http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/888.html
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極悪非道、やりたい放題、軍人天国、…、1931年満州事変以降、満州を事実上占領した日本軍部、「ひどいことをしていた」との認識は一般日本人にもあるでしょうが、完全にギャング化して、誘拐まで事業としたとの記事を見つけました。以下、引用冒頭の菱刈とは、1933年8月に新しく、満州国大使および関東軍司令官に就任した菱刈隆大将のことです。
なお、引用元の一貫した主張は、1945年までのこういう軍部のやりたい放題は天皇の命令、承認、黙認の下で実行されたものであり、天皇に反逆する意志を持つ軍人など一人もいなかったということです。
http://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_17_3.htm#kaspe
より
(引用開始)
菱刈は満州に新趣向のたくらみを持ち込んだ。誘拐である。多くの裕福な中国商人は、その死亡か倒産が確認される前に、二度も三度も誘拐された。西洋人たちも、その他の形の身の危険を領事館に訴えたが、誘拐の頻発には対抗のしようがなかった。誘拐に実施にあたっては、憲兵は常に盗賊と見なされれる一味――中国人の誘拐には中国人のをれを、白系ロシア人には白人のそれを――を利用した。誘拐犯たちは、日本の憲兵による保護扱いを受け、身代金が支払われた場合、その1パーセントに当たる報酬すら得ていた。いくつものケースで身代金が支払われ、被害者が自宅に帰された。それでも、彼らは、日本人からの報復を恐れて、その体験談をマスコミに明かすのはまれだった。
菱刈大将の任命からひと月も経ていない1933年8月24日、ハルピンのスパイ機関の工作員は、満州で最も金を脅し取れそうな、ヨセフ・カスペという裕福なロシア系ユダヤ人の息子を襲った。ヨセフの父は、日露戦争の後の1907年に、ハルピンにやってきていた。その宝石商は、時計修理と質屋から身を起こし、今では、東洋でもっとも富裕な宝石と銀の商人となっていた。そうした家業とともに、彼はハルピンの主なカフェとモデルヌ・ホテル、そして、北満州の映画館のほとんどを所有していた。彼の商売敵たちは、彼のその富は、ロシア革命の際、白系ロシア人貴族から押収された宝石や美術品の買取商売のゆえ、ソビエト連邦に感謝すべきだと影口をたたいた。このソビエトの盗品の密売の容疑のため、カスパは、彼のまわりに暮らす白系ロシア人からは徹底して嫌われていた。それは、ハルピンのユダヤ人社会でも同じだった。かくして反ユダヤ主義が白系ロシア文化に染み込まされ、近年、多くの白系ロシア人がアドルフ・ヒットラーの賞賛者となっていた。
その頃、日本人もまた、フリーメースンやボルシェビイキと同じように、ユダヤ人を宣伝材料に使い始めていた。だがそれは、多くの西洋人にとって奇妙なことだった。というのは、日本人にユダヤ人と非ユダヤ人を見分けられる者はほとんどおらず、ユダヤ教徒に自ら進んで転じた者も日本中で一ダースにも満たなかったからだった。しかし、日本人の潔癖好き精神にとって、それが悪魔であるなら、馴染みの有る無しに拘わらず、大した違いはなかった。ハルピンのユダヤ人は、事実上、地位も自分を守る術を持たない人々で、神道による迫害は、キリスト教徒に負けず劣らず容赦のないものであることをやがて知ることとなった。1932年に関東軍がハルピンに侵入すると直ちに、地元のロシア・ナチ指導者の工作員で協力者を、 『ナシュ・プト』 という宣伝新聞の編集をするロジャエフスキーとの名のやくざまがいの知識人に仕立てた。
