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(回答先: 「ユダヤ人」はシオニズムによる発明。『ユダヤ人の起源』著者 歴史家シュロモー・サンド インタビュー(朝日新聞グローブ) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 09 日 14:59:08)
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd200.html#01
1998.2
●一般にシオニズム(ZION主義)とユダヤ思想の違いはあまり意識されることはない。
そのため、シオニズムとユダヤ思想は同じものだと思っている人が多い。しかし本質的に、シオニズムとユダヤ思想は別物である。
また、シオニズム運動は、現在のような人種差別的なイデオロギーと軍事思想に基づいたシオニズム以外にも、幾つかの流派があり、初期のシオニズム運動は比較的穏やかな性格のものであった。しかし、次第に強硬路線を唱える者たちに乗っ取られていく。
この点を理解しておくのは非常に大事なので、シオニズム運動の歴史を少し振り返ってみたい。
●シオニズム運動は、19世紀末に南ウクライナで連続して発生した「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)に大きな衝撃を受けたロシアのユダヤ人たちによって、本格的に開始されたものである。
当初、ロシアにおけるシオニズム運動の主流は「宗教的シオニズム」であった。宗教的シオニズムは、信仰の崩壊や解放や同化から、ユダヤ民族の統一を守ろうとし、もしユダヤ人が自らイスラエルヘの帰還を準備するとき、神の助けを期待するものであった。彼らは、パレスチナの植民地化を要求したが、しかし独立国家の樹立までは考えておらず、世俗的な運動(政治的シオニズム)による時期尚早の国家建設は、神への冒涜であると主張していた。
●また、ロシアのシオニズム運動の中には、新たに「文化的シオニズム」という潮流も生まれた。
この「文化的シオニズム」の創始者はキエフ州スクヴィラ生まれのアハド・ハアムだった。彼はパレスチナを訪れ、そのあとすぐに植民は誤れる道だと批判した。
彼によれば、ユダヤ国家の建設はまず当面は実現され得ない。それに代わるものとして、彼は2、3の入植地に集中して移住することを支持し、パレスチナを、離散におけるユダヤ民族のルネサンスがそこから出現するような、そうしたユダヤ民族全体の精神的拠点にすることに賛成した。彼も他の多くの東欧ユダヤ人と同じように、特に彼らの文化的独自性を強調し、いまこそそれを再生復活させることが大切だと説いた。
●この「文化的シオニズム」は「政治的シオニズム」に対する、もう1つ別の決定的な道となるべきものであった。
マルチン・ブーバーおよびその他の著名人たちによってさらに進められたこの「文化的シオニズム」は、とくに東欧ユダヤ人の根源を援用して、「ユダヤ的特性」を強調し、他の文化の評価を独自の文化への意識と結合させた。その限りにおいて文化シオニストたちは、パレスチナにおけるアラブ人たちとの妥協を支持したのであった。
(マルチン・ブーバー:彼は20世紀最大のユダヤ人神学者である。1938年、ドイツからイスラエルに移住し、ユダヤ人の教育の充実を図った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を体験してから死去する。その遺言に遺産を貧しいアラブ人の学生にも分かち与えることを書き遺した。キリスト教神学界にも影響を与えた。この碩学に対して、ユダヤ人側からの評価は低かった。)
●東欧のシオニストは右派から左派まで様々な団体を形成していた。
「宗教的シオニズム」を支持していた正統派ユダヤ教徒の諸政党は、「イスラエル同盟」という形で連合した。彼ら正統派ユダヤ教徒の考えによれば、現状の変革はメシアによる救済をもって、初めて実現するはずであった。実際には、彼らはこうした態度によって右派の政策を助長していた。1920年代を通して、彼らは最も多数の支持者を集め、約50%の支持率を保っていた。
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●西欧において「政治的シオニズム」運動を始めたのは、“近代シオニズムの父”とされているテオドール・ヘルツルである。
