学校に行ったが同じ「故郷を離るる歌」を歌っても全然違う

声は良いかもしれないが 全然故郷を離れる歌ではない
 
「故郷を離るる歌」は寂しい歌なんですが 
小松川では故郷を離れる歌であると同時に人生との別れの歌のつもりで歌ってくれとそこまで言いました
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/07/blog-post_3.html

__________
__________


関連投稿

作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか? _ 宇野功芳 樂に寄す
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html

ドイツの音とは何か?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/447.html

天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? _ アメリカ人には音楽は理解できない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/430.html

清貧の音楽ファンには音楽はわからない _ フランス人だけがヤマハから美しい音色が出せる理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html

中川隆 _ 音楽関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2014年1月29日 00:01:32 : 2D6PkBxKqI

ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調
指揮:宇野功芳
演奏:アンサンブルSAKURA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15637461
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15637564

02. 2014年1月29日 00:05:02 : 2D6PkBxKqI

ベートーヴェン:劇付属音楽「エグモント」序曲
指揮:宇野功芳
演奏:アンサンブルSAKURA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15637314


03. 2014年1月29日 00:07:37 : 2D6PkBxKqI


シューベルト:劇付属音楽「ロザムンデ」間奏曲第3番 D.797-7
指揮:宇野功芳
演奏:アンサンブルSAKURA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15637646


04. 2014年2月02日 20:49:53 : 2D6PkBxKqI

やはり”すごすぎた” 宇野功芳 2011/09/22

9月19日、「宇野功芳傘寿記念 日本大学OB管弦楽団特別演奏会」を聴くため、上野学園石橋メモリアルホール(東京都台東区)に出かけた。


今日の指揮者である宇野功芳(うの・こうほう、1930〜   )は、「〜といえよう」などの独特の語り口で知られるクラシック音楽の名物評論家で、一部の音楽愛好家から絶大な支持を得ている。

『レコード芸術』や『音楽現代』などの音楽雑誌で、「これぞベスト・ワン」「これだけ聴けばあとは必要ない」などという彼の言葉に乗せられて、シューリヒトとかクナッパーツブッシュ、メンゲルベルクなどのディスクを購入した経験のある方も少なくないのではないか。

また、彼は場合によって、読者に対して苦言を呈することもある。

僕にいわせれば、たった一言で終わりである。「メータのブルックナーなど聴きに行く方がわるい」。知らなかった、とは言ってほしくない。ブルックナーを愛する者は、そのくらいは知らなくてはだめだ。 『クラシックの名曲・名盤』(講談社現代新書)より

ここまで書かれたら、あっぱれとしか言いようがない。僕は、こうした主観的で独善的な姿勢に、時に反発しながらも長年楽しませてもらってきた。音楽評論という分野で「功芳節」とも呼べる独自の世界を築いた功績は誰も真似できないものであり、彼ほどユニークな音楽評論家は、今後も現れないのではないかと思うほどだ。

国立音楽大学で声楽を学び、音楽評論のかたわら合唱指揮者としても活動していた彼は、1980年代に入り、日本大学管弦楽団を皮切りに、新星日響などを指揮し、2005年には何と大阪フィルの演奏会(※)に登場。聴衆の入りもよく、大いに盛り上がったといわれる。

※この演奏会の「宇野功芳の”すごすぎる”世界」というコピーが秀逸。他に「宇野功芳の”第九”これでもか !?」というのもあった。

翌2006年と2007年には東京フィルを振るなど、指揮者としてはアマチュアだったはずの彼が、なぜプロのオーケストラを指揮して演奏会を開催するまでに至ったのか。それは、おそらく次のような経緯ではなかろうか。


(第1段階)日ごろの、歯に衣着せない批評や曲に対する独自の解釈論が注目される。
             ↓
(第2段階)「彼が指揮すれば、きっとすごい名演が聞けるに違いない」という期待(妄想、誤解)が読者の間に広まる。
             ↓
(第3段階)熱心な読者の中にオーケストラの関係者がいて、声がかかる。


オーケストラを振る機会が、優に10回を超えるまでになったのは、彼の根強いマニア(支持者だけでなく、アンチも含め)が一定割合存在することや、良し悪しは別として、その演奏が期待を裏切らないものだからであろう。ちなみに、CDも相当数発売されている。

僕はかつて、彼の指揮するベートーヴェンの『英雄交響曲』のCDを帯のコピーにつられて購入し、あまりに特異な演奏に衝撃を受けた記憶がある。「言うは易く、行うは難し」という厳しい現実を目の当たりにして、創造行為と評論活動の本質的な違いについて考えさせられたものだ。


彼の演奏解釈は、批評の時とスタンスが似ていて、思い入れが強い部分とそれ以外の落差が大きい。前者は、極端に音楽の造形がデフォルメされる反面、後者では、聞き手が拍子抜けするほど、すいすいと弾き飛ばされてゆく印象だ。フルトヴェングラーやワルター、朝比奈隆などの影響(オマージュ)も随所に聞かれる。

主な特徴としては、次のとおり。


@音楽の流れに、あえて棹(さお)差すかのような予期できないテンポの変化

A過剰なまでに強調される金管やティンパニ

B強弱記号にこだわらず、明瞭に弾かれるピチカートやトレモロ

C提示部等のリピート(反復)指示には従わない。
 (さらに一歩進んで、指示さえ無い箇所の省略)

さて、今回の演奏会であるが、話題性も相まって会場は盛況で、8割以上が埋まり人気の高さを物語っていた。なお、日本大学OB管弦楽団とは、今回の演奏会のために特別に編成されたオーケストラだという。

チューニングが終わり、いよいよ指揮者の登場。ゆっくりとした足取りでステージに登場する姿は、まさに巨匠の風格である。

前半のシューベルトの『未完成交響曲』では、ところどころに「彼らしさ」が顔を出すが、特筆すべきほどの特徴は感じられない。強いて言えば、第2楽章アンダンテの解釈にこだわりがあるようで、例えば114小節目からの第1ヴァイオリンのメロディーをピアノ(弱く)という指示に反して、思い入れたっぷりに強奏させていたのが記憶に残った。

休憩を挟み、いよいよメインプログラムであるベートーヴェンの『交響曲第7番』。宇野氏にとってこの曲は、ベートーヴェンの全交響曲の中では評価が低い部類に入るようだが、いくつもこだわりがあるらしい(特に第1楽章)。「人生最後の第7、もうこわいものはない」と言い切る彼の、どのような解釈が聴けるのか期待が高まる。

第1楽章の冒頭、ため込んだ気持ちを搾(しぼ)り出すかのように和音が刻まれる。続く10小節目からの上昇動機は、マタチッチばりの最速テンポを採るが、アンサンブルが指揮者の棒に付いてゆけずズレまくる。それが一種独特の緊張感を生み、結構スリリングである。

ヴィヴァーチェの主部に入ると、金管とティンパニの耳をつんざくような響きで混濁気味となる。音は盛大だが、迫力がそれほど感じられないのは不思議なほどだ。2小節の全休符で一息ついた後、展開部に入り、弦がピアニッシモでリズムを刻みながら徐々に力を増してゆくが、何か様子がおかしい…と思った瞬間、音楽がぐらりと大きく動いた。たちまちホルンは雄たけびを上げ、悲鳴のようなトランペットがそれに続く。

いよいよ「功芳ワールド」が全開! 「優等生的な演奏なんて聴きたくない。ベートーヴェンはこうでなくてはだめだ」とでも言わんばかり。ホルンだけが倍管(4本)になっているのは、このためだったのかと妙に納得しながら、正直、僕は笑いをこらえるのに必死だった。周囲もあっ気にとられているのがわかる。しかしオケのメンバーは真剣そのもので、指揮者に必死に食い付いていく。

奇想天外な展開部が終わり、再現部の300小節目、オーボエソロに続いて曲は短調に転じ、第1主題のフレーズが切々と奏でられてゆくところは、この指揮者の思い入れも強い箇所のはずだが、中途半端な結果に終わり、指揮者も少し困惑していた。しかし、コーダは圧倒的な盛り上がりをみせ、怒涛のような第1楽章が終わった。

第1楽章を終えたところで、すでにオケのメンバーはかなり消耗している様子。続く楽章では、音色が荒れアンサンブルも乱れ気味になる。スケルツォは予告どおりトリオを反復せず3部形式に改変。1回のトリオに全力を注いだといった感じ。これはこれで面白いと思った。

アタッカで第4楽章に突入し、快速のテンポで飛ばす姿はとても80歳とは思えない若々しさだ。オーケストラも最後の力を振り絞り、渾身の演奏を繰り広げる。コーダでは、さらにぐいぐいと速度を増し、最後はほとんど崩壊寸前のような(すでに崩壊していたか?)爆走。これぞまさに命を賭けたアッチェレランド! 最後の和音とともに一斉に巻き起こるブラボーの嵐、熱狂的な拍手。僕自身、不覚にも感動してしまった。ふと見ると最前列のコントラバスのおじさんが、楽器に寄りかかってぐったり…。皆さん、本当にお疲れさまでした。

余韻のさめやらない中、心の整理をしながらホールを出たところ、「火事です!1階で火災が発生しました」と警報のアナウンス。確かに火事のように熱い演奏会だったのは間違いない。「最後の第7」だなんて、戯(たわむ)れとしか思えない。さて、次は何の曲で僕たちを楽しませてくれるだろうか。大いに期待したいと思う。
http://mydisc.cocolog-nifty.com/favorite/2011/09/post-9edd.html


05. 2014年2月02日 21:30:23 : 2D6PkBxKqI

ベートーヴェン 英雄 世紀の迷演奏
http://www.youtube.com/watch?v=3v94hhvYnAk

渡来津々都
すごいのを見つけた。
功芳センセイが、言ってることとやろうとしてることが一致していることがよくわかった。


祐太郎 芝臣
す、すげーっ(爆笑)! ・・・
すいません、私、演奏も指揮もなんにもやったことのない、一介の聴衆(オーディエンス)なんですけど、その素人からすると、ある意味、カッコいいくらいぶっ飛んでいて、すっごく楽しめました(いや、マジで)。

どなたか70年前のフルトヴェングラー&ベルリン・フィルでこのパターンを・・・というご意見がありましたが、うむ、それは確かにカネを出してでも聴いてみたいですね。
とにかく、一言。「イカす!」(爆) ・・・どうも失礼しました。 それでは。


文雄 吉野
イヤー、すんごいものを聞かせていただきました。
功芳氏を好きになってしまいそうで怖いです。

ただ4楽章が少しお疲れの様子が見えて残念ですが。ティンパニさんはほんとにすごいです。案だけ表に立たされながら破綻もなく最後までたたき続けるのは大変ですよね。

フルトベングラーが引き合いに出されてますが功芳氏の尊敬するクナッパーツブッシュが下敷きになっているのじゃないかと推定いたします。

ベートーベンの英雄には有名なナポレオンに関する逸話が伝わっていますが(真偽は不明らしい)もしナポレオン即位後のベートーベンが指揮したらこんな演奏になるかなと思ったしだいです。あのティンパニはナポレオンを表現しているのだと。

::: 功芳氏って指揮の技術も結構なものですね。もちろん普通の名演は期待できませんが。


mochiwanikonishitekure
ハマる(笑)。最初の和音二つで、音楽が終わったのかと思った。
素人臭さ満点だが、効果的な部分も少なくない。

第一楽章の8:26~8:59にかけての経過句は、「へえ、エロイカって、こんな風にも響くんだ」と妙に感心した。

12:13~12:17のピチカート強調は、ブルックナーでも似たようなことをやっていたけれど、必然的に響くし良い。さすがに、ティンパニはうるさすぎだが。

Suminori Nishie
作曲の立場でいうとなるほどと思いました。

一楽章7’50で最減速しますが、ここは使われている和音を解説したいような内容。続いてホ短調に転調しますが、実はe-mollはEs-durからは最も遠隔の一つ前の調です。このあと、どうやって調を戻していくかが隠れた醍醐味。

9'00あたりでC-durにもどると一安心。さらにes-mollにも立ち寄りますが、結果的に7度転調をみせてくれます。なのでここまで誇張された演奏でも私には「なるほど」と思えます。



06. 2014年2月02日 21:32:51 : 2D6PkBxKqI

Beethoven Symphony No.3 EROICA Koho Uno
Shinsei Nippon Symphony Orchestra
Koho Uno
http://www.youtube.com/watch?v=rS1iOqHt7qM


07. 2014年2月04日 00:24:51 : 2D6PkBxKqI

2005年11月27日
 すごすぎるCDを聴いてしまいました。
 
・宇野功芳の”すごすぎる世界”(EXTON OVCL-00107)

 冒頭、フィガロの結婚序曲の超スローテンポから異形の連続で面食らいました。しかもずっとスローテンポじゃなくて、ちょろちょろとテンポをいじくるのでせわしなくていけません。けれども普段聴き取れない旋律が聞こえてくるあたりは少し面白いと思いました。

 ライナーノートに「前回のCDでは失敗していたが」という記述がありましたが、あれではまるで今回の演奏が成功したかのような印象を受けるではないですか(笑)
 
 続くモーツァルトの交響曲第40番で特徴的だったのは、第1楽章の第1主題に強烈なポルタメントを掛けていたことです。ワルター&ウィーンフィルのように粋なオケならば非常に絵になるのでしょうが、大阪フィルみたいな野暮ったいオケがあんなことをすると、余りにも泥臭くて思わず噴き出しそうになりましたよ。
 
 3曲目はベートーベンの交響曲第5番でしたが、あの有名なモティーフ「ジャジャジャジャーン」をあれだけ大仰にやっている演奏は初めてでした。特にコーダ! 字で書くと「ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャ〜〜〜〜ン」×2でした。ハクション大魔王が出てくるんじゃないかとマジで周りを見渡しましたよ。

 宇野さんの演奏は第1楽章だけが強烈な表現を取っていて、後の楽章はまあ普通に変な演奏なのですが、この第5交響曲は第2楽章も異常で、その点は「おおっ」と思いました。(マラ9の終楽章ばりの超超スローテンポや超弱音がエキサイティングでした)
 
 アンコールで演奏されたハイドンのセレナーデは、まあへにょっとした演奏でした。
 それにしてもワルターがそうでしたが、この人もリピートを絶対に実行しませんね。
 
 
 ここで止せば良いのに、持っている宇野さんのCDを片っ端から聴いてみるという暴挙におよんでみました。

 新星フィルから充分に変な演奏でしたが、本格的に狂ったのはアンサンブルSAKURAとの演奏からのようです。
 (どんな要求にも応えてくれるアマオケで味をしめて、またそれが聴衆に受けたからでしょうか)
 
 普通の演奏家ならば、常識と言うか、格好悪いから出来ないような大仰な表現も、本業が批評家であるため、思うがままの自由に演奏している思い切りの良さが非常に魅力的であります。

 こんな強烈なキャラクターを持っている演奏は世界中を探してもここだけにしかありません。嗚呼日本人で良かった。
 
 しかし唯一掛け値無しで感心したことは、合唱の扱いです。(ベートーベンの第9交響曲)
 非常に音色が澄んでいてきれいなコーラスで、特に女声部の透明感は他のディスクでは聴けない美しさを持っていました。
 宇野さんが女声コーラスを中心に活動する理由が良く解る演奏でした。
http://symphonie.org/past2005b.htm


08. 2014年2月04日 00:28:51 : 2D6PkBxKqI

宇野功芳の“すごすぎる”世界

平成17年(2005年)4月10日(日曜日)
ザ・シンフォニーホール
指揮: 宇野功芳
演奏: 大阪フィルハーモニー管弦楽団


 それは一冊の本から始まりました。

「クラシックCDの名盤 演奏家篇」という新書。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AFCD%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%9B%A4-%E6%BC%94%E5%A5%8F%E5%AE%B6%E7%AF%87-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4166601326


宇野功芳氏を筆頭に、三人の音楽評論家が演奏家を評価するという趣旨です。Tarlinが購入後、「積ん読」状態になっていたこの本を、ある日Erillが見つけページを開くと、そこには、詩的かつ苛烈な表現が踊っていました。優美で端正な音を紡ぎ出す小澤征爾や、Erillがかつて実演を聴いて非常な感銘を受けたチェリビダッケなどは「ボロクソ」と言ってよい酷評、Tarlinの愛するショルティなどは掲載すらされていません。

好き嫌いは別にして、公正にみて優れた点もあるだろうに、よくここまで一刀両断できるものだと、二人で感心するやら、呆然となるやら。反面、高い評価を下している演奏家のページには、それこそ魂が踊るような表現がたっぷり綴られています。自分も好きな演奏家であれば、何度も反芻したくなります。筆力のこもった優れて文学的な文章でしょう。

 それにしても、ここまで筆舌の限りを尽くす宇野氏の理想とする演奏とは、いったいいかなるものなのか?2月の大阪フィルの定期演奏会で配られたチラシの一枚から、衝撃的な文字が目に飛び込んできました。

「大阪フィルハーモニー交響楽団 宇野功芳のすごすぎる世界」 

え?本当に指揮をするの?