大金持ちのカスペは、日本の政治状況の動向を察知して、自分のすべての財産を、フランス国籍の二人の息子の名義に移した。日本人の眼から見れば、それは日本人を無視する行為であり、1932年末に満州自活方針が実行に移された後、日本の統治当局は、カスペの財産を何とでも搾り取ろうと躍起になった。だが、カスペも、それに気付かない人物ではなく、彼がモデルヌ・ホテルの自室を後にする時は、必ず頑強な護衛を付けていた。
しかし、カスペの息子の一人は、そういう用心が不足していた。1933年の夏、彼は、フランス国立高等音楽院を卒業し、コンサート経験を積むことを望む前途あるピアニストとして、ハルピンに帰国した。父親が彼のために、その機会を準備しようと東京や上海に行っている間、彼は、毎日のようにハルピンの夜を楽しみ、川端のゲイ地区や、タトスあるいはイベリア・クラブの中国人歌手、日本人ママさん、あるいは、ロシア人キャバレー女を求めて出かけて行き、その際は父親が用意した武装運転手を同行した。
1933年8月24日、息子のセムヨン・カスペが、L. シャピロ嬢を自宅に連れて帰ろうとした時、日本の憲兵に雇われた二人の白系ロシア人ファシストがその車に乗り込み、車を町外れへと運転させて行った。そこで彼らは運転手を追払い、その女に手紙の秘密受渡し場所や電話番号を教えた後、彼女を身代金交渉の仲立ちにするために解放した。その後の彼女の陰に日向にの献身的な働きは、彼女は若いカスペを深く愛していたか、憲兵から金で操られていたかのどちらかを物語っていた。誘拐犯はセムヨンをハルピンの西、約 「55ロシアマイル」〔約60km〕 の森の隠れ家に連れて行き、そこから毎日、電話や身代金通告や最後通牒を発した。
セムヨンの父は、要求された10万ドル〔現在価値で約5億円〕を憤然と拒絶し、本人と引き換えに1万2千ドル〔同6千万円〕を支払うと返答した。一ヶ月の交渉の後、彼には血にまみれた息子の片耳の半分が送られてきた。それでも彼は、徹底した倹約心と、脅迫に対する頑固な勇敢さから、その支払いを拒否し続けた。彼はフランスの副領事シャンボン氏とは非公式で関わりがあり、同氏の部下が手掛かりを探し始めた。さらに日本の憲兵の司令官自身は、その件に部下のすべてを配置していると言っていた。その部下たちは、誘拐犯からの身代金要求の電話を探知するため、ハルピン中央電話交換所に陣取っていたが、日本人の説明によれば、その巧妙な誘拐犯は、傍受している四つの回線全部にいつも同時に電話をかけてくるので、技術的理由から、その探知を行うのは不可能であるとしていた。
10月、熱心なシャンボン副領事の部下は、コミサレンコという十代のごろつきを誘拐犯の一人として捕らえた。彼は共犯者の白ロシア人の名を白状した。日本の憲兵はコミサレンコを逮捕し、町から連れ出した。憲兵は、彼を南満州鉄道の敷設権内――憲兵を見下す日本の鉄道公安官の管轄下にあった――に彼を隠すという失敗をした。鉄道公安官の責任者、大井深大佐は、いかにも、日本の武士の典型のような人物だった。彼は自分の権限を駆使して、コミサレンコの憲兵を解任し、その若い暴漢を自分の下に拘留した。憲兵は、シャンボン副領事の部下の全員をでっち上げの罪で逮捕し、ファシストのロジャエフスキーに、シャンボン副領事はユダヤ人ボルシェビイキであったと彼の新聞 『ナシュ・プト』 に書き立てるようそそのかした。大井大佐はコミサレンコをハルピンに連れ戻し、地元の満州警察に公式の自白を行わせた。やがて外国の新聞がこの事件に注目し始め、当惑させられることとなった。
