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(回答先: [書評]隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!? (園田義明) <極東ブログ> 投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 2 月 01 日 00:56:42)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11586549367.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(1)≫
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋、要約≫
Roentgenium:園田義明氏の著作『園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より、参考とする部分を抜粋し要約とする(今回は細かな部分は「中略」の表記を省く)。
◆ ◆ ◆
〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第1章 皇太子ご成婚と二人のクリスチャン より一部抜粋、要約 P.14−P.40〕
■「テニスコートの恋」の真実
1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888−1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕元首相である。
小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論から言うなら、カトリック家系の美智子妃(正田美智子 1934−)誕生は、昭和天皇の同意の下、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」は決して偶然ではなく、この時既に正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田 茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」周辺の一部だけだった。
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《皇室とカトリック年表》
1944(昭和19)年12月 「代表的財界人」が駐日ローマ法王庁使節パウロ・マレラ Cardinal Paolo Marella(1895−1984)大司教に接触
1945(昭和20)年8月6日 広島に原子爆弾投下
8月9日 長崎に原子爆弾投下
1946(昭和21)年5月22日 第1次吉田内閣発足
1947(昭和22)年1月31日 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見(えっけん)
1949(昭和24)年2月 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見
7月30日 駐日ローマ法王庁使節フルステンベルグ Maximilien de Furstenberg(1904−1988)大司教、昭和天皇に謁見
1951(昭和26)年4月16日 ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880−1964、フリーメーソン)帰国
1953(昭和28)年7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933−、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876−1958、ローマ教皇在位:1939〜1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡
1954(昭和29)年10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957(昭和32)年5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892−1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958(昭和33)年11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議
1959(昭和34)年4月10日 皇太子結婚の儀
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■皇室二代のバチカン外交
1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効〔※関連資料(1・2)〕から僅か一年、戦後初の皇族の外遊が行われることになる。選ばれた皇族は、当時の皇太子継宮明仁親王(1933−、今上天皇)だった。1953年3月30日の横浜港。出発を前に、米国船プレジデント・ウィルソン号上で、皇太子は国民へのメッセージを発する。
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天皇陛下のご名代として、英国女王陛下の戴冠式に参列する為に、私は今旅立つところであります。私はこの重大な使命を果たして皆さんの期待にそいたいと思います。
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50万人の人波に送られて横浜を出港した皇太子は、ホノルルを経てサンフランシスコに到着、トロントからニューヨークに入り、ここでジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller V(1906−1978)や、家庭教師を務めたヴァイニング夫人 Elizabeth Janet Gray Vining(1902−1999)と会っている〔※関連資料(1・2)〕。そして英国へ出航、以後フランス、スペイン、ドイツなどを歴訪、最後に米国に戻り、この時にフィラデルフィアのヴァイニング邸を訪れて3日間宿泊した。
約6カ月に亘(わた)る外遊で訪れた国は計14カ国。同年10月に帰国する。この14カ国の中にはバチカンも含まれていた。皇太子は7月6日に第260代ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876−1958、ローマ教皇在位:1939〜1958)に謁見(えっけん)している。三谷隆信(1892−1985)によれば、この時皇太子はピオ12世の自室に招き入れられ、後に第262代ローマ教皇パウロ6世となるジョバンニ・モンティニ Paulus PP. VI(Giovanni Battista Montini 1897−1978、ローマ教皇在位:1963〜1978)の部屋にも招かれている。
戦後皇室外交の幕開けを担ったのは、現在の天皇陛下が19歳の時だった。この時、首席随員として選ばれたのは三谷隆信、カトリック信徒のヨハネ・パウロ松井 明(1908−1994、原子力委員会委員1971〜1976)首相秘書官、吉川重国(きっかわ しげくに 1903−1996)式部官、黒木従達(1917−1984)東宮侍従長、戸田康英(とだ やすひで 1911−1977)東宮侍従、佐藤 久(−)東宮侍医長などであった。この中で三谷と黒木は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕と内村鑑三(1861−1930)に直接、間接に繋(つな)がるクリスチャン人脈に当る。
皇室外交のそもそもの原点は、父・昭和天皇が皇太子(迪宮裕仁親王)時代に行った、1921(大正10)年3月から9月の欧州外遊である。この出発の時、奇(く)しくも、昭和天皇もまた19歳だった。「わが国未曾有(みぞう)」の皇太子欧州外遊は、今日では想像も出来ないほどの大事件となった。それまで、天皇や皇太子が外国を訪問した前例が無かったからだ。
しかも、大正天皇(明宮嘉仁 1879−1926)は酷く健康を害しており、外遊中に崩御する可能性もあった。更に、1920年に始まる「宮中某重大事件」も追い打ちを掛ける。この事件では、皇太子妃として久邇宮良子(くにのみやながこ 1903−2000)が内定したことに対し、長州閥の元老・山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922)らが、良子の母系に色盲遺伝があるとして反対したため紛糾。背景には、原 敬(はら たかし 1856−1921)〔※関連資料(1)〕をも巻き込んで薩長の思惑が複雑に絡み合っていた。
この皇太子欧州外遊が実現した最大の功労者は、ダビデ・ハラの洗礼名を持つ原 敬首相、山縣有朋(長州)、松方正義(1835−1924)〔※『持丸長者 幕末・ 維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕(薩摩)、西園寺公望(さいおんじ きんもち 1849−1940)〔※関連資料(1・2・3重要・4一視点として・5)〕、そして、吉田の岳父(がくふ)・牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)(薩摩)の尽力もあった。
1921年3月3日、皇太子時代の昭和天皇を乗せた英ヴィッカース社製の戦艦「香取」が供奉(ぐぶ)艦「鹿島」と共に横浜港から英国に向けて出航した。訪問先は英国、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの欧州5カ国の他にバチカンも含まれていた。実は、この時の皇太子も、第258代ローマ教皇ベネディクト15世 Benedictus PP. XV(Giacomo Della Chiesa 1854−1922、ローマ教皇在位:1914〜1922)に謁見している。
供奉員も記しておこう。供奉長は外交界の重鎮である珍田捨巳(ちんだ すてみ 1857−1929)、他に奈良武次(なら たけじ 1868−1962)東宮武官長、入江為守(いりえ ためもり 1868−1936)東宮侍従長、竹下 勇(竹下勇次郎 1870−1946)海軍中将、三浦謹之助(1864−1950)侍医、八田善之進(はった ぜんのしん 1882−1964)侍医、西園寺八郎(1881−1946、旧長州藩主・毛利元徳の八男)式部官、戸田氏秀(とだ うじひで 1882−1924)東宮主事、亀井茲常(かめい これつね 1884−1942)東宮侍従、及川古志郎(おいかわ こしろう 1883−1958)海軍中佐、二荒芳徳(ふたら よしのり 1886−1967)宮内書記官、浜田豊城(はまだ とよき −)海軍少佐、そして、歴史の中に埋もれたままになっている澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884−1976)と山本信次郎(1877−1942、山本 正の父)海軍少将を加えた14名である〔※関連資料(1)〕。
この中で明らかにクリスチャンだったのが珍田(プロテスタント・メソジスト派)、山本(カトリック)、澤田(プロテスタント・クエーカー派)の3名で、当時を代表するクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。
皇太子一行を乗せた船は香港、シンガポール、コロンボ(現・スリランカ)、スエズ、ポートサイド、マルタ島を経て、4月30日に英国海軍の戦略拠点であるジブラルタルに上陸する。
当時、駐英大使館員だった吉田 茂は、英国での日程打ち合わせと皇太子の洋服を作る為に、ロンドン第一の洋服屋マックヴィッカー最古参の裁断師を伴って、ジブラルタルに到着していた。ここで吉田は、20歳になったばかりの昭和天皇に初めて拝謁することになる。
戦後の皇室外交の幕開けでも、吉田は当然、積極的に関与している。外務省調査局長兼任で2年間首相秘書官を務めていたヨハネ・パウロ松井 明(1908−1994、原子力委員会委員1971〜1976)を随員に起用し、旅程など関係事務の総括を行うよう指示したのも吉田である。つまり吉田は、2人の皇太子による2つの皇室外交に関わった唯一の人物だったのだ。
国民に信託された政治家であると共に「臣茂(しん・しげる)」を名乗る吉田は、それまでも事細かに皇室と関わってきた。『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』文藝春秋 1995年刊行)を記した寺崎英成(てらさき ひでなり 1900−1951)の宮内省御用掛就任を推挙し、自由自在に動かしていたのは吉田であり、寺崎もその都度、吉田からの指示を仰いでいた。
しかも、吉田は皇太子継宮明仁親王(1933−、今上天皇)がローマ教皇ピオ12世に謁見してから1年3カ月後の1954(昭和29)年10月20日にはバチカンにいた。吉田もローマ教皇ピオ12世に謁見していたのだ。吉田の謁見は、教皇の大患のお見舞いを述べることから始まったが、その後に皇太子訪問の際の厚遇を謝した。教皇もまた日本皇室の近況を尋ね、その御清福を祈ると述べた。
この時、吉田はピオ12世に対して、巣鴨には当時まだ700名の戦犯が拘禁されていること、そういう戦犯をこれ以上拘禁しておくと、戦争の記憶を長引かせるだけでむしろ有害であることから、速やかなる解決を要望するつもりであると述べ、ピオ12世も同感の意を表された上に、協力を約束する。
しかし、何よりも重要なのは吉田と昭和天皇の関係である。
■皇太子妃を巡る暗闘があった
もう一度、先の年表を見ていただきたい。10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888−1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。明治天皇(祐宮睦仁 1852−1912)〔※関連資料(1・2)〕の叔父、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやくげんほうしんのう=東武天皇=北白川宮能久親王 1847−1895)に始まる北白川宮家の受難については、第3章で述べる。
さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?−1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。
しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。
女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886−1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934−)との結婚に反対していた。
不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
吉田 茂と小泉信三と松平信子の3名は、間違いなくこの対立を知っていた。吉田からすると、「何故か松平信子に情報が漏れていた」といった感じだったのかも知れない。10日に一度くらいの割合で吉田に会っていた昭和天皇も、当然、知っていたであろう。
何とも不思議な『吉田 茂書翰』はまだ続く。(中略)北白川宮家側に常盤会会長の松平信子や娘の秩父宮妃勢津子(松平節子 1909−1995)がいたことが、この手紙から明らかになる。
吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。
結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
三谷隆信宛の手紙に到っては、内容まで紹介した記事は全く無い。数多い研究者も含めて、吉田 茂が皇太子妃選びにまで関与していたことをこれまで見過ごしてきたのだ。
こうしてシナリオ通りに事が進んでいく中で、もはや北白川宮家側が入り込む余地は無かった。それでも「悲劇の宮家」返上を目指す北白川宮家の情念は凄まじかった。小泉側に牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)の娘婿の吉田がいることに気付いた北白川宮家側は、巻き返しを狙って牧野伸顕の長男・牧野伸通(1889−1941)の夫人で、常盤会の重鎮でもあった牧野純子(1900−1990)を巻き込む。
昭和天皇が父のように慕った牧野伸顕の家を2つに引き裂きながら、北白川宮家から皇太子妃を誕生させようと最後の最後まで粘りに粘る。しかし、吉田や小泉らが描いた見事なまでのシナリオに屈する。(中略)
さて、政略結婚に向けたドラマの幕開きとして選ばれたこの軽井沢に別荘第1号を建て、「避暑地・軽井沢の祖」と言われているのは誰だろう。それは、小泉が塾長を務めた慶應義塾の創設者・福澤諭吉(1835−1901)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図4―福沢諭吉の閨閥】〕の27年間に亘(わた)る友人であったアレキサンダー・クロフト・ショー Alexandar Croft Shaw(1846−1902)である。旧軽井沢の一角には軽井沢最古のキリスト教教会として復元された「日本聖公会ショー記念礼拝堂」が、カラマツ林に囲まれてひっそりと佇(たたず)んでいる。
■軽井沢での一日を再現する
(中略)そして、皇室会議は全員一致で可決する。この決定を受け、直後に正田美智子の記者会見が行われた。その翌日、11月28日の朝に届けられた朝日新聞に一大スクープ写真が掲載される。軽井沢親善テニストーナメントで皇太子ペアが1本取られて皇太子が苦笑いしている様子が写されていた。
この写真は、濱尾 実(はまお みのる 1925−2006)の隣で観戦していた人物が撮影したものだ。そして、この人物は皇室会議にも出席していたはずである。何故なら、最高裁判所長官は皇室会議の構成員だからだ。現在の天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の決定的瞬間を撮影したのは、当時の最高裁長官にして、皇太子の憲法の御進講係も務めていた田中耕太郎(1890−1974、―MRA)であった。この田中も新渡戸稲造の門下生である。
濱尾は、皇太子ペアと美智子ペアの対戦は全くの偶然だったと回想しているが、これまで見てきたように、予(あらかじ)め緻密なシナリオが用意されていた。濱尾さえも知らされていなかった、或いは、濱尾は全て知りながらも「偶然」と言い通したのであろう。
しかも、田中も濱尾も敬虔なカトリックだった。実は濱尾家こそが、吉田 茂をカトリックへと導いたのだ。
■東宮侍従、セバスチャン濱尾 実
濱尾 実(はまお みのる 1925−2006)は1948(昭和23)年に東京大学工学部応用化学科を卒業。東洋化学を経て、1951年1月から1971年4月までの20年間を東宮侍従として仕えた。退官後は美智子妃も卒業された聖心女子学院の教諭や長野県岡谷市の聖母幼稚園園長を務めるなどしながら、教育評論家として講演や執筆活動に活躍。テレビの皇室関連番組にも出演している。2006(平成18)年10月に死去。追悼ミサは千代田区麹町(こうじまち)の聖イグナチオ教会で行われている。
濱尾の侍従就任の背景には、濱尾家と皇室の深い縁があった。濱尾 実の母方の祖父は濱尾 新(はまお あらた 1849−1925)、父方の祖父は加藤弘之(1836−1916)、何れも東大総長を務めたことがある。濱尾 新は東郷平八郎(1848−1934)総裁の下で昭和天皇の御学問副総裁と東宮大夫も務めていた。父は推理作家の濱尾四郎(1896−1935)。しかし、実が10歳の時に脳出血で死亡し、母は朝香宮妃千賀子(あさかのみやひちかこ 藤堂千賀子 1921−1952)のお付きをしながら女手一つで家族を支えた。
こうしたことから、濱尾は東宮侍従にと声を掛けられることになるが、気にしたのは自身の信仰の問題であった。声が掛かった時既に敬虔なカトリック信徒になっていたからだ。
濱尾の母は第2次世界大戦 WWU(1939〜1945)中に軍国主義下での冷遇に屈せず、心の糧を求めて洗礼を受けたと言う。この母に連れられて下北沢の教会に通っているうちに、神父の人柄に惹かれ、実も自ら願い出て洗礼を受ける。洗礼を受けたのは1946(昭和21)年のクリスマス。大学2年の時だった。洗礼名はセバスチャンである。
濱尾によれば、宮内庁は「クリスチャンでも構わない」と言ってきたようだ。また、「宮内庁と言うと、神道を思い浮べる人が多いでしょうが、宗教的には大変寛容なところがあり、私以前にも、カトリック信者がお仕えしていた前例があります」と書いている。その前例として、昭和天皇の御学問所の先生の名前を挙げている。昭和天皇のバチカン訪問にも随行した海軍少将・山本信次郎(1877−1942、山本 正の父)である。
■枢機卿、ステファノ濱尾文郎
濱尾 実は、著書『皇太子さま雅子さまへのメッセージ』(新潮社 1993年刊行)の中で、「弟はその後、バチカンに渡って11年間勉強し、向こうにいる間に司祭になりました。(中略)私の家内も信者で、子供は息子が1人、娘が4人いますが、三番目の娘はシスターになって、調布市内にあるカルメル会という修道院で神様にお仕えしています」と書いている。
濱尾 実が洗礼を受けたのは1946年のクリスマス、この時、実弟の濱尾文郎(はまお ふみお 1930−2007)も一緒に洗礼を受けていた。洗礼名はステファノと言う。文郎はこの時16歳。終戦後の混乱の中、一時は共産主義とキリスト教の間を揺れ動いたが、「困っている人を助けたかった。それにはキリスト教の教えのほうが現実的と思えた」と、兄と共に洗礼を受けたのである。
GHQ発給の旅券で海を渡ってローマに留学、ウルバノ大学 Pontificia Università Urbaniana(1627年創立)とグレゴリアン大学 Pontificia Università Gregoriana(1551年創立)に学んだ濱尾文郎は、帰国後東京教区補佐司教を経て、横浜教区教区長、日本カトリック司教協議会会長を務める。
そして、1998(平成10)年に、東アジアの司教として初めてバチカンの閣僚級ポストである移住・移動者司牧評議会議長に就任(2006年3月定年により退任)、同時に大司教となる。更に、2003年10月には、ペトロ土井辰雄(1892−1970、1960年任命)、パウロ田口芳五郎(たぐち よしごろう 1902−1978、1973年任命)、ヨゼフ里脇浅次郎(さとわき あさじろう 1904−1996、1979年任命)、ペドロ白柳誠一(1928−2009、1994年任命)に次いで、日本人として5人目の枢機卿(すうききょう)に任命されている。
枢機卿とはカトリック教会で法王に次ぐ地位の聖職者で、法王を選出する資格を持っている。2005年4月に死去したヨハネ・パウロ2世 Ioannes Paulus PP. II(Karol Józef Wojtyła 1920−2005、ローマ教皇在位:1978〜2005)の後継者を決めるローマ教皇選出会議「コンクラーヴェ Conclave」には、80歳未満の枢機卿115人が参加しているが、この中に白柳と濱尾の日本人2名も含まれていた。濱尾文郎は、よど号(JAL351便)ハイジャック事件(1970年)の際、乗客として巻き込まれたこともある〔※関連資料(1)〕。そして、2007(平成19)年11月死去。
この濱尾文郎から洗礼を受けたのが、吉田 茂だったのだ。
■ヨゼフ・トマス・モア吉田 茂
吉田 茂の妻・雪子(牧野雪子 1861−1949)〔※関連資料(1・2・3)〕は、西郷隆盛(1828−1877)〔※関連資料(1・2)〕と共に薩摩の両雄として知られる大久保利通(おおくぼ としみち 1830−1878)の次男として生まれ、牧野家の養子になっていた牧野伸顕の長女である。この雪子が熱心なカトリック信徒であった。牧野雪子が吉田の戸籍に妻として入籍したのは1909(明治42)年3月10日。(中略)
吉田は1931(昭和6)年に駐イタリア大使を命じられる。このイタリア時代に、雪子は「黙想の家」における祈りの集会にしばしば出席しながら聖心侍女修道会と親交を結んだ。雪子は日本にカトリックの教育機関が少ないことを語りながら、聖心侍女の来日を提言する。1934年11月に日本の地に降り立った4人の聖心侍女の援助の為に奔走(ほんそう)したのは雪子である。雪子の願いは今日の清泉女子大学(1938年創立・1950年大学設置)や長野清泉女学院(清泉寮学院として1935年創立)などの創設となって実を結んでいる。
しかし、真珠湾攻撃(1941年12月8日)〔※≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(11)≫本文及び添付資料を参照〕の2カ月前の1941年10月7日、雪子は乳癌(喉頭癌の説もあり)の為、53歳の若さで亡くなる。葬儀ミサは東京カテドラル聖マリア会堂で執り行われた。ミサでは吉田が、周囲を憚(はばか)ることなくボロボロと涙を零(こぼ)していたと言う。
ミサが終わると、父・牧野伸顕がジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880−1965)〔※John Pierpont Morgan(1837−1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)〕駐日米国大使とその夫人アリスに歩み寄り、丁重に謝意を表した。アリス・グリュー Alice de Vermandois Perry Grew(1883−1959)〔※母はリリー・キャボット・ペリー Lilla Cabot Perry(1848−1933)。奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボット Cabot Corporation 一族の出身。関連資料(1・2)〕にとって雪子は一番親しい日本人だった〔※一考察として関連資料(1)〕。
ガソリン規制の為に個人用乗用車が使えなかった当時、アリスは週に2、3回、吉田とその娘・和子(1915−1996)の為に米国大使館の車をさし回していた。米国の車を利用することに批判もあったが、吉田は全く気にしなかった。アリスは友人として雪子に出来ることは全てした。最後の何週間かは、グリュー夫妻が持ってきたスープで何とか生きているに近い状態だったと言う。
日米衝突の危機が目前に迫る中、グルー夫妻と牧野・吉田一家の関係は外交的節度を超えていた。(中略)
吉田が回想録『回想十年〈第1巻〜第4巻〉』(新潮社 1957年刊行)〔※≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(11)≫を参照〕を書き終えたのは、序文によれば昭和32年春とある。この年、吉田は79歳を迎えた。カトリックになることを考え始めた頃なのかも知れない。吉田の三女・和子は「亡くなった母も私もカトリックでしたから、父も最後には洗礼を受けると約束していました」と書いている。
約束通り、吉田は死の直後にステファノ濱尾文郎から洗礼を受けた。洗礼名はヨゼフ・トマス・モア。吉田の葬儀は故人の信仰に従った文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂での内葬と、千代田区北の丸公園の日本武道館で行われた戦後初の国葬とに分けられた。(中略)
吉田は東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設にも大きく関わっていた。雪子の葬儀ミサが営まれた東京カテドラル聖マリア会堂は戦災で焼失し、その再建の為に募金後援会が組織され、吉田はその会長を引き受けた。副会長には、田中耕太郎(1890−1974、―MRA)の代父の下でカトリックに改宗した堀江薫雄(ほりえ しげお 1903−2000、横浜正金銀行→東京銀行→東京三菱UFJ)、それに「財界総理」こと石坂泰三(いしざか たいぞう 1886−1975、―MRA)が就いた。石坂もまた、新渡戸稲造の門下生である。
これがきっかけと思われるが、堀江はローマ教皇から二等勲章セント・グレゴリー、吉田もまた未信者としては最高の勲章をローマ教皇から一緒に授けられた。この時、吉田は「これで私も天国へ行けるだろうね」と語ったと言う。
副会長の石坂の妻の名も雪子(織田雪子 −)と言い、カトリック信徒としてマリアの洗礼名を受けていた。そして、石坂自身も、最期の病床で意識不明になる直前にカトリックの洗礼を受けたのである。
昭和天皇在位中の1964年4月、この吉田と石坂と小泉信三(1888−1966)と、新渡戸の愛弟子・田島道治(たじま みちじ 1885−1968)の4名が初代宮内庁参与に就任している。宮内庁参与とは、皇室の重要事項について天皇皇后両陛下に助言する役目を負う。日本のクリスチャン人脈の権化とも言える4名が揃って就任したことが、全てを物語っている。
(2頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11589696427.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(2)≫
(1頁からの続き)
〔資料〕≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(7)≫|MelancholiaT ※ジョゼフ・グリューと真珠湾攻撃・戦後政策について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11090371588.html
〔資料〕大久保氏(薩摩藩士) − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜
http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%B0%8F%EF%BC%88%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E5%A3%AB%EF%BC%89
〔資料〕大久保利賢(おおくぼ としかた 1878−1958) - 神奈川県立歴史博物館 ※大久保利通の八男で戦時中の1936年(昭和11年)から1943年(昭和18年)まで横浜正金銀行頭取を務めた。『持丸長者 国家狂乱篇』より【系図1】
http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori13.html
〔資料〕大久保利晃(おおくぼ としてる 1939−) - Wikipedia ※大久保利通の曾孫の一人で放射線影響研究所理事長などを歴任。西南の役と赤十字及びその後の関係については≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(8)≫本文及び添付資料を参照(松倉哲也 著『現代の聖域 日本赤十字―奉仕者の善意を裏切る虚像と実像』を抜粋収録)。また、グリュー(アメリカ対日協会)は戦後日本における原発の歴史に関わった当事者の一人。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E6%99%83
〔資料〕≪宋 鴻兵 著『通貨戦争―影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』 より抜粋(3・19)≫|MelancholiaT ※吉田 茂―白洲次郎―Warburg―Schacht、Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi―Warburg―Rothschild など本文及び添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-10998864241.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11028627278.html
〔資料〕≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(11)≫|MelancholiaT ※MRA他
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11407617885.html
〔資料〕≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(8・9・10)≫|MelancholiaT ※ロスチャイルドとモルガン・ロックフェラーの関係について一部抜粋した資料を収録(広瀬 隆 著『億万長者はハリウッドを殺す 下巻』 終章 神秘のなかの謎 より P.216−P.240)。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11398247292.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11400587488.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11403912213.html
〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第2章 日本キリスト教人脈の源流 より抜粋、要約 P.42−P.87〕
■「敗者」に接近するキリスト教
1868(明治元)年、維新の「勝者」となった薩長藩閥政権は、一方に北朝系の明治天皇(祐宮睦仁 1852−1912)〔※関連資料(1・2)〕を戴きつつ、もう一方の手には「忠臣の鑑(かがみ)」たる南朝の武将・楠木正成(1294?出自不明−1336)を祭祀(さいし)していた〔※一部関連資料(1・2・3・4・5・6)〕。楠木正成の怨霊は北朝を滅ぼすべく幕末に蘇(よみがえ)り、明治・大正・昭和と皇室を悩まし続けることになる。
しかしこの時、同時にキリスト教が「敗者」達に接近し、近代日本の宗教革命とも言える神々の大再編が行われていた。当時クリスチャンになった人物を調べれば分かることだが、誰もが皆、自発的にキリスト教を受け入れていた。キリスト教の西洋合理主義に目覚めたクリスチャン達によって、日本で教養主義が開花していく。この教養主義が大衆人気に支えられた楠木正成の天敵となり、楠木正成信仰が封印されていくのである。
明治期のクリスチャンの様子を的確に見ていたのが、今や「忘れられた思想家」と評される山路愛山(やまじ あいざん 山路彌吉 1865−1917)である。
幕府天文方見習・山路一郎(山路彰善 1841−1888)の長男として生まれた山路の人生は、屈辱的な「敗者」から始まる。父・一郎は旧幕府軍の精鋭であった彰義隊(しょうぎたい)の上野立て篭(こ)もりで敗北するも、函館に向かう榎本武揚(えのもと たけあき 1836−1908)率いる残党に加わる。そして五稜郭の戦い(=箱館戦争 1868〜1869)で負傷、津山藩の牢獄に入れられた。幕臣達は引退するか、徳川家の静岡移住に付き合うかの選択を迫られ、山路家は降り頻(しき)る雨の中、箱根の山を越えて静岡に向かうことになる。
この静岡で山路はキリスト教と出会う。カナダ・メソジスト派のクリスチャンとして布教活動を行ったこともあった。以後、『國民新聞』(現・東京新聞の前身の一つ)や『国民之友』などに史論や評論を次々に発表し、北村透谷(きたむら とうこく 北村門太郎 1868−1894)〔※関連資料(1)〕との「人生相渉論争」などで文名を高めた。また、小坂一族の『信濃毎日新聞』の主筆としても知られる。山路の長男は産経新聞大阪本社主筆を務めた山路久三郎(やまじ きゅうさぶろう −)、三男は早稲田大学名誉教授を務めた山路平四郎(やまじ へいしろう 1905−1992)である。
山路愛山研究で名を馳せた坂本多加雄(さかもと たかお 1950−2002、学習院大学法学部教授、1992〜1994ハーバード大学客員研究員)は保守派の論客として知られ、「新しい歴史教科書をつくる会」(1996年設立)発足から理事を務めた。この坂本が亡くなった2002(平成14)年辺りから、「つくる会」の迷走が始まる。
山路もまた、南北朝正閨(せいじゅん)問題が吹き荒れる2年前の1909(明治42)年、これを見越したように日本英雄伝の初作として『足利 尊氏』(岩波書店 1949年刊行)を発表する。(中略)要するに山路は、庶民が信じ込んでいる尊氏「逆臣」論を幼稚だと指摘しながら、歴史を忠君愛国(ちゅうくんあいこく)説法に使っているとして水戸学派を強烈に批判したのだ〔※関連資料(1現状に繋がる「アメリカ政府による敗戦後日本に対する政治目標5点」)〕。
また、日本人の起源を巡る論争においても、日本人の特殊性や優秀性を強調する國學者や水戸学者と真っ向から対立し、鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう 1870−1953)と共に「複合民族説」を唱えている〔※関連資料(1)〕。(中略)
「貴族的急進主義の一現象」という山路の評価は間違えている。西南戦争(=西南の役 1877年)もまた「時代の陰影」、つまりは敗者を生み出していたからだ〔※関連資料(1)〕。「敗者」とは幕軍ばかりではない。「明治六年政変(=征韓論政変 1873年)」の結果、薩摩ばかりでなく肥前佐賀も土佐も「敗者」となってしまった。だからこそ、大久保や西郷や坂本龍馬(1836−1867)〔※司馬史観―エドウィン・ライシャワー Edwin Oldfather Reischauer(1910−1990)との関係を含め関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11「この歴史観の核心は、『開国が近代化を齎した』すなわちペリー来航が日本近代化の発端であるとして、アメリカのお蔭で日本は進歩したと思わせることにあった」)〕や板垣退助(1837−1919)の周辺からクリスチャンが生まれ落ちるのである。
しかも、山路が文中に取り上げた植村正久(1858−1925)も本多庸一(ほんだ よういつ 1849−1912)も井深梶之助(いぶか かじのすけ 1854−1940)も押川方義(おしかわ まさよし 1852−1928)も、全て山路本人が影響を受けた横浜バンド(日本プロテスタントの三大源流の一つ、長老改革派)の同志に偏っている。
■新渡戸稲造の『武士道』
新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕は、1862(文久2)年9月1日に盛岡・鷹匠小路(現在の下ノ橋町)に、父十次郎(1820−1868)、母勢喜(せき 1824−1880)の三男(幼名・稲之助)として生まれる。代々南部藩の役職を務めた武家の家系だった。
新渡戸少年は明治維新の頃の様子を冷静に見ていた。『幼き日の思い出』(原著は英文による『Reminiscences of Childhood:In the Early Days of Modern Japan』丸善 1934年刊行、翻訳版は『幕末明治英語物語』研究社 1979年刊行に収録された同タイトル他複数あり)によると、将軍に奪われていた天皇の権力の回復、政治の中心を京都から東京に移したこと、封建制度の廃止と西洋学術の奨励、それに何と言っても、明治新政府を「地方の無名のさむらいによる新しい政府」と表現していることが興味深い。ここに少年の屈辱感と新政府への不信感が読み取れる。
新渡戸は続けて「このような徹底的変革は流血なくしては行われなかった。いわゆる維新戦争は一年ばかり続いた。その間、南の勤皇軍は北東の佐幕軍を破った。私の家は佐幕派に属していた」と書いている。
故郷の町が降伏した時のことは、屈辱感と共に少年の心に深く刻み込まれた。その頃、新渡戸は叔父の家に養子に出され太田姓(太田稲造)を名乗っていた。「薩長の連中の数多くの残忍な行為」を目撃していた叔父は、自分の一族こそが歴史に残された「降伏」の汚名を拭い去ることが出来ると意を固め、少年を養子にすることを実母に頼み込んでいたのだ。
やがて新渡戸は東京外国語学校(1899年創立)、東京英語学校(東京外国語学校から「英語科」を分離し1874年設立。旧制一高の前身)を経て、札幌農学校(開拓使仮学校として1872年創立。現・北海道大学)に第二期生として入学する〔※―ウィリアム・スミス・クラーク William Smith Clark(1826−1886、Freemason)〕。そして、1878(明治11)年6月2日、札幌創成川東岸の外国教師館の一室でメソジスト派宣教師のメリマン・コルバート・ハリス Merriman Colbert Harris(1846−1921)〔※関連資料(1・2・3近代日本におけるキリスト教系諸学校の系譜)〕から洗礼を受け、クリスチャン・ネームに「パウロ」を選んだ。同時に受洗した同級生に、生涯の友人となるフランシス宮部金吾(1860−1951)、あのヨナタン内村鑑三(1861−1930)、そして、第4章に登場するエドウィン足立元太郎(1859−1912)〔※関連資料(1・2昭和天皇との関係)〕がいた。
札幌農学校卒業後、農商務省御用掛、札幌農学校予科教授を経て東京大学(1877年大学設置)入学を決意する。入学に際しての面接で「大学で何をやるつもりか」と問われた時、「太平洋の橋になりたいと思います」と答えた。そして「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌(ばいしゃく)になりたい」と語った。
しかし、東京大学を退学して渡米する。ジョンズ・ホプキンズ大学 Johns Hopkins University(1876年創立)で学びながら、「絶対平和主義」で知られるクエーカー Quaker(=基督友会 Religious Society of Friends)の集会に参加するようになり、日本人初のクエーカー教徒に改宗し、集会を通じて後に夫人となるメアリー・パターソン・エルキントン Mary Patterson Elkinton(=新渡戸萬里子 1857−1938)と出会う。この後、ドイツのボン大学 Universität Bonn(1818年創立)やハレ大学 Martin-Luther-Universität Halle-Wittenberg(1502年創立)で農政学や農業経済学を学んでいる時に長兄である七郎(1843−1889)が死去。姓を新渡戸に戻す。
新渡戸稲造は1900年に米国で『BUSHIDO:The Soul of Japan』(The Leeds&Biddle Co. 1900年刊行)を出版。邦訳された『武士道』(櫻井鴎村 翻訳・丁未出版社 1908年刊行、他複数あり)は今尚日本の書店に並んでいる。
以後、札幌農学校、京都帝大、東京帝大などの教授を歴任。1906年から1913(大正2)年なで日本に名立たる一高(東京英語学校を前身とし1886年創立)校長を、1918年には東京女子大学(1918年創立)〔※新渡戸稲造―オーガスト・カール・ライシャワー August Karl Reischauer(1879−1971)〕初代学長を務めている。そして、国際連盟(1919〜1946)事務局次長、貴族院議員、太平洋問題調査会(IPR、1925〜1961)〔※関連資料(1・2)〕理事長として活躍し、クエーカー教徒として、その生涯を国際平和の為に捧げたのだ〔※関連資料(1「新渡戸稲造と基督友会」・2「ビッグ・リンカー達の宴2 1〜20」・3「『秘宮』成立試論」)〕。
■教養主義による水戸学批判
新渡戸の『武士道』には、あの水戸徳川光圀(とくがわ みつくに 1628−1701)〔※関連資料(1前後期水戸学・2『先代旧事本紀』『大成経』と吉田神道)〕が登場している。『幼き日の思い出』の中では、講釈師の語る高潔な行いや情け深い犠牲の物語に「心高められる思いであった」ことも記している。
しかし一方、「庶民的な講釈師が、私の唯一の慰めと力の源泉であったわけでもない」と書いている。そして、当時を振り返りながら政府が奨励した神道のことを「汝なすべからず」と「汝なすべし」を決して明示しなかったとしながら、その点で神道は全くの民族的宗教であり、倫理性に乏しいとの厳しい評価を下している。この時既にキリスト教への関心が目覚めつつあったのだろう。神道は少年の疑問に答えることが出来なかったからだ。
しかも、新渡戸の「薩長の連中の数多くの残忍な行為」や「地方の無名の侍による新しい政府」という表現は、『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』(石光真人 編著・中央公論新社 1971年刊行)の中の「下郎」や「軽る者」とする薩長観に通じるものがある。
楠木正成の怨霊が取り憑いたかのように薩長が行った情け容赦ない佐幕派への仕打ちは、新渡戸の信じた武士道を欠くものだった。だからこそ新渡戸は、武士とは本来同あるべきかを『武士道』で描いたのだ。
新渡戸が残した業績として、太平洋問題調査会(IPR、1925〜1961)〔※関連資料(1・2)〕などを通じて国際派、現在のグローバリストの源流を築いたことも挙げられよう。しかし、何と言っても楠木正成を招き入れたポピュリズムを封印する根幹を、日本人の中に作り上げたことである。
新渡戸は「エリート中のエリート」が集う一高校長時代に修養主義と教養主義の種を蒔き、怨念が通じないキリスト教を接ぎ木した。これが戦後開花し、日本型教養主義を根付かせ、日本の国際派クリスチャン人脈を生み出すことになる。そして、新渡戸門下生達によって、憲法九条が生み落とされる〔※詳細は第4章で書かれている〕。
しかも、この教養とキリスト教とが一体となって楠木正成の天敵となり、戦前の教育界に猛威を振るった南朝正統論は、戦後、消え去ることになるのだ。
それにしても怨念とは恐ろしい。新渡戸が平和を求めて札幌へ向かおうとしている時、叔父は警官隊隊長に応募し、2人の兄も揃って政府軍に加わる。新渡戸家の殆んど全員が軍人となって南へ、前線へと進軍していった。この中には柴五郎兄弟を含めた会津藩出身者も多数いた。
戊辰戦争(1868〜1869)での汚名を晴らすべく、向かった先は西郷隆盛率いる薩軍であった。更に新たな「敗者」が生まれ落ちる。そしてここに、吉田 茂や麻生太郎(1940−)〔※麻生ラファージュ(北朝鮮ビジネスと麻生財閥)及びCSIS(―日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI)講演での公共インフラ民営化発言等について関連資料(1・2ラファージュ―GBL―Rothschild・3・4・5USTREAM・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15「ナチスの手口に学べば」・16ILC利権―核利権・17・18)〕の源流を見出すことが出来る。
■そして「第二の敗者」が生まれた
「薩長土肥」の分裂は「明治六年政変(=征韓論政変 1873年)」に始まる。そして、長州を除く「薩土肥」の中心人物が「賊徒(ぞくと)」に追い込まれた。
通説通りその分岐点の答えを征韓論に見出そうとすると、征韓論がどう発展して板垣退助(1837−1919)らの自由民権運動(1874〜1890頃)に結び付くのかを明確にしなければ説得力が無い。この努力をこれまでの歴史家は怠ってきた。征韓論とは結局、廃藩置県によって特権を奪われた旧士族の不満を抑える為のガス抜き的治安対策であり、失業対策の一つに過ぎなかったのではないか。
「明治六年政変」で下野した板垣退助、後藤象二郎(1838−1897)、江藤新平(1834−1874)、副島種臣(1828−1905)らの「民撰議院設立建白書(1874年)」から、批判の鉾先が薩長出身官僚の藩閥政治にあったことが見出せる。薩摩の西郷隆盛(1828−1877)〔※関連資料(1・2)〕とて、明治新政府の役人達の驕(おご)りを極端に嫌っていた。特に三井や三菱と結託した井上 馨(いのうえ かおる 1836−1915)、大隈重信(1838−1922)を毛嫌いした。当時の言葉で言う有司専制(ゆうしせんせい)に反対した。
新政府で長州の山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922)は何をしたのか。長州の井上 馨は何をしたのだ。山県は1872(明治5)年に発覚した陸軍省に絡む山城屋和助事件(1872年)で、井上も同年の尾去沢銅山事件(1872年、同鉱山は1889年三菱傘下となる)で、何れも一時は失脚の危機に立ったではないか。この他にも長州は三谷三九郎事件(1873年)、小野組転籍事件(1873年)などの不祥事を続発させ、薩摩の大久保利通(おおくぼ としみち 1830−1878)に泣きついたのではないのか。
長州閥の不祥事こそが、大久保と西郷の固い郷中の絆を引き裂くことになった。長州「汚職」閥の存在こそが「明治六年政変」の真因であったはずなのだ。
志を一つにして、大望を成し遂げたはずの明治維新。しかし、彼らが見たのは汚職と不祥事に塗(まみ)れた新政府の姿だった。彼らの多くは、「こんなはずではなかった」と深く思い悩んだはずだ。だからこそ下野(げや)を選び、改革を全うする為の自由民権運動に駆り立てられたのではないのか。
そして、ここにキリスト教がまた接近していく。
土佐とキリスト教徒を接ぎ木したのは、板垣退助だった。板垣自身はクリスチャンにはならなかったが、同志社の創始者である新島 襄(にいじま じょう 新島敬幹 1843−1890)との交流などからキリスト教に強い関心を抱き、宣教師を土佐に招き入れた。クスノキが生い茂っていた土佐の自由民権運動にも、キリスト教が深く関わっていたのだ。
〔資料〕ビッグ・リンカー達の宴2―最新日本政財界地図 1〜20 By 園田義明 - 萬晩報 2004年6月1日〜2005年1月20日 ※Quaker他
http://www.yorozubp.com/sonoda.htm
〔資料〕隠されたクスノキと楠木正成 1〜8 By 園田義明 - 萬晩報 2008年5月15日〜6月8日
http://melma.com/backnumber_322_4096551/
http://melma.com/backnumber_322_4100678/
http://melma.com/backnumber_322_4102366/
http://melma.com/backnumber_322_4107163/
http://melma.com/backnumber_322_4109741/
http://melma.com/backnumber_322_4117419/
http://melma.com/backnumber_322_4118521/
http://melma.com/backnumber_322_4123536/
〔資料〕落合秘史「堀川政略」で幕末史の謎を解く 1〜2 - Martin Island〜空と森と水と〜 2013年1月7・9日
http://martin310.exblog.jp/17112263
http://martin310.exblog.jp/17125315
〔資料〕Josep Fontana i Lazaro 著, 立石博高・花方寿行 翻訳『鏡のなかのヨーロッパ―歪められた過去』(平凡社 2000年刊行):立石博高 訳者あとがき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~hirotate/fontana.htm
(3頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11591450961.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(3)≫
(2頁からの続き)
■薩摩と土佐の軍艦取引
クスノキを原料とする樟脳(しょうのう)は、防虫剤に使われ、眼鏡のフレームやおもちゃなどセルロイド製品に加工され、精油は打ち身や捻挫(ねんざ)の塗り薬としても使用された。重要の7割がセルロイド原料であり、米国では映画や写真のフィルムの材料に使われていた為、ハリウッド映画の発展にも寄与していた。
『樟脳専売史』(酒井茂雄 著・日本専売公社 1956年刊行)によると、世界の粗製樟脳需要が500万〜600万斤(きん)程度だった1900(明治33)年頃、その7〜8割を日本が占めていたと言う。樟脳専売制の下、国を挙げて伐採されていたクスノキはまさに「金の生(な)る木」だった。
日本の樟脳業界最大の功労者である鈴木商店の金子直吉(1866−1944)は、1866(慶応2)年6月13日に土佐の吾川郡名野川村(現在の仁淀川町)で生まれた。遠い祖先は元亀(げんき)天正の猛将、伊予国は新居浜近くの金子城こと橘江(きっこう)城の城主・金子備後守元宅(かねこびんごのかみもといえ 1551−1585)であったと言う。
金子の最初の商いは、砂糖、鰹節、茶、肥料の国内取引であったが、外人商館に出入りするようになって樟脳取引の重要性に着眼する。これは、金子の出身地である土佐が樟脳の産地であった事が大きく影響した〔※関連資料(1)〕。