半ば、いやかなり驚愕したTarlinとErill、好奇心がむくむくと頭をもたげ、宇野氏の音楽観の真実を知るべく、次の日にはクワイア席のチケットを電話予約したのでした。

 当日。開演45分前から、シンフォニーホールは人でいっぱいです。カフェテリアも込んでいて、席の確保が難しいほど。日曜の午後、ということもあるのでしょうけど、これまでに来たコンサートでもここまで盛況なのは珍しいことです。特に年配の方が多いのは、宇野氏の長年の読者の方々でしょうか。今回の席は、舞台後ろのクワイア席。席につくと、3階席までほとんど埋まっているのが分かりました。

 いよいよ開演です。一曲目は、モーツァルト作曲「フィガロの結婚」序曲です。フィガロの序曲と言えば、冒頭の軽快に駆け抜けるような弦の旋律のあと、管と弦が一斉に鳴って、華やかな幕開けを告げます。そんな軽快なフィガロを期待しつつ、耳を澄ましました。しかし・・・

「ん、うねってる?」 

聞こえてきたのは、不思議なポルタメントがかかり、長音がやたらと伸びたメロディーです。擬態語にするとこんな感じでしょうか。

「にょわわわわ〜 にょわにょわにょわにょわ にょわにょわわあ〜 にょわにょわにょわにょわ にょわにょわにょわにょわ にょわにょわにょわにょわ にょわにょわわあ〜」

 「何、これ〜?」と思っているうちに冒頭部が過ぎさり、演奏はその後も驚きの連続です。強調したいフレーズの長音はためにため、延ばせるだけ延ばしたかと思えば、勢い付けたい部分はととたんにプレストになり、激しく加速します。オペラアリアのような情感の起伏を狙っているのでしょうが、小刻みかつ極端なテンポの変化で、かえって音楽の流れがぎくしゃくと滞ってしまいます。これなら、一般的な演奏の方が、綺麗なのでは?正直よくある演奏が聴きたくなってしまいました。しかし、最後のクライマックスはティンパニがここぞとばかりに打ち鳴らされ、熱っぽく盛り上がり、興奮の一時でした。

 幕間にお話が入ります。FM大阪で宇野氏の番組を製作しているプロデューサーの方との対談です。今回の演奏会のタイトルを考えたのはこのプロデューサーさんで、「すごすぎる」に決まる前は、「宇野功芳のけったいな世界」というネーミングも候補だったとか・・・ 思わず納得してまっのは、私だけでしょうか。まあ、「すごすぎる」のほうが中立でスマートですが。

 2曲目のモーツァルトの交響曲第40番。第一楽章冒頭の有名なフレーズの三小節目の上昇音に、やはりポルタメントがかかっています。宇野氏の敬愛するワルター風のようです。しかし、その効果として歌いあげるような情感が生まれるいうよりは、うねうね、ねっとりとうねる感じで、モールァルト独特の芳醇な流麗さがか損なわれており、残念でした。大きな「ため」と急なアッチェレの頻出も全曲同様です。第二楽章以下はまだ落ち着きを見せていましたが、くどさには変わりなく、モーツァルトでこの味付けをされると聴く方はきつい、というのが正直な感想です。

 「宇野式」が一番なじんでいたのは、三曲目ベートーヴェン交響曲第五番「運命」でしょう。有名な冒頭の主題は、「最近の指揮者はやたらあっさりしすぎている。そうじゃないはずだ。」という宇野氏の問題提起の部分だけあって、一つ一つの音をまさに「超テヌート」で、じっくり演奏していましたが、これは良かったと思います。そして、大きなポルタメント、フレーズの「ため」、激しいアッチェレ。また、独奏楽器やティンパニに向けてしばしば指揮棒を「ゆけ〜!」とばかりに突き出し、強調を指示していました。ベートーヴェンの楽曲が意志と気迫を有してているため、こうした極度に個性的な味付けも、モーツァルトよりは耐えうるレベルになっていまた。しかし、しかし・・・

 極度のテンポの変化は曲の流れを滞らせ、また、大きすぎるポルタメントは旋律をゆがめてしまいます。結果、作曲家が曲に込めた主題、情感が音楽に上手くのらず、伝わってきません。曲の情感がもたらす感動こそ、宇野氏が最も重きを置いている物ではないかと察するのですが、感動どころか、グロテスクなまでの奇怪な迫力のみが残ってしまいます。

 宇野氏は声楽、それも合唱指揮が得意だそうで、歌で有効な手法を持ち込んだとも考えられます。確かに、テンポの揺れやポルタメントは、歌では感情を盛り上げるのに非常に効果的です。しかし、それも一定の限度内での話。一線を踏み外すと、バランスが崩れ、聞き苦しいだけになってしまいます。人に感動を与えるには、主観を客観的に表現するバランス感覚が必要・・・ということがよく分かった、貴重な演奏会でした。

 最後に、宇野その人は、評論文の激しさとはうって変わって、穏やかな語り口の、好感度の高い紳士でした。70代とはとても思えないほど体のよく動く指揮ぶりも印象的でした。
http://www.sunmoonstar.jp/hoshi_no_tategoto/concert_kansyou_kiroku/uno_2005/uno_2005.html



09. 2014年2月04日 22:17:03 : 2D6PkBxKqI

2005年04月10日

宇野功芳の「すごすぎる」世界

4月1日の記事に書いた人事異動の影響で、いくら時間があっても足りない状況ではあるのだが、これだけは聴きに行かずばなるまい。

宇野功芳(指揮) 大阪フィル 「宇野功芳の "すごすぎる" 世界」

会場はザ・シンフォニー・ホール。 超満員とはいかないが、ほとんど満席に近い状態。 司会者が「新幹線で来た人〜」と呼びかけるとワラワラと拍手が起こり、さすがにと頷かされた。

何といっても宇野師が8年ぶりでプロのオーケストラを指揮する機会なのである。 また大阪では5年前にアンサンブルSAKURAを指揮して以来、もちろん大阪フィルとは初めての顔合わせ。 客席を眺めた感じでは、いかにもコアなマニアという人よりも、長年クラシックを聴き宇野師の評論も目にしてきたという雰囲気の年配の方が多かった。 とはいえ若いカップルや子ども連れも散見され、多少心配に…(笑)。

入口で渡されたプログラムを開けて吃驚、 「客演コンサートミストレス 佐藤慶子」 とのこと。

佐藤さんは、かつて宇野師が10回にわたって開いた「オーケストラ・リサイタル」で、今は亡き新星日響のコンサートミストレスを務めていた奏者。 おそらく大フィル側のローテーションの問題ではなく、指揮者の要望で招かれたものと推測される。 それでなくてもハラハラする宇野師の指揮で、客演するオーケストラを率いなければならないのだから、御辛苦は想像に余りある。

さて、今日の曲目は モーツアルト;歌劇「フィガロの結婚」序曲 同;交響曲第40番 ベートーヴェン;交響曲第5番 というもの。

お得意の曲目ではあるが、斉諧生としては今ひとつ期待しかねるプログラム。過去の実演ではあまり感心したことがない。 むしろワーグナーやブルックナーの方が聴きたいのだが、まあ仕方ないだろう。

なお、オーケストラの編成は、弦がモーツァルトでは14-12-9-8-6、ベートーヴェンでは16-14-12-10-8、管は2管編成でHrnのみ4人だったか。

さて、「フィガロ」序曲が始まって驚いた。 あまり遅くない!
もちろん通常のテンポよりは遅いのだが、かつてのお化けでも出そうな物々しい遅さではなく、まず音楽がもたれない程度で収まっている。

とはいえ弦の細かい音型がくっきりしないのは、やはりオーケストラが不慣れなせいか。 もっとも75小節からの全合奏での和音や101小節からのFgソロの部分で大減速するのはいつもどおり。 コーダ直前の弱奏でも減速、ここは夕暮れの雰囲気が醸し出され、なかなか佳かった。 コーダも意外に速く、クレンペラー盤でくっきり聴こえる木管の下降音型がはっきりしなかったが、終結では案の定ティンパニが最強打、胸のすく思い。

司会者が言うには、リハーサル初日に「『春の祭典』のように叩いてください!」という指示があったそうな(笑)。

1曲目のあと司会者が出てきて、ひとくさりやりとりがあったのだがそれは↓にまとめることとして、交響曲第40番。

例によって主題3小節目の上行音型にポルタメント、ただしディミヌエンド付きなので、あまり煩わしくない。 すこし音楽がすっきりしたのかなと思ったが、10小節目からの経過句では相変わらずの大減速。 これ以降、「ロマンティック」(指揮者談)どころか、めまぐるしくくらいの加速・減速で、音楽の流れに乗ることができなかった。

211小節の頭に、ワルターばりのルフトパウゼを入れるのもいつもどおり。
もっともかなり「タメ」が入ってしまい、あまりスマートなパウゼにならなかったが。

続く第2楽章は、遅めのテンポで始まった冒頭、Va→第2Vn→第1Vnと受け渡される動機にディミヌエンドが付され、非常にはかなげな響きがして、これは気に入った。 17小節でFlが入ってからはテンポが上がり、普通の音楽になってしまって残念。 53小節(展開部)冒頭は陰の濃いpからクレッシェンドし、地の底から湧き上がってくるようなデモーニッシュな感じがして、さすがと思わされた。

どうなるかと思った後半2楽章は、硬いリズムに終始したメヌエット、普通の速さでほぼ押し通した終楽章と、見るべきものがなかった。 終楽章の展開部冒頭もあっさり通り過ぎたのにはガッカリ。


さてメインのベートーヴェン。

いつも問題になる第1楽章冒頭の主題は、完全にコンサートミストレスのタイミングで入っている。フェルマータはもちろん長目。 もっとも主部に入ると結構早めのテンポでサクサク進んでゆく…と思いきや、やはり第2主題は遅く粘る。 提示部の繰り返しあり。 展開部に入ってCbのピツィカートの強調や196小節からの減速など、なかなか面白い。

再現部でのObソロ、かなり遅いテンポで吹いているわりには無表情。 指揮者は棒を下ろしているのだが、奏者の自発性は無さそうな感じ。 (そうそう、宇野師は久しぶりに指揮棒を使っていたのである。) コーダではやはりティンパニが「春の祭典」ばりに大活躍、479小節・481小節のフェルマータを思いっきり伸ばして締めくくり。

低弦の素晴らしい響きで始まった第2楽章は、モーツァルト同様、全曲の白眉か。
39小節以下で弱音と遅いテンポで粘ったのも聴き応えあり、105小節以下では弦を抑えて木管の煌めきを聴かせた。

これもモーツァルト同様、第3楽章はあっさり目に通過。 移行部ではかなり粘った上、最後は更にリタルダンドしてティンパニを最強打させた…のだが、肝心のフィナーレ冒頭が腰砕け気味。 26小節以下、ホルンが幅の広い英雄的な主題(推移主題)を吹き流すところ、ティンパニの刻みで強拍にアクセントを付けさせたのは効果的だった。 こちらは提示部を繰り返さず。 展開部113小節以下でトロンボーンの動機を強調したのは、他にも例はあるが、面白し。

コーダではやはりティンパニが最強打、最終小節では後半のトレモロで音量を上げさせたのには思わず笑ってしまった。 カーテンコールでも単独で起立させたのはティンパニのみ。

アンコールは十八番「ハイドンのセレナード」。

これは絶品。第1Vnは、おそらくコンサートミストレスが絞ったのだろうと思うが、見事に美しい弱音を聴かせてくれた。 妙に思い入れがないのが却って幸いして、実にすっきりした表情。 もちろんポルタメントは付いているのだが。 かつて新星日響でも聴いているが、もしかしたら最上の出来栄えではないかと思う。


以上、やや分析的な書き方になってしまったので、全体的な印象を書いておきたい。

テンポの動きが激しく、音楽の流れを分断してしまっている。 思い入れ(思いつき?)のあるところで部分的に減速して粘るのは良いとしても、そのあとすぐ巡航速度に復帰してしまうので、とってつけたような変動になってしまう。 遅くするならするで、指揮者もオーケストラも、それだけのエネルギーを投じてほしいのだが、どうも「お約束」にしか聞こえない。

指揮者の動作を見ていても、かつてのような没入ぶりを感じさせたのはベートーヴェンの第1楽章後半くらい。 あとは淡々とした振りで、テンポだけを操作する印象を受ける。宇野師が賞揚する「命を賭けた遊び」の境地にはほど遠い感じだ。

『レコード芸術』での筆鋒同様、宇野師の音楽も鈍ってしまったのだろうか。 今一度、生の火花を散らすような、本当の「凄すぎる世界」を聴かせていただきたいと切に願う。 なお、補助マイクも多数立っており、司会者もライヴCDの発売が予定されていると述べていたことを付け加えておく。

司会者と宇野師の会話及び「生演奏で聴き比べ」の顛末は以下の如し。

(1曲目と2曲目の間)
「3日前に大阪入り、朝比奈隆氏の墓参をして、助けてくださるように祈った。」

「モーツァルトとブルックナーでは、今はモーツァルトの方が好きである。理由は『チャーミング』。」

「いちばんロマンティックな曲として、第40番を選んだ。」

聴き比べは、40番第1楽章の冒頭約40小節を「普通のテンポ、スタイル」で演奏し、あとは本番。

(休憩後)

「ベートーヴェンで一番やりがいがあるのは『第九』」 第9番スケルツォの第2主題で、原典版・ワーグナー版(Hrnが主題を補強)・ワインガルトナー版(Trpが主題に加わる)の3種を聴き比べ。

「『第九』4楽章の最後は大爆発。それに対して1〜3楽章の終結は疑問形だと考えている。」 第9番第1楽章の終結、約35小節程度を、普通のスタイルと「宇野版」で聴き比べ。
http://www.seikaisei.com/mt/archives/2005/04/post_397.html


10. 2014年2月04日 22:23:34 : 2D6PkBxKqI

Koho Uno - Beethoven Symphony No.5
Koho Uno & Osaka Philharmonic Orchestra
2005 Live
http://www.youtube.com/watch?v=0Rbn-CRr1eM
http://www.youtube.com/watch?v=6eVftvFt3GY
http://www.youtube.com/watch?v=z0jN4poLTwM
http://www.youtube.com/watch?v=BU4wwdt36rk

11. 2014年2月04日 22:27:04 : 2D6PkBxKqI

Mozart Marriage Of Figaro Overture
Koho Uno & Tokyo Philharmonic Orchestra
2008 Live
http://www.youtube.com/watch?v=6aO1Al03KYE

Mozart : Symphony No.40 in G minor K 550
Cond. Koho Uno
Japan Shinsei Symphony Orchestra
http://www.youtube.com/watch?v=f2irScSL3ck


12. 2014年2月04日 22:30:49 : 2D6PkBxKqI

Brahms Hungarian Dance no.5
Koho Uno & Tokyo Philharmonic Orchestra
2008 Live
http://www.youtube.com/watch?v=HSCkLwGG0ao


Gold and Silver Waltz Lehar
Koho Uno - Japan Shinsei Symphony Orchestra
1994 Live
http://www.youtube.com/watch?v=sVRp-dk2jp8


Johann Strauss II Die Fledermaus Overture
Koho Uno - Japan Shinsei Symphony Orchestra
1994 Live
http://www.youtube.com/watch?v=NEN6l5AdG6w


13. 2014年2月05日 00:06:55 : 2D6PkBxKqI

Wagner Ride of the Valkyries (Die Walküre) Die Walkure
Koho Uno Japan Shinsei Symphony Orchestra
1999 Live
http://www.youtube.com/watch?v=72kcFIfzCgU


14. 2014年2月05日 00:09:36 : 2D6PkBxKqI

Koho Uno - Brahms Symphony No.1 4th mov
http://www.youtube.com/watch?v=M0iQXsbO5f4
http://www.youtube.com/watch?v=7X7_JiQ_zBc

15. 2014年2月05日 00:13:32 : 2D6PkBxKqI

Intermezzo No.3 - from Rosamunde, op.26, D.797
Koho Uno - Ensemble "SAKURA"
2000 Live
http://www.youtube.com/watch?v=3K_OYCkRfew


Bernhard Flies - Wiegenlied
Koho Uno - Japan Shinsei Symphony Orchestra
1995 Live
http://www.youtube.com/watch?v=68Oy8YFVULc


16. 2014年2月05日 00:15:45 : 2D6PkBxKqI

嗚呼!宇野功芳の ”すごすぎる” 第九 - ニコニコ動画GINZA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2975292

17. 2014年2月05日 00:18:36 : 2D6PkBxKqI

仕分けされたシューベルト 宇野功芳会長生誕80周年記念!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11256963

18. 2014年2月05日 00:30:13 : 2D6PkBxKqI

宇野功芳&アンサンブルSAKURA
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%ABSAKURA


今なぜ宇野功芳か? 2005年1月22日

あえて宇野氏を特集すると聞いただけで、私がいわゆる「宇野崇拝者」だと思う方もいらっしゃると思いますが、まず最初に決してそうではないことをお断りしておきます(笑)。ただ、宇野氏ほど一途に音楽に感動を追い求め続け、理論ではなく自身の感性一つで音楽のあり方を説き続けて来た人を私は他に知りません。その心意気を尊敬し、そういった感性を自分も持ち続けたいと常々思っています。

言うまでもなく、音楽で感動するということは理屈ではありません。「なんだか凄いぞ!」とういう衝撃が最初にあるはずです。しかし、まず目に見える形で学究的に実証されたものしか信じない人がいるのも事実で、そういう人たちにとっては、そんな音楽のあり方に異議を唱え続けてきた宇野氏の存在ほど煩わしいものはないでしょう。またそれとは全く逆に、全面的に宇野氏を崇拝している人もいます。

この両極のそれぞれの際立ち方は、ちょっと異常です。なぜそのような現象が続いているのか、ここで検証などはしませんが、どのような立ち位置にいる人であろうと、宇野功芳という人の存在意義、SAKURAというアマチュア・オケと共に築き上げようとしているものに対し、一切の先入観を捨てて、じっくりと向き合ってみる価値は大いにあると思うのです。

宇野氏の評論や演奏スタイルを大袈裟だと言って笑うことは簡単です。「普通」でないことは確かですから…。ただ、なんと言われようと(当然宇野氏の耳には入っています)、感動的な演奏を届けたい、作りたいと願い、それに確固とした使命感を持っている人をどうして笑えるでしょうか?

「感動」や「個性」といった言葉を有名無実化させたくないという熱い思いは、アンサンブルSAKURAの指揮活動で具現化されています。是非、演奏会へ足を運んで、他では味わえない感動を体感していただきたいと思います。


__________

参考CD1  「宇野功芳・オーケストラ・リサイタル」完結編!
キングKICC-237 ベートーヴェン:交響曲第7番、「コリオラン」序曲、ハイドン:セレナーデ
/宇野功芳(指)新星日本交響楽団(1997年7月7日ライヴ)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3

--------------------------------------------------------------------------------


10年目を迎えた「リサイタル」もこれで完結。今までは、形として残る録音ということを考慮して、過剰表現を多少抑えてきたそうですが、ここへ来て遂に全ての雑念を捨てて大暴れしてくれました。オケもそんな宇野氏の意気込みに打たれたのか、いつも以上の熱い演奏を繰り広げています。

「第7」は、冒頭のトゥッティから確信に満ちた重厚な響きで空気を一変させ、ティンパニの深い打ち込みを伴って、低音重視の熱いハーモニーをじりじりと過熱させて、この先の壮絶なドラマをしっかりと予告します。

主部に入ると、ホルンとティンパニの雄叫びによる異様なスケール感で音楽が噴出。リズムは決して軽く弾まず、苦境に耐えるように必死になって鼓動し続けるのです。

展開部に入ると、その喘ぎが爆発!何とかつて日大オケとの公演で用いていた「近衛版」を突如引用(10:06〜)し、金管大増強のとてつもないパワーで音楽を限りなく聳えた立たせているのです。

第2楽章は、スコアのアレグレット表示を重視した演奏が多い昨今ですが、ここでは、前楽章の苦難を受け継ぐように敬虔な葬送曲として解釈。全ての音を涙で覆い尽くします。

第3楽章に入ると、遂にリズムが全身で躍動開始。「巡礼歌」とされるBの冒頭の穏やかな歌との絶妙な対比を見せますが、それが次第に高揚した末の頂点では、ティンパニとトランペットを前面に突出させ、興奮を極限まで煽るのです。
そして狂乱の終楽章へ突入!

冒頭はフルヴェンばりに物々しく開始するので、そのまま重厚モードで進行すると思いきや、段階的にテンポを速め、最後はこれ以上不可能なほどの豪速で圧倒!
もはや言葉を失うのみです。演奏時間6分53秒!

