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2016年10月13日 橘玲
コロンブスが「発見」した、中米ドミニカ共和国
500年間の虐殺、植民地、独立の歴史
[橘玲の世界投資見聞録]
3週間ほどカリブ・中南米を旅したので、忘れないうちに感想を書いておきたい。
ドミニカ共和国については現地在住の風間真治さんの報告に詳しいが、「黄金を求めてコロンブスがたどり着いた島」として知られている。
[参考記事]
●カリブ海最大のリゾート地を抱える「ドミニカ共和国」に投資する
ルネサンス期の起業家・冒険家クリストファー・コロンブスがスペイン王室の援助を得て、大西洋を西廻りでアジア(インド)に到達すべく航海に出たのが1492年8月3日、陸地に上陸したのが10月12日で、これが人類史に画期をなす「新大陸発見」の偉業とされている。この第1回航海でコロンブス一行が最初に上陸したのが「サン・サルバルド島」だが、それがどこかは諸説ある(バハマ諸島ではないかとされている)。そこで原住民と出会ったコロンブスは、自分がインドに到達したと信じていたため、彼らを「インディオ(インド人)」と呼んだ。
サン・サルバドルのあとに「フアナ島(キューバ)」を発見、次いで「イスパニューラ島」と名づけた島に到達し、ここに要塞をつくった。これがアメリカにおけるスペイン人(ヨーロッパ人)の最初の入植地だ。
イスパニョーラ島はカリブ海ではキューバに次いで大きな島で、“発見者”コロンブスによってスペイン王室の所領であると宣言された。現在のドミニカ共和国は、このイスパニューラ島をハイチと分け合っている。なぜ「スペインの島」がふたつに分かれたかというと、17世紀半ばにフランスが進出し、1697年のレイスウェイク条約で島の西3分の1が「サン=ドマング」としてフランス領となったからだ。そのため同じ島でも、ドミニカはスペイン語、ハイチはフランス語が公用語だ。
「コロンブス」はドミニカ最大の観光資源
ドミニカはニューヨークから飛行機で4時間の距離で西海岸より近いため、近年はカリブ海のリゾートとして開発が進んでいる。首都のサントドミンゴは世界遺産に登録されており、旧市街の中心パルケ・コロン(コロンブス広場)にはコロンブスの像が建てられ、総督となったコロンブスの息子ディエゴなど子孫3代が暮らした邸宅アルカサルや、歴代総督が住んだ官邸ラス・カサス・レアレスなど往時の建物が残っている。この国の最大の観光資源は「コロンブス」なのだ。
コロンブスの子孫が暮らした邸宅アルカサル (Photo:©Alt Invest Com)
植民地時代のスペイン人 (Photo:©Alt Invest Com)
ところで、コロンブスとはいったい何者なのだろうか。
これまでの定説では、コロンブスはマルコ・ポーロの東方見聞録に出てくる黄金の国ジパングに憧れ、アジアにより早く到達する航路を見つけようとしたとされている。ポルトガルの航海家ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカを回ってインド洋に入るルートを開拓するのはこの5年後で、当時は地中海の東端からオスマン帝国の支配地を抜けて紅海かペルシア湾に出る以外にインドへの道はなかった。コロンブスが新しい島に上陸すると真っ先に金鉱を探したことは航海日誌からも明らかで、これが黄金にとりつかれた“夢想家”コロンブスのイメージをつくっていく。
だがこの「強欲なコロンブス」に対して、必死に黄金を探し求めたのはスペイン王室など航海の出資者に利益を分配しなければならないためで、コロンブス本人の真の目的は別にあったとの反論がなされるようになる。当時、フィレンツェの地理学者・天文学者トスカネッリなどが地球球体説を唱えていたが、まだ誰もそれを証明していなかった。トスカネッリと親交のあったコロンブスは、自らの手で真実を明らかにし、正確な地球像を描くために危険な航海に乗り出したというのだ。これが、“知の冒険家”コロンブスだ。
だがその後、コロンブスがフランシスコ派修道会の俗人会員で、息子のディエゴをフランシスコ会に預けていたことが明らかになる。無所有と清貧を掲げるフランシスコ会は、最後の審判が近いという終末論を信じ、それまでに世界じゅうにキリストの福音を宣教しなければならないとの宗教的熱情に突き動かされていた。コロンブスもその熱情を共有し、布教のための新天地を探して冒険に乗り出したのだという。これが19世紀に唱えられた“聖人”コロンブスで、クリストファー(クリストフォロ)という名は「キリストを運ぶもの」の意味なのだ。