初期樟脳業と明治維新前後期樟脳業の様子を『樟脳専売史』から引いておきたい。著名な事実として、土佐も薩摩も樟脳輸出から得た資金で軍艦を買い入れていたことが書かれている。薩摩藩がトーマス・グラバー Thomas Blake Glover(1838−1911)やジャーディン・マセソン商会 Jardine Matheson Holdings Limited 〔※『赤い楯』より【系図18-1・18-2・19】及び関連資料(1・2・3・4・5・6「グラバー商会」の謎の倒産の裏側)〕を通じて行った艦船や武器の取引にも、樟脳から得た資金が活用されていたのだろう。更に、三菱財閥創業者の岩崎彌太郎(1873−1885)も登場する〔※関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11YouTube・12・13)〕。
しかし、明治中期にはクスノキの大樹は殆んど切り尽くされ、原料不足の状況に陥る。このため苦肉の策として枝葉樟脳(しようしょうのう)が土佐で起こる。こうした中で長州閥政権主導の「神社合祀(ごうし)」により、和歌山や三重の鎮守(ちんじゅ)の森の封印が解かれ、「宝の山」に一攫千金を狙う山師が殺到することになったのだ。
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樟脳は徳川中世以後は四国の高知地方、九州一円にその製造業が起り、その製品は一部分国内の虫除用に売渡される外、大部分は二大重要輸出品として銅と共に重きをなしておつた。(中略)安政の開国と共に長崎初め五港が開港され外国貿易は全く自由となり、従来の長崎会所の一手取引は破れ、鹿児島藩のごときは長崎に蔵屋敷を置き常駐の蔵役人をして貿易事務に当らせ、年額十二万斤程度の外国輸出を行い、高知藩においても安政年間に入つてから樟脳製造が盛んとなり高岡郡の海岸近くでは至る処製脳場を見るようになつた。当時種崎村三島屋半衛門なる商人があり、その手代の安芸(あき)村の文次という者商才にたけ、常に長崎に従来して土佐の産物を販売しておつたが、樟脳も直接長崎の貿易商と取引し、大いに利益を博した。当時は樟脳は殺虫剤として外国人に大に珍重されておつたので取引は盛んであつた。その後藩もその有利なことを認め、製脳業を藩の直営事業となし、土佐の海岸至るところ樟脳製造の煙の上らざるところがない位の盛況となり、かの樟脳の長崎回送を一手に請負う廻船問屋佐野屋万助の出たのもこの時のことであつた。慶応年代には藩の長崎役場を設置し、藩直接にサラバ商会と取引し、その売掛金で軍艦数隻を買入れ、討幕の戦争に土佐の海軍すなわち官軍側の海軍として華々しい活躍をした。これは極めて著明の事実で同様な事柄が鹿児島藩にも見られる。
維新政府成るに及び、諸政あらたまり材木に関する藩政時代の制限は全く撤廃され、伐木売買が自由となつたので樟脳製造も容易となり、外商の買受また旺盛なるに伴い、製脳業はますます盛んとなつた。今明治初年の製脳状況を見るに、主要地鹿児島において樟脳百六十匁(もんめ)一斤で百斤を一桶(とう)となし、売買価格五円内外であつた。樟脳油は総て焚夫に給与し、僅に灯用に供しただけであつたが、明治七、八年には灯用増加し一斗入一鑵(かん)八銭で売買せらるるに至り、同十二年には脳一桶八円五十銭となり、同十三、四年には樟脳油から樟脳を分溜製出するに至り、樟脳油も一鑵一円から二円に引上げられた。同二十二年には樟脳百斤二十円乃至(ないし)二十七、八円樟脳油一鑵四円乃至五円で売買せらるるに及び、価格の昂騰(こうとう)は自ら製脳熱を高め、生産は年々増加してきた。また高知地方においては、御手先仕事と称し製脳は藩直営事業としたが実際の製造は個人の自由に任せ国益第一主義で極力製造を奨励したため、慶応年間に入つては土佐国一円に製脳場が設けられ、高知の人岩崎彌太郎は三菱会社を起し留木制木の願下げをなし大々的に製脳に従事した。(中略)その後樟脳価格低下したため一時製脳は衰えたが、明治十七、八年頃には樟脳油の価格著しく上昇したため再び勃興してきた。しかし既に一時の盛況に乗じて濫造を行つた結果原料木として最適の大樹はほとんど切り尽したので原料不足に悩み、往時のごとく盛況を見ること出来ず、苦慮の末枝葉製脳を試みることになつた。我が国枝葉製脳の発端は土佐国に起つたのである、すなわち長岡郡国府村前田喜平なる人、瓶岩村亀岩に自然生樟樹林五十町歩を買入れ、明治二十二年に初めて枝葉製脳を試みた。これが刺激となつて各地、殊に海岸地方に枝葉製脳が行われるに至つたが、製造に急なため刈込みはげしく、ために立木の生長が著しく阻害せられて結実を見ないようになつた。それがため枝葉製脳排斥の声が出るようになつた、当時の土佐地方の樟脳の価格は百斤二十四円程度であつたので、生産費百斤大約六円といわれておつたから純益百斤十八円ほどを得ておつたわけで非常な利潤といえる。
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■竹内 綱の「クスノキ」ビジネス
さて、金子直吉や岩崎彌太郎と同じ土佐の出身で、クスノキに着目して大儲けしたもう一人の重要人物がいた。
竹内家13代目当主の竹内 綱(たけうち つな 1839−1922、吉田 茂の実父)は、1839(天保10)年12月26日に生まれる。竹内家は土佐藩重臣伊賀家の家臣だった。伊賀家の領地は幡多(はた)郡宿毛(すくも)郷、現在の高知県宿毛市がほぼこれに当る。
マシュー・ペリー Matthew Calbraith Perry(1794−1858)艦隊来航は竹内が13歳の時。このため父・竹内吉管(−)は異国船打ち払い守備役として柏島という孤島に在勤したこともあった。
当時の伊賀家の財政は窮状にあり、異国船打ち払いの為の砲台を建設したり、鉄砲弾薬を購入したりする資金が無い。この財政難を鮮やかに救済した功績が認められて、竹内は弱冠20歳で重役となり、23歳で目付役となった。竹内の財政再建策の第一が樟脳製造、第二が地租金納化である。竹内もまた、樟脳が輸出品となり、高値で売れる点に着目して樟脳製造に着手する。
南国土佐の西端に位置する宿毛(すくも)にはクスノキは幾らでもあり、しかも、昔から伐採が禁止されていた為に、巨大な老樹が手付かずのまま領内いたるところにあった。樟脳製造開始後1年余りで、伊賀家は軍備に必要な資金をその売上金で賄(まかな)えるようになったと、竹内自らが『竹内 綱自叙伝』(日本評論社 1929年刊行)に書いている。
1866(慶応2)年7月、宿毛から16キロほど離れた安満地浦(あまじうら)に異国船来航の急報が齎(もたら)される。竹内は歩兵二小隊を率いて現場に急行するが、異国船の重装備を目の当りにして「勝ち目無し」と判断、隊内の強硬論を尻目に単身小船で異国船に乗り込んでしまう。日英両単語が記された1冊の本を指差しながら会談を行い、異国船の目的が海洋測量であり、翌日出航することが分かると打ち払い中止の決定を下す。
しかし、この判断によって竹内は切腹を言い渡される。打ち払いの使命を怠ったことに加え、何と異国船上で酒杯を勧められてシェリー酒やシャンパンを飲んだ挙句、酔っ払ってしまったことが大罪と見なされたのである。しかし、その1週間後に土佐の東端にある須崎に入港した英国測量船を藩政府が大いに歓迎し、牛肉鶏卵等を贈ったとの情報が齎(もたら)されると、切腹は撤回。竹内は何とか命拾いする〔※関連資料(1)〕。
更に1878(明治11)年4月、竹内に、前年の西南戦争(=西南の役 1877年)の際に西郷隆盛(1828−1877)〔※関連資料(1・2)〕率いる薩摩軍に合流しようとした板垣退助(1837−1919)設立の立志社の為に、小銃800挺(ちょう)とその弾薬買い入れの斡旋(あっせん)をしたという疑惑が掛けられる。取り調べに対して、竹内は依頼されたことは事実としながらも「断った」と答えているが、どうやら実際には関わっていたようだ。そして、士族の身分を奪われた上に禁獄1年の刑を申し付けられ、9月11日に新潟監獄に護送された。この事件では片岡健吉(1844−1903)にも禁獄100日が言い渡された。
後に竹内は、自由民権運動(1874〜1890頃)の主導者として知られる板垣退助が創立した愛国社(1875〜1880)及び国会期成同盟、そして自由党(1881〜1884)結成に尽力。記念すべき1890年の第1回衆議院議員総選挙で片岡健吉と共に見事当選する。
■自由党のパトロン吉田健三
樟脳(しょうのう)を通じた武器取引から竹内の人生が始まるが、金儲けでは友人の吉田健三(1849−1889、吉田 茂の養父)のほうが一枚上手だった。
吉田が経営に関与した『東京日日新聞』(1872年創刊、現・毎日新聞)には、薩長藩閥政治から締め出された板垣、後藤象二郎、林 有造、大江 卓ら土佐出身の政治家が、言論主張の場を求めて集まって来る。吉田と竹内はここで出会う。そして、吉田は自由党のパトロンとなってゆく。
吉田健三は1849(嘉永2)年5月6日、福井藩士・渡邊謙七(?−1888、―ジャーディン・マセソン商会)の長男として生まれ、大阪で医学を学んだ後、長崎で英学を学ぶ。1866(慶応2)年に英国軍艦に水夫として乗り込み、2年間を英国で過ごした。帰国後は英国のジャーディン・マセソン商会 Jardine Matheson Holdings Limited 〔※『赤い楯』より【系図18-1・18-2・19】及び関連資料(1・2・3・4・5・6「グラバー商会」の謎の倒産の裏側)〕の横浜支店(英一番館)の支店長を務める。
ジャーディン・マセソン商会はインドの阿片(アヘン)〔※関連資料(1・2・3・4・5旧731部隊関係者のその後及び厚労省との関係)〕を中国に輸出することで阿片戦争 First Opium War(1840〜1842)の黒幕となって巨利を得た後、幕末からは日本に軍艦や兵器を大量に売り捌(さば)いている。「長州ファイブ Choshu Five」〔※関連資料(1)〕として知られる伊藤博文(1841−1909)、井上 馨(いのうえ かおる 1836−1915)、そして森 有禮(もり ありのり 1847−1889)ら薩長留学生のパトロンでもあった。
吉田健三もまた生糸買い付けを行いながら、明治政府に最新兵器を売り込んでいる。
竹内が高島炭鉱(1695〜1986)の経営に当り、ジャーディン・マセソン商会と提携したことで、吉田との関係は一段と親密になる。立志社向け小銃800挺(ちょう)とその弾薬買い入れがジャーディン・マセソン商会を通じて行われていた背景には、恐らくこの2人の関与があったものと思われる。
吉田がジャーディン・マセソン商会から得ていた月給は300円、3年間勤めた後で手にした特別賞与は1万円。このカネで健三は大磯の広大な敷地を一坪当り50銭で買い入れ、そこに移り住んだ。
この大磯の後の主は、戦後になって学者好きで知られる大宰相となり、教養主義者を重用する。新渡戸稲造の門下生達を主要ポストに起用、皇室と政界にカトリックを接ぎ木(つぎき)し、自らも死の直後にカトリック信徒になった。
〔資料〕日本の金融史(11):ドッジライン&吉田 茂の家系 - MATRIX 2010年12月21日 ※「渡邊謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した吉上山慈眼院光明寺が立つ久保山の横浜市公営久保山斎場(火葬場)で戦犯が火葬され、その息子の吉田 茂が戦後日本を率いていく・・・」
http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221
〔資料〕【幕末維新の代理人】代理人認定#6:トーマス・ブレーク・グラバーの陰謀2 - 金貸しは、国家を相手に金を貸す 2013年8月14日 ※「グラバー商会」の謎の倒産の裏側。アーネスト・メイソン・サトウ卿(1843−1929)曰く「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」。現在の様々な事象を俯瞰して見る上で大変重要な視点。
http://www.kanekashi.com/blog/2013/08/002045.html
■吉田 茂に束ねられた人脈
この大磯邸の後の主とは『大磯随想』(雪華社 1962年刊行)を書いた吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕である。竹内 綱は吉田の実父であり、吉田健三は吉田の養父である。また、吉田の実兄である竹内明太郎(たけうち めいたろう 1860−1928)は、コマツ(小松製作所)の創業者として知られる。
吉田の原点には土佐のクスノキが生い茂り、既に板垣退助によってキリスト教の種が蒔かれていた。
竹内の同志であった片岡健吉(1844−1903)は、1885(明治18)年にジョージ・ウィリアム・ノックス George William Knox(1853−1912)から受洗。高知教会長老を経て、竹内と共に第1回衆院選で当選し、衆院副議長、衆院議長を歴任し、以後、同志社社長、土陽新聞社社長、日本基督(キリスト)教青年会理事長を務めるなど、当時の日本を代表するプロテスタント(長老派=プレスビテリアン)であった。
片岡と一緒に受洗したのが、馬場辰猪(ばば たつい 1850−1888)、植木枝盛(うえき えもり 1857−1892)〔※関連資料(1・2日本国国憲按(案)―現行憲法の国民主権)と共に自由民権運動三大論客の一人として知られた坂本直寛(さかもと なおひろ 1853−1911)である。
坂本龍馬の長姉・千鶴(1817−1861?)の二男として生まれた直寛は、龍馬の兄・坂本権平(1814−1871)の養子となって坂本家を継いだ。北海道に新天地を夢見た龍馬の遺志を継ぐ為、1897年に北海道北見に入植し、移民結社・北光社を創立、北見教会などを通じてキリスト教布教と開拓移民の指導に当っている〔※関連資料(1・2・3山本琢磨)〕。坂本直寛の孫には山岳画家として知られる坂本直行(1906−1982)がいる。
吉田 茂は薩摩クスノキ族の親分である維新三傑の一人・大久保利通(おおくぼ としみち 1830−1878)の次男で、牧野家の養子になっていた牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)の長女・雪子(牧野雪子 1861−1949)〔※関連資料(1・2・3)〕と結婚することで3人目の父を得る。この雪子の存在が実に大きい。前述したように、雪子の信仰がその後の吉田の人生を大きく変えるのだ。(中略)
雪子は外交界の長老であった牧野の娘としてローマやウィーンなどで育ち、外務省の長老であった牧野の娘としてローマやウィーンなどで育ち、外務省では「雲の上の人」と言われ、吉田との結婚は「神様と人間との結び付き」とも形容された。ここで「神様」とは、結婚前に既に雪子がカトリック信徒になっていたことを示している。
この辺りの事情は、国際金融問題の第一人者として知られ、東京銀行会長、東京三菱銀行特別顧問、日本オリベッティ取締役を歴任し、吉田 茂記念事業財団理事長も務めたカトリック信徒の堀江薫雄(ほりえ しげお 1903−2000)が詳しい。牧野伸顕は1899年からオーストリア公使としてウィーンに駐在しているが、堀江はこのウィーン時代に16歳の雪子がカトリックに特別な興味を持ち、後年洗礼を受けて熱心なカトリック信徒になったと書いている。
牧野の娘・雪子を妻にすることで、土佐と薩摩の元祖クスノキ族が見事に結合し、プロテスタントとカトリックが接ぎ木される。(中略)
更に、吉田も死の直後にカトリック信徒として、ヨゼフ・トマス・モア吉田 茂となったのは前述した通りである。
■吉田 茂に束ねられた人脈
この大磯邸の後の主とは『大磯随想』(雪華社 1962年刊行)を書いた吉田 茂(1878−1967)
〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕である。竹内 綱は吉田の実父であり、吉田健三は吉田の養父である。また、吉田の実兄である竹内明太郎(たけうち めいたろう 1860−1928)は、コマツ(小松製作所)の創業者として知られる。
吉田の原点には土佐のクスノキが生い茂り、既に板垣退助によってキリスト教の種が蒔かれていた。
竹内の同志であった片岡健吉(1844−1903)は、1885(明治18)年にジョージ・ウィリアム・ノックス George William Knox(1853−1912)から受洗。高知教会長老を経て、竹内と共に第1回衆院選で当選し、衆院副議長、衆院議長を歴任し、以後、同志社社長、土陽新聞社社長、日本基督(キリスト)教青年会理事長を務めるなど、当時の日本を代表するプロテスタント(長老派=プレスビテリアン)であった。
片岡と一緒に受洗したのが、馬場辰猪(ばば たつい 1850−1888)、植木枝盛(うえき えもり 1857−1892)〔※関連資料(1・2日本国国憲按(案)―現行憲法の国民主権)と共に自由民権運動三大論客の一人として知られた坂本直寛(さかもと なおひろ 1853−1911)である。
坂本龍馬の長姉・千鶴(1817−1861?)の二男として生まれた直寛は、龍馬の兄・坂本権平(1814−1871)の養子となって坂本家を継いだ。北海道に新天地を夢見た龍馬の遺志を継ぐ為、1897年に北海道北見に入植し、移民結社・北光社を創立、北見教会などを通じてキリスト教布教と開拓移民の指導に当っている〔※関連資料(1・2・3山本琢磨)〕。坂本直寛の孫には山岳画家として知られる坂本直行(1906−1982)がいる。
吉田 茂は薩摩クスノキ族の親分である維新三傑の一人・大久保利通(おおくぼ としみち 1830−1878)の次男で、牧野家の養子になっていた牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)の長女・雪子(牧野雪子 1861−1949)〔※関連資料(1・2・3)〕と結婚することで3人目の父を得る。この雪子の存在が実に大きい。前述したように、雪子の信仰がその後の吉田の人生を大きく変えるのだ。(中略)
雪子は外交界の長老であった牧野の娘としてローマやウィーンなどで育ち、外務省の長老であった牧野の娘としてローマやウィーンなどで育ち、外務省では「雲の上の人」と言われ、吉田との結婚は「神様と人間との結び付き」とも形容された。ここで「神様」とは、結婚前に既に雪子がカトリック信徒になっていたことを示している。
この辺りの事情は、国際金融問題の第一人者として知られ、東京銀行会長、東京三菱銀行特別顧問、日本オリベッティ取締役を歴任し、吉田 茂記念事業財団理事長も務めたカトリック信徒の堀江薫雄(ほりえ しげお 1903−2000)が詳しい。牧野伸顕は1899年からオーストリア公使としてウィーンに駐在しているが、堀江はこのウィーン時代に16歳の雪子がカトリックに特別な興味を持ち、後年洗礼を受けて熱心なカトリック信徒になったと書いている。
牧野の娘・雪子を妻にすることで、土佐と薩摩の元祖クスノキ族が見事に結合し、プロテスタントとカトリックが接ぎ木される。(中略)
更に、吉田も死の直後にカトリック信徒として、ヨゼフ・トマス・モア吉田 茂となったのは前述した通りである。
〔資料〕吉田 茂 その3人の父 1〜5 - ぴゅあ☆ぴゅあ1949 2008年11月18日 ※「『死の商人』と『自由と人権の味方』。その2人が、何故仲良しなんでしょうね、という疑問が湧きます」
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50739216.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50739427.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50742824.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50747197.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50748988.html
※白洲次郎とは何者だったのか 記事一覧。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/cat_10021005.html
(4頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11594371421.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(4)≫
■天皇が父の如く慕った牧野伸顕
1921(大正10)年、元老・山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922)に代わって宮内大臣に就任した吉田の岳父・牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)は、宮中グループの中核を担っていくかに見えた。しかし、1925(大正14)年に内大臣となり、1935(昭和10)年12月26日に退官する。
牧野の退官日の様子は『入江相政(いりえ すけまさ)日記 全6巻』(入江為年 監修・朝日新聞社 1990〜91年刊行)〔※関連資料(1・2・3・4)〕で知ることが出来る。(中略)昭和天皇は幼時から接してきた牧野を父のように慕っていたのだろう。昭和天皇は声を上げて泣いて牧野との別れを惜しんだ。
この時既に牧野は対米協調派リベラリストの代表格として陸軍革新派将校から命を狙われていた。74歳の老人でさえ排除すべきテロの標的となっていた。翌1936(昭和11)年2月26日、陸軍青年将校が湯河原に身を潜めていた牧野を襲撃する。この二・二六事件で、牧野は孫の和子(1915−1996、吉田 茂の娘で麻生太郎の母)と共に一命を取り留めたものの、陸軍はターゲットを吉田 茂にまで拡げていく〔※関連資料(1・2・3・4)〕。
二・二六事件の責任を取って岡田啓介内閣(1934年7月8日〜1936年3月9日)は総辞職し、廣田弘毅内閣(1936年3月9日〜1937年2月2日)が誕生する。既に外務省を退官していた吉田は廣田内閣組閣参謀として外務大臣に就任する予定だったが、陸軍の圧力によって阻まれる。代わりに駐英大使に任命され、日本に戻った翌1939(昭和14)年に外務省を正式に退官した。
これ以後、肩書を持たないまま戦争回避に向けて奔走することになる〔※虚構に隠されたエスタブリッシュメント、搾取する側にあるもう一つの「日本」と借金奴隷として搾取される側の一般庶民が暮らす「日本」、閨閥社会、目に見えぬ階級社会の構図等について関連資料(1「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」・2・3・4・5・6・7「敗戦革命」・8重要)〕。
■東京倶楽部の財界人・樺山愛輔
吉田が頻繁に出入りしていたのが東京倶楽部(1884年設立)である。この東京倶楽部の中心人物の一人に樺山愛輔(かばやま あいすけ 1865−1953)がいた。樺山もまたメソジスト派のクリスチャンだった。
樺山も薩摩出身で、父は海軍大将、元帥、文相、内相、海相、初代台湾総督などを歴任した樺山資紀(かばやま すけのり 1837−1922)である。愛輔は米アマースト大学 Amherst College(1821年創立)卒業後、国際通信社、日英水力電気、日本製鋼所、蓬莱生命保険相互、千歳火災海上再保険、千代田火災保険、大井川鉄道などの役員や東京ロータリークラブ(1920年創立、―Freemasonry)の創立会員を務めるなど、まさに当時の代表的財界人だった。
樺山愛輔は満洲事変(1931年)直後に険悪となった日米関係の修復を図るべく渡米。訪問先には米国エスタブリッシュメントが一堂に集う「ボヘミアン・クラブ Bohemian Club(1872年創設、サンフランシスコに本部を構える)」〔※マンハッタン計画及びべクテルとの関係について関連資料(1・2・3・4・5)〕も含まれていた。
しかも、井上準之助(1869−1932)亡き後、モルガン家が築いたJ・P・モルガン J.P. Morgan&Co. の社史に残る名会長トーマス・ラモント Thomas William Lamont, Jr.(1870−1948)との親交を引き継ぎ、戦後は樺山の長男である丑二(かばやま ちゅうじ 1901−)がモルガン銀行東京支店顧問に就任している。
また、戦前からロックフェラー財団 Rockefeller Foundation〔※「財団 Foundation」及び「慈善事業」の意味について関連資料(1・2・3・4・5)〕がスポンサーとして名を連ねる太平洋問題調査会(IPR、1925〜1961)〔※関連資料(1・2)〕に関わり、戦後は、薩摩の松方正義(1835−1924)〔※『持丸長者 幕末・ 維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕の孫に当る松本重治(1899−1989)と共にジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller V(1906−1978)の支援を得ながら国際文化会館(1952年創設)〔※国際文化会館―MRA他関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8)〕の設立に関わる。
樺山こそがモルガン家とロックフェラー家のエージェントとも言える人物だった。そして、彼は当時であれば間違いなく死刑に相当する重大な国家反逆罪を犯していた。
■御前会議「機密漏洩」事件
樺山愛輔は1941(昭和16)年9月6日の御前会議の内容を、ジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880−1965)〔※John Pierpont Morgan(1837−1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)を参照〕駐日米国大使にリークしていたのである。
このグリューはモルガン家と姻戚関係にあり、グリューの妻・アリス・グリュー Alice de Vermandois Perry Grew(1883−1959)〔※母はリリー・キャボット・ペリー Lilla Cabot Perry(1848−1933)。奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボット Cabot Corporation 一族の出身。関連資料(1・2)〕の大叔父は黒船を率いて来航したペリー提督。グリュー家もまた米国を代表するエスタブリッシュメントだった。
この時の御前会議で「帝国国策遂行要領」〔※昭和天皇の戦争責任について関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8)〕が決議され、その第1項で10月上旬を目途に戦争準備を完遂することを、第2項で日米交渉の継続を決めているが、この日本人情報提供者は第1項には触れずに第2項のみを伝えている。
グリューが書き残したこの年10月25日の日記を、五百籏頭 真(いおきべ まこと 1943−)の『日米戦争と戦後日本』(大阪書籍 1989年刊行)より見ていこう。
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今日、日本政府の最高指導層と接触のある信頼すべき日本人情報提供者が私に面会を求めてきた。彼によれば、この絵内閣総辞職以前に御前会議があり、その席で天皇は軍の指導者達に対し、対米不戦の政策の確認を求めた。陸海軍の指導者はそれに答えなかった。すると天皇は、祖父の明治天皇が追求した進歩的政策に言及して、自分の意向に従うことを陸海軍に命ずる異例の発言を行った。
>
続けて樺山の、グリューへの依頼内容が記されている。
<
近衞はこのたび総辞職し、東條自身が組閣した。しかし、天皇は東條に対して、これまでの経緯に捉われず、対米協調を旨として憲法の条草をよく守り、行っていくように、という注意を与え、それを条件として東條の組閣を認めた。東條が現役大将のまま首相となったのは、陸軍を効果的に統制しつつ日米交渉を成功裡にまとめる為である。だから、軍の代表者が首班になったからと言って、アメリカとの対決姿勢を意味すると思わないでほしい。どうかアメリカ政府としては日本との交渉に見切りを付けず、東條内閣とも誠実に交渉をお続けいただきたい。
>
この文中にある「異例の発言」について補足しておきたい。御前会議終了間際、昭和天皇は懐からこの明治天皇の御製を取り出し、二度朗読した。
<
四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ
>
更に「私はこの明治天皇の御製を愛誦(あいしょう)し、その平和愛好の精神を自分の心に言い聞かせている」と付け加えた。これが「異例の発言」として樺山からグリューへ伝えられた。グリューは日本人情報提供者との深い友情から敢えて名を伏せた。グリューにとって樺山は宮中グループとの極めて重要な仲介者であったからだ。
また、この樺山が属する宮中グループこそが対日戦後政策を円滑に実現し、良好な日米関係を再構築する上で不可欠な存在と堅く信じた。何としても保護すべき対象だったのだ。この樺山の側近が吉田 茂であった。
■賊軍と「薩土肥」結集の意味
開戦後の翌年(1942年)6月、グリューは交換船で米国へと帰国することになった。
この時、グリューやロバート・クレイギー Robert Leslie Craigie(1883−1959)駐日英国大使と親しくしてた松平恆雄(まつだいら つねお 1877−1949)の娘は、加瀬俊一(かせ としかず 1903−2004)〔※関連資料(1)〕を介して、グリューにはメッセージと共に長い交友関係の記念として宝石箱を、抑留生活がしばらく続くクレイギーには御殿場で手に入れた緬羊(めんよう)の肉を届けさせた。加瀬によれば、メッセージと宝石箱を受け取ったグリュー夫妻は、流れる涙の為に顔を上げられなかったと言う。
グリューに宛てたメッセージの内容は明らかにされていないが、松平は娘に対して「米英両国とも、国交回復の時が必ず来る。『お互い、その時を待ちましょう』と両大使夫妻に伝えては」という趣旨のアドバイスをしたとされる。
もし、松平のアドバイスが娘のメッセージに反映されていたとするなら、当時これまた大問題になっていただろう。何故なら、松平恆雄の娘とは秩父宮妃勢津子(松平節子 1909−1995)であり、昭和天皇の義妹に当るからだ。
当時まだ皇族妃は皇族と華族に限られていた為、彼女は叔父の松平保男(まつだいら もりお 1878−1944)子爵家に入籍した上で嫁いだ。本名は「松平節子(せつこ)」だったが、貞明(ていめい)皇后(九条節子 1884−1951)の節子と同じ字だった為、畏れ多いということで結婚を機に伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子に改め、秩父宮妃勢津子となる。
秩父宮妃の会津への強い想いは、宮家へ上がることが家族の自由を奪うことになるのではと泣いて悩み抜いた末に、養育係の口から出た「(家族の)皆様、会津魂をお持ちでございます」の言葉に励まされ、結婚を決意したことからも分かる。
時は1928(昭和3)年1月18日。秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902−1953)と松平恆雄の長女・節子の婚約が正式に発表された日、会津では「これで朝敵の汚名も消える」と三日三晩提灯行列が繰り出されたと言う。
実父・松平恆雄は東京帝大法科大学政治学科を卒業後、外務省で天津総領事、欧米局長、事務次官、駐米大使、駐英大使を歴任し、退官後は宮内大臣を務めた。更に戦後は、枢密顧問官を経て初代参議院議長にまで就任した人物である。何と言っても姓が示す通り出身は福島県会津若松市、つまり会津藩最後の藩主にして京都守護職だった松平容保(まつだいら かたもり 1836−1893)の四男に当る。
母・信子(鍋島信子 1886−1969)の旧姓は鍋島、つまり旧肥前佐賀藩主・鍋島直大(なべじま なおひろ 1846−1921)の四女だった。
秩父宮妃は女子学習院(1885年創立)在学中に貞明皇后に見込まれ、結婚に至るまでには貞明皇后の強い推挙があったと言われる。そこには、明治維新時の旧会津藩に対する誤解を解きたいという心遣いもあったとされる。この極めて聡明な貞明皇后の使者として、秩父宮妃誕生の事実上のまとめ役となったのが樺山愛輔である〔※関連資料(1)〕。
秩父宮妃勢津子の誕生は、戊辰戦争(1868〜1869)で真っ先に賊軍となった奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟の会津(松平)と、次いで征韓論で敗れて賊軍となった「薩(牧野・樺山)・土(吉田)・肥(鍋島)」の結集を意味していた。
一方で、この秩父宮婚姻問題でも嫌がらせをしていたのが山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922)ら長州勢だった。
■木戸と岸が引き継いだ長州閥
既に肩書を失った吉田 茂は、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのような日本の暴走を、大磯からただ眺めるしかなかった〔※虚構に隠されたエスタブリッシュメント、搾取する側にあるもう一つの「日本」と借金奴隷として搾取される側の一般庶民が暮らす「日本」、閨閥社会、目に見えぬ階級社会の構図等について関連資料(1「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」・2・3・4・5・6・7「敗戦革命」・8重要)〕。
山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922)は「日本陸軍の父」と言われた大村益次郎(1824−1869)の遺志を継ぎ、参謀本部を権力基盤に、「長州の陸軍・薩摩の海軍」という棲み分けを図りながら、「陸軍のローマ法王」として陸軍の前期のほぼ50年間を長州閥で実質支配した。その派閥網を掌握しながら軍のみならず政界にも君臨。「内閣製造者」にして「内閣倒壊者」として桂、寺内、田中政権を生み出していく。
皇室からも忌み嫌われたほどの山縣の権力も、1921(大正10)年の宮中某重大事件で失墜。翌年に死去し、以後、長州閥時代は崩壊していくかのように見えた。しかし、実際には政・官・軍・財へ人材が配置され、2人の人物によって脈々と引き継がれていくのである。
その2人とは木戸幸一(1889−1977)内大臣と岸 信介(1896−1987)〔※関連資料(1・2)、『腐蝕の連鎖』より【系図11-1・11-2―満州利権者と朝鮮窒素と水俣病】〕。両者は「特別な信頼関係」で結び付いていた。
木戸の父・孝正(1857−1917)は、長州閥の巨頭・木戸孝允(=桂 小五郎 1833−1877)の実妹・治子(?−1875)と、吉田松陰(1830−1859)〔※司馬史観―エドウィン・ライシャワー Edwin Oldfather Reischauer(1910−1990)との関係を含め関連資料(1・2・3「この歴史観の核心は、『開国が近代化を齎した』すなわちペリー来航が日本近代化の発端であるとして、アメリカのお蔭で日本は進歩したと思わせることにあった」)〕の親友としても知られる長州藩士・来原良蔵(くるはら りょうぞう 1829−1862)の長男として生まれ、後に木戸家を継いで木戸孝正となった。この孝正と「長州ファイブ Choshu Five」〔※関連資料(1)〕の山尾庸三(1837−1917)の娘・寿栄子(1871−?)の間に生まれたのが幸一であり、その妻・鶴子(1896−?)は日露戦争の英雄、児玉源太郎(1852−1906)陸軍大将の娘である。
木戸幸一こそが長州の血を受け継いでいた。
一方で岸 信介は、関東軍参謀の秋永月三(あきなが つきぞう 1893−1949)らの画策により、商工省公務局長から満洲国に転出。満洲国総務庁次長として宮崎正義(1893−1954、石原莞爾のブレーン)が描いた「満洲産業開発5カ年計画」を実行に移す。
金沢の下級武士の家系に生まれた宮崎は、サンクトペテルブルグ国立総合大学(1724年創立・1819年独立。名称は時代により変更)留学中にロシア革命(1717年)前夜に遭遇し、南滿洲鐵道株式会社(満鉄)〔※関連資料(1)及び『持丸長者 国家狂乱篇』より【図6・7-2・8・10・11・表3・図12-1・12-2・系図2-1・2-2・2-3・3・5】〕きってのロシア・スペシャリストとなる。
宮崎は世界恐慌の最中にあって驚異的な成功を収めたソ連の経済5カ年計画に着目。関東軍参謀の石原莞爾(いしわら かんじ 1889−1949)や戦後国鉄総裁として新幹線建設に尽力した十河信二(そごう しんじ 1884−1981)らと満鉄経済調査会(経調)を発足させ、ソ連の経済5カ年計画を取り入れた日本独自の官僚統制経済システムを企画立案した。
岸と星野直樹(1892−1978、父・星野光多はキリスト教伝道師)〔※『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』及び満洲伝道等について関連資料(1・2・3・4・5)〕は鮎川義介(あゆかわ よしすけ 1880−1967、日産コンツェルン創始者、満洲重工業開発総裁他)〔※『持丸長者 国家狂乱篇』より【図8・系図3】〕の協力を得て満洲重工業開発株式会社(満業)〔※関連資料(1・2)〕を設立し、鮎川はここで官僚統制経済システムに修正を加える。末端の下請け産業の底上げを目的とした系列システムを統合させることで、より重層的なシステムに作り替える。満洲を壮大な実験場にしながら、岸は東條英機(1884−1948)に接近、「弐キ参スケ」として結合するのである。
東條英機の父・東條英教(とうじょう ひでのり 1855−1913)は賊軍とされた南部藩士だった。この為、陸軍大学校を首席で卒業しながらも長州閥によって昇進が阻まれ、予備役中将として軍人の生涯を終える。東條の長州への恨みにも似た感情の背景には、父の受けた仕打ちがあった。
東條は永田鉄山(ながた てつざん 1884−1935)、小畑敏四郎(おばた としろう 1885−1947)、岡村寧次(おかむら やすじ 1884−1966)などと共に、陸軍に蔓延(はびこ)る長州閥打倒、国家総力戦体制、統帥権の確立を目指して立ち上がる。一時ではあるが、確かに「官軍」と「賊軍」が入れ替っていたようにも見える。
岸と東條を結び付けたのは、岸の関与した阿片(アヘン)密売によるカネの力であったとする説が今尚語り継がれている。
そもそも「統制」という言葉が法律語として初めて登場するのは、満洲産業開発5カ年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布された「重要産業統制法」であった。これを立法起案したのが、ドイツの国家統制化運動を学んで帰国した農商務省時代の若き岸。その実施に当ったのが、岸とその上司であった木戸幸一であったことは『岸 信介の回想』(岸 信介, 矢次 一夫, 伊藤 隆 共著・文藝春秋 1981年刊行)で岸本人が語っている〔※関連資料(1・2・3・4・5Nazio・6・7・8・9)〕。
木戸と岸の「特別な信頼関係」は農商務省時代の上司と部下の関係によって培われていた。
満洲国から帰国した岸は、阿部、米内、近衞内閣の下で商工次官を務め、革新官僚の活動拠点になっていた企画院や陸軍「革新派」と連携しながら革新勢力を形成。満洲産業開発5カ年計画に端を発する戦時統制経済を日本に持ち込もうとする。
岸を中心とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、木戸であり、近衞文麿(1891−1945)〔※日本放送協会の第2代総裁として戦前のラジオを独占、ナチスのプロパガンダ放送同様、ラジオ放送を戦意高揚に巧みに利用した人物〕だった。木戸と近衞は京都帝国大学時代からの学友であり、2人は原田熊雄(1888−1946、西園寺公望の秘書)と共に「宮中革新派」を形成。宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を握りながら、牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)を支えた関屋貞三郎(せきや ていざぶろう 1875−1950)宮内次官を辞任に追いやり、宮中グループの主導権を薩摩から再び奪い取っていた。
しかし、岸は阪急東宝グループの創業者として知られる自由主義経済人であった小林一三(こばやし いちぞう 1873−1957)商工大臣と対立。企画院事件(1939〜1941)も重なり、小林は岸に対して「お前はアカ(共産主義者)だ」と辞任を迫った。
このことも岸本人が『岸 信介の回想』の中で触れている。この時、岸解任を決めたのが近衞文麿だった。近衞は木戸と岸を裏切った。これを機に、過激な統制強化に反発する国会や財界は「革新官僚はみなアカだ」と非難し、岸もアカと見なされるようになる。
後に岸は、東條の引きもあって東條内閣(1943年10月18日〜1944年7月22日)の商工大臣に就任するも、劣勢への対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼国務相)に降格されたことから東條との関係が悪化する。
サイパン島陥落(1944年7月7日)によって戦争継続が不可能と判断した岸と、本土決戦覚悟で戦争継続を目論む東條との対立が決定的となり、岸の辞任騒動に発展、これをきっかけに東條内閣は総辞職に追い込まれる。
この時、岸 信介の背後から「反東條・倒閣」を指示していたとされる黒幕が木戸幸一(1889−1977)である。近衞内閣(第2・3次近衞内閣:1940年7月22日〜1941年10月18日)総辞職後、木戸は内大臣という天皇の「側近中の側近」の立場を利用しながら、皇族内閣に反対し、対米強硬派である東條を強く推した。
昭和天皇への忠勤ぶりが目立つ東條を昭和天皇の意思が直接伝えられる首相に起用することで、戦争回避に道が開ける。木戸のこの甘い判断は、皮肉にも自らが岸を使って東條内閣を崩壊させるという結末を生んだ。
2人揃って楠木正成暴走列車から飛び降りたものの、時既に遅過ぎた。吉田が束ねるクスノキの巨樹が、暴走を食い止めるべく長州包囲網を築いていた。長州の判断の遅れが「陸の長州」の悲劇を生む。戦後「陸の長州」は戦犯からスタートしなければならなかったのである。
〔資料〕日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 - Wikipedia、他関連資料
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3%E3%82%88%E3%82%8A%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F%E3%81%AB%E5%9C%A8%E3%82%8B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AB%E9%80%81%E3%82%8B%E6%9B%B8%E7%BF%B0
〔資料〕日本のキリスト教と植民地伝道:旧満洲「熱河宣教」の語られ方(PDF、全44頁)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~hongbo/PRIME31Zhang.pdf
〔資料〕『官僚と政治と宗教―「満洲国」官僚武藤富男の事例 1〜4』 By 裴 富吉(ペエ・ブキル) 1999年
http://bbgmgt-institute.org/mutou-case.htm
http://bbgmgt-institute.org/mutou.html
〔資料〕アジア・太平洋戦争下の「日本基督教」〜伝道活動を中心に〜 By 川口葉子(PDF、全21頁)
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/48935/1/1881-0187-2008-4-31.pdf
〔資料〕プロパガンダと情報操作 - LEGACY OF ASHES 2012年2月11日 ※超重要。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/410.html
(5頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11598463159.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(5)≫
(4頁からの続き)
■近衞文麿の上奏文
前述したように、秩父宮妃勢津子(松平節子 1909−1995)の父は会津藩最後の藩主・松平容保(まつだいら かたもり 1836−1893)の六男松平恆雄(まつだいら つねお 1877−1949)、母は肥前佐賀藩主・鍋島直大(なべじま なおひろ 1846−1921)の四女松平信子(鍋島信子 1886−1969)、これを皇室に接ぎ木したのが貞明(ていめい)皇后(九条節子 1884−1951)、その使者を務めて事実上のまとめ役になったのが薩摩の樺山愛輔(かばやま あいすけ 1865−1953)である。
樺山を介して、吉田によって結合した土佐と薩摩のクスノキの大樹に、肥前佐賀藩、更には奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟が接ぎ木され、しかもその幹は皇室と共有された。
楠木の暴走を制止しようとクスノキの大樹が出現しようとしていた。巨大なクスノキ・グループが形成されようとしていた。
1945(昭和20)年2月14日、近衞文麿は昭和天皇の前で上奏文を読み上げる。
日本の敗戦は必至としながら、「最も憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」にあるとし、「コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向」を「皮相安易なる見方」と指摘し、「軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なし」と続ける。
そして、自身の「過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙(わた)り交友を有せし不肖」を「反省」する。この反省は、近衞がクスノキ・グループに寝返ったことを意味する。読み終えた近衞に昭和天皇は静かに問い掛ける。
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我国体について、近衞の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。
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昭和天皇はこの時もまだ軍部からの情報に頼っていたことが分かる。昭和天皇にはクスノキ・グループの情報が届いていなかった。「宮中の壁」となっていたのは木戸幸一である。
これに対して近衞はこう答えている。
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軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グリュー次官らの本心は左に非ずと信じます。グリュー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉より見ても、我皇室に対しては十分な敬意と認識とを持っていると信じます。但し米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何(いかん)によっては、将来変化が無いとは断言出来ませぬ。この点が、戦争終結の策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。
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秩父宮妃勢津子から贈られたメッセージと宝石箱にジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880−1965)〔※John Pierpont Morgan(1837−1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)を参照〕夫妻が涙したことが触れられている。グリューはもはや、クスノキ・グループの一員となっていた。近衞の脳裏にはグリューの姿だけがあった。
グリューは確かに1943(昭和18)年12月29日のシカゴ演説で米国人に語り掛けている。
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我が国には神道を日本の諸悪の根源と信じている人がいるが、私はそれに同意出来ない。軍国主義が日本で跋扈(ばっこ)している限り、軍国主義指導者は日本国民の情緒主義と迷信に訴えることによって、また英霊崇拝を強調することによって、軍国主義と戦争の美徳を宣揚するのに神道を利用するであろう。
しかし軍国主義が滅びれば、そのような宣伝も同様に消滅しよう。神道には天皇崇拝も含まれている。日本が軍部によって支配されず、平和を求める為政者の保護の下に置かれれば、神道のこの面は再建された国民の負債(a liability)であるどころか資産(an asset)となりうるのだ。
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『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』(岩波書店 1989年刊行)を書いた中村政則(1935−)によれば、グリューは演説前日まで「天皇制」となっていた言葉を政治的な配慮から「神道のこの面」に差し替えた〔※関連資料(1・2)〕。
注目すべきは「資産(an asset)」という言葉に日本の円滑な民主化(=米国化)に向けて女王蜂(=昭和天皇)とクスノキ・グループを利用するという狙いが見出せる。
それでもグリューは袋叩きにあった。米国メディアは一斉に「グリューは天皇を擁護し、利用しようとしている」と書き立てた。米国世論は「天皇憎し」が圧倒的だった。この影響でグリューはコーデル・ハル Cordell Hull(1871−1955)〔※―クーン・ローブ商会、関連資料(1・2)〕国務長官から演説活動中止を宣告される。それでもグリューは諦めない。省内で味方を増やしつつ、国務省極東問題局長を経て、1944(昭和19)年12月には国務次官に抜擢される。
時計を2月14日に戻そう。昭和天皇は最後に語る。
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もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。
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食い下がる近衞はこう言い残した。
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そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。
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もしもこの時に昭和天皇と木戸が近衞の上奏文を受け入れていれば・・・・・・。この先を語ることは、敢えて控えておこう。
開戦当時の年齢を見ると、昭和天皇は40歳、木戸幸一は52歳、近衞文麿は50歳である。これに対して牧野伸顕は80歳、樺山愛輔は76歳、昭和天皇が年齢も近い革新勢力の木戸や近衞に傾斜していたとしても不思議ではない。
この2月14日のやりとりは、木戸が書き残したメモから再現され、藤田尚徳(ふじた ひさのり 1880−1970)の『侍従長の回想』(講談社 1961年刊行)に残されている。
この日の朝、木戸は侍従長室に姿を見せ、藤田に侍立を遠慮しろと言う。宮中革新派として長州を率いていた木戸は侍立し、監視しなければならなかった。しかも、このメモには藤田が病気でもないのに「侍従長、病気の為、内大臣侍立す」との嘘が書き添えられていた。
敗戦時の国務長官にして玉音放送の際の内閣情報局総裁を務めた下村 宏(1875−1957、玉音放送の際の内閣情報局総裁)は、『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社 1950年刊行)で、当時の宮中グループについて次のように書いている。
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私は先ず近衞(文麿)、木戸(幸一)という一線が牧野(伸顕)、湯浅(倉平)、鈴木(貫太郎)の一線に取って代ったということを指摘したい。近衞、木戸が軍を迎合せぬまでも軍と手を握った。軍のほうから彼等を囮(おとり)に使ったという事実は否定出来ない。そこに近衞、木戸を引き立てた老境に入りし西園寺(公望)公にも責任の一端がある。木戸内府としての欠点は、この重大危機に当り、衆智を集めて熟慮断行しなかったことである。歴代の内府に比べて政府へ口ばしを入れ過ぎた。殊(こと)に人事の差出口が多く、相当長州閥のにおいも鼻についたことである。しかも一面牧野内府時代に比べ、陛下への周囲の溝を深くしたことである。更に国家存亡の渡頭に立ち内府の重責に在り、しかも確乎たる信念を立つるあたわず、信念有るもまたこれを堅持するあたわず、東條内閣の策立を容認したことである。