スコアを音に置き換えるだけでなく、「感じたもの」を感動的な音楽に変換できる指揮者が今どれだけいるでしょうか?そう考えると、宇野氏の果たした功績は計り知れません。普通の演奏と違うというだけで馬鹿にすることなど到底できません。【1997年 CD初発売時のレヴュー】


参考CD2  宇野ファンの期待を遥かに上回るエキサイティングな『運命』!
FPCD-2724 ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」、「コリオラン」序曲
/宇野功芳(指)アンサンブルSAKURA(1998年1月18日ライヴ)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%ABSAKURA
--------------------------------------------------------------------------------


この「第5」は、過激という一言では収まりません!おそらく熱狂的な宇野ファンであっても、ここまでやると思っていた人はいなかったでしょう。

「自分の心から感じるテンポ、ダイナミズムを信じなければ人を感動させることなどできない」

という信念のもと、単に良識の枠に嵌った演奏に対決姿勢を示してきた宇野氏ですが、ここではその熱いウォ極限までエスカレートさせ、徹底して聴き手の全身を揺さぶる空前絶後の演奏と展開しているのです。

最大の驚きは、終楽章のコーダ!

火だるまのようなアッチェレランドを敢行し、それだけでは足りず、膳声部を掻き消すほどのティンパニの最強打を何と全拍にわたって行なうという異常な興奮の煽り!

最らに終結では、突然ギアチェンジして、まさに宇野流の大失速となり、繰り返される結尾和音の間隔を長くとって、極限の緊張を醸し出すのです。それらを完全に受け止めるべく、最後の最後では、ほとんどの指揮者が無視してしまうティンパニの一撃アクセントをスコアどおりに実行していますが、唐突と思われがちなこのベートーヴェンの指示に、その意味を実感できる初めての演奏といってもよいのではないでしょうか?

その圧倒的な興奮が冷めやらぬうちに「ブラボー!」の絶叫が巻き起こりますが、当日会場に居合わせた聴衆のほとんど(私も含め)は、拍手をしつつも、半分放心状態…。

宇野氏が語っていたように、この熱狂的な雰囲気が100%マイクに入りきるはずはないのですが、CD化は大成功で、実際に会場で聴いた方も、ギャップを感じるどころか、逆に衝撃を新たにするに違いありません。
【1998年 CD初発売時のレヴュー】

参考CD3  演奏の過激さも音質もこれが頂点!

SAKURA
URFC-0006
(2CD) ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、第8番、「コリオラン」序曲、シューベルト:「ロザムンデ」間奏曲第3番
ベートーヴェン:交響曲第3番のリハーサル
/宇野功芳(指)アンサンブルSAKURA(2000年7月9日、いずみホール)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3

--------------------------------------------------------------------------------

宇野氏にとってこの「英雄」は3度目の録音。

最初の新星日響盤('89)は、最初に発売された当初には十分刺激的ではありましたが、この後の再録音と聴き比べれば明らかなように、サントリーホールにムーディに流れてしまう音の捉え方が芯のある宇野節をほとんど捉えておらず、ティンパニも全く冴えず、それ以前に、オケの側が「普通でない」解釈を許容しきれず、必死に音を出さないことがプロの美徳と言わんばかりに事務的な演奏に終止しているのが残念で、趣向を凝らしたデフォルメが、単に奇異なデフォルメにしか聴こえない部分もありました。

例えば第1楽章コーダで急激に音量もテンポも落として度肝を抜きますが、驚き以上の音楽的な訴えが湧き上がって来ません。2度目のアンサンブルSAKURAとの録音('96)はそのときの反省も踏まえてか、その部分で極端なピアニッシモにすることは避け、テンポのみ落とし、ティンパニも部分的に突出させて独特の威厳を表出しています。

その他の部分も、前回の解釈を更に進化させた表現が登場し、強調すべきテンポ、強弱の差、ティンパニの突出などは、完全に純粋な感興が充満した音楽として迫り、ここで宇野氏の「英雄」像の一つの結論を出すに至ります。

しかし、この時点で更に物凄い「英雄」が登場するなど誰が想像したでしょうか?
3度目の2000年の大阪公演は、地元のファンの熱い要望に応えて実現したもので、並々ならぬ意気込みで演奏に臨んだ事は想像に難くないですが、「これはいくら何でもやり過ぎ」と、脱退してしまった団員が出たと噂されるほど、狂気の沙汰の爆裂を貫徹しているのです!

第1楽章最初の2つの和音からして毛穴全開で血の大噴射!

今までのどの録音よりもティンパニが熱い芯を湛えて打ち込まれますが、この和音にこそ、解釈の全てが凝縮されているのです。アンサンブルの精度も前回から格段に向上。楽想の変わり目でのテンポの変化もぎこちなさを脱却。展開部で第2Vnを抉り出すこだわりも他のどの録音よりも真に迫り、木管旋律を補強するホルンに象徴されるように、各声部の隈取りも骨太で強靭。展開部の中盤でどんどんテンポを落とし、造型を極限まで肥大させる手法も、神の怒りの警告以外の何物でもありません。

提示部で6回打ち込まれる和音はテンポを落として一つ一つを徹底的に強調していましたが、再現部ではあえてインテンポのまま。これは前回の録音でも同様でしたが、今回凄いのはティンパニ。硬いマレットを用いて全楽器を掻き消すほどの異常な強打で全体を完全征服しているのです!

この凄まじい風圧に聴衆はどのように耐えたのでしょうか。確信を持って堂々と鳴り渡るトランペット主題直前のティンパニも、皮が破ける寸前。コーダの手ごたえも、前回までの録音を大きく引き離しています。

第2楽章も前回に比べ一層音楽が濃くなり、切り込みも深なっており、トリオに入るとティンパニが全体を掻き消して咆哮。フーガ主題に入ると更に激烈を極めて延々と全楽器が絶叫を続けます。もちろんこの間のティンパニは全ての箇所で丸裸の強打を敢行し、木管の抉り出しもかつてない強烈な張り出しで、憎悪の炎を燃え滾らせます。延々と悶絶元気列を極めて音の線も太くなっています。

第3楽章も極めて低速ですが、音楽だ一切だれず、リズムがキリッと立ち上がっているのが宇野節ならでは。トリオで精一杯深遠な響きを出すホルンも敢闘賞もの。
コーダ最後の3つのティンパニは、またしても異常な強打。そのいきり立ちのまま突入する終楽章冒頭の勢いがまた壮絶!

テンポの設定もティンパニのバランスも前回の録音と変わりないのですが、鮮明な録音の効果もあって音が露骨に脳天目掛けて突き刺さり、そのたびに聴き手の心臓飛び出しかねない衝撃に襲われます。

オーボエ・ソロが登場する直前の激高も常軌を逸しており、前回もティンパニは盛大に鳴り渡っていましたが、今回は更に異常さを増し、巨大な鉄板を強打しているとしか思えず、今回初登場するアッチェレランドの効果も加味して、会場全体が金縛りにあっているような空気がありありと伝わります。

コーダは基本的に前回までと同様ですが、最後のティンパニのトレモロを他の楽器の音符と共に全てを激打する手法に変更し、宇野ファンでさえ閉口しかねない暴れぶり!

全編異常なテンションで貫かれた演奏の最後を締めくくるには、もはや殺人鬼と化すしかないでしょう。


「コリオラン」も過去に録音していますが、この演奏で遂に過去において未徹底だった部分が全て解消ています。

冒頭、思い切り弦の音価を引っ張った後のティンパニは、弦と縦の線を微妙にずらして後で強打する「軋み効果」は、宇野氏ならではですが、その強打がこれまた異常。テンポと強弱の入れ替えのコントラストが以前よりも強くなり、同時にホルンの強奏も、今までここまで徹底し切れていませんでした。

宇野解釈の真骨頂とも言える8:10からのホルンの強靭な突出とティンパニの強打が織りなす宇宙的大スケールも、これ以上のものは望みようがありません!


____________


アンサンブルSAKURA演奏会直前・宇野功芳氏へのインタビュー!(2004.12.26)


2004年12月26日、アンサンブルSAKURAのリハーサルの前にお時間を頂き、宇野氏、団長の増田氏にお話を伺いました。

私が日頃感じていることを端的な言葉でズバズバ語っていただいたので、私はほとんど相槌を打っているだけでしたが、決して今のクラシックの現状を憂いているだけでなく、

「だったら自分がやるしかない!」

という宇野氏の力強い意思を目の当たりにして、逆にたくさん元気を与えていただいた…そんな1時間でした。

--------------------------------------------------------------------------------


--アンサンブルSAKURAの演奏会も今度で18回目だそうですが、その全てを宇野先生が指揮されているわけじゃないんですね?

宇野(以下、U)-そうです。高石治さんとかの指揮も含めてですから、そんなになりますかね。

--あらためて、先生がSAKURAを指揮するようになったきっかけを教えていただけますか?

U-それは団長の増田さん(以下、M)から話してもらいましょう。

M-SAKURAは、そもそも日大のOB・OGの有志のアンサンブルとしてスタートしたんです。宇野先生とは日大管弦楽団でもお世話になっていたこともあり、お互いに力を合わせてでいい音楽を作っていきましょうということになって、先生にSAKURAでも指揮していただくことになったんです。

  よくSAKURAを宇野先生のオーケストラと思っている方がいらっしゃいますが、そうじゃないんですね。 だから、いわゆる熱狂的な「宇野ファン」というのは団員にはほとんどいないんです。

--あ、そうでしたか。私も宇野先生の考え方に心酔している人たちの集まりかと思っていました。

M-ええ、だから先生にベタベタする人はいませんよ(笑)。でも、人間的な信頼というか、絆は強力です。

U-それだからここまでやってこれたんじゃないですかね。僕も団員もその方が純粋に音楽に打ち込めるし。

--なるほど。そういうスタンスでやってこれた方が、現在も団員としてが頑張ってるんですね。
M-団員募集も常時行なっていて、今までに相当数の方が入団してきましたが、音楽作りの上での最低限のコミュニケーションも嫌う人が多いようで、なかなか一緒に何かを作り上げようという人が少なくて…。

--じゃあ、ほとんど当初の創立メンバーで活躍されているということですね。これだけ長い間活動されていると、いろいろ変化もあったと思いますが。

U-とにかく巧くなりましたね。今は巧いだけという人はいくらでもいます。遠山一行さんがよくおっしゃってますが、音楽をやるには音楽性と能力が不可欠だと思うんですが、とにかく今は能力優先なんですよ。そりゃ、最低限の技術はなきゃだめだけど、その技術を超えるものが出てこなきゃ、感動できるわけがないですよ。SAKURAの演奏を聴いて、音楽の感動とはこういうものかと気付いてくれる人が、1%でもいいから増えたとしたらこんな嬉しいことはないですね。

--感動的な音楽をやる人がいなくなったと言われて久しいですが、もう個性的であるとか、感動的であるとかに意味を見出さなくなってしまった気がしてならないんです。音楽の世界に限らず、感性が欠如していると言うか…。

U-そう、街中そんな人ばっかりが歩いてますよ。

--あと、最近は若手の指揮者でも、新鮮な音楽をやる人がいるにはいますが、また聴きたくなる演奏をやってくれる人が少ない気がしませんか?

U-それは、そのスタイルを今まで誰もやってなかったから新鮮に聴こえるんでしょうね。逆に他の指揮者がだらしなさ過ぎる。そういう意味じゃ、例えばノリントンなんかは僕は買ってますよ。

  とにかくオーケストラと穏便に事を済まそうとする人が多いんじゃないですかね。この前もあるオケの事務局の人が、今度指揮してもらうことになっている若手指揮者と話したとき、その指揮者から最初に聞かれたのが
「ここの団員さんは、練習が早く終わると喜びますか?」
と言うんですって。

--本当ですか?!

U-事務局の人もがっかりしてましたけど、当然ですよね。

--なんだか悲しくなってきますね。

U-音楽を真剣に作る以上、民主的には絶対できませんよ。それを履き違えてるんだなぁ。

--そういえば、これも日本の若手指揮者ですが、その人のリハーサル風景がTVで放送されたのを見て唖然としました。オーボエ奏者にこう言うんです。

「そこの所をもう少しこうなりませんかね?
  いや切実なお願いというわけでもないんですが…」(一同のけぞる)。

どちらでもいいとはどいうことでしょう?
だからこそ、先生にはまだまだ頑張っていただかないと…。

U-そうですね。僕ももう74歳の爺さんですけど、体の続く限りやりますよ。感動的な音楽は作り続けたいですからね。とにかく感動が最優先です。あと、SAKURAでも練習時間はいくらあっても足りない。全てを完璧には仕上げられません。だから、諦めも肝心だと思っています。

  5つやりたいことがあって、全てができないとしたら、感動に結びつくことをまずやる、残りは思い切って切り捨てる。また別の機会にやろうと思えばできますしね。

--ところで、今回の演目は、遂にドイツものを離れて「新世界」ですね。これはびっくりです。 失礼ながら、先生はSAKURAを振り始めた頃、

「僕が“新世界”や“悲愴”を振ることは絶対にない」

とおっしゃってました。それがまたどうして…。

U-そう言いましたか(笑)。ブラームスの1番をやった後、さて次はどうするかという話になって、いろいろ案は出たんです。僕は、ベルリオーズの「幻想」がまず浮かんだんです。今のSAKURAにも合っていると思うし。でも、楽器の調達やらいろいろ大変なので、そうなるとドイツ物以外だと、今は「新世界」かなって思って決めました。でも、“悲愴”はそれこそ絶対にありえないな。

  と言うかチャイコフスキー自体ちょっと…。「5番」の終楽章のコーダとかなんだかもう…。

--(一瞬、固まってから気を取り直して)同じドヴォルザークでも「8番」とか「7番」もないですか?

U-(きっぱりと)ないね。ブラームスの「2番」、「4番」もない。

M-ベートーヴェンも「4番」と「6番」は、まだやってませんよ。「英雄」とか「第9」も、もう一度やってもいいんじゃないですか?

U-そうね。今感じるベートーヴェンをやるのはいいですね。「2番」もまだやり足りないし…。

  「英雄」は、どうもやりすぎちゃうんですよ。もう一回挑戦してもいいかな。

--では、その「新世界」ですが、この曲に対する印象は?

U-薄い!とにかく音楽がベートーヴェンや、ましてやモーツァルトに比べると、もうなんて言うか…。

  でも1楽章なんかきっちりとしたソナタ形式で立派ですし、2楽章も美しい。だけど終楽章は、出だしは素敵だけど、後は今までの回想ばっかりで、それらを有機的につなげるのが大変ですよ。

  後半以降は緊張感が希薄だし、最後のホワ〜ンとした終わり方は、どう考えてもおかしい。

  ドヴォルザークもよほど悩んだんでしょうね。悩んだ挙句にこうなっちゃったみたいな感じで(笑)。
  スケルツォもトリオが良くないねぇ。

-確かに1楽章は私も素晴らしいと思います。コーダも素晴らしいですね。

U-そうそう。

-その第1楽章の提示部の繰り返しはやりますか?

U-やりません。繰り返していいのは、ベートーヴェンの「運命」と、モーツァルトの「40番」くらいですね。
 逆に繰り返さないとバランスが取れない。

--曲順が、最初にモーツァルトで、中プロで「レオノーレ」なんですね。

U-最初に序曲をやる場合が多いでしょうけど、感心しませんね。2曲目で団員が急に歯抜けになるのが淋しいし、音楽の量感的にもそうすべきだと思います。

--「レオノーレ」も、よくやる3番じゃなくて2番なんですね。

U-3番はよくまとまってるけど、スマートすぎちゃう感じかな。2番の方がゴツゴツした感じで面白い、ほとんど演奏されないしね。

--同感です。

U-モーツァルトは大変ですよ。気を抜く暇がない。20分位の曲ですが、次から次へとやることがある。

M-モーツァルトは、我々が先生の気迫についていくのが、もうあれが限界ですよ。圧倒されっぱなしで…。

U-そうかね(笑)。

--そろそろ時間ですか?では、これからリハーサルを拝見させていただきます。有意義なお話、本当にありがとうございました。

この後、練習場へ…

リハーサル風景

12月26日、台東区の根岸小学校の練習室のリハーサルにお邪魔しました。この日の内容は、『新世界』の2楽章とモーツァルト、レオノーレ、という予定でしたが、なんと『新世界』は全楽章に変更し、モーツァルトは次回に回すことになりました。なお。これからそのときの様子を簡単にレポートします。
.................................................................................................まず、「レオノーノ」第2番から開始。

「では、再現部から始めます。再現部と言ったらすぐスコアを開かなきゃダメですよ!」

といきなり檄が飛び、一瞬にして緊張の空気に変わりました。オケに対する指示は、いたってシンプル。場面の移り変わりでは、

「ここから新しい曲を弾くつもりで…」

と、ニュアンスの違いを明確に意識するように指示。重要な核となる声部を明確に浮き立たせること、他のパートをよく聞いてバランスをとることなど、響きのイメージを作り上げることも重視していました。

特に印象的だったのは、スコアの強弱の標記をしっかり守るよう指示していたこと。奔放に思い通りに強弱指示を変更していると思われがちな宇野氏の演奏の意外とも言えるこだわりが感じられました。もちろん、宇野氏自身が感じたテンポ、ダイナミズムを決して犠牲にはせず、常にベートーヴェンの真実に肉薄しようとする気迫が一貫して感じられました。

最後のプレストの入りは「第3番」同様に弦が合わせずらいの箇所ですが、ここは意地でも縦の線を揃えようとするよりは、テンポのニュアンス表出と、緊張感の高揚が達成できるようにという意図が強かったようです。この場面はティンパニが大活躍しますが、「皮が破けるほど強打して!」などと言うのではなく、実にサラッと、「フォルテ3つくらいでとお願いします」とか、「もう少し抑えて」という、シンプルな指示に終始していたのも意外でした。

最後に、全体を通し演奏。狭い教室だったので、全体の響きのニュアンスまではつかみ取れませんでしたが、この時点で既に細かいテンポ設定、ニュアンスの指示はほとんどされていたようで、あとは本番に向けて、更にアンサンブルを整えるだけ、という段階のようでした。

休憩後は、いよいよ『新世界』。

第1楽章は冒頭から予想通り、表情が超濃厚!ティンパニのトレモロの叩き方に若干の指示。第2主題は、宇野氏自身が特に歌心をくすぐられる箇所なのでしょう。その歌わせ方にかなり拘わって、何度も弾き直しをさせていました。コーダはビシッとキマり、思わず鳥肌が立ちました。そこで宇野氏が一言、「ん〜、レオノーレよりもいいなぁ」。

第2楽章は、イングリッシュ・ホルンが歌のセンスにしばし聴き惚れました。第2ヴァイオリンを埋没させまいとする宇野氏のいつものこだわりも垣間見られました。音楽が熱く語る部分は弦にポルタメントを要求。その指示を何度か繰り返していましたが、このとき聴いた限りでは、ポルタメントの意味を感じ切るところまでには至っていなかったようです。本番までにいかに素敵なニュアンスに変わるか、楽しみです。

第3楽章は、ベートーヴェンのスケルツォ同様、テンポの激変ぶりが完全に宇野流!団員の中には、思わずこの箇所で苦笑いしている人も見うけられましたが、インタヴューでも触れられていたように、それを不快と感じているのではなく、常識外のことをまさに今やろうとしているワクワク感がつい顔の表情に出てしまったように私には映りました。

終楽章は、宇野氏が曲の弱さを指摘していた楽章だけに、どう料理していくのか興味津々でしたが、残念ながらここまででかなり時間を押してしまい、駆け足の指示になってしまいました。しかし、出だしから宇野節炸裂!