ついでに述べておくと、この変種にコロンブス=ユダヤ人説がある。新大陸への航海の直前、1492年1月にイベリア半島最後のイスラーム国グラナダが陥落して、レコンキスタ(国土回復運動)が完成する。その直後、スペイン王家はイベリア半島を純粋なクリスチャンの国にすべく、ユダヤ人追放令を発布して、キリスト教に改宗するか出て行くかを迫った。ユダヤ人であるコロンブスはこれに危機感を持ち、同胞が安心して暮らせる土地を見つけようとしたというのだが、これはさすがにうがちすぎだろう。
20世紀半ばに植民地主義の歴史が問い直されるようになると、こんどはコロンブスの「侵略者」としての姿が批判的に検証されるようになる。その決定的な“証拠”は、1502年にイスパニューラ島に渡り、サントドミンゴでドミニコ会の司祭となったラス・カサスが、コロンブスの部隊の略奪と蛮行をつぶさに記録・告発したことだ。
ラス・カサスの報告書には次のような場面が描かれている。
「(ある日)総督の命令で300人以上の(原住民の)豪族が何の恐れも抱かずにやってきた。ところが総督は一計を案じ、できるだけ多くの豪族をワラの家に閉じ込めた後、火をかけるよう命じた。彼らは生きたまま焼き殺された。残った者は全員槍で刺され、大勢が剣で切り殺された。アナカオナ女王は、敬意を表するために首吊りにされた。一部のキリスト教徒が、哀れみからか欲にかられてか、子供が殺されないように自分の馬の後ろに乗せたことがあった。しかし、別のスペイン人が背後からやってきて、槍で子供を突き刺した。もうひとりのスペイン人は、地面に倒れている子供の足を剣で切った。何人かのインディオは、この非人間的な残虐行為から逃れ、8レグア離れた小島に避難した。しかし、総督は、逃げたインディオを全員奴隷にしてもいいと宣言した」(ミシェル・ルケーヌ『コロンブス 聖者か、破壊者か』創元社)
だが、英雄から転落し「略奪者」「虐殺者」となったコロンブスはサントドミンゴの観光施設からは慎重に排除されている。そんなことをすれば、欧米からの観光客が興醒めしてしまうのだ。
コロンブス広場の彫像は観光客に大人気 (Photo:©Alt Invest Com)
原住民を絶滅させることは目的ではなかった
アメリカ大陸に渡ったスペイン人がいかに残酷だったとしても、彼らの目的は原住民を絶滅させることではなかった。
キリストの旗の下に国土を統一したスペイン王家は、異端審問によって国内をカトリックに純化すると同時に、神の恩寵をあまねく世界にしらしめすことを目指した。だが生命をかけて危険な航海に挑む男たちは、そのような宗教的情熱とは無縁だった。彼らが求めたのは、第一に富であり、第二に女だった。
生命を賭けた冒険を埋め合わせるだけの富を獲得するには、原住民から金や宝石を略奪するだけでは不十分だった。“ジパング伝説”にとりつかれていたのはコロンブスだけではなく、すべてのスペイン人が目の色を変えて黄金を探し回った。だが仮に金鉱が見つかったとしても、それを掘り出す労働力が必要だ。“騎士”であるスペイン人に鉱山で働く気などない以上、奴隷として働かせることができる原住民を殺してしまっては元も子もないのだ。
新大陸に渡ったスペイン人は全員が男だから、性欲の処理は喫緊の課題だった。コロンブスの日誌などからわかるのは、カリブの島々の原住民は男はもちろん女も裸で、身体は均整がとれて魅力的で、なおかつ性に開放的に見えたということだ。ルネサンス期の地中海沿岸の港町はどこも娼婦で溢れており、女は金で買うのが当たり前だった。そこでスペイン人は、船に積んであったガラス玉で買春し、ときに強姦し、何人もの女たちをはべらせた。セックスの対象となる若い女性はきわめて貴重なので、殺そうなどとは考えなかった。
だとしたら、大規模なジェノサイドはどのようにして起きたのか。それは若い女性を奪われた原住民が反乱を起こしたり、奴隷労働に抵抗したりしたときだ。スペイン人は原住民を人間より動物にちかいと考えており、異教徒と話し合ったり説得したりしようとは毛頭考えなかった。その代わり、見せしめに残酷な拷問を加えて皆殺しにしたのだ。
スペイン人がイスパニューラ島でなにをしたのかは、カリブ海の地方病とされる梅毒のパンデミック(広域感染)によっても知ることができる。
バルセロナではじめて梅毒が発生したのは、コロンブス隊の船乗りが第1回の航海から戻った1493年だった。スペイン支配下のナポリにはその年のうちに伝わり、そのナポリにフランスのイタリア遠征軍がやってきたことで、フランスに「ナポリ病」が広まった(それに対してイタリア人はこれを「フランス病」と呼んだ)。
梅毒菌はその後、中国の港を経由して1512年に日本に渡来している。ポルトガル人が種子島に来るより30年も早く、スペイン人が最初にカリブ海で感染してから20年しかたっていない。大航海時代に最初にグローバル化したのは、皮肉なことに性病だった。