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■「反戦信任状」の威力
大磯の吉田 茂は、1945(昭和20)年4月15日に憲兵隊によって逮捕される。吉田の犯罪容疑は軍事上の造言蜚語(ぞうげんひご)と軍機保護法違反となっていた。近衞上奏内容の流布、陸軍は自信を失って士気沈滞しているとの反戦言動の流布、関東軍は赤化(せっか)し、陸軍中央部も赤の分子に動かされているとの中傷言動の容疑が掛けられた。
既に吉田の東京本邸にも大磯別邸にもスパイが入り込んでおり、吉田の動静は筒抜けだったのである。
近衞は拝謁の前日の2月13日に吉田を訪ね、上奏文の内容を確認し合っていた。吉田の『回想十年』には「二人して内奏文の補校に努めると共に、私はその写しを取り、夜の更けるまで語り合った。私が写しを取ったのは、これを牧野伯に見せて欲しいという公の希望に従ったものであるが、これが憲兵隊に捕われる証拠品の一つになろうとは、夢にも考えなかった」とある。
吉田と共に見せしめとして検挙されたのは岩淵辰雄(1892−1975)、殖田俊吉(うえだ しゅんきち 1890−1960)である。また、陸軍皇道派の眞崎甚三郎(まさき じんざぶろう 1876−1956、―二・二六事件)と小畑敏四郎(おばた としろう 1885−1947、―二・二六事件)なども関与していた。
皇道派主導の二・二六事件で吉田の岳父であった牧野も狙われたことを考えれば、吉田と陸軍皇道派の協力関係は奇妙に見える。しかし、日本が赤化することへの強い危惧を共有していた。「反ソ・反共」を利用して、吉田は東條率いる陸軍統制派に陸軍皇道派をぶつける為に手を組んでいたのだろう。
憲兵隊はこのグループを「吉田反戦グループ」、通称ヨハンセン・グループと呼んでいた。しかし、このグループは宮中に繋(つな)がる人脈を持っていなかった。むしろ、陸軍指導部は宮中内部に直接繋がる大磯和平グループに目を光らせていた。
大磯には池田成彬(いけだ しげあき 1867−1950)〔※関連資料(1・2)〕、原田熊雄、そしていつしかあの樺山愛輔も住み始めていた。憲兵隊は小畑、原田、樺山の3人を参考人として居宅訊問し、樺山邸から吉田の手紙が押収され、憲兵の追及を受けることになる。樺山は吉田の手紙が余りによく書けていたので、惜しくて、焼かずに取っていたのである。
吉田逮捕は吉田にとって反戦信任状となり、戦後には極めて有利な経歴となった。
この反戦信任状の威力は、木戸(終身禁固刑)や岸(巣鴨拘置所収監)が引き継いだ「陸の長州」に対して、ヨハンセン・グループや大磯和平グループに関与した約20名の内、誰一人としてA級戦犯起訴されていないことからも分かる。
唯一の例外になり得た近衞も、自ら死を選ぶことによって免れたのである。
〔資料〕山本五十六の真実 1〜12 By ぺリマリ 2011年11月4日〜2012年3月8日
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/655.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/674.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/686.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/687.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/702.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/768.html
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/771.html
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/224.html
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/225.html
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/226.html
〔資料〕太田 龍 二・二六事件の真相、全面開示 By ぺリマリ 2013年2月24日
http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/721.html
〔資料〕吉田 茂 その3人の父 1〜5 - ぴゅあ☆ぴゅあ1949 2008年11月18日〜12月5日 ※「『死の商人』と『自由と人権の味方』。その2人が、何故仲良しなんでしょうね、という疑問が湧きます」
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50739216.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50739427.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50742824.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50747197.html
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50748988.html
※白洲次郎とは何者だったのか 記事一覧。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/cat_10021005.html
〔資料〕≪鬼塚英昭 著『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』 より要約(6)≫|MelancholiaT
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-10959708422.html
〔資料〕≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(11)≫|MelancholiaT ※真珠湾攻撃の真実他について本文及び添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11470025318.html
〔資料〕日本記者クラブ記者会見 アメリカ訪問を終えて 昭和天皇・香淳皇后両陛下 1975年10月31日・皇居「石橋の間」(PDF、全5頁)
http://www.jnpc.or.jp/img_activities/img_interview/img_specialreport/specialreport_19751031.pdf
〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第3章 昭和天皇が選んだカトリック より抜粋、要約 P.90−P.130〕
■戊辰戦争は「南北朝」動乱だった
明治天皇(祐宮睦仁 1852−1912)〔※関連資料(1・2)〕も昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)も今上天皇(継宮明仁 1933−)も、伏見宮家も北朝の系統である。実は、維新後、最初の「敗者」は、こともあろうに北朝系の伏見宮家だった。王政復古と共に不死鳥の如く蘇った楠木正成(1294?出自不明−1336)〔※一部関連資料(1・2・3・4・5・6)〕の怨霊を無視出来なくなった最大の原因が、この伏見宮家に襲い掛かった度重なる悲劇にある。南朝の忠臣達は北朝を滅ぼす為に蘇ったかのように見えてしまうのだ。
戊辰戦争(1868〜1869)で東北に戦火が拡がる中、ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグ Robert B. Van Valkenburgh(1821−1888、在日本米国公使としての任期:1866年1月18日〜1869年11月11日)米国公使は「日本に二人の帝(みかど)が誕生した」と本国に伝え、更には会津を中核とする北方政権のほうが優勢だと報じた。
戊辰戦争のクライマックスと言われる会津戦争は、ヴォールクンバーグ米国公使からすれば、米国で終わったばかりの南北戦争 American Civil War(1861−1865)のように見えた。新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕もまた、「南の勤皇軍」と「北東の佐幕軍」と呼んでいた〔※南北戦争と戊辰戦争のリンクについて関連資料(1・2)〕。
つまり、この時日本は南北対立状態にあったわけだ。奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟は北朝ならぬ「東武皇帝」を擁立しようとしていた。奥羽において大政元年と改元し、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやくげんほうしんのう=東武天皇=北白川宮能久親王 1847−1895)を即位させて東武皇帝とする東武朝廷構想を目論んでいたのである。
彰義隊(しょうぎたい)に担がれた輪王寺宮は上野戦争で長州の大村益次郎(1824−1869)率いる新政府軍に敗れ、関東各地を転々としながら、1868年(慶応4)年6月6日に会津に入る。会津藩主松平容保(まつだいら かたもり 1836−1893)は、輪王寺宮を若松城に迎えると、直ちに軍事的管轄も含めた、まさに東武皇帝とも言える「総裁」就任を要望されたが、法中の身であるとの理由でこれを辞退した為、盟主に落ち着いたのである。
こうして奥羽越列藩同盟は輪王寺宮を盟主に、総督は仙台藩藩主伊達慶邦(だて よしくに 1825−1874)と米沢藩藩主上杉斉憲(うえすぎ なりのり 1820−1889)、参謀は小笠原長行(おがさわら ながみち 1822−1891)〔※関連資料(1)〕と板倉勝静(いたくら かつきよ 1823−1889)の両旧幕閣老とする最高執行部が成立する。
佐々木 克(ささき すぐる 1940−)は「盟主を頂点に、総督、参謀、公議府会義と権力体制の確立を見た同盟は、明らかに京都政権に対抗する、地方政権=奥羽政権としての意識と実体を持っていた」と書いている。
6月中旬には「海外在港ノ総督」に「奥羽越同盟布告」が出され、同盟以外の者に兵器を売らないよう要望し、対外的にも薩長政府と交戦状態にあることを主張する。この時、日本は南北に分裂する危機にあった。列強諸国は既に分裂したと見ていたのである。
北朝系の輪王寺宮を盟主に担ぎ上げた奥羽越列藩同盟に対して、長年の恨みを晴らすかのように容赦の無い殺戮(さつりく)が繰り返される。会津藩の死者は数千人に及び屍骸は戦場に曝(さら)された。敵に捕らえられ、言葉に出来ない屈辱を受ける婦女子も続出したと言う。まさに怨霊が取り憑いたかのような、情け容赦の無い残忍な仕打ちが繰り返された。
この時は明治天皇も輪王寺宮公現法親王も北朝系であったことから、実際には北朝分裂と言える状況だったが、薩長に楠木正成の怨霊が蘇っていた為に南北朝動乱を再現させる様相となっていた。
■「悲劇の宮家」三代の祟(たた)り
輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやくげんほうしんのう=東武天皇=北白川宮能久親王 1847−1895)は1847(弘化4)年2月16日に、伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう 1802−1872)の第九子として生まれ、僅か2歳にして孝明天皇(煕宮統仁 1831−1867)の父・仁孝天皇(にんこうてんのう 寛宮恵仁 1800−1846)の猶子(ゆうし)となっている。つまり、明治天皇(祐宮睦仁 1852−1912)〔※関連資料(1・2)〕の叔父に当る。
そして、奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟の盟主に担がれて朝敵となった時点で「悲劇の宮家」が始まる。更に、1911(明治44)年に、あの南北朝正閏(せいじゅん)問題が巻き起こる。この時から「悲劇の宮家」に「北朝の悲劇」が重なっていくのだ。
敗れた輪王寺宮は親王の身分を剥奪され、京都伏見宮御預けとなるが、1869(明治2)年に処分が解かれる。ドイツ留学中に北白川宮家を創立した初代北白川宮智成親王(きたしらかわのみや さとなりしんのう 1856−1872)の死去に伴い北白川宮家を相続し、第二代北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)となる。能久親王は「朝敵」の汚名を晴らすかのように、日清戦争では近衛師団長として出征、台湾征討軍の指揮に当るものの同地で戦病死する。
第三代北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう 1887−1923)は陸軍士官学校、陸軍大学校を経て砲兵大佐になるが、1923(大正12)年4月、視察の為に訪れていたパリ郊外で自動車事故のため死亡する。この時、成久王妃房子内親王(ふさこないしんのう 1890−1974)と朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう 1887−1981)も重傷を負う。房子妃は明治天皇の第七皇女だった。
第四代北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう 1910−1940)も陸軍大尉として日中戦争(=支那事変 1937〜1945)に従軍。張家口(ちょうかこう)での演習中に、墜落してきた戦闘機のプロペラに巻き込まれて死亡する。
こうして奥羽越列藩同盟の盟主にして朝敵となった能久親王からの当主三代すべてが奇しくも外地で不慮の事故で亡くなる。このことから、北白川宮家は「悲劇の宮家」と人々から悼まれるようになるが、やはりどうしても楠木正成の怨霊の存在が気になる。
この怨霊に一人立ち向かうことになるのが昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)である。遂に昭和天皇にも「時代の陰影」が忍び寄る。そして、昭和天皇にもまたキリスト教という新たな宗教心が芽生え始めていた。一方で北白川宮家の悲劇は戦後も続いた。汚名返上にかける北白川宮家の夢を打ち砕いたのは皮肉にも、昭和天皇と吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕と小泉信三(1888−1966)の宗教心だった。
〔資料〕北白川宮家 1〜2 - 直球感想文 和館 2002年1月10日・2月14日
http://omugio.exblog.jp/16304779
http://omugio.exblog.jp/16304712
■昭和天皇のもう一つの闘い
1911年の南北朝正閏(せいじゅん)問題で南朝が正統とされた時点で、北朝の敗北は確定する。明治天皇も大正天皇も昭和天皇も「偽朝(ぎちょう)」とされたようなものだ。昭和天皇が幼き頃の学習院の授業では、当然「吉野朝廷(南朝)」の話が中心となっていた。
昭和天皇の南朝正統論に対する不快感を示す日記も最近になって明らかになる。2007(平成19)年3月10日発売『文藝春秋』2007年4月特別号に掲載された「小倉庫次(おぐら くらじ)侍従日記」で平泉 澄(ひらいずみ きよし 1895−1984)〔※三男の平泉 渉と核利権、中曾根康弘とMRA等について関連資料(1・2・3日本の原発導入と中曾根康弘の役割・4・5)〕の名前と共にそのことが記されている。「小倉庫次侍従日記」の1943(昭和18)年11月30日項にはこうある。
<
明年、御進講始の国書控に文部省より帝大教授平泉 澄を推薦し来りたる件に付申し上げ、思召もありたるも、その儘(まま)、御聴許戴くことに御納得いただき、思召の程は何等かの方法にて岡部(長景)文相に達する様、仰せありたり。
>
平泉の御進講を嫌がる昭和天皇の様子がはっきり見出せる。平泉の水戸学論は藤田東湖(1806−1855)論だった。しかも、平泉は楠木正成(1294?出自不明−1336)〔※一部関連資料(1・2・3・4・5・6)〕や北畠親房(きたばたけ ちかふさ 1293−1354、『神皇正統記』の著者)を敬愛し、1932(昭和7)年に北朝系の昭和天皇に対して何とも無礼なことに、「楠木正成の功績」という御進講を行ったことまである。
終戦直前の昭和天皇の異常なまでの「三種の神器」への執着は、恐らく南北朝正閏問題から生まれた南朝正統論に起因していることは間違いない〔※関連資料(1・2・3・4・5)〕。
ここで昭和天皇の宗教観を探ってみよう。
木下道雄(1887−1974、一高校長・文部官僚・初代京大総長を歴任した木下廣次の二男)の『側近日誌』(文藝春秋 1990年刊行)に収められている昭和天皇聖断拝聴録原稿には、「我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、これは大いに改善の要があると考える」とある。
昭和天皇が北朝系であったにも関わらず、誰もが楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのように付和雷同して「天皇陛下万歳」を、事もあろうに南朝の為に叫んでいた。
更に「斯様(かよう)に国民性の落ち着きの無いことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う」とも語っている。
欠点を矯正する為の教養と宗教心とあるが、筆者は既に「楠木正成の天敵は教養とキリスト教である」と書いた。培うべき宗教心とはキリスト教も指していたことを証明しよう。一部の人にはショッキングな事実かも知れないが、昭和天皇が選んだのはカトリックだった。これはもはや疑いようが無い。
この拝聴録を残した木下は昭和天皇が最も信頼していた人物の一人だった。木下もまた昭和天皇への忠誠心は並々ならぬものがあった〔※戦後マスコミを通じて流布された神話について関連資料(1『終戦のエンペラー』の神話と史実・2昭和天皇と対米開戦・3昭和天皇の「御聖断」)〕。
■侍従・木下道雄と正田家
この木下は侍従次長退官後に敬虔なカトリック信徒になった。洗礼を与えたのはフランス人宣教師ヨゼフ・フロジャク Joseph Flaujac(1886−1959)神父である。木下はフロジャク神父の死後に行われた「フロジャク神父を偲ぶ集い」で「フロジャク神父を思う」と題する記念講話まで行っている。
このフロジャク神父から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になったのが、美智子皇后(正田美智子 1934−)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【系図4-5】〕の祖父である正田きぬ(1880−1970)だった。つまり、正田家にカトリック信仰の種を蒔いたのもフロジャク神父だったのだ。
しかも、皮肉なことに最後の病床に駆けつけた女医・井上泰代(−、フロジャク神父が1937年創立したベタニア修道女会所属の女医)によって「望みの洗礼」を授けられていたヨゼフ松岡洋右(まつおか ようすけ 1880−1946)の葬儀にも、聖書を読み上げるフロジャク神父の姿があった。
昭和天皇自身もカトリックに改宗する可能性があるとバチカンの英国公使館が分析し、その内容を英国外務省に報告していたことが徳本栄一郎(1963−)の『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社 2007年刊行)で明らかにされている〔※関連資料(1・2・3白洲次郎とは何者だったのか 記事一覧・4・5聖母の被昇天)〕。
これは第一に共産主義の脅威に対抗する為の戦略であったはずだが、実は楠木正成の怨霊封じにも繋(つな)がるのである。カトリックに悪魔はいても、人の怨霊など存在するはずが無い。怨霊封じにはもってこいなのだ〔※一部関連資料(1大淫婦バビロン・2・3一考察として・4・5・6「アメリカの本当の所有者は、現在もローマカトリック教会」・7・8・9・10・11・12)及び≪苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 より抜粋(1・2・3・5・6)≫本文及び添付資料を参照〕。
(6頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11604828469.html
(5頁からの続き)
■カトリックの聖地が選ばれた理由
2007(平成19)年1月、京都新聞は「新春鼎談(ていだん)・この国のゆくえ」を掲載している。集まった3名は、岡本太郎(1911−1996、―Acéphale)、宗 左近(古賀照一 1919−2006)と共に「縄文の三仙人」と言われる哲学者の梅原 猛(1925−)、それに天台宗の僧侶でもある小説家の瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美 1922−)、そして鶴見俊輔(1922−)という何とも個性的でトリックスターのような人達ばかり。
鶴見が先ずきっかけを作る。姉の鶴見和子(1918−2006)が無神論者でアニミズム(animism)であるにも関わらず、東京で行われた「しのぶ会」でカトリック神父の柳瀬睦男(1922−2008、元・上智大学学長)がミサをしたことに触れながら、「カトリックには無神論者を含めてミサをやる伝統があるんだ。そういう寛容さがカトリックにはある」と語る。ここからが面白い。さて、2人はどう答えたか。
<
梅原 カトリックが他の宗教に寛容であるというのは、その通りだと思う。これに対して、プロテスタントは一神教の信仰に非常に忠実で、他の宗教に対して不寛容です。私はアメリカがカトリックの国であったら、広島、長崎に原子爆弾を落とすことはしなかったのではないかと思う。特に長崎はカトリックの聖地です。その教会(浦上天主堂)が直撃された。何か、カトリックに対するプロテスタントの敵意みたいなものを感じる。
瀬戸内 怨霊ですね。
>
しかし、そもそもキリスト教に怨霊など存在しない。それにしても、果たして米国の長崎への原爆投下にプロテスタントのカトリックへの敵意や怨霊が存在していたのだろうか。答えはこれもNO。事実は異なる。
太平洋の北マリアナ諸島ティニアン島に置かれた米陸軍戦略航空軍第509混成群団とワシントンの司令部などが交わした電文を収めた『ティニアン・ファイルは語る―原爆投下時暗号原文集』(奥住善重・工藤洋三 共著、自費出版・長崎平和推進協会で取り扱い 2002年刊行)によれば、1945(昭和20)年7月23日付の電文で原爆投下計画が近く決定される予告的な内容が伝えられ、「代替(だいたい)目標は理由付きで与えられる」とされていた。
翌7月24日付電文で「以下の目標が選定された」として「広島、小倉、新潟、長崎」と四都市が並んだ。実は長崎の名が挙がったのはこの時が初めてだったのである。「長崎は九州の主要な船舶輸送と工業の中心」との理由を記している。そして翌7月25日付の電文は「8月3日頃から天候が許し次第、目標のうちの一つに投下する」との命令が下される。
『ティニアン・ファイルは語る―原爆投下時暗号原文集』の著者の一人である奥住喜重(おくずみ よししげ 1923−)は「長崎を目標に追加することは、23日付電文から推測されるように、23日か24日の米司令部の協議などで決まったのではないか。『代替目標』とは京都の代わりにという意味ではないか」と指摘している。
原爆投下の候補地の選定にはカトリックの聖地であろうが、捕虜収容所があろうがなかろうが何ら配慮はされなかった。当初米軍が広島、小倉、新潟、京都を選んだ理由は、この四都市は焼夷弾や高性能爆弾の被害を殆んど受けていないので、(1)原爆被害の評価を下しやすい、(2)爆撃効率がいい、ということであった。
その後京都が外され、代わりに長崎が選ばれたのである。しかも、8月9日当日、爆撃機は次の目標を小倉と定めて飛んだ。だがこの日、小倉は前日にB-29が落とした焼夷弾の煙が立ち込めていたことから、投下地点を第2目標の長崎に切り替えたのである。よって、米国の長崎への原爆投下にカトリックへの敵意は無かった。あくまでも偶発的に長崎へ投下されただけだ。
それよりむしろ、長崎がカトリックの聖地であるとの配慮が何らなされていなかったことに米国の何とも不気味な恐ろしさがある。それも当然、米国にとってカトリックであろうとなかろうと日本人はヒトではなく、皆殺しにしてもいい獣にしか過ぎなかったからだ。
それでは、昭和天皇とカトリックの関係を、原爆投下という「昭和天皇の痛恨事」を掘り下げながら見ていこう。先ずはフロジャク神父同様、戦前から日本で活躍したソーヴール・アントワーヌ・カンドウ Sauveur Antoine Candau(1897−1955)神父に登場していただく。(中略)
〔資料〕Google Books - 奥住喜重・日笠俊男 共著『米軍資料 B-29 ルメイの焼夷電撃戦―参謀による分析報告』(吉備人出版 2005年刊行)
http://books.google.co.jp/books?id=lwriyypBRG8C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
〔資料〕民族浄化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F%E6%B5%84%E5%8C%96
〔資料〕自由の名の下の民族浄化 By David Rothscum 1〜4 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2010年3月10〜15日
http://satehate.exblog.jp/13916541/
http://satehate.exblog.jp/13931994/
http://satehate.exblog.jp/13940168/
http://satehate.exblog.jp/13953074/
〔資料〕経済破綻・貧困・戦争がやってきた時、女達の人権は全く無い - DARKNESS bllackz.com 2011年8月3日
http://www.bllackz.com/2009/12/blog-post_26.html
http://www.ahni.co.jp/kitazawa/sei/kantougen0502.htm
http://www.projectdisagree.org/2012/10/blog-post_23.html
〔資料〕第2次世界大戦におけるアメリカ経済の軍事化への転換:準備的考察 By 森 杲 1967年(PDF、全72頁)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31158/1/17(1)_P51-121.pdf
■「敗者」から生まれた大きな人脈
このカンドウ神父の傍(かたわ)らには戦前・戦後の日本カトリック界を代表する人物が常に寄り添っていた。戦前の日本カトリック会の指導者的立場にあった岩下壮一(1889−1940)神父、戦後に文相、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事などを歴任した、田中耕太郎(1890−1974、―MRA)らである。
カンドウ神父は、静岡県御殿場の神山復生病院(こうやまふくせいびょういん、1889年設立)でハンセン病患者の救済に生涯を捧げた岩下神父を偲(しの)んで、その人格的魅力を「神への愛と人への愛が全く一つとなり、全ての根源となって、彼の魂の奥底からあらゆる活動の端々にまで輝き出ていた」と書いている。
暁星中等部2年の岩下は、1901(明治34)年11月1日、校長のエミール・エック Emile Heck(1868−1943)神父より洗礼を受けた。暁星学園(ぎょうせいがくえん)は1888(明治21)年にカトリック・マリア会の宣教師によって創立されたカトリック校である。岩下の洗礼名はフランシスコ・ザヴェリオ。つまり日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier(1506−1552)〔※一部関連資料(1・2・3「アメリカの本当の所有者は、現在もローマカトリック教会」・4・5・6ローマカトリックとイエズス会・7・8・9・10)〕の日本におけるカトリック教会慣用の読み方を選んだ。
この岩下神父の生い立ちを調べていくと、近代日本におけるカトリック人脈の原点が見出せる。第1章に登場している原 敬(はら たかし 1856−1921)〔※関連資料(1)〕である。
青年期の原は敬虔なカトリック伝道師ダビデ・ハラとして生きた。賊軍だった南部藩側用人の二男として生まれた原の芝公園邸の応接室には、明治天皇及び皇太后の肖像が掲げられていたが、その下に聖母マリアの画像が、更にその下に陸奥宗光(むつ むねみつ 1844−1897)の胸像が置かれていたと言う。
2005(平成17)年7月に、刃を閉じると柄の部分に十字架が浮かび上がる鋏(はさみ)が発見される。この鋏は、数年前から原 敬記念館に展示されていたが、刃を開いて展示していた為、誰も十字架に気付かなかった。展示品の並べ替えをしている時に職員が偶然、発見したのである。同館の木村幸治(1941−)館長は「原 敬は洗礼を受けていたが、それを進んで話すことはしなかった。しかし、鋏は彼が生涯クリスチャンの自覚を持っていたことを示している」とコメントしている。
一方、東京大学名誉教授の三谷太一郎(1936−)は、原の1872(明治5)年から1875年に及んだダビデ・ハラとしての生活は終わり、その後、再びキリスト教徒として登場することは無いと書いている。原 敬記念館とは見解が分かれるものの、この三谷でさえ「原が単にキリスト教に対する社会的偏見から自由であったばかりではなく、むしろこれを密かに畏敬さえした」と書いているように、かつてカトリック信徒であった青年期の経験が生涯に亘(わた)って影響していたことは間違いない。
大正天皇(明宮嘉仁 1879−1926)の病状が悪化し〔※関連資料(1部落解放運動と明治維新他)〕、宮中某重大事件も重なり、山本信次郎(1877−1942、山本 正の父)が供奉(ぐぶ)した皇太子外遊問題も右翼勢力を巻き込んだ一大騒動になっていた。この時、自ら率先して極めて現実的な判断で対処したのが原 敬首相であった。この為に右翼勢力の反感を招き、暗殺されることになる〔※関連資料(1)〕。
原は岩下神父の父・岩下清周(いわした きよちか 1857−1928)と極めて親しかった。
清周は三井物産パリ支店長時代にパリ公使館員だった原 敬と出会う。帰国後三井銀行副支配人に転じ、更に1897(明治30年)三井銀行を退社して北浜銀行の設立に加わり、同銀行で常務、次いで頭取に就任する。原が不遇だった時期、毎日新聞社長に招いたのも、北浜銀行頭取に推したのも清周だった。清周は北浜銀行事件(1914年、―白洲文平)〔※関連資料(1・2日銀による特別融資・3・4・5・6白洲次郎と S. G. Warburg&Co.―Rothschild・7・8白洲次郎とは何者だったのか Index)〕で起訴され、有罪となるが、この事件も原との親密な関係が生んだ政治的な策略だったとする見方が根強い。
1857(安政4)年、信州松代藩士・岩下左源太(?−1859)の二男として生まれた清周も、1874(明治7)年に立教大学(1874年創立・1922年大学設置)の前身校として築地に設立された聖書と英語を教える私塾「立教学校(St.Paul's School)」で聖公会の洗礼を受け、街頭布教を経験したことがあった。
原 敬と岩下清周が、戦前の日本カトリック界を代表する岩下神父を生んだと言える。
■側近として仕えた初めての信徒
岩下壮一(1889−1940)の代父(だいふ)は同じ暁星の5年先輩のアロイジオ山本三郎(−)が務めた。この山本三郎は後に岩下神父の妹・雅子(−)と結婚する。山本三郎の兄が、1921(大正10)年の皇太子(後の昭和天皇)欧州外遊にバチカン訪問をねじ込んだと言われる山本信次郎(1877−1942、山本 正の父)海軍少将であった。
山本信次郎は暁星中等部時代の1893(明治26)年に受洗している。信次郎は欧州外遊以前の1919(大正8)年から1937(昭和12)年まで東宮御学問所御用掛、宮内省御用掛として昭和天皇にフランス語を教えていた。恐らくは、山本信次郎が天皇側近として仕えた初めてのカトリック信徒だと思われる。
岩下神父は1940(昭和15)年12月3日に逝去(せいきょ)。その後を追いかけるかのように、1942(昭和17)年2月28日に山本信次郎も逝去。翌年に上智大学クルトゥルハイムで行われた「山本少将追悼の夕」で、岩下と山本を我がカトリック界の二大代表と称し、2人の死が国家的見地から一大不幸であると講演したのが田中耕太郎(1890−1974、―MRA)だった。
皇室とバチカンを繋ぐブリッジの役割を果たしていた山本信次郎の死は、痛恨の極みだった。山本の死が生んだ両者のブリッジ不在は、戦後になるまで修復されなかった。山本の死は「昭和天皇の痛恨事」に直結していくのだ。
〔資料〕三上参次の進講と昭和天皇―明治天皇の聖徳をめぐって By 宮内庁書陵部 高橋勝浩(PDF、全26頁)
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f15-2.pdf
■カトリックと国家神道の因縁
カンドウ神父と岩下神父に関わる重要な人物に登場してもらおう。金山政英(かなやま まさひで 1909−1997、―岸・安倍等と関係が深い国際勝共連合(1968年創設)の創設者である文 鮮明・統一教会)である。
金山は一高時代に友人の利光洋一(−、小田急電鉄創業者の子息)が「カトリック研究会」を主宰していた関係で、その講師として招かれていた岩下神父、カンドウ神父と出会う。一高の「カトリック研究会」は新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕が校長だった時代に岩下が発起したものだった。後に金山は岩下神父から洗礼を受ける〔※関連資料(1・2)〕。
金山の『誰も書かなかったバチカン―カトリック外交官の回想』(サンケイ出版 1980年刊行)には、「我が子に洗礼を授けてくれるカンドウ神父」とコメントされた写真も掲載されている。カンドウ神父のバチカン日本公使館顧問就任も金山の発案であった。著書のタイトルにあるように、金山は後にバチカン駐在参事官(在バチカン公使館一等書記官)として誰も知らなかった和平斡旋工作に関わることになる。
ここでローマ法王庁への使節派遣問題を、高木一雄(−)の『日本・ヴァチカン外交史(日本と教会 1)』(聖母の騎士社 1984年刊行)を参考にしながら振り返ってみよう。
ローマ法王庁へ常任使節を派遣しようとする意見は1921(大正10)年5月31日に始まる。
情報収集と米国を中心とする排日問題対策を理由に外務省主導で推進され、その中心にいたのが外務省欧米局二課嘱託(しょくたく)の松岡新一郎(=松岡曙村? 1885?−?)。そして内田康哉(うちだ こうさい 1865−1936)外相、廣田弘毅(ひろた こうき 1878−1948、のち外相任期:1933〜36・1937〜38、首相任期:1936〜37)欧米局長、伊集院彦吉(1864−1924、のち外相任期:1923〜24)駐イタリア大使らが実現に向けて尽力していた。
この時は実現に至らなかった背景の一つに仏教界や神道界の反対があった。とりわけ、浄土真宗東本願寺派、そして、戦国時代から長州と固い絆で結ばれ、「国家神道」を生み落とした浄土真宗西本願寺派が強硬に反対したのである〔※関連資料(1島地黙雷と山田顕義の「神道非宗教化戦略」・2南北朝正閏問題というビッグイベント・3村上重良 著『国家神道』書評)〕。
今となっては苦笑するしかないが、西本願寺門主だった大谷光瑞(おおたに こうずい 1876−1948、妻は貞明皇后の姉・九条籌子。大正天皇の従兄弟に当る)は仏教徒を使節員に任命して派遣することまで提案したらしい。光瑞の弟・大谷尊由(おおたに そんゆ 1886−1939)は外相に会って引責を勧め、内閣総辞職にまで反対運動を拡げると脅したようだ。
もし実現していれば、松岡洋右(まつおか ようすけ 1880−1946、当時外務省情報部第二課長)が特命全権公使に起用される予定だった。そうなれば、カトリック信徒ヨゼフ松岡洋右がもっと早く誕生していた可能性もある。松岡の人生のみならず、それからの日本史も大きく変わっていたかも知れない〔※関連資料(1「十字架上の日本」)〕。
実は「昭和天皇の痛恨事」の種はこの時に既に蒔かれていたのだ。では誰が種を蒔いたのか。
松岡の人生は僅か13歳で渡米したことから始まる。時は1893(明治26)年、松岡少年を乗せた貨物船が米国に旅立っていった。長い船旅を共にしたのは一時帰国中だった従兄の藤山基三郎(1872−?、岸 信介等と同じ山口県熊毛郡田布施町出身)。そして、驚くべきことに浄土真宗西本願寺派の島地黙雷(しまじ もくらい 1838−1911、山口県周南市和田出身)もここにいたという記述が、上智大学名誉教授の三輪公忠(みわ きみただ 1929−)の『松岡洋右―その人間と外交』(中央公論社 1971年刊行)に見出せる。
松岡洋右は1880(明治13)年3月4日に山口県熊毛郡大字室積北町(現在の光市室積)に松岡三十郎の四男として生まれる。松岡の生家は代々続いた由緒ある今津屋という廻船問屋だったが、洋右11歳の時に倒産する。この時、今津屋と親しかった島地黙雷が登場、倒産による苦境に同情しながら、洋右の母・ゆうに成績の良かった松岡洋右の渡米を勧めたのである。
この当時の島地は三宅雪嶺(みやけ せつれい 三宅雄二郎 1860−1945)らと共に、まだ健全だった明治期の開明的国粋主義を唱える政教社(1888〜1945)の結成に関わり、その機関誌である『日本人』の多額出資者となっていた〔※関連資料(1政教社の対清認識)〕。
米国での松岡は、キリスト教伝道師の河辺貞吉(かわべ ていきち 1864−1953、日本自由メソヂスト教会の指導者)や熱心なクリスチャンであったベヴァリッジ夫人 Isabelle Dunbar Beveridge(1843−1906)の影響を強く受けた。実はこの時、既にプロテスタントの洗礼を受けていたという説(三好 徹 著『松岡洋右―夕陽と怒濤』学陽書房 1999年刊行)もある。
しかし、松岡の「特別な性格」の中に宗教や信仰を見出すことは難しい。むしろ“「国家神道」の生みの親”である島地黙雷の過激にして実践的な継承者と呼ぶに相応しい。三輪は島地黙雷と共にした船旅の意義に注目しながら、「黙雷の姿勢はそのまま松岡のものであり、松岡のものとして一生を貫いた」と書いている。
「昭和天皇の痛恨事」の種を蒔いたのも、西本願寺派の島地黙雷であり、松岡洋右だった。しかも、松岡とカトリックの因縁はまだまだ続く。
1940(昭和15)年11月25日、米国のカトリック団体としては日本事情に精通していたメリノール宣教会(1912年創設)本部のウォルシュ James Edward Walsh(1891−1981)司教とドラウト James M. Drought(1896−1921)神父が来日する。この日から民間主導の日米戦争回避工作が始まる。日本側からは陸軍省軍事課長だった岩畔豪雄(いわくろ ひでお 1897−1970)が合流し、4月13日には「日米諒解案(日米了解案)」が纏(まと)まる。
この背後には日露戦争(1904〜1905)〔※関連資料(1・2・3・4・5・6)〕で日本の戦費の約四割を調達し、日本勝利の陰の立役者となったジェイコブ・シフ Jacob Henry Schiff(1847−1920)〔※関連資料(1)〕で知られるユダヤ系投資銀行のクーン・ローブ商会、アイルランド系カトリック信徒にして全米カトリック教会財務委員であった当時のフランク・ウォーカー Frank Comerford Walker(1886−1959)郵政長官などがいた。米国カトリック界が主導した日米戦争回避工作だった。
日本の狙いはあくまでも米国との衝突問題。米国側の狙いは日本を日独伊三国同盟(1940年)から離脱させること。しかし、三国同盟と日ソ中立条約(1941年)に拘(こだわ)る松岡はこれを単独でぶっ潰す。松岡なりの思惑もあったのだが、この諒解案を叩き台として交渉を継続するという柔軟な選択が出来なかった〔※関連資料(1三国同盟と日米交渉・2罠に嵌められた日本―日米交渉の謀略)〕。
昭和天皇は三国同盟には絶対反対の態度を貫き通した。昭和天皇の危惧の念を閣議で知らされた時、松岡は声を上げて泣いたと言う。松岡は生涯何度も声を出して泣いた。この感情の起伏の激しさこそが松岡の特徴である。
『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇 独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』 文藝春秋 1995年刊行)にも、日米諒解案は以下のように記されている。この中で日米交渉が纏まり得たはずの第一回の機会、つまりは日本にとっても最も好都合だった機会こそが日米諒解案に該当する。
<
日米交渉は三国同盟成立の頃から非公式に話が始まつたのでカトリック増と岩畔大佐等の人物のことは聞いてゐるが、それ以上の事は知つてゐない、最初は非常に好調に進んだが大切な時に松岡が反対したので駄目になつた。松岡は日米交渉を挫折させた上に更にソ聯(ソ連)との中立条約で独乙(ドイツ)をも憤慨させた。日米交渉が纏り得る機会は前后三回あつた。第一回は16年4月、野村大使の案に基いて米国から申出てきたときである、先方の条件は日本に採り大変子好都合のもので陸軍も海軍も近衞も賛成であつたが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを左折せしめた。第二回は近衞ルーズベルト会談で之で何んとか話合がつくかと思つたが、之は先方から断つて来た、第三回は第一回と比べると日本にとり余程不利な案だが、この案を日本から提出したのに対し例の11月26日の「ハル」の最后通牒が来たので遂に交渉の望を絶つて終つた。
>
実は、この日米戦争回避工作には、澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884−1976)〔※関連資料(1澤田節蔵と松岡洋右・2米国資本・満洲北支誘導工作)〕という名のクエーカー教徒の元外交官が黒子として密接に関与していた。澤田の妻が敬虔なカトリック信徒であった為、国内外のカトリック人脈に入り込んでいたのである。
(7頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11609576471.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(7)≫
(6頁からの続き)
〔資料〕隠されたクスノキと楠木正成 1〜8 By 園田義明 - 萬晩報 2008年5月15日〜6月8日
http://www.yorozubp.com/0805/080515.htm
※「現在の松下電器産業は山縣有朋と平田家の血脈によって支えられてきたと言っても過言ではない。しかも、この平田東助と三井の繋がりこそが神社合祀強行に直結していたのである」
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/2005181.htm
http://www.yorozubp.com/0805/080520.htm
※島地黙雷と山田顕義の「神道非宗教化戦略」
http://www.yorozubp.com/0805/080524.htm
※南北朝正閏問題というビッグイベント
http://www.yorozubp.com/0805/0805272.htm
http://www.yorozubp.com/0806/080603.htm
http://www.yorozubp.com/0806/080604.htm
http://www.yorozubp.com/0806/080608.htm
〔資料〕カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1〜2 - 不 可 視 の 学 院 2007年10月15日 ※MRA本部はスイス・コー(ジュネーヴから車で1時間半)。
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/565.html
「岸は韓国のカルト宗教・統一教会、アジア人民反共連盟(APACL)などの右翼組織やCIAのフロント組織をバックアップし、日本郷友連盟や祖国防衛同士会などの極右団体の顧問も務めた。MRAもそうした右翼組織の一つだった。岸が、右翼の大物・笹川良一やフィクサー・児玉誉士夫と共に、統一教会の別組織である国際勝共連合の生みの親であったことはよく知られている。統一教会は、軍事政権下の韓国の韓国中央情報局(KCIA)が直接組織した団体だったが、その教祖の文 鮮明は、実はMRAを参考にして統一教会を作ったと言われる。統一教会・勝共連合は、MRAの「鬼っ子」だったのだ。統一教会が軍事政権や自民党右派などの排他的右翼政治勢力と組んだのに対し、MRAは民族融和を標榜し、財界と結び付いた点に大きな違いがあった。年に1回、コーで開かれているMRAの日米欧経済人円卓会議は、経団連の土光敏夫や奥田 碩が代表を務めている。経団連はMRAの別働隊であるとさえする見方もある」
〔資料〕戦後の日本とMRAの軌跡 - 財団法人MRAハウス ※澁澤敬三、三井高維、吉田 茂、鳩山一郎、岸 信介、佐藤榮作、一萬田尚登、石川一郎、石坂泰三、池田勇人、中曾根康弘、金 鐘泌(KCIA)、他多数
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/IDX1.HTM
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※清和会と松下政経塾とGATT(現WTO)、或いはMRAと統一教会・KCIA、等。「金貸し支配と労働運動は繋がっていた?」「資本主義と共産主義はユダヤの両建て主義」他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11211313712.html
〔資料〕「不正選挙」投票用紙読取機の前科付き会社「ムサシ」がアメリカ企業でした。|ひょっとこ談義 2012年12月26日 ※ロックフェラー傘下「K.K. daVinci Holdings」、旧郵政互助会、「Fortress Investment Group」、「Goldman Sachs」、ロスチャイルド、原子力政策研究会
http://ameblo.jp/duviduva/entry-11435284781.html
〔資料〕<不正選挙疑惑を調べてみた>選挙開票・企業株式会社ムサシにまつわる事実 - みんな楽しくHappy♡がいい♪ 2013年1月3日
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2682.html
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-b80e.html
〔資料〕不正選挙疑惑の「株式会社ムサシ」と安倍内閣を結ぶ重要な接点 - velvetmorning blog 2013年1月8日
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/01/08/6685204
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/01/12/6689214
http://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/1134.html
〔資料〕参院選、不正選挙に要注意 1〜4 - 日本を守るのに右も左もない 2013年7月8日〜14日 ※ムサシのバックはロックフェラー。郵政選挙の自民「BBDO」/民主「Fleishman-Hillard」の親会社「Omnicom」もロックフェラー。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002576.html
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002577.html
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002578.html
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002580.html
〔資料〕参議院選挙・・・選挙で議員が選ばれるので、民主主義国家であるという虚偽 By オルタナティブ通信 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年7月8日
http://satehate.exblog.jp/20482119/
〔資料〕明治維新ってホントはどうなのよ - Leroy Brown's Salon or Saloon 2013年5月10日 ※山口県柳井町の田布施出身者について、日本共産党・宮本顕治(―志位和夫)もその1人。http://ameblo.jp/ruroibrown/entry-11486660110.html
http://blog.livedoor.jp/main0002/archives/25134545.html
〔資料〕山口県田布施町(たぶせちょう)の怪〜日本国家の真相〜(上・下) - 心に青雲 2007年9月10日
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/536.html
〔資料〕何故にここまで日本を動かした要人が同じ出自なのか?「山口県田布施町の怪(上・下)」 - Martin Island 〜空と森と水と〜 2013年6月23・24日
http://martin310.exblog.jp/17987186
http://martin310.exblog.jp/17990791
〔資料〕熊毛郡・田布施町 - 皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集 2008年6月29日
http://jiyodan.exblog.jp/8498196
〔資料〕謎に満ちた、山口県、鹿児島県の熊毛郡と田布施村 - メキシコ原色模様 2010年10月11日
http://blogs.yahoo.co.jp/alameda344/52921038.html
〔資料〕山口県、鹿児島県、両県にある田布施町の不思議 - THINKING LIVE 2013年3月26日
http://blog.goo.ne.jp/thinklive/e/bcb6b3e28d6e97172f4d1b1b0a98891a
〔資料〕零感と明治時代から引き継がれる「田布施システムの謎」 - 零感雑記帳 2013年4月15日
http://yaplog.jp/ocaltpon/archive/205
〔資料〕この国の落ち着き先は東洋の香港〜オプスデイの下請けは統一教会と朝鮮人脈〜 - LEGACY OF ASHES 2013年5月9日 ※岸(キシ)ではなく岸(ガン)、他。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/534.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11509616866.html
〔資料〕日本を破壊しているのは誰か By オルタナティブ通信 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年7月11日 ※超重要
http://satehate.exblog.jp/20490361/
〔資料〕カルトの世紀 道徳再武装MRAと松下政経塾 By banchou - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年7月13日 ※ヘーゲルの弁証法「正・反・合」、清和会と松下政経塾とGATT(WTO)日本ラウンド及びMRA
http://satehate.exblog.jp/20495980/
〔資料〕カルトの世紀 - LEGACY OF ASHES 2013年7月15日 ※安倍の道徳教育再生の正体。「日本を取り戻す」「ジャパン・イズ・バック」=日本再占領、再洗脳。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/560.