インテンポの箇所と徹底的にルバートする箇所の差が激しいのも特徴的。最後の弦のユニゾンでのテーマの再現の歌わせ方、最後の和音の締めくくり方など、駆け足ながら、勘所は確実に指示し尽くしていました。
http://www.wakuwakudo.net/tokusyu_all/ensouka/002_ensouka_uno&sakura.html


2007年06月08日
嗚呼!宇野功芳大先生のインタヴューといえよう!( ´皿`)ノ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm418970
http://www.nicovideo.jp/watch/sm418995


     (´・ω・`)
   /     `ヽ.   お薬増やしておきますねー
  __/  ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\


     (´・ω・) チラッ
   /     `ヽ.   
  __/  ┃  __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\


     (´・ω・`)
   /     `ヽ.   今度カウンセリングも受けましょうねー
  __/  ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\


19. 2014年2月05日 00:45:45 : 2D6PkBxKqI

実は、戦後の音楽評論家ということで、吉田秀和VS宇野功芳というのも書きたかったのだけれど、梶原一騎を書いていたら長くなって力尽きてしまったのである。ま、このテーマはいずれそのうち。

 今年は風邪も多いに流行っているらしく、私も珍しく寝込んでしまった。積んである本でも読もうかと思ったら、

宇野功芳の『楽に寄す』(音楽之友社)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3-%E6%A8%82%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%99-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211298


というのが目についたので、開いてみた。ひとつひとつはそれほど長くないエッセイを集めたものである。

 これが、心地よい本だった。幸福な老人の書いたものという感じがするのである。ゆったりと温泉に浸かり、好きなすしを食べ、いいと思う演奏家を堪能する。昔の宇野氏には、不幸と言うと大げさだが、不幸ぶっているポーズがあった。それが、愛読者を魅了していた。なんたる変貌か。

 この変貌を私はすばらしいと思う。若者が不幸ぶるのは、よい。むしろあまり幸せそうにしていると馬鹿に見える。が、老人は幸せそうにするべきである。

 それにしても、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュに入れあげていた氏が、現在では彼らに対して冷静になっているとあまりにも素直に書いているのには驚いた。それどころか、モーツァルトに対してすら。まさに人は変わるのである。時代も世界も変わる。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1212060065/


20. 2014年7月30日 23:05:47 : 3cdYZYbVIc

宇野功芳・実演記録
http://www.seikaisei.com/cond/uno/uno_live.html

21. 中川隆 2014年9月11日 15:30:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

ワルター讃歌 2013年4月2日(火)

合唱コンクールでよく歌われる「大地讃頌」や組曲「旅」の作曲家佐藤眞(右)と指揮者で音楽評論家の宇野功芳との対談が面白い。

『宇野功芳編集長の本』(音楽之友社)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%9C%AC-%E6%B2%A1%E5%BE%8C50%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC-ONTOMO-MOOK/dp/4276962145


漫談家・牧野周一の息子である宇野功芳(1930〜)は毒舌と辛口の音楽批評で、よく”独断的な批評”として賛否両論があがることで知られる。

「音楽評論家である以上、好き嫌いではなく良し悪しを語らなければならない。」

と本人は述べるが、多分にその逆のようではあるが、でも直感的・感覚的な言葉で表現し、演奏の良し悪しを純粋に伝えようとするところがあるのでひとつの判断根拠には大いに役立つ。

時には

「あの顔を見れば、およそどのような指揮をする人であるかは一目瞭然だ」

といった具合にあまりにも嗜好の偏りが前面にでてしまうが、読む方としてはたいへん面白い。

ハンス・クナッパーツブッシュを第一に評価し、日本での彼の評価を高めた。カラヤンには総じて批判的で、ブルノー・ワルターやカール・シューリヒト、エフゲニー・ムラヴィンスキーに対しては好意的であることには同感で彼の評価を信ずるところが大いにある。ほかに朝比奈隆やオットー・クレンペラーに対しても擁護している節がある。

そんな宇野氏だから同業者もみな一目置くところがあって、あえて彼に対して反論しないようにみえる。ところが、この対談での佐藤眞(1938〜)は年下とはいえ、ズバズバ自分の思うところを述べ、自論を展開させ、宇野氏もタジタジといったところが大変面白く痛快である。


この対談、ブルノー・ワルター(1876〜1962)について色々と論じているのだが、そもそも宇野氏は若い時にワルターと10年近くも文通をしたことがあって親しく、大のワルター擁護者だ。対談の冒頭で果して佐藤氏はどんな発言をするか?


佐藤:「ワルターは指揮者としての特性の非常に優れた人だと思う、いろいろな面でね。だいたい芸術の世界で、平均的に優れているなんていうのは75点平均と云うか、あるいは何かが90点であればほかは0点でもいいみたいになっているけれど、ワルターの場合は全部が95点以上で揃っているような気がする」

宇野:「なるほど、なかなかいいこと言うじゃないか」(顔がほころんでいるのが想像できる)


「田園」では第3楽章以降で話題が盛り上がる。


佐藤:「”嵐の音楽”のベートーヴェンの凄いところは、途中まで行くと今度は嵐が静まってくるだろ?」

宇野:「静まってくる」

佐藤:「そこが長くて、音楽として充実しているんだ。そこは作曲家ではものすごく難しい。なぜかというと長いディミヌエンドをしながら充実した音楽を創って行く、というのは至難の業だ。大変なんだよ。力抜けちゃうの、だいたい。ところがベートーヴェンは抜けないじゃない。豊かな充実した魅力ある音楽で収めて行く」


そこの部分をワルターは巧妙に進めて行くというのだ。ワルターは概して”嵐の音楽”の部分はそう力強くやらない、前半の楽章に比べると、他の演奏に比べてもちょっと迫力が足りないぐらいだ。

このことは音楽に造詣の深い小説家・宮城谷昌光も言っていた。ワルターの雷と嵐は”音楽的雷嵐”であって、完全にグ具象画するよりも半具象に留めておいた方が全体のバランスが良い、かえって音楽に奥ゆきを感じさせる。そういうところにワルターの人格が反映されている、ということを。


マーラー「大地の歌」に会話が進み、ここでマーラー論が展開される。

佐藤:「マーラーは”KY”(空気の読めない人)だと思う。例えば第1番のシンフォニーの第3楽章から、もうあれがマーラーですよ。自分勝手にいつまでも続けて行く。しかしマーラーが成功したというのも、また”KY”だったからね」


次に佐藤氏はブラームスの第3番では、ワルターよりクナッパブッシュの演奏の方が良いと言い、クナッパブッシュをあげ、イメージをしっかり持っている指揮者の下ではオーケストラもそれをよく感じて、自分たちのものとしてやっている。そこが才能のある指揮者として素晴らしいところだという。勿論、ワルターだって、アーベントロートだって、そうだという。


佐藤:「ブラームスの3番はシンフォニーの中ではよくないね。第2楽章なんだけれども、管が出て、弦が受けるだろう?フレーズの最後のところを受けるというのはベートーヴェンの第9番の第3楽章の発想なんだ。ベートーヴェンは弦でやって管で受けるだろう?ブラームスはベートーヴェンをよく研究しているんだけど、逆に言うとベートーヴェンの真似ばっかりしてきた」


と、いよいよ絶好調になってきた。対して宇野氏は完全に聞き役に回っている。


佐藤:「ワルターのベートーヴェン1番は非の打ち所がない演奏で、本当にうまいと思うね。それで2番なんだけれど、ワルター・ファンはおよそ第2楽章がいいとかなんとか言うだろうけど・・・」

宇野:「僕も言います」

佐藤:「そうだろう?僕ね、あの4つの楽章の評価は、1,4,3,2楽章の順だと思う。第2楽章が一番落ちる。どうしてかというと、テンポが遅すぎる」

宇野:「いやいや、そんなことはないよ。遅すぎると悪いのかい?」

佐藤:「遅いための悪さが出てるよ」

宇野:「遅いから歌えるんじゃないのか?」

佐藤:「いやいや、あの曲はそういう歌じゃない。それに遅いと、符点のリズムの音型に小気味よさが出ない。とにかく、もうちょっと速い方がいい。テンポはとても大事なことだよね」


この対談、どちらかというと佐藤氏の自論に終始して・・・いやいや佐藤先生の方が一枚上手でありました。

行きつくところ、ふたりの思いは同じで、ワルターはフルトヴェングラーやトスカニーニに決して負けない才能を持った指揮者だった、というところかな。

前にも書いたが、モーツァルト の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、今日的にいえば、あのBGMのような曲を、ひとたびワルターの棒にかかると見事に新鮮な曲として蘇るのである。

いままではどちらかと云えば、3番手にあったブルノー・ワルター。もっともっと聴きこんでいくべき価値をもった指揮者であることには間違いない。

この対談集の宇野氏の発言で印象に残ったのは次の言葉だ。


「ハイドンの晩年の交響曲はモーツァルト より上だと思うけれどな。少なくとも飽きない」

「まあ、遊びだよね。ハイドンって結構遊びがあるんだ。モーツァルト は遊び人のくせに真面目なんだよ、交響曲は」


このことは小生も100%同感。モーツァルト を人はよく明るいとかいうが、彼は決してそうじゃない。どちらかといえばオタク的暗さがある。とくに交響曲は聴いていて退屈してくる、良いのは「リンツ」と40番くらいか。ハイドンの方がずっと楽しい。ピアノ協奏曲は全部素晴らしいのに・・・。
http://kirakuossa.exblog.jp/18464171


22. 中川隆 2014年9月11日 15:43:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc


感動する音楽は、スタイルに関係ない 2013年11月29日(金)


音楽評論家の吉田秀和氏の正反対の極に立つような評論家がいる。

”毒舌と偏見”で知られる宇野功芳だ。

毒舌はともかく、偏見に対しては本人も異論があると思うが、少なくとも多くのこの人の書物を読んだり、批評をみているとそのように感じるしかない。でもそのことは一面では褒め言葉でもある。それだけ持論が”ぶれない”ということでもあるからだ。

でも持論を押しつけられるような気がして、最近ではほとんど読まなかったが、つい図書館で表題につられて読むことにした。

『宇野功芳のクラシックの聴き方』(音楽之友社刊)。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%81%B4%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%80%8D-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211190

ところが、この本が実に面白かった。なかでも評論家山崎浩太郎との音楽放談「ベートーヴェンの交響曲演奏と大巨匠の音楽」が愉快だった。

ワインガルトナーから始まって、歴代の巨匠たちを順番にベートーヴェンの演奏を中心に批評してゆく。もともと日頃の評論そのものが”放談”みたいな人の音楽放談だから面白いに決まっている。それこそ毒舌を通り越して、”なんでもあり”の世界だ。

うなずいたり、感銘を受けたり、興味深く読んだ個所をちょっとひろってみると・・・


ワインガルトナー
音程はいいけれど、縦の線がひどい。とてもプロの指揮者とは言えない。
いいかげんだしね。聴いていて、学者という感じがします。

トスカニーニ

フルトヴェングラーやワルター全盛期に彼がスカラ座を連れてベルリンで実演をした。その凄さは格別だった。


Y:彼のもたらす緊張感のようなものが全然違っていたのかもしれませんね。

U:レコードに入りきれないものすごいものがあるんじゃないの? 
実演を見なきゃわからないものが。
それでなきゃ、あんなに尊敬されるわけがない。

メンゲルベルク

僕の若いころから、すでに正統的じゃなくて、メンゲルベルク節のような感じにとらえられていて、われわれはあまり聴くものじゃないという印象をもってましたよ。麻薬のような。


ワルター(宇野功芳が若い時、ワルターと文通していたのは有名な話)
僕はワルターを聴いていると、ワインガルトナーに比べて、芸術的に相当上の指揮者だと思うなあ。

ワルターは、ルフトパウゼがすごく巧いんですよ。日本人的な”間”の感覚がある。「田園」を聴いていても、「40番」の例のルフトパウゼにしても、あの”間”は至芸だね。

クレンペラー

U:「7番」を最初聴いたときにはいやになっちゃったけど、フルトヴェングラーに飽きてくるとあの四楽章はいかしてますよ。(1960年・フィルハーモニア管)

Y:わかります。私もあの四楽章が大好きで、終わりのほうの、第一ヴァイオリンと他の弦楽器たちとの対話を聴いたときに、ああ、これが聴きたかったものだと。

U:絶対興奮しないしね。最後まで踏みしめていって、しかも冷静でね。でも中は猛烈温かいんだよ。駆け落ちするようなやつだからね。新婚の人妻を連れて駆け落ちするようなところがまだ残っているわけですよ。しかも、表面は冷静にやるから。


フルトヴェングラー

彼の「田園」の第一楽章を聴いてぶったまげたね。あの演奏は偉大な人生体験の一つだな。(1952年・ウィーンフィル) 

ワルターは夢みたいに美しいけどね。フルトヴェングラーの第一楽章は、人生を背負っているという感じですね。


昔、佐川吉男さんが編集長をしていた『ディスク』で対談を編集長としたが、私が「魔笛」は最高の音楽だと思うと言ったら、佐川さんは「私はザルツブルクの人形芝居しか観たことがない」と言うから、「おれはもう帰らせてもらう」と言った。
(笑) 

でも、僕も偉そうなことが言えないんだ。ブルックナーの話になって、「ブルックナーは要らない」と言った。(笑い)
ブルックナーがわからない、そんな時代だったのです。


クナッパーブッシュ(みんな知っている宇野功芳一押しの指揮者)

クナは、ワーグナーだけを尊敬していますね。ワーグナーのときはまったく恣意的なところがない。

ワーグナー以外は全部下に見ている。自分の遊び道具にしています。

だから、ベートーヴェンさえ一段下に見ています。
「第九の終楽章は、あんなひどい曲はない、だから指揮しない」と言っています。

彼は天才ですね。大天才です。


朝比奈隆

「ここはメロディだ、ここは伴奏だから少し弱くしよう」とかいうのが朝比奈のリハーサルにはないんですよ。

フォルテは「フォルテだぞ」と。

「トランペットがフォルテで下を向いて遠慮しながら吹いているから音が出なくなるんだ、堂々と吹け」と。


朝比奈がドイツ式だ、ドイツ風だとかいうのは全くの間違い。

ドイツ風に聴こえるだけであって、昔のドイツの指揮者はもっともっと、フルトヴェングラーでさえも主題と伴奏ということを絶えず考えて、その分だけスケールが小さくなっていたと思う。


ムラヴィンスキー

凄かったのはムラヴィンスキーですね、

何といっても。あのベーチーヴェンの「4番」はほんとうにもう、震えましたよ。

僕のいちばん嫌いなタイプの演奏なんです。

テンポが速くて、動かなくて、直線的で、歌わないし、とにかく即物的で、微笑みのない、ドラマのない。効果も狙わない。

それに痺れたんですよ。いかに彼が凄いか。

場内の空気は一変しました。最初の一音から。指揮者というものは凄いものですね。

ショスタコヴィッチの演奏は全部すばらしいけど、「5番」だけは僕はあまり買えない。あれは大衆的なおんがくですよ。それを高踏的に演奏している。


U:ショスタコヴィッチの「5番」はベートーヴェンの「5番」に比べるとずいぶん落ちる音楽だと思うよ。ベートーヴェンの第四楽章なんて凄いですよね。

僕は一時、「5番」より「エロイカ」のほうが好きだったんです。
ずーっとずーっと好きだったですよ。でもいまでは、「5番」のほうがやっぱり上だなあと思ってきた。

Y:なるほど。私はまだ修行が足らないせいか、「エロイカ」のほうが好きです。

U:修行じゃないです。歳です、アハハハハ。
(これは僕も同意見。ベートーヴェンの「5番」ほど最初から最後まで完璧な音楽は、僕は他に知らない)

シューリヒト

シューリヒトの名盤というと、やはり「エロイカ」と「田園」かな。

あの人はスピードでスーッといくから、「1番」もいいね。

「田園」がなぜかいいんです。非常にユニークな指揮者だね。
スーッと行っていながらいろんなことをやっているんだよ。目立たないように。
面白いですね。名人じゃないですか。やはり巨匠だな。

(「エロイカ」1963年フランス放送管、「田園」1957年パリ音楽院)


ベーム

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)


カラヤン

カラヤンのベートーヴェンはまったく買わない。


バーンスタイン

バーンスタインで良くないのはベートーヴェンです。
NHKホールでの「3番」を聴いたことがありますが、非常に浅い、ヤンキーのベートーヴェンだった。アメリカの大衆性が悪く出てしまう。

だけれども、ウィーン・フィルを振った全集はオケがしっかりしているから、あれはあれなりに優れた演奏のひとつだと思う。


クライバー

U:ヴァントがいちばんいい例で、三流、二流、一流、超一流となる。
朝比奈先生も二流だったもんね。

60歳ぐらいから少しずつ一流になってきて、長生きしたおかげで曲によっては超一流になった。


Y:そういう意味ではカルロス・クライバーは、決して亡くなったとき若くはないですけれども、老い、円熟ということは一切なく、カルロス・クライバーという人がそのまま来て、そのままいなくなった。

U:ああいう天才型は大体そうだなあ。アルゲリッチもそうだし、ハイドシェックもそうだし、天才型というのは何か進歩しないんだ。

アバド
まったく買わないです。アバドは腑抜けだよね。
音は美しいよ。だから、「田園」は聴いていていやじゃないなあ。


チェリビダッケ

彼の「5番」と「田園」を聴きました。
いちばん面白いのは「5番」ですね。個性のかたまり。


ゲルギエフ

「エロイカ」を埼玉まで聴きにいったんです。旧スタイルなんですよ、ロシア人だから。

巨匠風かというと、全然そんなことはない。中途半端ですね。

小澤もそうですよ。ゲルギエフよりまだスケールが小さい。


マタチッチ

U:マタチッチは詰めが甘いんです。録音で聴くと、なんだかずいぶん怪しいところがある。

Y:彼は、それをそのまま放っておくようなところがありますね。


スメターチェク

あとは、スメターチェクを忘れてはいけない。
彼は、日本に来るたびに大感動した指揮者です。

チェコへ行ったと聞いた話ですが、ノイマンの政治力が強い。
スメターチェクにはまるでないんだって。

社会主義国家だったから、上の覚えがめでたくなくて、不遇だったと言っていた。楽員はみんな、実力はスメターチェクが全然上だと言っていましたけど。

Václav Smetáček - Dvorak Symphony No.9 From the New World
Symfonický orchestr Českého