歴代総督が暮らしたラス・カサス・レアレス (Photo:©Alt Invest Com)
宝物庫には戦国時代の日本の甲冑や日本刀も (Photo:©Alt Invest Com)
イスバニューラ島にいた「タイノ人」は原住民から先住民になった
コロンブスの期待に反して、けっきょくイスパニューラ島ではわずかな金しか見つからなかった。そのかわりスペイン人は、所領を獲得し奴隷(農奴)に耕作させることで富を得ようと考えた。彼らのやり方にはすでにモデルがあった。
『ラテンアメリカ文明の興亡』(高橋均/網野徹哉)によると、当時のスペイン人の対異教徒の行動様式はレコンキスタのなかで形成されたものだった。
キリスト教徒の騎士がある地方を征圧し、イスラームの支配者が南へと逃げ去るのが「奪回(レコンシスタ)」だが、ムスリムの農民たちは生活基盤である土地を捨てられないから、とどまって新しい支配者を迎えるほかはない。騎士たちは農民にキリスト教の洗礼を受けさせたうえで、領主となってその土地に定着した。
イスパニューラ島に渡ったスペイン人も、異教徒の土地を征圧したのだから、所領を分け与えられるのは当然と考えた。彼らの反乱に手を焼いて解任されたコロンブスの後を継いだ新総督オバンドは、「エンコミンダ」という制度を導入してこの問題を解決した。スペイン国王が原住民を「預ける」という意味で、住民を預かった騎士は国王に代わって彼らを外敵から保護し、キリスト教に改宗するよう宗教教育を授ける責任を負った。その代償として、国王に代わって住民から貢納や賦役を徴することを許されたのだ。
こうしていったんは平穏を取り戻した植民地だが、それは長くはつづかなかった。新総督オバンドは31隻の船に2500人ものスペイン人を載せてきており、彼らにエンコミンダで所領を分配したことで農村は過重な租税に苦しみ、もともと生産性の高くない原住民の社会が崩壊してしまったのだ。
それに加えて、島に伝染病が流行りはじめた。旧大陸から隔絶された新大陸には天然痘やチフスなどの伝染病がなく、原住民はこれらの病気への耐性をまったく持っていなかった。やがて彼らは、伝染病に感染して次々と死んでいくようになる。
労働力の深刻な枯渇に直面したスペイン人の対処法は、バハマ諸島、プエルトリコ島、ジャマイカ島、キューバ島を次々と征服し、その住民を奴隷としてイスパニューラ島に送り込むことだった。こうして、過酷な奴隷労働と伝染病によってカリブ海全域で原住民の大量死が引き起こされ、コロンブスの来島から100年もたたないうちに「タイノ人」と呼ばれた民族は絶滅してしまった。
漢語の原義にのっとれば、「原住民」は「その土地にもともと住んでいて、いまも暮らしているひとびと」をいい、「先住民」は「その土地にもともと住んでいたが、いまは死に絶えてしまったひとびと」をいう。人口100万とも150万ともされるタイノ人は「原住民」から「先住民」になってしまったのだ。
世界遺産に登録されたサントドミンゴ旧市街の街並み (Photo:©Alt Invest Com)
世界で初めて黒人による「自由の共和国」として誕生したハイチ
17世紀半ばにフランスがイスパニョーラ島に進出する頃には、労働力の枯渇により島の西側はほとんど無人地帯になっていた。スペイン王国の最盛期は新大陸から無尽蔵の銀が算出したフェリペ2世の時代(在位1556〜1598年)で「太陽の沈まぬ帝国」を自負したが、1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると制海権を失い、17世紀後半には覇権はイギリス帝国へと移っていった。
それに対抗するのが絶対王政下のフランスで、イギリスと同様、繊維製品、銃、ラム酒などと引き換えにアフリカで集めた奴隷を新大陸の植民地に送り、プランテーションで働かせてサトウキビから砂糖をつくった。この三角貿易(奴隷貿易)によって、フランス植民地のサン=ドマングは巨万の富を生み出した。
だがここで大事件が起こる。1789年のフランス革命で絶対王政が崩壊してしまったのだ。それを見て黒人奴隷とムラート(白人と黒人の混血で自由民であることも多かった)が反乱を起こし、白人の地主を処刑したが、革命直後の混乱のなかで、フランス政府にはカリブに兵を送って反乱を鎮圧する余裕はなかった。イギリスやスペインが介入を試みるなか、サン=ドマングの黒人たちの離反を防ぐには奴隷制を廃止するほかなかった。
