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尖閣について書いたHPを見つけたので貼っておきます。
沖縄はもちろん日本だけど、尖閣は沖縄とは関係無いのかもしれないですね:
「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明
井上 清 Kiyoshi INOUE
筆者紹介:1913年高知県生まれ。1936年東京大学文学部卒業。京都大学名誉教授であったが、2001年11月23日87歳で逝去された。著書に「条約改正」「日本現代史T=明治維新」「日本の軍国主義」「部落問題の研究」「日本女性史」「日本の歴史・上中下」等がある。
この論文は、1972年10月現代評論社から出版された井上清氏の著書『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』が釣魚諸島問題と沖縄の歴史との2部構成であるうち、釣魚諸島問題に関する第1部の全文であり、1996年に著者の同意を得、転載するものです(転載責任=巽良生1996-10-14)。なお、本論文は、1996年10月10日第三書館から上記と同じ書名で再刊されました。
Copyright by K. Inoue 1972
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内容:
1なぜ釣魚諸島問題を再論するか
2日本政府などは故意に歴史を無視している
3釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
4清代の記録も中国領と確認している
5日本の先覚者も中国領と明記している
6「無主地先占の法理」を反駁する
7琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
8いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
9天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
10日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
11天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
12日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
13日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
14釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
15いくつかの補遺
林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」、釣魚諸島位置図、釣魚諸島略図
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一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか
昨年(一九七一年)の十一月はじめ、私ははじめて沖縄を旅行した。主要な目的は、沖縄の近代史と、第二次大戦における日本軍の「沖縄決戦」の真実を研究し、とくに二十余年にわたる米軍の占領支配とそれに抗する沖縄人民の偉大なたたかいの歴史に学ぶために、沖縄の土地と人間に、親しく接し、沖縄のいろいろな人の考えや気持をできるだけ理解し感じ取ることであった。むろん、そのための文献も得たいと思った。
私はさらに、いま日本と中国の間に深刻な領有権争いのまとになっている、沖縄本島と中国の福建省とのほぼ中間、台湾基隆(キールン)の東およそ百二十浬(かいり)の東中国海に散在する、いわゆる「尖閣列島」は果して昔から琉球領であったかどうか、それをたしかめる史料を得たいとも願っていた。私の貧弱な琉球史に関する知識では、この島々が琉球王国領であったという史料は見たことがないので、沖縄の人に教えを受けたいと思っていた。
さいわいこの旅行中に、沖縄の友人諸氏の援助をうけて、私は、いわゆる「尖閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここを日本が領有したのは、一八九五年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであり、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、一九〇〇年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを知った。
これは大変だ、と私は思った。「尖閣列島」−−正しくは釣魚諸島あるいは釣魚列島とでもよぶべき島々(その根拠は本文で明らかにする)−−は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。
領土問題はいたく国民感情をしげきする。古来、反動的支配者は、領土問題をでっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた。再起した日本帝国主義も、「尖閣列島」の「領有」を強引におし通すことによって、日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている。
一九六八年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。またこの近海は、カツオ・トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる。すでにアメリカ軍は、一九五五年十月以来、この列島の一つである黄尾嶼(こうびしょ、日本で久場島という)を、五六年四月以来赤尾嶼(せきびしょ、日本で久米赤島とも大正島ともいう)を、それぞれ射爆演習場としている。そして日本政府は本年五月十五日、ここがアメリカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れることを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島)には、電波基地をつくるという。周囲やく十二キロ、面積やく三百六十七へクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる。
この列島の経済的および軍事的価値が、大きければ大きいほど、日本支配層のここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる。すでに一九七〇年九月、これらの島がまだ米軍の支配下にあった当時でさえ、日本政府は、海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させたことがある。また本年五月十二日には、政府は、五月十五日以降は、もし台湾省その他の中国人がこの海域に来た場合には、出入国管理令違反として強制退去させ、さらに、もし彼らが上陸して建物をたてた場合には、刑法の不動産侵奪罪を適用することとし、海上保安部と警察をして取締りに当らせると決定している(『毎日新聞』一九七二・五・一三)。こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつくりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っている。
それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにすることは、アジアの平和をもとめ、軍国主義に反対するたたかいにとっては、寸刻を争う緊急の重大事である。私は、沖縄の旅行から帰ると、すぐこの列島の歴史を調べにかかった。そして年末には、ここは本来は無主地であったのではなく、中国領であることは、十六世紀以来の中国文献によって確かめられること、日本の領有は、日本が日清戦争に勝利して奪いとったものであることを、ほぼ確認することができた。
まだはっきりしない点も多かった。ことに日本の領有経過には、重要な点で、わかっていないこともあった。しかし、私はそのときすでに、七二年一月初めには西ドイツ旅行に出発することにきまっており、それはもはや変更できなかった。そこで私は、とりあえず、わかっていることだけまとめて、「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論文の要旨を、一般向けに簡単に書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせることにした。
そのとき私は、次のように考えていた。
−−もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわかっている。私などには見当もつかぬ史料で、専門家にはすぐ思い当るような文献も、たくさんあるだろう。しかし、とりあえず、いま急がなければならないのは、釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それが完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のを、くいとめるために、歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである。りっぱな、完成された論文ではなくても、基本的な事実はこうだと、いまわかっていることだけでも、すぐ出すことが大切だ。この拙い論文でも、まだ歴史家は誰も公然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的論議をさそう一助ともなれば、つまり玉をみがく他山の石の役目は果せるであろう。−−
こんな考えで、本年一月はじめに小論を『歴研』編集部に渡したまま、私はヨーロッパへ旅立ち、三カ月ほどして、三月の末に帰国した。その間に、小論は学界に何の反応もおこさなかった。まじめに小論を批判し、誤りを正し、足らざるを補うてくれる論文が、一つも出なかったばかりか、小論を全面的に誤りとするものもなかった。
要するに、小論はすっかり無視され黙殺されている。
小論自体のなりゆきなどはどうでもよい。たが、釣魚諸島は無主地であったのではなく、元から中国領であったし、現在も中国領であるという中国の主張が、歴史解釈についての科学的で具体的な反論もなしに、高飛車に否定されて、日本の領有が既成事実とされていくことは、日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわることであると、何らの誇張もなしにあえていわねばならない。
琉球政府や日本政府が、中国の主張を全く無視しているだけでなく、私の旅行中の短い間に、日本軍国主義の復活に反対と称する日本共産党も、佐藤軍国主義政府と全く同じく、いやそれ以上に強く、「尖閣列島」は日本領だと主張し、軍国主義とにせ愛国主義熱をあおり立てるのに、やっきとなっていた。社会党も、日中国交回復、日中友好に力をいれていながら、「尖閣列島」は日本領だと主張することは、政府および反中国の日共と全く同じである。『朝日新聞』をはじめ大小の商業新聞も、いっせいに筆をそろえて、政府と同じ主張を書きたてていた。じつにみごとな、そして何という恐ろしい、「国論の一致」ではないか。
この「国論」と真向うから対決し、日本帝国主義の釣魚台略奪をゆるすなと、公然と人民によびかけ、たたかっているのは、政治党派としては、現在のところいわゆる新左翼のセクトが一つあるだけである。去年の秋には、べつの新左翼の組織が、同じようにたたかっていたが、その派の指導部が変わってからは、もはや釣魚諸島のことはとりあげなくなった。ほかのいわゆる新左翼諸派も、全く釣魚諸島問題をかえりみようともしない。日中友好の諸団体さえ、その機関紙誌に、日本側の主張の根拠のないことをつこうとする「研究会」の文章をのせたり、また釣魚諸島は中国領だという個人の署名入りの文章をのせたりするものはあっても、それらの団体が、その団体として、公然と、日本政府の中国領釣魚諸島略奪に反対する、ということを公式に決定し、反対運動を展開しているものは、一九七二年六月はじめの現在までに、まだ一つもあらわれていない。沖縄では、私が旅行した当時すでに、労働組合もふくめすべてのいわゆる民主団体も、「尖閣列島の開発」に、早くも熱をあげていた。
まことに重苦しい情況である。そうであればあるほど、私たちはいっそうの勇気と情熱をもって、その打開に立ち向わねばならない。私は、あらためて、釣魚諸島の歴史の研究にとりくんだ。ことに今度は、明治維新以後、日本政府は、どのようにして、どんな情勢下に、釣魚諸島を領有していったかの解明に、力をそそいだ。幸いにして友人諸君の援助をうけて、重要なことはほぼ明らかになった。まだ足りない点もある。たとえば完全を期するためには、見なければならぬ地図で、まだ、探し当てていないのもある。イギリス海軍の一八八〇年代前後の水路誌には、釣魚諸島が中国領であることを明示する記述がありそうに思われるのに、それを見ることができていないのも、何とも気がかりである。
けれども、気のついたかぎり、前回の小論の足りないことは補い、あやまりは訂正することができた。それゆえ、私は、ここでいちおうの区切りをつけて、急進展する情勢にちかずけるため、あえてこれを印刷に付する。
この論文の主要な課題は二つある。
第一は、釣魚諸島はもともと無主地でなくて中国領であった、ということを確認することである。これは、前回の小論で、叙述のしかたはまことにたどたどしかったが、基本的には達成したと信ずる。今回は、さらに有力な史料をいくつか加え、叙述を整理し、前回よりもいっそうはっきり、ここが中国領であることを明らかにできた。この部分は前回の論文と、重複するところが相当あるのは、さけがたいことである。
第二は、日本がここを領有した経過と事情を、明らかにすることである。これは、前回の小論では、きわめて不十分であった。今回は、この領有が日清戦争の勝利に乗じた略奪であることを、当時の政府の公文書によって、かなりくわしく明らかにできた。そして、私はここに、前回の論文の不十分というよりも誤りを訂正しなければならない。
すなわち、前論で、この略奪を日清戦争における日本の勝利と結びつけたのは正しかったが、さらにこれを日清講和条約(下関条約)第二条と直接に結びつけ、台湾とその付属島嶼を奪った中に、釣魚諸島もふくまれているかのように書いたのは、正しくなかった。正確にいえば、台湾と澎湖島は下関条約第二条により、公然明白に強奪したのであり、釣魚諸島はいかなる条約にもよらず、対清戦勝に乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取したのであった。しかもこの強奪と窃取は、時間的につらなっているのみか、政治的にも一体不可分のものであった。このことを論証するのが、本論の第二の課題である。
本論にあやまりがあれば正し、足りないことは補ってくださるよう、読者のみなさんの御援助をお願いする。
二 日本政府などは故意に歴史を無視している
現在の釣魚諸島領有権争いにおいて、日本側が最初に、公的にその領有を主張したのは、一九七〇年八月三十一日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。それは日本領であるという根拠については、「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。
この立法院決議をうけて、琉球政府は、同年九月十日「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を出し、さらに同月十七日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。後者は、琉球政府がこの列島の領有権を主張する根拠を系統的にのべている。それは、まず一九五三年十二月二十五日の琉球列島米国民政府布告第二十七号により、尖閣列島はアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることをのべ、つづけて次のようにのべている。
(1)この島々は、十四世紀の後半ごろには、中国人によってその存在を知られており、中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために琉球に派遣する使節−−冊封使(さくほうし)−−が、中国の福州から琉球の那覇の間を往来したときの記録、たとえば『中山傳信録』や『琉球国志略』その他に、これらの島々の名が見える。また琉球人の書いた『指南広義』付図、『琉球国中山世鑑』にも、この島々の名が見える。
しかし、「十四世紀以来、尖閣列島について言及してきた琉球側及び中国側の文献のいずれも、尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献としては、林子平の『三国通覧図説』があります。これには、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼(いわゆる尖閣列島の島々−−井上)を中国領であるかの如く扱っています。しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。彼はこの傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、三国通覧図説を作成いたしました。このさい三十六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台、黄尾嶼などを、機械的に中国領として色分けしています。しかし傳信録の航海図からは、これらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。」
要するにこの列島は、「明治二十八年(一八九五年)に至るまで、いずれの国家にも属さない領土として、いいかえれば国際法上の無主地であったのであります。」
(2)「明治十二年(一八七九年)沖縄に県政が施行され、明治十四年に刊行、同十六年に改正された内務省地理局編纂の『大日本府県分割図』には、尖閣列島(尖閣群島のあやまり−−井上)が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている。」そのころまでここは無人島であったが、明治十七年(一八八四年)ごろから、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業をはじめた。「こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。」
(3)「さらに一八九三年(明治二十六年)十一月、沖縄県知事より、これまでと同様の理由をもって、同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申して来たため、一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日、内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。」そこで「翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議決定で、沖縄県知事の上申通り標杭を建設させることにした。」
(4)「さらにこの閣議決定にもとづいて、明治二十九年四月一日、勅令第十三号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行はれています。」
琉球政府の声明は、これにつづけて、右の「国内法上の編入措置」について、るる説明というよりも弁明をしている。その部分もふくめて、この声明の全文は、一見、ありのままの史実をのべているかのようで、ひじょうに多くの重大なごまかしやねじまげがあり、また重要な事実を、故意にかくしてもいる。それらは後にいちいちばくろする。
本年(一九七二年)に入ってから、日本政府外務省の統一見解(三月八日)、朝日新聞社説(三月二十日)、日本社会党の統一見解案(三月二十五日)、日本共産党の見解(三月三十日)、そのほか多くの政党や新聞の尖閣列島日本領論が出されたが、それらはいずれも、右の琉球政府声明以上にくわしい、あるいは新しい「論拠」を示したものではない。そしてそれらはみな、その「尖閣列島」領有権の主張の根底を、これらの島は、一八九五年に日本政府が領有を閣議決定するまでは無主地であった、ということに置いている。じっさい、そうしないで、これらが中国領であったことを認めれば、「無主地の先占」なる近代現代の植民地主義・帝国主義の国際法上の「法理」をこじつける余地すらもなくなる。しかるにその彼らの全主張の根底について、彼らは、何ら史料にもとづく科学的な証明をしていない。
外務省は、「尖閣列島は明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡が無いことを慎重に確認した上で」、明治二十八年一月十四日の閣議決定で、「正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というだけである。この「清国の支配が及んでいる痕跡が無い」というのは、一八八五年(明治十八年)、沖縄県令らがこの地は中国領かもしれないからという理由で、直ちにこれを日本領とすることにちゅうちょしたのに対して、内務卿山県有朋が即時領有を強行しようとして、これらの島は『中山傳信録』に見える島と同じ島であっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見へ申サズ」(本論文第十一節を参照)と主張したことのくりかえしにすぎない。