宇野功芳:

僕はいつも、いちばん最終の判断は、知識のない、『レコ芸』なんか読まない、何にも知らない、ただ音楽が好きで音楽がわかる人が感動する演奏がいちばん凄いんだと思う。スタイルに関係なく。
http://kirakuossa.exblog.jp/20038456/


23. 2014年9月11日 19:40:27 : 3cdYZYbVIc

Bruno Walter "Tallis Fantasia" Vaughan Williams
https://www.youtube.com/watch?v=1IcXcn9T6N0

24. 中川隆 2014年10月19日 11:42:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

「宇野功芳の秘蔵っ子ソプラノ」有山麻衣子 リサイタル・ライヴ

有山麻衣子(S) 幻のコンサート 佐藤和子(p)
http://www.hmv.co.jp/artist_Soprano-Collection_000000000293859/item_%E6%9C%89%E5%B1%B1%E9%BA%BB%E8%A1%A3%E5%AD%90%EF%BC%88S%EF%BC%89-%E5%B9%BB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%80%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%92%8C%E5%AD%90%EF%BC%88p%EF%BC%89_1270807
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3-%E4%BC%81%E7%94%BB%E3%83%BB%E6%8C%87%E6%8F%AE-%E6%9C%89%E5%B1%B1%E9%BA%BB%E8%A1%A3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88/dp/B00HY3QFJG


女神が導いたかのような《天使の歌声》
だれもが聞いたことのある、愛唱歌ばかり

宇野功芳 企画・指揮 有山麻衣子 幻のコンサート

「声の訓練を日常受けつづけるプロの歌手には、絶対こんな声は出ない。ぼくはクラシックの歌手にアレルギーを持っている人にこそ、このCD を聴かせたい。なまじ専門の声楽を習っている人は文句をつけるかも知れないが、芸術のいちばんの敵は常識なのだ。」―宇野功芳(ライナーノーツより)

宇野功芳の秘蔵っ子ソプラノ、有山麻衣子のソロ・コンサート・ライヴ・アルバム。

ノン・ヴィブラート、手垢にまみれぬ清楚な歌声で聴くなじみ親しんだ名曲の数々は、多くの人の心を惹きつけることでしょう。


有山麻衣子(ソプラノ)…宇野功芳に師事。東京をはじめ金沢、富山、横浜、埼玉でリサイタルを開催。また、アンサンブル・フィオレッティーにも参加し、各地で演奏活動を続けている。


曲目(作詞 / 作曲)

1. 花かげ(大村主計 / 豊田義一)
2. 十五夜お月さん(野口雨情 / 本居長世)
3. 雨ふり(北原白秋 / 中山晋平)
4. 花嫁人形(蕗谷虹次 / 杉山長谷夫)
5. 七つの子(野口雨情 / 本居長世)
6. リンゴのひとりごと(武内俊子 / 河村光陽)
7. きいろいきいろい歌(サトウハチロー / 中田喜直)
8. 月の沙漠(加藤まさを / 佐々木すぐる)
9. 摘草(小学唱歌[3 年])
10. 虫のこゑ(小学唱歌[3 年])
11. 牧場の朝(小学唱歌[4 年])
12. 海(小学唱歌[5 年])
13. 鯉のぼり(小学唱歌[6 年])
14. 我は海の子(小学唱歌[6 年])
15. さくら(日本古謡・中田喜直編)
16. 愛国の花(福田正夫 / 古関裕而)
17. 子守歌(野上彰 / 團伊玖磨)
18. 庭の千草(里見義 訳詞 / アイルランド民謡)
19. マリアの子守歌(べーリッツ[宇野通芳 訳詞] / レーガー)
20. 春への憧れ(オーヴァべック[上山友昭 訳詞]/ モーツァルト)
21. バルバリーナのカヴァティーナ「落としてしまった、どうしよう」(モーツァルト)
22. ツェルリーナのアリア「ねえ、あなたおとなしくしていたら」(モーツァルト)
23. ピエ・イエス(慈悲深きイエスよ)(フォーレ)
24. バイレロ(オーヴェルニュ民謡[カントルーブ編])

有山麻衣子(ソプラノ)
佐藤和子(ピアノ)
録音:2006 年3 月18 日ムラマツ・リサイタルホール新大阪(ライヴ)

ヨシ | 大分県 | 40代 | 2011年02月21日

このCD 最初の方は普通にきれいな声の演奏かな?と思いながら聴いていました。しかし聴き進んでいるうちに 色んな感情がこみあげてきて 中盤の「海」のあたりになると 知らないうちに涙を流していました。なんと言う清らかな声! こういう類の演奏は聴き手の感受性で評価が分かれるのでしょう。しかしこのCDに感動出来なかった方々は本当に可哀想だと思いまず。 因みに私はBOSEのCDラジオにAKGのヘッドフォンで聴いています。
http://www.hmv.co.jp/artist_Soprano-Collection_000000000293859/item_%E6%9C%89%E5%B1%B1%E9%BA%BB%E8%A1%A3%E5%AD%90%EF%BC%88S%EF%BC%89-%E5%B9%BB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%80%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%92%8C%E5%AD%90%EF%BC%88p%EF%BC%89_1270807

いちばん自然でいちばん美しい歌い方 投稿者 ケララ 投稿日 2014/7/6

喉奥を天にさらし額に青筋の正統派童謡歌手・正統派クラシック歌手なら世に無数で、誰を買っても誰を聴いても大差ない。いちばん自然でいちばん美しい歌い方はその中にありません。

それをついに見つけたと思ったのが、この方を聴いたとき。そしてもうお1人、雨宮知子さん。

童謡・唱歌は多くの方を聴き続けてきたが、今はこのお二方以外にありません。

ただ有山麻衣子さんは言葉が少し不明瞭気味なのが気がかりですが、最大限の軟らかさを保つためにやむをえないのかもしれません。鑑賞性には何の問題もありません。聞いたことのある童謡唱歌歌詞なら、1番から最後まですべて頭に入っているから。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3-%E4%BC%81%E7%94%BB%E3%83%BB%E6%8C%87%E6%8F%AE-%E6%9C%89%E5%B1%B1%E9%BA%BB%E8%A1%A3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88/dp/B00HY3QFJG

女性ボーカル 2014年10月07日


我が家には音楽好きのマニアがいろいろお見えになるが、総じて「女性ボーカル」は人気の的である。

先日のブログでも紹介したように「母親の胎内に居るときから女性の声を聴いているので大人になっても郷愁を覚えて安らかな気持ちになる」という説も十分頷けると思っている。

それに年齢を重ねていくと、オーケストラやオペラなど大掛かりな仕掛けを要する曲目と段々縁遠くなっていく傾向があるように思う。実をいうと自分の場合、近年こういう曲は聴く前から何だか気分が重たくなってくるのである。ベートーヴェンのシンフォニーなどは最たるもので、なかなかCDに手が伸ばないが、音楽鑑賞といっても重量級ともなると何かしらの心的エネルギーが要るのかもしれない。


さて、去る4日(土)に我が家に来てくれたオーディオ仲間たち(3名:福岡)にも女性ボーカルは総じて評判が良かった。

藤田恵美さんのCDもそうだが、とりわけ好評だったのが「有山麻衣子」さんの天使の歌声。

さすがに「宇野功芳」(音楽評論家)さんが見込んでCD化しただけあって、

「まるで心が洗われるような声!変に技巧をこらしていないので清純、可憐そのもので実に曲目とマッチしている。」

と、感嘆の声が上がった。

          

内容は「十五夜お月さん」「七つの子」「牧場の朝」などの唱歌集(全24曲)。

ちなみに、この分野では「鮫島有美子」さんが有名だが

「CDを持ってるけど何だか魅力に乏しくて、何度も聴こうという気にならない。」

と、どなたかから発言があったが自分もまったく同感。

さすがに「宇野功芳」(音楽評論家)さんが見込んでCD化しただけあって、「まるで心が洗われるような声!変に技巧をこらしていないので清純、可憐そのもので実に曲目とマッチしている。」と、感嘆の声が上がった。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/03dfd899d1bda3013b65ef1fc7e7c299

持参していた「有山麻衣子」さんのCDをじっくりと聴かせていただいた。

このCDにはKさんもゾッコンで大好評。この前の福岡の3人組も感心していたので、聴く人すべてが魅了されている。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/9574a43deed89690fc4d8576b63935de


25. 中川隆 2014年10月24日 22:34:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

モーツァルト 魔笛1

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、ウィーン・・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン国立歌劇場合唱団、演出ヘルベルト・グラーフ

ザラストロ(アレグザンダー・キプニス)
夜の女王(ユリア・オスヴァート)
パミーナ(ヤルミラ・ノヴォトナ)
タミーノ(ヘルゲ・ロスヴェンゲ)
パパゲーノ(ヴィリー・ドムグラーフ・ファスベンダー)
パパゲーナ(ドーラ・コマレク)

第一の侍女(ヒルデ・コネツニ)、第二の侍女(ステファニア・フラトニコヴァ)、第三の侍女(ケルスティン・トルボルク)

三人の童子(クルト・ペッヒ、アルバート・フュエル、フリッツ・マーシャ)

弁者(アルフレート・イェルガー)、モノスタトス(ウィリアム・ウェルニク)、司祭(リヒャルト・サラバ)、二人の武装した男(アントン・デルモータ、カール・ビッスティ)


1937年7月30日、ザルツブルグ音楽祭。NAXOSのHistorical。


▼付録のライナー・ノーツの音源の記録(英語)から:1937年にザルツブルグ音楽祭で制作された6つのオペラは8mmセレノフォン・フィルムで録音された。

6作とは、トスカニーニの『フィデリオ』『ファルスタッフ』『マイスタージンガー』『魔笛』とワルターの『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』である。

NBCはコピーを申請したが、事務員のタイプ・ミスで『フィデリオ』が落ちてしまったため、それは送られず、結局戦争で消失してしまった。他の録音はディスクに移された。この『魔笛』のテープはガードナー・コレクション(彼はトスカニーニが好んだ録音技師の一人)にあったもので、彼のトスカニーニの録音は1965年と1983年にリチャード・カニエルに遺贈された。


▼リチャード・カニエルのライナー・ノーツ"A full measure of magic" Toscanini and The Magic Flute(英語)から:ロンドンの「タイムズ」の音楽時評は1937年8月14日のコラムでこう述べていた。

「トスカニーニの『魔笛』の再創造はヘルベルト・グラーフの舞台と共に、“魔法でいっぱい”であった。

トスカニーニ師はモーツアルトには水晶の明晰さがあるという見方を取った。

彼は『魔笛』のフリーメーソンの詩句のすべては厳粛に、序曲の冒頭から終幕の合唱まで、印象的な幅と威厳をもたらしただけでなく、すべてにおいてクリアであった。

明晰なテクスチュアが最も音楽的な効果を生み出した。

特にパパゲーノの歌はもちろん、モノスタトスの“誰でも恋をする”でさえ、想像力豊かな音楽となった。

夜の女王の第2のアリアは凄い速さで、人間の声の美しさと音楽的な能力の拡充の成果となった。・・・その効果は驚くべき美しさだった」


▼宇野功芳の評価

 「史上最悪の《魔笛》だな。こんなの聴いたことないよ。

 まず序曲ですね。癇癪もちのモーツアルト。速くて、せっかちで、モーツアルトではなくて完全にトスカニーニの音楽になっているね。

 序曲が終わって、大蛇に追われながらタミーノが登場します。このタミーノが大時代的なんだよ。「俺は英雄だ」っていっているようだね。

三人の侍女がそろいもそろってみんなずり上げ専門。

ぼくにはとうていモーツアルトとは思えない。ひどいよ。フォルテも強くてベートーヴェンのようだしね。


 第三曲、タミーノのアリアも表情をつけすぎ、語りすぎ、歌いすぎです。

 第五曲、五重唱、「フム、フム、フム・・・」は元気がよすぎる。音楽を汚しちゃているんだよね。

元気良く歌えばモーツアルトになるという、ひとつのパターンがあって、不必要に元気のいい表情をつけてしまう。だからしゃべりすぎてメロディーがわからないんですよ。五人全員が表情をつけすぎ、活発すぎ、そしてずり上げる。それから変なところで音がはずむ。それがモーツアルトだと思っているからね。

 第六曲ではモノスタトスが出てくるんだけれど。どういう音楽だかさっぱりわからないですよ。メロディーを崩してしまっているから。

パパゲーノと「フー」「フー」といい合うところは、ふざけすぎ。音程をなくしちゃってるんだ。ただ奇声をあげているだけ。

音程をなくしてどうします。ハーモニーになるところもあるんだからね。
しかも、最後にアッチェレランドまでかけるんだ。


 第七曲の『愛を知るものは』というパミーナとパパゲーノの二重唱ですが、音楽の美しさがまるでわからないですね。

奴隷たちが出てきてパパゲーノが鈴を振る。この鈴の音がひどい。

チンドン屋です。音を硬くし、しかも音程を狂わせているんだな。

これはほんとうにひどいです。
トスカニーニは音楽を破壊するためにやっているようなものですよ。


 三人の童子はウィーン少年合唱団が歌っています。これが出て来るとホッとするんだ。さすがに少年はずり上げないですよ。そこだけまともな音楽という感じがする。


 第ニ幕に入ってきて、第十四曲、夜の女王のアリアは細かい音程がいい加減ですね。

 第十五曲、ザラストロはいかにも偉そう。
「俺は偉いんだぞ」といっているようです。タミーノと同じで大時代的。

 第十七曲、パミーナのアリアは、悲しみによよと泣き崩れるようですな。まあそれはそれでいいと思いましたよ。


 許せないのは第二十曲、パパゲーノのアリアの合間に聞かれる鍵盤付きグロッケンシュピールだ(鍵盤付きの鉄琴)。

歌と音程が違うんですよね。半音くらい低いんですよ。違う調がなるんだ。

ほんと、腹立たしくなって、CDを叩き壊したくなったよ。

パパゲーノが「恋人が欲しい」と哀れっぽく歌うんだけれど。
これが泣いているんだか、笑っているんだかわからないんですよ。
表情をたくさんつければいいと思っているんですよねえ。


 面白いと思ったのは、超一流の指揮者で、しかもオペラの悪しき慣習を改革していったトスカニーニと、天下のウィーンフィルが、こういう音程のずれた音楽をわざわざ求めているということですね。

ぼくだったら怒りますよ。ぼくが聴衆だったらブーイングだし、指揮者だったらそんなことはさせない。

ということはぼくが日本人だからかな、とも思った。

本場の人はそういうのは超越しちゃうのかな、

トスカニーニやウィーンフィルみたいに、あんな耳のいい連中が怒らないでやっているわけでしょ。こっちは気持ち悪くてCDを叩き壊してやりたいと思っているのに、これは面白い現象だと思った。

 とにかく、このパパゲーノのアリアをみんなに聞いて欲しいな。

日本人はみんな癪にさわると思うよ。

今のウィーンの人たちにもこれを聴かせたいね。それでどう思うのか聞いてみたい。とても耐えられないというかもしれないしね。


 第二幕の最後に大合唱があるでしょう。コーラスが全員ずり上げるんですよ。

馬鹿じゃないかと思うね。だいたいモーツアルトの演奏というのは、基本が清潔でないと駄目なんですよ。その清潔さの中で気持ちをこめていかないと。みんなでずり上げたんじゃぶち壊しですよ」
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm


______________


モーツァルト 魔笛2

ブルーノ・ワルター指揮、メトロポリタン歌劇場、マチネー興業(昼興業)の放送

ザラストロ(ジェローム・ハインズ)
夜の女王(ロバータ・ピータース)
パミーナ(ルシーネ・アマーラ)
タミーノ(ブライアン・サリヴァン)
パパゲーノ(テオドール・ウップマン)
パパゲーナ(ローレル・ハーレイ)、弁者(ジョージ・ロンドン)
モノスタトス(ポール・フランク)

第一の侍女(ハイディ・クラル)、第二の侍女(マデレーン・チェンバーズ)、第三の侍女(サンドラ・ウォーフィールド)

童子(エミリア・クンダリ、ロザリンド・エリアス、マーガレット・ロッジェーロ)
司祭(ジェイムズ・マックラケン、オシー・ホーキンス)、護衛(アルベルト・ダ・コスタ、ルイス・スガッロ)、奴隷(ヘンリー・アーサー、ジョン・フライデル、ハル・ロバーツ)

1956年3月3日

2006年のWest Hill Radio ArchivesのCD


▼リフレッシュ盤である。

ライナーノーツの宇野功方氏の評価、

 “歌手全員がワルター・チームの一員として機能し、雄弁なドラマを展開しており、タミーノ、パミーナ、夜の女王などは本当に満足できる。

でも、真の主役はもちろんブルーノ・ワルターだ。

録音日は3月3日、例のニューヨーク・フィルとの「ジュピター」をスタジオ録音する2日前であり(ちなみに同曲のライヴは1日と2日)。あの男性的な迫力と豊麗な歌に満ちた演奏をそのままオペラに移し替えたものということができよう。いや、ここにはもっと激しい、切羽つまったものがある。


 たとえば、「序曲」の導入部。まるでベートーヴェンのようなぶ厚い響きと金管の競奏。主部に入ってからのアクセントの強調やアッチレランドによる追いこみ、そして途中のアダージョの菅合奏で、三小節目にフルートが加わると金管を押さえるという芸の細かさ、ニュアンスの多彩さ、それらがオペラ全曲に及ぶのである。

 第一幕があく。ワルターは曲の終わりまでのすべてを見通している。全体を大きくつかんで、その上に立って細部を組み立ててゆく。したがって、全体が網の目のように有機的につながっており、部分的に聞くとワルターの表現に入り込めず、大きな感銘を得ることができない。”

 “歌手の表情に大時代的なずり上げなどが目立ったり、三人の童子に女声歌手を使っているのは良いとしても、ヴィヴラートなどの人間味が出すぎていたり、パパゲーノの声質に問題があったり。さらにはいくらライヴとはいえ、歌手とオケとのずれや、プレイヤーのミスが多すぎるなど、技術面では現今の水準には達していない。また、50年代は世界中が訳詞上演全盛であり、英語で歌っていることも多少の抵抗はある。”

 “ワルターの『魔笛』ほどオーケストラがものを言っている演奏は他にはあるまい。弦も菅もあらゆる声部が歌いぬく。モーツァルトが散りばめたすべての旋律が人間の声のように歌い尽くされる。それは立体的で豊麗なハーモニーがつけられ、一方においては威厳に満ちた厳しいダイナミズムが対比される。フレーズも余韻とともに消えるかと思えば、スタッカートできっぱりと立ち切られる。このように柔と剛、女性的なるものと男性的なるものが少しも反発し合うことなく、見事に溶け合っていて、表現をいよいよ多彩なものにしているのである。