〔資料〕野田首相を輩出した松下政経塾に「池田大作との接点」 – ガジェット通信 2011年11月13日
http://getnews.jp/archives/151567
〔資料〕藤原 肇×本澤二郎対談:松下政経塾政権のスタートとその真相 1〜2(『財界にっぽん』2011年11・12月号) - 宇宙巡礼 ※重要。CSIS(―日経・CSISバーチャル・シンクタンク)についても触れている。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai111102.html
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai111203.html
〔資料〕米CIAが自民党に秘密資金を提供していたことを認めた - Kaleidoscope 2013年4月3日 ※「『この災害が、日本が今までの保護政策を放棄し、TPPという自由貿易の真似事をする格好の機会である』と書かれています」
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-1987.html
〔資料〕≪「対日年次改革要望書」とTPP:日本語翻訳 PDFファイル(1996年〜2011年)≫ ※東北大震災、福島原発事故、TPP、余りにも出来過ぎた一連の流れ
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11066706411.html
■昭和天皇が語る「発意」とは
1929(昭和4)年、当時28歳だった昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)は、田中義一(1864−1929、立憲政友会、総理大臣任期:1927〜1929)首相を叱責し、総辞職に追い込んだことがある。田中首相が張 作霖爆殺事件(1928年)の首謀者を、厳罰にすると約束しながら実行しなかったからだ。
後年、昭和天皇はこの田中上奏事件を若気の至りと反省する。以後、受動的君主として政府や軍部の決定に反対であっても不可を言わぬ「沈黙する天皇」となっていく〔※1・2「田中上奏文」の原文来歴・3「田中上奏文」をめぐる二三の問題・4「田中上奏文」各種フルテキスト・5イスクラ社版1946年日本語テキスト・6「田中上奏文」研究)〕。これには一歳年下の秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902−1953)の存在も大きく影響していた。
秩父宮は陸軍士官学校、陸軍大学校共にトップクラスで卒業し、陸軍に入ると将校達の人気を集めた。昭和天皇とその側近達は、陸軍主導による「秩父宮擁立」の事態を恐れていたのである。
この2つの要因が重なって、天皇には軍の暴走を抑えることが出来なくなっていた。一部に太平洋戦争下の昭和天皇が能動的君主としての側面を強めたとの見方もあるが、これは極めて疑わしい。受動的にして沈黙する天皇は、戦争責任が無いという根拠にもなった。
『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇 独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』 文藝春秋 1995年刊行)は「東京裁判の開廷を前にして、アメリカ側に、天皇に戦争責任が無いことを『論証』する為に作成された政治的な『弁明の書』」(『昭和天皇 二つの「独白録」』東野 真 著、日本放送出版協会 1998年刊行)との見方もあるが、受動的にして沈黙する天皇の「証明の書」として素直に読むことも出来る。それでもやはり、受動的にして沈黙する天皇を強調する為に、能動的と見なされるような表現が意図的に削られた可能性は否定出来ない。
ところが、この独白録の中に明らかに能動性を示す一節がある。
極めて重大な意味合いを持っているにも関わらず、これまで大きく取り上げられたことが無い。「之は私の発意である」から始まるこの項を以下に引いておく。
<
開戦后法皇庁に初めて使節を派遣した、之は私の発意である。私は嘗(かつ)て「ローマ」訪問以来、法皇庁とは、どうしても、連絡をとらねばならぬと思つてゐた、日本移民の問題に付ても必要があるからである。第一次近衞内閣の時、廣田(外相)にこの事を話したら、廣田も賛成したが、実現には至らなかつた。開戦后、私は「ローマ」法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考へて、東條に公使派遣方を要望した次第である。後で大使でもよかつたと云ふので、大使を送つて置けば良かつたと思ふ。唯戦争中なので、内地から有能な者を選んで送る事が出来なかつたことゝ、日独同盟の関係上、「ヒトラー」と疎遠な関係にある法皇庁に対し、充分なる活動の出来なかつたことは残念な事であつた。
>
これを裏付ける記述は『日本・ヴァチカン外交史(日本と教会 1)』(高木一雄 著、聖母の騎士社 1984年刊行)にもある。時は太平洋戦争が始まる約2カ月前の1941(昭和16)年10月13日、この日の午前10時30分から11時45分までの間、昭和天皇は日米問題を中心に木戸幸一(1889−1977)内大臣と懇談し、戦争に巻き込まれることを予測して、次のように語っている。
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・・・・・・又戦争終結ノ場合ノ手段ヲ初メヨリ充分考究シ置クノ要アルベク、ソレニハ「ローマ」法皇庁トノ使節ノ交換等親善関係ニツキ方策ヲ樹ツルノ要アルベシ
>
続いて同年11月2日の午後5時。昭和天皇は東條英機(1884−1948、総理大臣任期:1941年10月18日〜1944年7月22日)首相が前日の会議の結果を上奏した際に、「時局収拾ニ『ローマ』法皇ヲ考ヘテ見テハ如何カト思フ」と提案している。
そして、開戦後の1942(昭和17)年3月14日。天皇は参内(さんだい)した東條首相に対して、ローマ法王庁使節派遣につき、その資格や宗教の関係について尋ねている。
こうして、その10日後の3月24日の閣議で初代ローマ法王庁特命全権大使に原田 健(−)を任命し、上奏許可を経て、3月26日に発令。ようやくローマ法王庁への使節派遣が実現したのである。金山政英(かなやま まさひで 1909−1997、―岸・安倍等と関係が深い国際勝共連合(1968年創設)の創設者である文 鮮明・統一教会)もバチカン駐在参事官(在バチカン公使館一等書記官)として使節に加わることになる。
1941(昭和16)年10月13日の木戸との懇談の件は、金山の『誰も書かなかったバチカン―カトリック外交官の回想』(サンケイ出版 1980年刊行)にも描かれている。
金山の上司だった原田から聞いた昭和天皇の指示内容は、「今度の戦争は避けられそうにないが、いよいよ戦争になった時は、どのようにして和平工作を進めるのか、今から考えておくように・・・・・・。その為には、バチカンと国交を結んでおくことは必要なことなので、速やかにそのように手配するように」とするものであった。
更に金山の推測として、昭和天皇がバチカンに留意したのは山本信次郎(1877−1942、山本 正の父)の影響があったのではないかとしながら、昭和天皇にバチカンの世界的な影響力について話をしたのも山本ではないかと指摘する。山本が脳動脈硬化症の為、約半年の病床の末没したのが1942(昭和17)年2月28日。享年65歳だった。生前の山本と昭和天皇の間で何らかの遣り取りがあったとしても不思議ではない。
何れにせよ、受動的にして沈黙したはずの昭和天皇が、自らの発意をもってローマ法王庁への使節派遣を実現した。しかも、その人選にまでこだわっていた。
尚、昭和天皇が有能な者を送ることが出来なかったことを残念と零(こぼ)したのは、原爆投下の2カ月前にバチカンで繰り広げられた和平斡旋工作を指していると思われる。この工作は米中央情報局(CIA)の前身組織である戦略事務局(OSS)主導で行われたにも関わらず、これに関与した原田と金山の戦略ミスから失敗に終わったのだ〔※関連資料(1)及び『ロマノフ家の黄金』より【系図35・36・38・39】を参照〕。
注目すべきは、昭和天皇は開戦の少なくとも2カ月前に、戦争終結の為の出口戦略をバチカンに見出していたことである。ここに現実主義者(リアリスト)としての昭和天皇像が浮かび上がる。
■長崎で結ばれた皇室とバチカン
1945(昭和20)年8月、広島と長崎に投下された原爆が大量無差別殺人兵器であることを知った金山政英はソーヴール・アントワーヌ・カンドウ Sauveur Antoine Candau(1897−1955)神父と共に法王庁に抗議に赴いた。金山は日頃穏やかなカンドウ神父が激しい怒りにとらわれ、情けないことに日本人である金山より、カンドウ神父の発する言葉のほうが激しかったと回想している。(中略)
原爆投下はバチカンにとっても大きな痛手となった。カトリックの聖地とも言える長崎浦上の上空で原爆が炸裂。2人の神父と信徒20数人が浦上教会(浦上天主堂)と運命を共にした。浦上地区に住んでいた1万4000人の信徒のうち、8500人が死亡したと言われる事実を無視してはならない。
日本とバチカンは、長崎原爆をもって共に犠牲者の立場に置かれた。この時、米国への身震いするほどの嫌悪が皇室とバチカンに共有されたのである。戦後、共産主義に対してはビジネス上の損得勘定から右に左に揺れる米国を尻目に、これを共通の敵として皇室とバチカンが結び付くことは当然と言えば当然だった。神無き共産主義化を何より恐れていたのは昭和天皇である〔※一部関連資料(1大淫婦バビロン・2・3一考察として・4・5・6「アメリカの本当の所有者は、現在もローマカトリック教会」・7・8ローマカトリックとイエズス会・9・10・11・12・13近衞上奏文と現神人・14聖母の被昇天)及び≪苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 より抜粋(1・2・3・5・6)≫本文及び添付資料を参照〕。
原爆投下こそが、戦勝国である米国の主流を成すプロテスタントを選ばず、その対極にあるはずのカトリック一家を皇室のパートナーとして招き入れたことになる。ヨゼフ・フロジャク Joseph Flaujac(1886−1959)神父がカトリック信仰の種を蒔いた正田家から、正田美智子(1934−)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【系図4-5】〕が選ばれる。選んだのは、第1章で述べたように、昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)と吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕と小泉信三(1888−1966)の3人だった。(中略)
〔資料〕Large World Map|World Political Map ※英国中心(Standard)の世界地図
http://www.mapsofworld.com/world-political-map-large.html
(8頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(8)≫
(7頁からの続き)
〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第4章 戦後憲法とクエーカー人脈 より抜粋、要約 P.132−P.188〕
■新渡戸稲造門下生の「団結」
戦後、首相となった吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕の門下生達を続々と主要ポストに起用し教養主義を日本に根付かせようとした。
日本におけるクエーカーの原点に立つ新渡戸の人生の転機には、必ず吉田の岳父である牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)の姿が確認出来る。新渡戸を名門一高の校長に推したのも牧野であり、国際連盟の初代事務次長就任にもクリスチャンだった珍田捨巳(ちんだ すてみ 1857−1929)、後藤新平(1857−1929)と共に牧野が深く関わっている。
2006(平成18)年12月、改正教育基本法〔※関連資料(1)〕が成立し、59年ぶりに教育の憲法が生まれ変わった。
成立に到る過程で、国会や新聞でもしばしな新渡戸とその著書『武士道』(櫻井鴎村 翻訳・丁未出版社 1908年刊行、他複数あり)が登場していたが、問題なのは、教育基本法の改正を先頭に立って目指そうとしている人が、新渡戸の名前を語ってしまう無神経さにある。新渡戸の名前は禁句だった。何故なら、新渡戸こそがそれまでの教育基本法の育ての親とも言える存在だったからだ。
新渡戸ゆかりの人達はみんな怒っていた。とりわけ新渡戸の母校である札幌農学校(開拓使仮学校として1872年創立。現・北海道大学)を起源にする北海道大学(1876年創立・1918年設置)の北大総合博物館、新渡戸が初代学長を務めた東京女子大学(1918年創立)、それに新渡戸の愛弟子だった河井道子(河井 道 1877−1953)が設立した恵泉女学園(1929年創立。現・恵泉女学園大学)では、それぞれ揃って新渡戸の言葉を引きながら教職員達が一斉に改正反対の声を上げていた。
■教育基本法の「育ての親」とは
それでは、新渡戸稲造が旧教育基本法の育ての親だったという説を紹介しておこう。その論文は『新渡戸稲造全集(全23巻別冊2巻))』(教文館 1969〜2001年刊行)にもあるが、『現代に生きる新渡戸稲造』(佐藤全弘 著・教文館 1988年刊行)の方が手頃だろう。
この中に「教育基本法とその日本的背景」が収められている。
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教育基本法とその日本的背景
日高第四郎
太平洋戦争に敗退し降服した結果、日本は事実上明治憲法を廃止し、新しい憲法を制定せざるを得なかった。これに伴って敗戦前国民教育の淵源として重んぜられた教育勅語は歴史的文献として棚上げせられ、それに代って教育基本法が1947年3月に制定され、新しい教育の拠所とされた。
この基本法が出来たのは聯合軍の日本占領後僅か一年半の頃であった。その上この法律は、司令部の強力な指導の下に制定されたと信ぜられた新憲法を、その基本前提としていたという事情もあったので、かなり多くの同胞は、これもまた占領軍の命令もしくは強制に基いて作成されたのではないかという疑惑を持っていたようである。
現に十数年を経た後に、荒木文部大臣はその就任入閣後改めてこの法律を読み返したところ、その前文にも本文にも普遍人類的な理念及び観点は強調され明示されているが、日本人としての自覚とか、民族的自主性とかいうような欠くべからざるも一つの大切な観点が欠如しており、恰(あたか)も無国籍のコスモポリタンの養成を志すが如き印象を与えるというような慨歎(がいたん)を表明されたことがある。
実はこの法律の制定当時私は臨時に(旧制)第二局等学絞の教授から文部省の学校教育局長に転出していた。そして文教刷新に関する諸法律乃至諸制度の要綱案を諭議し作製するという重大な責任を担当された教育刷新委員会(後に審議会と改称された)の会議に、私も事務的世話役の一員として始終出入して、その審議の模様を大体承知していた。
私は占領下のこととて、米軍当局から特殊な干渉または強圧がありはしないかと憂慮して極力注意を怠らなかったが、幸い委員会の自主性は重んぜられ、また秘密の偵察らしいものも気付かれなかった。
そしてむしろ公然と司令当局の代表者3名、刷新委員会代表者3名、及び文部省当局代表者3名とからなる連絡会(“Steering Committee”と呼んでいた)をしばしば開いて、情報の交換と意志の疎通が図られた。私もそれに列席していたが、「この基本法の要綱に関する限り」格別行き違いも干渉がましい問題もなくて済んだ。
かくして要綱が決定され内閣に正式に答申されると、文部省はそれに基いて法(律)案を作製し、先ずそれを枢密院会議に諮謁し、次いで最後の貴衆両院の議会(第92帝国議会)に上程されたのである。その際私共も政府委員として陪席し条文等に関する質疑に応答しなければならぬ立場に立たされたのである。
その節私は「個人としては」先に述べた荒木文相の指摘されたような欠陥をはっきり自覚して、前文のどこか適当な個所に日本とか祖国とかいうが如き「国を思う心構え」表現して欲しいと切望していたのであるが、占領後間もない時期であったから、下手をすれば、戦捷国(せんしょうこく)に対する反抗もしくは復讎の意図を以て国家意識を強調するのではないかという疑惑や誤解を招く恐れも無いとは言えなかったので「政府としては」やむを得ず慎重を期して国民的自覚という意味を伏せておかざるを得なかったと解せられる。
それ故に議会の質疑に対しては、次の様な心覚えを用意していた。
基本法の前文にある「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」を目指す教育を普及徹底しなければならないという条項の奥底には強調すれば「世界的な日本文化の創造」とも読める含蓄があること。
また第一条にある、教育は人格の完成を目指し「平和な国家及び社会の形成者」としてというのは、決して単純な個人主義一点張りの人生観からではなく、具体的に言えは平和な国家及び社会という「共同体の構成員たる資格」の必要を指すのであること、更に第一条の終りに「国民の育成」を期してとあるが、それは過去の独善的な国家主義を捨てて、真理と正義を愛し、個人の価値を尊(たっと)び、勤労と責任を重んずる、心身共に健康な、国民であるばかりでなく、しかも「自主的精神に充ちた」国民の育成を期するということ、短く云えば「歴とした日本国民」という含蓄が備えてあるということであった。
たとえあの非常緊迫の事態には右の様な解釈説明が通用したとしても、おいおい平静を恢復した際、教育基本法をすらすらと読むならば、戦前並びに戦時において強調された極端な国家主義乃至軍国主義に対する激しい反感乃至反動があったが故に、正当な意味の日本人的自覚までも無視され消滅してしまったかの様な響きを残したことは、まことに残念であった。
現にあの当時の貴族院議員憂国の志士とも云うべき佐々木惣一博士及び羽田 享博士も質疑応答において政府の答弁をきいてその苦衷を十々察知しながらも、この重要法案の内に、祖国を思う心構えが明確に表明されていないことに深い遺憾の意を表せられたのである。
私は公人として公の場で応答する以外に、私人として折択先輩や友人方からも同様の不満を打明けられたことがある。彼らも大概は、この法律を恰(あたか)も戦後の異邦人からの贈り物の如く早合点して「日本人の作とは考えてくれぬ」と言ったのである。
それに対して私は2人のの尊敬する日本人の名を上げてとくと考え直してみてくれと言った。一人は新渡戸稲造先生、他は安倍能成先生であった。
安倍先生は基本法の直ぐ裏に立ってそれを支えた教育哲学的な太い柱であった。先生は終戦の翌年の1月文部大臣となり、その3月には米国教育使節団に対する挨拶(安倍能成 著『戦中戦後』219頁以下)の内に、日本の過去の教育の欠陥と過誤を正噴に徹底的に反省批判すると共に、今後のあるべき教育方針について、自主的自律的な所信をまことに率直に開陳すると共に、勝ち誇ったアメリカ人が自国の尺度を以て直ちに普遍妥当的な規範として日本に適用せざるよう、大胆に訴えられた。
この挨拶には、丁度一年後に判定された教育基本法に含まれた「重要概念」は殆ど全部羅列されていたのである。のみならず、そこには民族的個性の自覚も必要条件として隠さず述べられていた。
そのうえ先生は、基本法の原案要綱の作製者たる「教育刷新委員会」の委員長をも務められた人であった。新渡戸稲造先生は、教育基本法の精神の「歴史的背景」を自ずから築き上げられた、その育ての親であった、と言えよう。と言うのは、この法律を恰(あたか)も予測せるが如く、「透徹せる自律的人格主義に基く近代民主主義」を、思想的にも実践的にも情緒的にも生活に具現された新日本の開拓者たる趣きを持っておられたからである。
新渡戸先生ならあの基本法を書かれるのに最も相応しい方ではないだろうかと言うと、或る友人はただニヤリと笑った。あの法律の成立よりほぼ14、5年前に既に他界された方を今更証人のように引合に出すとは窮余の一策ではないかと言わぬばかりに。
ところが先生は、時代に先んじて抜きん出た価値判断を身に着けた学者、思想家、教育家であると共に温情豊かな宗教家でもあったらしい。その人が信仰を振り翳(かざ)すことなしに校長として、大学の教授として、また学長として永年多くの優れた素質を持つ後輩に接したのである。その間にただならぬ師弟関係または友誼(ゆうぎ)関係の生まれたことは推して知るべきであろう。
実際先生の人格的思想的信仰的影響を身に着けた次代の人々が、敗戦後の危機に際会して先生を忘れていたであろうか。多くの人々は先生に代わるような心持を以って祖国の復興の為にそれぞれの立場から身命を賭して立ち上がったであろう。
例えば戦後の文教関係の有力者について言えば、幣原内閣の文相前田多門氏は先生が信頼された愛弟子ではなかったか。前田氏の後任安倍能成氏は、前田氏が、やはり同門の田島道治氏との相談の上、頼まれたということである。その安倍氏こそ前述の如き重要任務を果されたのである。
安倍文相の後任田中耕太郎博士もまた当時の文部次官山崎匡輔博士も、その(旧制)一高時代に新渡戸校長の薫陶をつけられた方々である。のみならず基本法の生みの親たる教育刷新委員会の委員38名中、新渡戸先生と浅からぬ関係であったと推定出来る方々は、8人を下らないようである。安倍能成(委員長)、南原 繁(副委員長)、関口 泰、天野貞祐、森戸辰男、河井 道、上代たの、田島道治の諸氏である。ことによったら落合太郎、渡辺銕蔵、小宮豊隆の諸氏も之に準ずる方かも知れない。
こう見てくると基本法の構想に関して先生は直接にこそ語られなかったにしても、この先覚者は後輩または弟子を通じて思想的に影響を及ぼされたと見られないであろうか。
明治中期以降の日本教育の方針は忠君愛国を基調としていたが、国際紛争に遭遇する毎に政治情勢を反映して、極端な国家主義が強調され、その反面国際的視野は無視され普遍人類的関心は枯渇しがちであった。かかる雰囲気に於いても新渡戸先生は、つとに文化や教養や信仰の歴史的発発展の過程に、普遍性と特殊性、国際性と国民性、人類性と民族性、社会性と個性等一見相反するが如き両要素間に相互補足の微妙な内面的関係あることを洞察され、両面の和解融合を意図され、それを実践生活にうつして行かれた、卓越した民衆の友であられたと思う。
先生が(旧制)第一高等学校の校長時代に学習院長の乃木大将が、先生を訪ねられたと言う。日露戦争の「勇将」が、「平和の使徒」たる使命を荷える先生に何を求めて行かれたのであろうか、その時将軍は心の底に秘められた尽きぬ悲しみを歌に托して示された。語らじと思ふ心もさやかなる月にはえこそ隠さざりけれと。
博士夫妻は、この勇将のこの歌心に涙を誘われたと云う。この一見相反する立場の間にも、「純真な忠誠」と「内なる光」との融合媒介によって相結ばれる機縁があったのではあるまいか。
私共も(旧制)第二局等学校の生徒時代に、前校長たる先生の『ファウスト物語』を読んだり、先生の愛読書カーライルのサーター・リザァタスを教室で学んだことがある。また『武士道』は桜井鴎村氏の訳で読んで感銘を受けた。
そして先生の信奉されていたキリスト教からは、愛が滲み出ているように感じた。それは先生の親友内村鑑三先生の所説には妥協を許さぬ峻厳な調子が宿っていたのとは大いに異っていたのではないか。先生の信仰は内心の自由と寛容とを本質的に支持されたのではないか。
それ故に武士道を論ずる際にも、先ずそれをキリスト教的ヒューマニズムの懐に温く抱き締めて、その特異な発生基盤と環境との連関を通して、その道義的体系を理解し更に普遍的な理念の光に照してその意味内容を検討して全体としての価値判断を広く他国にも紹介したのだと言えるであろう。ところがそれは日本人自身にも非常に大切な反省と自覚の糧(かて)となったと思われる。
私は、先頃、矢内原忠雄氏の訳による『武士道』を読み直して感銘を再び新にした。第一に若い先生の日本の歴史的伝統に対する並々ならぬ深い関心と認識に驚いた。第二に古今のヨーロッパ諸民族の文化に対する博識と洞察に感心した。第三は、上述の両側面を微妙に整理して、内面的に結合させるクエーカーの信仰の奥床かしさに打たれた。
「内なる光」を導きとする沈黙の祈りにおいて、神を仰ぎ、神の栄光の下に凡ての隣人と結ばれるという心境、私はそこにアッシシの聖フランチェスコの小さき花にある美しい宗教詩を思い起すと共に、西行の歌が連想された。わづかなる庭の小草の白露を求めて宿る秋の夜の月と云うのである。
実は私は画接には殆んど先生を存じ上げていない。直(じか)にお目に掛かったのはたった一度に過ぎない。たしか昭和6、7年頃であった、(旧制)広島高等学校からのお願いで先生が講演にお見えになったことがある。その時私はそこの教授として応対に出て、久しく尊敬していた大先生にお目に掛かる幸福を味わった。
その折或る旅館で先生と夕食を共にいただいた。先生は運ばれて来た料理の色々の皿から先ず一つの大皿に、召しあがる丈の分量を自らお集めになった後、残された分を給仕の女性に、これは箸はつけてないと注意されて下げさせられた。私はその慎ましい嗜み――僅かのものにも、それの生産過程に払はれた人々の労苦を感謝するが如き心ばえの伺がわれるような措置――の奥ゆかしさに打たれた。そして先生は人々に隔てを置かぬ平民的な方ではあるが、「全くただ人ではない」と敬意を新にしたのである。
先生が晩年には国際連盟の事務次長として、信望を荷われたことは、「国際人としての資格を豊かに具えた類例少ない日本人の代表」と言えるであろう。
もしも、教育基本法が教育上の「普遍的要素と個性的要素とをともに重くみる」新渡戸先生のような方々によって、今後の教育の実践に適用されたら、日本の行く手に輝きを放つに違いないと思うが、どうであろうか。(学習院次長兼同短大学長)
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これを書いた日高第四郎(ひだか だいしろう 1896−1977)は、文部省学校教育局長として戦後の学校制度改革を推進し、国際基督教大学大学院部長、同教育研究所所長、学習院女子短大学長などを歴任した人物である。
日高の文章を借りながら「教育基本法とその日本的背景」を簡単に纏(まと)めたい。
日高によれば、教育基本法には法案成立前後から既に「祖国を思う心構えが明確にされていない」との批判や不満があった。当時から「異邦人からの贈り物の如く早合点(はやがてん)」する者さえいた。
これに対して日高は、2人の尊敬する日本人の名前を挙げて考え直すように訴える。新渡戸稲造と安倍能成(あべ よししげ)である。とりわけ新渡戸が説いた「透徹せる自律的人格主義に基く近代民主主義」が教育基本法に受け継がれ、新渡戸こそが育ての親であるとする。
新渡戸の人格的思想的影響を受けた門下生達が、敗戦後の危機に直面して新渡戸を忘れていたはずはないとしながら、文教関係の有力者の名前を次々と挙げていく。
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)内閣(1945〜1946)の文相だった前田多門(まえだ たもん 1884−1962)は新渡戸の愛弟子ではないか。後任の安倍能成(あべ よししげ 1883−1966)文相就任も、前田と新渡戸親衛隊の田島道治(たじま みちじ 1885−1968、宮内庁長官、ソニー取締役会長などを歴任)とが相談の上で頼んだのであり、その安倍が重要任務を果たした。安倍の後任の田中耕太郎(1890−1974、―MRA)も当時文部次官の山崎匡輔(やまざき きょうすけ 1888−1963)も、一高時代に新渡戸校長の薫陶(くんとう)を深く受けた人物ではないか。
基本法を生み落とした教育刷新委員会38名中、新渡戸と浅からぬ関係にあったと推定出来る者は8人を下らない。8人とは委員長の安倍能成、副委員長の南原 繁(なんばら しげる 1889−1974)、それに関口 泰(せきぐち たい 1889−1956)、天野貞祐(あまの ていゆう 1884−1980)、森戸辰男(1888−1984)、河井道子、上代たの(1886−1982)、田島道治の諸氏で、事によれば落合太郎(1886−1969)、渡辺銕蔵(わたなべ てつぞう 1885−1980)、小宮豊隆(こみや とよたか 1884−1966)もこれに準ずるかも知れないとしている。
そして、新渡戸は後輩や弟子を通じて思想的に影響を及ぼしたと見られないであろうかと投げ掛けながら、「教育基本法が教育上の『普遍的要素と個性的要素とを共に重くみる』新渡戸先生のような方々によって、今後の教育の実践に適用されたら、日本の行く手に輝きを放つに違いないと思うが、どうであろうか」と結んでいる。
それにしても、日高は教育刷新委員会(1946〜1949)にいた澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884−1976)〔※関連資料(1澤田節蔵と松岡洋右・2米国資本・満洲北支誘導工作)〕というクエーカー教徒の元外交官の名前を取り上げなかったのは、如何なものであろうか。(中略)
■河合栄治郎と教養主義の終焉
編者に前田多門(まえだ たもん 1884−1962)と高木八尺(たかぎ やさか 1889−1984、―エドウィン・ライシャワー)の2名が、発行者には故新渡戸博士記念事業実行委員、代表者として田島道治(たじま みちじ 1885−1968、宮内庁長官、ソニー取締役会長などを歴任)とその自宅住所が記されている一冊の本がある。この『新渡戸博士追憶集』(前田多門・高木八尺 共編、故新渡戸博士記念事業実行委員 1936年刊行・非売品)の目次を見ると、既に本書に登場した人々を含めて錚々(そうそう)たる新渡戸一門の名前が並んでいる。
串田万蔵(1867−1939、三菱銀行会長・三菱合資総理事など歴任)、河井道子(河井 道 1877−1953)、関屋貞三郎(せきや ていざぶろう 1875−1950、―三菱財閥)、佐佐木信綱(1872−1963)、近衞文麿(1891−1945)、岩永裕吉(1883−1939、後藤新平鉄道員総裁秘書官・同盟通信社初代社長など歴任。岩永省一―三菱財閥)、鶴見和子(1918−2006)・鶴見俊輔(1922−)姉弟の父・鶴見祐輔(1885−1973、後藤新平の娘婿)、三谷隆正(1889−1944)、田中耕太郎(1890−1974、―MRA)、上代たの(1886−1982)、石井菊次郎(1866−1945、外相・国際連盟日本代表・世界経済会議日本代表など歴任)、原田 健(−、駐バチカン公使・宮内庁式部長官など歴任)、副島道正(1871−1948、副島種臣の三男。IOC委員など歴任)、下村 宏(1875−1957、玉音放送の際の内閣情報局総裁)、それに賀川豊彦(1888−1960、全日農創設者、「イエス団」や平和学園の創始者)などの名前もある。そして、教養主義のイデオローグだった河合栄治郎(1891−1944)の「新渡戸博士の思出」も収められている。
河合は教育者としての新渡戸の功績として、次の三点を挙げていた。
一点目は、偏狭な国家主義や卑俗な功利主義の時代に、人格の権威を教え、物質に対する精神の優越性を説きながら、広い意味での理想主義を鼓吹(こすい)し、理想主義的雰囲気を日本に醸成したこと。
二点目は、婦人に対して自覚を促し、男性に対して女性の地位を向上させたこと。女子教育が盛んになったのはその賜物であると評価している。
三点目は、国外では外国に対して日本を紹介し、国内では偏狭な排外主義や軍国主義を矯(た)めて、国際心を喚起したこと。今日数多くの国際人が輩出しているが、多くは新渡戸の門弟であると書いている。
国家主義と功利主義とに育てられてきた河合にとって、新渡戸を校長に戴く一高(1886年創立)〔※関連資料(1主な出身者・教員・関係者など一覧)〕の生活は新しい世界であった。新渡戸を通じてギリシャの古典から現代に及ぶ広い西欧の教養を紹介され、限りなき豊かな宝庫が目の前に開かれたような気がした。そして、新渡戸によって“to do(何かをなす)”と“to be(何であらねばならぬか)”との対立と取捨を初めて説かれて、河合は個人人格の権威に目覚めていく〔※関連資料(1一高校長時代の新渡戸稲造)〕。
河合は、新渡戸の大部分を「好きで好きでならない憧憬」を持ちながらも、「物足りなさ」も感じていた。恐らくこの「物足りなさ」が戦闘的自由主義者としての河合栄治郎を生む。
1930年代中頃から河合は、日本が中国への軍事介入を続ければ、米・英両国を中心とする国際社会全てを敵に回す世界大戦に突入し、自爆するだろうと説いていた。同時に戦前の過酷な日本で「左の全体主義」であるマルクス主義〔※関連資料(1本文及び添付資料・2革命家マルクスと英国貴族階級の深い関係・3ロスチャイルド胤「二卵性双生児」マルクスとニーチェ・4・5マルクスとサタン「私が語るすべての言葉はグチャグチャにかき混ぜ合わされて悪魔の混沌に変わる。だから、誰でも自分が好きなように解釈してよい(詩「ヘーゲルについて」より)」・6・7マルクスとイルミナティ・8・9・10・11金貸し支配と労働運動は繋がっていた?・12・13)及び『赤い楯』より【系図37・83】『ロマノフ家の黄金』より【系図15―『資本論』の著者カール・マルクスの大財閥・36・38・39】を参照〕と戦い、やがて「右の全体主義」であるファシズムをも批判した数少ない知識人であった。
河合にとっては両者とも人格の尊厳を損なうものでしかなかった。好きで好きで堪(たま)らなかった新渡戸の教えを胸に、人格の権威を守る為の戦いを生涯続けた。その結果、著書の発禁処分を受け、大学も追われ1944(昭和19)年に亡くなる。
この河合門下生の最長老だったのが東京都立大名誉教授の関 嘉彦(せき よしひこ 1912−2006)、関と共に河合門下生が創設した社会思想研究会を支えたのが『評伝吉田 茂(上・中・下)』(読売新聞社 1978〜1981年刊行)を書いた京都大学名誉教授で元防衛大学校校長の猪木正道(いのき まさみち 1914−2012)である。
この猪木の愛弟子には『宰相吉田 茂』(中央公論社 1968年刊行)を書いた国際政治学者で元京都大学法学部教授の高坂正堯(こうさか まさたか 1934−1996、―京都学派)がおり、高坂の教え子に京都大学教授の中西輝政(1947−、安倍晋三のブレーンの一人)や民主党元代表の前原誠司(1962−、松下政経塾第8期生、―CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク)などがいる。
そして、教養主義者が挙(こぞ)ってマルクス主義に傾斜し、腐敗し、教養主義を崩壊させていく中にあって、戦後も河合の遺志を継いでマルクス主義と戦い、その意味で河合の正統継承者であった関 嘉彦と猪木正道の2人は、古き良き時代の産経新聞社発行『正論』(1973年創刊)を支えた執筆メンバーだった。
関も猪木も、その先達(せんだつ)だった河合も、河合が「好きで好きでならない憧憬」を抱いた新渡戸も、教養主義の終焉と共に既に過去の人になってしまったのだろうか。
〔資料〕池島信平と『諸君!』 - コールタールの地平の上で 2007年1月23日
http://indo.to/nakajima/archives/137
(9頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(9)≫
(8頁からの続き)
■自由主義的民間平和団体
それでは、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕と昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)の関係から平和憲法を見ていこう。
1933(昭和8)年8月に行われた太平洋問題調査会(IPR、1925〜1961、―MRA)第5回バンフ会議(カナダ・アルバータ州)に日本代表として参加することになっていた新渡戸稲造は、出発前内々に昭和天皇から招かれていた。
昭和天皇は新渡戸に「軍部の力が強くなってきたが、アメリカと戦争になっては困る。あなたはアメリカと親しいから、『何とか話合いで戦争を食い止めることが出来るよう、ひとつ骨を折って貰いたい』、ただ内密に」と話したとされる。
新渡戸に託した昭和天皇の願いは、新渡戸の命と共に消えていった。新渡戸はバンフ会議が終わった後の静養中に病に倒れ、日本に戻ることなくカナダの地で没したのである〔※関連資料(1「
1932(昭和7)年、日本軍部の大陸侵略が強まる最中、日米関係が悪化した事を感じた稲造は反日感情を緩和する為に渡米し、1932(昭和7)年だけでも全米で都合100回に亘(わた)る講演をしている。出渕駐米大使と共にフーバー大統領を訪問、更にスチムソン国務長官との対談をラジオ放送で行うなどして日本の立場を訴えたが奏功せず。1933(昭和8)年3月、日米関係改善の目的を達成出来ぬまま帰国する。その直後、日本が国際連盟を脱退する。1933(昭和8)年8月、カナダのバンフで開かれた第5回太平洋調査会会議(IPR)に日本代表団団長として出席するため渡加。日本側代表としての演説を成功させる。その1カ月後、当時国際港のあったカナダの西岸ビクトリアで倒れ永眠する(享年71歳)」〕。
IPRのような民間主導の自由主義者グループの源流を遡(さかのぼ)れば、ここでもまた新渡戸の姿が確認出来る。現在のグローバリストの原点も見出せる。この自由主義的民間平和団体の戦前の流れを整理すると、このようになる。
●大日本平和協会→在日アメリカ平和協会→日米関係調査委員会→太平洋問題調査会(IPR)
順に見ていこう。
1901(明治34)年2月に来日したギルバート・ボールズ Gilbert Bowles(1869−1960)は、麻布中学設立者にして社会運動にも尽力した江原素六(えはら そろく 1842−1922、麻布学園創設者・YMCA第5代理事長など歴任)衆議院議員に働き掛けて、1906(明治39)年4月に大日本平和協会 The Great Japan Peace Association(1906〜1925)を設立する〔※関連資料(1「大日本平和協会」の活動とその史的位置・2・3・4・5MRAと松下政経塾、統一教会・KCIAとMRA他)〕。
ここに江原の他、大隈重信(1838−1922)、阪谷芳郎(さかたに よしろう 1863−1941)、澁澤榮一(1840−1931)〔※『私物国家』より【図1・5・7-2・系図3・14-3】〕、島田三郎(1852−1923)、尾崎行雄(1858−1954)、それに新渡戸が名を連ね、政財界と言論界の有力者が集う日本初の自由主義派民間団体が生まれ落ちた。
次いでボールズは、在留米国人実業家や教育者や宣教師を集めた在日アメリカ平和協会 The American Peace Society in Japan(1910〜?)を1910(明治43)年に設立する。
移民問題を巡って日米間の緊張が高まる中、ボールズは一貫して排日運動反対の姿勢を貫き、日米の相互理解を目的に大日本平和協会と在日アメリカ平和協会の代表者を集めた日米関係調査委員会を設置。日本側委員会には澁澤、阪谷、添田壽一(そえだ じゅいち 1864−1929)が選ばれた。
この日米関係調査委員会の人脈をベースに、1915(大正4)年に澁澤によって日米関係委員会が組織される。この委員会には日米関係調査委員会メンバーに加えて、井上準之助(1869−1932)、堀越善重郎(1863−1936、―東京ロータリークラブ、―E・T・メーソン商会)、大倉喜八郎(1837−1928)〔※『持丸長者 国家狂乱篇』より【系図2-1】〕、金子堅太郎(1853−1942)、串田万蔵(1867−1939)、姉崎正治(あねさき まさはる 1873−1949、―帰一協会)ら23名が就任する。
この日米関係委員会が日本IPRを支えていくのである。
ではギルバート・ボールズとはどういう人物だったのか。
クエーカー Quaker(=基督友会 Religious Society of Friends)の日本伝道は「フィラデルフィア・フレンド夫人外国伝道教会(キリスト友会婦人外国伝道協会)」によって1885(明治18)年に始まる。
初代宣教師となったジョセフ・コサンド Joseph Cosand(1851−1932)夫妻は普連土女学校(1887年創立、現・普連土学園)や芝普連土教会(1890年創設)の設立に尽力。「普連土」は、津田塾大学(1900年創立)の創立者である津田梅子(1864−1929、満6歳の時に岩倉使節団に随行)の父・津田 仙(1837−1908)によって「普(あまねく)世界の土地に連なる」ように、即(すなわ)ち「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いを込めて命名されている〔※関連資料(1・2)〕。
普連土教会内部の信仰上の混乱と対立もあって、コサンドの後を継いで主任宣教師となったのがボールズである。保守派クエーカーのボールズは、伝道に固執することなく、普連土女学校の校長、理事長としての職務を優先しながら、平和運動に人生を捧げ、新渡戸と共に「太平洋の橋」を目指した。
そもそもフィラデルフィア・フレンド夫人外国伝道教会(キリスト友会婦人外国伝道協会)の日本伝道は、米国留学時代の新渡戸や内村鑑三(1861−1930)の意見が取り入れられて開始されている。新渡戸と内村が日本とクエーカーを接ぎ木したのだ。
クエーカーの初期の公式名は“Friends of Truth(真理の友)”、現在は“the (Religious) Society of Friends(日本ではキリスト友会)”、会員はフレンズ、フレンド、友徒会などと言う。クエーカーという名称は、発足当初、激しい迫害にも屈することなく、共に集まって神を礼拝し、祈りや会話をする時には、感動の余り身体が震えることがあったので、これを白眼視する外部の人々が蔑称(べっしょう)的な意味合いから「震える者」、即(すなわ)ちクエーカーというあだ名を付けた。しかし現在では会員間でも使われている。
新渡戸はクエーカーの「内なる光」に導かれる誠実さ、質素倹約の姿勢、一貫した平和主義に新渡戸が信じる日本の古神道や武士道や禅との共通性を見出し、日本と溶け合うと信じたのである。
〔資料〕廣池千九郎と新渡戸稲造の交流関係 By 諏訪内敬司(PDF、全11頁) ※新渡戸稲造と天理教
http://rc.moralogy.jp/ronbun/19%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%86%85.pdf
〔資料〕新渡戸と軍国主義 By 福原好喜(PDF、全33頁)
http://wwwelib.komazawa-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/XC00010791/Body/erku034-3_4_01.html
■「大洪水」に現れた外交官
ギルバート・ボールズ Gilbert Bowles(1869−1960)は日米開戦直前に日本での40年に及ぶ宣教師生活を終え、帰米を決意する。ボールズはこの時、普連土女学校理事長の後任を要請すべく手紙を書き送った。
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昨夜珍しく夢を見ました。私の住居(女学校の直ぐ傍にあった)の近所に大洪水があり、学校も住居も押流され、私もあっぷあっぷしていたところ、流れの向う側に澤田さんが現れ、助けにゆくから慌てるなと言われ、大喜びして目が覚めました。
>
この手紙を受け取ったのが歴史に埋もれし澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884−1976)〔※関連資料(1澤田節蔵と松岡洋右・2米国資本・満洲北支誘導工作)〕である。
澤田はボールズの後任として理事長に就任する。この澤田こそが新渡戸を継いだクエーカー教徒の外交官だった。しかも、澤田こそが戦後の教育刷新委員会(1946〜1949)と改称後の教育刷新審議会(1949〜1952)の委員、並びに審議会とGHQとの意見調整を任務とする運営委員会委員長を務めていたのだ。
ボールズの夢に出てきた「大洪水」は、終戦の年の5月25日の東京大空襲となって普連土女学校に襲い掛かった。学校は煙突と運動場隅の掘っ立て小屋を残して全焼、一時閉鎖の危機に瀕したが、澤田の強い意志もあって学校継続の方針が決められた。
戦後、澤田はミス・ローズことエスター・B・ローズ Esther B. Rhoads(1896−1979、1950〜58年今上天皇をはじめ皇室の英語家庭教師を務めた)、エリザベス・ヴァイニング Elizabeth Janet Gray Vining(1902−1999)、そしてギルバート・ボールズの次男であるゴードン・ボールズ Gordon Townsend Bowles(1904−1991、人類学者、国務省東洋課長代理時代に第一次教育使節団の一員として再来日)と共に学校を再建していく。
彼女達は戦後あっぷあっぷしている日本に救援品を届ける為に故国へ窮状を訴え続けた。米国から届けられた食料品、衣料などを日本全国に配給したララ Licensed Agencies for Relief in Asia(LARA、アジア救援公認団体)代表の一人がミス・ローズである。そしてララ委員会日本側委員に澤田節蔵も就いた〔※関連資料(1ララの活動と普連土学園・2「アメリカ帝国」に教育された人々・3如何にして富が世界に貧困を齎すのか他・4「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」他)〕。
ララの活動に対して日本側も官民一体となって誠心誠意応えた。盗難や横流しや不正配分などの不祥事は全くと言っていいほど無かった。ミス・ローズは日本側の厳格適正な姿勢に敬意と感謝を示し、この日本での活動に誇りを持っていた。
ミス・ローズは、戦争中もアメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)〔※関連資料(1・2若者への軍入隊勧誘の在り方を監視する同奉仕団・3)〕職員としてカリフォルニア州パサデナ地方の邦人抑留キャンプで待遇改善や学歴子女の東部大学への斡旋に奔走(ほんそう)している。そして彼らクエーカー達が、敗戦という「大洪水」から昭和天皇を救い出したのだ。
〔資料〕東京大空襲:戦争犯罪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
〔資料〕白洲次郎のプリンシプルとは? By 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの道 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2008年7月30日 ※白洲次郎と S. G. Warburg&Co.―Rothschild
http://satehate.exblog.jp/9332877
〔資料〕「原爆ホロコースト」の実態〜「原爆」と「冷戦」の舞台裏〜 - HEXAGON ※Victor Rothschildについては≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(35)≫本文及び添付資料を参照。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html
〔資料〕山の手大空襲の体験記編集委員会 編『表参道が燃えた日―山の手大空襲の体験記』(山の手大空襲の体験記編集委員会 2008年刊行)
http://www.kanda-zatsugaku.com/090515/0515.html
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=854&forum=13
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
■『武士道』と象徴天皇
クエーカー達は先ず「象徴」によって昭和天皇を救い出した。これこそ最大の功績であろう。
象徴天皇への新渡戸の影響はもはや疑いようが無い。諸説あるが、新渡戸研究者の間では「象徴」は新渡戸の英文著作『武士道』(櫻井鴎村 翻訳・丁未出版社 1908年刊行、他複数あり)もしくは『日本―その問題と発展の諸局面(Japan:Some Phases of her Problems and Development)』(英Ernst Benn Limited, London/米C. Scribner's Sons, New York 1931年刊行)に依拠していたとする説が有力になっている。岩波文庫版『武士道』の33ページと34ページにはっきり「象徴」と書かれている〔※関連資料(1)〕。
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我々にとりて天皇は、法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身を持ちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである。ブートミー氏がイギリスの王室について「それは権威の像(イメージ)たるのみでなく、国民的統一の創造者であり象徴(シンボル、原文もsymbol)である」と言いしことが真にあるとすれば(しかして私はその真なることを信ずるものであるが)、この事は日本の皇室については二倍にも三倍にも強調せらるべき事柄である。
>
『武士道』は1900(明治33)年1月にフィラデルフィアの出版社から英文で発刊され、セオドア・ルーズヴェルト Theodore Roosevelt(1858−1919 大統領任期:1901〜1909)、トーマス・エジソン Thomas Alva Edison(1847−1931)から、最近では映画『ラストサムライ The Last Samurai(2003年)』のトム・クルーズ Tom Cruise(Thomas Cruise Mapother W 1962−)にまで読み継がれてきた。日本の憲法に関わるのであれば、クエーカーでなくとも当然読んでいたに違いない一冊である。
このクエーカーに対する感謝の気持ちを誰よりも示したのは皇室である。二代に亘(わた)ってクエーカーが皇太子の英語教師に就いた。初代はエリザベス・ヴァイニング Elizabeth Janet Gray Vining(1902−1999)〔※関連資料(1・2)〕、その後任がミス・ローズである。
ヴァイニングは1950(昭和25)年に勲三等宝冠章、ミス・ローズもララの功績に対し1952年の勲四等瑞宝章に続き、1960年には勲三等瑞宝章をそれぞれ受章している。また、ゴードン・ボールズにも1958年に国際文化の交流と研究に対して勲三等旭日章が贈られた。
そして、クエーカーが主宰するアメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)は、イギリス・フレンズ協議会(FSC、現・QPSW)と共に1947年にノーベル平和賞 Nobel Peace Prize〔※Rothschildが深く関与。『赤い楯』より【現代に生き続けるヨーロッパの兵器カクテル・ドイツ工業界からナチスへの資金の流れ・系図62・63・66-1・66-2・イギリスの原子力産業と軍需産業〔A〕・スイスの暗黒部(IAEA)】『ロマノフ家の黄金』より【系図36・38・39】『地球のゆくえ』より【図2・5・16-1・16-2】〕を受賞している。
それにしても因縁とは恐ろしい。
国際連盟(1919〜1946)の設立時の初代事務次長に就任したのがクエーカーの新渡戸稲造、国際連盟最後の日本代表部事務局長として、松岡洋右(まつおか ようすけ 1880−1946)らが主張した国際連盟脱退方針に対して「熱烈強硬」に抗議したのがクエーカーの澤田節蔵である。更に、戦後、初代国連大使になったのが澤田節蔵の実弟である澤田廉三(1888−1970)〔※関連資料(1・2)〕である。
澤田廉三の『随感随筆』(澤田廉三先生遺稿刊行会 1990年刊行)には「明治43年7月第一高等学校卒業生」の写真が掲載されている。その写真の最後列左から二人目に澤田廉三が、そして、一列目の中央に新渡戸稲造校長が写っている。
「武士道」の言葉が持つ勇ましい、表面的な響きだけで新渡戸を論じる軽々しい日本人が増殖している。「木を見て森を見ず」と言いたいところだが、木すらまともに見えないほどの無教養が蔓延(はびこ)ってきた。
〔資料〕新渡戸稲造 著『武士道』の後半部分から。 - 物語を物語る 2011年10月20日
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-1032.html
〔資料〕新渡戸稲造における維新と伝統―日本論・神道論を手掛かりに By 佐藤一伯(PDF、全21頁)
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f45-8.pdf
〔資料〕新渡戸稲造 著『武士道』の書誌事項を巡る混乱について By 中島正道・佐藤奨平・中島めぐみ(PDF、全4頁)
http://www.mslis.jp/am2008yoko/19_nakajima.pdf
〔資料〕内村鑑三 著『代表的日本人』:書評 - 松岡正剛の千夜千冊 2001年3月15日
http://1000ya.isis.ne.jp/0250.html
■すべては天皇制存続の為に
実は、戦後の「象徴天皇」制とセットになっていたのが「憲法9条」である。この2つは共に、昭和天皇の戦争責任回避と天皇制存続の為に生み落とされた。
当時の昭和天皇に対する厳しい評価を振り返ってみればいい。
敗戦直前の1945(昭和20)年6月、戦後の昭和天皇の処遇について行われた米国ギャラップ世論調査で、33%が「処刑」を望み、「裁判で決定」が17%、「終身刑」が11%、「追放」が9%だった。つまり、10人中7人が処罰に相当すると考えていた。戦後になっても、昭和天皇の戦争責任を追及すべきとする声は、米国のみならず、中国、ソ連、オーストラリアなどを中心に根強いものがあった。
これに対して日本側は、民主化と戦争放棄を全世界に宣言することで昭和天皇と天皇制を守った。米国とて、占領政策を円滑に進める為に日本側に協力したのである。
本来なら昭和天皇の戦争責任追及が回避され、天皇制存続が決まり、占領が終わった時点で憲法9条は役割を終えてもよかったはずだ。ところが吉田 茂は、朝鮮戦争 Korean War(1950〜1953)を機に、憲法9条が実に便利で「使えるものである」ことに気付く。
この吉田の判断によって憲法9条は今日まで生き延びてきた。彼の基準となった考え方は、使えるか使えないか、つまり憲法9条は国益にとって得か損かということである。この点で、堤 堯(つつみ きょう 1961−、反TPP)の『昭和の三傑―憲法九条は「救国のトリック」だった』(集英社インターナショナル 2004年刊行)が面白い。
堤は、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのように「七生報国(しちしょうほうこく)」を鉢巻きにしたためて自決した三島由紀夫(平岡公威 1925−1970、松平家・永井家に繋がる家系)とのインタビューでこう話している。
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「三島さん、 憲法9条の発想者は誰だと思いますか」
「マッカーサーだよ、決まっているじゃないか」
「いや、僕は幣原喜重郎だと思います」
「そういう説もあるけど、今となってはたいした問題じゃないだろう」
「いや、三島さんも法律を学んだ以上、条文の発想者の意図は無視出来ないでしょう?」
「幣原がどうかしたのかね」
「三島さんは不愉快に思うかも知れませんけど、憲法9条って実に巧みな条文だなと思います。これあるために日本人は戦争に駆り出されずに済んで来た。古来、A国に負けたB国の戦力が、C国への侵略・制圧に使役される例は枚挙に暇(いとま)が無いですよね。日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済んだ。現に韓国は最強のタイガー部隊をベトナムに出して、ベトナム人の恨みを買っている。日本はそれをしないで済んだ。憲法9条を楯にとって。いわば憲法9条は『救国のトリック』だったと思います」
(中略)従来、憲法9条は天皇制存続とバーターに押し付けられたとするのが「定説」とされる。史料の示すところ、それと違う。憲法9条は第一項で「戦争放棄」を定める。時の宰相・幣原喜重郎(しではら きじゅうろう 1872−1951、総理大臣任期:1945〜1946)が、占領総督ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880 −1964、フリーメーソン)に申し出た。戦争放棄は珍しくもないが、戦力放棄は前代未聞、世界に例を見ないビックリ条項である。申し出を受けたマックは「腰も抜かさんばかりに驚いた、息も止まらんばかりだった」と回想している。この戦力放棄条項は、象徴天皇制と合わせて、当時の連合国に充満する「日本断罪」の怒気を和らげ日本を救う「一種の救命ボート」(内閣書記官長・楢橋 渡)の役割を果した。
(中略)2つの特需(朝鮮戦争特需・ベトナム戦争特需)〔※『赤い楯』より【系図54-1・54-2・81】〕から漁夫の利を得て、経済立国への道をひた走った。結果オーライではない。幣原の遠大にして老獪な仕掛けであり、これを吉田 茂が二枚腰三枚腰で堅持した。つまり戦後日本の機軸として、復興の果実を齎(もたら)した。