共産党の「見解」は次の通り。「尖閣列島についての記録は、ふるくから、沖縄をふくむ日本の文献にも、中国の文献にも、いくつか見られる。しかし、日本側も中国側も、いずれの国の住民も定住したことのない無人島であった尖閣列島を、自分に属するものとは確定しなかった。」「中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣列島に居住したとの記録はない。明国や清国が、尖閣列島の領有を国際的にあきらかにしたこともない。尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である。」
朝日新聞社説も、これと同じようなことしかいわない。「尖閣列島の存在は、すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するような歴史的事実もない。」
日共や朝日新聞はこのように、明・清時代の中国が「尖閣列島」の領有を国際的に明確にしたことはないなどと、たいへん確信ありげに断定しているが、このさい彼らは、何ら科学的具体的に歴史を調べているのではなく、佐藤軍国主義政府とまったく同じく、現代帝国主義の「無主地」の概念を、封建中国の領土に非科学的にこじつけて、しぶんたちにつごうの悪い歴史を抹殺しようとしているのである。政府にしても政党にしても、短い声明の中で、いちいち歴史的論証をするわけにもいかないだろうが、何らかの形で、彼らの機関紙誌なり、パンフレットなりで、その証明をすることは、これだけ重大な国際問題に対処するための、政府や公党たるものの責任ではないか。しかし、彼らはいっこうにそれをやろうとはしない。政府やこれらの政党の御用学者はたくさんあるのに、彼らも、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄のほかには、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない。
三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにしたものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずがない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』(一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光(じょほうこう)の『中山傳信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて高いことは後にくわしくのべる。
琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢 こうしょうけん)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則(ていじゅんそく)が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。
(註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。
また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来=陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いたとはいえ、社会的・政治的には中国書といえるほどである。
つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るということ以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚諸島へは順風・順流になるが、琉球からは逆風・逆流になるので、当時の航海術では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった。
琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさんある。明・清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があった。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであり、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇(わこう)の中国沿海襲撃に備えるために、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。
この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はすでに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼(後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。
十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はない−−その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。
そして、前に一言したように、琉球の向象賢の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に五月十日と十一日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派のはげしい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の記述がそのまま採用されていることは、久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領ではないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことを示している。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものは無い」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領ではないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。
陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。
たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。
おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(こそうけん)が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当るか、いちいちの考証は私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
一九七一年十二月三十日の中華人民共和国外交部声明の中に、「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれており」というのは、あるいはこの図によるものであろうか。じっさいこの図によって、釣魚諸島が当時の中国の倭寇防衛圏内にあったことが知られる。このことについて、日共の「見解」は、「尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である」などという。しかし、自国の領土でもない、しかも自国本土のもっとも近い所からでも二百浬以上もはなれている小島を防衛区域に入れるのは、いまの日本の自衛隊が、中国領の釣魚諸島を日本の「防空識別圏」にいれるのをはじめ、アメリカや日本など近代現代の帝国主義だけのすることであって、それと同じことを、勝手に明朝におしつけて、防衛区域と領有は別だなどというのは、釣魚諸島はどうでもこうでも中国領ではなかったと、こじつけるためのたわごとにすぎない。
四 清代の記録も中国領と確認している
以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ごろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さりとてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっきり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。
郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳・郭二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記録は、一部分の引用文しか見てないので、領界についての記述の有無はわからない。この後まもなく明朝は滅び、清(しん)朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、その使記にも、中・琉の領界の記述はない。
このように、陳・郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原によって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひねり出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳・郭以来の歴代の使記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない。)。それゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中・琉の領界であることも十分承知していたわけであるが、彼ら自身の使記に、それを書きつけるほどの特別の関心または必要がなかったまでのことである。
ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。
「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」
そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。
「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」
右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。
この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。
これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。
さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけであるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけられているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、彼も汪・周とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明示したものはない、などといえようか。
斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしているのみならず、「琉球ノ夥長(かちょう)」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であり、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったという体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」という意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所という意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使がともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。
のみならず、この「界」は、汪楫の次、周煌の前の使節徐葆光(一七一九年入琉)の有名な『中山傳信録』によっても確かめられる。
徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれていったほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より二十歳も若いが、彼につぐ当時の大学者−−とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(さいおん)(註)を相談相手とし、八カ月間琉球のことを研究した。
(註)蔡温は、福州に三年間留学して、地理・天文・気象を専攻した。後に王府の執政官となり、琉球の産業開発と土木に、前後に比類のない貢献をした。(前出『琉球史料叢書』第五巻の東恩納寛惇による「解説」)
『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から以後明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏籠頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と註している。
この註は、これまで釣魚諸島を論じた台湾の学者や日本の奥原らみな、『指南広義』の著者程順則自身の註であると解しているが、私の見た『指南広義』の原文には、そのような註はない。私見では、これは引用者徐葆光の註である。その考証はここでは略すが(註)、これが程順則のものでも、徐葆光のものでも、実質的には同じである。というのは、徐は、滞琉中はもとより帰国後も、たえず程と意見を交換して『中山傳信録』を書いたので、この書は両人の共著といっても言いすぎではないから。
(註)この考証は、『歴史学研究』一九七二年二月号の小論でひと通りのべた。
もしも徐葆光が、久米島を琉球の「西南方界」とだけ書いていたら、それは正確ではないことになる。八重山群島の与那国島が琉球列島の西のはてであり、しかもそこは久米島よりはるかに南でもあるから。琉球の正確な西南界が八重山群島にあることは、『中山傳信録』の著者も知っており、彼は、八重山群島について、「此レ琉球極西南属界ナリ」と、きちんと説明している。彼がこのことを知りながら、なおかつ久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と註したのは、「鎮」という字に重要な意味がある。
「鎮」とは国境いや村境いの鎮め、「鎮守」の鎮であり、中国の福州から、釣魚諸島を通って、琉球領に入る境が久米島であり、それは琉球の国境の鎮めの島であるから、この説明に界上鎮山の字を用い、またここが琉球王国の本拠である沖縄本島を中心とする群島の西南方であるから、これを「琉球西南方界上鎮山」と書き、純粋に地理的に全琉球の極西南である八重山群島については、「此レ琉球極西南属界ナリ」と書きわけたのである。つまり中国人徐葆光(あるいは琉球人程順則)は、久米島が中国→琉球を往来するときの国境であることを、「西南方界上鎮山」という註で説明したのである。その「界」の一方が中国であることは、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」とのべたときの「界」と同じである。
五 日本の先覚者も中国領と明記している
これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも十六世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。
『三国通覧図説』−−以下の文では略して『図説』ということもある−−とその五枚の「付図」は、「天明五年(一七八五年)秋東都須原屋市兵衛梓」として最初に出版された。その一本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて五十四・八センチ、横七十八・三センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六嶋之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰緑色にぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領(註一)は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある(註二)。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース二本えがき、その南コースに、東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。
(註一)沖縄本島の北側の与論島から鬼界島に至る、奄美大島を中心とする群島は、もと琉球王国領であったが、一六〇九年島津氏が琉球王国を征服した後、これらの島々は島津の直轄領地とされた。そのことは『中山傳信録』著者も林子平もよく知っていたが、それでも、これらの島々は琉球三十六島のうちに入れるのが、中、琉、日のどの国の学者にも共通している。
琉球の蔡温が『琉球国中山世鑑』の誤りを正した父の著書を、いっそう正確に改修した『中山世譜』(一七二五年序)の首巻には、「琉球輿地名号会記」と地図があるが、それも、全琉球を中山および三十六島とし、鬼界カ島までを琉球にいれている。子平より大分前の新井白石の『南島志』(一七一九年)も、そうしている。もちろん釣魚諸島は琉球三十六島の中に入っていない。
(註二)林子平が台湾の色を中国本土と区別して書いている理由を正確に断定することはできないが、およその推定はできる。すなわち、『図説』の付図の中には、次にのべる東アジア全図というべきものがあるが、それには、子平がはっきり日本領と見なしている小笠原諸島を、日本本土および九州南方の島や伊豆諸島とはちがう色にぬってある。これから類推すると、彼は台湾は中国領ではあっても本土の属島ではないと見て、ちょうど小笠原島が日本領であっても九州南島などのように本土の属島とはいいがたいので、本土とは別の色にしたのと同じく、台湾をも中国本土やその属島とは別の色にしたのではあるまいか。
この図により、子平が釣魚諸島を中国領とみなしていたことは、一点のうたがいもなく、一目瞭然であり、文章とちがって、こじつけの解釈をいれる余地はない。『図説』の付図には「三国通覧輿地路程全図」という、「朝鮮、琉球、蝦夷并ニカラフト、カムサスカ、ラッコ島等数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」もあるが、日本を中心として北はカムチャッカ、南は小笠原、西は中国に至る広範囲の、いわば東アジア全図にさえ、釣魚諸島のような、けし粒ほどの島が−−ほかの多くのはるかに大きい島も描いてないのに−−、はっきり描かれ、それも中国本土と同じ色にぬられている。子平の『図説』にとっては、各国の範囲、その界を明確にすることは、決定的に重要であったので、釣魚諸島をはぶくわけにはいかなかったのであろう。
子平の琉球図は、彼が『図説』の序文で「此ノ数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ……琉球ハ元ヨリ中山傳信録アリ、是ヲ証トス」と誇らしげに書いている通り、『中山傳信録』の地図に拠ったものである。しかし彼はそれを無批判にうのみにしたのではない。子平は『中山傳信録』および子平の時代までの日本人の琉球研究の最高峰である新井白石の『琉球国事略』などを研究し、自分の見聞を加えて、『図説』の本文と地図を書いたのである。そして『傳信録』の図には、国による色わけはないのに、林子平は色をぬりわけた。
このことについて先の琉球政府声明は、子平は、『中山傳信録』に三十六島以外は琉球領とはしていないので、その外である釣魚島などを機械的に中国領として色分けしたのだ、そんなものに価値はないという。これは何とも気の毒なほど苦しい言いのがれである。子平は決して「機械的に」色分けしたのでないことは、図そのものにも明白である。すなわち、彼は中国領であることはよく知られている台湾、澎湖を中国本土とちがう色にぬり、釣魚諸島は本土と同色にぬっている。これをみても彼が琉球三十六島以外の島々はみな一律に中国本土と同じ色にしたのでないことは明らかである。子平は『中山傳信録』をよく研究し、そこに久米島が「琉球西南方界上鎮山」とあるのにより、その文を私が前節で解釈したのと同じく、ここを中国領と琉球領との界とし、ここに至るまでの釣魚諸島は中国領であることを信じて疑わなかったのであろう。そしてそのことをとくに明らかにする色分けをしたのである。
じっさい、『中山傳信録』の姑米島の註は、郭汝霖や陳侃の使記の、すでに引用した記述と同じく、久米島から東が琉球領であり、その西の島々は中国領であることを明らかにしていると解するのが、漢文の読み方としてしごく当然のことである。