 例えば、第二幕のパパゲーノのアリア「恋人か女房か」において、弱く引き始められるチェレスタが、曲の進むにつれて鉄琴を加え、パパゲーノの夢をふくらませてゆく。「二人の武士」の金管強奏、恋人を探し求めるパパゲーノの歌のスピード感、「パ、パ、パの二重唱」の加速、終幕の最後の遅めのテンポの妙、実に素晴らしさの限りである。

 ワルターは『魔笛』をモーツァルトの遺言と考えていた。そしてモーツァルトの音楽につけられたロココの衣装を剥ぎ取り、ベートーヴェンにも匹敵するシンフォニックな迫力と楽器の抉り(えぐり=意表をつく表現をする)を優先させた。それは典雅、優美なモーツァルト演奏への挑戦であった。ワルターのおかげで、モーツァルトは真の偉大さを獲得したのである。

 もちろんノリントン、クリスティのような古楽演奏による純粋音楽美を聴き慣れた今日、ワルターの表現は、ベートーヴェンに近づけようとする意志の強すぎるというのか、あまりにスケール雄大、あまりに堂々とした威容を誇りすぎているいるかもしれない。しかし、第一幕の三人の侍女の三重唱や、その後のタミーノとパミーナを加えた五重唱を始めとして、最近流行の妙なデリカシーや弱音過多gたなく、モーツァルトの音楽がどこまでの豊かにあふれ出ている点を、僕は何よりも高く評価したい。

久しぶりに耳にしたワルターの『魔笛』は、ここに旧スタイルによるベストCDとして見事に蘇ったのである。”(2006年)
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm


26. 中川隆[2869] koaQ7Jey 2016年6月13日 15:25:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3150]

85歳でも枯れない音楽家、宇野功芳の「やりたい放題」 2015/10/23

 宇野功芳(うの・こうほう)。日本のクラシック音楽ファンで宇野を知らない人はいないと思われる評論家だ。演奏の良しあしを一瞬で聴き分け、熱く語り、時には一刀両断で切り捨てる。独特の文体を未確認飛行物体(UFO)になぞらえ、UNOと呼ぶ人も。

■「語りの名人」だった父の衣鉢継ぐ

 5月に85歳を祝った今年、演奏家や作曲家、同業者と対談あるいは往復書簡で激論を交わした対話集「演奏の本質」(音楽之友社)を出版したのに続き、大阪交響楽団を指揮したベートーヴェンの「交響曲第9番『合唱付き』」(オクタヴィア)、仙台フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ヴァイオリンの佐藤久成(ひさや)と共演した「宇和島ライブ2015」(キング・インターナショナル)の新譜CD2点を発売。かくしゃくとしている。

「よい演奏」を語るとき

 宇野が実のところ、二世アーティストであることはあまり知られていない。父は映画の弁士から解説者、漫談家として名をなした牧野周一(1905〜75年)。弟子のポール牧、牧伸二が「牧」の一文字を受け継いだほどの語りの名人だった。宇野によれば「映画解説者はお笑い芸人ではないから、人を笑わせる才能には欠けたが、物語を生き生きと再現するのは、とても上手だった。70歳で亡くなる前日まで現役を貫いた」という。「この演奏の良さがわからない者は、呪われてしまえ」「切ればサッと血のほとばしるような演奏」「光彩陸離たる棒さばき」……。「UNO語」は間違いなく、牧野の衣鉢である。

 音楽好きでレコード収集にも熱心な父の影響で、童謡会に入って歌い出したのが4歳。かつて父が受験に失敗した進学校、東京府立第四中学(現在の東京都立戸山高校)に入学したものの合唱に熱中し、合唱指揮者を将来の目標に定めた。せっかく合格した大学も「合唱部の水準が低い」との理由でやめ、6年がかりで国立音楽大学声楽科に入学した。

 在学中に結核で療養生活を送った時期、たまたま書いた文章が注目を浴び、1950年代前半から音楽評論活動を始めた。批評キャリアは60年を超えるが、「音楽評論を本業と思ったことは一度もない。いつクビになっても構わないけど、合唱指揮者だけはクビになりたくない」と、宇野自身は絶えず公言する。いくつもの合唱団を指揮してレコードを制作、高田三郎作曲「水のいのち」をはじめ、名盤とされる録音も多い。合唱指揮においても自らの感性を最大限に発揮し、作曲者の指定とは異なる表現にあえて踏み込む瞬間がある。

■朝比奈隆の巨匠性を世に広める

 一方、評論の分野ではドイツ・オーストリア系の交響曲を偏愛してきた。まだ評価の定まらなかった朝比奈隆をブルーノ・ワルターやハンス・クナッパーツブッシュ、オットー・クレンペラー、ロヴロ・フォン・マタチッチら歴代の巨匠と同列に論じ、世に広めた。

 合唱指揮のキャリア、ドイツ音楽への傾倒の両面から「いっそのこと、自分でオーケストラを指揮してみてはどうか」との声が日増しに高まり、アマチュアの日本大学管弦楽団を初めて指揮したのは78年だった。

 オーケストラ指揮デビューから何年間かは「この部分はクナッパーツブッシュ風」「追い込みの加速はフルトヴェングラー調」「ポルタメント(滑るように少しずつ音程を変えていく奏法)はメンゲルベルク流」など、長年の評論体験を通じて感動、感心した表現の数々がモザイク、もっと悪い言葉を使えば「福笑い」のように羅列されていて、統一感を欠いた。最近の演奏にも「奇跡の名演」から「音楽への冒涜(ぼうとく)」まで毀誉褒貶(きよほうへん)の評価が渦巻くが、「やりたい放題」のUNOワールドでは一貫する。

 本人は「オーケストラ指揮も最初、『本業ではないから』と逃げ腰だった。でも80歳を過ぎて、それでは格好悪いでしょ? 心を入れ替えて本腰を入れ、微妙なアヤの部分まで練り上げた解釈をCDに残したくなった」と、指揮者としての「円熟」を分析する。「合唱で自分の気迫、音、色彩を出せるようになったのは80年ころ。オーケストラの指揮でも『ああ、いい音が出ているな』と思えたのは、ごく最近のことだよ」と、打ち明ける。

「つまらない演奏」に失望するとき

 「音楽評論を続けてきて良かったのは、悪い演奏をたくさん聴き、ダメな演奏のデータを蓄積できたことかな? どうしてこの人、こんなにつまらないのかと考え、少なくとも自分はそうした愚をおかさないよう努められるからね」。いよいよ、言いたい放題だ。

 例えばベートーヴェンの「交響曲第7番」。80歳の2011年9月19日、東京の上野学園石橋メモリアルホールで「宇野功芳傘寿記念日本大学OB管弦楽団」を指揮したライヴ録音盤(キング・インターナショナル)と、今年4月11日に愛媛県の宇和島市立南予文化会館で仙台フィルを指揮したライヴ録音(同)を聴き比べる。部分的に近衛秀麿改訂版を引用したり、テンポを激しく動かしたりする基本は変わらないが、最新盤では唐突さが影を潜め、楽曲全体の構造をより尊重しようとする姿勢が際立つ。

 カップリングのチャイコフスキーの協奏曲は、対話集にも登場した佐藤の独奏。これまで数々の小品集、室内楽のCDで激烈な演奏を繰り広げ、宇野の「お気に入り」となった佐藤だが、対話集ではオーストリアの音楽学者シェンカーの演奏理論を延々と説くなど、学究肌の意外な一面をかいま見せる。チャイコフスキーでも悪趣味な名人芸には背を向け、独自に究めたスローテンポの解釈でオーケストラの大音量と渡り合い、堂々の協奏曲初録音に仕上げた。伴奏指揮の宇野は拍子抜けするくらいに控えめで、ただただ佐藤の個性を際立たせる側に徹した。

 3カ月後の7月4日、大阪・いずみホールで収録したベートーヴェンの「第9」は中規模の演奏会場の特性を生かして威圧感をそぎ、モーツァルトのように清新な解釈を指向する。時々、往年の巨匠指揮者の大技を模したはったりが顔を出すが、基本は美しく透明な響きと、丁寧なフレーズの弾かせ方だ。合唱団は絶叫せず、独唱者も小ぶりで大歌手4人が声を張り合う「いやらしさ」(宇野)を排し、「品のいい音楽」をひたすら目指す。

■「いい音」を得て深まるUNOワールド

 オーケストラ指揮でのUNO語法もいよいよ、円熟境にさしかかったらしい。「なかなかさわやかな『第9』でした」と感想を伝えると、「いやあ、オーケストラが良い音を出してくれたからだよ」と照れた。ふと評論家の表情に戻り、「ここ何年かで日本はもとより、世界のオーケストラが格段にうまくなった。複雑に音が入り組んだマーラー、ショスタコーヴィチの交響曲には以前にも名盤が存在したが、指揮者の解釈はともかく、オーケストラの性能は十分とはいえなかった。今ようやく、作曲者の意図した音が細大漏らさず、出てくるようになった気がする」と、「いい音」が得られた背景を語りだした。

 オーケストラの指揮で「いい音を引き出せる手応え」を深め、実際に楽団の性能も向上しているのであれば、卒寿(90歳)を目がけ、さらなるUNOワールドの展開を期待したいところ。本人は「文章も演奏会も、若い人が読んだり来たりしてくれなくては、さびしい」といい、あくまで新たな音楽ファンに出会うための「やりたい放題」だとしている。
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO92976910Z11C15A0000000


27. 中川隆[-6850] koaQ7Jey 2017年8月06日 18:32:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

宇野功芳が死んだ!.

Facebook


Twitter




Tuesday, August 2nd 2016
連載 許光俊の言いたい放題 第249回
http://www.hmv.co.jp/en/news/article/1608020019/


 ここ30年以上、日本でももっとも影響力があった音楽評論家は、吉田秀和と宇野功芳のふたりである。これはもう間違いがない事実だ。

 しかし、このふたりは実に対照的だった。吉田の主戦場は新聞と文芸誌と放送。それに対して宇野は音楽雑誌。吉田はいかにもな教養人でインテリだったが、宇野はインテリを嫌った。吉田の評論を好む人は宇野を馬鹿にし、またその逆でもあった。吉田は、「クラシックも聴く教養主義者」にもアピールしたが、宇野はマニアに愛読されることが多かった。意外な共通点は、ふたりとも文中でときたま、自分は体が弱いと言っていたのに、長生きしたことか。

 ふたりとも、自分のスタイル=文体を持っていたが、それも対照的だった。吉田の文章は、息が長い。まず何かテーゼを立て(たいがいは、「世の中ではこう言われている・・・これが通説である・・・」)、それをめぐって展開することが多い。「それは確かにそうで云々・・・しかし」というイエス・バット型で書くのが好きだった。ただし、文章ではそういうふうに書いても、しゃべるときは先に結論を言う。書き言葉と話し言葉の使い分けをしていたのだ。うまい。賢い。

 宇野の場合は、結論を隠さず、先に書いてしまうことが多い。刺激的な比喩が連発される。しかも、「この曲の録音のベスト3は・・・」といった、これ以上なくわかりやすい文章だ。褒めるものは徹底的に褒め、けなすものは猛烈にけなした。吉田がしばしばあえてぬるく書くのとは正反対だった。

 宇野は感覚的人間だったから、時々、誰も指摘しない鋭いことを何気なく書いたが、おそらく本人は、それがどれくらい鋭いか気づいていなかっただろう。他方、吉田は自分が書く言葉の意味をすべてよく知っていたと思う。

 吉田は演奏の全体性を無視できなかったが、宇野は瞬間的な誘惑に思う存分身をゆだねた。人には固有の時間感覚がある。

 このふたりの文章はこれからも長く読み継がれていくことだろう。残念ながら、そう書くことはできない。評論家は、たとえその時代にどれほど影響力があっても、死ねば終わってしまうのが常だ。音楽に限った話でもない。今、野村光一や江藤淳の評論をありがたる人など、ほとんどいまい。読めば読んだでおもしろい。でも、何か古い新聞のようなのだ。知らず知らずのうちに時代は動いている。評論家はその中で生きていてなんぼの仕事である。そこが創作家と違うところだ。

 私はどちらとも個人的に知り合う機会がなかったが、そういう機会を作ろうとも思わなかった。評論家なのだから、文章だけ読んでいればいいのである。

 さて、一度書いておかなくてはと思っていたのが、その宇野が指揮をし、佐藤久成がソロを弾いたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲についてだ。もう1年近く前に発売された盤だ。

 実は私はこの曲が苦手である。チャイコフスキーは好きだが、ヴァイオリン協奏曲は嫌いなのである。聴くのがほとんど苦痛なのである。イライラするのである。理由ははっきりしている。第1楽章でバリバリ弾きまくる独奏、これが私にはほとんど練習(曲)にしか聞こえないのである。左手を鍛えるために、むやみと上がったり下がったり・・・。

 言い換えると、とりあえず音符はたくさん書かれているが、チャイコフスキーはあまり書きたいことがなかったのではないかと思ってしまうのである。言うことがないから、むやみと指の運動にかまけてしまったのではないか。この点が、同じようにロマンティックなヴァイオリン協奏曲として人気があるシベリウスの作品とは全然違う。シベリウスのほうは、まったく無駄を感じさせない。実はチャイコフスキーは、バレエ作品を見ればわかる通り、つじつまを合わせるためにとりあえず音符を書いてしまうことをした人だった。そういうときはいかにも気が乗らない様子が漂う。

 ところが、佐藤の録音は、この曲にはうんざりする私にとって、非常に例外的な演奏だったのだ。今までの彼の演奏を聴いたことがある人なら容易に想像できる通り、大きく伸縮し、細部まで意志を徹底し、意味づけする。そんな方法を小曲ではなく、この規模の曲で行うとどうなるか。実に不思議なことになる。たとえば、最初の登場からしてそうなのだが、基本テンポがわからないという奇妙な錯覚にとらわれる。たとえば、私が現代最高のヴァイオリニストと信じて疑わないムターの場合、どれほど音楽を崩しても、基本テンポが常に生きている。それがあっての逸脱ということがはっきりしている。これが、まずは演奏の王道だろう。ところが、佐藤の場合は、異様にたっぷりと音符を鳴らし、粘り、歌い、G線ではブレーキがかかったようにうなり、思いがけない音が強調されるので、しばしば何の曲を聴いているかわからなくなる。あの19世紀音楽の典型的なスコアが目の前に浮かんでこない。

 まだ始まって数分なのに、時間感覚が失われてしまう。よく知っている曲なのに、今どこにいるかがわからなくなってしまう。オーケストラだけのところになると、いきなり夢が覚めたみたいに普通の音楽に戻るので面食らってしまう。第1楽章の演奏時間は約20分だが、とうてい20分には感じられないはずだ。はっと気づくとまだ終わっていない・・・。退屈というものでもない、この不思議さ。

 第2楽章では、ひとつの音符がひとつの音ではなく、音色や強さを変えていく。最近有名になったヴァイオリニストの中には、まるでピアノのように、すなわち、ひとつの音の複雑さ、微妙な音程の上げ下げに無関心なヴァイオリンを弾く者が少なくない。しかし、それではヴァイオリンの表現力や可能性は大幅に割り引かれてしまう。蟻が這うようなスピードで奏されるソロについていくオーケストラには緊張感が漂う。そりゃそうでしょう。

 この楽章の終わりのほうは、まるでシューベルト「冬の旅」のとぼとぼした歩みのようでびっくりだ。そして、顔を上げると窓には光。幸せそうな笑い声。情けなさにこぼれる涙。そんな私小説的なシーンが連想されてしまう。そう、これはまさしくヴァイオリンによるオペラのアリアなのである。

 フィナーレも音楽を大きく揺さぶる。印刷された白と黒の楽譜ではなく、もっとライヴな音楽の感じがする。おそらく19世紀の演奏は少なからずこのようなものだったのではないか。リスト、パガニーニ、ラフマニノフ・・・大演奏家の演奏は魔法と呼ばれることが多かった。そんなことを思い出させる。

 それにしても、なんだか人がよく死ぬ去年から今年。最近も打楽器のペーター・ザドロ、中村紘子・・・追悼文も追いつかない。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
http://www.hmv.co.jp/en/news/article/1608020019/


28. 中川隆[-6069] koaQ7Jey 2017年10月24日 18:26:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「2018年度版!」「YouTube」の動画を安全にダウンロードする方法について
https://www.japan-secure.com/entry/blog-entry-459.html

YouTube動画変換 - MP3、MP4、AVIダウンロード
https://www.onlinevideoconverter.com/ja/video-converter


29. 中川隆[-11017] koaQ7Jey 2019年10月06日 13:52:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1808] 報告

宇野功芳さんとの和解 2016年06月13日
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1953389990?org_id=1953541938


クラシック音楽評論家の宇野功芳が亡くなった。
不死身かと思うような活動ぶりだったのではあるが、不死身ということはないとわかる。

他所のコメントで書いたのだが、けっこう個人的な内容なので、自分の日記に移すことにした。

私のクラシック音楽観の49%ぐらいはこの人と共有してきた気がする。

講談社現代新書で出た名曲名盤的な本が大ブレイクしたのではと思うが、私は諸井誠の「交響曲名曲名盤100」がバイブルだったので、諸井氏が推すカラヤン・ショルティ・アバド・レヴァインあたりの権威を、現代風の無機的なものだと、アクの強い文章で一刀両断した宇野氏はどうしても許せなかった。
大学時代に、気取ったクラシック青年と知り合いだったが、彼が宇野氏の信奉者で、ハイドシェックなどの怪しい?CDを持っているのにも失笑していた。
とはいえ、カラヤンのスタジオ録音のベートーヴェンがつまらないとか、小沢征爾より朝比奈隆の不器用さに感動するとかいうのは、同意できたので、どうにも気になって、隠れて何冊も読んでいた。

高校生から大学生にかけて読んだため、自分の発想自体が評論家的・アマチュア主義的になったところもあり、そういう意味では、自分を不良(ワル)くした大人の一人かもしれない。

アバドの若手室内オケとのハイドンを褒めるなど、嫌いな演奏家をたまにもちあげるとよい味があった。

亡くなったことで、単純に和解した気がする。
こういうことはあるのだなと思う。
こういう、精神が自由で、権威におもねらず、一生懸命活動してる人は本来的に好きだったのだ。

宇野評価軸のひとつで、カルロス・クライバーは「真の天才、ただし、深みは往年の巨匠たちに及ばない、指揮姿が美しすぎて音楽が過大評価を受けている、オペラのほうが良い」みたいなことになっている。
私はクライバーの信奉者なので、この「ただし」以降が許せなかったし、気にもなっていた。

最近、クライバーとシカゴ響の「運命」海賊盤を久々で気まぐれに聴いて、強い印象を受けた。
これはマスターテープを変な加工なしで発売できたら、有名なスタジオ録音を、ラディカルさでは一蹴するだろう。