彼はシオニズム運動とは全く無縁なハンガリーの“同化ユダヤ人(キリスト教社会同化者)”であった。ところが、フランスの「ドレフュス事件」に遭遇し、自らの民族感情を呼び覚まされたのであった。
ヘルツルは、ユダヤ人の悲劇の根源は“国家”を持たないところにあると考え、ユダヤ国家樹立こそ急務であるとした。彼は『ユダヤ人国家』を著し、1897年には、スイスのバーゼルで国際的な「第1回シオニスト会議」を開催し、「世界シオニスト機構」を設立。自ら議長となり、シオニズム運動の国際認知のために、精力的な外交活動を展開していった。
●東欧で「文化的シオニズム」を提唱していたアハド・ハアムは、ヘルツルの「政治的シオニズム」を批判していた。
また、ユダヤ教の主流ともいうべき伝統にのっとった正統派ユダヤ教徒は、シオニズム運動そのものが世俗的なものであるとして支持しなかった。ロシアのユダヤ人労働者総同盟「ブント」のメンバーも、シオニズム運動を“反動ブルジョア的”と決めつけ非難していた。
更に改革派ユダヤ教徒も、ユダヤ人は民族ではなく宗教集団であるから、国家を樹立する必要はないとして反対していたのである。
●また、東欧ユダヤ人たちの多くは西欧ユダヤ人たちを、「ディアスポラ(ユダヤ人の大離散)の苦労を忘れ果てている」といって非難していた。逆に西欧ユダヤ人の間では、東欧ユダヤ人たちを「時代に取り残された者」として蔑む者たちがかなりいた。もっとも東欧ではユダヤ人の物質的困窮が最大限に達していたので、西欧のユダヤ人たちは彼らに救いの手を差しのべようとはした。そしておまけに彼らを必要とした。東欧にこそ“ユダヤ人”の大半が住んでいたからである。
●しかし、東欧のシオニズム運動は、次第にメシア救済を掲げる理想主義に走り、行き詰まるようになる。そのため、ヘルツルの「政治的シオニズム」に大きな可能性を見い出す者が増えて、彼らは「実践的シオニズム」を唱えるようになる。
その後、ロシアのシオニストたちのスポークスマンであったメナヘム・ウシシュキンは、「政治的シオニズム」と「実践的シオニズム」の2つを統合することを提案。1907年の「第8回シオニスト会議」で、この2つのシオニズム運動が統一され、「総合的シオニズム」と名付けられた。名付けたのは、白ロシアのピンスク地区出身の化学者ハイム・ワイツマン(後の初代イスラエル大統領)である。
この「総合的シオニズム」運動が、各種シオニズム運動の中で有力路線となる。
●ハイム・ワイツマンは「世界シオニスト機構」の総裁を務め、その後、何年にもわたって世界のシオニズム運動の指導者となった。やがてワイツマンのシオニズム運動は、ベングリオンの「建国強硬路線」にとってかわられていく。
ベングリオンの指導のもとに、ユダヤ人の独立国家をつくる基盤は着々と準備された。彼はシオニスト労働党マパイの指導者で、労働総同盟代表などを経て、やがて初代イスラエル首相になる。このマパイ、労働総同盟に基盤をもつシオニスト主流派の潮流が、そののち長くイスラエルを牛耳ることになるのである。
●強硬路線をとるもう1つのシオニズムの潮流(ベングリオンのライバル)について触れておきたい。それは「シオニスト修正派」である。
これは南ロシア出身のジャボチンスキーに指導され、ユダヤ人の武装、パレスチナ人の追放、イギリスとの非妥協、ヨルダン川の東西の岸を含む大イスラエル(エレツ・イスラエル)復活などを唱え、やがてメナヘム・ベギンの「イルグン」や、イツハック・シャミルの「シュテルン」などの、ユダヤ人テロ組織を生み出した。(メナヘム・ベギンとイツハック・シャミルの2人は、後にイスラエル首相となる)。
また、1920年には、後のイスラエル国防軍の中核となる「ハガナ」と呼ばれる秘密のユダヤ人武装部隊が結成され、年々その組織を拡大し、軍隊としての形を整えていった。このユダヤ人武装部隊は、後にイスラエル国防軍の中核となる。
●このように、初期のシオニズム運動は比較的穏やかな性格のものであったが、次第に強硬路線を唱えるシオニストが力をつけて主流派となり、一部の者は武装化して軍事力をつけて暴力的となり、イスラエル建国が果たされたのである。
- 「ロスチャイルド家」抜きにはありえなかったイスラエル建国 五月晴郎 2015/2/09 16:01:49
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- シオニスト組織とロスチャイルド一族の深い関係 五月晴郎 2015/2/09 16:09:06
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