私は『歴史学研究』二月号に、釣魚島の沿革を書いたとき、まだ『三国通覧図説』とその「付図」の天明五年版本を見ていなかった。そのとき私が使ったのは、一九四四年に東京の生活社が出版した『林子平全集』第二巻の活版本であった。その付図は国ごとの色わけはしてなかったので、私はたんに、子平の地図では、釣魚諸島は琉球と区別していることを指摘するにとどまった。いま原版を見ると、このようにはっきり中国領であることを色で示しているではないか。
それだけでなく、京都大学付属図書館の谷村文庫には、「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本が二種類ある。それには、「林子平図」あるいは「三国通覧図説附図」の写しということはどこにも書いてないが、一見して、子平の図の写しということは明らかである。その一つ(仮にこれを甲図という)は、『図説』の付図五枚−−蝦夷、琉球、朝鮮、小笠原島のそれぞれの図および前記の日本を中心として「数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」−−を、丈夫な和紙に、多分同一人が筆写した一組みの中に入っている。これは、琉球は赤茶色に、中国本土および釣魚諸島などはうすい茶色に、日本は青緑色に、台湾、澎湖は黄色にぬり分けてある。
もう一種の図(これを乙図と名づけよう)は、琉球を黄色に、中国の本土と釣魚諸島を桜色に、台湾をねずみ色に、そして日本を緑にぬり分けてある。
なお谷村文庫には、『三国通覧図説』付図の「朝鮮八道之図」の写本が、三種類あり、そのうちの一種は、前記琉球図の甲と一組みになっているものであり、もう一種は、前記琉球図の乙と同じ紙質の紙に、恐らく同一の筆者と思われる筆跡で書かれている。そしてこの朝鮮八道図と琉球図の乙には、元の所蔵者のものと思われる同一の朱印がおしてある。残りのもう一種は、原版をかなり精密に模写したものである。これと一組みになっていた琉球図その他の写本もあったにちがいないと推定されるが、そうだとすれば、原版のほかに、琉球図の写本−−というよりも、『三国通覧図説』の付図五枚一組の写本が、少なくとも三種類はあったことになる。
さらに京都大学国史研究室には、もう一種の「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本がある。
周知のように、林子平はこの『三国通覧図説』および『海国兵談』の著作・出版により、幕府から処罰され、これらの版木も没収されてしまった。彼は日本人の近代的民族意識の先駆者であった。彼が『図説』を著述したのは、日本周辺の地理をよく知ることは、日本の国防−−徳川幕府とか諸藩とか、あれこれの封建領主あるいはその総体の防衛ではなく、それらを超えた次元の「日本」の防衛のために、緊急の必要であると考えたからであり、また、その緊要の知識を、たんに幕府や諸藩の役人あるいは武士階級にだけ独占させず、「貴賎ト無ク文(官)武(官)ト無ク」、「本邦ノ人」=日本民族のすべてにひろめねばならない−−なぜなら、事は日本の防衛にかかわる日本民族の問題であるから−−として、あえてこの書を出版した。しかも付図は色刷りにして、異なった国と国との位置関係が一目でわかるように心を使った。
このように一介の知識人が、あえて日本の防衛を日本人民にうったえるという、まさに近代的民族主義的な思想と行動が、徳川幕府封建支配者の怒りにふれたのである。しかし、子平は日本人の近代民族的意識の成長を代表し、かつ、それに支えられていた。それゆえ、発売も発行も禁止された彼の本は、『海国兵談』も『三国通覧図説』も、争って読まれ、語られ、写され、ひろげられていった。
さらにまた、『三国通覧図説』は、早くも一八三二年には、ドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプロート(Heinrich Klaproth)によって、フランス語に訳され出版されている。付図も原版と同じ色刷りである(註)。これにより、本書が国際的にもいかに重視されていたかということ、また釣魚諸島が中国領であることは西洋人にも知られていたということがわかる。
(註)私はまだこの仏訳本を見ていないが、大熊良一『竹島史稿』の二二ページに、クラプロートの経歴とその『図説』翻訳に関する紹介がある。また台湾の『政大法学評論』第六期に、同書の琉球図の色刷りがある。
林子平のような日本の民族的自覚の先駆者が、当時までの中国人、琉球人また日本人の、琉球地理研究の最高峰であり集大成である、徐葆光や新井白石の著書を十分に研究し、民族の防衛を日本のすべての人にうったえるために精魂こめて書き、あえて出版した本、そして徳川封建支配者の弾圧に抗して、愛国的知識人の間にひろめられていき、国際的にも重視された本の図に、釣魚諸島は中国領であることが明記されているのである。こういう本の記述をしも、明治の天皇制軍国主義者とその子孫の現代帝国主義者およびその密接な協力者日本共産党などはまったく無視して、釣魚諸島は無主地であったなどと、よくもいえたものである。
六 「無主地先占の法理」を反駁する
琉球と釣魚諸島に関する、十六世紀から十八世紀にいたる、中国人、琉球人および日本人の最良の文献が、一致して、釣魚諸島は中国領であることを明らかにしているのに、あるいは、その中国語文章表現が現代の法律文とはちがうことを利用して、勝手にその意味をねじまげ、あるいは、どうにもねじまげることの不可能な地図については、それは機械的に色分けしたにすぎないなどと、軽薄なおのれの心をもって真剣な先覚者の苦心をおとしめる。このような議論の相手をするのは、いささかめんどうくさくなってきたが、そうも言ってはおれない。彼らが、二言めにはもち出す「国際法上の無主地先占の法理」なるものについて、駁撃しておかねばならない。
彼らは、一八八五年に釣魚諸島を奪いとろうとした天皇制軍国主義の最も熱烈な推進者、最大の指導者、陸軍中将、内務卿山県有朋と同じく、いくら明・清の中国人が釣魚諸島の存在を知り、それに中国語の名をつけ、記録していても、ここに当時の中国の政権の、「支配が及んでいる痕跡がない」、つまり、いわゆる国際法の領土先占の要件としての実効的支配が及んでいない、だからここは無主地であった、などという。
それでは、その「国際法」とはどんなものか。京都大学教授田畑茂二郎の書いた、現代日本の標準的な国際法解説書である『国際法T』(有斐閣『法律学全集』)には、国際法の成立について、次のようにのべている。すなわち、ヨーロッパ近世の主権国家の相互の間で、「自己の勢力を維持拡大するため、激しく展開された権力闘争」において、それが余りにも無制限に激化するのを「合理的なルールに乗せ限界づけるために、国際法が問題とされるようになった」(一六ぺージ)。この「合理的なルール」とは、私見では、つまりは強者の利益にすぎなかった。そのことは、とくに「無主地の先占の法理」において顕著である。田畑は次のように書いている。「戦争の問題とならんで、いま一つ、近世初頭の国際法学者の思索を強く刺戟したものは、新大陸、新航路の発見にともない展開された、植民地の獲得、国際通商の独占をめざした、激しい国家間の闘争であった。」この植民地争奪の激化に直面して、「国家間の行動を共通に規律するものとして(もっともこの場合には、他国に対して自国の行動を正当づけるといった動機が、多くの場合背景になっていたが)、国際法に関する論議がさかんに行なわれた。領域取得の新しい権原として、先占(occupatio)の法理がもち出され、承認されていったのも、こうした事情であった」(一九ぺージ)。
「他国に対して自国の行動を正当づける」ために、もち出された「法理」が、「国際法」になるというのは、つまり強国につごうのよい論理がまかり通るということである。無主地先占論はその典型で、スペイン人、ポルトガル人が、アメリカやアジア、アフリカの大陸、太平洋の島々を、次から次へと自国領土=植民地化しているうちは、「発見優先」の原則が通用していた。それに対してオランダやイギリスが、競争者として立ちあらわれ、しだいにスペイン、ポルトガルに優越していくとともに、オランダの法学者グロチウスが、「先占の法理」をとなえだしたのである。それはオランダやイギリスにつごうのよい理論であって、やがてそれが「国際法」になった。
先占の「法理」なるものが、いかに欧米植民地主義・帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるかは、「無主地」の定義のしかたにも端的に出ている。田畑教授より先輩の国際法学者、東京大学名誉教授横田喜三郎の『国際法U』(有斐閣『法律学全集』)によれば、無主地の「最も明白なものは無人の土地である」が、「国際法の無主地は無人の土地だけにかぎるのではない。すでに人が住んでいても、その土地がどの国にも属していなければ無主の土地である。ヨーロッパ諸国によって先占される前のアフリカはそのよい例である。そこには未開の土人が住んでいたが、これらの土人は国際法上の国家を構成していなかった。その土地は無主の土地にほかならなかった」(九八ぺージ)。これはまたなんと、近世ヨーロッパのいわゆる主権国家の勝手きままな定義ではないか。こういう「法理」で彼らは世界中を侵略し、諸民族を抑圧してはばからなかった。
横田も先占「法理」の成立について、「一五世紀の末における新発見の時代から、一八世紀のはじめまでは、新しい陸地や島を発見した場合に、それを自国の領土であると宣言し、国旗をかかげたり、十字架や標柱をたてたりして、それで領土を取得したことになるとされた」という。しかし、十九世紀には、それだけではだめで、「多くの国によって、先占は土地を現実に占有し支配しなければならないと主張され、それがしだいに諸国の慣行となった」。「おそくとも一九世紀の後半には、国際法上で先占は実効的でなければならないことが確立した」(九八〜九九ぺージ)。「先占が実効的であるというのは、土地を現実に占有し、これを有効に支配する権力をもうけることである。そのためには、或る程度の行政機関が必要である。わけても、秩序を維持するために、警察力が必要である。多くの場合にはいくらかの兵力も必要である」(九九ぺージ)。
これも何のことはない、軍事・警察的実力で奪いとり保持したものが勝ちということである。このように近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした「法理」なるものが、現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている。この「法理」を、封建時代の中国の王朝の領土に適用して、その合法性の有無を論ずること自体が、歴史を無視した、現代帝国主義の横暴である。
ヨーロッパ諸国のいわゆる領土先占の「法理」でも、十六、七世紀には、新たな土地を「発見」したものがその領有権者であった。この「法理」を適用すれば、釣魚諸島は、中国領以外の何ものでもない。なぜなら、ここを発見したことが確実に証明されるのは、中国人の発見であり、その発見した土地に、中国名がつけられ、その名は、中国の公的記録である冊封使の使録にくり返し記載されているから。
しかも、その使録の釣魚諸島を記載している部分を、琉球王国の非中国派の宰相向象賢も、その王国の年代記に引用し、承認している。日本の近代民族主義の先駆者林子平も、承認している。そしてその子平の本を西洋の東洋学者も重視している。つまり国際的にも中国領であることが確認されている。十六世紀ないし十八世紀に中国領であったものに、二十世紀の帝国主義の「国際法理」なるものを適用して、その要件をみたしていないという理由で、あらためてこれを無主地とすることが、どうしてゆるされよう。
かりに、「先占は実効的でなければならない」という現代帝国主義の「法理」を釣魚諸島に適用するとしても、この小さな無人島に行政機関をもうけるなどということは、明・清の時代には不可能であり無用でもあった。現代の先占についても、横田は次のようにのべている。
「先占される土地の状態によっては、この原則(実効的支配の原則−−井上)をそのまま適用することができないこと、その必要がないこともある。たとえば無人島のような場合で、行政機関をもうけ警察力や兵力を置くことは、実際的に必要がない。住むことができないような場合には、それを置くこともできない。」
明・清時代の釣魚諸島は、まさにこのような、人が定住することもできない無人の小島であった。だから、そこに現代的な「実効的支配」の痕跡を見出そうとしても、そんなものはありえないことは自明である。横田によれば「このような場合には、附近にある陸地や島に、行政機関や警察力を置いて、無人島が海賊の巣にならないよう、ときどき見廻って、行政的な取締りを行ない、必要があれば、相当な時間のうちに、軍艦や航空機を派遣できるようにしておけば、それで十分である。」
これはもちろん現代において可能な処置である。「軍艦や航空機」も、レーダーも無線電信機もない昔のことではない。しかも「人の住むことのできないような島」が、「海賊の巣」になることもありえないから、ここを「ときどき見廻る」必要もない。とすれば、いったい明・清の中国人は、釣魚諸島をどうすれば、現代日本の帝国主義政府やその密接な協力者日本共産党などを満足させる「実効的支配の痕跡」を残すことができよう? 明・清の中国人が、後世に残すことのできた唯一のことは、この島の位置を確認し、それに名をつけ、そこに至る航路を示し、それらのことすべてを記録しておくことだけであった。そして、「それで十分である!」
しかも明朝の政府は、それ以上のこともしている。明の政府は、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防禦策を系統的にのべた書物、『籌海図編』に、その位置とその所管区を示していたのである。これはつまり横田のいう「附近の島や陸地に行政機関や警察力を置いて……」ということの、明代版にほかならない。
こういったからとて私は、明・清の中国政府や中国人が、現代帝国主義の「国際法理」にかなうよう、釣魚島の「先占」をしていたなどと説明する必要はみとめない。彼らは、彼らの死後数百年たち、二十世紀になって、「先占の法理」などで彼らの領土に文句をつけられようなどとは夢にも思わなかったにちがいない。ただ、彼らがここを彼らの領土であると確認していたればこそ、現代帝国主義の先占論をもってしても、ここが中国領であったという歴史的事実を否定できない証拠が残っているということを、明らかにしたまでのことである。
七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。
『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。
(註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。
県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。
「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」
ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。
さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。
また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。
牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。
もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。
何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。
現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。
那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。
この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。
黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。
釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。
ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。
『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。
要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。
すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。
(註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。
趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。
また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。
いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。
次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。
これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。
『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。
(註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。
県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。
「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」
ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。
さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。
また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。
牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。
もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。
何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。
現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。
那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。
この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。
黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。
釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。
ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。
『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。
要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。
すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。
(註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。
趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。
また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。
いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。
次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。
八 いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
琉球人が、琉球語で釣魚諸島の島々をヨコン(イーグン)とかクバとかよぶようになっても、彼らがこれを「尖閣列島」とよんだことは、一九〇〇年以前には一度もない。この名は、じつに西洋人がこの群島の一部につけた名をもとにして、一九〇〇年につけられたものである。
西洋人が釣魚諸島の存在を何時ごろから知るようになったか、それについて私も多少の考証はしているが、本論文にはそこまで書く必要はあるまい。確実に言えることは、十九世紀の中頃には、釣魚島をHOAPIN−SAN(または−SU)、黄尾嶼をTIAU−SUというのは、すでに西洋人の地図の上では定着していたということである。また、彼らは釣魚島の東側にある大小の岩礁群をPINNACLE GROUPSまたはPINNACLE ISLANDSとよんでいた。