近年のフランスは「人権」を売り物にするようになって、「世界でもっとも早く奴隷制を廃止した」ことを誇っているが、これが一時的な懐柔策で植民地の利権を諦めるつもりがなかったことは、ナポレオンが第一執政となった後に奴隷制度を復活させ、サン=ドマングに軍隊を送って再占領したことからも明らかだ。ところが占領軍への反乱が起きると、イギリスの海上封鎖のために援軍を送ることができず、奴隷出身の指導者デサリーヌに率いられた反乱軍はわずか1年あまりの戦いでフランス軍を破り、余勢を駆ってスペイン統治下の東部をも制圧してイスパニョーラ島を統一した。1804年、デサリーヌは新国家をハイチと命名し、世界の歴史ではじめての黒人による「自由の共和国」を宣言した。
だが国民のほとんどが黒人かムラート(白人と黒人の混血)で、フランス語を話しアフリカ土着のブードゥー教の強い影響が残る西地区と、スペイン系白人が社会の中核を占め、メスティーソ(白人とインディオの混血)が多く、スペイン語を話しカトリックの信仰が根づいた東地区が共存することは難しく、1845年にハイチから独立してドミニカ共和国が誕生する。
だがハイチもドミニカも政治的・経済的に不安定で、第一次世界大戦後にはドイツの進出を阻むという名目でともにアメリカの保護国とされ、米軍撤退後はハイチ国民はデュヴァリエ、ドミニカ国民はトルヒーヨの独裁に苦しむことになる。
だが1980年代になると、ハイチとドミニカの運命は大きく分かれていく。ドミニカは観光業や資源(ニッケル)、農業などの産業振興によって経済成長を軌道に乗せ、2000年代にはアメリカ資本による大規模なリゾート産業の誘致にも成功した。政治も、不正や汚職などの問題はありながらも三権分立の民主政を維持している。
それに対してハイチは1994年に軍事クーデターが起き、2004年には反政府勢力の蜂起で大統領が亡命し、国連平和維持軍によって治安の安定を図らざるを得なくなった。さらに2010年にはマグニチュード7.0の大地震に襲われ首都ポルトープランスを中心に甚大な被害が生じ、コレラが蔓延して多数の死者が出た。最近でも巨大ハリケーン「マシュー」の直撃を受け1000人超が死亡する惨事になっている。
だがこれは、隣のドミニカに比べてハイチは運が悪いという話ではない。地震の被害が大きいのは多数の貧困層が貧弱な住宅で暮らしているからで、コレラが蔓延するのは下水などの衛生設備が整っていないからだ。また世界の最貧国であるハイチでは燃料の入手が困難で、ひとびとが山の木を切ってしまったために保水能力が失われている。これが、大型台風が来るたびに多数の死者が出る理由だ。
このように、同じ島の東西に分かれたふたつの国は、植民地として似たような歴史をたどりながらも、いまではその立場は天と地ほど広がってしまった。
残念なことにハイチは気軽に旅行できるようなところではない(外国人は誘拐にそなえて民間警備会社の護衛をつけることをアドバイスされる)。一方ドミニカは、地元のひとによると、近年はハイチからの不法移民が増えて治安が悪化しているというものの、リゾート地区はもちろん観光地の旧市街も多数の警察官が配置され、昼間なら外国人旅行者が歩いても問題はない。ただし市内中心部の住宅地では、スマートフォンなどを見せないよう注意される(ひったくりが頻発しているという)。
新しいホテルは旧市街の西側のビジネス街につくられているが、観光が目的なら旧市街のホテルを利用した方が便利だろう。新市街と旧市街のあいだは海沿いに整備された遊歩道があり、早朝はジョギング姿も見られる。だが現地のひとたちは日中はほとんど出歩かず、外国人が遊歩道を歩いていると、つぎつぎとあやしげなひとが声をかけてくる。にわか観光ガイドになってチップをもらおうとしているようだが、鬱陶しいならタクシーで移動するか、住宅街を歩いたほうがいいだろう。路上の屋台でココナツなどを売っているのを目にするが、売り子のほとんどはハイチからの不法移民だという。
空港からリゾートに直行すればこうした光景を見ることはなく、隔離された敷地のなかで「食べ放題、飲み放題」のオールインクルーシブの休日を過ごすことができる。だがせっかくカリブまで行ってこれではあまりにもったいないので、コロンブスによって「発見」された島が500年余を経てどのように変わったのか、自分の目で確かめてみるのもいいだろう。
カリブ海を向かって叫ぶコロンブスの像 (Photo:©Alt Invest Com)
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。近刊『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)が30万部のベストセラーに。
●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/104500
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