気になっていた「大地の歌」(1967年ライブ録音で、初期海賊盤はひどい音)の正規?盤と、椿姫(1985年あたりの客席録音?)を購入。

「大地の歌」は、聴ける程度の音になっている。
「椿姫」も、割れているが臨場感のある音で、流れるような音楽性は伝わる。
調べると、クライバーの演奏記録は、ほとんどがオペラで、オケコンサートは数えるほどしかない。
宇野氏の言うように、オペラが本領の人だったのは確かだと、はじめてわかった。

オペラはわからず、再生環境もよくなかったので、聴かずにとっておいていた。
ミュージカルを聞き込んだことで、オペラがわかるようになった。

もう、若いころのように、クライバーや宇野氏のようなカリスマに強い影響を受けることもないだろう。
演奏は、それこそ世界に一つだけの花であって、ベスト盤を競うことにさほど意味もないとも気づいた。
しかし、まだ未聴の名曲名盤の宝庫がオペラにたくさんある。
クラシックの趣味のよいところかもしれない。

コメント


mixiユーザー2016年06月13日 20:43

カルロス・クライバーはフェスティバルホールで観ました(ベト4,7)。
あんな美しい指揮姿を見たことはなかったし、これからもないでしょう。
演奏は必ずしも最高ではなかったのですが。
「指揮姿が美しすぎて音楽が過大評価を受けている」
というのは、たしかにそうだと思いました。
あくまでナマ体験の話ですが。
そういう体験をすると、宇野氏のコメントはうなずけるものがあります。


mixiユーザー2016年06月13日 22:45

> mixiユーザー 

生で聴かれたのはうらやましいの一言です。
私は、クライバーもバーンスタインも、チケットは持っていて、キャンセルです。オーディオにはまった原因でしょう。のちに、ニューヨークのブロードウェイで、生で聴いたが吐き気でフラフラだったということもあります。そういう人生みたいです。

クライバーは、椿姫やこうもりやらで、軽やかな響きで胸に染み入るみたいなのが芸風なのだと思います。
ファンにとってはベートーヴェンもブラームスも大事ですが。


mixiユーザー2016年06月14日 03:06

BSのNHKでクラシックコンサートを見ると、時間合わせに演奏家のドキュメントをよく放送してます。「Traces to nowhere」というのがクライバーで、ウィーンフィルとの確執とか、バイエルン時代のうっとりするような演奏している姿とか、「欠点があるとすれば女癖の悪さだけね」とかいう歌手の話とか、テンコモリで面白かったです。

私は彼のスタジオ録音はあんまり好きでなくて、ライブのベートーベン4番とか、最近聞いた「こうもり」がとても好きです。彼はおそらく自殺で、奥さんの死がその引き金だったようです。奥さんは、なんであのクライバーがこの人と、と皆が驚くほどに静かな人でした。売れないオペラ歌手だったか。

想像ですけれど、彼の内面はその奥さんに惹かれたのでしょう。外では、美し過ぎる指揮姿、と言われ、浮名も流してそれもクライバーの確かな一面ながら、晩年につながる種と言うのか本質は、若い頃からあったのかなと思います。確か、とても指揮を嫌がる人だったと、ドキュメントでも言ってました。「冷蔵庫がカラにならないと指揮しない」と、カラヤンに揶揄されてますが、本当に指揮は嫌だったのでしょう。

それやこれやを考えると、クライバーは天才という部類に入ると思います。フルトヴェングラーも。世間との不適合と言う意味で。トスカニーニとカラヤンは入らないと思います。あくまでも私の主観ですが。「Traces to nowhere」とは、行き場がない、ですね。クライバーとしては。


mixiユーザー2016年06月15日 02:16

> mixiユーザー 

ドキュメンタリーはもうひつありますが、思い切ったタイトルだなと思います。
全盛期を知ってる人は、あんなに幸福で生気に満ちた人はいないと思うでしょうが。

私は、シューベルトの「未完成」とか、最晩年のスロヴェニアフィルとのブラ4なんかは好きです。
まさにTraces to nowhereって感じがします。


mixiユーザー2016年06月20日 16:19

われわれの世代は多感な時期に例のベストセラーにたいそう影響を受け、中には信奉といえるまで入れ込む者もおりました。ちょっと滑稽でしたね。個人の趣味のスタイルを完全に影響下に置くようなインパクトのある評論だったとも言えます。
今ふりかえると「フルトヴェングラーかワルターか」という次元の話なのですが、兎に角、今のシーンは随分遠いところに来たものだと思います。


mixiユーザー2016年06月22日 02:16

> mixiユーザー 

最近、地下鉄のトイレで、「そういえば、ベストCDとかって考える必要ないのでは?」と思いました。ベストCDとかを決めねばならない、という思い込みをここまで与えられていたとは・・・  あっぱれです。

https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1953389990?org_id=1953541938

30. 中川隆[-14968] koaQ7Jey 2019年11月13日 11:53:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2061] 報告

宇野功芳氏について
2016 JUN 23 東 賢太郎

僕がクラシックを聴き始めてまず基礎的な知識を仕入れたのはレコード芸術という月刊誌だった。多彩な評論家のレコード評を読みながらなるほどそういうものかと覚えていったから実用的な教科書みたいなものだった。

文章を読むのは入門には有益だ。クラシック音楽は楽譜と同じぐらいに言葉によって存立している。百年も二百年も前に作られて以来、数多の人が投げかけた無尽蔵の感嘆詞や文章の集積、集大成がそれをクラシックたらしめているといって過言ではないだろう。

だから我々は名曲を耳だけでなく評論という形で目からも覚えることができる。そのほうが記憶は強化できるのだ。ワインといっしょで、世間ではどういうものが三ツ星なのかを知って自分の耳で覚える。今度は別な演奏をその記憶と照らし合わせてみる。それが圧倒的に速い方法であることは僕だけでなく多くの友人が実証している。

レコ芸の論者はいろいろ個性的な方がおられた。評論家は商売なのにコマーシャリズムを見下す大木正興さんの評論の立ち位置は微妙だったが、あの硬派な権威主義とアカデミズム、一刀両断のスタンスには有無を言わせぬものがあった。原稿料で食ってもそれが自分の美学を揺るがすことはないという頑とした矜持は当時の僕にはどこか知的で格好良くもあった。あれはさすが美学科だ。

仏文科の吉田秀和さんは月評は書かない、彼はむしろ音楽に博識の文人、文学者だが、東京帝国大学という官僚養成学校の欧州文明文化の翻訳・解釈に根差した教養がご両人ともベースにあるのは同じだろう。僕は大木さんのスタンスの方が肌に合い、彼のドイツ礼賛と米国蔑視は徹底していたものだからその影響ももろにかぶった。第2外国語がなんとなくドイツ語になったのはそのせいだし、後に米国留学してもそれがなかなかぬけずに困ったものだ。

東大色濃厚のご両人に対し先日他界された宇野功芳さんはリベラルで主情的で正直のところやや軽く見ていた。ただ、他の先生たちよりも文章がわかりやすくお堅いクラシックを大衆芸能みたいにイメージさせる強みは絶大で、聞く前から聞いた気にさせてくれる。大木さん、吉田さんだと知らない自分が恥ずかしい風になるが、宇野さんは文章と一緒に聞いている気分になってくるので読んで抵抗がない。これは才能だと思った。

とくに宇野さんを見直したのは、自分で指揮をされるのを知ってからだ。音楽=教養というのは変だと思い始めていた頃で、そういうスタンスで教わったから自分は音楽の授業が嫌いだったのだと気がついたのがきっかけだ。プレーヤーの言葉、評論こそ読みたいものだと思い至るようになっていたから、指揮者でもある宇野さんのそれに謙虚になった。

彼の演奏を聞いてみると、趣味はまったくあわないが評論内容とは言行一致しており、自分丸出しでやりたい放題のすがすがしさが気に入った。なるほど音楽は「するもの」だと思い、ピアノを練習しスコアをじっくり読み始めたのはそこからだ。だから僕は六法全書より楽理書のほうが詳しくなった。これは彼のおかげといえる。

caplanその路線でいうなら、米国の経済誌インスティテューショナル・インベスター社の創業者ギルバート・キャプラン氏はあこがれの人だった。音楽教育は受けていないが偏愛するマーラー交響曲第2番「復活」のみを専門に振る指揮者として著名であり、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィル(!)とドイッチェ・グラモフォンに行っているスーパー素人である(右)。

指揮は習う必要があるので時間がない。そこで向かったのがシンセサイザーによるMIDI録音・演奏だ。91年ごろで当時そんな機具を買うのは専門家だけだった。やってみるとこちらも時間を要したが十分の満足感があった。全パートを耳で合わせながら弾くのだからオーケストラのスコアがわかるようになったが、それよりもそれをやることでピアノがもう少し弾けるようになったのが助かった。それで未完成やエロイカや悲愴交響曲の一部を弾いたりしながら、楽譜上の数々のことが腑に落ちた。

すると、だんだん他人の演奏や評論は興味がなくなり、スコアだけ見ていてイマジネーションをふくらませて、「答え合わせ」に他人のを聴くということになった。実際にシンセで録音してから誰かのCDを聞くとどういうわけかそっちもシンセ録音に聞こえてきて(耳がそういう処理をしてしまうようだ)、もちろんその刹那は自分の演奏のほうが良いと思っていた。いまそれを聴くと不遜なことだったと恥じ入るばかりだが。

そうこうしてふりかえると、もう大木氏や吉田氏や宇野氏のような聴き方をしていない自分になっていた。それがドイツ駐在の40才あたりだ。だからフランクフルトにいた3年間は、ドイツの森を歩きワーグナーの楽劇を知り、ベートーベンやメンデルスゾーンやシューマンやブラームスと同じものを食べて同じ空気を呼吸して、家にいる間は四六時中シンセ音楽作りに没頭して音楽の聴き方に決定的な転換点がもたらされた、僕の人生にとってもメルクマールとなる3年間だった。

そんなことをしながら初めて現法の社長という仕事をやったというのも嘘のようだが、自画自賛になるが必死にやって成果も出した。充実した手ごたえが残っているし、38才の小僧が会社のおかげで成長もさせていただいた。実は東京で辞令が出た時に、ドイツへ行くのが不服で会社を辞めようかと考えた。そうしなかったのはそこまでの自信も勇気もなかったからだが、今となると大正解だった。シンセで多大な時間を食ったからもっと子供と遊んでやればよかったと申し訳ないが、音楽とは僕にとってそこまで犠牲を払った特別なものだ。

宇野さんが演奏家だなと思うのはシューリヒト、クナッパーツブッシュの評価の文章だ。彼は即興性、自発性を重視しており、カチッとした枠組みをつくるハンガリー系や人工的、紋切型は嫌いだという顕著な傾向がそこに読み取れるが、自分がスコアをどう読むかに照らして評価しているというベースがあるというのは大切だと思う。教養主義の美学でなく実践的、現場的で自己流の美学だが、僕は今はそのほうが共感を持てるようになっている。

音楽は好き嫌いでいい。というかそれしかない。「名曲だから聴きましょう」はない。僕がブログにするのも楽譜までもちだすのも、知識をひけらかすためでなく、その曲がその箇所がメシより好きだからであって、その箇所を自分の手で音にしたいために何時間もピアノやシンセで格闘したからだ。こういう風になったのは多分に僕流のことなのだろうが、「クラシックを聴く」流儀にはこんなにケッタイなのもありだ。自分の好きなようにやればいいし、かくあるべしなんて決まりは一切ないということだ。

ここに至るまでの里程標として多くの演奏家や評論家の方々のお世話になったが、宇野さんにはその中でも「自分でする」という大事なスタンスを教えていただいた。ご冥福をお祈りしたい。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2016/06/23/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E6%B0%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

31. 中川隆[-14924] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:39:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2016] 報告

宇野功芳指揮新星日響のワーグナー「指環」オーケストラル・ハイライト(1993.4.15Live)を聴いて思ふ2018年8月30日
https://classic.opus-3.net/blog/?p=26807


そういえば宇野功芳さんが亡くなって早2年が経過する。

晩年は、その筆の勢いというか、かつてのキレがなくなってしまい、とてもがっかりだったけれど、例えば1980年代初頭、「レコード芸術」誌上で繰り広げられた福永陽一郎さんとのムラヴィンスキー論争などは、現在では考えられないほどの互いの持論の主張と反論の応酬であり、今思い出しても読者である僕たちが熱くなるほど激しいものだった。

当時、オイロディスクからリリースされた「ウィーン芸術週間のムラヴィンスキー」と題するLP4枚組セットについて、冒頭いきなり「エフゲニー・ムラヴィンスキー。この名前は私にアレルギーをおこさせる」と、まずは福永さんが気炎を吐いた。

今度のアルバムについても、宇野さんが「現役指揮者の中で唯一人の天才」なんて持ち上げるものだから、何だか気おされてしまって、かえって味気なくなってしまいそうだったが、1978年のライヴ録音というから、ひとつのオーケストラの常任指揮者としての在任記録も、オーマンディと並ぶ長距離不倒走者というわけだし、この際、心をあらためてジックリ耳をかたむけてみたのだ。
〜「レコード芸術」1981年4月号P200

この謙遜というより何とも慇懃な言い様に、右も左も分からない高校生ながら(当時宇野派の僕は)呆れ返らざるを得なかった。
福永さんは、シューベルトもブラームスも異様な演奏だとして数多の言葉を駆使してこき下ろし、ショスタコーヴィチについては「凄い」と賞讃しながらも感情の枯渇を指摘、さらにチャイコフスキーに至っては「評価のしようがないほどナンセンスな演奏だ」と取りつくしまがない。挙句は「蕁麻疹が出た」という有様だから僕は言葉も出なかった。

さすがの宇野さんも、これには反論の筆を執った(福永陽一郎氏のムラヴィンスキー論に反論する)。

具合が悪いのは、福永さんが、この演奏のすばらしさ、指揮者の表現力、統率力、オーケストラの能力を口を極めて絶讃し、その個性を好む趣味の人を貶すつもりはないが、ご自分は蕁麻疹が出た、といわれていることであろう。ムラヴィンスキーに対するアレルギーに、理由などはほとんどない、その拒絶反応には説明のしようがない、というのでは、これは好き嫌いの問題であって、話にならないのである。好きでも嫌いでも、良いものは良い、悪いものは悪い、というのが批評の鉄則であり、福永さんが、自分は批評家ではない、といわれても、それは通らないと思う。
〜「レコード芸術」1981年7月号P130

いかにも正論の宇野節炸裂に欣喜雀躍。
さらに宇野さんは次のように福永さんを責め立てる。

もう一つの大問題は、福永さんがムラヴィンスキーの実演を一度も聴いたことがない、という事実だ。凡庸な演奏というものは、時にマイクを通した方が良く聴こえる場合もあるが、天才の芸術になればなるほどマイクには入り切らない。
〜同上誌P130

この後も宇野さんはムラヴィンスキーの演奏の凄さを、手を変え、品を変え、訥々と論じられている。そして記事の最後を次のように締められているのである。

それにしても、福永さんがムラヴィンスキーのシューベルトやブラームスを《ロシアなまり》と称しているのには抵抗がある。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーやショスタコーヴィチを本場物だから、という理由で高く評価するのが間違いであるように、この指揮者にロシアなまりなど、ありはしない。それこそ彼の個性なのである。福永さんは、ムラヴィンスキーの演奏を「自説でしかない」とけなされているが、演奏というもの自体が、本来自説でしかないのではあるまいか。ぼくが思うに、現代の指揮者たちは自分を語ることから遠ざかっているように思う。
〜同上誌P131

演奏というものが本来自説でしかないという言葉に膝を打つ。
その通り、宇野さんも、自身がオーケストラを指揮するようになってから、自説以外の何ものでもない個性的な演奏を繰り広げた。そしてまた、(ムラヴィンスキーとは次元が違うとはいえ)彼の演奏も録音にはなかなか入り切らなかった。

「ワーグナーには小細工をしてもはじまらない。いかにオーケストラを鳴らし、雄大なスケールを表出するかだけだ」と挑戦したワーグナーの管弦楽を中心に組んだコンサートでも、宇野さんはその録音を発売することにとても躊躇したというのだから興味深い(示導動機が鮮明さを欠き、響きに立体感が乏しいという理由かららしい)。しかし、その演奏は当然とても個性的なもので、今となっては残していただけて良かったと思えるもの。

ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」よりオーケストラル・ハイライト
・「ラインの黄金」〜ワルハラ城への神々の入場
・「ワルキューレ」〜ワルキューレの騎行
・「神々の黄昏」〜夜明けとジークフリートのラインへの旅
・「神々の黄昏」〜ジークフリートの葬送行進曲
・「神々の黄昏」〜ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲
宇野功芳指揮新星日本交響楽団(1993.4.15Live)

悠久を思わせる遅いテンポで奏される「ワルキューレの騎行」は、細部まで見通すことのできる絶品。そして、「神々の黄昏」からの3つのシーンの、時間と空間を超えた魔法の妙。特に「葬送行進曲」での地の果てから蠢き、轟く音響の有機性に驚くばかり(さぞかし実演ではすごい音が発せられたのだろうと思う)。あるいは終曲の、「生への歓呼の動機」と「ワルハラの動機」の上に、「愛の救済の動機」が顔を出し、音が三層に重なり合う場面の神々しさ。

ワーグナーが自筆総譜の最終ページに書き込んだ言葉はこうだ。

1874年11月21日、ヴァーンフリート荘にて完成。もう何も言うまい!
〜日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P140

文字通り言葉がない。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=26807

32. 中川隆[-14923] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:44:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2015] 報告


ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏最終日 そして宇野功芳氏の訃報
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html


 2016年6月16日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏最終日を聴いた。最後まで緊張感あふれる素晴らしい演奏だった。

 曲目は、前半に11番と13番、後半に14番と15番。親しい人が死に、自分の死が近づいていることを意識する時期のショスタコーヴィチの陰鬱で複雑な感情が描かれる曲。ショスタコーヴィチが信頼し、彼の弦楽四重奏曲を初演してきたベートーヴェン・クァルテットのメンバーの死を追悼する意味の含まれる曲が多く、それぞれの楽器の使い方が曲により異なる。

パシフィカ・クァルテットはそれらの曲の複雑な表情を実に鮮烈に、しかも緊張感にあふれて再現した。強い音の表現がみごと。四人の息もぴったり。やはり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を連想する。独特の境地とでもいうか。ただ、とりわけ第1番に関しては、私にはまだまだ理解できないと思った。中学生だったか高校生だったかのころ、初めてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いて途方に暮れた時のことを思い出した。まだまだショスタコーヴィチに関して、私の修行が足りないということだろう。