イギリス軍艦「サマラン」(SAMARANG)は、一八四五年六月、恐らく世界で最初に、この諸島を測量しているが、その艦長サー・エドワード・バルチャー(Sir Edward Balcher)の航海記(註)に、十四日、八重山群島の与那国島の測量を終えた同艦は、そこからいったん石垣島に立ちもどり、その夕方「海図上のHOAPIN−SAN群島をもとめて航路を定めた」という。このホアピンサンは釣魚島のことである。
(註)"NARRATIVE OF THE VOYAGE OF HMS SAMARANG DURING THE YEARS 1843〜46", by CAPTAIN SIR EDWARD BALCHER : LONDON 1848.
サマラン号は、その翌日、PINNACLE ISLANDS(ピナクル諸嶼)を測量し、十六日、TIAU−SU(黄尾嶼)を測量した。これらの測量の結果は、一八五五年に海図として出版されている(註)。この海図およびサマラン艦長の航海記の記述が、この後のイギリス海軍の海図および水路誌のホアピン・スーとチアウ・スーの記述の基礎になっていると思われる。
(註)"THE ISLANDS BETWEEN FORMOSA AND JAPAN WITH THE ADJACENT COAST OF CHINA" 1855.
そして、明治維新後の日本海軍の『水路誌』のこの海域の記述は、最初はほとんどもっぱらイギリス海軍の水路誌を典拠としていたようである。
さきに引用した総理府の南方同胞援護会機関誌『沖縄』には、一八八六年(明治十九年)三月刊行の海軍省水路局編纂発行『寰瀛水路誌』巻一、下、第十篇の釣魚諸島に関する記述がある。
この「編纂縁起」によれば、「其第十編ハ即チ洲南諸島ニシテ、明治六年海軍大佐柳楢悦ノ実験筆記ニ拠リ、支那海針路誌第四巻(一八八四年英国海軍水路局編集刊行、第二版−−井上)及ビ沖縄志ヲ以テ之ヲ補フ」という。
右にいう柳大佐の「実験筆記」も「沖縄志」も私は見ていないが、この水路誌は釣魚島を「和平山(ホアピンサン)島」と漢字で書いて英語名のルビをつけ、黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島」、赤尾嶼は「爾勒里(ラレリ)岩」と書いている。これらは、それぞれ、Hoapin-San, Tiau-Su, Raleigh Rockと、前記英国軍艦サマラン号の航海記に書かれている島嶼のことであり、これが一八八四年版の『英国海軍水路誌』によるものであることは明らかである。
なお、前掲の雑誌『沖縄』に抄録されている日本海軍の水路誌は、この後も上記の島々を、以下のように書いている。
一八九四年(明治二十七年)七月刊『日本水路誌』第二巻は、カタカナで「ホアピンス島」、「チャウス島」、「ラレー岩」と記す。
一九〇八年(明治四十一年)十月の第一改版『日本水路誌』第二巻は、「魚釣島(Hoapin-Su),「黄尾嶼(Tiau-Su),「赤尾嶼(Raleigh Rock)」とする。すなわち、釣魚島を当時の内務省などと同じく「魚釣島」とし、黄尾、赤尾は漢字で中国の古来の名称通り書き、いずれもその下に英語名を書いてある。黄尾を久場島とし赤尾を久米赤島とするなどの琉球名はつけていない。この点はこの後も一貫している。これにより、「魚釣島」だけが日本の役所で一定共通の名となったが、他の島は、海軍と内務省とでもちがっていたことがわかる。
一九一九年(大正八年)七月刊『日本水路誌』第六巻では、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」とだけ書く。これまであった英語名はすっかりなくなった。 一九四一年(昭和十六年)三月刊行『台湾南西諸島水路誌』も、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と書くが、何故か赤尾嶼だけには「赤尾嶼(セキビ)」としている。あるいはこれは雑誌『沖縄』にこれを抄録したさいに、こうなったのであろうか。
古くから日本にも知られている釣魚諸島の名称を、その中国名でも、また琉球名でも記載せず、イギリス名で記載するほどイギリス一辺倒の初期の日本海軍水路誌の釣魚島に関する説明は、イギリス海軍水路誌のもとになったサマラン号航海記の記述と、文章までほとんど同じである。
サマラン号の航海記の一節(第一巻第九章、三一八ぺージ)を、なるベく直訳して次にかかげよう。これをAとする。
「ホアピン・サンの最高点は一、一八一フィートである。島の南側は、この高さからほとんど垂直に西北西の方向に断ち切られている。その他の部分は東向きに傾斜しており、その斜面には、良質の水の細流がたくさんある。居住者または来訪者の痕跡は全然なかった。じっさい土地は半ダースの人を容れるにも不十分である。」
「艦上から見たこの島の上部の地層は、北東に深く傾斜した層理の線を示していた。そのために水流は容易に北東側の海岸に流れる。この水の供給が一時的なものでないことは、多くの天然の池に、淡水魚がいることによって明らかである。そしてその池は、ほとんどみな海に連結しており、水草がいっぱい茂っていて、池をおおいかくしている。」
次は一八九四年六月版の『日本水路誌』第二巻の一節である。これをBとする。
「此島の南側最高処(一、一八一呎(フィート))より西北に向へる方は、削断せし如き観を呈す。此島に淡水の絶ゆることなきは、諸天然池に淡水魚の生育せるを以て知るべし。而して此池は皆海と連絡し、水面には浮萍一面に茂生す。(中略)此島は地六、七名の人を支ふるにも不十分にして、人居の跡なし。」
AとBを比べれば、Bの『日本水路誌』の記述は、サマラン航海記のAの部分をたいへん上手に簡潔に翻訳しているといってもいいくらいである。
以上によって、明治維新後の日本人の釣魚諸島に関する科学的知識は、ほとんどみなイギリス海軍の書物や図面によって得られたものであることがわかる。そして、尖閣列島という名も、イギリス海軍のいうPinnacle Islandsを、日本海軍が「尖閣群島」あるいは「尖頭諸嶼」と翻訳したことに由来する。
『寰瀛水路誌』には、Pinnacle Islandsのことを「尖閣群島」と漢字で書き、その横に「ピナクルグロース」とルビをつけている。この「グロース」はグループス(Groups)のPの音が脱落したものであろう。これが一八九四年の『日本海軍水路誌』第二巻では「ピンナクル諸嶼」となり、一九〇八年の水路誌では「尖頭諸嶼」となっている。「ピナクル」とは元来はキリスト教会の尖塔形の屋根のことをいう。釣魚島の東側の列岩の中心の岩礁の形が、ピナクル形であるので、イギリス人が、この列岩を Pinnacle Islands と名づけたのであろう。それを日本海軍で尖閣群島または尖頭諸嶼と訳したわけである。
そして、釣魚島、尖閣群島(尖頭諸嶼)および黄尾嶼を総称して、「尖閣列島」というのは、すでに再三言及した黒岩恒が一九〇〇年にこう名づけたことに始まる。彼は一八九八年(明治三十一年)に『地質学雑誌』第五巻に「尖閣群島」という文章をのせていることが、大城昌隆編『黒岩恒先生顕彰記念誌』の「年譜」にのっているが、私はまだその論文を見ていないので、その地名がどの範囲をさすか知らない。彼は前に引いた一九〇〇年の報告、「尖閣列島探険記事」で、次のように書いている。
「ここに尖閣列島と称するは、我沖縄島と清国福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表(いりおもて)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り。本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離もまた略(ほぼ)相似たり。台湾島の基隆へは僅に二百二十余哩を隔つ。帝国海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずるに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸嶼、及び黄尾嶼より成立し渺(びょう)たる蒼海の一粟なり。(中略)而して此列島には未だ一括せる名称なく、地理学上不便少なからざるを以て、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。」
尖閣列島の名は、『地学雑誌』のこの論文によって、はじめて地理学界に広く知られるようになった。それ以前にはこういう名称はない。
しかるに奥原は前にあげた論文に、『寰瀛水路誌』を引用し、それにすでに「尖閣群島」とあるとだけ書き、あたかもこの名が黒岩の名づけた「尖閣列島」と同じ範囲であるかのように、読者に印象づけようとしている。この尖閣群島がピナクル諸嶼であることは、奥原は百も承知であるのに、わざとあいまいな書き方をするのである。
また、例の琉球政府の「尖閣列島の領土権について」の声明は、「明治十四年に刊行、同十六年に改訂された内務省地理局編纂の大日本府県分割図には、尖閣列島が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている」というが、この『大日本府県分割図』の沖縄県の地図には、「尖閣列島」なるものはない、「尖閣群島」があるだけである。そしてその「群島」は、ピナクル諸嶼のことである。それをあたかも今日のいわゆる尖閣列島の名がすでに、その当時あって、それが地図上で沖縄県に入っているかのようにみせかけるのは、琉球政府も、まことにつまらぬ小細工をするものである。
さらに、いっそうこっけいなのは、日本社会党国際局の「尖閣列島の領有問題についての社会党の統一見解案」である。それは、多分琉球政府の右の声明をうのみにしただけで、じっさいにその地図を見て検討することもなく、「尖閣群島」(ピナクル諸嶼)と黒岩の名づけた尖閣列島との混同の上に立って、「いわゆる尖閣列島は、一八八一年(明治十四年)、当時の政府内務省地理局の手により、沖縄県下に表示されるなど、一連の領有意思の表示をへて」などというのである。この地図のどこに「尖閣列島」領有の意思があろう。
さて、黒岩がこの人さわがせな名をつけた尖閣列島の範囲は、彼が明記している通り、釣魚島、ピナクル諸嶼および黄尾嶼の総称であって、赤尾嶼はふくんでいない。それは地理学的には当然のことで、赤尾嶼は黄尾嶼から四八浬もはなれているので、釣魚などと一群をなしているのではなく、黒岩の前記報告も、この島については一言もしていない。そして、琉球政府が一九七〇年九月十日に発表した「尖閣列島の領有権及び大陸棚資源の開発権に関する主張」は、「北緯二十五度四十分から二十六度、東経百二十三度二十分から百二十三度四十五分の間に散在する尖閣列島」という。この範囲は、黒岩が名づけた尖閣列島と同じ範囲で、赤尾嶼(北緯二五度五五分、東経一二四度二四分)はふくんでいない。
しかし、同じ琉球政府が右の声明の一週間後に出した、たびたび引用する「尖閣列島の領土権について」という声明では、「明治二十八年一月の閣議決定は、魚釣島(釣魚島−−井上)と久場島(黄尾嶼−−井上)に言及しただけで、尖閣列島は、この島の外に、南小島及び北小島と沖の北岩、沖の南岩ならびに飛瀬と称する岩礁(南小島から飛瀬までは、ピナクル諸嶼のこと)、それに久米赤島(赤尾嶼−−井上)から成っております」という。琉球政府も、尖閣列島の範囲について、赤尾嶼を入れたり出したり、いっこうに定まらない。
以前の海軍水路部あたりは、はっきりしているかと思うと、これも、さに非ず。一九〇八年までの水路誌には、釣魚、黄尾とその間のピナクル諸嶼を総括する名称も、それに赤尾を加えて総括する名称も、全然記載されていない。ところが、一九一八年の水路誌には、「尖頭諸嶼」という名称で、「尖頭諸嶼ハ沖縄群島ト支那福州トノ略中央ニ在リ、……、黄尾嶼、魚釣島、北小島、南小島及沖ノ北岩、沖の南岩ヨリ成ル。魚釣島ハ其最大ナルモノナリ」という。
上記の北小島から沖の南岩までの岩礁はピナクル諸嶼のことであり、同じ水路誌が、一九〇八年九月には「尖頭諸嶼(Pinnacle Is.)」と記し、一八九四年七月には「ピンナクル諸嶼」、そして一八八六年には「尖閣群島(ピンナツクルグロース)」と記したものである。それが、一九一九年には、前記の通り、黒岩恒の名づけた「尖閣列島」と同じ区域をさすことになっている。さらに右の水路誌は「此等諸嶼ハ位置ノ関係上古来琉球人ニ知ラレ、尖頭諸嶼、尖閣列島、或ハ Pinnacle Islands 等ノ名称ヲ有ス」と、念入りの説明をしているが、ここでは、黒岩の命名した尖閣列島も、イギリス海軍のつけたピナクル・アイランヅも、またその訳語として日本海軍水路部自身が以前に用いた「尖頭諸嶼」も、何もかもごたまぜにしている。
一九四一年の『台湾南西諸島水路誌』は、一九一九年の水路誌と同じく「尖頭諸嶼」をかかげ、その範囲も、一九年版と同じである。そして「尖頭諸嶼ハ位置ノ関係上、古来琉球人ニ知ラレ、尖閣列島トモ呼バレタリ、外国人ハ之ヲPinnacle Islands と称セリ」という。ここでは、「尖閣列島」というのは、「古来」琉球人にそうよばれていた、この地域の旧名であり、現在は尖頭諸嶼というかのような書き方である。
いまの日本外務省の本年三月九日の「尖閣列島領有権に関する統一見解」は、「尖閣列島は……明治二十八年一月十四日に現地に標杭を建設するとの閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というからには、明治二十八年の閣議で標杭を建設するとした島、すなわち魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)だけとなる。ピナクル諸嶼さえも入らないことになる。もっともピナクル諸嶼は、釣魚と黄尾の間にあるから、これは、とくに言及しなくても、「尖閣」の中にふくまれているものとみなしてもよいが、赤尾嶼はどうしても入らない。しかし、現実には、政府は赤尾嶼も「尖閣列島」の中に入れて中国から盗み取ろうとしている。
日本共産党の「見解」も、外務省と同じで、「尖閣列島」の範囲を明示しないが、「一八九五年一月に、日本政府が魚釣島、久場島を沖縄県の所轄とすることをきめ、翌九六年四月に尖閣列島を八重山郡に編入し…」という。これでは、「尖閣列島」とは、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)のことをいうと解するほかない。このばあいも、両島の中間のピナクル諸嶼は自動的にふくむとすると、これも黒岩恒の命名した尖閣列島の区域と同じである。ところが声明の後段には、「一九四五年以降、尖閣列島は沖縄の一部としてアメリカ帝国主義の政治的軍事的支配下におかれ、列島中の大正島(赤尾礁または久米赤島)および久場の両島も米軍の射爆場にされ……」という。ここでは赤尾嶼まで「尖閣列島」に入っている。日共の宮本委員長さん、いったい尖閣列島とはどの範囲をいうのか、しっかりした典拠によって明示したらどうですか。
琉球政府も、日本外務省も、日本共産党も、黒岩恒が地理学的根拠をもって明示した尖閣列島と、黒岩がそれからはずしている赤尾嶼をともに日本領土としたいのだが、彼らといえども、赤尾嶼をふくめた尖閣列島なる名称は、公的にはもとより私的にも、未だかつて存在したことがないのを、内心では知っているので、明確に一義的に尖閣列島とはこの範囲だと言うことができず、まず黒岩のつけた名称をあげて、後でこっそり赤尾嶼をその中に加えるのである。
領土問題を、こんな風にコソ泥のようにしかあつかえないのは、帝国主義者としても、何とみみっちいことだろう。
また、黒岩のつけた尖閣列島という地理学的名称は、一度も日本国によって公認されたことはない。それゆえ、軍事的必要から地理の記述には厳密性をもっとも強く要求する海軍の水路誌でさえ、後になると、前記のように尖閣列島とは、その地域の古い名称のことと思いちがいして、その名を用いず、本来はピナクル諸嶼のみの訳名であった「尖頭諸嶼」の名を総称として用いている。ところが、いまの日本政府や琉球政府は、尖閣列島とよぶ。ただしその範囲はでたらめである。日共はそのでたらめ政府に盲従追随するのみである。
「尖閣列島は歴史的に日本領土であることは、争う余地はない」などと、日本政府、琉球政府、日本共産党、大小の商業新聞はいっせいにいうが、ごらんの通り、その範囲さえ明確でなく、またその名称も「尖閣列島」とも「尖頭諸嶼」ともいって確定しておらず、さらにその列島の個々の島の名称すら、政府機関内ですら魚釣島のほかは一定していない。黄尾嶼は久場島といい、しかもその久場島がある時期は釣魚島であったり他の時期は黄尾嶼であったりする。赤尾嶼はまた久米赤島というかと思うと、いつのまにか大正島ともいう。海軍は黄尾嶼、赤尾嶼というかまたは英語名でしか記録しない。地域の名称もその範囲もはっきりしない領土などというものが、どこにあろう。このことは、たんに名称だけの問題ではなく、政治的実質的に重要な意味がある。これは日本天皇制が、これらの島を「領有」したその仕方、他国領を盗みとったということから、必然に生じた現象である。このことは第一三節で改めて論ずる。
(付註)イギリスの海図などのHOAPIN-SAN または HOAPIN-SU が釣魚島であり、TIAU-SU が黄尾嶼であることは、地図およびその島に関する記述を見れば明らかである。しかし、これらの名称の由来は、明らかでない。東恩納の『南島風土記』は「海図にホアピンスウとあるのは、黄尾嶼の華音である」という。この説はまちがいであろう。現在中国の共通語で「黄尾」はファンウェイという。また福建地方の語でもウンボエといい、ホアピンあるいはそれに似た音ではない。
また、黒岩恒は、釣魚島は一名「和平島」ともいうと書いている。もしこれが正しければ、HOAPINは「和平」の中国音をローマ字表記したものといえる。しかし、私は中国の古い文献でこの島を「和平」島(あるいは嶼)と書いてあるのを見たことがない。もしここを「和平」島と書くとすれば、それは、本来中国語でそうよばれていたからではなくて、ローマ字でHOAPINと書かれている中国音に「和平」という字を当てたのであろうか。そして最初にそうしたのは日本海軍の最初の水路誌の作者ではあるまいか。
あえて私の推測をいえば、「ホアピンスウ」というよび名は、釣魚島から西ヘ二つめの花瓶嶼(ホアピンスウ)の中国音を、西洋人があやまって釣魚島にあてたものであろう。本論文の第三章にあげた『籌海図編』の「沿海山沙図」では、西から東への島の順が、彭加山、釣魚嶼、化瓶山、黄尾山……となっているが、歴代の琉球冊封使録や『中山傳信録』などでは、花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台の順でつらなっている。中国人にこういう島名の入れちがいがありえたとすれば、西洋人がまさに釣魚島とあるべき島を花瓶嶼=ホアピンスウの名でよぶことも大いにありうるであろう。そしてその「ホアピン」に「和平」という漢字を日本海軍の翻訳者が当てたのであろう。
また、TIAU-SUは恐らくは中国語の釣嶼(釣魚嶼の略)のローマ字表記であろう。その字を釣魚島そのものにあてないで、その東北の黄尾嶼にあてたのも、Hoapin-Suを、花瓶嶼の二つ東の釣魚島にあてたのと同じ性質のことであろう。
九 天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
琉球人さえも、「イーグンクバシマ」の存在を知っているというていどで、その島々と日常の関係もなく、まして日本人は、一部の先覚者のほかには、ふつうの武士や民衆は、その存在さえも知らなかった幕末期に、釣魚諸島を日本領だと称して領有しようとするこころみなどのあるわけもなかった。
幕末の騒乱期にも、徳川幕府は、南方では伊豆南方の無人島(小笠原島)を、イギリス、アメリカと争って日本領にとりこもうとし、北方では樺太における日本領とロシア領の境界について、ロシアに一歩も譲らず対抗していた。西方では幕府役人および長州の桂小五郎(後の木戸孝允)らは、一八六〇年代に早くも朝鮮侵略を構想(註)していた。これほど辺境の領土に対する関心が深く、領土拡張の要求もはげしかった幕府であり、その幕府をも「夷狄」に屈従すると攻撃してやまなかった勤王派ではあったが、彼らのうちの誰一人として、琉球を併合しようとか、その清国との関係を断ち切らせようとか考えるものはなかった。まして琉球の先の無人の小島、釣魚諸島については、関心をよせるものさえなかった。
(註)井上清『日本の軍国主義』U所収「征韓論と軍国主義の確立」にこの具体的事実をあげてある。
一八六八年(明治元年)、勤王派は徳川幕府を倒して天皇政権をうちたてた。七一年(明治四年)には、諸藩も廃止され、天皇を唯一最高の専制君主とする高度の中央集権の統一国家がつくられた。そのころすでに天皇政府は、朝鮮、台湾、そして琉球を征服する野心をいだいていた。この三地域への天皇制の政策は、たがいに深く関連しており、一体となって天皇制の軍国主義をきわだたせている。そして、その軍国主義が、やがて釣魚諸島にも食指をのばす。それゆえ、天皇政府と釣魚諸島の関係を論ずるに先立ち、琉球処分を中心として、天皇制軍国主義の展開を見ておかねばならない。
廃藩置県により、島津藩も廃止されたので、天皇政府は、従来島津藩の属領でその封建的植民地であった琉球王国をも、天皇政府の属領になったものとみなした。ただし、琉球王国が清国に朝貢し、清の皇帝から冊封を受けることを禁止したのではなく、従来通り清国と宗属関係を保つことを認めていた。
この翌七二年、天皇政府は、琉球人民が台湾東岸に漂着してそこの住民に殺された事件(七一年十一月のこと)を利用して、日本人民たる琉球人のために仇をうつと称し、清国領である台湾を侵略しようとした。その侵略を正当化する一つの根拠として、琉球王国は日本領であり、その人民は日本国民であり、清国の属国民ではないとする必要にせまられた。そこで、政府はあれこれと討議したあげく、七二年九月、「琉球尚泰」(琉球国王尚泰とはいわない)を、日本天皇が琉球藩王に封じ、華族に列し、金三万円を賜わるとともに、琉球の外交事務はすべて日本外務省が管轄する、とした。尚泰王自身および王府は、こうされることに強く反対したが、天皇政府は、あるいは威圧し、あるいは外務省高官が口頭で、琉球の「国体・政体」は今まで通りでよろしい、その外交事務は本省で管するが、琉球と清国との関係は従来のままでよい、などと甘い言葉でだましたりして、一時をごまかした。