憲法9条は幣原・マックのサシの会談、いわば密談で生まれた。第三者がいない。ために揣摩憶測を呼ぶ。マックは三度に亘ってバロン幣原の提案だったと証言している。上院の聴聞会、誕生日のスピーチ、そして回想記―そのモノ言いは一貫している。 一方の幣原もまた、発案者は自分だとし、その心事について述べている。
(中略)幣原が立ち去った後、マックの部屋に行ったコートニー・ホイットニー Courtney Whitney(1897−1969、戦後GHQ民生局局長として日本国憲法草案作成を指揮)は自著に記している。「元帥の表情から、何か重大なことが起きたと感じた。元帥が説明してくれた。幣原は憲法に戦争と軍備を永久に放棄する条項を加えたいと提案した」
幣原はマックとの密談を閣議に有り体に告げなかった。実は象徴天皇制も幣原の提案だった。(中略)幣原は草案の公表を天皇の名において行った、いうなら「聖断」の形を取った。占領総督の威と「至高の権威」の2つを巧みに使った。(中略)たしかにアメリカはGHQ草案を押し付けた。押し付けたのはポツダム宣言に盛られた種種の「民主化」であって、コト憲法については違う。 (中略)要するに幣原はマックをハメ込んだ。
(中略)聞き終ると三島さんは言った。「うーん、面白いね」しばし沈黙の後、「でも僕はあの男は嫌いだな。何だいあの軟弱外交は。あれが日本を駄目にしたんだよ」
三島さんにしてみれば、発案者もヘッタクレもない、9条を改変する方向へ思いは突き進んでいた。
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この「憲法9条を楯に取る戦略」を見出したのが吉田だった。
〔資料〕藏田計成氏の憲法9条論 - れんだいこのホームページ 2007年6月18日 ※「改憲運動の正体は国粋主義によるものではなく、現代パリサイ派の国際的指令に基づくものである〜」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/9jyotushin/kuratariron.htm
〔資料〕吉田 茂は“マッカーサーのペット”だった|マッド・アマノのパロディー・ブログ 2012年9月8日 ※奥の院について
http://ameblo.jp/parody/entry-11349418084.html
〔資料〕1008兆円の借金は如何にして出来たか - 唖蝉坊の日記 2013年8月29日 ※後半の産経新聞の記事などもまた保守になりすました「世論操作」の一つの常套手段。これならば、ナチスのやり方に習えばいいという見方を変えれば或る意味リーク(内部告発、2009年3月の大磯・旧吉田 茂邸全焼火災などが伏線として考えられる)とも受け取れる麻生の問題発言のほうがまだ幾分マシに思える。
http://d.hatena.ne.jp/k1491n/20130829/1377754951
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(4)≫|MelancholiaT
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11209724953.html
〔資料〕≪無題(TPP、アベノミクスなどに関する記事・資料一覧 2013年7月20日)≫|MelancholiaT ※「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】他参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11576741141.html
〔資料〕憲法9条・救国トリック説(昭和の三傑)WiLL2号記事で筆者の旧友・堤 堯に三国志空城計を指摘 By 木村愛二 - 木村書店 2004年12月31日
http://www.jca.apc.org/~altmedka/2003aku/aku925.html
〔資料〕「なぜ憲法9条が日本にとって最大の安全保障なのか?」〜天木直人氏に会う〜 - ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 2007年7月9日
http://amesei.exblog.jp/5758518
〔資料〕安倍晋三首相訪米は共同記者会見抜きの喜劇に終わるか。「Japan is back」とはよくも言ったり!/追加;爺さん以来の忠犬晋三の喜劇の一幕 - 明日うらしま(在ベルリンジャーナリスト・梶村太一郎の反核覚え書き) 2013年2月22日 ※必見。
http://tkajimura.blogspot.jp/2013/02/japan-is-back.html?m=1
〔動画〕「政府は必ず嘘をつく」ジャーナリスト・堤 未果さんが真相を明らかに - YouTube ※Shock Doctrine(惨事利用型資本主義)及びストックホルム症候群の応用、9.11、3.11、「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】他について
http://www.youtube.com/watch?v=90oikVp8mKk
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※清和会と松下政経塾とGATT(現WTO)、或いはMRAと統一教会・KCIA、等。「金貸し支配と労働運動は繋がっていた?」「資本主義と共産主義はユダヤの両建て主義」他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11211313712.html
〔資料〕没後37周年追悼会「憂国忌」概略記録:第1部シンポジウム「あれは楯の会事件、森田必勝主導ではなかったのか」
http://mishima.xii.jp/kaiso/yukokuki/19/index2.html
〔資料〕市ヶ谷台 檄文|三島由紀夫研究会 ※「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年(1970年から二年という意味)のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう」
http://mishima.xii.jp/kaiso/geki/index.html
〔資料〕三島・天皇・超越〜ポストモダン状況下の我が国において、三島由紀夫を再読する試み〜 By 志紀島啓(PDF、全14頁) ※大日本帝国や神風特攻隊を憧憬する深層心理について、「三島は自衛隊を国軍として位置付けることには賛成であったが、徴兵制や無闇な軍備増強には反対であった。三島が一見、戦前の体制を肯定的にいうことがあるのはあくまでも戦後特に蔓延した金儲けや生命尊重といった世俗的価値を超越する別の非世界的価値を天皇が体現していたと考えたからである。(中略)天皇は「死」という不可能性の聖なる象徴であったのだ」
http://www.eonet.ne.jp/~captifamoureux/mishima.pdf
〔資料〕≪NHKスペシャル『日米安保50年 第1回 隠された米軍』 より文字起こし≫|MelancholiaT ※自衛隊と米軍の一体化と9条改正について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-10855996289.html
〔資料〕癌の正体を暴露した男オットー・ウォーバーグ、ロスチャイルド家に一蹴され怖気づく その1+補足 By BRIAN ENO 2013年1月16日〜25日
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/400.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/401.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/409.html
〔資料〕癌の正体を暴露した男オットー・ウォーバーグ、ロスチャイルド家に一蹴され怖気づく その2 By BRIAN ENO 2013年2月3日
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/420.html
〔資料〕ヴィクター・ロスチャイルドとウイリアム・ベルそして創世記 By BRIAN ENO 2012年10月18日
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/714.html
http://www.asyura2.com/12/music6/msg/329.html
〔資料〕≪鬼塚英昭 著『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』 より要約(1〜28)≫|MelancholiaT
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaT-roentgenium-資料保管庫-目次/
〔資料〕立て直せ!!狂った医と食(4) 救世主「癌」 - 日本を守るのに右も左もない 2013年6月8日 ※マスタード・ガスと抗癌剤、及び七三一部隊関係者のその後及び厚労省との関係について≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(22)≫添付資料を参照。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002565.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11549494255.html
〔動画〕堤 尭「時代を創る」#11 鹿児島・薩英戦争から特攻隊まで(1) - YouTube [27分8秒]
http://www.youtube.com/watch?v=Q-2I2XMZ3k0
http://www.youtube.com/watch?v=zQ3ggiJXzBw
http://www.youtube.com/watch?v=qTSZepZYDU8
(10頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(10)≫
(9頁からの続き)
■憲法9条「白鳥敏夫発案説」
それでは、昭和天皇の戦争責任回避と天皇制存続の為に誰がどう動いたのか。
これこそが、吉田 茂を中心とするクスノキの巨樹である。学者好きの吉田はここに明治維新以来の宗教的目覚めを経験した新渡戸とその門下生を中心とする敗者達を続々と結集させた。
憲法9条の制定過程については様々な議論が交わされてきた。その発案者については、これまで幣原喜重郎発案説やらマッカーサー発案説、それに幣原・マッカーサー意気投合説、或いはケーディス・ホイットニー共同発案説、天皇発案説などが取り上げられてきた。
最近では、中央大学総合政策学部准教授の服部龍二(1968−)が『幣原喜重郎と二十世紀の日本―外交と民主主義』(有斐閣 2006年刊行)で、富田メモに登場した白鳥敏夫発案説を提起した。服部の見解と服部が参考にした朝日新聞の記事を元に白鳥敏夫発案説を見ていこう。
A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所にいた白鳥敏夫(1887−1949、A級戦犯として終身禁固刑で服役中に喉頭癌で獄死)は、1945(昭和20)年12月10日付で書簡(白鳥書簡)を英文でしたためた。その内容は「将来この国民をして再び外戦に赴(おもむ)かしめずとの天皇の厳たる確約、如何なる事態、如何なる政府の下に於(お)いても何らの形式によるかを問わず、国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべからずこと等の条項は新日本根本法典の礎石」になると位置付け、「憲法史上全く新機軸を出すもの」とした。
その上で、「天皇に関する条項と不戦条項とを密接不可離に結び付け而(しか)して憲法のこの部分をして純然たる革命を他にして将来とも修正不能ならしむることに依(よ)りてのみこの国民に恒久平和を保証し得べき」と述べている。
つまり、天皇制条項と戦争放棄の条項を密接不可離に結び付けることで、天皇制を守ることが出来ると強調したわけだ。
この書簡は巣鴨拘置所から、当時外相だった吉田 茂宛に出された。吉田はこの書簡の写しを幣原に手渡した。問題はその時期である。
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《敗戦から日本国憲法公布まで》
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
11月26日 白鳥敏夫と吉田 茂が会談
12月10日 巣鴨拘置所から白鳥が吉田に書簡を出す
12月26日 「憲法研究会」が首相官邸と記者室に「憲法草案要綱」を提出
12月28日 新聞各社が大々的の報道
1946(昭和21)年1月2日 ジョージ・アチソン George Atcheson Jr.(1896−1947、1947年8月17日搭乗するB-17爆撃機墜落により事故死)が本国の国務長官に「憲法研究会」が極めて注目すべき内容と報告
1月20日頃 白鳥書簡の検閲が解除される
1月24日 マッカーサー・幣原会談
2月1日 毎日新聞が日本側の憲法草案(日本政府憲法案=明治憲法と類似)をスクープ
2月3日 マッカーサーがホイットニーに憲法改正三原則を記した「マッカーサー・ノート」を指示
2月4日 連合国軍総司令部で草案作成開始
2月13日 総司令部案(いわゆるマッカーサー草案)が日本政府へ
3月6日 総司令部案に基づく日本案「憲法改正草案要綱」を国民に公表
11月3日 日本国憲法公布
(『朝日新聞』2005年8月14日記事より)
>
戦争放棄を新憲法に盛り込む発想が取り交わされたのは、1946(昭和21)年1月24日のマッカーサー・幣原会談である。この白鳥書簡は、検閲の為に1946(昭和21)年1月20日頃までマッカーサー司令部に留め置かれた。検閲が解かれた直後に吉田経由で幣原に届いていたとすれば、マッカーサーとの会談直前に幣原は読んでいたことになる。
服部は「幣原がマッカーサーとの会談で戦争放棄を口にしたのは、白鳥書簡に触発されたものであった可能性もある」と指摘する。
仮に、この書簡が届いていなかったにせよ、内容は吉田から幣原に伝わっていた可能性も指摘出来る。何故なら、極東軍事裁判で白鳥の弁護をした吉田陳述書によると、白鳥が巣鴨拘置所に入所する直前の1945(昭和20)年11月26日に吉田と会見し、新憲法案並びに戦争放棄の問題等について口頭で意見を述べている。白鳥が幣原にも伝達を申し出た為、吉田は文章にするように求めた。吉田の要望に沿って文書にしたのが、この白鳥書簡だったからだ。
更に、検閲によってGHQ側も白鳥書簡に目を通していた可能性もある。
しかし、天皇制条項と戦争放棄条項を結び付ける考え方は、既に戦前から米国で検討されていたのであり、白鳥書簡が「天皇制を維持したい」日本側と「天皇制を利用したい」GHQ側の暗黙の了解を後追いした程度であったと思われる。
実は白鳥もまた一高出身。つまりは新渡戸門下生だったことを書き留めておこう。
〔資料〕日本人の一致協力が成功の要 ジョージ・アチソン - ねずさんのひとりごと 2011年5月11日
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1242.html
〔資料〕「日本占領22カ月を顧みて」 By ジョージ・アチスン(1947年7月) - ねずさんのひとりごと 2011年5月12日 ※必見。「ことに肝要なことは、日本人が民主主義の基本的な体制を獲得したことである。その体制を完成し、改良し、常に修理を施(ほどこ)すことは、日本国民に課せられた任務であろう。日本国民の将来・・・即(すなわ)ち極右または極左の何れの軍隊的組織に退歩するか、もしくは民主主義を更に発展せしめ、日本人の生活の中に織り込むか・・・これは全て国民の双肩に掛かっているのである。追放された軍閥と財閥を除いては、敗戦による利益は、損失よりも遥かに多いと言わない日本人はないであろう」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1243.html
■幣原喜重郎と三菱本家
幣原喜重郎もまた、クエーカーに深く関わった人物だった。
グルー夫妻を泣かせた秩父宮勢津子が書いた『銀のボンボニエール』が実に面白い。憲法9条に関わる因縁がここに見出せる。
先ずは、学習院初等科時代からの親友であった樺山正子(後に白洲次郎と結婚して白洲正子)に始まり、秩父宮妃の父・松平恒雄と樺山正子の父・樺山愛輔がお互い信じ合い心を許しあった親友同士であったこと、毎年夏休みに富士山麓の樺山家の別荘で過ごしていたこと、父の親友でもある樺山が、貞明皇后の使者として二度渡米し、事実上のまとめ役になっていたことが綴(つづ)られている。
更に、ここからが注目である。
当時秩父宮妃はワシントン市内のアイ・ストリートにある私立のシドウェル・フレンズ・スクール Sidwell Friends School(1883年創立)に通学していたこと。シドウェル・フレンズ・スクールがクエーカー教徒の学校であること。そして、シドウェル・フレンズ・スクールに決めた理由は、父の前任者の幣原喜重郎の令息がこの学校に通学したことがあり、大変よい学校だという評判を両親が聞いていたこと、など。
幣原喜重郎の令息とは長男・道太郎(−)、もしくは次男・重雄(−)のどちらかであろう。恐らく重雄だと思われる。何故なら、道太郎は後におよそシドウェル・フレンズ・スクール出身者とは思えない言動をするからだ〔※関連資料(1)〕。
このシドウェル・フレンズ・スクール入学には、澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884−1976)〔※関連資料(1澤田節蔵と松岡洋右・2米国資本・満洲北支誘導工作)〕も深く関わっていた。新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862−1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕を継いだクエーカー教徒の外交官は、松平恆雄(まつだいら つねお 1877−1949)が駐米大使に起用された時に参事官として補佐していた。
『澤田節蔵回想録― 一外交官の生涯』(澤田節蔵 著, 澤田壽夫 編・有斐閣 1985年刊行)によれば、学校のことで迷っている松平大使に「クエーカーの学校の入学案内を取り寄せて大使にお勧めし、大使も色々お調べの上、お二人をこの学校(シドウェル・フレンズ・スクール)に送られた」としている。
お二人とは、松平の長女・節子と次女・正子(1913−1998)である。長女が秩父宮勢津子となり、次女は後に徳川義親の長男・徳川義知(とくがわ よしとも 1911−1992、日本赤十字社常任理事・日英協会理事など歴任)に嫁ぎ、徳川正子となった。恐らく松平は、澤田の推薦を元に幣原と相談して決めたものと思われる。
実は幣原と澤田は縁戚関係にもあった。ここに土佐のクスノキから生まれた三菱本家の存在が見出せる〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【図11・系図4・6-2・6-3】『持丸長者 国家狂乱篇』より【図7-1・10・表3・図12-1・12-2・系図1・5】『持丸長者 戦後復興篇』より【図2-1・系図1-1・1-2・3-3】『私物国家』より【系図3・図5・系図8-1・9-2・10-2・12-1・12-2・13-1・14-3・14-4】『腐蝕の連鎖』より【ミドリ十字の株価・系図1・7・10・11-1・11-2・12・14-6】及び≪広瀬 隆 著『私物国家―日本の黒幕の系図』 第6章 より抜粋(1〜4)≫及び「グラバー商会=ジャーディン・マセソン商会」との関係等について≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(3)≫を参照〕。
澤田家の長男として鳥取に生まれた節蔵は、叔父を頼って鳥取中学から水戸中学に転学、ここでクリスチャンであった母や叔父・叔母の影響からクエーカー教徒となった。後に節蔵の妻となるのは、薩摩出身で駐伊公使を務めた大山綱介(1853−1912)の長女・美代子(1891−1970)である。美代子も長らくローマに住み、帰国後は雙葉(ふたば)女学校(1909年創立)で学んでカトリック信者となっている。
節蔵の弟である澤田廉三(1888−1970)〔※関連資料(1・2)〕も日本基督教団鳥取教会(1890年創立、―石破 茂・CSISエージェント―三菱他)のクリスチャン外交官であった。廉三の妻となる岩崎美喜(1901−1980)も、結婚を機に念願叶って敬虔な聖公会信徒となった。結婚後の澤田美喜は後に混血孤児救済で知られるエリザベス・サンダース・ホーム(1948年創立、現・聖ステパノ学園)を創立する。
岩崎美喜の父は岩崎久彌(いわさき ひさや 1865−1955、三菱財閥3代目総帥)、祖父は三菱財閥創業者・岩崎彌太郎(1873−1885、三菱財閥創業者・初代総帥)。つまり美喜は三菱財閥の本家にして第3代当主・岩崎久彌の長女である。
また、岩崎彌太郎の四女・雅子(−)の夫が幣原喜重郎であり、澤田廉三との縁談を持ち掛けたのは「加藤の伯父と幣原の叔父」だったと美喜は回想している〔※加藤高明(1860−1926、総理大臣任期:1924〜1926)は岩崎彌太郎の長女・春路(1864−1942)の夫で第24代内閣総理大臣。春路の母は岩崎彌太郎の正妻・喜勢(いわさき きせ 1845−1923)。幣原喜重郎は岩崎彌太郎の四女・雅子の夫で第44代内閣総理大臣。雅子は妾腹の娘だった為、春路の異母妹に当る〕。
更に、土佐のクスノキから生まれた三菱本家のキリスト教受容について、久彌の米ペンシルベニアでのクエーカー家庭での留学生活の影響があったと美喜は書いている。
澤田廉三・美喜夫妻の次男は澤田久雄(1924−)、その妻は安田祥子(やすだ さちこ 1941−)である。今日もどこかで妹の由紀さおり(安田章子 1948−)と共に姉妹揃って美しい童謡を歌っていることだろう。
そして、ここに登場する人物全てが憲法制定に関わっていたのである。
〔資料〕こども教育02 理想求め揺れる教育:オバマの娘が公立校に行かない理由 - 朝日新聞GLOBE 2013年10月6日 ※クリントンやオバマとクエーカーとの接点
http://globe.asahi.com/feature/090914/02_2.html
〔資料〕【幕末維新の代理人】代理人認定#6:トーマス・ブレーク・グラバーの陰謀2 - 金貸しは、国家を相手に金を貸す 2013年8月14日 ※「グラバー商会」の謎の倒産の裏側。アーネスト・メイソン・サトウ卿(1843−1929)曰く「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」。現在の様々な事象を俯瞰して見る上で大変重要な視点。
http://www.kanekashi.com/blog/2013/08/002045.html
〔資料〕参議院会議録情報 第168回国会 外交防衛委員会 第17号 平成20年(2008年)1月8日 ※山田洋行事件は氷山の一角。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11491265777.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11491265777.html
■憲法制定に終結した人脈
新渡戸稲造の人生の転機には必ず牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)の姿があった、と書いた。
牧野のキリスト教への理解は三菱本家の岩崎久彌――ペンシルベニア大学(1740年創立)に留学――と同じく、フィラデルフィア留学時代のキリスト教との出会いがあった。牧野の『回顧録』には、「フィラデルフィアはクエーカー宗徒の平和主義的な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平和的なピューリタン主義な国だという印象を受けた」と書き残されている。
牧野も松平恆雄(まつだいら つねお 1877−1949)も幣原喜重郎も岩崎久彌も、米国滞在中にクエーカーの「絶対平和主義」に接していたのである。
日本では関屋貞三郎(せきや ていざぶろう 1875−1950、―三菱財閥、無教会派クリスチャン)が枢密顧問官として復帰し、昭和天皇の無罪証言集めに奔走、御用掛の寺崎英成(てらさき ひでなり 1900−1951、後にクエーカー)やボナー・フェラーズ Bonner Frank Fellers(1896−1973)と共に弁明書としての『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』文藝春秋 1995年刊行)を作成していた〔※関連資料(1)〕。
関谷が就任した枢密顧問官とは、明治憲法56条に「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と定められている。枢密院は「憲法の番人」とも称される天皇の最高諮問機関である。それにも関わらず原稿憲法制定過程で枢密院の役割はこれまで殆んど無視されてきた。
この枢密院で、1946(昭和21)年4月に「帝国憲法改正草案枢密院審査委員会」(1946年4月22日〜5月15日に8回開催、同年5月29日〜6月3日に3回開催)が設置されているが、この委員には関屋の他に幣原の兄・幣原 坦(しではら たいら 1870−1953)がいた。新憲法案を採決した同年6月8日の枢密院本会議では、三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう 1915−)が「マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」と批判的な意見も述べながらも、非武装中立と戦争放棄を支持する意見を表明したことはよく知られている。三笠宮は採決時棄権したが、結局この本会議で可決され衆議院へ送付された。この本会議にクエーカー人脈と薩摩系宮中グループから少なくとも吉田 茂、関屋貞三郎、鈴木貫太郎(1867−1948、総理大臣任期:1945年4月7日〜8月17日)の3名が出席していた。
その後衆議院本会議、貴族院本会議、衆議院本会議可決を経て、最後に再度枢密院本会議で10月29日に可決され、11月3日に公布された。
驚くことに10月29日の枢密院本会議にはクエーカーをよく知る樺山愛輔と松平恆雄と関屋貞三郎が枢密顧問官として出席していた可能性が極めて高い。樺山も松平も6月10日より枢密顧問官に就いていたのだ。
しかも、当時枢密院議長だったのが、首相として日本を終戦に導いた鈴木貫太郎。和子(1915−1996、牧野伸顕の孫で吉田 茂の娘で麻生太郎の母)を連れて鈴木邸を訪れ、「皇室を守る為の憲法改正」に取り組んでほしいと懇請(こんせい)し、枢密院議長復帰を口説き落としたのが、当時外相だった吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕である。
鈴木が枢密院議長に就任したのは1945(昭和20)年12月15日。そして、新憲法案が採択された1946年6月8日の枢密院本会議を議長として見届け、その5日後の6月13日に辞任する。
この鈴木の妻は鈴木孝子(足立たか 1884−1971)と言う。旧姓は足立たか、その父の足立元太郎(1859−1912)〔※関連資料(1・2昭和天皇との関係)〕は札幌農学校(開拓使仮学校として1872年創立。現・北海道大学)の第2期生、つまり、新渡戸稲造と共に洗礼を受けたクリスチャンだった。更に、幼少時に養育係として常に寄り添っていた足立たかを母のように慕っていたのが昭和天皇である。
この事実とこの意味を研究者の殆んどがこれまで見逃してきた。
堤 堯(つつみ きょう 1961−、反TPP)は『昭和の三傑―憲法九条は「救国のトリック」だった』(集英社インターナショナル 2004年刊行)で、象徴天皇制と戦力放棄を鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田 茂の3人による連携プレーであり、昭和天皇もプレーヤーの一人に違いないと書いた〔※関連資料(1鬼塚英昭 著『日本のいちばん醜い日―8・15宮城事件は偽装クーデターだった』より)〕。
実はこの枢密院人事に昭和天皇の関与を示唆する文献も存在する。東野 真(1965−)の『昭和天皇 二つの「独白録」』(日本放送出版協会 1998年刊行)に収載されている元侍従長・稲田周一(1902−1973)備忘録の1946年6月2日付日記にはこう書かれている。
<
宮城に於ては、ひる、牧野伯をお召。枢密院議長就任に付、御話があったと承る。
>
昭和天皇は、母のように慕っていた足立たかを二人目の妻に迎えた鈴木貫太郎が枢密院議長を辞任するとの意志を受け、父のように慕っていた牧野伸顕に後任を要請した。しかし、牧野は就任していない。牧野の代わりに樺山愛輔(かばやま あいすけ 1865−1953)と松平恆雄が枢密顧問官に就いたのだろう。この人事の背景に現行憲法の制定を誰よりも押し進めたかった昭和天皇の意志が読み取れる。
当時の枢密院にはクエーカーをよく知る幣原喜重郎、樺山愛輔、松平恆雄の重鎮3名がいた。しかも、貴族院で憲法改正審議を行った小委員会には、新渡戸親衛隊の高木八尺(たかぎ やさか 1889−1984、IPR常任理事など歴任、エドウィン・ライシャワー Edwin Oldfather Reischauer(1910−1990)とも親しく、1946年アメリカ学会の創設、1952年国際文化会館(―Rockefeller)の設立などに関わった)と太平洋問題調査会(IPR、1925〜1961、―MRA)のメンバーだった高柳賢三(1887−1967、憲法調査会(1956〜1965)会長など歴任)がしっかり名を連ねていた。
当時、新渡戸親衛隊の高木八尺と前田多門(まえだ たもん 1884−1962)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【系図1-2】〕はボナー・フェラーズ Bonner Frank Fellers(1896−1973)〔※関連資料(1・2)〕と頻繁に会っていた。恐らく高木・前田・フェラーズのクエーカー3人組が、ヒュー・ボートン Hugh Borton(1903−1995、クエーカー教徒、知日派、コロンビア大学准教授・IPR調査員など歴任)と日本側との連絡係にして意見調整係になっていたものと思われる。
そして、ボートンの背後にはハーバート・クラーク・フーヴァー Herbert Clark Hoover(1874−1964、大統領任期:1929〜1933)第31代大統領がいた〔※関連資料(1)〕。
〔資料〕帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録他、PDF資料多数あり - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/03_terms/index03_001.html
〔資料〕「第90議会議決後に於ける帝国憲法改正案枢密院審査委員会記録 1946年10月19・21日」原文1〜18頁 ※「次へ」をクリックし閲覧可。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/129_1/129_1_001l.html
〔資料〕同記録1〜11頁部分の現代訳 - 「インシャーラー」お元気ですか? 2011年2月4日〜3月9日 ※当資料に限り一考察として参照。
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-04
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-04-1
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-08
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-13
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-13-1
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-13-2
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-13-3
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-13-4
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-18
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-02-20
http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2011-03-08
〔資料〕「明治」と云う幻想 1〜8 |山伏の日々 2010年2月18日〜4月2日 ※「この明治時代に創られたものを伝統と指定するならば米国より伝統の無い国になってしまう」
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/theme-10019801648.html
〔資料〕「維新」と云う幻想 1〜7|山伏の日々 2010年10月17日〜11月9日
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/theme-10027555213.html
〔資料〕Google Books - 鬼塚英昭 著『日本のいちばん醜い日―8・15宮城事件は偽装クーデターだった』(成甲書房 2007年刊行)
http://books.google.co.jp/books?id=VBKKzSmCiM8C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
〔資料〕1945年3、敗戦まで 終戦への動き(天皇聖断への流れ) - れんだいこのホームページ 2012年4月26日 ※「工藤美代子の『香淳皇后』(2000年)は次のように記している。〜末尾」を参照。重要。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/haisenhistory3.html
(11頁へ続く)
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11635224359.html
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(11)≫
(10頁からの続き)
■2人しかいないクエーカー大統領
米国からも戦後続々と憲法制定機関にクエーカーが舞い降りてくる。ヒュー・ボートン Hugh Borton(1903−1995、クエーカー教徒、知日派、コロンビア大学准教授・IPR調査員など歴任)を筆頭に、国務省東洋課長代理時代に第一次教育使節団の一員として再来日するゴードン・ボールズ Gordon Townsend Bowles(1904−1991、人類学者、ギルバート・ボールズの次男)、それに戦略事務局(OSS、CIAの前身)心理作戦計画本部〔※OSS機密計画書と3.11について関連資料(1・2・3・4・5・6)〕からはマッカーサーの軍事秘書として来日するボナー・フェラーズ Bonner Frank Fellers(1896−1973)〔※関連資料(1・2)〕の3名が登場するである。
ボートンとボールズは国務・陸軍・海軍三省調整委員会 State, War, Navy Coordinating Committee(SWNCC=スウィンク、1944〜1949)の下部機関である極東小委員会 Subcommittee for the Far East(SFE、1945〜1948)特別委員会に関与していた。しかも二人は、クエーカーの活動を通じて兄弟同様の付き合いで占領政策について完全に思いを一つにしていた。
ボートンが書いた『戦後日本の設計者―ボートン回想録』(Hugh Borton 著, 五百旗頭 真 監修, 五味俊樹 翻訳、朝日新聞社 1998年刊行)の訳者である五味俊樹(ごみ としき 1948−)は、そのあとがきで「自己の宗教信条であるクエーカーの平和主義が(ボートン)博士の生き様に色濃く反映していた」としながら、「政策立案の過程においても、博士の信念が貫かれていく」とした上で、「具体的には、『戦後』の日本から軍事的要素を一掃しようとするアイデアであり、正式文書としては『降伏後におけるアメリカの初期対日政策(SWNCC150/4/A)』であった。しかも、それは日本国憲法第9条によって結実したと解釈出来ないことはない」と解説している。
続けて「日本の非武装化は、クエーカー派の平和主義のみならず当時のアメリカの現実的利益にも適(かな)っていたのであり、個人の宗教的理念と国家の戦略とが偶然かつ見事に合体したケースである」と解説している。
そして、「何れにせよ、ボートン博士が、日本国憲法における平和主義、国民主義(=国民主権)、基本的人権(の尊重)という3つの基本原則のうち、とりわけ、平和主義の思想的原液を注入する上でその一端を担っていたことは確実である」と結んでいる。
この『降伏後におけるアメリカの初期対日政策(SWNCC150/4/A)』とは、国務省極東局日本部所属のボートンも加わった国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が纏(まと)めた初期対日政策の最終案であり、「完全武装解除と非武装化」が明記され、マッカーサーの確認を経て1945(昭和20)年9月21日に出されている。
これを元に、翌1946(昭和21)年1月7日、憲法改正指令及び制定方針を記した『日本の統治体制の改革(SWNCC228)』が最終決定され、マッカーサー宛に送付。連合国軍最高司令官総司令部( GHQ/SCAP)内で最も重要な参考資料とされている。
第147回国会・参議院憲法調査会 第7号(2000年5月2日)にリチャード・A・プール Richard Armstrong Poole(1919−2006)が参考人として出席した。プールはGHQ民政局で天皇を「象徴」とする案を起草した人物である。
プールはSWNCC228がガイドラインであったとしながら、「(SWNCC228は)当時、極東問題担当部署、今は東アジア問題担当部署と言われているところのヒュー・ボートン博士がその草案に大きく関わったと言われております。彼の補佐をしたのはマーシャル・グリーン Marshall Green(1916−1998)でありまして、グリュー大使の個人的なアシスタントでありました。グリュー大使はその後駐日大使になった方です」と証言している。
実はボートンの起案文書にその原点らしき記載がある。その文書こそが、ジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880−1965)〔※John Pierpont Morgan(1837−1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)を参照〕がシカゴ演説で参考にしたとされる『日本・戦後の政治的諸問題 Japan:Postwar Political Problems(T381、国務省領土小委員会第381号文書)』である。
ボートンが戦争真っ只中の1943(昭和18)年10月6日に起案したT381でグルー演説と内容的に通じる箇所は次の部分である。
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天皇制は戦後日本をより安定させる要因の一つとなるように思われる。天皇制は安定した穏健な戦後の政府の樹立にとって、価値のある要因になるであろう。(原 秀成 著『日本国憲法制定の系譜〈1〉―戦争終結まで』日本評論社 2004年刊行)
>
このT381の冒頭にはこう書かれている。
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日本の将来についての連合国の全般的な目的は、日本が再び攻撃を繰り返すことが出来ないようにするべきであり、同時に、経済的であれ、社会的であれ、あるいは政治的要因であれ、この侵略精神が蔓延(はびこ)るような様々な要因を除去することである。(原 秀成 著『日本国憲法制定の系譜〈1〉―戦争終結まで』日本評論社 2004年刊行)
>
重要な点は、T381を起案した時点で、既にボートンが戦後の日本に憲法改正を必要不可欠と考えていたことであり、しかもこの時既にボートンは象徴天皇制と憲法9条をセットにして論じていたということだ。
そして、彼らを米国の地から操っていたのはフーヴァー元大統領である。
フーヴァーはフェラーズと極めて親しい関係にあり、マッカーサーにとっても野心を実現する上で最も頼りになる盟友であった。フーヴァーはアメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)〔※関連資料(1・2若者への軍入隊勧誘の在り方を監視する同奉仕団・3)〕への協力を惜しまなかった。何故なら、このフーヴァーこそが歴代に二人しかいないクエーカー大統領だったからだ。そして、フェラーズはフーヴァーがマッカーサーに送りこんだお目付役のような存在であった。
しかも、このフーヴァーと戦前から親しく交流し、フーヴァーの私宅にまで招かれていたのが澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884−1976)〔※関連資料(1澤田節蔵と松岡洋右・2米国資本・満洲北支誘導工作)〕だった。二人はクエーカーの会合で知り合い、米国エスタブリッシュメントが一堂に集うメトロポリタン・クラブ Metropolitan Club(1908年創立、所在地は首都ワシントンD.C.ノースウエスト)で親交を深めていた。
〔資料〕≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(7)≫|MelancholiaT ※ジョゼフ・グリューと真珠湾攻撃・戦後政策について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11090371588.html
〔資料〕≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(11)≫|MelancholiaT ※本文及び添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11470025318.html
■クエーカーの「良心的参戦拒否」
そもそも、憲法9条を何処からどう読んでもクエーカー Quaker(=基督友会 Religious Society of Friends)の信条そのものであって、先ずここからスタートしないことに無理がある。頭を柔らかくして『真昼の決闘 High Noon(1952年)』や『友情ある説得 Friendly Persuasion(1956年)』などのウエスタン映画を見ればいい。その登場人物に現在の日本に重なる姿を見出せる。
これを解く鍵は「良心的兵役拒否者」にある。「conscientious objector(CO、コンシエンシャス・オブジェクター)」は日本では「良心的兵役拒否者」と訳されることが多いが、これを「良心的参戦拒否者」と訳せばより身近に感じられるだろう〔※関連資料(1兵役拒否の思想)〕。
日本国憲法に関わった人物の中で明らかに良心的兵役拒否者であったのは、ヒュー・ボートン Hugh Borton(1903−1995、クエーカー教徒、知日派、コロンビア大学准教授・IPR調査員など歴任)であった。
敬虔(けいけん)なクエーカー教徒であったボートンは、アメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)〔※関連資料(1・2若者への軍入隊勧誘の在り方を監視する同奉仕団・3)〕の一員として1928(昭和3)年に来日し、ギルバート・ボールズ Gilbert Bowles(1869−1960)の補佐役を務めた。後に太平洋問題調査会(IPR、1925〜1961、―MRA)での日本研究が認められ、国務省で対日政策立案の中心を担う。
クエーカーは古くから、平等、平和、戦争放棄、奴隷制廃止、女性参政権、精神障害者保護、刑務所改善などを主張してきた。ボートンの祖父は南北戦争 American Civil War(1861−1865)〔※南北戦争と戊辰戦争(1868〜1869)のリンクについて関連資料(1・2)〕に異議を唱え、以後、ボートン一家は公然と戦争反対を訴え続けてきた。ボートン自身もクエーカー教徒であるという理由で、徴兵名簿に良心的兵役拒否者として登録されていたのである。
この宗教的、思想的信条から徴兵を拒否するコンシエンシャス・オブジェクションの制度が、アメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)の尽力もあって米国で最初に法制化されたのは、南北戦争の時であった。
良心的兵役拒否者は代替業務として病院勤務もしくは解放奴隷保護、または代人を立てるか代償金300ドル(南部では500ドル)の支払いを求められた。この内、代人と代償金制度は貧富の差があるとの反発から第1次世界大戦の際に廃止されている。
代償金を湾岸戦争 Gulf War(1990〜1991)時の多国籍軍に対する総額135億ドル(当時の為替レートで約1兆8000億円)の拠出に、代替業務をイラク戦争時の人道復興支援活動及び安全確保支援活動に置き換えれば、「良心的」かどうかは別にして、議論の余地があるにせよ、日本が国際的に「良心的兵役拒否者のような存在」であることが分かる。
日本と同じく敗戦国となったドイツでは、1968年に復活した徴兵制以前から、ドイツ連邦共和国基本法(1949年制定)においてコンシエンシャス・オブジェクションを基本権として明記している。
日本とドイツ両国に共通するのは、敗戦国としての宿命を背負ってしまったことだ。堤 堯(つつみ きょう 1961−、反TPP)が語ったように、無力な敗戦国は戦勝国の出兵要求を拒否出来るわけがない。日本は憲法9条を楯にしながら、嘘でも「良心的兵役拒否者」と言い続ければ、まだまだ逃げ回ることが出来る。
〔資料〕やっぱり「にくいしくつう」 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年9月23日 ※「『社会保障の切り捨て』と『消費税引き上げ/法人税引き下げ』の一体改革は1990年代半ばに日本とアメリカの支配層が集まり、決められた方針に基づいている。CSISが設置した「日米21世紀委員会」が1996年にメリーランド州で最初の会議を開き、98年に報告書を出している」
http://satehate.exblog.jp/20762421/
〔資料〕秘密保護法案「絶対必要」―安倍首相 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年10月12日 ※(ヘーゲルの弁証法における「合」である)第2期安倍政権(第1期安倍政権でネトウヨなどを取り込むアリバイ作りを経た後の「合」)と第3次アーミテージ・レポート(―CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI)、他。
http://satehate.exblog.jp/20829303/
〔資料〕≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(2〜3)≫|MelancholiaT ※経済徴兵制について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11451319373.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11453425015.html
〔資料〕堤 未果 著『ルポ 貧困大国アメリカ』:書籍紹介 〜生存権を奪うことで、若者を軍と戦争へと供給する「経済的徴兵制」を見事に描写〜 - アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局 2008年4月1日 ※「もはや徴兵制などいらないのです。政府は格差を拡大する政策を次々と打ち出すだけでいい。経済的に追い詰められた国民は、イデオロギーの為でなく、生活苦の為に黙っていても戦争に行ってくれますから」
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/book-hinkontaikoku.htm
〔資料〕三島由紀夫と天皇 - 市川さんの意見 日本を良くするために
http://sky.geocities.jp/ichikawaiken/misimayukio.html
〔資料〕敗戦後の東大総長はキリスト教徒だった - 市川さんの意見 日本を良くするために
http://sky.geocities.jp/ichikawaiken/toudaisouchou.html
〔資料〕ヴァチカンとの決別で - Onlineジャーニー ※「カトリック君主には王権神授説を唱える者が多く、議会、ひいては国民の権利を制限し、絶対君主として圧政を敷こうとする傾向が強かった」
http://www.japanjournals.com/index.php?option=com_content&view=article&id=552
■「憲法9条」閉じ籠(こも)り作戦
外務省で吉田 茂の後輩に当る武者小路公共(むしゃのこうじ きんとも 1882−1962)は、吉田の歴史観について「英米を世界史の中での本流」とする見方に立っていたことを紹介している。厳密に言えば、英国とのビジネスを手掛けていた養父・吉田健三の影響もあって、吉田は英国こそがまさに本流と見ていたことは間違いない。
吉田は、鈴木貫太郎(1867−1948、総理大臣任期:1945年4月7日〜8月17日)の助言からよき敗者としての「負けっぷり」に拘(こだわ)り、G.M.トレヴェリアン George Macaulay Trevelyan(1876−1962)の『英国史 History of England』(Pearson/Longman 1926年刊行、邦訳版は『イギリス史〈全3巻〉』大野真弓 監訳・みすず書房 1973〜75年刊行)を再読三読しながら「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」を信条とした。
吉田は「昭和天皇免罪工作」が象徴天皇制として結実したことを北叟(ほくそ)笑み、それでもネチネチうるさいソ連やオーストラリアを黙らせる為に憲法9条を利用した。吉田もまたハーバート・クラーク・フーヴァー Herbert Clark Hoover(1874−1964、大統領任期:1929〜1933)〔※関連資料(1)〕元大統領が喜びそうな憲法9条によって日本が良心的参戦拒否国となったことを世界にアピールして見せたのである。
1946(昭和21)年5月29日に行われた憲法改正草案枢密院審査委員会で、吉田ははっきりこう述べている。
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マ(マッカーサー)司令部との交渉の経過を述べれば第一条によつて陛下のpersonが守られる。又畏(おそ)れ多いことではあるが戦争責任からも陛下をお救ひすることが出来ると云ふ考へである。
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吉田はこの時、ユーモアたっぷりにこんなことも語っている。
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日本としてはなるべく早く主権を回復して進駐軍に引上げてもらいたい。費用の点も問題であるがそれは別としてもアメリカ軍の軍人やその家族より見てもその声は強い。GHQはGo Home quicklyの略語だとする者もある。その為には先方の望の様に日本再軍備の恐れはなく又民主化は徹底した、と云ふことを世界に早く証明し、占領の目的完成になるべく早く近付きたい。その為には憲法改正(大日本帝国憲法から現行憲法への改正という意味)が一刻も早く実現することが必要である。私はひそかにそう考へてゐる。
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吉田は昭和天皇の無罪が確定し、日本周辺の脅威が無くなればさっさと改正することも考えていた。同時に戦前からの元祖「反ソ・反共」の吉田は共産主義の脅威を見抜いていた。米ソが対立し、その対立が長期化することも予測していた。何せ日本はロシア相手に勝ったことがあるのだ。日本が軍隊を持っていれば、米国によって存分に利用されることになる。
同じ日の委員会(枢密院第9回審査委員会 1946年5月29日)で吉田はこう話している。
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九条は日本の再軍備の疑念から生じた。これを修正することは困難である。日本の始安については進駐軍を使ふより他に方法はない。日本の警察は特高の廃止により殆んど崩れてしまつた。故にその再建までは進駐軍の援助を期待するより他はない。此の点については先方も諒承してゐる。しかし直接に進駐軍が手を出すことは出来ない、と言つてゐる。軍備を持たざる以上、例へばソ聯に対しては、英米の力を借りるより他ない。
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被占領国が占領国の力を借りちゃうのである。ここにドイツも羨む吉田のトリックがあった。これが後に、米国が批判的に用いる「安保ただ乗り論」になっていく。
吉田狸にまんまと騙されたのがマッカーサーだった。当初マッカーサーは、憲法9条を自分が発案したように見せ掛けていた。野心の為に共和党の重鎮であるハーバート・クラーク・フーヴァー第31代大統領にアピールする必要があった。しかし、後に困った問題が起こった為、幣原喜重郎発案説に切り替えた〔※関連資料(1)〕。
米国側も「ビックリ憲法」などさっさと改正するだろうと読んでいた。そうなれば速やかに再軍備させて前線兵力として活用出来る。誰がどう見ても日本の戦争放棄と戦力放棄は米国にとってデメリットの方が多い。
ところが、米国にとって予想外の展開が起こる。朝鮮戦争 Korean War(1950〜1953)が目前に迫っても吉田狸はひょうひょうと憲法9条に閉じ籠(こも)りながら経済再建に力を注ぐ。そうなると憲法9条の言い出しっぺがマッカーサー本人では具合が悪い。マッカーサーは突如、幣原発案説を言い出す。
これを裏付けるように、ニュー・ディーラーがわんさかいたGHQ民政局のフランク・リゾー Frank Rizzo(−)は西 修(にし おさむ 1940−)に興味深い話をしている。
民政局局長のコートニー・ホイットニーは憲法9条の発案者に関して、当初は「アウア・オールドマン」(マッカーサーを指す)と言っていたが、朝鮮戦争勃発以降「ユア・オールドマン」(幣原を指す)と言い出したと言うのである〔※関連資料(1「憲法9条の成立過程 By 西 修」15頁〜)〕。
これを受けて西は、「朝鮮戦争勃発の時点辺りから、幣原発案説が総司令部内で作り上げられ、色々な手段を利用して、流布、定着を図ったとの見方も成り立ってこよう」と指摘している(西 修 著『日本国憲法はこうして生まれた』中央公論新社 2000年刊行)。
吉田狸も『回想十年〈全3巻〉』(新潮社 1957年刊行)の中で、日本の再軍備の話が初めて真剣に出たのは朝鮮戦争が起こる直前だったとしている。
1950(昭和25)年6月25日に朝鮮戦争が勃発、同年7月7日に国連軍最高司令官に任命されたマッカーサーは、翌8日、吉田に警察予備隊創設と海上保安庁増員を指令する。7万5000人の警察予備隊の創設と海上保安庁の8000人増員を指示し、後の陸上自衛隊と海上自衛隊の母体となった。
この時の吉田とマッカーサーの曖昧(あいまい)な対応が、「自衛隊は軍隊か否か」という不毛の論議を半世紀以上に亘(わた)って繰り広げる素地を作ったのである。
保守的な共和党員であったマッカーサーは、大統領就任への野心を抱いていた。
1948(昭和23)年の大統領選に出馬することを考えたマッカーサーは、GHQ内のニュー・ディーラーを利用する。民主党支持票の取り込みを狙ってリベラル派が好みそうな「下からの改革」を日本で推進したのである。その象徴として財閥解体があった〔※関連資料(1M資金について)〕。
マッカーサーは、この時の予備選で大敗しても野心を捨ててはいなかった。その為に軌道修正が行われ、中途半端な再軍備の指令や幣原発案説へと繋(つな)がる。いわば自衛隊も、幣原発案説も、朝鮮戦争の落とし子であった。
朝鮮戦争はマッカーサーにとって最後のチャンスに見えた。1952(昭和27)年の大統領選に向けて何としてもこの戦争に勝利し、凱旋パレードの中で出馬表明を行いたかったのだろう。しかし、この夢は叶わなかった。1951(昭和26)年4月11日にトルーマン Harry S. Truman(1884−1972 大統領任期:1945〜1953)大統領(民主党)は、マッカーサーを突如、解任する。