誘拐されたピアニスト、カスペはその間、しだいに弱っていっていた。誘拐犯たちは彼を飢えさせ、時に殴打し、そして、そのピアニストの柔らかい指から、爪を剥ぎ取っていた。少なくとも一度は、憲兵は彼と誘拐犯たちを別の隠れ家に移すために車を用意した。彼の最後に詰め込まれていた場所は、凍土の中に掘られた穴で、それが蓋で覆われていた。1933年11月28日、遂に、大井大佐が二人の誘拐犯を逮捕すると、その一味たちは混乱に陥った。その内の一人は、セムヨンを3千ドル〔同約1200万円〕で返すと父親と話をつけた。その日の夜、 「勝利の手入れ」 と穏便に表現されながらも、憲兵がその隠れ家を急襲し、その最後の犯人を射殺し、護衛についていた者たちを逃亡させ、その不具者にされ壊疽に冒されていたピアニストを殺すか、あるいはそのまま埋めてしまった。
数ヶ月の捜査と起訴手続きの後、彼らの裁判が満州の法廷で始まった。そしてその公判は、東京で行われた5・15事件や三件の脅迫事件の英雄たちのために行われた公判のミニチュアのごとく、外交的茶番への中国人の憤激をもって実行された。被告には弁護のための政治談義の展開が許された。彼らは、カスペの懐はボルシェビイキの黄金で満たされており、それは、ソ満国境に展開する白系ロ [引用元脱文]
中国人判事たちは、二年間にわたって、丁寧かつ忍耐強くそれを聞いた。そして1936年、一味の6人に、 「三日以内」 の絞首刑、他の者には長期投獄の判決を言い渡した。だがそれに驚かされたのか、満州国の操り人形舞台の背後にいる日本人支配者は、不可解でとっぴな行動に走った。その判決の二日後、彼らは、その判事と検察官を連行し、 「汚職」 の嫌疑で取り調べた。それと同時に、その誘拐犯の一人の妻の上告について、関東軍参謀総長の板垣は、刑法の無法行為条項ではなく、――日本人判事によって公判が進められるべきという――政治的理由でもって、新たな裁判を開始することを命じた。
その再審において、検察は情状酌量の困難と被告席の 「清く若き愛国者」 の純粋な動機を力説し、10ないし15年以内の寛大な判決を求めた。法廷はそれに応じ、投獄は軽減された。しかし、日本国内では、他に役立つかもしれない者を監獄に遊ばせておくことをよしとはしなかった。受刑者たちは、その一週間後、再び法廷に呼び立てられ、自身でも驚かされたことに、恩赦が申し渡された。そして10日後、彼らは、判決と誓約に免じて釈放され、満州の他の都市においての特務機関の仕事が与えられた。
『ハルピン・ヘラルド』 や 『ハルピン・オブザーバー』 の各紙は、その司法処置を茶番であると非難した。長い弾圧をなめてきた両新聞社は閉鎖され、編集者は国外追放された。大井大佐は日本に呼び戻され、シャンボン副領事は、好ましくない人物と宣告され、本国フランスに召還された# 5。父親のカスペについては、彼が身代金に応じなかった息子の遺体が掘り出された時、とうとう気がふれたと言われた。彼は自分の金融帝国への興味を失い、その後、フランス人妻と共に身を引き、忘れ去られた。彼の映画館は満州映画協会によって買収された。この団体は、甘粕正彦の率いる独占組織で、彼は、1931年にヘンリー・溥儀を満州に招いたいわくつき憲兵であり、かつ、1923年の関東大震災の際には、社会主義者大杉栄、その妻、そしてその甥を絞殺した人物だった。
# 5 その当時、日本との間にいかなる紛争も起こさないというのがフランスの政策だった。1920年代に日英同盟が破棄されて以来、日仏同盟の可能性が多くのフランス政治家の魅力となっていたようだ。クローデル将軍は、リットン報告を無力化させようと努力し、1933年10月17日、国際連盟のボイコットを最初に破り、満州国に6千万ドル〔現在価値で約3千億円〕を融資したのは、政府の後押しを受けたフランスの融資団であった。そこで南満州鉄道は主にその資金を用いて朝鮮に港と海軍基地を建設した。最終的に日本が欧州の同盟国に選んだのは、衆知のように、フランスでなくドイツであった。
(引用終了)
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