天皇政府の台湾遠征は、アメリカの駐日公使デ・ロングC.E.de LONG と、彼の推薦により七二年十一月以降外務省の顧問となったアメリカの退役将軍のル・ジャンドルLe GENDREの強力な支援と指導のもとに、七四年(明治七年)七月に強行される。彼らがこれを正当化する口実としたのは、第一は、前記の通り「日本人」が殺されたということ、第二は、その「日本人」を殺した「生蕃」の土地は、現代風にいえば、国際法上の無主地であり、「生蕃」は中国属領民ではないというこじつけであった。この後の論法には、現在の釣魚諸島無主地論の論法と共通する点がある。
すなわち、当時の外相副島種臣は、台湾遠征を正当化する下地をつくるために、一八七三年北京に行き、六月九日、北京駐在イギリス公使に会った。そのとき公使が、もし清国政府が、台湾はわが属領であるから、政権はわれより加えるといったら、どうするかと問うたのに対し、副島は次のように答えている。
「此ノ権清ニ在リト云フヲ得ザルノ証跡有リ、生蕃ノ地ニ清国ヨリ嘗テ官吏ヲ派シ置ク事無ク、清ノ輿地図(全国地図)ニ生蕃ノ地名ヲ記載スルヲ見ズ、且ツ数年前、米人曾テ清ノ政府ニ告ゲズシテ彼ノ地ニ入リ、蕃人ト戦ヒ(ル・ジャンドルのことをさす)、又生蕃自ラ米人ト約ヲ結ブコトヲ得タリ。清国モシ彼ヲ属下ト謂ハバ、和戦、結約、彼レガ自ラ為スニ任セ、政府之ヲ知ラズシテ可ナル乎。我ハ此故ヲ以テ、清ノ政府ハ生蕃ノ地に於ケル権ノ及ブ可キ無シト謂へルナリ。」(『日本外交文書』第六巻)
また六月二十一日、副島は駐清の柳原公使をともない、清国の外交部である総理衙門を訪い、台湾人の琉球人殺害について会談した。そのとき、日本側ではもっぱら柳原公使が発言するが、彼はたくみに相手を誘導して、台湾の「生蕃」は「之ヲ化外ニ置キ甚ダ理スルヲ為サザルナリ」と言わせる。そして柳原は、「貴大臣既ニ生蕃ノ地ハ政教ノ及バザル所ト謂ヒ、又旧来其ノ証跡有リテ、化外孤立ノ蕃夷ナレバ、タダ我ガ独立国ノ処置ニ帰スルノミ」と言い放って、ひきあげた。柳原は、台湾住民の一部に清国の「教化」が及んでいないという儒教的政治思想の概念と、政権が及んでいないという近代国際法的概念とは、全く別の問題であることは百も承知しながら、あえて両者を同一視し、「蛮地」は教化の外だと清国がいうのを、近代国際法にいわゆる実効的支配がなされていない「無主地」であるとこじつけて、侵略を正当化する根拠としたのである。そして、この翌年、台湾侵略を実行した後、清国の、当然の厳重な抗議を受けるが、それにたいしては、清国は「蛮地」は「化外の地」と言ったのではないかという論法で対抗する。
このような、中国語の概念と表現を近代的概念にねしまげる論法を、陳侃・郭汝霖の使録や『中山傳信録』の、久米島と赤尾嶼に関する記述の解釈に用いたのが、釣魚諸島の無主地論である。
七四年の台湾侵略のさいは、日本の実力では、まだ清国の実力およびイギリスの動向に抗して、「蛮地」=無主地論をおし通すことはできなかったが、この後、天皇政府の軍国主義と侵略の野望はいっそう強められた。その侵略の当面の目標を、天皇政府は、イギリスの示唆と支持をうけて、天皇政権成立の早々からねらっていた朝鮮に集中する。ところが、朝鮮国王は琉球国王と同様に、以前から形の上では清国に朝貢し、その外臣となっていたのだから、もし日本が、琉球王国を琉球「藩」とした後も、「藩」王の清朝への朝貢・臣属を認めたままでいるならば、そのことは、朝鮮国を完全に清朝の勢力から切りはなし、やがて日本の属領にしようという大政策の妨げにもなり得る。
そこで一八七五年七月、天皇政府は、琉球「藩」王に、清朝との朝貢・冊封関係をきっぱり断つことを厳命し、かつ、王の上京と「藩」政の大改革を強要した。また琉球王らの反抗を鎮圧するために、那覇の郊外に、琉球人民の土地を強制収用して熊本鎮台(後の師団)の分営を設けた。琉球王や士族らは、これに必死に抵抗し、ひそかに清朝に援助をもとめた。清朝は、日本政府に、清の「属邦」(琉球)の朝貢を禁じたことについて、再三抗議したが、有効な琉球王援助は何もできなかった。
この間に天皇政府は、七五年九月、軍艦「雲揚」をして、朝鮮の江華島付近の漢江に不法侵入させ島の守備兵を挑発させた。守備兵はついに発砲のよぎなきに至った。天皇政府はただちにその「罪」を問うとして、陸海軍の全力をあげて朝鮮に攻め入る準備をし、その圧力を背景にして、翌七六年二月、朝鮮に最初の「修好条約」をおしつけ、ついで八月、貿易規則をおしつけた。
それらの条約は、日本が外国におしつけることのできた最初の不平等条約であった。「修好条約」により、日本は朝鮮の釜山その他を開港させ、そこに居留地をもうけ、居留民の治外法権を定めた。貿易規則では、「当分の間」日朝両国とも輸出入関税は無税、そして日本は朝鮮の開港場で日本の通貨(紙幣をふくむ)を以て自由に朝鮮人から物資を買い入れることができると定めた。これは、日本が早くも朝鮮を政治的に従属させ、朝鮮経済を日本資本のほしいままな略奪の場としたことを意味する。しかもこの苛酷な不平等条約の第一条には、空々しくも、「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と書いてあった。それは、朝鮮国は清国の属邦ではないということを規定したもので、その裏には、やがては朝鮮を日本の属国にしようとする野望がかくされていた。十一年後の日清戦争の種火は、早くもここに日本によって点火された。
朝鮮強圧の成功の勢いに乗じて天皇政府は、あくまで清の「属邦」たることをやめようとしない琉球「藩」の「処分」を急いだが、日朝修好条約おしつけの翌年は、政府は西南戦争の大乱を乗切るのに全力をとられた。それにようやく勝利して、そのさしあたりの後始末もほぼかたづいた一八七九年(明治十二年)四月、政府は四百五十名の軍隊と百六十人の警官隊とで、三百年このかた軍隊というものは設けたことのない琉球「藩」王を弾圧して、うむをいわせず藩を廃止し、これを天皇政府直轄の沖縄県とし、旧藩王は強制的に東京に移住させた。
いわゆる「琉球処分」はここに完了した。これを、もともと琉球人は本土日本人と同一民族でありながら、政治的に分立していたのが、いまや政治的にも単一の日本民族国家に統一されたのだ、と解釈する説が支配的であるが、私はその説には反対である。
琉球では、十二世紀に最初の小国家が成立し、十四世紀に沖縄本島で三つの国が分立し、十五世紀の末に全土を統一した国家ができるが、それらの国は、日本の歴代の国家権力とは対等につきあう独立国で、十四世紀末から中国の皇帝にだけ朝貢臣属していた。やがて十七世紀初めに島津藩に征服され、以後は島津の苛酷な搾取と支配を受けることになったが、それでも琉球王国はなお独自の国家として存在し、中国の王朝にも朝貢していた。この国が、近代天皇制によって名実ともに独自の国家的存在を奪われ、中国への臣属も断ち切られ、天皇制の植民地にされたのが「琉球処分」の歴史的内容である。私はすでに、この問題を歴史的に、また民族理論的に、くわしく論じて(註)あるので、関心のある人はそれらを見ていただきたい。
(註)岩波講座『日本歴史』第十六巻「近代」Vにのせた「沖縄」(一九六二年)。中野好夫編『沖縄問題を考える』(一九六八年、東京、太平出版社)に書いた「日本歴史の中の沖縄」。全国解放教育研究会編、雑誌『解放教育』第四号(一九七一年十月号)の小論「沖縄差別とは何か」)。
一〇 日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
一八七二〜七九年の琉球処分の時期の天皇政府は、辺境の帰属問題を解決し、自己の支配領域を確定すると同時に、できればそれを拡張することに夢中であった。「琉球処分」以外の事実を年代順にあげれは、以下のような諸事件がある。 一八七三年九月〜十月、政府内における征韓論の大論争。西郷隆盛ら征韓派の敗退。 一八七四年二月〜十二月、台湾侵略。
一八七五年五月、ロシアとの千島・樺太交換条約に調印。幕末以来の樺太における日露の領界争いに、日本の大譲歩で結末をつけた。日本は樺太の南半部に対して早くからもっていた権利をすべて放棄し、同島の全部をロシアの領有とする、その代償として、ロシアは千島列島のうちのウルップ島以北という、南樺太とは経済的価値も軍事地理的重要性も、当時としてはけたはずれに低い島々を日本に譲り、エトロフ島以南の元からの日本領と合わせて、千島全島を日本領とすることになった。
一八七六年二月、朝鮮に日朝修好条約をおしつけ、ついでその付属貿易規則をおしつける。これは、強大なロシアに、領土的利益と国家的威信をともにむしり取られた代償を、弱小の隣国の侵略に見出そうとしたことであり、また前述のように「琉球処分」の推進と切りはなせない。
一八七六年十月、小笠原諸島を日本政府の管轄とすることを、諸外国に通告した。同島については、イギリスとアメリカが、幕末に無主地の先占による領有権を主張し、日本と対立していた。近代国際法理論のみからいえば、英・米の主張にも、日本におとらないだけの根拠があったので、英・米があくまでもその権利を主張すれば、日本がここを独占することは不可能であったろう。しかし、アメリカ政府はその当時は、遠隔の地に領土をもつことは不利であるとの思想が強く、一八七三年には、小笠原島に関する領有権の主張を全面的にとりやめて日本を支持した。イギリスはなおその権利を主張していたが、これも、その全アジア政策の長期展望に立って、太平洋の小島のことで日本と深く対立するよりも、ここは譲って、日本をイギリスの味方にひきつけ、東アジアにおける大英帝国の前哨として利用する方が有利であると考え、七五年から日本の主張を遠まわしの方法で、みとめた。そのおかげで日本はこの領有権を確立(註)し、上記の通告が可能になった。
(註)このことは、『日本外交文書』第五〜九巻(明治五〜九年)の、小笠原島関係の文書をみれば容易に確認できよう。幕末の幕府と英・米との交渉は、大熊良一『千島小笠原島史稿』を参照。
上の年代記で明らかな通り、天皇政府は、ロシアやイギリスやアメリカとは対抗できず、これらには全面的に譲歩するか、またはその好意に頼っただけであり、その反面では、朝鮮国、清国および琉球国へは、一貫して強圧、拡張の政策をとって、自己の支配領域を拡張しようとした。しかし、実力の不足はどうしようもない。いったんはむりやり中国との関係を断ち切らせ、「処分」=併合した旧琉球王国領についても、ある条件のもとでは、その一部分を清国にゆずろうとしていた。この琉球分島問題は、釣魚諸島の帰属問題と、この時点では関連はないが、後には重要な関連をもってくるので、かんたんにこの経過をのべておこう。
日本の「琉球処分」に対しては、琉球王国を数百年来の属国とみなしていた清国は、日本が琉球王の朝貢をさしとめたときから、抗議していた。そして七九年四月四日、日本が完全に琉球を併合すると、五月十日、清国政府は北京駐在の日本公使宍戸(王+幾 たまき)に、日本の処置は承認できないと申し入れた。これより琉球の領有について、日清両国間の一年半にわたる交渉がはじまる。その間に、たまたま東アジアを旅行中のアメリカの前大統領グラントが、清国の依頼により、日清間の調停をこころみたこともあり、まず清国側から、本来の琉球−−「琉球中山」=沖縄本島および「琉球三十六島」−−を三分し、北部の十七世紀以来島津藩に直轄されていた奄美群島を日本領とし、中部の沖縄本島を主とする群島は、元の琉球王の領土として王国を復活させ、南部の宮古・八重山群島は清国領とするという、琉球三分案を出した。
日本側はこれを一蹴した。それと同時に政府は、琉球を清国との取引きの元手にすることを考えた。すなわち、もし清国がすでに諸外国にあたえている、また将来他国にあたえるであろう「通商の便宜」−−清国内地通商の自由その他−−を、日本人にも一律に均霑(きんてん)させることに同意し、そのことを現行の日清修好条規の追加条約とするならば、その代りに日本は、宮古・八重山群島を清国領とし、沖縄群島以北を日本領として、琉球を二分しようというのである。
このいわゆる「分島・改約」の日本案に対して、清国政府内では、種々の異論があった。そのときたまたまロシアとの間に、伊犁(いり)地方の国境紛争がおこったので、清国の総理衙門では、琉球問題は日本に譲歩して早く解決し、日清関係を親密にしてロシアを孤立させる方が得策であるとの意見が有力になった。その結果、一八八〇年十月、総理衙門は宍戸公使と、日本案による分島・改約の条約案を議定した。
ところが、この後で、清国政府内で、またも北洋大臣李鴻章らが強硬に分島・改約に反対した。そのため清国代表は議定した条約案に調印できなくなった。そのうちに十一月一日、中国側は宍戸公使に、分島・改約案については、皇帝が南洋・北洋の両大臣の意見を待った上で、改めて日本側に通告するであろう、といってきた。 宍戸はその不当を責め、翌一八八一年一月五日、中国側に、「貴国はわが好意をしりぞけて、すでに両国代表間で議定したことを、自ら棄てたからには、今後は永遠に、我国の琉球処置について貴国の異議はうけいれない」との趣旨の文書をたたきつけ、憤然として帰国した。
(註)『日本外交文書』第一三、一四巻「琉球所属に関し日清両国紛議一件」。王芸生『六十年来中国与日本』第一巻。
琉球分界の日清交渉はこうして決裂したが、日本政府はこのときはまだ、宍戸公使が清国にたたきつけた文書のように、今後琉球問題についてはいっさい清国にとりあわないとの方針を定めていたわけではなかった。宍戸の帰国後も、外務卿井上馨は、天津駐在領事竹添進一郎に、李鴻章と非公式に会談してその腹をさぐらせた。竹添は八一年十二月十四日、李と会談し、その様子を詳細に本省に報告するとともに、李の真意は、宮古・八重山二島を得て、そこに琉球王を復活させたいというにある、日本は李の希望をいれ、その代り日清修好条規の改約を実現するのが上策である、今をおいて日清条約改正の好機はない、と意見具申した。これに対して井上外相は、翌一八八二年一月十八日、竹添領事に、ひきつづき李の意向をさぐるよう訓令し、また政府の分島問題についての次のような考えを知らせた。(『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」付記一六)
宮古・八重山二島を割与するだけで李が満足するなら、「土地ノ儀ニ付テハ当方ニ聊カモ異議コレ無ク候」、また琉球王を立てるというのが、日本の割与した二島に、清国政府が旧琉球王尚泰の親類または子を立てて王とするということなら、これも「別ニ異議ナシ」。しかし、日本がいったん廃王した尚泰その人を、再び日本で王に立てることはできない。
この後の竹添と李との非公式話し合いの進行状況はわからないが、結果からみると、井上外相の右の考え方の線により再び日清の正式交渉ということにはならなかった。
ついで、八三年三月、日本政府は来る四月二十九日で満期になる、日清修好条規付属の貿易規則の改定交渉を清国に申し入れた。これに対して五月、清国の駐日公使は井上外相に、日本はこの改約と琉球問題とを一体にして交渉するかどうか、と問うてきた。それに対して外相は、つぎのように答えている。
琉球問題は、「前年宍戸公使ヲシテ貴政府ト和衷ヲ以テ御商議ニ及バセ候処、貴政府ニテ御聴納コレ無キヨリ、事スデニ九分ニ及ンデ一分ヲ欠キ居候」、この問題と、満期になった貿易規則の改定とは全く別のことであり、当然別に交渉すべきであると、わが政府は考える(『日本外交文書』第一六巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」)。
この通り、井上外相ないし日本政府も、琉球問題はまだ最終的に解決していないことを認めていた。いいかえれば、八〇年に日清両国代表が議定した分島・改約案に、清国政府がすみやかに調印しないので、以後の交渉を日本側がうち切ったことをもって、その時から琉球全島が日本の独占となったと確定したのではない。琉球問題はまだ交渉すべき懸案であると、日本政府も認めていたのである。
井上外相の右の回答をうけた清国側は、琉球問題と一体としない貿易規則改定のみの交渉には応ぜず、そのまま一八八六年に至った。この年は、日本の対欧米条約の改正交渉が進行していたので、井上外相は、その交渉を有利にするために、日清条約の改正の促進を強く希望し、三月、公使として北京に赴任する塩田三郎に、現行の日清条約改正の交渉方を訓令した。そのさいとくに、条約改正に琉球問題を決してからめないよう、入念に注意した。塩田公使は四月二十二日から、清国側と条約改正の交渉をはじめた。清国側は、しばしばその交渉に琉球問題をからめてきたが、日本側はそれをたくみにすりぬけた(註)。こうして琉球領有権に関する日清間の対立は、そのまま放置されて、八年後の日清戦争に至る。
(註)『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程ニ関スル件」。なお条約交渉は一八八八年(明治二十一年)九月までつづけられる。その交渉で、日本は欧米なみの地位・権利を得て清国に優越しようとするが、清国は多くを譲歩しないので、日本の方から交渉を打ち切った。
日本はこのとき、対欧米の条約改正交渉を有利にするために、中国に対して欧米諸国なみの優位に立つ新しい日清条約を結ぶことを望んでいたが、しかも、その日清条約交渉と、琉球分島の問題とをきびしく切り離したのは何故であろうか。八〇年の日清交渉では、琉球を日清間で分割する代償に、条約改定をかちとろうとしたし、その後も清国側は、分島すれば改約に応ずる意向を原則的には変えていないこと、したがって早く改約するには、それと分島をからめるのが有利であることは、井上外相も承知していながら、あえて八三年以来は、両者を切り離したのは何故か。
その理由は、すでに、天皇政府は、きわめて近い将来の日清戦争を予期し、その準備を精力的に進めており(註)、清国ともっとも近い琉球の南部を、清国に渡すことはもはや決してできなかったからであろう。ここが清国領になれば、それは、戦争のさい清国が日本を攻撃する有力な根拠ともなり、日本がここを領有すれば、清国本土の南部や台湾への進攻根拠地にもできるのに、どうしてここを譲ることができよう。いま急いで譲ったりしないでも、近い将来には、日本の全琉球独占の既成事実を清国はいやでも認めざるを得なくなると、政府は考えたことであろう。
沖縄がもっぱら軍事的見地から重要視されていたことは、たとえば日清戦争中の一八九五年一月、貴族院で「沖縄県々政改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも、討論でも、「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」ということのみくり返し強調され、その要地の県政を改革して「海防に備へねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあらわれている(琉球政府編『沖縄県史』四、「教育」第六編第二章。『大日本帝国議会誌』)。
(註)天皇政府は早くから「征韓」をめざし、そのために清国との対立を深めていたが、一八八二年朝鮮の壬午事変(朝鮮兵士の朝鮮政府および日本人軍事教官に対する叛乱とソウル市民の反日闘争が結合した事件)の直後から、朝鮮の支配権をめぐって清国との戦争をめざした軍備大拡張とそのための大増税をはじめる。さらに一八八四年十一月、朝鮮で、日本と結びついた金玉均ら開化党がクウデターで政権をとるが、わずか三日で、清国に支援せられた朝鮮保守派の反撃でつぶされ、ソウルの日本公使は生命からがら日本へ逃げ帰った。これより日清両国の朝鮮出兵となり、日清戦争の危機が切迫した。しかし、このときは、まだ日本政府は戦争する自信がなかったので、翌八五年四月、首相伊藤博文が自ら全権使節として天津に行き、李鴻章と談判して、「天津条約」を結び、日清両国の朝鮮からの同時撤兵、今後の朝鮮出兵は相互に通告することなどをきめた。これより天皇政府は、対清戦争準傭のために軍備、政治、外交、財政、思想、そのほかあらゆる方面で、国力をかたむける。
政府の日清戦争準備の影は、沖縄県そのものにも濃くうつされる。井上外相が、日清条約改正交渉では、それに琉球問題をからませることを断乎として拒否したのと同じ八六年三月、「大日本帝国」の軍隊をつくりあげてきた最高の指導者であり、対清戦争のもっとも熱烈な推進者であり、時の内務大臣でもある山県有朋中将が、天皇の侍従をしたがえて、沖縄の視察に行った。その翌八七年四月には、沖縄県知事に長州出身の予備役陸軍少将福原実が任命された。沖縄の知事に軍人が任命されたのはこれが初めてである。そしてその秋十一月には、首相伊藤博文が、陸軍大臣大山巌、海軍軍令部長仁礼(にれ)景範らを従え、当時の日本最精鋭の軍艦三隻をひきいて、六日間も沖縄を視察した。伊藤はこのとき「命ヲ奉ジテ琉球ヲ巡視ス」と題する漢詩をつくっている。その句に曰く「誰カ知ル軍国辺防ノ策、辛苦経営ハ方寸ノ中(註)」と。こううたった伊藤はもとより、内相の肩書の山県中将の琉球視察も、対清戦争準備のためであることは疑いない。
(註)比嘉春潮『沖縄の歴史』(一九五九年、沖縄タイムス社刊)
その準備があらゆる面ですっかり完了し、しかも清国には対日戦備は思想的政治的には全然なく、軍備もようやく近代化に着手したばかりというとき、一八九四年七月、日本は、イギリス帝国主義の支援とはげましをうけて(註)、宣戦布告もせず、二十五日、海軍が豊島沖で清国艦隊を不意打ちし、二十九日、陸軍が朝鮮の牙山・成歓で清国陸軍を不意打ちして、対清戦争を開始した。その後で八月一日、ようやく宣戦を布告した。
(註)井上清『条約改正』(岩波新書)に詳述した。
戦争は従来の国家関係の断絶であるから、開戦とともに自動的に、交戦国間のすべての条約も懸案も消滅する。そして戦後には講和条約にもとづき、新しい国家関係がつくられる。日清戦争で勝利した日本は、下関の講和条約にもとづいて、政府が年来希望していた以上に日本の特権を定めた、新しい通商条約・貿易規則などを清国にのみこませた。