いずれにせよ、私はショスタコーヴィチについては交響曲よりも室内楽のほうにずっとひかれることを改めて感じた。交響曲は大衆を意識し、ソ連当局を意識するので、内面そのものでなく、あれこれと政治的な言い訳を加えたり、韜晦を加えたりといった余計なものがたくさんある。が、室内楽にはショスタコーヴィチの屈折した内面がそのまま表れる。そこが最高におもしろい。とりわけ、弦楽四重奏曲を最初からずっと聞いていくとその人生の軌跡が見えてくる。しかも、このパシフィカ・クァルテットはそれを最高の生々しさで描いてくれる。

このような最高の企画をしてくれている横浜楽友会に感謝。

といいつつ、鶴見に通って4日間ショスタコーヴィチを聴くというのはなかなかつらい。このところ食欲がなく気が晴れない(といいつつ、一昨日は銀座三越のレ・ロジェ・エギュスキロールで実においしいフランス料理を食べたが)のはショスタコーヴィチの気分を引きずっているからのような気がしてならない。

なお、数日前、ショスタコーヴィチ連続演奏に通っている間に音楽評論家の宇野功芳氏死去の報道に接した。私は高校生、大学生のころ、氏に非常に大きな影響を受けた。その後、氏のあまりに断定的な表現、芸術に順位をつけるような考え方に反発し、私にとって最も嫌いな評論家になっていた。しばしば氏の批評に腹の立つことがあった。だが、CDを聴き、自分なりに感想を抱いた後、宇野氏の評を読むと、私の感想とそっくり同じであることに驚くことも多かった。

5、6年前、一度、出版関係者の紹介で話をする機会(ベストセラー作家であり、クラシック音楽好きで、音楽関係の著書も数冊あると私は紹介された)があり、率直に私の思いをお話しすると、「宇野功芳と対決するという本でも出しませんか。いつでも受けて立ちますよ」といわれた。ちょっと考えたが、音楽に対する知識でとうてい氏に及ぶわけはないと思ってあきらめた。今となってはよい思い出だ。合掌。


コメント


宇野さんはここ数年過去に自分の言った言葉の数々に囚われてしまったようにかんじられました。音楽を聴くときに言葉に囚われることの悲劇というのを、自分は過去ある演奏者の方から直接聞いたことがあります。それをふと思い出してしまいました。
投稿: かきのたね | 2016年6月19日 (日) 03時24分



幻に終わった宇野功芳氏との対決本、もしできていたら、面白い本になったかもしれませんね。読者も参加できたら(投稿か何かの方法で)、私も一言くらいは参加したかも‥と思ってしまいました。
投稿: Eno | 2016年6月19日 (日) 18時12分



かきのたね 様
おっしゃる通りですね。確かに、あのように断定的な言い方をすると、のちに考えが変わったり、別の視点で聴き返してみたりしたとき、前言を翻すのが難しくなってしまいますね。ある意味で自分の成長を自分でとどめてしまうことになるかもしれません。しかも、氏の場合、以前と矛盾したことを書くと鬼の首を取ったようにあげつらうアンチも多かったようですし。あのような文体も一つの芸だったとは思いますが、ご自分へのマイナス面のあったのでしょう。
投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 21時58分


Eno様
宇野氏の追悼本として、そのような本の企画をどなたか考えてくれませんかねえ。それがもっとも宇野氏にふさわしい本になるように思います。多くの投稿者が一つのオマージュとして宇野氏への批判をするような本です。私も一人の投稿者として加わりたいですね。

投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 22時07分
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html

33. 中川隆[-13813] koaQ7Jey 2020年3月18日 15:35:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1069] 報告
実は、戦後の音楽評論家ということで、吉田秀和VS宇野功芳というのも書きたかったのだけれど、梶原一騎を書いていたら長くなって力尽きてしまったのである。ま、このテーマはいずれそのうち。
 今年は風邪も多いに流行っているらしく、私も珍しく寝込んでしまった。積んである本でも読もうかと思ったら、

宇野功芳の『楽に寄す』(音楽之友社)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3-%E6%A8%82%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%99-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211298


というのが目についたので、開いてみた。ひとつひとつはそれほど長くないエッセイを集めたものである。

 これが、心地よい本だった。幸福な老人の書いたものという感じがするのである。ゆったりと温泉に浸かり、好きなすしを食べ、いいと思う演奏家を堪能する。昔の宇野氏には、不幸と言うと大げさだが、不幸ぶっているポーズがあった。それが、愛読者を魅了していた。なんたる変貌か。

 この変貌を私はすばらしいと思う。若者が不幸ぶるのは、よい。むしろあまり幸せそうにしていると馬鹿に見える。が、老人は幸せそうにするべきである。

 それにしても、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュに入れあげていた氏が、現在では彼らに対して冷静になっているとあまりにも素直に書いているのには驚いた。それどころか、モーツァルトに対してすら。まさに人は変わるのである。時代も世界も変わる。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1212060065/

34. 中川隆[-11733] koaQ7Jey 2020年8月23日 17:27:15 : 3D87TwaUD6 : VGk5NUNOMk5FNVU=[30] 報告
372名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 13:56:52.69ID:kIJfUgQ5>>373
音楽史に残らない作品はすべて音大卒レベルなのさ

ニーチェも作曲したけど誰にも相手にされてないだろ

373名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 14:30:12.29ID:3Ng+UBUT
>>372
極論だな。よそで話に登ったグラウプナー、200年間楽譜がお城に私蔵というか死蔵されたせいで、200年間音楽史から無視されたさ。音楽史の価値観もゴロゴロ変わってる。ニーチェだして得意げな顔してるお前、阿修羅のなかがわたかしくんそっくりだな。知られていないのと音大卒レベル云々は全く繋がらない筋だ。
グールドの作品は嫌でも音楽史に残る。一時期フルトヴェングラーの交響曲第二番流行りかけたが、フルトヴェングラーファンでも付いていけなくて、結局フルトヴェングラー作曲家は本人の意思に反してボツっているが、音大卒ではないだろ。グールドのフーガ、久しぶりに聴いてみたけど、発想も技術も高レベル。並みの音大卒では怖くて出来ないこともしているし。

374名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 16:10:40.96ID:kIJfUgQ5>>377
グールドは著名なピアニストだったから作曲したものも一応記録として残ってるだけさ。
天才の恋人の名前が永遠に残るのと同じ

375名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 16:22:27.60ID:kIJfUgQ5>>377
どんなブスでもマスコミに出ると美女扱いだろ
アントニオ・ブレンターノとかいうブスおばさんも伝記では絶世の美女扱いだもんな

376名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 16:37:07.16ID:kIJfUgQ5>>378>>379
グールドに匹敵する天才ピアニストが主人公のドラマが有ったね:

ドラマ・・・この世の果て 1994 VHS - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bPyfJtwcWQs&feature=emb_title
https://www.youtube.com/watch?v=PeRHosIVNCA&feature=emb_title
https://www.youtube.com/watch?v=mV205mH-ohg&feature=emb_title
https://www.youtube.com/watch?v=nu8r4PkZc6A&feature=emb_title
https://www.youtube.com/watch?v=ImxblWCJXIE&feature=emb_title
https://www.youtube.com/watch?v=_O3r_r-at40&feature=emb_title


グールドと人間性が似てるよね

377名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 16:40:18.98ID:3Ng+UBUT
>>374
>>375
お前が音楽史家でもなければ後世の評価についての予言者でもない。つまり、ためにするいちゃもんつけならあらゆる事に対して何でも言えるわな、それくらいのこと分かった上でやってるならネジけた心根、分かってないなら幼児性の抜けない特上のばぁか、どっちでも、5ちゃんねるらしい脳足りんだ。違う?

379名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 16:57:12.29ID:3Ng+UBUT
>>376
次はそんな脚色まみれのものじやなくて、
ダイレクトにグールドのフーガの分析合戦やろうよ、暇なんだろ?楽譜も手元にあるんだろ貶すくらいだからさ。用意できたら教えてね。

380名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:05:34.90ID:kIJfUgQ5

音楽学者には音楽はわからないというのが定説さ:
以前柳田邦男氏が、「人生の1枚のレコード」と題するエッセーでメンゲルベルクの指揮するバッハの「マタイ受難曲」に言及し、その感動的な演奏に対する深い想いを書いておられることを思い出した。その中で「追記」された文章があり、それがとても印象的で、僕の今回の体験と何となく同じようなニュアンスを感じたので、その部分を抜粋させていただく。

-------------------------------------

メンゲルベルク指揮のマタイ受難曲は、心を病んでいた私の次男・洋二郎も何度となく聴いていたレコードだった。1993年夏、自ら命を絶った洋二郎の遺体を病院から引き取って家に帰った時、偶然にもマタイ受難曲のアリア「主よ憐れみたまえ」がテレビから流れた。

「憐れみたまえ、わが神よ」をテーマ曲にしたアンドレイ・タルコフスキーの映画『サクリファイス』が、まさに終わろうとしていたのだった。私は、立ちすくんだ。それ以後、マタイ受難曲は、私にとって人生全体をゆさぶられるような重い曲となっている。

なお、音楽美学やドイツ音楽史の専門家で国立音楽大学教授の礒山雅氏は、詳細な作品研究の著書『マタイ受難曲』(東京書籍)のなかで、メンゲルベルク指揮のこの演奏を、バッハの基本からはずれていて、とくにテンポの伸び縮みがあまりにも恣意的だと、きびしく批判し、

「聴いていて途方に暮れ」
「うんざりする」

とまで書いている。批判は演奏に対してだけでなく、聴き手に対しても向けられ、

「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」

と冷笑している。どうやら楽譜を読みこなす力のない私や息子は、マタイ受難曲を聴くには失格らしいのだが、音楽とは人生の状況のなかでの魂の響き合いではないかと考えている私は、「それでもメンゲルベルク指揮のあの演奏は私の魂をゆさぶる」という感覚をいまも抱いている。
「かけがえのない日々」(柳田邦男著)

381名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:06:47.48ID:kIJfUgQ5
音楽は右脳で聴くものだ
音楽学者は左脳で聴いているから、音楽ではなく言語として理解してしまうんだな

382名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:10:32.79ID:kIJfUgQ5

宇野功芳 V S礒山雅?

 たまたまバッハ学者、礒山雅氏の『マタイ受難曲』(東京書籍)を読んでいたのである。あの傑作に含まれる1曲1曲についてあれこれ解説を加えた本だ。とはいえ、一般読者を想定して、語り口は平易。『マタイ』好きなら、持っていてよい1冊だ。特にバッハがキリスト教をどう自分のものにしていたかということが詳しく触れられているのが私には興味深い。

 この本の最後のほうでは、約40種類の録音について著者の意見が記されている。これがなかなかおもしろい。

高く評価されているのは、たとえばレオンハルトやショルティ。この組み合わせには、えっと思う人もいるかもしれない。その反面、かねてより名演奏と誉れ高かったクレンペラー、カラヤン、そしてメンゲルベルクには冷たい。そして、古楽系でもコープマンには否定的。

氏の判断基準ははっきりしている。彼らが個性的な指揮者だとは認めたうえで、作品そのものの表現や力や性格を無視しているのがダメだと言うのだ。
クレンペラーについては、かつて若き日に愛聴したものと記したうえで、問題点が指摘されている。

メンゲルベルクに対してはことのほか厳しい。
「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」
「聴いていて途方に暮れる」
「うんざりする」
のだそう。もっとも、その理由はきちんと記されているし、もし自分が聴衆のひとりだったら、圧倒されるだろうとも記されているが、何だか大人の配慮というか、言い訳っぽい。

 

383名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:11:07.06ID:kIJfUgQ5>>384
ちょうどこの本を読んでいたら、そのメンゲルベルクの新たな復刻(オーパス蔵)が送られてきた。開いてみると、解説書の中で宇野功芳氏が大絶賛している。

「われらの宝」
「バッハ時代のスタイルを金科玉条のものとし、この演奏に感動できない人の、なんと哀れなことか」。

礒山氏の意見とはあまりにも見事に正反対なので、笑ってしまった。

はいはい、礒山氏は哀れなわけね。


 この場合、どちらの意見もそれなりに正しいというしかないだろう。メンゲルベルクならではの演奏様式が平気な人にとっては、一回限りの燃えるライヴの魅力が味わえようし(特に合唱の没入ぶりはすさまじい)、生理的に我慢できないという人には、論外な演奏だろう。ただし聴いているうちに慣れてきて、抵抗感が薄まる可能性は高い。音質のほうも聴いているうちに徐々に慣れてくる。手元にあるフィリップスのCDと比べたら、ノイズをカットしていない分、音質は明瞭。この演奏が好きなら、買い換えてもいいだろう。

 とはいえ、初めてこの曲を聴くなら、まずはもっと新しい音で聴いたほうがいい。古楽ならレオンハルトの演奏がよいけれど、オランダ系古楽の常でドラマ性が薄く、残忍、残酷、血の匂い、要するに生々しさが足りない。古楽系は、最後まで聴いてもカタルシスがなく、。あの終曲があまりにもあっさりしてしまうのだ。
私が一番好きなのは、リヒターの最後の録音である。昔から褒められている最初の演奏より、いっそうドラマティックで濃厚である。

 バッハと言えば、今年のラ・フォル・ジュルネはバッハ関係である。例によって小さなホールの公演はあっという間に完売になるのが困ったものだ。それに、せっかくコルボが「マタイ」をやるのに、とてもクラシック向けとは言えない巨大ホールが会場というのも困る。コルボ自身はPAを気にしないというが、聴くほうはそうではない。せっかくの催しだけれど、毎年あのホールだけは何とかならないかと思う。幸いコルボは、「ロ短調ミサ」のほうはまだしもまともなほうのホールで演奏してくれる。

ちなみに、礒山氏はコルボの「マタイ受難曲」は「厚化粧の美女」みたいと言っている。いいじゃん、厚化粧の美女。嫌いですか。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

385名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:23:26.83ID:kIJfUgQ5

楽譜というのはあくまでも作曲・演奏の為のツールだからね
音楽は美術や詩と同様に無意識をイメージ化したものだから
音楽がわかるというのはその無意識の原型を知る事なんだ
楽譜が読めるかどうかは音楽がわかるかどうかとは全く関係ない

35. 2020年8月23日 18:09:39 : 3D87TwaUD6 : VGk5NUNOMk5FNVU=[31] 報告
388名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:37:54.86ID:WZr4YT3l
楽譜を読める人と読めない人の「わかる」は違うとしか言えんな

389名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 17:39:31.98ID:kIJfUgQ5>>390
原始人も音楽が大好きだけど楽譜なんて読めないだろ

36. 2020年8月23日 19:16:55 : 3D87TwaUD6 : VGk5NUNOMk5FNVU=[32] 報告
394名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 18:23:51.90ID:kIJfUgQ5>>395
ベートーヴェンの第九でもフルトヴェングラーの名盤以外は誰も聴きたくないだろ
演奏家によって曲の評価自体が天と地ほど変わって来るんだ
ましてや楽譜を見て曲の評価ができる訳ないんだ

397名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 19:08:07.94ID:kIJfUgQ5
そんな下らない音楽を聴いて貴重な時間を潰したくないだけさ

398名無しの笛の踊り2020/08/23(日) 19:15:01.23ID:kIJfUgQ5
バッハでもモーツァルトでも聴く価値が有る音楽なんか一握りしかないよ
それ以外は聴くだけ時間の無駄さ
ましてや金にもならないのに自分で下手な楽器弾くとか逝かれてるんだな

37. 2020年8月23日 20:02:17 : 3D87TwaUD6 : VGk5NUNOMk5FNVU=[33] 報告
>聴かないでなんでくだらないと分かる?

いい曲ならみんなが演奏するからわかるのさ
専門家が下らないと言ってるヴィヴァルディの人気が有るのは名曲だからさ
音楽学者より一般庶民の耳の方が正しいんだ

38. 中川隆[-6849] koaQ7Jey 2021年3月08日 03:18:51 : tSqicI5Edc : U3czV0FueHVQeEk=[4] 報告
アムステルダムでのマーラー作品演奏記録

メンゲルベルクが第4番を録音した1930年代は驚く数の上演をしており
第8番や第7番のようなものでも定期的に演奏会に載せていた。
ワルターも1933〜38年に客演しておりその中には3番の演奏も含まれている。


Amsterdam Royal Concertgebouw Orchestra (RCO) Mahler performances (1903-2017)
https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/amsterdam-royal-concertgebouw-orchestra-rco-mahler-performances/

メンゲルベルクのコメントは、彼の作品への感謝と賞賛からだけでなく、
彼の音楽との完全な一体性から生じたものであるため、
彼が非常に真剣に受け止めたものでした。
マーラーの作曲方法を理解していたため、メンゲルベルクはわずかな欠落や
欠陥を指摘することができました。
多くの場合、いくつかの小さな調整で解決できる問題。
さらに、マーラーの作業方法には、実際に音に不満がある場合に
スコアを変更することが含まれていました。彼はリハーサルのたびに変更を加え、
メンゲルベルクに直接渡しました。これらは偶発的な変更ではありません。

マーラーは、彼が指揮するスコアに何百もの音符と楽譜を書きました?
4番目には、1000以上ありました!

メンゲルベルクは、新しい提案で各改訂に対応します。
彼はマーラーの友達以上のものになりました。
彼は信頼できる相談役に成長しました。
(その他、第7番の自筆譜の贈呈などの記事あり)

https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/gustav-mahler-himself-in-amsterdam/
https://mahlerfoundation.org/wp-content/uploads/2015/01/mov1remarksmahlerandmengelberg500.jpg


210名無しの笛の踊り2021/03/07(日) 17:53:27.59ID:ddVbadUn

ワルターのアムステルダムでの巨人(1947)に微妙な食い違いに感じるのは
引退してまもないメンゲルベルクが託した奏法の書き込みを
必死に掻き消そうとあれこれテンポを動かそうとしてるとこだろうと思う。

というのも、マーラーは5〜8番について楽譜に書いていないアイディアを
手紙でメンゲルベルクに託すほど、緊密な仲にあったと言われ
ACOのパート譜には、メンゲルベルクの独自の見解も含め
多くの書き込みがしてあり、団員がそれを血肉のように消化していたからだ。

2楽章も中間を過ぎる頃になって、ワルターも諦めがついたのか
オケの自由に任せるようになって、歌い回しがこなれてきている。
最終楽章では、それが災いして統率を取らずに響きが乱れる。
(バイエルンではこうしたひねくれた態度を取らずキッチリ決めている)

クレンペラーも1951年に復活のアムステルダム客演を果たしているが
その堂々とした振舞いとは全く逆の態度のようにみえる。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1613632372/l50

39. 中川隆[-12407] koaQ7Jey 2023年8月02日 09:32:19 : fcN6JztXr6 : WWJ4OHZIODNCbnM=[8] 報告
ブルーノ・ワルター(1876年9月15日 - 1962年2月17日)指揮者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14010876

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト

▲上へ      ★阿修羅♪ > リバイバル3掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