マッカーサー解任を見てみよう。マッカーサーが中国の海上封鎖、満洲への原爆投下も辞さない爆撃、国民党軍の中国南部侵攻を提案したことがトルーマンとの対立を生んだと言われている。日本に続いてマッカーサーもまた満洲という虎の尾を踏んだのである。この点について松本重治(1899−1989)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕が非常に興味深い裏話を披露しているので紹介しておきたい。
松本は『上海時代』(中央公論社 1977年刊行)や『われらの生涯のなかの中国―六十年の回顧』(伊藤武雄, 岡崎嘉平太, 松本重治, 阪谷芳直, 戴 國W 著・みすず書房 1983年刊行)で、原爆をも視野に入れた満洲爆撃を止めさせたのは19世紀にアヘン貿易で巨大な富を築いた香港の英国系大財閥ジャーディン・マセソン商会 Jardine Matheson Holdings Limited 〔※『赤い楯』より【系図18-1・18-2・19】及び関連資料(1・2・3・4・5・6「グラバー商会」の謎の倒産の裏側)〕のオーナー一族の一人、ジョン・ケズウィック John Henry “The Younger” Keswick(1906−1982)〔※『赤い楯』より【系図12-1・12-2・14・18-1・18-2・19】〕だと書いている。
ジョン・ケズウィックが満洲爆撃の中止を求めて当時のクレメント・アトリー Clement Richard Attlee, 1st Earl Attlee(1883−1967、首相任期:1945〜1951)英首相(労働党)をワシントンに飛ばせた。そして、この事実はジョン・ケズウィック自身も認めていたと書いている。
ジョン・ケズウィックはその理由として「中国人民がこれ以上の戦禍に巻き込まれることは堪えられなかった」としているが、明らかにビジネス上の計算があったはずだ。従って、マッカーサーを間接的に解任に追い込んだのはジョン・ケズウィックだったということになる。
ケズウィック・ファミリーと日本との繋(つな)がりも深い。「長州ファイブ Choshu Five」〔※関連資料(1)〕を支援したのもジョンの祖父・ウィリアム・ケズウィック William Keswick(1834−1912)だった。
松本は共同通信社(1945年設立)の前身である同盟通信社(1936〜1945)上海支局長時代にまたデヴィッド David Jardine Patterson(1914−)、トニー William Johnstone “Tony” Keswick(1903−1990)、それにジョンのケズウィック三兄弟と出会い、このジャーディン・マセソン人脈を頼りに英国紳士が集う「上海クラブ」に入会する。松本の招きでこの上海クラブのゲストとして優遇されたのが樺山愛輔であった。松本はケズウィック三兄弟の親友となり、戦後もその親密な関係は続いた。
このジョン・ケズウィックはビジネスマン以外にもう一つの顔を持っていた。英国が中国に送り込んだ工作員だったのである。英国特殊作戦執行部(SOE、―英ハンブローズ銀行)〔※『赤い楯』より【系図10-1・10-2・12-1・12-2・鉱山3大会社 アングロ・アメリカン デビアス リオ・チント・ジンク を巡る南アのシンジケート・14・63・78】〕の中国での活動指揮に当っていたのがジョン・ケズウィックだった。そして、ジョンはコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員も出入りしていた中国国民党の国際問題研究所 Institute for International Studies(IIS)とその下部部門の資源調査研究所 Resources Investigation Institute(RII)を活用して、巨大なスパイ網を掌握した。
更に1942(昭和17)年に独立した連絡事務局を設置し、自由フランス France libre(1940〜1943)代表団や内務人民委員部(NKVD、KGBの前身)、米戦略事務局(OSS、CIAの前身)、インド方面軍司令部から送り込まれた英国各機関との関係を密にしている(Richard Aldrich 著, 会田弘継 翻訳『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争―初めて明らかになった極東支配をめぐる「秘密工作活動」』光文社 2003年刊行)。
このスパイ活動の目的は日本と戦う中国をどうやって援助出来るかであった。
松本がジョンの裏の顔を知っていたのかどうかは不明であるが、二人の間で極めて深刻な情報のやりとりが行われていた可能性が高い。このジャーディン・マセソン人脈の中に吉田 茂もいた。むしろ、吉田こそがその元祖と言える。吉田の養父である吉田健三はジャーディン・マセソンの横浜支店支配人であった。但し、ケズウィック三兄弟を吉田に結び付けたのは松本である。吉田が戦後初めて訪英した際、松本がケズウィック兄弟を通じてお膳立てしていたのである〔※関連資料(1重要)〕。
現在の北朝鮮問題に通じることだが、吉田は朝鮮有事が米国有事であっても日本有事に繋(つな)がるとは考えていなかった。背後にいるソ連は断じて軍事的な侵攻で日本を脅かすことが無いと確信していた。吉田が米国のみの情報に頼っていれば、米国の思惑通りの再軍備に走っていたであろう。
吉田の確信が単なる勘に頼っていたとは思えない。恐らく松本やジャーディン・マセソン人脈などを通じて広範囲に情報を入手していたものと思われる。今吉田が生きていれば、米国の為だけに舞い踊ることだけが国益ではないと断言したであろう。
尚、中西輝政(1947−、安倍晋三のブレーンの一人)などが中心に右派系言論誌などではコミンテルンの策略によって日本が戦争に追い込まれたかのような論説が飛び交っている。しかし、英国というスパイ王国の関与に言及したものは皆無に等しい。一方でこうした歴史を今尚無視し続ける左派などはもはや問題外と云える。
大敵の存在はイデオロギーなども飛び越えて周辺を結び付ける。重ねて書くが、いざ戦争となれば、策略、謀略などは当たり前。むしろ嵌められる方が悪いのである。嵌められやすい日本の体質改善が今尚手付かずのままになっていることの方がより重大な問題であろう。
〔資料〕第2次世界大戦の「醜い秘密」 By Henry Makow Ph.D. - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2010年12月24日 ※SOEと第2次世界大戦
http://satehate.exblog.jp/15659915
〔資料〕日本の金融史(11):ドッジライン&吉田 茂の家系 - MATRIX 2010年12月21日 ※「渡邊謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した吉上山慈眼院光明寺が立つ久保山の横浜市公営久保山斎場(火葬場)で戦犯が火葬され、その息子の吉田 茂が戦後日本を率いていく・・・」
http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221
〔資料〕【幕末維新の代理人】代理人認定#6:トーマス・ブレーク・グラバーの陰謀2 - 金貸しは、国家を相手に金を貸す 2013年8月14日 ※「グラバー商会」の謎の倒産の裏側。アーネスト・メイソン・サトウ卿(1843−1929)曰く「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」。現在の様々な事象を俯瞰して見る上で大変重要な視点。
http://www.kanekashi.com/blog/2013/08/002045.html
〔資料〕白洲次郎とは何者だったのか(37) - ぴゅあ☆ぴゅあ1949 2008年6月18日 ※白洲次郎と土佐商会とジャーディン・マセソン商会
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50617012.html
〔資料〕フルベッキ考 - れんだいこのホームページ 2007年4月27日
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_furubekkico.htm
http://jbbs.livedoor.jp/study/2491/storage/1089787468.html
〔資料〕「近代日本とフルベッキ」(第1回〜第12回) By 野田隼人 - 世界の海援隊 2004年7月〜2005年6月 ※重要。
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/4-jul/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/4-aug/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/4-sep/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/4-oct/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/4-nov/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/4-dec/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/5-jan/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/5-feb/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/5-mar/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/5-apr/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/5-may/
http://ibd-net.co.jp/worldkaientai/5-jun/
〔資料〕横浜開港資料館館報 開港のひろば 第9号 昭和59年11月1日付(PDF、全8頁) ※ジャーディン・マセソン商会について。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_09.pdf
〔資料〕旧吉田 茂邸が全焼 - 園田義明めも。 2009年3月22日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/03/22/4197443
〔資料〕ジャーディン・ハウス Jardine House - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9
〔資料〕<ジャーディン・マセソン>増殖続けるケズウィック・ファミリーの網の目仕掛け - 園田義明めも。 2009年11月23日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/23/4714317
〔資料〕タヌキの養父は鳥や動物に突かれ蘇生した! - 園田義明めも。 2010年2月8日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/08/4864923
〔資料〕「なりすまし」をして内部侵食するワナに、日本の社会は弱い - DARLNESS bllackz.com 2013年3月29日 ※「保守」「トロイの木馬」の尖兵(エージェント)について。なりしました連中による秘密保全法や日本版NSC、等々。
http://www.bllackz.com/2013/03/blog-post_29.html
(12頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(12)≫
(11頁からの続き)
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〔資料〕≪無題(TPP、アベノミクスなどに関する記事・資料一覧 2013年3月15日〜7月25日)≫|MelancholiaT ※TPP(日米安全保障を抱き合わせ)、核の日米同盟、自衛隊と米軍の一体化、安倍政権下での50兆円の外債購入ファンド設立及び7月の米国債5兆円買い増し、米国民間企業に委託する「マイナンバー制度」、日本版NSC及び秘密保全法、3%のうち2%を産業競争力会議中心で経済対策に充てる消費税大増税及び法人税減税とその中身の実態、米国型社会への移行――恐らく日本の多くの一般市民が尽く望んでいないことをショック・ドクトリンなどを巧妙に利用し有無を言わせず強いる方法――が意味すること・その全体像、等々。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11509616866.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11513907821.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11518929385.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11535362468.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11535864090.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11549494255.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11576741141.html
※『第3次アーミテージ・レポート(はじめに「自由貿易と移民に対する開放性〜」)』他
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11579938710.html
〔資料〕≪「対日年次改革要望書」とTPP:日本語翻訳 PDFファイル(1996年〜2011年)≫ ※東北大震災、福島原発事故、TPP、余りにも出来過ぎた一連の流れ
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11066706411.html
〔資料〕アメリカは現在どうなっているのか?FRB(―日経・CSISバーチャル・シンクタンク)の金融政策から、アメリカ経済のいまを読み解く - 経済のベース、金融のドラム 2013年8月8日 ※「つまり、アメリカにおいて、それぞれの経済主体は、サバイバルの為に、もはや全く別々の動きをしているわけです。アメリカ経済という名で呼びうる何らかの統一的な尺度は、どこにもないと言わざるを得ません。そうである以上、もはや国民経済としてのアメリカ経済など存在しません」
http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130808
〔資料〕『民間が所有する中央銀行』より 地球上で最も巨大なトラストを創設する法律 By Eustace Mullins - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2008年3月10日
http://satehate.exblog.jp/8417088
〔資料〕エコノミック・ヒットマン - LEGACY OF ASHES 2013年6月8日 ※「借金を負わせ、奴隷化する」
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/548.html
http://rothschild.ehoh.net/material/new_05f.html
〔資料〕何故大企業の法人税は中小企業よりも軽いのか - 税経新人会全国協議会 ※消費税増税と法人税減税の逆進性、更に輸出戻し税制、表5連結納税制度を適用している大企業、産業競争力会議及び経団連ほか一部財界(と米多国籍企業群及びウォール街など国際金融資本)と現政権の連動性。TPPとその地均しという観点も必要。
http://www.zsk.ne.jp/zeikei603/ronbun.html
〔資料〕米国民の危機的状況 - LEGACY OF ASHES 2013年6月9日 ※4月26日記事「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」他、4月11日記事【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】を併せて参照。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/549.html
〔資料〕カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1〜2 - 不 可 視 の 学 院 2007年10月15日
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/565.html
〔資料〕戦後の日本とMRAの軌跡 - 財団法人MRAハウス ※澁澤敬三、三井高維、吉田 茂、鳩山一郎、岸 信介、佐藤榮作、一萬田尚登、石川一郎、石坂泰三、池田勇人、中曾根康弘、金 鐘泌(KCIA)、他多数
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/IDX1.HTM
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※清和会と松下政経塾とGATT(現WTO)、或いはMRAと統一教会・KCIA、等。「金貸し支配と労働運動は繋がっていた?」「資本主義と共産主義はユダヤの両建て主義」他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11211313712.html
〔資料〕「安倍政権、50兆円規模の外債購入ファンドを創設する見込み」 - EX-SKF-JP 2013年1月13日 ※「米国債を購入して円安に導き、・・・・安倍首相は、米国債の投資家の最良の友となるようだ」
http://ex-skf-jp.blogspot.jp/2013/01/blog-post_13.html
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MGLHAA6JIJVE01.html
〔資料〕日米政府による『抱きつき心中』か?【安倍政権、米国債50兆円の購入確約】米国債権買って『米連銀の救済』が安倍訪米の手土産なのか?「米連銀の救済とFRBバーナンキ会長への支援、円安狙いが目論見?安倍政権が50兆円もの外債購入ファンド設立。購入の大半は米国債となる見通し。野村證券、岩田前日銀副総裁、JPMorgan証券など各社が確認した」。 - 山崎淑子の「生き抜く」ジャーナル! 2013年1月15日
http://enzai.9-11.jp/?p=13747
〔資料〕アメリカの金融マフィアが東京証券取引所の買収に乗り出した時、日本は国益を守るといってこれを阻止出来るのか? - 経済のベース、金融のドラム 2013年1月18日
http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130118/1358472073
〔資料〕4月半ばに起きた金価格の歴史的暴落から、ある程度時間が経って解ったこと - 経済のベース、金融のドラム 2013年5月10日 ※「つまり、金価格の暴落の後、世界同時株高になったのです」
http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130510/1368140212
〔資料〕先週に続きまたも木曜に株価が大幅下落した、5月30日東京市場の取引の詳細〜ちなみに、今回は更に複雑です〜 - 経済のベース、金融のドラム 2013年6月2日 ※「そして今回、明らかにこれが行われた形跡があるのです」
http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130602/1370138119
〔資料〕ここ最近、アジアの株式市場は全面安の展開〜ファンダメンタルズには何も変化がないのに〜 - 経済のベース、金融のドラム 2013年6月4日 ※「すべては12時40分頃から始まります」
http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130604/1370300575
〔資料〕資産規模で世界最大の投資ファンドであるGPIF(日本の年金基金)が、外債・外国株への投資拡大を発表したことについて - 経済のベース、金融のドラム 2013年6月10日
http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130610/1370825207
〔資料〕5兆円の米国債を買い増し(2013年7月)して瀕死の同盟国を支える日本 - Kaleidoscope 2013年10月16日
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2418.html
〔資料〕消費税増税によって日本の財政破綻が早まる−その1〜2 - Kaleidoscope 2013年10月11・13日 ※経済対策と言いながら産業競争力会議(以前の経団連から産業競争力会議に軸足を移した、日本の多国籍企業群。議長・副議長・座長は安倍晋三・麻生太郎・竹中平蔵)が我が物顔で自分達の為にその使途を決めるのが実情。安倍は産業競争力会議議長でもある。つまり最初から「社会保障の為の消費税増税」は嘘であり「やむをえない」とかいう以前の問題。この期に及んでも騙されていることに気付かない人が多いのは、日米多国籍企業群と満洲人脈の犬である電通(満洲通信社)と売国“談合”マスゴミによる情報統制・(詰め込み教育をベースとする)洗脳刷り込み教育の賜物。
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2401.html
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2410.html
〔動画〕「政府は必ず嘘をつく」ジャーナリスト・堤 未果さんが真相を明らかに - YouTube ※Shock Doctrine(惨事利用型資本主義)及びストックホルム症候群の応用、9.11、3.11、「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】他について
http://www.youtube.com/watch?v=90oikVp8mKk
〔資料〕首相フェイスブック 異変 「いいね」期待感一転 消費増税で批判殺到政治 - 東京新聞 2013年10月13日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013101302000102.html
〔資料〕安倍総理に講演の場を与えたCSIS(―日経・CSISバーチャル・シンクタンク)とは何か By 中島 聡 - BLOGOS 2013年2月26日
http://blogos.com/article/56980/
※CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI(---CSISのエージェント・小泉進次郎復興政務官)について。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11509616866.html
〔資料〕日本人が知らないニッポン〜隠されてきた歴史から読み解く世界の成り立ち〜 - THINKER
http://www.thinker-japan.com/thinkwar.html
〔資料〕嗚呼!属国ニッポン アメリカの猿芝居に付き合わされ北朝鮮非難の声明発表 - 憂国広場Y 2010年5月22日 ※「中国もアメリカの犬コロの北朝鮮に餌をやるほどお人好しではない」
http://yaplog.jp/warabidani/archive/942
※北朝鮮と満洲人脈とCIA(のマッチポンプ)について、一部資料
http://blog.livedoor.jp/truthseeker/archives/65387135.html
http://www.asyura2.com/10/senkyo91/msg/531.html
〔資料〕どうりで安倍とモンゴルが最近接近はこれか。朝鮮総連本部の再入札、落札はモンゴル関係者? - 糸川 隼のデイリーニュースジャーナル ※満洲人脈(安倍・統一教会・電通など)と北朝鮮と米国のトライアングルについて。
http://ameblo.jp/toyotacarina/entry-11640563929.html
http://nagatsuki07.iza.ne.jp/blog/entry/3126147/
〔資料〕宮崎正弘 著『中国財閥の正体―その人脈と金脈』(扶桑社 2004年刊行)より一部抜粋 - ど素人の投資ドットコム 研究室 ※ブッシュと江 沢民
http://home.d03.itscom.net/hotaru/newpage43.html
〔資料〕飢餓の根本原因は何か〜“金貸し”(世銀・IMF)が世界の格差を拡大し貧困と飢餓を創り出している - にほん民族解放戦線^o^ 2013年7月10日
http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/49f3b8809102dc493f56e62a0c1ba380
〔資料〕ハンガリーはIMFや国際金融機関を追放しようとしています - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年10月22日 ※超重要。
http://satehate.exblog.jp/20862474/
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〔資料〕孝明天皇の御聖徳 1〜5 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu162.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu163.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu164.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu165.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu166.html
「私は、孝明天皇の崩御の真相よりも、むしろ当時から暗殺の噂があった事実が重要だと考えます。(中略)これは孝明天皇が暗殺されるほど重要な存在、或いは討幕を狙う者にとって邪魔な存在だったことを意味するのです。孝明天皇がそのような存在になったのは、天皇が一貫して「公武合体による鎖国攘夷」を貫いたからでした。討幕への機運が高まる中、天皇の存在はその障害となったと考えられます。孝明天皇崩御によって、討幕への最大の障害が外れ、間もなく討幕が実現し、明治維新政府が成立しました。いま維新の英雄は日本の英雄、歴史の英雄と言われていますが、果たして明治維新は、成功だったのでしょうか。確かに、朝廷が残ったのですから、私は敢えて失敗だとは言いません。一歩間違えば朝廷の存在が失われた可能性すらあるわけです。しかも、維新が齎(もたら)した開国、文明開化、鹿鳴館へと続くグローバリズムは我が国に様々な恩恵を与えてくれました。国は富み、兵は強く、日本は列強の仲間入りを果たしました。日本の繁栄の基礎を築いた明治維新には一定の価値があったと言えるでしょう。しかしながら、そこには光だけでなく、影もありました。それらの恩恵の代償として、私達は最も大切なものを置き去りにしてきたのではないでしょうか。(中略)本当の保守を失ったことは、日本人の心を置き去りにしてきたようなもので、そこに明治維新の影の部分があるのです。孝明天皇、或いは会津藩といった維新の「負け組」は、本当の保守でした。孝明天皇は、歴史と伝統に依拠して、グローバリズムという激流にただ一人立ち向かった、孤独の天皇だったのです。今そこに光を当てると日本の進むべき道が見えてくると私は思います。明治維新以降、とりわけ大戦後の日本は、歴史と伝統を顧みず、改革を進めることに価値を見出す社会になってしまっています。しかし、本来の日本人の気質は、新しいものを作り上げることよりも、むしろ古いものを守ることに重きを置いていたのです。いま、明治維新前夜に立ち返ることを考えなくてはなりません。維新以来の歩みを見つめ直し、孝明天皇が守ろうとした日本の姿を、そして日本人の気概を取り戻すことが肝要です。それが守るべき本当の日本の姿なのです」
〔資料〕皇室典範議論の行方 1―平成の山口二矢 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ ※「2006(平成18)年2月7日14時過ぎ、小泉純一郎総理(役職は当時、以下同じ)の姿は衆議院予算委員会にありました。 答弁を待つ小泉総理に秘書官から一枚のメモ書きが手渡された瞬間の、鳩が豆鉄砲を食らったような総理の様子は、NHKの国会中継で全国に放送され、その後も各局が幾度となく繰り返して放送することになります。 小泉総理に手渡されたメモは秋篠宮妃殿下が御懐妊遊ばしたことを知らせるもので、これを見た総理は、初め意味がよく理解出来ずに「ポカン」とした表情をして上の空となり、質問に立つ民主党議員から「総理、総理!」と呼び掛けられました。 小泉総理は、やがてその意味を理解したようで、少々困惑しながらにやけた表情を見せたのです。 これを期に、2004(平成16)年から本格化した皇室典範改定への動きは完全に止まりました。 そして、2006(平成18)年9月6日の親王殿下御誕生によって、それまで女性・女系天皇の成立を意図していた論客達は、鳴りを潜めたように沈黙しています。妃殿下御懐妊のニュースが駆け巡った時、「神風が吹いた」と思ったのは私だけではなかったでしょう」
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu172.html
〔資料〕皇室典範議論の行方 2―出来レースだった有識者会議 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu173.html
〔資料〕皇室典範議論の行方 3―正当性を失った女系天皇容認論 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu174.html
〔資料〕皇室典範議論の行方 4―皇室は最後の抵抗勢力!? By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ ※「秋篠宮妃(あきしののみやひ)御懐妊が発表される直前の、皇室典範改定問題が最も激しく議論されていた最中の平成18年1月、小泉総理が自民党幹部と会合を持った際に、総理は『今国会で皇室典範改正案を必ず上程する。典範改正は構造改革の一環だ』と述べた後、少し声を潜めて、静かに、しかし力強く「皇室は最後の抵抗勢力」と言ったというのです」
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu175.html
〔資料〕皇室典範議論の行方 5―捏造された綸旨 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ ※「小泉総理・武部幹事長・細田国対委員長が揃って口にした「女系天皇は陛下の御意思」というのは、全くの出鱈目だったのです。(中略)『天皇の御意思』が捏造されたものであるとすれば、三氏は綸旨(りんし)を捏造したことになり、これでは『君側(くんそく)の奸(かん)』と呼ばれても仕方ないでしょう」
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu176.html
〔資料〕皇室典範議論の行方 6―皇統の危機はまだ解決していない By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ ※「小泉総理が最後まで女性天皇と女系天皇の違いを知らず、皇室典範改定法案の趣旨を理解していなかったことからも分かるように、皇室典範改定は元々小泉総理の考えではありませんでした。誰かが準備をしていなければ、あの時期に何の前触れもなく有識者会議が立ちあがるはずはありません。では一体誰が女系天皇成立を目論んで準備を進めていたのでしょうか。それを知るには、かつての橋本内閣の時、水面下で皇室制度に関する非公式の検討会が発足し、内閣法制局を中心に法案が検討されていた事実を検証する必要があります」
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu177.html
〔資料〕日本人なら米を食え By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu182.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu184.html
〔資料〕小沢幹事長の韓国講演「騎馬民族征服説」 - 皇室のきょうかしょ ※―「正・反・合」を完成させる為のスケープゴートとして機能した小沢事件、他。もし現状の形成こそが本当の目的であったのならば、“建前”ではあっても国民自らがそれを利用して国民のほうを向いた政治を守らせたほうがまだよかったのでは?また、ショック・ドクトリンにより、民主党政権に3.11(ホロコースト)の責や負のイメージを負わせることにより、或る意味フクシマの問題が続く限り安倍政権はまさにやりたい放題出来るようになった、とも言える。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu191.html
〔資料〕天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか? 1〜7 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu216.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu217.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu218.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu219.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu220.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu221.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu222.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu223.html
〔資料〕「魔王宮」と呼ばれた皇族 1〜2 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu224.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu225.html
〔資料〕日本は君主国か民主国か By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu242.html
〔資料〕「君が代」の意味 2 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu244.html
〔資料〕応神天皇御陵の立入許可について By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ ※「宮内庁は、2011(平成23)年2月7日、学術研究の為に応神天皇御陵への立入調査を許可しました。これまで皇后陵への立入調査が許可された例はありますが、天皇陵への立入調査が許可されたのは、我が国の歴史において、初めてのことです」
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu245.html
〔資料〕TPPは加盟国を奴隷秩序に誘い込む“無理心中協定”のこと - Kaleidoscope 2011年11月20日 ※「しかし、まさに皇室典範改正論議を国会でやっていたその時、秋篠宮ご夫妻に長男悠仁さまが誕生した、というニュースが小泉の元に届けられ、この危険な論議は立ち消えとなりました」
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-991.html
〔動画〕「主権回復の日」政府が初式典 条約発効から61年(13-04-28) - YouTube ※長州閥の「天皇陛下万歳」が意味すること。尖閣問題とヘリテージ財団と統一教会、他。
http://www.youtube.com/watch?v=MxiHgnvSGI8
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※美智子皇后がお悔やみの中で発言された「地球温暖化」とWWFジャパン(名誉総裁は秋篠宮文仁親王)について。「地球温暖化」発言からWWFを連想出来た日本人がどれほどいるのだろう。戦前・戦中・戦後と何も変わらない支配層(エスタブリッシュメント)の利権構造。東京オリンピックとWWF、他。その二面性がここでも垣間見える。
〔資料〕パンダ(WWF)と踊ろう、地球温暖化 - 園田義明めも。 2009年11月23日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/23/4714690
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/cat/globalwarming/
〔資料〕WWFジャパン
http://www.wwf.or.jp/activities/climate/
〔資料〕かつて緑の党スポークスマンであったデーヴィッド・アイク、怒りの告発 世界自然保護基金(WWF)の秘密 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2008年4月12日 ※1001 Club―WWF
http://satehate.exblog.jp/8644284/
〔資料〕ローマクラブ・環境運動・優生学・グローバル2000・地球の友・虐殺と乗っ取り By David Icke - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2008年4月13日 ※地球の友―WWF
http://satehate.exblog.jp/8652153/
〔資料〕ウォーレンバーグに学ぶ地球温暖化の儲け方 - 園田義明めも。 2009年11月27日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/27/4723377
〔資料〕クライメートゲート事件で人為的地球温暖化説は大揺れ、それでも祭りは続くのか - 園田義明めも。 2009年11月27日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/27/4724093
〔資料〕クライメートゲート記事リンク集 - 園田義明めも。 2009年11月28日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/28/4724330
〔資料〕それでも米国一極集中は終わらない、危うい日本の大博打 - 園田義明めも。 2009年11月29日 ※多国籍企業体や電通(満洲通信社)の犬・売国“談合”マスゴミによる情報統制と嘘の上塗りの最たる一例。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/29/4725941
〔資料〕トタルから見るフランス株式会社の国家戦略 - 園田義明めも。 2009年11月30日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/11/30/4729787
〔資料〕内閣府「原子力に関する特別世論調査」に見る日本地球温暖化祭の実情 - 園田義明めも。 2009年12月1日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/01/4731372
〔資料〕ついに日本版クライメートゲート事件発覚か - 園田義明めも。 2009年12月2日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/02/4734274
〔資料〕<クライメートゲート>ハッキングされたフィル・ジョーンズ教授がCRU所長を辞任 - 園田義明めも。 2009年12月3日 ※「ロイターにAPにブルームバーグにBBCにワシントン・ポストでも知らんぷりを続けるおつもり?」
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/03/4736594
〔資料〕<クライメートゲートとジャーナリズム>米国ではリベラル・ニュース・メディアのもみ消し疑惑も浮上中 - 園田義明めも。 2009年12月4日 ※ABC・CBS・NBC―Rothschild(ウラン・核利権、排出権取引ビジネス等)、核の日米同盟(「核軍縮」&プルサーマル“MOX for Peace”―原子力事業の一体化)
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/04/4741847
〔資料〕<クライメートゲートとジャーナリズム>日本株式会社の涙ぐましい努力の先にあるもの - 園田義明めも。 2009年12月5日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/05/4741923
〔資料〕<クライメートゲート>ついに日経紙面に登場、でも土曜夕刊・・・ 園田義明めも。 2009年12月6日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/06/4743216
〔資料〕<日本版クライメートゲートの核心>世間知らずの踊る阿呆の大失態 - 園田義明めも。 2009年12月6日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/06/4744564
〔資料〕<クライメートゲート>日本のテレビ初登場!? - 園田義明めも。 2009年12月7日 ※TBSの意図は「陰謀論」レッテル貼りの手法と同じ。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/07/4745500
〔資料〕<日本版クライメートゲートの核心>世間知らずの踊る阿呆への「突出」攻撃第二波登場 - 園田義明めも。 2009年12月9日 ※「合」における現在の安倍政権と産業競争力会議、鳩山政権で潰されたはずのアジア外交と原発トップセールス(共にワシントン経由)、他。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/09/4747927
〔資料〕官軍気取りで暴走始めた小沢一郎の奥羽越列藩同盟 - 園田義明めも。 2009年12月12日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/12/4753853
〔資料〕日米中正三角形論者が辿る数奇な運命 - 園田義明めも。 2009年12月18日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/12/18/4763305
〔資料〕『民主党の東アジア共同体構想を、EUに擬えることは出来ない。』 ksさん論文の紹介 - 園田義明めも。 2009年12月19日
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〔資料〕クライメートゲートが今年最も世界のメディアを騒がせたニュースだ。 え、聞いたことない?(日経産業新聞online) - 園田義明めも。 2009年12月21日
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〔資料〕小沢一郎の仁徳天皇陵発掘調査隊 - 園田義明めも。 2009年12月22日
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〔資料〕東京電力がカナダに接近中 - 園田義明めも。 2009年12月23日
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〔資料〕天皇陛下、カナダ訪問の思い出を語る - 園田義明めも。 2009年12月23日
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〔資料〕A Sustainable World Order - 園田義明めも。 2009年12月24日
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〔資料〕<クライメートゲート>地球温暖化問題のゴッドファーザーとゴッドマザー - 園田義明めも。 2010年1月2日 ※霊友会(―石原愼太郎・猪瀬直樹)と神慈秀明会
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/01/02/4791207
〔資料〕ヒマラヤ氷河消失も根拠なし、IPCCのパチャウリ議長には会計疑惑も浮上中 - 園田義明めも。 2010年1月20日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/01/20/4824629
〔資料〕地球温暖化問題儲け組に相次ぐ受難 モーリス・ストロング、パチャウリ、そしてついにトヨタへ - 園田義明めも。 2010年2月6日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/06/4861620
〔資料〕クライメートゲートでゾクゾク・ゲート、地球温暖化問題消滅の日迫る - 園田義明めも。 2010年2月10日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/10/4869434
〔資料〕地球温暖化の真実はどこに? 最大の被害者は日本の子供たちだ - 園田義明めも。 2010年2月13日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/13/4876950
〔資料〕終焉迫る地球温暖化祭 日本に踊り子金メダル - 園田義明めも。 2010年2月18日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/18/4885467
(13頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(13)≫
(12頁からの続き)
〔資料〕2009年8月20日から2010年2月19日までの6カ月間に日本の新聞はクライメートゲートをどれだけ報じたのか・・・5大紙紙面掲載は何とたったの9回だけ - 園田義明めも。 2010年2月19日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/19/4891493
〔資料〕<クライメートゲート>ついに読売社説に登場!- 園田義明めも。 2010年2月26日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/26/4909361
〔資料〕<クライメートゲート>槌田 敦氏の東大IR3S『地球温暖化懐疑論批判』名誉毀損訴訟に注目を!- 園田義明めも。 2010年2月26日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/26/4909395
〔資料〕<クライメートゲート>それでも突出25%削減、これも原発の売り込みの為なのか? - 園田義明めも。 2010年2月28日 ※&ウラン・核利権、排出権取引ビジネス。(地均しの為の)一連の流れの中の一つの出来事として見た時、どのような意味を持つのかという観点で。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/02/28/4911659
〔資料〕友愛トップセールスは旧財閥系がお好き - 園田義明めも。 2010年3月2日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/02/4916503
〔資料〕鳩山政権目掛けて飛び交う外圧内圧ミサイル - 園田義明めも。 2010年3月9日 ※レイセオン社(―CSIS)―三菱重工
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/09/4934573
〔資料〕プーチンに学ぶ新成長戦略成功術、肝心要は武器なのだ - 園田義明めも。 2010年3月15日 ※「日本も米国と最強タッグを組んで海上配備型迎撃ミサイル「SM-3ブロックIIA(SM3ブロック2A)」などとセットで原発を売れば、中東諸国も大注目」、核の日米同盟(「核軍縮」&プルサーマル“MOX for Peace”―原子力事業の一体化)
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/15/4948979
〔資料〕それでも祭りは終わらない、青息吐息の「地球温暖化祭&原発祭」に強力助っ人(ビル・ゲイツ)登場!- 園田義明めも。 2010年3月23日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/23/4965381
〔資料〕<ゲバゲバ復活>「エコの銭ゲバ」パチャウリ博士、知らぬが仏の鳩山首相(総合情報誌『ザ・ファクタ』より) - 園田義明めも。 2010年3月25日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/25/4970408
〔資料〕東京財団「日本の水源林の危機」シリーズを読む - 園田義明めも。 2010年3月29日 ※麻生太郎副総理(産業競争力会議議長代理)のCSIS(―日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI)での講演における水道民営化の発言及び産業競争力会議の公共インフラ民営化推進の思惑(TPPと同時進行)、等の伏線として。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/29/4981429
〔資料〕英BAEシステムズが武器販売でナンバーワン ストックホルム国際平和研究所(SIPRI) - 園田義明めも。 2010年4月13日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/04/13/5014384
〔資料〕<速報>政府「北朝鮮による魚雷攻撃の可能性が極めて高い」との見方を強める。日本、米国、韓国3カ国の連携加速へ - 園田義明めも。 2010年5月17日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/05/17/5092519
〔資料〕緊張走る朝鮮半島、日経に続いて新聞・テレビは鳩山政権の危機管理能力に対して一斉攻撃を!- 園田義明めも。 2010年5月18日 ※※⇒韓国軍艦「天安」沈没の深層、日中防衛協調と沖縄米軍基地
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/05/18/5093514
〔資料〕友愛宇宙人、実は凶暴エイリアン 次に挑むは憲法9条改正か - 園田義明めも。 2010年5月29日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/05/29/5123759
〔資料〕米国史上最長の「アフガン戦争」の狙いはその地下に眠る1兆ドル規模の鉱物資源か - 園田義明めも。 2010年6月14日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/06/14/5162564
〔資料〕波紋広がる菅首相「消費税10%」発言、その狙いは民主&自民の小沢大包囲網か 1〜2 - 園田義明めも。 2010年6月21日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/06/21/5173759
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/06/21/5174570
〔資料〕<国債が消化出来なくなる日>いつまでもあると思うな金融資産 - 園田義明めも。 2010年7月4日 ※⇒NISA
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/07/04/5199522
〔資料〕やっぱり「にくいしくつう」 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年9月23日 ※「『社会保障の切り捨て』と『消費税引き上げ/法人税引き下げ』の一体改革は1990年代半ばに日本とアメリカの支配層が集まり、決められた方針に基づいている。CSISが設置した「日米21世紀委員会」が1996年にメリーランド州で最初の会議を開き、98年に報告書を出している」
http://satehate.exblog.jp/20762421/
〔資料〕IMF、日本に対し債務の抑制を提言 - 園田義明めも。 2010年7月15日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/07/15/5219105
〔資料〕在日外国人参加の民主党代表選は外国人地方参政権への布石となるのか - 園田義明めも。 2010年7月19日 ※TPP、多発するM&Aによりその先には「移民法改正」(英語を公用語とする安価で都合のいい労働力、『第3次アーミテージ・レポート(はじめに「自由貿易と移民に対する開放性〜」)』―日経・CSISバーチャル・シンクタンク)が想定されているだろう。何故マスコミが「民主党に一度政権をやらせてみればいいじゃないか」と世論を誘導したのかは現状が全てその答えを物語っている。こうしてただ民主党批判で済んでいた頃は或る意味まだ「自由」だったということ。左右(実は同じ。分断統治の手法)よりももっと上から、その全体の流れを俯瞰するべき。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/07/19/5226812
〔資料〕1000万人移民計画と自民党に関するQ&A - WJFプロジェクト 2013年7月14日
http://wondrousjapanforever.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/1000qa-a385.html
〔資料〕消費税という餌に賭ける釣りロマン 動き出す民自大連立 - 園田義明めも。 2010年7月24日 ※⇒大連立構想
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/07/24/5244223
〔資料〕<クライメートゲート>「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が抜本改革へ、パチャウリ議長に辞任圧力 - 園田義明めも。 2010年8月31日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/08/31/5316339
〔資料〕単純素朴に良かれと思ってやることが全部裏目に出てしまう民主党、中には「混乱・混沌」狙いの確信犯も? - 園田義明めも。 2010年9月10日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/09/10/5340597
〔資料〕どさくさに紛れて尖閣ビデオの核心部分を隠そうとしている民主党を許すな - 園田義明めも。 2010年11月11日 ※核心部分(1・2)
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/11/11/5491322
〔資料〕政権交代はなぜ失敗したのか:谷内正太郎氏はかく語りき - 園田義明めも。 2010年11月12日 ※一般国民にとっては失敗に終わっただろうが、現状を生むに当り日経らにとっては計画通り、と言うべき流れ。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/11/12/5493850
〔資料〕中ロ間石油パイプラインが本格稼働 - 園田義明めも。 2011年1月2日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2011/01/02/5619773