琉球問題も、日清開戦と同時に、もはや名実ともに両国の懸案ではなくなった。下関講和会議でも、日本側はもとより清国側も、琉球のことは何ら問題にしなかった。したがって、講和条約にも、琉球に関することが一字も書かれるはずもない。すなわち、日清両国の新関係の創出=講和のさい、日本がそれまでに琉球につくりあげていた既成事実に対して、清国が何らの異議も出さなかったことによって、その既成事実は確立された。いいかえれば、日本は日清戦争の勝利によってはじめて、清国の琉球に対するいっさいの歴史的権利・権益を最終的に消滅させ、日本の琉球独占を確立したのである。
一一 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
朝鮮・中国に対する侵略戦争の準備強化との関連で、天皇政府が琉球を重視し、その全島を日本の独占とする方針を確定した後の一八八五年(明治十八年)、はじめて琉球と、中国本土の間の海に散在する釣魚諸島が、天皇政府の視野に入ってきた。
これより先一八七九年、琉球藩が沖縄県とせられた直後に、福岡県出身の古賀辰四郎という冒険的な小資本家が、さっそく那覇に移り住み、沖縄近海の海産物の採取、輸出の業をはじめた。そのうちに一八八五年(註)、古賀は「久場島」(釣魚島)に航して、ここに産卵期のアホウ鳥が群がることを発見し、その羽毛を採取して大いにもうけることを思いたった。彼は那覇に帰って、その事業のための土地貸与を沖縄県庁に願い出たらしい。
(註)従来、古賀は「明治十七年」(一八八四年)にこの島を「発見」し、翌八五年沖縄県庁に、この島で営業するために借地願いを出したといわれているが、明治二十八年(一八九五年)六月十日付で古賀が内務大臣に出した「官有地拝借願」には、「明治十八年沖縄諸島ヲ巡航シ舟ヲ八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ……」という。前掲『沖縄』五六号)
「尖閣列島」は無主地の先占による合法的な日本領であると主張する、琉球政府や日本共産党その他は、もっぱら、古賀の釣魚島「開拓」という、平和的経済的な動機から同島の日本領有が進められたかのようにいう。一八八五年に政府がこの島に目をつけるにいたった直接のきっかけは、あるいは古賀の「開拓」願いが出されたことにあったかもしれないが、政府がここを日本領にとりこもうとしたのは、たかがアホウ鳥の羽毛を集めるていどのことのためではなく、この地の清国に対する上での軍事地理的意義を重視したからであった。そのことは、一八八三年以来の政府の琉球政策が何よりもまず軍事的見地からのみたてられ実行されてきたことから、容易に類推されるし、また八五年以降の釣魚諸島領有の経過の全体をみれば、いっそう明白となる。
琉球政府や日共は、八五年に古賀の釣魚島開拓願いをうけた沖縄県庁が、政府に、この島を日本領とするよう上申したかのようにいうが、事実はそうではなく、内務省がこの島を領有しようとして、まず、沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令した。それに対して、沖縄県令は八五年九月二十二日次のように上申している。
「第三百十五号
久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申
本県ト清国福州間ニ散在セル無人島取調ノ儀ニ付、先般、在京森本本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ、取調ベ致シ候処、概略別紙(別紙見えず−井上)ノ通リコレ有リ候。抑モ久米赤島、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ、シカモ本県所轄ノ久米、宮古、八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ、沖縄県下ニ属セラルルモ、敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ、過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ、中山傳信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。
果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間、来ル十月中旬、両先島(宮古・八重山)へ向ケ出帆ノ雇ヒ汽船出雲丸ノ帰便ヲ以テ、取リ敢へズ実地踏査、御届ケニ及ブベク候条、国標取建等ノ儀、ナホ御指揮ヲ請ケタク、此段兼テ申上候也
明治十八年九月二十二日
沖縄県令 西村捨三
内務卿伯爵 山県有朋殿」
この上申書によって、いくつかの重要なことがわかる。
第一に、内務省は沖縄県に、福州・琉球間の無人島の「取調べ」を「内命」したのはなぜか。なぜ公然と正式に命令しなかったか。
第二に、ここには、それらの島に「国標」=日本国の領土であるとの標柱を建設する問題が出されているが、これは沖縄県が言い出したことか、内務省が言い出したことか。
この二つの問題は関連する。国標取建ては、上申書の文脈から見て内務省の発案にちがいない。内務省−−内務卿は天皇制軍国主義の最大の推進者山県有朋である−−は、琉球をもっぱら軍事的見地から重視するとともに、その先の島々も日本領とする野心をいだき、その実現のために必要な調査を沖縄県に命じた。ただし、事が国際関係にふれ、日本と清国がはげしく対立している現状で、公然と正式に命令すると、どういう障害がおこるかわからないので、「内命」したのであろう。
第三に、この内命をうけた沖縄県では、「久米赤島」などを日本領とし沖縄県に属させてもよさそうなものだが、必ずしもそうはいかない、とためらっている。その理由は、これらの島々が『中山傳信録』に記載されている釣魚島などと同じものであると思われるからである。同じものとすれば、この島々のことはすでに清国側でも「詳悉セル(くわしく知っている)ノミナラズ、各々名称ヲモ附シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ」。つまり、これは中国領らしい。「依テ」この島々に、無主地であることの明白な大東島と同様に、実地踏査してすぐ国標を建てるわけにはいかないだろう、としたのである。
沖縄県令の以上のようなしごく当然な上申書を受けたにもかかわらず、山県内務卿は、どうしてもここを日本領に取ろうとして、そのことを太政官の会議(後の閣議に相当する)に提案するため、まず十月九日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ」、また「名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ」ているだけであり、かつ「沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげているが、もしも八〇〜八二年の琉球分島・改約の方針が持続されていたら、こういう発想はできなかったであろう。
これに対し外務卿井上馨は、次のように答えている。
「十月廿一日発遣
親展第三十八号
外務卿伯爵 井上 馨
内務卿伯爵 山県有朋殿
沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第八十三号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周回モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候。
且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并ニ新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。
右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」
この外務卿の回答は、山県内務卿とはちがって、清国との関係を重視している。山県は、たとえ中国が島名をつけてあっても、(1)中国領であるとの証跡がなく、(2)島の名称は、日本と清国でちがうというだけのことで気にすることはない、そして(3)八重山に近い、(4)無人島であるから、日本領にしよう、というのだが、井上外務卿は、そういう論点には一つも同意しないばかりか、かえって、(1)それらの島は沖縄に近いと同様に中国の「国境」(中国本土のこと)にも近いことを強調し、(2)ことに清国ではその名をつけていることを重視する、(3)清国人は、日本が台湾近くの清国の島(釣魚諸島もその一つである)を占領することを警戒し、日本を疑っている。こういうさいだから、いま国標をたてるのは反対であるという。
つまり、井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。しかし、この島を日本のものとするという原則は、井上も山県と同じである。ただ、今すぐでなく、清国の抗議を心配しなくてもよいような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は太政官会議にも出さなかった。
ついで同年十一月二十四日付で、沖縄県令から内務卿ヘ、かねて命令されていた無人島の実地調査の結果を報告し、かつ、「国標建設ノ儀ハ、嘗テ伺(うかがい)書ノ通リ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相済マザルニ付キ、如何取計(はか)ライ然ルベキヤ」、と至急の指揮をもとめた。これに対しては、内務・外務両卿の連名で、十二月五日、「書面伺ノ趣、目下建設ヲ要セザル儀ト心得ベキ事」と指令した。
(註)以上の沖縄県、内・外両卿の往復文書はすべて、『日本外交文書』第一八巻「雑件」中の「版図関係雑件」にある。また前掲の『沖縄』五六号にもある。
以上の政府文書により、一八八五年の政府部内および沖縄県の釣魚諸島領有をめぐる往復は、(1)まず内務省が、この地方領有の意図をもって沖縄県にその調査を内命したこと、(2)沖縄県は、ここは中国領かもしれないので、これを日本領とするのをためらったこと、(3)しかもなお内務省は領有を強行しようとしたこと、(4)外務省もまた、中国の抗議を恐れていますぐの領有には反対したこと、(5)その結果内務省もいちおうあきらめたこと、を示している。
ところが琉球政府の例の声明「尖閣列島の領土権について」は、「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十七年頃から古賀辰四郎氏が、魚釣島、久場島などを中心に、アホウ鳥の羽毛、綿毛、ベッ甲、貝類などの採取等を始めるようになった。こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています」という。 これは、どんなに事実をねじまげていることか。
第一に、内務卿が先に沖縄県知事に釣魚島の調査を内命したことをかくし、第二に、沖縄県はここが清国領であるかもしれないからとの理由で国標建設をちゅうちょする意見を上申しているのに、それをあべこべにして、沖縄県から現地調査にもとづいて国標の建設を上申したようにいつわる。しかも第三に、古賀の釣魚島における事業の発展が、沖縄県の国標建設上申の機縁となっていることにしているが、このときはまだ古賀の事業は計画段階である。第四に、内務卿の意見に外務卿が、清国との関係悪化のおそれを理由に反対し、そのため内務卿もこのさいはあきらめざるをえなかったことを、すっかりかくしてしまっている。そして第五に、沖縄県が出雲丸による現地調査の結果を報告した同年十一月の「伺」でも、同県は重ねて、釣魚諸島に国標をたてることは、「清国トノ関係ナキニシモアラズ」としてためらっている。このこともすっかりかくしてしまい、たんに九月に現地調査をすると届け出たことのみしか書かない。その書き方も、調査結果を届け出て、それにもとづいて国標建設を上申したといわんばかりである。歴史の偽造もはなはだしい。
この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着着と進行した。その間に、古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして一八九〇年(明治二十三年)一月十三日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。
「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、十八年十一月五日第三百八十四号伺ニ対シ、同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第二三巻、「雑件」)
沖縄県のこの態度は、八五年とはまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締りを理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、内務省社寺局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要しひろめるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀の事業取り締りを口実に、ここを日本領にとりこもうと積極的に動いたのであろう。
これに対する内務、外務両省の協議の文書は見えないが、政府が何の指令もしなかったことは、次の節にかかげる明治二十七年(一八九四年)十二月二十七日付、内務大臣より外務大臣への協議書で知られる。
さらにおどろくべきことに、日清戦争の前の年一八九三年(明治二十六年)十一月二日、沖縄県知事−−薩摩出身の有名な軍国主義者で沖縄人民をもっとも苛酷に圧制した、悪名高い奈良原繁−−は、一八九〇年一月の上申と同じ趣旨で、「魚釣島」(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を同県の所轄とし、標杭を建設したい旨を、内務、外務両大臣に上申した。これに対しても、両大臣は九〇年の上申に対するのと同様に、一年以上も何らの協議もしなかった(註)。
(註)『日本外交文書』第一八巻「版図雑件」の「付記」「久米赤島、久場島及ビ魚釣島版図編入経緯」と題する文書に、「明治二十六年十一月二日、更ニ沖縄県知事ヨリ、当時ニ至リ本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ試ムル者有ルニ付キ、之ガ取締ヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄ト為シ、標杭建設シタキ旨、内務外務大臣へ上申アリタリ、依テ二十七年十二月二十七日、内務大臣ヨリ……外務大臣へ協議……」とある。これで、二十六年十一月の沖縄県の上申は、一年以上も政府によって放置せられていたことがわかる。
それのみでない、日清戦争が始められる明治二十七年になってもまだ、開戦前か後かわからないが、いずれにしても日本の清国に対する戦勝が確実になる以前のことであるが、例の古賀辰四郎が、釣魚島開拓の許可願いを沖縄県に出したところ、県は「同島の所属が帝国のものなるや否や不明確なりし為に」、その願いを却下した。そこで古賀は、「さらに内務・農商務両大臣に宛て請願書を出すと同時に、上京して親しく同島の実況を具陳して懇願したるも」、なお許可せられなかった。
右のことは、『沖縄毎日新聞』の明治四十三年(一九一〇年)一月一日−九日号に連載された、「琉球群島における古賀氏の業績」という、古賀をたたえる文(註)中に書かれているが、もしも政府が、釣魚島を無主地と本心から見なしていたら、すでに対清戦備はほとんど完了している、あるいは開戦後かもしれないこの時点でもなお、同島の帰属不明ということで、古賀の請願を許可しない理由はないはずである。政府は、実はそこを中国領と知っていればこそ、まだ中国を打ち破っていないうちは、なおも慎重を期していたのであろう。
(註)この新聞記事は、那覇市編集『那覇市史』史料篇第二巻に収録。
天皇政府はこうして、一八八五年に釣魚諸島を中国から奪う腹をきめながら、そのための「他日ノ機会」を、九年間うかがいつづけた。
一二 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
政府が古賀の懇願をしりぞけてまもなく、九年このかた待ちに待っていた、釣魚諸島略奪の絶好の機会がついに到来した。宣戦布告に先立つ日本軍の清国軍不意打ちで火ぶたを切った日清戦争で、日本の勝利が確実になった九四年末こそ、その機会であった。このとき天皇政府は断然、釣魚諸島を日本領とすることにふみ切った。まず十二月二十七日、内務省から外務省へ、去年十一月の沖縄県知事の申請に回答して、魚釣島と久場島に標杭をたてさせることについて、秘密文書で協議した。その本文は次の通りである(傍註は『日本外交文書』編者のもの【都合上傍註は内記載に変更した:巽】 )。
「秘別第一三三号
久場島、魚釣島へ所轄標杭建設ノ儀、別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治十八年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候へドモ、其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ、別紙閣議提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也
明治廿七年十二月廿七日
内務大臣子爵 野村 靖(印)
外務大臣子爵 陸奥宗光殿」
この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ、之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ、右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス。 右閣議ヲ請フ」
この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。
外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて一八九五年(明治二十八年)一月十一日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月十四日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月二十一日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」(註)と指令した。
(註)『日本外交文書』第二三巻、「八重山群島魚釣島ノ所轄決定ニ関スル件」の「付記」。
八五年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治十八年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
明治十八年と二十七年との「事情の相異」とは何か。十八年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、二十七年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締りの必要を感じさせるようになった、ということであろうか。それも「事情の相異」の一つとはいえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治二十三年にははっきりしている。その相異を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに四年以上もすごした。さらに二十六年十一月に、沖縄県が前と同じ理由で重ねて標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が二十七年十二月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として一年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、九年前と今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。
明治二十三年にも二十六年にも、政府はまだ日清戦争をはじめてはいない。さらに二十七年に古賀が釣魚島開拓を願い出た月日が、日清戦争前であればもとよりのこと、たとえ開戦直後であっても、まだ日本は清国に全面的に勝利していたわけではない。だが、その年十二月初めには、すでに日本の圧倒的勝利は確実となり、政府は講和条件の一項として、清国から台湾を奪い取ることまで予定している。これこそが、釣魚諸島を取ることに関連する「事情」の、以前といまとの決定的な「相異」である。
日清戦争は、陸でも海でも日本軍の連戦連勝であった。九四年九月、日本陸軍は朝鮮の平壌の戦闘で、海軍は黄海の海戦で、いずれも決定的な勝利をかちとった。つづいて陸軍の第一軍は、十月下旬までにことごとく鴨緑江を渡り、十一月中旬には大東溝・連山関を攻略、第二軍は、十月下旬に清国遼東半島の花園口に上陸、十一月上旬に金州城を奪い、大連湾砲台を攻略し、同月二十一日には連合艦隊と協力して旅順口をも占領した。この間に海軍は、清国海軍の主力北洋艦隊を、渤海湾口の威海衛にひっそくさせた。
戦局の推移を注目していたイギリスは、早くも十月八日、駐日公使をして、日本政府に講和の条件を打診させた。そのころから政府は、日本の圧倒的勝利を確信し、清国から奪い取るベき講和条件の具体的検討をはじめた。その重要条件の一つは、台湾を割譲させることであった。
清国側でも、総理衙門の恭親王らは、十月初めにすでに、清国の敗戦をみとめて早期講和を主張しており、十一月初めには、抗戦派の総帥である北洋大臣李鴻章も、早く講和するほかないことをさとった。
この情勢の中で、十一月末から十二月初めにかけて、これから大陸では厳寒に向う冬期において、日本はどのような戦略をとるべきか、大本営では意見が分れた。一方は、勢いに乗じてただちに北京まで進撃せよと主張した。他方は、冬期はしばらく兵を占領地にとどめ、陽春の候をまって再び進撃せよ、という。
このとき首相伊藤博文は、明治天皇の特別の命令により、文官でありながら、本来は陸海軍人のみによって構成される大本営の会議に列席していた。彼は十二月四日、冬期作戦に関する論争を批判し、独自の戦略意見を大本営に提出した。その要旨は次の通りである。
北京進撃は壮快であるが、言うべくして行なうべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損うだげの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよという声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)。
大本営は伊藤首相の意見に従った。威海衛攻略作戦は、翌一八九五年一月下旬に開始され、二月十三日、日本陸海軍の圧勝のうちに終った。この間に台湾占領作戦の準備も進み、九五年三月の中ごろ、連合艦隊は台湾の南端をまわって澎湖列島に進入し、その諸砲台を占領した。さらに、ここを根拠地として、台湾攻略の用意をととのえているうちに、日清講和談判が進行して、清国をして台湾を割譲させることは確実となったので、連合艦隊は四月一日佐世保に帰航する。
天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった。一八八五年には、政府は、釣魚諸島に公然と国標をたてたならば、清国の「疑惑ヲ招キ」紛争となることをおそれたのだが、いま日本が釣魚諸島に標杭をたてても、清国には文句をつけてくる力などはない。たとえ抗議してきても一蹴するまでのことである。政府はすでに台湾占領作戦を決定し、講和のさいには必ずここを清国から割き取ることにしている。この鼻息荒い政府が、台湾と沖縄県との間にある釣魚島のような小さな無人島は、軍事占領するまでもない、だまって、ここは沖縄県管轄であると、標杭の一本もたてればすむことである、と考えたとしてもふしぎではない。
釣魚諸島を沖縄県管轄の日本領としようという閣議決定は、このようにして行なわれた。しかるに本年三月八日の外務省の「尖閣列島」の領有権に関する「見解」は、「尖閣列島は、明治十八年以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、同二十八年一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行ない……」という。これがいかにでたらめであるかは、本論文のこれまでの各節によって、まったく明白であろう。
明治政府が釣魚諸島の領有に関して現地調査をしたことは、一八八五年の内務大臣内命による沖縄県の調査があるだけである。しかもその調査結果を内務省に報告したさいの沖縄県令の「伺」は、「国標建設ノ儀ハ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相スマズ」と、この島に対する清国の権利を暗にみとめて、国標の建設をちゅうちょしている。すなわち沖縄県の調査の結果は、この島の日本領有を正当化するものにはならなかった。この後政府は改めてこの地の領有権関係の調査をしたことはない。したがって、これらの島々に「清国の支配が及んでいないことを慎重に確認した」というのも、まったくのうそである。そんなことを「慎重に確認した上で」、釣魚諸島領有の閣議決定はなされたのではない。一八八五年には清国の抗議を恐れなければならなかったが、いまは対清戦争に大勝利をしており、台湾までも奪いとる方針を確定しているという、以前と今との決定的な「事情の相異」を、「慎重に確認」した上で、九五年一月の閣議決定はなされたのである。
閣議決定とそれによる内務省から沖縄県への指令(一月二十一日)は、日清講和条約の成立(九五年四月十七日調印、五月八日批准書交換)以前のことである。したがって、いま政府がいうように、その閣議決定によって釣魚諸島の日本領編入が決定されたとすれば−−閣議で領有すると決定しただけでは、現実に領有がなされたということにはならないが、かりにいま政府のいう通りだとすれば、それらの島は、日清講和条約第二条の清国領土割譲の条項によって日本が清国から割き取ったものには入らない。しかし、講和条約の成立以前に奪いとることにきめたとしても、これらの島々が歴史的に中国領であったことは、すでに十分に考証した通りである。その中国領の島を日本領とすることには、一八八五年の政府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、九五年の政府は、清国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。
すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである。
一三 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
日本が「尖閣列島」を「領有」したのは、時期的にたまたま日清戦争と重なっていただけのことで、下関条約によって台湾の付属島嶼として台湾とともに清国に割譲させたものではない、したがってこの地はカイロ宣言にいうところの、「日本国が清国人から盗取した」ものではない、というものがある。たとえば日本共産党の「見解」がそれである。たしかに、この地は下関条約第二条によって公然と正式に日本が清国から割き取ったものではない。けれども、この地の日本領有は、偶然に日清戦争の勝利の時期と重なっていたのではなく、まさに日本政府が意識的計画的に日清戦争の勝利に乗じて、盗み取ったものである。このことは、本論の前二節に詳述した、一八八五年以来の本島の領有経過によって明白である。
朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(一九七二年三月二十日)は、もし釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議を申立てなかったことも、このさい指摘しておかねばならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなかろうか」という。
しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。
また、第二次大戦後の日本の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を問題にしなかったというが、日本と中国との間の領土問題の処理は、まだ終っていないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの講和会議には、中国代表は会議に招請されるということさえなかった。したがって、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国を代表する政権と結ばれた条約ではないから−−当時すでに中華人民共和国が、真の唯一の全中国の政権として存在している−−その条約は無効であって、これまた中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本との間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまっているわけではなく、これから、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領であることは明白であるとはいえない。
明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行なわれた。一八八五年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。九四年十二月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。九五年一月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月二十一日、政府が沖縄県に「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭をたてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、一九五二年(昭和二十七年)三月、『日本外交文書』第二三巻の刊行ではじめて公開された。
のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。
(註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。
つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領土に編入したといいながら、そのことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すくなくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ、たんに政府が国民にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけでは、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。
釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さっぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点について、琉球政府の一九七〇年九月十日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治二十八年一月十四日の閣議決定をへて、翌二十九年四月一日、勅令第十三号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」という。
これは事実ではない。「明治二十九年勅令第十三号」には、このようなことは一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。
「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シ、茲(ここ)ニコレヲ公布セシム。
御名御璽
明冶二十九年三月五日
内閣総理大臣侯爵 伊藤博文
内務大臣 芳川顕正
勅令第十三号
第一條 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス。
島尻郡 島尻各間切(まきり)、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及ビ大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及ビ伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第二條 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定ム。
附則
第三條 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」
この勅令のどこにも、「魚釣島」や「久場島」の名はないではないか。むろん「尖閣列島」などという名称は、この当時にはまだ黒岩恒もつけていない。琉球政府の七〇年九月十七日の声明「尖閣列島の領土権について」は、右の三月の勅令が四月一日から施行されたとして、そのさい「沖縄県知事は、勅令第十三号の『八重山諸島』に尖閣列島がふくまれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。……同時にこれによって、国内法上の領土編入の措置がとられたことになったのであります」という。
これはまた恐るべき官僚的な独断のおしつけである。勅令第十三号には、島尻郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、鳥島と大東島という、琉球列島とは地理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、八重山郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。この書き方は、これまで八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であり、旧琉球王国領でもないことは、百も承知である。その釣魚諸島を、今後は八重山諸島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」したことにはならない。当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふくまれると「解釈」したなどと、現在の琉球政府がいくらいいはっても、釣魚島や黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、という事実を打ち消すことはできない。
じっさい、この勅令は、もともと釣魚諸島の管轄公示とは何の関係もない、沖縄県に初めて郡制を布く(これまで郡制は沖縄県にはなかった)ということの布告にすぎないのである。
釣魚諸島は、事実上は何年何月何日かに沖縄県管轄とせられたのであろう。あるいはそれは明治二十九年四月一日であったかもしれない。しかし、そのことが公示されたことがないかぎり、いま政府などがさかんにふりまわす帝国主義の「国際法」上の「無主地先占の法理」なるものからいっても、その領有は有効に成立していない。
明治政府は、どこかの無主地の島を新たに日本領土としたばあいには、その正確な位置、名称および管轄を公示することの決定的重要性はよく知っていた。釣魚諸島を奪いとる四年前、一八九一年(明治二十四年)、小笠原島の南々西の元無人島を日本領土に編入したさいにも、まず同年七月四日、内務省から外務省に次のように協議した。
「小笠原島南々西沖合、北緯二十四度零分ヨリ同二十五度三十分、東経百四十一度零分ヨリ同百四十一度三十分ノ間ニ散在スル三個ノ島嶼ハ、元来無人島ナリシガ、数年来、内地人民ノ該島ニ渡航シ、採鉱、漁業ニ従事スル者コレ有ルニ付キ、今般該島嶼ノ名称、所属ニ関シ、別紙閣議ニ提出ノ見込ニコレ有リ候。然ルニ右ハ国際法上ノ関係モコレ有ルベシト存候ニ付キ、一応御協議ニ及ビ候也。」
「別紙」の閣議提出案には、この島の緯度・経度を明記し、かつ、「自今小笠原島ノ所属トシ、其ノ中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ、其ノ南ニ在ルモノヲ南硫黄島、其ノ北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス」と、その所属と島名の案も示してある。外務省もこれに異議なく、ついで閣議決定をへて、明治二十四年九月九日付勅令第百九十号として、『官報』に、その位置、名称及び所管庁が公示された。さらに、そのことは当時の新聞にも報道せられた(『日本外交文書』第二四巻「版図関係雑件」、『新聞集成明治編年史』)。
さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、一九〇五年(明治三十八年)、朝鮮の鬱陵島近くの、それまでは「松島」あるいは「リャンコ島」として、隠岐島や島根県沿岸の漁民らに知られていた無人島を、新たに「竹島」と名づけて日本領に編入(註)したさいも、一月二十八日に閣議決定、二月十五日、内務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ所属隠岐島司ノ所管トス。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」と訓令した。そして島根県知事は、二月二十二日内相訓令通りの告示をした(大熊良一「竹島史稿」)。
(註)この「竹島」を日本領としたことは、朝鮮国領土の略奪であると朝鮮側が主張していることは、周知のことであろう。私はまだこの問題を十分に研究していないが、この領有は無主地の先占であるという、自民党調査役大熊良一の「竹島史稿」の説には、大いに疑問をもっている。
「竹島」領有の経過を詳述した自由民主党調査役大熊良一は次のようにのべている。「このような(竹島領有のばあいのような)閣議決定の領土編入についての公示が、直ちに国の主権に及ぶという手続きは、明治初年いらい明治政府によってとられてきた慣行であり、こうした事例によって無主の島嶼が日本国領土に編入された事例が多くある。硫黄島(一八九一年)や南鳥島(一八九八年)さらに沖の鳥島(一九二五年)などの無人の孤島が、日本国の領土に編入され、それが国際的にも認知されるに至った公示の手続きは、すべてこの竹島の国土編入の手続きと同じように、地方庁たる府県告示をもって行なわれたのである。」(硫黄島は前記の通り、勅令で公示されている−−井上)
帝国主義支配政党である自由民主党調査役でさえ、この通り、新領土編入の場合にはその公示を必要とすることをみとめているが、釣魚諸島の領有についてだけは、それがまったく行なわれていない。日本政府は、この島々の緯度・経度も、名称も、所轄も、どんな形式によっても、ただの一度も公示せず、すべて秘密のうちに、日清戦争の勝利に乗じて、勝手に、いつのまにか日本領ということにしてしまった。これを窃かに盗んだといわずして何といおう。
こういう次第であるから、現在政府や日本共産党や諸新聞が「尖閣列島」と称している島々の地理的範囲も、どこからどこまでのことか、いっこうにはっきりしない。またその「列島」内の個々の島の名称も、政府部内においてさえ、海軍省と内務省系統とはよび名がちがう。このことはすでに本論文の第七、八節でくわしくのべた。也国の領土を、内心ではそうと気づきながら、「無主地」だなどとこじつけ、こっそり盗みとるから、その「領有」を公示もできず、その「領有」の年月日も、その地域の正確な範囲も、位置も、その名称すらも一義的に確定できないのである。
これが、彼らのいう「無主地の先占」の要件を一つも充たしていないことは、彼らが「硫黄島」や「竹島」を領有したしかたとくらべてみれば、誰にもすぐわかるであろう。
釣魚諸島は本来無主地ではなく、れっきとした中国領であった。この地に「無主地の先占」の法理を適用すること自体が本来不可能であるが、かりに無主地であったと仮定しても、その「先占」なるものも、この通り日本領編入を有効に成立させるのに必要な法的手続きを行なっていない。真の無主地を、あるいは本気で無主地と信じている土地を、何らの悪意もなく領有するのではなく、内心では中国領と知りながら、戦勝に乗じてそこをかすめとるから、こういうことにならざるをえないのである。これはどうりくつをつけてみても、合法的な領有とはいえない。
一八九五年、日清講和条約第二条で、台湾を日本が領有すると、ただちに、台湾の南側と、当時はスペイン領であったフィリピン群島との境界を、スペイン政府が問題にした。これについては、日本とスペイン両国府の交渉があり、同年八月七日の両国政府共同宣言(註)で、「バシー海峡ノ航行シ得ベキ海面ノ中央ヲ通過スル所ノ緯度平行線ヲ以テ、太平洋ノ西部ニ於ケル、日本国及ビスペイン国版図ノ境界線ト為スベシ」ということ、その他が決定され、日本領台湾とフィリピンの境界は明確にされた。
(註)『日本外交文書』第二八巻第一冊「西太平洋ニ於ケル領海ニ関シ日西両国宣言書交換ノ件」。
また同じ下関条約で日本が領有することになった、台湾の西側の澎湖列島の範囲については、条約にその緯度・経度が明示されていたから、これと中国その他の領土との境界も、はじめから明確であった。
ただ、台湾およびその付属島嶼の北側と東側の境界については、講和条約に何の規定もなく、また、それに関する清国と日本との別段の取りきめも行なわれなかった。清国政府は、台湾はおろか本土の要地遼東半島までも一時は日本に割譲をよぎなくされるほどの敗戦の打撃で、いまだ一度も放棄したことのない琉球に対する清国の歴史的権利を主張する力さえ失っていた。まして琉球と台湾の中間にあるけし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったであろう。日本政府はそれをもっけの幸いとして、琉球に関する中国のいっさいの歴史的権利を自然消滅させるとともに、かねてからねらっていた釣魚島から赤尾嶼に至る中国領の島々をも、盗み取ってしまったのである。
一四 釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
日本政府や日本共産党が、どんなに歴史を偽造し、ねじまげ、事実をかくし、帝国主義の国際法なるものをもてあそんでも、中国の領土は中国の領土であり、日本が盗んだものは盗んだものである。
したがって、日本が第二次世界大戦に敗れ、中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した一九四五年八月十五日(降伏文書に正式調印したのは九月二日)から、釣魚諸島は、台湾・澎湖列島や「関東州」などと同じく、自動的にその本来の領有権者である中国に返還されているはずである。なぜなら、ポツダム宣言は、降伏後の日本の領土に関して、「カイロ宣言の条項は実行される」と定めてあり、そのカイロで発せられた中国、イギリス、アメリカの三大同盟国の共同宣言は、「三大同盟国の目的は……満洲、台湾、澎湖島のような、日本国が清国人から盗取したすべての地域を、中華民国に返還することにある」とのべているから(カイロ宣言中の「中華民国」は現在では、全中国の唯一の政権である中華人民共和国と読み替えるべきである)。