〔資料〕沸き立つ北極圏、ヤマル半島目指して三井・三菱連合艦隊いざ出陣!?- 園田義明めも。 2011年1月11日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2011/01/11/5632700
〔資料〕2012年「日本国債」祭に向けて、躍り始めたヘッジファンド?!- 園田義明めも。 2011年1月20日
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2011/01/20/5642536
〔資料〕京都に始まり、福島に終わる「地球温暖化祭」 - 園田義明めも。 2011年3月12日 ※一方で、日米経済調和対話やヘリテージ財団、CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク等に関する記事は尽く一切無し。
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2011/03/12/5737239
〔資料〕安倍晋三首相とは、何者か - オルタナティブ通信 2013年10月22日 ※「誰が選挙で勝利しても、利権を手に入れる一族は『同一』である。これが本当の、日本の支配者達であり、『支配の構造』である。『同じ利権グループでの、権力のタライ回し』が続く」(「正・反・合」)
http://alternativereport1.seesaa.net/article/378240048.html
〔資料〕太郎さんの街宣、コイズミの原発ゼロ、そして10-13集会 - 反戦な家づくり 2013年9月24日 ※安倍政権&産業競争力会議「公共インフラの民営化」の側には竹中平蔵がいる。京セラ(ソーラーパネル)稲盛和夫と進次郎(CSISエージェント)もCSIS人脈。稲盛と小沢(スケープゴート役)と前原(CSISエージェント)いう繋がりもある。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1299.html
〔資料〕軍産複合体の正体 - 闇株新聞 2013年9月13日 ※―小泉純一郎の脱原発発言
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-883.html
〔資料〕日本の地震専門家は3.11地震の原因究明に、なぜ人工誘発地震の可能性を視野に入れないのか - 新ベンチャー革命 2011年9月16日 ※一考察として。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/26545187.html
〔資料〕米空母ロナルド・レーガンの乗員が東電を訴える:3.11事件の闇が照らされるキッカケになるかも - 新ベンチャー革命 2012年12月29日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/31151518.html
http://blog.goo.ne.jp/saruyamataro/e/bde71040b083a85da74b2308d7cc2723
〜未完。※安晋会とライブドア事件、森永と宝くじ、他多数。〜
◇
(14頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(14)≫
(13頁からの続き)
■吉田と岸の化かし合い
日本に対して「自由世界への貢献」をも口にして再軍備を執拗に迫ったのが、ジョン・フォスター・ダレス John Foster Dulles(1888−1959)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図35―CIA長官ダレスとロマノフ家の姻戚関係】〕大統領特使(国務省顧問、後に国務長官)であった。
勝者は手のひらを返したように、敗者に剣を取って立つよう求めた。
ダレスの再三の要求を吉田がのらりくらりとかわすことが出来た背景には、ソ連に対する「封じ込め政策」で知られるジョージ・F・ケナン George Frost Kennan(1904−2005)の存在も挙げられる。
ケナンは1948(昭和23)年に国務省政策企画室室長として来日した。ケナンは、占領軍が引き揚げた後、日本が独力で共産主義の脅威に立ち向かう為には経済再建を優先させることが第一だと考えていた。吉田同様に、ソ連が軍事的な侵攻で領土を拡大する野望を持っているとは思っていなかった。
だからこそ、日本が共産主義に対抗出来る安定した経済力と、共産主義者の内乱を抑えられる程度の警察力を持っていれば、敢えて軍事的な対抗は必要ないと考えていた。ここで吉田の考えと一致したのである。
ところが、来日したケナンに待ち受けていたのはマッカーサーの推進する財閥解体である。ケナンにはこの財閥解体が将来の共産化に繋(つな)がる兆候に見えた。そして、マッカーサーへの不信感に繋がる。
この吉田やケナンの経済重視の考え方は外交問題評議会 Council on Foreign Relations(CFR)の設立時からの重鎮であり、戦中には国務省領土委員会議長や国務省戦後諮問委員会副議長などを歴任したイザイア・ボウマン Isaiah Bowman(1878−1950)の影響が見られる。
地政学の大家にして、米国の国益に経済圏の概念を持ち込んだボウマン理論が、吉田のトリックを後押しし、ケナンの報告を受けたトルーマン Harry S. Truman(1884−1972 大統領任期:1945〜1953)大統領によってマッカーサーは不利な状況に追い込まれた。
地球規模の「封じ込め政策」が二人の明暗を分けたのだ。この封じ込め政策の概念も、ケナンが主張していたソフトな封じ込めから、核戦力と通常戦力の飛躍的な強化による軍事的対決へと変質していく。
この背景には米国の軍産複合体 Military-industrial complex(MIC)による思惑もあった。当然ここに日本のカネを組み入れようとする動きも活発になる。
こうした再軍備要求に応える素振りを見せながら登場してくるのが、岸 信介である。しかし、結果として見れば、岸も素振りだけで自主憲法制定はおろか憲法改正までも見送った。
孫の安倍晋三(1954− 総理大臣任期:第1次安倍内閣2006年9月26日〜2007年9月26日)とは違って、少なくとも岸キツネは礼儀を弁(わきま)えていた。真意を知ろうと吉田の元に何度も足を運んだのだ。結局、狐と狸の化かし合いによって、現在まで憲法9条を楯にする戦略が受け継がれてきたのである。
たとえ発案者が誰であろうが、日本は米国押し付け論を連呼しながら憲法9条を今しばらく温存しておくことが、戦略的に見れば極めて正しい。中国の脅威など、米国やバチカンに任せておけばいいのだ。それまで「言いだしっぺは米国じゃないか」とチクチク言い続ければいい。そうすれば米国も沈黙するしかない。
「言い出しっぺは米国じゃないか」論の根拠もリチャード・ニクソン発言を利用させていただこう。
1953(昭和28)年11月に来日したリチャード・ニクソン Richard Milhous Nixon(1913−1994 大統領任期:1969〜1974、当時副大統領)が「1946年に日本を非武装化したのは米国であり、米国が誤りを犯したことを認める」と演説した。
この馬鹿正直なニクソンこそが、米国史上二人目のクエーカー大統領だった。歴代大統領の中でクエーカーだったハーバート・クラーク・フーヴァー Herbert Clark Hoover(1874−1964、大統領任期:1929〜1933)〔※関連資料(1)〕もニクソンも、ガチガチの共和党員である。声を大にして言っておくが、日本の保守派や右派が軽々しく連想しそうな、クエーカー=平和主義=民主党=左翼=ニュー・ディーラーといった単純な図式など、全く当て嵌(は)まらない。こういった日本人特有の無邪気さは見直した方がいい。
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう 1872−1951、総理大臣任期:1945〜1946)の長男・幣原道太郎(−)は『外交五十年』(読売新聞社 1951年刊行、復刻版は原書房 1974年刊行)の巻末で、憲法9条幣原発案説を採る者を強く否定しているが、これを堤 堯(つつみ きょう 1961−、反TPP)が「ビックリ条項が生んだビックリ解説」と酷評している。道太郎は幣原や吉田のトリックが理解出来なかった。こうした道太郎路線に乗っかって、時代遅れの米国押し付け論を根拠に憲法改正を声高に叫ぶビックリ仰天人が、安倍晋三前首相であった。
これこそまさに「親の心子知らず」と言う。
<
私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい。
>
吉田が回顧録『回想十年〈第1巻〜第4巻〉』(新潮社 1957年刊行)で力強く語ったこの言葉を引き継ぐ、本物の保守がいないことが残念でならない。中国の脅威が存在感を増す中で、トリックが仕掛けられないような改正は時期尚早と確信する。
良心的な兵役拒否は米国保守派によって推進され、法制化されている。その時が来るまで、日本は役に立つかどうか分からない最新兵器を適当に買わせていただきながら、すました顔で「良心的」を強調しながら参戦拒否すればいいのだ。
◇
〔資料〕参議院会議録情報 第18回国会 本会議 第2号 昭和28年(1953年)12月1日 ※発言者:梶原茂嘉
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/018/0512/01812010512002c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第19回国会 外務委員会 第1号 昭和28年(1953年)12月11日 ※発言者:並木芳雄「それは去る11月19日東京会館でニクソン副大統領は、日本を非武装化したのは失敗であったという意味の演説をされたのであります。ダレス長官は24日の記者会見でこれを支持しております。一説には、日本の外務省はアリソン大使に頼んでニクソン副大統領にそういう演説をしてもらうようにしたのだということでありますが、〜」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0082/01912110082001c.html
〔資料〕参議院会議録情報 第24回国会 内閣委員会 第36号 昭和31年(1956年)5月2日 ※発言者:田畑金光
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/024/0388/02405020388036c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第30回国会 本会議 第3号 昭和33年(1958年)10月1日 ※発言者:松本七郎
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/030/0512/03010010512003c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第61回国会 本会議 第4号 昭和44年(1969年)1月30日 ※発言者:佐藤榮作(実兄である岸 信介と共にCIAから資金提供を受けていた人物)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/061/0001/06101300001004c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第66回国会 本会議 第4号 昭和46年(1971年)7月19日 ※発言者:北山愛郎
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/066/0001/06607190001004c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第75回国会 本会議 第21号 昭和50年(1975年)5月21日 ※発言者:上原康助
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/075/0001/07505210001021c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第87回国会 予算委員会 第3号 昭和54年(1979年)2月2日 ※発言者:大出 俊、重要。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/087/0380/08702020380003c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第101回国会 外務委員会 第3号 昭和59年(1984年)3月2日 ※発言者:小林 進、重要。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/101/0110/10103020110003c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第102回国会 予算委員会公聴会 第1号 昭和60年(1985年)3月26日 ※発言者:関 寛治
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/102/0382/10202120382001c.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第129回国会 本会議 第18号 平成6年(1994年)5月12日 ※発言者:村山富市
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/129/0001/12905120001018c.html
〔資料〕参議院会議録情報 第162回国会 憲法調査会 第3号 平成17年(2005年)2月25日 ※発言者:田 英夫、重要。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/162/0089/16202170089003c.html
〔資料〕薩長因縁の昭和平成史(完) By 園田義明 - 萬晩報 2006年9月19日
http://www.yorozubp.com/0610/061030.htm
〔資料〕帰ってきた日本(19) 吉田 茂が葉巻解禁したわけ - 日本経済新聞 2013年1月12日 ※「それは決して世界における二大勢力の対立を激化させる意図を持ってではない。むしろ自由国家の陣営に飛び込んで、自由国家の内側から二大勢力の対立を緩和、調整することが我々の使命でなければならぬ」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0700K_X00C13A1000000/
http://www.nikkei.com/news/topic/archive/?uah=DF030920128912
〔資料〕安倍晋三氏のふたりの祖父 再び蠢(うごめ)き出した「秘密保全法案」 - マガジン9 2013年1月16日
http://www.magazine9.jp/osanpo/130116/
〔資料〕安倍 寛(あべ かん 1894−1946) - Wikipedia
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〔資料〕七尾和晃 著『総理の乳母―安倍晋三の隠された原風景』(創言社 2007年刊行)
http://books.google.co.jp/books?id=NKgm_l5IcrQC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
〔資料〕自民党の世論誘導組織「インターネットサポータークラブ」 - Kaleidoscope 2013年3月24日 ※ネトウヨと自民党・チーム世耕、他。
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http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%96%E8%80%95
〔資料〕昭和天皇が嫌っていた松岡洋右と安倍晋三は親戚だった!そして岸 信介がA級戦犯不起訴になった本当の理由。 - カナダde日本語 2006年7月29日 ※岸 信介と旧七三一部隊の関係、他。
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〔資料〕イギリスのユダヤ人:イギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルの成功物語、他 - HEXAGON
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe200.html
〔資料〕「アヘン戦争」の舞台裏〜アヘン王サッスーンの暗躍〜 - HEXAGON
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe100.html
※岸 信介と満洲国と阿片・旧七三一部隊
http://anarchist.seesaa.net/article/18290735.html
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-217.html
〔資料〕≪吉川元忠, 関岡英之 共著『国富消尽―対米隷属の果てに』 より抜粋(6)≫|MelancholiaT ※本文及び添付資料を参照。TPPの為の地ならしと自民(小泉・竹中)・民主(菅・野田=松下政経塾)・自民(安倍・小泉)による「正・反・合」或いは双頭政治、日経・CSISバーチャル・シンクタンクとエージェント達、Shock Doctrine(惨事利用型資本主義)とストックホルム症候群の応用、等の視点から。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11349832200.html
〔資料〕≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(11)≫|MelancholiaT ※「アメリカの日本支配の2系統」「企業の為の新興宗教、道徳再武装運動(MRA)」
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〔資料〕カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1〜2 - 不 可 視 の 学 院 2007年10月15日
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html
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〔資料〕戦後の日本とMRAの軌跡 - 財団法人MRAハウス ※澁澤敬三、三井高維、吉田 茂、鳩山一郎、岸 信介、佐藤榮作、一萬田尚登、石川一郎、石坂泰三、池田勇人、中曾根康弘、金 鐘泌(KCIA)、他多数
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/IDX1.HTM
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※清和会と松下政経塾とGATT(現WTO)、或いはMRAと統一教会・KCIA、等。「金貸し支配と労働運動は繋がっていた?」「資本主義と共産主義はユダヤの両建て主義」他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11211313712.html
〔資料〕オリガルヒと新興ユダヤ人 - LEGACY OF ASHES 2013年6月1日 ※「序」以下、超重要な内容。4月26日記事「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」他、4月11日記事【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】を併せて参照。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/544.html
〔資料〕≪苫米地英人 著『洗脳支配―日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』 より抜粋(9)≫|MelancholiaT ※両建て主義、及び二層化された世界の下層部分に対する分断統治について、本文及び添付資料全般を参照
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11313557343.html
〔資料〕アベノミクスはアホノミクス - LEGACY OF ASHES 2013年6月2日 ※アベノミクスの正体。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/545.html
〔資料〕これは悪いインフレの兆候?4月の消費者物価指数は庶民にとってトホホな内容(ニュースの教科書編集部) - BLOGOS(ブロゴス) 2013年6月3日 ※「エネルギー関連費が物価を押し上げているものの、それ以外の殆んどの分野はデフレというのが実態」
http://blogos.com/article/63518
〔資料〕アベノミクス3本の矢を解剖!1〜3 - Business Journal 2013年3月18日
http://biz-journal.jp/2013/03/post_1712.html
http://biz-journal.jp/2013/03/post_1713.html
http://biz-journal.jp/2013/03/post_1714.html
〔資料〕ヘッジファンドに潜む金融犯罪の闇 第1回〜第4回 - DIAMONDonline
http://diamond.jp/category/s-hedgefund
〔動画〕NHKスペシャル「ユーロ危機 そのとき日本は」(2011年11月23日放送) - 优酷 [49分26秒] ※分断化された被支配層(借金奴隷牧場としての国家) 対 国際談合や閨閥による支配層(グローバル企業群・国際金融資本)、新自由主義の名の下に財産と権利を搾取する仕組み
http://v.youku.com/v_show/id_XMzI2NTg3NDUy.html
〔資料〕バイデン副大統領−「目前の課題は新世界秩序の創造だ」 - Kaleidoscope 2013年4月10日
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-2007.html
〔資料〕≪苫米地英人 著『利権の亡者を黙らせろ―日本連邦誕生論』 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※【Echelon―英米同盟(UKUSA)、英連邦 Commonwealth of Nations(本国を含め54カ国)】
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11255196072.html
〔資料〕画期的な米国務、国防長官揃っての千鳥ヶ淵墓苑訪問の意味は、「米国のアーリントン墓地に相当するのは靖国ではなく千鳥ヶ淵である」という、安倍政権へのメッセージ - Peace Philosophy Centre 2013年10月4日
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html
「ただ、靖国神社を存続させる上でアメリカの一部勢力が大きな役割を果たし、今、東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているアメリカ人がいることも確かなようです。日本が降伏した直後、靖国神社は焼却される可能性がありました。GHQ/SCAP内部の少なからぬ将校がこの神社を焼き払うべきだと言っていたようです。それを阻止する為に自分は動いたと主張しているのがブルーノ・ビッテル(ビッターとも表記される)神父です。このビッテルはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だったそうです。スペルマンはCIAと教皇庁を結ぶ重要人物でした。1953年にビッテルは霊友会(―石原愼太郎)の闇ドル事件に絡んで逮捕されています。(中略)この事件の2カ月前、リチャード・ニクソン副大統領が来日しています。1952年の大統領選挙でドワイト・アイゼンハワーは39歳のニクソンを副大統領候補に選んだのですが、その理由はニクソンが『闇資金』を提供したからだと言われています。一般には企業のヤミ献金だったとされているようですが、月刊誌『真相』の1954年4月号によりますと、その原資は闇ドルの取り引きで蓄積された儲けだったということです。1953年に来日したニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を呼び出して『厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた』そうですが、その席にビッテルも同席していたと『真相』の記事には書かれています。こうしたこともあり、靖国神社と闇資金を結び付けて考える人も少なくありません」
〔資料〕戦後につくられた靖国装置/密命=にっぽんじんを利用してアジアを支配せよ By 琴姫七変化 2013年8月15日
http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/509.html
http://www.asyura2.com/13/senkyo156/msg/232.html
〔資料〕日中衝突劇を演出したヘリテージ財団 とは何者なのか? - velvetmorning blog 2012年9月20日
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/09/20/6579303
〔資料〕秘密保護法案「絶対必要」―安倍首相 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年10月12日 ※(ヘーゲルの弁証法における「合」である)第2期安倍政権(第1期安倍政権でネトウヨなどを取り込むアリバイ作りを経た後の「合」)と第3次アーミテージ・レポート(―CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI)、他。
http://satehate.exblog.jp/20829303/
〔資料〕「なりすまし」をして内部侵食するワナに、日本の社会は弱い - DARLNESS bllackz.com 2013年3月29日 ※「保守」「トロイの木馬」の尖兵(エージェント)について
http://www.bllackz.com/2013/03/blog-post_29.html
〔資料〕≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(2〜3)≫|MelancholiaT ※経済徴兵制について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11451319373.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11453425015.html
〔資料〕堤 未果 著『ルポ 貧困大国アメリカ』:書籍紹介 〜生存権を奪うことで、若者を軍と戦争へと供給する「経済的徴兵制」を見事に描写〜 - アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局 2008年4月1日 ※「もはや徴兵制などいらないのです。政府は格差を拡大する政策を次々と打ち出すだけでいい。経済的に追い詰められた国民は、イデオロギーの為でなく、生活苦の為に黙っていても戦争に行ってくれますから」
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/book-hinkontaikoku.htm
〔動画〕「政府は必ず嘘をつく」ジャーナリスト・堤 未果さんが真相を明らかに - YouTube ※Shock Doctrine(惨事利用型資本主義)及びストックホルム症候群の応用、9.11、3.11、「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】他について
http://www.youtube.com/watch?v=90oikVp8mKk
〔資料〕形だけの「年内妥結」―失墜する米国の威信と他国の抵抗 - Acts for Democracy 2013年10月11日 ※韓国のTPP交渉参加の裏事情。
http://uchidashoko.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html
〔資料〕80%が反対する中、秘密保護法案が強行採決で衆院委通過 - Kaleidoscope 2013年11月26日
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2493.html
〔資料〕日本一おかき処 播磨屋本店:憂国・響世メッセージシリーズ、他
http://www.harimayahonten.co.jp/
〔資料〕「明治」と云う幻想 1〜8 |山伏の日々 2010年2月18日〜4月2日 ※「この明治時代に創られたものを伝統と指定するならば米国より伝統の無い国になってしまう」
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/theme-10019801648.html
〔資料〕「維新」と云う幻想 1〜7|山伏の日々 2010年10月17日〜11月9日
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/theme-10027555213.html
〔資料〕Google Books - 鬼塚英昭 著『日本のいちばん醜い日―8・15宮城事件は偽装クーデターだった』(成甲書房 2007年刊行)
http://books.google.co.jp/books?id=VBKKzSmCiM8C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
〔資料〕1945年3、敗戦まで 終戦への動き(天皇聖断への流れ) - れんだいこのホームページ 2012年4月26日 ※「工藤美代子の『香淳皇后』(2000年)は次のように記している。〜末尾」を参照。天皇財閥について。重要。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/haisenhistory3.html
〔資料〕孝明天皇の御聖徳 1〜5 By 武田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu162.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu163.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu164.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu165.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu166.html
「私は、孝明天皇の崩御の真相よりも、むしろ当時から暗殺の噂があった事実が重要だと考えます。(中略)これは孝明天皇が暗殺されるほど重要な存在、或いは討幕を狙う者にとって邪魔な存在だったことを意味するのです。孝明天皇がそのような存在になったのは、天皇が一貫して「公武合体による鎖国攘夷」を貫いたからでした。討幕への機運が高まる中、天皇の存在はその障害となったと考えられます。孝明天皇崩御によって、討幕への最大の障害が外れ、間もなく討幕が実現し、明治維新政府が成立しました。いま維新の英雄は日本の英雄、歴史の英雄と言われていますが、果たして明治維新は、成功だったのでしょうか。確かに、朝廷が残ったのですから、私は敢えて失敗だとは言いません。一歩間違えば朝廷の存在が失われた可能性すらあるわけです。しかも、維新が齎(もたら)した開国、文明開化、鹿鳴館へと続くグローバリズムは我が国に様々な恩恵を与えてくれました。国は富み、兵は強く、日本は列強の仲間入りを果たしました。日本の繁栄の基礎を築いた明治維新には一定の価値があったと言えるでしょう。しかしながら、そこには光だけでなく、影もありました。それらの恩恵の代償として、私達は最も大切なものを置き去りにしてきたのではないでしょうか。(中略)本当の保守を失ったことは、日本人の心を置き去りにしてきたようなもので、そこに明治維新の影の部分があるのです。孝明天皇、或いは会津藩といった維新の「負け組」は、本当の保守でした。孝明天皇は、歴史と伝統に依拠して、グローバリズムという激流にただ一人立ち向かった、孤独の天皇だったのです。今そこに光を当てると日本の進むべき道が見えてくると私は思います。明治維新以降、とりわけ大戦後の日本は、歴史と伝統を顧みず、改革を進めることに価値を見出す社会になってしまっています。しかし、本来の日本人の気質は、新しいものを作り上げることよりも、むしろ古いものを守ることに重きを置いていたのです。いま、明治維新前夜に立ち返ることを考えなくてはなりません。維新以来の歩みを見つめ直し、孝明天皇が守ろうとした日本の姿を、そして日本人の気概を取り戻すことが肝要です。それが守るべき本当の日本の姿なのです」
〔資料〕日本人が知らないニッポン〜隠されてきた歴史から読み解く世界の成り立ち〜 - THINKER
http://www.thinker-japan.com/thinkwar.html
〔資料〕マスメディアが伝えない”新聞・テレビの歴史と今” - THINKER
http://www.thinker-japan.com/think_media.html
※日本版NSC及び秘密保全法の経緯:日本版NSC及び秘密保全法は小泉竹中政権下での日米安全保障協議委員会(2+2、2005年)がその発端であり、特に秘密保全法のほうは後を引き継いだ第1次安倍政権下での「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」設置及び報告書提出に始まっており、その後麻生政権、菅政権へと引き継がれ、野田政権を経て、第2次安倍政権で可決・成立、といった流れ(日本版NSCや秘密保全法が対象としているのは米国や中国などといった関係相手国ではなく、日本の一般市民がその対象であること。基本的にCIAなどとの従属的関係は今までと変わらず、CIAや米国の支配層からの独立性が高まるどころかより強い支配下に置かれ属国性が益々強まり一般国民は借金奴隷として未来永劫虐げられるということ。9.11後の米国一般市民が強いられていった状況と酷似)となっている。
それと共に日米構造協議〜対日年次改革要望書〜鳩山政権下で一旦廃止〜菅政権下で3.11の直前に日米経済調和対話と名を変え復活〜総括としてのTPPという流れが再支配に向けて同時進行してきた事実にも同時に見ておかなければならない。秘密保全法もTPPも詳細が秘密にされたまま同時期に同時進行してきていることは決して偶然ではなく、更にはTPPと抵触する部分を含めた現行憲法の改正や、民法、労働基準法、会社法といった国内法の改正、移民法の改正、外資の為の公共インフラ民営化(及び電力自由化に伴う電力会社が有する原発利権等への外資参入)、マイナンバー制度の外注(借金奴隷の一元化された全個人情報を米民間企業を介し連邦政府及び支配層が掌握・管理)、全て関係性・連動性を示しており、(分断統治支配の為の)左右のイデオロギーに誤魔化されずヘーゲルの弁証法「正・反・合」で全体像を包括的に捉えその流れや関連性・連動性・問題の本質を見ること、電通(満洲通信社)と株式会社ムサシ(―Rockefeller)、等。情報隠蔽・意識操作の刷り込みは大マスゴミ自らも日頃一般市民に対して大掛かりに行っていることであり、(利益共同体である部分において)確信的共犯者である。
果たして太平洋戦争で亡くなった多くの戦没者達は今のこのような日本の状況や成りすまし右翼どもの言動・行動を見て、どのように感じるだろうか。前大戦同様に現世のおいても多くの日本人を犠牲にしようとしているのは、先ずは一番目に連邦政府の背後にいる支配層、多国籍企業群や軍産学複合体、国際金融資本ではないか。次に自らの既得権益や身の保全を守る為なら自分達以外の一般市民や一般市民の暮らす「日本」という国の国益や人命を切り売りしても構わないとする、外資によって成し遂げられた明治維新以降この国の支配層であり続けているエスタブリッシュメント(閨閥)達と彼らの為の「もう一つの日本」である。彼らの歪んだ愛国精神は恐らく明治維新に起因する。だから今も外資の言いなりなのだ。多くの戦没者達が守ろうとしたのはどちらの「日本」だったのだろうか?靖国(長州の守護社)や象徴天皇制を米国が利用してきた事実と真っ向向き合い、イデオロギーの対立によって遠ざけられてしまいがちな議論の本質に目を向けること。そして、日本人は(司馬史観などによって人為的に歪められた)この国の歴史の真実そのものが今問われているのである。世界から、そして過去からも、未来からも。
◇
(15頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(15)≫
(14頁からの続き)
■今上(きんじょう)天皇とヴァイニング夫人
さて、クエーカー教徒であったエリザベス・ヴァイニング Elizabeth Janet Gray Vining(1902−1999)〔※関連資料(1・2)〕と最も親しみ、彼女を尊敬し、再会を重ねてきたのが現在の今上天皇である。
ヴァイニングが家庭教師として滞在していた頃、ヴァイニングが借りていた軽井沢の山荘に侍従抜きで三日間滞在し、1953(昭和28)年9月13日にはペンシルバニア州フィラデルフィアのヴァイニングの家を訪れて三日間も宿泊している。
1957年には日本で再会。そして1959年の結婚式、1971年にも日本で、1978年にはブラジルからの帰途、わざわざフィラデルフィアに立ち寄り再会した。1987年11月8日にはニューヨーク総領事公邸で約九年ぶりに再会し、皇太子は「非常にお元気でしたので嬉しく思いました」と感想を述べている。この時ヴァイニングは既に85歳、そしてこれが最後となった。
天皇陛下となってからの1994(平成6)年の訪米時、ヴァイニングはホワイトハウスでのクリントン大統領夫妻主催の晩餐会に招待されていたが、高齢を理由に欠席する。この時も天皇陛下は、宿泊先のニューヨークのホテルからヴァイニングに直接電話を掛けて、互いの近況などについて話をしている。
そして、5年後の1999年11月28日、ヴァイニングはフィラデルフィアの老人ホームで死去した。97歳だった。天皇陛下は宮内庁を通じて12月2日にヴァイニングのいとこで米国デラウェア州に住むルース・スワーツ夫人 Ruth Swartz(−)に対して弔電(ちょうでん)を打っている。
この間、ヴァイニングは1969年6月18日、ベトナム戦争 Vietnam War(1960〜1975)に反対するクエーカー教徒16人の反戦デモに参加、ワシントン国会議事堂前の座り込みで逮捕される。この時もヴァイニングは「良心に従って、根気よく反戦デモを続ける」と語った。
付和雷同すること無く、自分の信念を曲げなかったという面では、この時ヴァイニングは、同じクエーカーだった新渡戸稲造を超えていたのかも知れない。
一部に誤解があるようだが、ヴァイニングは理想主義者ではなかった。楽観的な性善説に基づく「願望的平和主義者」や、その対極にある殉教者としての道を選び「悲観的平和主義者」を批判し、「人間は善と悪の両方を持っている」ことを前提にした現実的な平和観を持っていた。
明らかにヴァイニングの遺志を継いだのが現在の天皇陛下である。ヴァイニングは皇太子時代の13歳から17歳という最も感受性の強い時期に家庭教師を務めたのだから、当然かも知れない。
1990年1月23日の「即位礼正殿の儀」、この時の天皇陛下のお言葉を振り返ってみよう。
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さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。
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天皇陛下は日本国憲法遵守を宣言したのだが、不思議なことに「天皇陛下万歳」が大好きな人達が挙(こぞ)って「憲法改正」を叫んでいる。こうなると、彼らの「天皇陛下万歳」はどの天皇に向けられているのかが気になってくる。
明治「王政復古」政権によって推進された南朝正統論を彷彿(ほうふつ)とさせる。
今ここで、ヴァイニングに対して最大級の言葉で感謝の意を表したのが、他でもない昭和天皇だったことを挙げておこう。ヴァイニングの『天皇とわたし』(Elizabeth Gray Vining 著, 秦 剛平・和子 翻訳、山本書店 1989年刊行)の帯には、「わたしのしたことで成功したものがあるとすれば、ヴァイニング夫人にこちらに来るよう求めたことであった」とする昭和天皇のコメントが紹介されている。昭和天皇が母のように慕っていた足立たかとヴァイニングが重なり合う。新渡戸稲造が架けた太平洋の橋を、二人の女性がしっかりと支え続けていた。
〔動画〕「主権回復の日」政府が初式典 条約発効から61年(13-04-28) - YouTube ※長州閥の「天皇陛下万歳」が意味すること。尖閣問題とヘリテージ財団と統一教会、他。
http://www.youtube.com/watch?v=MxiHgnvSGI8
〔資料〕ビッグ・リンカー達の宴2―最新日本政財界地図(10) By 園田義明 - 萬晩報 2004年7月31日 アーミテージ(―CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びアーミテージ・リポート)の第九条発言、「新渡戸派=クエーカー派」を引き継ぐ者、他。
http://www.yorozubp.com/0407/040731.htm
■吉田 茂の遺志を継ぐもの
さて、吉田 茂(1878−1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕が一番可愛がっていた三女・和子(1915−1996、牧野伸顕の孫で吉田 茂の娘で麻生太郎の母)は1938(昭和13)年に麻生セメント社長や自民党代議士を務めた麻生太賀吉に嫁ぎ、麻生和子となる。和子と麻生太賀吉(あそう たかきち 1911−1980)〔※関連資料(1・2)〕を結び付けたのは、吉田 茂の懐刀と言われた白洲次郎(1902−1985)〔関連資料(1・2・3・4・5・6・7重要・8サンフランシスコ講和条約について・9白洲次郎と S. G. Warburg&Co.―Rothschild・10白洲次郎とは何者だったのかIndex)〕であった。白洲家もまた福澤諭吉家と繋(つな)がる日本を代表するプロテスタント一家である。
麻生和子は結婚する以前からカトリック信徒になっていた。息子の麻生太郎(1940−)〔※麻生ラファージュ(北朝鮮ビジネスと麻生財閥)及びCSIS(―日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI)講演での公共インフラ民営化発言等について関連資料(1・2ラファージュ―GBL―Rothschild・3・4・5USTREAM・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15「ナチスの手口に学べば」内部告発?・16ILC利権―核利権・17・18)〕もまたカトリック信徒であることは、本人が隠さずに再三公言している。吉田 茂が築いた保守本流の正統継承者であるフランシスコ麻生太郎の言葉全てに、カトリック観が満ち溢(あふ)れている。特に象徴的なのが靖国神社を巡る麻生の発言だった。
そもそもカトリックと靖国神社の関係は、特に『諸君!』を中心に保守系言論誌で一事盛んに取り上げられ、安倍晋三も『美しい国へ』(文藝春秋 2006年刊行)で軽々しく取り上げている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高司令官に就いたダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880−1964、フリーメーソン)は、軍や米国プロテスタントの意向から靖国神社を廃止する計画だった。宗教界の意見を聞く為に、マッカーサーはカトリックのブルーノ・ビッテル Bruno Bitter(1898−1987、当時駐日ローマ法王庁代表・バチカン公使代理)神父とメリノール会のパトリック・バーン Patrick Joseph Byrne(1888−1950)神父を招く。
ビッテル神父とバーン神父の2人はマッカーサーに対してこう意見する。
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私達はそれに(靖国廃止)に反対です。日本は不義の戦争をしたから、軍国主義の温床となった靖国神社を廃止すべきと、一部の人は考えているようですが、それは間違いでしょう。靖国神社の存廃はその本質に掛かっていることで、今度の戦争の正不正と関係がありません。如何なる国民も、祖国の為に身命を賭した人々に対して、尊敬を表し、感謝を捧げる事は、大切な義務であり、また権利でもあります。ですから、戦没者の墓碑に対しては、敵国人といえどもこれに敬意を表わしているではありませんか。いま靖国神社は神道の単なる霊廟ではなく、国民的尊敬のモヌメントであることを申上げねばなりません。何故なら、そこには、神、仏、基(キリスト教)何れの宗教を問わず、戦没者の英霊が平等に祀(まつ)られているからです。従って、このようなものを廃止するのは、国民の大切な義務と権利を否定することになりはしないでしょうか?そればかりでなく、もしこれを廃止したら、どういう結果が起こるか考えるべきです。それは天皇を廃止すると同様に、国民の感情を強く傷付け、占領政策を危うくすることになりはしないでしょうか?以上の理由で、国民を現下の精神的混乱から救う為にも、私達は、靖国神社の存続を希望するものです。
(志村辰弥 著『教会秘話―太平洋戦争をめぐって』聖母の騎士社 1991年刊行 より。尚、志村辰弥の記述は、朝日ソノラマの本――Bruno Bitter 著, 朝日ソノラマ編集部 編 『マッカーサーの涙―ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ 1973年刊行――に収録された叙述に厳密に従っているが、幾つかの混乱させ誤解させるような情報を付け加えている。詳しくは下記に添付した上智大学宗教学教授マーク・R・マリンズによるPDF資料を参照)
数日後、司令部は2人の意見を取り入れた指令を発表、ここで靖国神社の存続が認められた。
ここで右派系言論誌や安倍晋三が決して取り上げようとしない後日談も紹介しておこう。
『教会秘話』を書いた志村辰弥(しむら たつや 1904−1997)神父は当時ブルーノ・ビッテル神父と行動を共にしていた。後に高橋 紘(たかはし ひろし 1941−2011)とのインタビューに応じた志村神父は次のように語ったことが、『天皇家の密使たち―占領と皇室』(高橋 紘, 鈴木邦彦 共著・文藝春秋 1989年刊行)に記されている。
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あの当時は確かにああした気持ちでした。しかし、今こういう(右傾化の)時代になりますとね、私達の判断が正しかったかどうか。
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『教会秘話』によれば、司令部の指令には「但し、今後は、国がこれを管理し、何れの宗教においても、そこで固有の宗教儀式を行うことが出来、それらの費用は全て国が支弁すべきである」との文言が入っていたことが記されている。つまりは(靖国神社の存続は)「再国営化」が前提となっていたのである。
靖国神社とカトリックの因縁は、更に戦前にまで遡(さかのぼ)ることが出来る。
1932(昭和7)年5月5日、上智大学に軍事訓練の為に配属されていた将校が学生を率いて靖国神社を参拝するが、数名のカトリック信徒の学生が信仰を理由に参拝を拒否して大問題となる〔※関連資料(1・2・3)〕。
これに対して、日本カトリック教会の代表者であったジャン・アレキシス・シャンボン Jean Baptiste Alexis Chambon(1875−1948)大司教が文部省や陸軍省に参拝が宗教的行事かどうかの回答を申し入れたところ、文部省より「参拝は愛国心と忠誠を表すだけで、宗教的な慣行ではない」との回答を得る。
この回答を受けてカトリック側も「神社参拝が非宗教的行為であって問題なし」として、「カトリック信徒も自由に参拝してよい」という通達を出した。背景には日本とイタリアの良好な関係を重視したバチカンの政治的配慮もあったようだ。
靖国神社参拝問題の根底には、非宗教的行為か否かという大問題があった。誰もがこれを忘れて、陳腐な議論を長々と繰り返してきたのである〔※米国の為の、(日本人に対しジレンマを与える為の、)靖国神社(長州閥の守護社)参拝とその政治利用の道具としての利用価値という視点の欠如こそが大問題。また、より重要な事案やその議論から日本国民の意識を逸らさせる役割も果たしている。北朝鮮問題もショック・ドクトリンの一環としてこれに共通する。だから日米安保マフィアの白々しい演技一つ見抜けない〕。
小泉純一郎(1942− 総理大臣任期:2001〜2006)が戦前からの歴史を真摯に顧(かえり)みて、公に「靖国神社参拝は非宗教的行為である」と明言した上で参拝していればどうなっていたのだろう。大衆人気に支えられた小泉の歴史観〔※司馬史観―エドウィン・ライシャワー Edwin Oldfather Reischauer(1910−1990)との関係を含め関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11「この歴史観の核心は、『開国が近代化を齎した』すなわちペリー来航が日本近代化の発端であるとして、アメリカのお蔭で日本は進歩したと思わせることにあった」)〕が、ここで大いに問われるべきだ。
〔資料〕閨閥(けいばつ)日本の政治改革 - 糾弾
http://www.kyudan.com/column/keibatu.htm
http://www.kyudan.com/opinion/abesinnzo.htm
〔資料〕≪苫米地英人 著『利権の亡者を黙らせろ―日本連邦誕生論』 より抜粋(3)≫|MelancholiaT ※サンフランシスコ講和条約(1951年)について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11253445914.html
〔資料〕白洲次郎のプリンシプルとは? By 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの道 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2008年7月30日 ※白洲次郎と S. G. Warburg&Co.―Rothschild
http://satehate.exblog.jp/9332877/
〔資料〕白洲次郎とは何者だったのか Index - ぴゅあ☆ぴゅあ1949 ※白洲次郎と原子力(と英国)、その虚像と実像
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/cat_10021005.html
〔資料〕「原爆ホロコースト」の実態〜「原爆」と「冷戦」の舞台裏〜 - HEXAGON ※Victor Rothschildについては≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(35)≫本文及び添付資料を参照。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html
〔資料〕1945年3、敗戦まで 終戦への動き(天皇聖断への流れ) - れんだいこのホームページ 2012年4月26日 ※「工藤美代子の『香淳皇后』(2000年)は次のように記している。〜末尾」を参照。重要。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/haisenhistory3.html
〔資料〕≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(4)≫|MelancholiaT
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11086517909.html
「この構造が、第2次世界大戦後に連合軍として乗り込んできた占領軍のGHQにとって、極めて興味深い分析の対象となり、やがて、連合軍の司令官だったマッカーサー Douglas MacArthur(1880−1964)が、アジア全土で「戦犯」として名指しされた昭和天皇を無罪放免とし、代わりにあらゆる条件を日本人に呑ませることが出来たからである。94年3月15日に放映された“NHKスペシャル”の「現代史スクープドキュメント:ジャパンロビー〜戦後日本・陰の演出者たち〜」は、終戦直後のGHQと日本の財閥解体の真相を描いて極めて優れたものだったが、それによれば、マッカーサーが進めようとした財閥解体を無力にしてしまった中心人物は、『Newsweek』誌の編集長ハリー・カーン Harry F. Kern(1911−1996)であったと言う。そしてその目的は、戦前に日本に投資をしたアメリカ財閥が、資金を回収しながら戦後の日本経済を再支配することにあったと言う。(中略)本書の第10章で示す【系図16】には、その『Newsweek』の創刊者ジェームズ・サックス James H. Sachs(−)の名前がある。その人物が、前述のロスチャイルド家のユダヤ金融の1つ、ゴールドマン・サックスの一族であったことは、何を意味するだろう。先程の、澄田睞四郎・智親子の復権の背後にあったロスチャイルド家のユダヤ金融を思い起さずにはおかないだろう。そしてこの番組で指摘された“財閥解体阻止に動いた黒幕の1人”が後に説明するジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880−1965)〔※John Pierpont Morgan(1837−1913)の従兄弟〕であった。細川護煕の祖父・近衛首相と真珠湾攻撃前に密談した駐日大使である。明らかに、日本経済には一貫して“或る力”が作用してきたのである」
〔資料〕如何にして靖国神社は占領期を生き延びたのか〜通俗的主張の批判的検討〜 By Mark R. Mullins(PDF、全42頁)
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/articlesintranslation/pdf/MULLINS.pdf
〔資料〕靖国と皇室の関係 - 靖国神社情報
https://sites.google.com/site/yasukunijinjamondai/sonota/kousitu
〔資料〕靖国神社は田布施村の守護社 - 真実の日本の歴史 2013年5月20日 ※「招魂の儀式は、江戸幕府が管理していた陰陽道ではありません。この儀式は朝鮮人の儀式で自分らに怨念を持つ魂を押し込め封印する為に行われます」
http://www.link-21.com/history/src/013.html
http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/annual_report_08/report_08_008.pdf
〔資料〕櫻山神社 山口県下関市 高杉晋作の発議の招魂場
http://www.sakurayamajinja.com/
http://www5.ocn.ne.jp/~fugeki/sho_sakurayama.html
〔資料〕祖父から教えられた「ヤスクニ」と長州藩中心に形成された「靖国」とのはざまで By 平山茂樹 - IWJ Independent Web Journal 2013年8月9日
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/96143
〔資料〕大村益次郎(おおむら ますじろう 1824−1869) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
http://www.333.ecnet.jp/togawazanka.htm
〔資料〕日本人が知らないニッポン〜隠されてきた歴史から読み解く世界の成り立ち〜 - THINKER
http://www.thinker-japan.com/thinkwar.html