釣魚諸島を盗み取った一八九五年以後に、日本政府がここを国内法的にどうあつかい、ここにどんな施設をしようとも、また古賀辰四郎が一八九六年九月、多年の宿願を達して釣魚全島を政府から「借地」し、そこで事業を盛大に営んだとしても、それらのことは、現在この島を日本領とする根拠には、まったくなり得ない。また、日本が盗み取っていた期間に、中国からそれについて一度も抗議が出なかったとしても、そのことは、「日本国が清国人から盗取したすべての地域」は中国に返還されなければならないという、カイロ宣言の実行を規定したポツダム宣言の効力に、何の影響もあたえるものではない。
さらに、また日本が連合国に降伏した一九四五年八月以後も、アメリカ帝国主義が琉球列島とともに中国領釣魚諸島を占領しつづけ、さらに一九五二年四月二十八日発効のサンフランシスコ講和条約で、釣魚諸島をもひきつづき米軍の支配下に置くことが定められたことも、それらの島が歴史的に中国領であるという事実をすこしも変更するものではない。したがって現在、アメリカ政府から、釣魚諸島の「施政権」が、「南西諸島」の米軍施政権にふくまれるものとして、日本に「返還」されても、そのことによって、釣魚諸島があらためて日本領になるのではない。どこまでいっても、中国のものは中国のものである。
それにもかかわらず、あらゆる歴史の真実と国際の正義にさからって、日本帝国主義は釣魚諸島を、いま、「尖閣列島」の名で、再び中国から奪い取ろうとしている。そして中国が、釣魚諸島はずっと昔から中国の領土である、この不法略奪はゆるさない、と正当な主張をすれば、日本政府のみならず、軍国主義・帝国主義に反対と自称する日本共産党も日本社会党も大小の商業新聞も、ことごとく、完全に帝国主義政府に同調して、何らの歴史学的証明もせず、高飛車に、ここが歴史的に日本領であることは自明であるとして、日本人民を、にせ愛国主義・排外主義・軍国主義の熱狂にかりたてようとしている。
かつての天皇制軍国主義は、その最初の海外侵略のほこ先を、イギリスまたはアメリカにはげまされ、支持され、指導までされて、まず朝鮮・台湾に向け、それとの関連で、島津藩の半植民地琉球王国を名実ともに滅ぼして天皇制の植民地とし、やがて日清戦争に突入した。そしてその戦争の勝利が確実となるやいなや、琉球の向うの中国領釣魚諸島を盗み取った。これが近代日本の支配者が奪いとった百パーセント外国領土の最初の地であった。そしてこの天皇制軍国主義は、その後の日本帝国主義の、とめどもない朝鮮、中国、アジアの侵略につらなり「発展」していった。
それとまったく同じ型の道を、いま、第二次大戦の惨敗から再起した日本帝国主義支配層は、アメリカ帝国主義にはげまされ、援助され、指導どころか指揮までうけて、まっしぐらに突進している。一九六五年の「日韓条約」、六九年の佐藤・ニクソン共同声明、そして本年五月十五日発効の「南西諸島」−−琉球と釣魚諸島その他の島−−の「施政権」をアメリカから日本に「返還」するという日米協定による、これらの地域の日米共同軍事基地化は、明治の天皇制軍国主義の歩んだと同じ道である。そして釣魚諸島が、日本の奪いとる外国領土の最初の地であるということまで、天皇制軍国主義そっくりそのままである。この次のねらいは台湾と朝鮮であろうか。
火事は最初の一分間に消しとめなければならない。いまわれわれが、日本支配層の釣魚諸島略奪を放任するならば、やがて加速度的に日本帝国主義のアジア侵略の大火は燃えひろがるであろう。ただし、朝鮮人民、中国人民、アジア人民は、昔のように日本帝国主義の野望の実現をゆるすことは、決してないであろう。
帝国主義反対、軍国主義反対と、どんなに声高くさけんでも、アジア革命勝利を百万遍となえても、現実に、具体的に、その日本帝国主義・軍国主義が、すでに中国領釣魚諸島に侵略の手を着けていることに反対してたたかわなければ、そのいわゆる帝国主義・軍国主義反対は、現実には日本帝国主義・軍国主義を是認し支持することにしかならない。
ましてや、「尖閣列島は日本領である」などといって、帝国主義政府と緊密に協力しながら、「尖閣列島」の軍事的利用はゆるさない、ここを平和の島にせよなどという、日本共産党などは、日本帝国主義の積極的な共犯者である。帝国主義が他国の領土を奪い取るのに全力をあげて協力しておいて、さてその奪い取ったものの使い方に、平和主義をよそおう注文をつけるのは、きわめて悪質な人だましである。これと同じことを、かつて一九二七年以来の日本帝国主義の中国侵略のさい、社会民衆党その他の右翼社会民主主義者がやった。いまの日共はそれと瓜二つである。
「尖閣列島は日本のものでもない、中国のものでもない、それは人民のものである。われわれは、日本と中国の国家権力の領土争いには、どちらにも反対である」などといって、いかにも国際主義の人民の立場に立っているかの如く幻想するものがある。これこそ掛値なしの「革命的」空論である。その空論で現実の日本帝国主義を支援するものである。
この地上から、いっさいの帝国主義と搾取制度が消滅させられ、いっさいの階級がなくなり、したがって国家も死滅する、遠い将来のことはいざ知らず、現在、すべての具体的現実的な、生きた人間は、階級に編成され、国家に区分されている。この現代の、生きた人民の国際主義の最大の任務は、帝国主義に反対することである。とりわけ帝国主義国の人民は、何よりもまず自国の帝国主義に反対しなげればならない。たとえ自国帝国主義と他の帝国主義国とが戦争した場合にさえ、国際主義の人民・プロレタリアートは自国帝国主義に反対してたたかう。決してどちらにも反対などといってすましてはいない。まして自国帝国主義が、現代世界の反帝勢力の拠点である中国の領土を盗むのに反対しないような、反帝はありえない。現在、われわれが日本帝国主義の釣魚諸島略奪に反対するのは、それがまさに日本帝国主義の当面の侵略の目標であり、その達成によって日本帝国主義がいっそう侵略を拡大する出発点がつくられるからである。とくに中国領をとろうとするからそれに反対するのではなくて、外国領土を取ろうとする、これが再起した日本帝国主義の出発点であるから、今、すぐ、その出発点をつぶさなければならないのである。そうするのは、中国びいきの人であろうとなかろうと、中国のためにするのではなく、日本帝国主義下にある日本人民の国際主義の貫徹としてであり、だれよりもまず日本人民自身のためである。人民、あるいはプロレタリアートを、生命のない、抽象的観念と化してしまい、「人民」は日中両国家の領土争いには反対である、などとの空論にふけることは、日本帝国主義に反対する日本人民の国際主義のたたかいに水をぶっかけ、日本帝国主義を助けるものでしかない。
またある人々は次のようにいう。軍国主義に反対の日本人民は、いま日本と中国との国交回復に全力をあげるべきである。そのためにまず解決すべきことは台湾問題である。日本の支配者たちをして、完全に蒋介石一派と絶縁して日台条約を破棄させ、台湾省は中国の一省であり、台湾省をもふくめて全中国を支配する唯一の政権は中華人民共和国であるということを公式に認めさせ、その中国と日本との国交回復をかちとることが当面の中心課題であって、釣魚諸島問題は、国交回復後に、日中両国政府が平和五原則にもとづいて話し合いで解決されるだろう、それまで釣魚諸島問題をさわぎたてない方がよい、などというのである。
この説は、公然と明示されていないけれども、ひじょうに広く存在している。この説は、いま釣魚諸島問題をもちだせば、大衆は軍国主義者のあおるにせ愛国主義のとりこになり、反中国になり、日中国交回復をさまたげるものとみなしている。それと同時にこの主張は、中国政府は釣魚諸島問題が日中国交正常化の妨げにならないよう配慮している、と伝えられているのを頼りにしている。このように日本人民を信じないで、中国外交の賢明巧妙に頼るだけで、日本軍国主義とたたかうことが、どうしてできよう。われわれ日本人民は、中国政府のきめの細かい巧妙な外交に頼ってわれわれ自身のたたかいを放棄するのではなく、反対に今のうちにこそ、すなわち日中が国交正常化して、次の平和条約の交渉に移った段階で必然に釣魚諸島の帰属が日中両国政府間の交渉の重大案件として大きく前面に出て来る以前にこそ、われわれは声を大にして、釣魚諸島に関する歴史と道理を人民にうったえ、日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪反対のたたかいを広範に展開すべきである。いまそうしないで、この問題が日中政府間交渉の議題に上ったときに、ようやく、釣魚諸島は中国領だと正論を宣伝しようとしても、そのときはすでにおそし、政府、自民党、日共をはじめ各政党とマス・コミがいっせいにあおる、尖閣列島は日本のものだ、中国に屈服するな、などという反中国のにせ愛国主義と軍国主義の猛焔が、日本中をつつんでいることだろう。
釣魚諸島略奪反対のたたかいは、後日ではなく、まさに今日、日本人民が全力をあげてとりくむべき、日本軍国主義・帝国主義反対の闘争の当面の焦点である。このたたかいに目をつむって、反帝も反軍国主義もありえない。釣魚諸島略奪反対の闘争と日中国交回復の闘争とを、切りはなしたり、甚しきは対抗させたりすることは、じつは日帝を援助することである。本気で、まじめに、具体的に、日本帝国主義軍国主義に反対してたたかおう。そのたたかいの、当面の最大の緊急の焦点である、日本帝国主義軍国主義の中国領釣魚諸島略奪反対に、全力をあげよう。
一五 いくつかの補遺
この原稿が印刷所に入ってから後に、私は二つの、それぞれにちがった意味で、興味ある雑誌を見た。一つは、朝日新聞社発行の『朝日アジアレビュー』第十号である。これには「尖閣列島」問題が特集されている。もう一つは台湾の学粋雑誌社編『学粋』第十四巻第二期「釣魚台是中国領土専号」である(本年二月十五日付発行)。これらの論文を、いちいち紹介批評するのは、ここでの私の目的ではなく、これらに触発されて、私が考えたことを、本論文の補遺として、二、三書いておきたい。
『朝日アジアレビュー』の高橋庄五郎の「いわゆる尖閣列島は日本のものか」の一節は、東恩納寛惇が琉球諸島は元来日本領であったことの証拠の一つとして、「オキナワ」その他の島名が日本語であることの意義を指摘しているのを引用し、その論法を釣魚諸島問題に適用し、これらの島が中国名であることに注意をうながしている。
釣魚諸島は、明・清の時代には無人島ではあったが、決して無名の島ではなかった。りっぱな中国名をもっていた。ふつう国際法上の「無主地」として「先占」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、無名の島である。大洋中に孤立した無人島で、かつ、それに何国語の名もついていないならば、それは無主地であるとみなすことができようが、それに、れっきとした名称がついているばあいには、その名称をつけた者の属している国の領土である可能性が多い。
釣魚諸島は、明・清時代の中国人の琉球への航路目標にされた。福州から琉球へ航するさい、まずこれこれの島を目標にし、ついでこれこれの島を目標にすると航路を確定するためには、その島々の位置を明らかにし、一定の名称をつけておかなければならない。こうして釣魚諸島には中国人によって中国語名がつけられ、かつそのことが中国の公的文献に記録され、伝承された。しかもその島々は、中国の沿海にあり、中国領であることは自明の島々につらなっている。のみならず、その島々のさらに先につらなる島は琉球語名がつけられており、はっきりと琉球領として中国語名の釣魚諸島とは区別されている。こういうばあいに、その中国名の島々を、「無主地」だなどと中国人はもとより琉球人も考えるわけはない。まして、本文でくわしく論じたように、中国名の赤尾嶼と琉球名の久米島との間が、「中外ノ界ナリ」と明記されている中国の文献が二つもあり、江戸時代日本人のこの島々を記録した唯一の文献『三国通覧図説附図』も、ここをはっきり中国領としているのだから、これでもなお、「無主地」ということは、とうていできない。
高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことはまちがいない。それゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一二、一三節に書いた通り、ここは台湾略取と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げんみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理学的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲されたものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない。
『朝日アジアレビュー』の奥原敏雄の「尖閣列島と領土帰属問題」は、「尖閣列島」日本領論者がいよいよその帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたものとして「興味」深い。彼は書いている、「無主地を先占するに当っての国家の領有意思存在の証明は、国際法上かならずしも、閣議決定とか告示とか、国内法による正規の編入といった手続きを必要とするものではない。先占による領域取得にあたって、もっとも重要なことは実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有意思が証明されれば十分である」(二〇ぺージ上段)と。彼はまた、「尖閣列島の自然環境や居住不適性を考えるならば、現実的占有にまで至らなくても、国家の統治権が一般的に及んでいたことを立証することができれば、国際法上列島に対する日本の領有権を十分に主張しうるといえよう」(二一ぺージ上段)ともいう。
中国の封建王朝の領土支配の諸形態のうちの一つに、近代現代の主権国家の領土支配と同じしかたのいわゆる実効的支配が行なわれていないからといって、そこは「無主地」だと強弁する奥原が、日本国家の行為については、「尖閣列島」は自然環境が悪くて人が住むのに適していないから、そういう地域は「現実的占有」をしなくても、領有を「公示」しなくても、また日本領編入の国内法上の手続きをしなくても、日本政府がここを日本領とするときめて支配すれば、日本領である、とにかく、オレの領土として支配している所はオレの領土だ、というのである。これほど帝国主義的な自分勝手の議論がまたとあろうか。彼がこのように、なりふりかまわず、居直り強盗の論法をふりまわさざるをえないということこそ、釣魚諸島日本領論の完全な破綻を自らばくろするものである。
奥原は、このような居直り強盗の論法で、明治十八年以来日本はここを領有し、「統治行為」を行なってきたのだと、あれこれの事をあげているが、ここが明治十八年以前に「無主地」であったという論証は、一字もしていない。彼はそれ以前の論文で、陳侃や郭汝霖の記述は、釣魚諸島が琉球領でないことを示すだけで、中国領であることを示すものではない、それは無主地であった、ということは証明ずみであるかのようによそおっている。だが、その説に対しては、私は『歴史学研究』本年二月号で、批判を加え、陳・郭の文章をどう読むのが正しいかを明らかにし、さらに、汪楫の使録で、赤尾嶼以西が中国領であることは、文言の上でも明確にされているという史料もあげておいた。奥原はこの批判に対しては、一言半句も反論もせず、すっかり無視したかのようである。彼は反論できないのである。
釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。私はその証明を、今回の論文で、前回の『歴史学研究』論文よりも、いっそう明確にしたが、私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪(ほうごう)という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。
『日本一鑑』は、一五五五年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功(ていしゅんこう)が、九州滞在三年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。
『朝日アジアレビュー』の特集の巻頭言「尖閣を日中正常化の障碍とするな」は、「尖閣列島」が歴史的には中国領であったことを、抹殺しようとつとめている。
いわく「共産圏では大体、欧米より国家主義が強い。チェコで案内書の一節におどろかされた。いわく−−われらの祖先は、かつてアドリア海から北海にいたる地域を支配していた、と。
妙な話だと思い、よく読んでみると、その大国は神聖ローマ帝国のこと。チェコの首都プラハは、大帝国の首都でもあったのである。
歴史主義もこの場合ご愛嬌だが、世界各国がそれぞれの最盛期における版図を現在もし主張すれば、たいへんな騒動になるだろう。
尖閣列島の問題も、歴史主義だけではかたづかない。」
この一文はまるで、現代中国が、歴史上の中国の最大版図をいまの中国領であると主張しているかのように読者に印象づける。そして、同誌編集部のつくった「尖閣列島問題年史」は、一八七二年、日本政府が琉球国王尚泰を琉球藩王としたことからはじまり、それ以前の、陳侃使録以来、釣魚島が中国領と記録されている長い時代については、一字も書こうとしない。歴史をまったく無視抹殺している。
この年表によれば、明治十八年九月、沖縄県令がここを沖縄県所管とする国標をたてるよう内務卿に上申したことになっている。これはうそである。事実は、内務卿が国標をたてようとして沖縄県に調査を内命したのに対して、沖縄県は調査の結果、ここは中国領らしいとの理由で、国標建設をためらう意見を出した。このことは本文にくわしくのべた。
またこの年表は、一八八六年三月「海軍水路部『寰瀛水路誌』に尖閣列島に関する調査結果を発表」と書いている。これでみると、いかにも日本海軍が独自に調査したようであるが、実はそれは英国海軍水路誌の記述の抄訳であったことも、本文で明らかにした。さらにこの年表は、一八九六年四月一日「勅令第一三号による郡制の沖縄県施行により、沖縄県知事は尖閣列島を八重山郡に編入後国有地に指定(魚釣島、久場島、南小島、北小島)」とある。勅令第十三号云々のでたらめも本文で明らかにした。
『朝日アジアレビュー』はこのように歴史を抹殺しながら、「国際問題に関心をもつ日本人の多くは、尖閣問題について語りたがらない。中国に悪く思われはせぬか、商売上の損になってはこまる、といった発想法であろう。だが意見は意見として述べないのは、信頼をえる道ではあるまい」などと、現在の事実をもねじまげる。
「尖閣」問題について、国際関係に関心をもつ専門家も、歴史家も語ろうとしないのは事実である。私が『歴史学研究』にこの問題に関する論文を寄稿したら、編集長は、それをのせたということで、委員会でつるしあげられたらしい。釣魚諸島は歴史的に中国領であって無主地ではないことを考証した、学術論文を専門雑誌にのせることさえ、容易ではない。
このようなことが起るのは、何も日本人が中国に気がねしてではない。まさにその逆である。日本の権力者、ジャーナリズム、右翼および日本共産党の顔色をうかがうからである。歴史学的にも、国際法論的にも、釣魚諸島は無主地だったとか、日本の領有は無主地の先占であるとか、まじめに、事実を事実とし論理を論理とするかぎり、いえたものではない。しかし、そういわないで、ここは中国領であったと正しいことをいえば、「国益に反する」「売国奴」として、さまざまの中傷・迫害をうける。領有問題がもっと尖鋭になれば、正論を吐くものへの迫害もいっそう尖鋭になろう。まして、議員選挙では、この正論は必ずしも得票と結びつかない。それどころか、自分自身がにせ愛国主義を克服しておらず、大衆は領土欲が強いものとひとりぎめにしている人々には、釣魚問題で正論をはけば大いに得票がへるだろうと恐ろしくてならない。議員候補者たらんとする者や政党はみなそう思っているので、日本共産党のように、積極的に、「尖閣は日本領だ」とどなりたてて、「にせ愛国主義」をあおって票をかせごうとするか、そこまでだらくできないものは黙っている、ということになるのである。学者でも、中国に気がねではなくて、日本の国家主義と日共に気がねして、正論をはくことがこわい以上は、「沈黙は黄金なり」をきめこんでいるのである。
そして、「次元の低い国家主義」に反対と称する『朝日アジアレビュー』は、この島々の歴史をまったく無視して、歴史的論文は一篇ものせないばかりか、年表からさえも、これが中国領であることを示す事はすっぱりと切り棄てて、その上に巻頭言で、専門家よ、歴史にこだわるな、ここが日本領であると大声でさけべと煽動しているのである。
こういう危険な状況に対して、反帝とか反軍国主義とか日中友好とかをいう人々が、毅然として立ちむかい、真実を真実として公然と発言することを切望する。「尖閣の問題は、歴史的事実がどうか、法律の上でどちらが正しいか、私などにはよくわからないので、だまっているほかない」などと、いいかげんな逃げ口上はやめて、わからなければ研究し調査して、どんどん発言しようではないか。これは、よくわからないですませられるような問題ではない。再起した日本帝国主義軍国主義に反対するかどうか。われわれ日本人民の前途にかかわる決定的な問題である。
(一九七二年六月十一日追記。『中国研究月報』六月号)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
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