〔資料〕日本の金融史(11):ドッジライン&吉田 茂の家系 - MATRIX 2010年12月21日 ※「渡邊謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した吉上山慈眼院光明寺が立つ久保山の横浜市公営久保山斎場(火葬場)で戦犯が火葬され、その息子の吉田 茂が戦後日本を率いていく・・・」
http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221
〔資料〕【幕末維新の代理人】代理人認定#6:トーマス・ブレーク・グラバーの陰謀2 - 金貸しは、国家を相手に金を貸す 2013年8月14日 ※「グラバー商会」の謎の倒産の裏側。アーネスト・メイソン・サトウ卿(1843−1929)曰く「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」。現在の様々な事象を俯瞰して見る上で大変重要な視点。
http://www.kanekashi.com/blog/2013/08/002045.html
〔資料〕白洲次郎とは何者だったのか(37) - ぴゅあ☆ぴゅあ1949 2008年6月18日 ※白洲次郎と土佐商会とジャーディン・マセソン商会
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50617012.html
■靖国神社「再国営化」論
麻生太郎は、2006(平成18)年の総裁選で「麻垣康三」と騒がれていた最中の8月8日、自身のホームページに「靖国に弥栄(いやさか)あれ」と題する私見を掲載した。この内容は麻生の『自由と繁栄の弧』(幻冬舎 2007年刊行)や『とてつもない日本』(新潮社 2007年刊行)などでも言及している。
麻生はこの中で、靖国神社を可能な限り政治から遠ざけ、静謐(せいひつ)な、祈りの場所として、未来永劫保っていく為に、宗教法人から特殊法人に変更し、名称を「国立追悼施設靖国社(招魂社)」などとしながら、戦死者追悼事業を行う為の再国営化を提言している。重要な点は「宗教法人から特殊法人へという変化に実質を持たせるため、祭式を非宗教的・伝統的なものにします」と書いていることだろう。つまり、靖国神社の非宗教化を明確にしているのである。
右派や保守派以上に思い込みが激しく、とても厄介な左派の人達は、「再国営化」などと聞くと直ぐに戦前の国家神道と結び付け、麻生に対して国家主義者というレッテルを貼りそうだが、これは完全な間違いである。
麻生が言及しているのは靖国神社の原点、つまり日本の軍国主義が強まる以前の名前である東京招魂社時代に回帰させることであり、非宗教化を徹底しようとしているのである。
更に麻生は、靖国神社が神社本庁に属したことが無く、戦前は陸海軍省共同で管理する施設であり、宮司(ぐうじ、みやづかさ)もいわゆる神官ではないこと。そして、「靖国神社は、古事記や日本書紀に出てくる伝承の神々を祀(まつ)る本来の神社ではありません」とまで言い切る。
この麻生の靖国非宗教化・再国営化論の中で注目すべき点は、靖国神社創設の推進者として「長州藩の木戸孝允(=桂 小五郎 1833−1877)」の名前を挙げていることだろう。「長州の護国神社のような存在」としての靖国神社への私見は、長州の血が流れる安倍晋三を意識したものだったことは間違いない。
この麻生太郎の妹・信子(1955−)は、カトリック系の聖心女子学院中等科を経て英国の花嫁学校ロスリンハウス・カレッジ Rosslyn House College(−)を卒業、松涛(しょうとう)幼稚園の英語教師を務め、後に嫁いだ先は昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう 1915−、大正天皇の第4皇子)の第一男子で「ヒゲの殿下」と呼ばれて親しまれているェ仁親王(ともひとしんのう 1946−2012)である。
しかも、沖縄訪問を控えた2003年12月に行われた記者会見で今上天皇が「沖縄の歴史を紐解くことは、島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした」と述べたことは記憶に新しい。母・香淳皇后(久邇宮良子 1903−2000)の母が薩摩藩第12代藩主・島津忠義(1840−1897)の七女・邦彦王妃俔子(島津俔子 1879−1956)なのだ。
麻生は薩摩の大久保利通(おおくぼ としみち 1830−1878)の血を継ぐ者として、更には恐らくカトリック信徒であろう寛仁親王妃信子の兄として、皇室の意見を代弁出来る立場にある〔※関連資料(1・2安倍晋三―麻生太郎)〕。
この先、もし麻生政権が誕生した場合、早々に靖国神社の再国営化が行われる可能性が高い。そしてこの時、靖国神社の正体が明らかになるだろう。
〔資料〕麻生太郎オフィシャルサイト 講演・論文・メディア等:「靖国に弥栄(いやさか)あれ」 2006年8月8日 ※「靖国に弥栄(いやさか)あれ」と題する私見
http://www.aso-taro.jp/lecture/talk/060808.html
「靖国神社は創立当初、『招魂社』といいました。創設の推進者だった長州藩の木戸孝允は、『招魂場』と呼んだそうです。『長州藩には蛤御門の戦いの直後から藩内に殉難者の為の招魂場が次々に作られ、最終的にはその数22に達した』(村松 剛『靖国神社を宗教機関といえるか』)といいます。このような経緯に明らかな通り、靖国神社は、古事記や日本書紀に出てくる伝承の神々を祀る本来の神社ではありません。(中略)設立趣旨、経緯から、靖国は神社本庁に属したことがありません。伊勢神宮以下、全国に約8万を数える神社を束ねるのが神社本庁です。靖国はこれに属しないどころか、戦前は陸海軍省が共同で管理する施設でした。また靖国の宮司も、いわゆる神官ではありません」
〔資料〕木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1 - 物語を物語る 2011年9月21日 ※村松 剛 著『醒めた炎』からの引用。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-1006.html
〔資料〕本土決戦と登戸研究所(『登戸研究所資料館だより』2013年7月12日第8号より)|明治大学(PDF、全4頁) ※三笠宮崇仁親王―登戸研究所http://www.meiji.ac.jp/noborito/info/2013/6t5h7p00000er02m-att/6t5h7p00000er04d.pdf
〔資料〕≪広瀬 隆 著『腐蝕の連鎖―薬害と原発にひそむ人脈』 より抜粋(1〜14)≫|MelancholiaT ※七三一部隊、他
http://arsmagna2.jimdo.com/melancholiaT-roentgenium-資料保管庫-目次/
※七三一部隊関係者のその後及び厚労省との関係について、他。
http://ameblo.jp/antibizwog/theme-10035165211.html
〔資料〕2010年8月6日放送NHKスペシャル「封印された原爆報告書」を見て。 - ふじふじのフィルター 2010年8月9日
http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6a44.html
〔資料〕≪吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 より一部抜粋、要約(10)≫|MelancholiaT
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11443593874.html
〔資料〕≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(8)≫|MelancholiaT ※日本赤十字社副総裁
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11090973062.html
〔資料〕1945年3、敗戦まで 終戦への動き(天皇聖断への流れ) - れんだいこのホームページ 2012年4月26日 ※「工藤美代子の『香淳皇后』(2000年)は次のように記している。〜末尾」を参照。重要。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/haisenhistory3.html
(16頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(16)≫
(15頁からの続き)
〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第5章 「富田メモ」と昭和天皇の真意 より抜粋、要約 P.190−P.223〕
■長州宰相と平成のミステリー
2006(平成18)年9月、安倍晋三は第90代内閣総理大臣に就任した。これで長州から8人目の宰相誕生となった。
1885(明治18)年の内閣制度発足以来、長州は初代の伊藤博文(1841−1909 総理大臣任期:1885〜1888・1892〜1896・1898・1900〜1901)〔※関連資料(1・2・3・4・5暗殺の真相について・6・7・8)〕をはじめ、山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922 総理大臣任期:1889〜1891・1898〜1900)〔※関連資料(1・2・3)〕、桂 太郎(1848−1913 総理大臣任期:1901〜1906・1908〜1911・1912〜1913)、寺内正毅(てらうち まさたけ 1852−1919 総理大臣任期:1916〜1918)、田中義一(1864−1929 総理大臣任期:1927〜1929)、岸 信介(1896−1987 総理大臣任期:1957〜1958・1958〜1960)〔※関連資料(1・2・3)、『腐蝕の連鎖』より【系図11-1・11-2―満州利権者と朝鮮窒素と水俣病】〕、佐藤榮作(1901−1975、岸 信介の実弟、総理大臣任期:1964〜1967・1967〜1970・1970〜1972)と7名の首相を生み出してきた。8人目の安倍にとって、岸 信介は祖父、佐藤榮作は大叔父に当る。
この7名に戦前の満洲国(1932〜1945)実力者として「弐キ参スケ」と呼ばれた5人の人物を加えることで、安倍の長州人脈がより一層理解出来る。弐キは東條英機(1884−1948 総理大臣任期:1941〜1944)と星野直樹(1892−1978、父・星野光多はキリスト教伝道師)〔※『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』及び満洲伝道等について関連資料(1・2・3・4・5)〕、参スケとは岸 信介、松岡洋右(まつおか ようすけ 1880−1946)、それに日産コンツェルンの創設者である鮎川義介(あゆかわ よしすけ 1880−1967、日産コンツェルン創始者、満洲重工業開発総裁他)〔※『持丸長者 国家狂乱篇』より【図8・系図3】〕を指す。岸、松岡、鮎川の参スケは共に長州出身の縁戚トライアングルを形成していた。
岸 信介の孫である安倍が(小泉竹中政権の)幹事長時代の2005年5月28日に行われた札幌市内の講演会で「小泉首相が我が国の為に命を捧げた人達の為、尊崇(そんすう)の念を表す為に靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」と発言した背景には、安倍の偏狭な長州史観が実によく表れている。
また、小泉が薩摩の血を引いていることを考えれば、現在の靖国神社(長州閥の守護社)参拝問題は単なる薩長史観に国民全体が振り回されているに過ぎず、薩長連合による靖国参拝が、分裂寸前の中国・韓国を結束させていることを考えれば、意外と裏では「闇」繋がりの仲良し勢力が潜んでいるようだ。
極東国際軍事裁判(東京裁判)は「勝者の裁き」と形容されることが多い。靖国神社に祀(まつ)られているA級戦犯とて「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の報復裁判の犠牲者に過ぎない。だから安倍のように考える人も多いと思う。
ここで更に歴史を遡(さかのぼ)ってみよう。
「陸の長州、海の薩摩」とはよく知られた言葉であるが、靖国神社もまた「官軍である長州の護国神社のような存在」であった。皮肉にも靖国神社こそが「勝てば官軍、負ければ賊軍」を象徴した歴史の上に成り立っている。しかも、長州が深く関わっていた。
それまで勝てば官軍に胡坐(あぐら)をかいていたような人達が、一旦負ければ、挙(こぞ)って「勝てば官軍式の東京裁判」を批判した。冷静に見れば何とも奇妙な世界である。
靖国神社の歴史を振り返れば、1869(明治2)年に明治維新期の戊辰戦争(1868〜1869)で亡くなった官軍兵士を祀る為に靖国神社の前身である東京招魂社(1869年創建、1879年靖国神社に改称)が創建され、これに尽力したのが長州の大村益次郎(1824−1869)、1872(明治5)年に社殿(本殿)が完成し、正遷宮祭(しょうせんぐうさい)が執行された時の祭主は長州のあの山縣有朋(やまがた ありとも 1838−1922 総理大臣任期:1889〜1891・1898〜1900)〔※関連資料(1・2・3)〕であった。
1879(明治12)年に別格官幣社と列格されて靖国神社に改称、以後敗戦まで陸軍省と海軍省と内務省が管轄官庁となった。
靖国神社を「敵味方問わず国の為に身命を失った人々を弔う」場と見ている軽やかなる日本人も多い。よく比較に出されるアーリントン国立墓地 Arlington National Cemetery(1864年開園)には、敗北した南軍兵士も弔われているが、靖国神社本殿には戊辰戦争で朝敵にされた会津白虎隊や南部藩士、西南戦争(=西南の役 1877年)で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛(1828−1877)〔※関連資料(1・2)〕は祀(まつ)られていない。
現在の靖国神社宮司は南部利昭(なんぶ としあき 1935−2009 宮司任期:2005〜2009)〔※関連資料(1―小泉純一郎・2松平永芳曰く「生涯で意義あることをしたと私が自負出来るのは、A級戦犯合祀である。現行憲法の否定は我々の願うところだが、その前に極東軍事裁判の根源を叩いてしまおうという意図の下に、A級戦犯14柱を新たに祭神とした」・3ジョージ・アチスン曰く「ことに肝要なことは、日本人が民主主義の基本的な体制を獲得したことである。その体制を完成し、改良し、常に修理を施(ほどこ)すことは、日本国民に課せられた任務であろう。日本国民の将来・・・即(すなわ)ち極右または極左の何れの軍隊的組織に退歩するか、もしくは民主主義を更に発展せしめ、日本人の生活の中に織り込むか・・・これは全て国民の双肩に掛かっているのである。追放された軍閥と財閥を除いては、敗戦による利益は、損失よりも遥かに多いと言わない日本人はないであろう」)〕。姓が示す通り、南部藩主だった南部家第45代当主である〔※旧盛岡藩・南部家は戊辰戦争で旧幕府方に属したが、日露戦争で大叔父に当る南部利祥(なんぶ としなが 1882−1905、大正天皇の学友)が功を遂げ靖国神社に合祀されたことから繋がりを持つ〕。戊辰戦争で幕府側について斃(たお)れた者達の魂は、今尚戸惑っているに違いない。
戦前「武装共産党(1929〜1930)」の中心人物として検挙され、戦後転向して本物の右翼を自称した田中清玄(たなか せいげん 1906−1993)〔※関連資料(1「かつて文藝春秋の池島信平君がロンドンで司馬遼太郎を紹介してくれた時、司馬君は『田中さん、私はあなたの先祖の田中土佐よりも、田中清玄その人に興味を持つ』と、こう言うんだよな。私に言わせれば彼は薩長代表のようなもんだからね」)〕の祖先は、会津藩松平侯の家老であった。会津の血を引く田中が靖国神社を「長州の護国神社のような存在」とバッサリ切り捨てた理由もここにある。
終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を時の首相・鈴木貫太郎(1867−1948 総理大臣任期:1945年4月7日〜8月17日)に進言し、日本を終戦に導いた名僧・山本玄峰(やまもと げんぽう 1866−1961)の元で修行し、「(陛下は反対であったにも関わらず)どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と昭和天皇に直接伺い、山口組3代目組長田岡一雄(1913−1981)とも親交があった田中清玄が「許せない存在」として名を挙げたのが岸 信介・児玉誉士夫一派である。長州への長年の恨みが渦巻いていた。
この岸の孫である安倍が、現職の内閣官房長官だった時に自身の政治哲学を綴(つづ)った『美しい国へ』(文藝春秋 2006年刊行)の初版発行日は2006年7月20日。まさにこの日の朝に届けられた日本経済新聞(―CSIS)に、安倍と縁戚関係にある松岡洋右の名前が登場し、日本中が騒然となった(『美しい国へ』の初版発行日から5日後、誤って「美しい国」で検索したところ、統一教会と国際勝共連合の会長を務めた久保田修己の遺稿集『美しい国 日本の使命―久保木修己遺稿集』(久保木修己 著, 久保木修己遺稿集刊行委員会 編・世界日報社 2004年刊行)が飛び出してくる。ここに「美しい国」の向かう先が暗示されているのだろうか)。
一面トップで報じられたのは、昭和天皇が当時の宮内庁長官・富田朝彦(とみた ともひこ 1920−2003 宮内庁長官任期:1978〜1988)に語ったとされる「富田メモ」である。
この日付の一致はまさしくミステリーだった。筆者は直ぐに知り合いの日経記者に、安倍晋三を狙い撃ちしたような日付の一致の真相を確認したが、詳しくは分からない。
これがミステリーなどではなく、皇室からの警告だと確信したのは、平泉 澄(ひらいずみ きよし 1895−1984)〔※三男の平泉 渉と核利権、中曾根康弘とMRA等について関連資料(1・2・3日本の原発導入と中曾根康弘の役割・4・5・6)〕の御進講を嫌がる昭和天皇の様子がはっきり記された「小倉庫次(おぐら くらじ)侍従日記」を読んだ時である。しかも、「富田メモ」の内容を裏付ける為に、本来表に出てはいけない卜部亮吾(うらべ りょうご 1924−2002)侍従「日記」までもが公表されたとなると、もはや異常事態と言っていいだろう。
そして、長州8人目の宰相は、早々に政治の表舞台から消え去ることになった。恐らく、皇室からの警告は、楠木正成(1294?出自不明−1336)の怨霊の隠れ家となっている靖国神社にも向けられているのだろう。
〔資料〕やっぱり「にくいしくつう」 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年9月23日 ※「『社会保障の切り捨て』と『消費税引き上げ/法人税引き下げ』の一体改革は1990年代半ばに日本とアメリカの支配層が集まり、決められた方針に基づいている。CSISが設置した「日米21世紀委員会」が1996年にメリーランド州で最初の会議を開き、98年に報告書を出している。この時期、「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府の年次改革要望書」も出され始めたようだ。こうした動きが生まれる10年ほど前から日本経済は大きく揺らぎ始めている。先ず、1985年にニューヨークのプラザ・ホテルで開かれたG5でドル安/円高が決まり、88年にBISが銀行は8%相当の自己資本を保有しなければならないと定めて日本の銀行は厳しい状況に追い詰められた(BIS規制)。1989年に日米構造協議が始まると「ケイレツ」が問題になるのだが、これは日本経済の強みを中小企業にあると判断したアメリカが中小企業潰しに着手したということだろう」(TPP―消費税増税)
http://satehate.exblog.jp/20762421/
〔資料〕秘密保護法案「絶対必要」―安倍首相 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年10月12日 ※(ヘーゲルの弁証法における「合」である)第2次安倍政権(第1次安倍政権でネトウヨなどを取り込むアリバイ作りを経た後の「合」)と第3次アーミテージ・レポート(―CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI)、他。
http://satehate.exblog.jp/20829303/
〔資料〕≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(14)≫|MelancholiaT ※成りすまし似非右翼及び「トロイの木馬」の尖兵(エージェント)について、添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11716043037.html
〔資料〕自らの歴史を書けない国に成り下がる日本 By 田中良紹(Yahoo!ニュース有料記事より) 2013年12月2日
http://www.asyura2.com/13/senkyo157/msg/349.html
〔資料〕北朝鮮の核実験は恒例行事。アジアの緊張で得するアメリカ - DARKNESS bllacks.com 2013年2月12日
http://www.bllackz.com/2012/05/blog-post.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11509616866.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11716043037.html
〔資料〕藩閥(明治寡頭制) - Wikipedia ※「やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、特に最高指導者層は、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5
〔資料〕孝明天皇暗殺考 - れんだいこのホームページ 2005年11月14日 ※他に、「読書日記」内の落合莞爾「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」(『NEW LEADER』誌連載)他及び「ペリマリのプラプラ講義」内のmajick58・65・天皇制について他などの見解も一考察として参照。また、「舎人学校」(落合莞爾共々田布施システム側?或いはその正統化の為の詐術?)に対する「社会科学者の時評」等の批評も興味深い。「情報操作とは、『驚くべき事実の一端』を開示しつつ、その裏にあるより大きな事実を隠蔽し、情報元の意図に即した方向性に世論を形成していくものです」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_komeitennocoo.htm
〔資料〕靖国神社の御祭神、御神体について - れんだいこのホームページ 2005年7月3日
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._goshintai.htm
〔資料〕1869年(明治2年6月29日)、戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として東京招魂社(現靖国神社)が創建。 - 日本会議 2013年8月6日 ※―平沼赳夫
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-5015.html
〔資料〕我々は嘘のない「真実の歴史」が知りたい - zeraniumのブログ 2012年5月7日
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-1984.html
「日本政府の至高絶対の権威と民衆の最後の実力行使は、同じもの「てんのうはん」でなければならなかったとすれば、それが聞き耳を恐れての隠語にせよ、天皇制の未来、未来の天皇制を結果的に先取りしてしまっている。自分達の秘匿しぬこうとする最後の結集形態が、明治憲法が「神聖ニシテ侵スベカラズ」と規定したものに置き換えられたのは、彼らが現実の天皇と天皇の名によって力をふるう者とを如何に畏れたかを表し、裏返しに、自分達の側の潜在的な力を如何に頼みにしていたかを示していよう。未来の「てんのうはん」は何か。隠語の力学関係が、私の心にダーンと何かをぶっつけてくる。天皇様をお作り申したのは我々だとは、明治以前に生まれた長州の老人達によく聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家は無かった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。彼らが求めている天皇と現実の天皇と、幾らか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、・・・・激化すると、天皇を取り換えてしまう他なくなる。我が家に空襲で焼けるまであった孝明天皇の皿は、恐らくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代に齎(もたら)されたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866(慶応2)年の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。勿論、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になり始めたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。天皇制を悠久の昔からのものと考えることは出来ない。天皇家と天皇制は一つにしてみるべきではなかろう。天皇制は近代百年の政治的創作で、新しい我々と同時代のものである。戦後、或る日、総理大臣吉田 茂が、突如昔のように天皇に対して臣茂と言い始め、人々を驚かしたが、昭和の初め、私の子供の頃には、昼間の銭湯には、伊藤博文が初めて臣博文とやらかした時のことを、覚えている老人達が集まっていた。禁裡様から天子様、天皇陛下へ移り変わったことを彼らは知っていて、天皇ファンが多かったが、大した出世をしたものよ、と感心されてもいた。一代の成り上がり者明治天皇を偉いと褒め、息子の大正天皇の精神異常のエピソードを様々に公言する老人達の寄合は、数年後にはもう銭湯からも姿を消した。安政・万延・文久生まれが急速にいなくなったからである」(『終末から』1974年8月号収録、益田勝美 著「天皇史の一面」より)
〔資料〕岸のCIAエージェント考 - れんだいこのホームページ
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/jimintoron/history/kishiseikenron.htm/ciaeigentco.htm
〔資料〕日米原子力研究協定の成立―日本側交渉過程の分析 By 田中慎吾 2009年3月(PDF、全17頁)
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/12271/1/24-11_n.pdf
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65859264.html
〔資料〕福島第一原発大事故を引き起こした最大の責任者は安倍晋三首相だ! - 杉並からの情報発信です 2013年10月5日
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/84b01baa27dffdba093564f2d4ea8772
〔資料〕カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1〜2 - 不 可 視 の 学 院 2007年10月15日
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/565.html
〔資料〕戦後の日本とMRAの軌跡 - 財団法人MRAハウス ※澁澤敬三、三井高維、吉田 茂、鳩山一郎、岸 信介、佐藤榮作、一萬田尚登、石川一郎、石坂泰三、池田勇人、中曾根康弘、金 鐘泌(KCIA)、他多数
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/IDX1.HTM
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※清和会と松下政経塾とGATT(現WTO)、或いはMRAと統一教会・KCIA、等。「金貸し支配と労働運動は繋がっていた?」「資本主義と共産主義はユダヤの両建て主義」他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11211313712.html
〔資料〕米CIAが自民党に秘密資金を提供していたことを認めた - Kaleidoscope 2013年4月3日
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-1987.html
〔資料〕秘密保護法とNWOの日米欧三極委員会との繋がり - Kaleidoscope 2013年12月15日 ※「この記事を3年後に読み返してみてください。『ああ、その通りになった』と嘆くのか、『日本の運命を変えた』と達成感を味わうのか、それは秘密保護法の廃止にかかっているのです。『原発には反対するけどTPPには賛成する』という有権者がいました。学者もいました。『NWOなんてものには断固反対だが、秘密保護法は賛成だ』という有識者もいるでしょう。そうした人々は絶望的な人々です。原発に反対するのであれば、それと繋がっているTPPにも当然反対することになるし、これはNWOの流れなのですから、当然、秘密保護法にも反対しなければならないのです。『すべて反対するのは左翼だ』とレッテル貼りをする日本の無知蒙昧が多数いますが、ジョン・ラポポートのこのレポートが指摘しているように、これらすべてが日米欧三極委員会をはじめとする「一つの世界権力」から出てきていること知った時、彼らが果たしてどんな言い訳をするのか見ものです。日本人は、自分で全体像を描いたことがないので、下位の風景しか見ることが出来ません。これは日本の政治家も同じです。上から見れば、全部同じことなのです。それは繋がっている」
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2539.html
〔資料〕日本一おかき処 播磨屋本店:憂国・響世メッセージシリーズ、他
http://www.harimayahonten.co.jp/
(17頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(17)≫
16頁からの続き)
■「富田メモ」と靖国神社合祀(ごうし)基準
<
私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡(元外相)、白取(白鳥敏夫駐伊大使)までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ
>
この「富田メモ」の信憑性〔※参考資料(1手帳の右側に貼り付けてあるメモ・2・3・4・5・6日経記者の手に渡った時期)〕について、右派や保守派が攻撃したことも記憶に新しい。しかし、小倉庫次(おぐら くらじ)侍従「日記」や卜部亮吾(うらべ りょうご 1924−2002)侍従「日記」の公表によって、あれだけ鼻息の荒かった右派も保守派もただただ沈黙するばかりとなる。
2007(平成19)年3月10日発売の『文藝春秋』4月号に掲載された「小倉庫次(おぐら くらじ)侍従日記」では、昭和天皇が最後の最後まで日独伊三国同盟締結に憂慮し、同盟締結の推進者であった白鳥敏夫(1887−1949、A級戦犯として終身禁固刑で服役中に喉頭癌で獄死)に「会いたくない」とまで語った様子がリアルに描かれている。また、同盟締結の当事者だったヨゼフ松岡洋右(まつおか ようすけ 1880−1946)の拝謁時間の長さに、異様さ、不気味さを感じた。
A級戦犯の中で、何故松岡と白鳥だけを名指ししたのだろうか。右派や保守派が何と言おうが、昭和天皇がこの2人に不信感を持っていたことはもはや疑いようが無い。さりとて、この不信感が昭和天皇の参拝拒否の原因となったと考えるのも、些(いささ)か単純過ぎるような気がする。昭和天皇の不快感は、それまでのルールを破った靖国神社に対しても向けられていたのではないか。この点で、共同通信が2006(平成18)年8月5日に配信した靖国神社合祀(ごうし)基準との関連も考える必要がある。
第2次世界大戦 WWU(1939〜1945)末期に当時の東條英機(1884−1948 総理大臣任期:1941〜1944)首相兼陸相が、戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属に限るとする靖国神社合祀基準を陸軍の秘密文書で通達していた。
この文書は1944(昭和19)年7月15日付で「陸軍大臣 東條英機」名で出された「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」。原稿用紙29枚分で、原文のカタカナをひらがなに直して戦後に書き写したと見られ、1980年頃に旧厚生省が廃棄処分にした書類の一部として作家の山中 恒(やまなか ひさし 1931−)が古書市で入手したとしている。防衛庁防衛研究所の史料専門官は「旧陸軍の秘密文書の書式に合致し、内容にも矛盾がない」と原文を写したものにほぼ間違いないとしている。
これを受けて皇室研究家の高橋 紘(たかはし ひろし 1941−2011)が2006年8月11日の共同通信で、()内を補いながら次のような解釈を示し、「あれ以来参拝していない」理由として、(1)合祀基準に問題はないか、(2)三木武夫(1907−1988 総理大臣任期:1974〜1976)参拝以降の政治問題化〔※関連資料(1「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」)〕、を挙げている。
<
私は 或る時に、A級が合祀され(たと聞いた。刑死者はともかく)その上(病死で外交官の)松岡、白取までもが(祀られているのはどうか)
>
つまり高橋は、昭和天皇の不快感が、A級戦犯合祀問題ではなく、東條が示したルールを勝手に無視して合祀を決めた靖国神社に向けられていたとの見方をしているわけだ。この高橋の見解を裏付けるべく、再び歴史を遡(さかのぼ)っていきたい。
〔資料〕昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
http://tamutamu2011.kuronowish.com/tennnoumemo.htm
〔資料〕≪吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 より一部抜粋、要約(7)≫|MelancholiaT
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11437739284.html
〔資料〕vol.149〜151:最後の内大臣・木戸幸一(第1〜3話) By 竹田恒泰 - 皇室のきょうかしょ
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu149.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu150.html
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu151.html
〔資料〕ハワイ真珠湾攻撃と日米開戦:太平洋戦争の宣戦布告 - 鳥飼行博研究室
http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/1941.html
〔資料〕≪吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 より一部抜粋、要約(7)≫|MelancholiaT ※真珠湾攻撃の真相について、今と同じく連邦政府の後ろにいる軍産学複合体・多国籍企業群・(恐慌や戦争によって潤う)国際金融資本の思惑という観点から4月26日記事「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」他、4月11日記事【THRIVE〜世界支配の計画を暴く〜】を併せて参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11437739284.html
〔資料〕招魂教(靖国神社)はテロリストの為の新興宗教である。/靖国神社の元宮に招魂された46人中29人は要人暗殺グループのメンバー By tk 2003年4月5日・8月20日
http://www.asyura.com/0304/bd25/msg/514.html
http://www.asyura2.com/0601/cult3/msg/319.html
〔資料〕戦後につくられた靖国装置/密命=にっぽんじんを利用してアジアを支配せよ By 琴姫七変化 2013年8月15日
http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/509.html
http://www.asyura2.com/13/senkyo156/msg/232.html
〔資料〕「国と国」を語る(7):靖国は平和祈念の場でない/アジアの一員に立ち戻れ/作家・山中 恒氏 - 47NEWS(よんななニュース) 2013年4月6日
http://www.47news.jp/47topics/e/240049.php
「(領有権問題は)棚上げでよかったのに、あれで多くの人が迷惑を被った。なのに、石原愼太郎(―霊友会)を本気で戒める論調は少ない。(中略)尖閣購入の発表を(米保守派シンクタンク)ヘリテージ財団でしたのも彼らしい。言うなら日本で言えばいいのに。彼を右翼というけど、右翼としての一貫した論理も無い。米国に対する姿勢など筋が通っていない。(中略)戦死した息子や夫を思って参拝する遺族の心情は分かるが、靖国は原爆、空襲、沖縄戦などで死んだ民間人は祀らない。戦神(いくさがみ)を祀る場所だからなんだ。平和を祈念する場でなく、戦争に勝つことを祈る場。今でも靖国は展示施設・遊就館などで過去の戦争を正当化し続けている。(中略)そもそも東條英機(元首相兼陸軍相)自身が戦争末期に通達した陸軍秘密文書で、靖国合祀は『戦役勤務に直接起因』して死んだ軍人・軍属に限ると通達している。東條自身も祀られるとは思っていなかったはず。A級戦犯の合祀は、陸軍省から旧厚生省に流れ込んだ旧軍官僚がやった」
〔資料〕≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(15)≫|MelancholiaT ※添付資料を参照。重要。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11716045974.html
〔資料〕天皇陛下 80歳の誕生日 記者会見全文 - 東京新聞 TOKYO Web 2013年12月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/koushitsu/131223/
「80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国の他に新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していく為に当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経、今日、日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても、人と人との絆(きずな)を大切にし、冷静に事に対処し、復興に向かって尽力する人々が育っていることを、本当に心強く思っています」(2013年12月23日記者会見全文より一部抜粋)
■「土の匂いのする神道」とは
福岡に生まれ、戦後唯一の神道思想家と呼ばれた葦津珍彦(あしづ うずひこ 1909−1992)〔※関連資料(1葦津珍彦が1967年知友に頒布した私家版のパンフレットより・2緒方竹虎(―CIA)と葦津父子・朝日新聞と神社新報・3・4・5・6・7・8・9・10・11)〕に登場していただこう。
青年期には無政府主義や社会主義に傾倒していたこともある葦津は、神道の信仰に固い信念を持って生きる父・葦津耕次郎(1878−1940)やその父が師と仰いだ頭山 満(とうやま みつる 1855−1944、玄洋社総帥)〔※関連資料(・・・)〕などの影響で転向する。
父・葦津耕次郎は日本の神のみを祀ろうとする朝鮮神宮(1925〜1945)〔※関連資料(1檀君国師堂)〕の設立を「人倫の常道を無視せる不道徳」として、神道思想家であった今泉定助(いまいずみ さだすけ 1863−1944)や靖国神社宮司(みやづかさ)を務めた賀茂百樹(かも ももき 1867−1941)らと共に、最後まで反対の声を上げ続けた人物である。
葦津珍彦もまた「天皇を元にした日本独自の行き方」を求め、無益な競争を好まず、白人世界に対して「最低限度の国としての生存権」を主張する。中国戦線で倒れていく中国人の境遇に涙しながら、このような戦争が大御心(おおみこころ)ではあり得ないとして、当時朝日新聞主筆であった緒方竹虎(おがた たけとら 1888−1956、―CIA)や神社界の長老人脈を頼りに、戦争回避に向けて走り回った。
日独伊三国同盟や対米英戦争反対の立場から東條内閣(1941〜1944)を批判、言論思想統制反対の論陣を張って身柄を拘束されたこともある。
戦後、珍彦は「神社の鳥居は残す」との堅い信念から神社本庁(1946年設立)設立に全力を尽くす。目指したものは、神社の多様な在り方を尊重した緩やかな組織体であった。「教義決定権があれば連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)がコントロールしやすくなり、占領権力の意のままの『マッカーサー教』と化してしまう」ことを恐れて中央集権的な組織を嫌ったのである。
葦津珍彦の息子である葦津泰國(1937−)は、父の根底にあった思想を「土の匂いのする神道」と表現している。これは日本の風土から土着的に生まれた土着神道と言い換えることも出来る。
この思想と転向経験が、左派の鶴見俊輔(1922−)から右派に至るまで幅広い人物との交流を生み出し、左右を繋ぐブリッジ的な存在となった。古き良き産経新聞なら真っ先に取り上げたであろうこの人物を、毎日新聞が丹念に追い掛けている。高橋 紘(たかはし ひろし 1941−2011)の見解を裏付ける内容であるだけに、少しアレンジを加えながら見ていきたい。
〔資料〕CIAと緒方竹虎|20世紀メディア研究所・特別研究会(PDF、全26頁) ※日本人ファイルCIA暗号名一覧は、6〜8頁を参照。
http://members.jcom.home.ne.jp/katote/0907OGATA.pdf
〔資料〕≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(7)≫|MelancholiaT ※田布施システムについて一部添付資料
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11609576471.html
〔資料〕日本人が知らないニッポン〜隠されてきた歴史から読み解く世界の成り立ち〜 - THINKER
http://www.thinker-japan.com/thinkwar.html
〔資料〕国家神道は、神道にまとわりついた罪穢れ、祓うべし〜伊勢神宮式年遷宮お白石持行事に参加して By 曽我逸郎 - 釈尊の教え(無常=無我=縁起)を「仏教」から抽出する 2013年10月7日 ※上資料に合わせて参照。
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/kksintou.html
〔資料〕南北朝秘史 その1〜2 - LEGACY OF ASHES 2011年10月8日 ※大室寅乃祐(明治天皇)の出自と近代皇室
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/290.html
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/291.html
〔資料〕「明治」と云う幻想 1〜8 |山伏の日々 2010年2月18日〜4月2日 ※「この明治時代に創られたものを伝統と指定するならば米国より伝統の無い国になってしまう」
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/theme-10019801648.html
〔資料〕「維新」と云う幻想 1〜7|山伏の日々 2010年10月17日〜11月9日
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/theme-10027555213.html
〔資料〕村上重良 著『国家神道』:書評 - 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇 2007年6月30日
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1190.html
〔資料〕【靖国神社考】靖国神社の由来と歴史について - れんだいこのホームページ 2006年8月31日
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._history.htm
「準備書面(原告ら第5回)の『靖国神社もこれら一群の創建神社の一つである。我が国古来の伝統としてはなかったものを、近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである』の指摘は正しい。但し、『我が国古来の伝統としてはなかった云々』で何をどう理解すべきか、ここが肝心である。『近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものである』的理解は、半面の真実を伝えているだけのように思う。もう一つ重要なことがあるのではないのか。それは、『神道と仏教の歴史的棲み分け』において、神道が概ね生前の行事に関わる面を受け持ち、仏教が概ね死後に関わる面を受け持ってきた一千年来のしきたりに対して、靖国神社はこのしきたりを壊してはいないだろうか。つまり、靖国神社は、神道をして死後の世界を受け持たせるという新たな職掌に関与させたのではなかろうか。これは一種の『宗教界に於けるクーデター』ではなかったか。そのことがある故に、靖国神社は、先ずは招魂社として結社されたのではないのか。それを政治利用する為に、靖国神社化させられたのではなかったか。〜他」
〔資料〕「葬式仏教」:葬送と墓制 その2 - 京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」。 2006年9月10日
http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/39885124.html
■靖国神社と宮中の亀裂
A級戦犯合祀は1978(昭和53)年10月に、「富田メモ」にも登場する松平永芳(まつだいら ながよし 1915−2005、宮司任期:1978〜1992)〔※関連資料(1松平永芳曰く「生涯で意義あることをしたと私が自負出来るのは、A級戦犯合祀である。現行憲法の否定は我々の願うところだが、その前に極東軍事裁判の根源を叩いてしまおうという意図の下に、A級戦犯14柱を新たに祭神とした」・2ジョージ・アチスン曰く「ことに肝要なことは、日本人が民主主義の基本的な体制を獲得したことである。その体制を完成し、改良し、常に修理を施(ほどこ)すことは、日本国民に課せられた任務であろう。日本国民の将来・・・即(すなわ)ち極右または極左の何れの軍隊的組織に退歩するか、もしくは民主主義を更に発展せしめ、日本人の生活の中に織り込むか・・・これは全て国民の双肩に掛かっているのである。追放された軍閥と財閥を除いては、敗戦による利益は、損失よりも遥かに多いと言わない日本人はないであろう」・3・4)〕宮司(ぐうじ)が人知れず敢行する。翌1979(昭和54)年2月、『神社新報(1946年創刊)』編集長だった葦津泰國(1937−)は、意を決して松平宮司に面会を申し入れる。
<
「A級戦犯合祀についてお話を聞きたいのですが」
泰國の申し入れに対して、松平は周囲を見回しながらこう答えた。
「職員が帰ってから来てくれ」
泰國は仕方なく神社新報の事務所に戻った。そして再び靖国神社社務所応接室を訪れた時はもう夜になっていた。挨拶を済ませた泰國が、松平を前に早速切り出した。
「問い質(ただ)したい。靖国神社が世論の支持の下に国家護持された暁(あかつき)に晴れてA級戦犯を合祀するというのが祭祀制度調査会の一致した考えだった。御存じか」
松平は、そんなことは当然知っているという素振りを見せながらこう答えた。
「国から名簿が来たら合祀する。それが筋だ」
「祭祀制度調査会の考えを知っていて、何故・・・・・・」
泰國のこの言葉を封じるかのように松平は声を荒げて繰り返した。
「筋だ、筋だ」
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泰國はもはや黙って立ち去るしかなかった。そして泰國は父・葦津珍彦にむなしく報告する。合祀を世間が知るところとなったのはその2カ月後のことであった〔※関連資料(1・2)〕。
祭祀制度調査会とは、国家護持案が遺族会や自民党で浮上したのを受けて、1961(昭和36)年に設立された宮司の諮問(しもん)機関である。1963(昭和38)年には「靖国神社国家護持要綱」を作成、この中で宗教法人を解散した上で特殊法人を作り、国が合祀や儀式の費用を支出するよう求めた。靖国神社側への配慮から神社の名称存続や儀式行事の保持などの原則も盛り込んだ。
葦津珍彦はこの調査会の中心メンバーだったのである。
毎日新聞は、神社本庁教学委員や神社新報論説主幹を務め、靖国神社のA級戦犯分祀不可論を展開している國學院大学神道文化学部の阪本是丸(さかもと これまる 1950−)教授とのインタビューも掲載する。阪本は葦津珍彦直系の弟子に当る。ここで山中 恒(やまなか ひさし 1931−)が入手した靖国神社合祀基準との関連で、注目すべき発言がある。
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合祀に踏み切った松平永芳元宮司は、後に国家護持を否定し『国民総氏子(うじこ)』を唱えたが、当時ははっきりしなかった。葦津先生の指摘は、宗教法人で行くならA級戦犯合祀も憲法上の信教の自由だが、国家護持を目指すなら、戦前からの基準に照らしてA級戦犯が相応しいか賛否両論ある。一宗教法人が決めるのでなく、国家の意思が定まるのを待つのが穏当だったという論です。
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更に毎日新聞側の「靖国の合祀基準は一貫していたのですか」との問い掛けに対して、こう答えている。
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公務に従事し、国の命令や法に従って戦争で亡くなった戦没者等を祭るのが靖国です。基準は変わっていないが、祭る対象が変わってきた。明治の創建当時は、戊辰戦争の戦没者と並んで、政府の布告に基づき、幕末の動乱に倒れた坂本竜馬ら『国事殉教者』も祭ることにした。政府には一人一人がどう生きて、どんな形で亡くなったのか詳細な記録があった。人の生き死にを大事にしていたわけです。
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当然と言えば当然のことだが、ここで明らかになっているのは、阪本も靖国神社も戦前からの「戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属に限る」とする靖国神社合祀基準を知っていたということである。
阪本の回答を分かりやすく整理してみよう。
葦津ら祭祀制度調査委員会は、靖国神社が国家護持された暁に晴れてA級戦犯を合祀する考えだった。しかし、そうなると戦前の靖国神社合祀基準に照らし合わせる必要が出てくる。必然的に東條英機(1884−1948 総理大臣任期:1941〜1944)や白鳥敏夫(1887−1949、A級戦犯として終身禁固刑で服役中に喉頭癌で獄死)のように合祀出来ない人物も出てくる。当然の如く賛否両論が巻き起こるであろうし、時間も掛かる上、実際に合祀決定と至るかどうかも分からない。永遠に議論だけが空回りし続ける可能性すらある。
恐らく松平はこれを恐れた。
いっそのこと靖国神社が一宗教法人である内にA級戦犯合祀を決めてしまおう。一宗教法人である以上、戦前の靖国神社合祀基準など気にすることなく、憲法上の信教の自由を楯に独自の基準で決めてしまえばいい。そうすれば、松岡も白鳥も合祀出来る。東條も合祀出来るのだ。しかも国から名簿が来た。これで筋も通る。今の内に合資を決めるしかない。一宗教法人である今しかない。松平はそう考えたのだろう。
ここで見解の相違が生まれる。
一宗教法人だから独自の基準で決められると判断した靖国神社(長州閥の守護社)。一方で、国内はおろか外交問題にまで発展する可能性があるような重大事を、一宗教法人が勝手に決めていいのかという見方である。
宮中側も当然、東條が通達した戦前の靖国神社合祀基準を知っていた。ここで靖国神社と宮中の間で亀裂が生じる。
半世紀に亘(わた)り昭和天皇に仕えた徳川義寛(とくがわ よしひろ 1906−1996)〔※関連資料(1)〕元侍従長の『徳川侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(朝日新聞社 1997年刊行)を見てみよう。この中で徳川は、「東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいんじゃないか、と言ったんです」と書いている。
宮中側も靖国神社合祀基準を前提に考えていた。一宗教法人が勝手に決めていいような問題ではないと考えていたのである。この「徳川見解」が「富田メモ」の内容と近い為に、『週刊新潮』やインターネットなどで「富田メモ」は昭和天皇ではなく、徳川義寛のものだとする「取り違え説」なども話題になったが、極めて根拠に乏しく、説得力も無かった。しかも、靖国神社合祀基準にまで踏み込んだ議論など皆無だった。
A級戦犯合祀が不適切かどうかを巡る左右両陣営の感情的な意見が飛び交い、毎日新聞も独自の情報源を元に真相に迫りはしたが、A級戦犯合祀が不適切との見解に固執した為に、結論を導き出すことが出来なかったのである。
恐らく、東條が通達した靖国神社合祀基準を、昭和天皇を含めた宮中側はもとより靖国神社側や神社本庁も十分に認識していた。これを前提に考えれば、やはり昭和天皇の不快感は松岡と白鳥だけではなく、合祀基準を勝手に無視して合祀を決めた靖国神社にも向けられていたと考えて間違いないだろう。
〔資料〕昭和天皇はなぜ靖国神社参拝(親拝)を中止したか - 社会科学者の時評 2012年2月4日 ※重要
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=4143378
〔資料〕藤田嗣治と戦争画;アッツ玉砕とサイパン玉砕の神話 War Art - 鳥飼行博研究室
http://www.geocities.jp/torikai007/war/bunkajin-picture.html
http://www.gei-shin.co.jp/comunity/24/8.html
〔資料〕神社合祀をどのように位置付けるか By 由谷裕哉 - 小松短期大学 由谷研究室 2004年2月 ※キリスト教公許問題の周辺、他。
http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/shrine%20mergers.htm
〔資料〕この人に聞きたい:高橋哲哉さんに聞いた その1〜3+番外編 - マガジン9 2006年10月25日〜11月15日
http://www.magazine9.jp/interv/takahashi/index.html
http://www.magazine9.jp/interv/takahashi/index2.html
http://www.magazine9.jp/interv/takahashi/index4.html
http://www.magazine9.jp/interv/takahashi/index3.html
「A級戦犯分祀論では、殆んど論じられてない、歴史認識の問題があります。A級戦犯というのは、東京裁判で裁かれた人の範疇です。東京裁判は満洲事変からの中国侵略戦争と太平洋戦争における日本の戦争責任の問題ですから、それ以前の靖国の歴史というのは、A級戦犯の問題では、問われないということになるわけです。しかし靖国神社は、明治2年、1869年に東京招魂社として発足して79年に靖国神社になる前に、既に台湾出兵の日本軍戦死者を祀っていますし、朝鮮侵略の過程での多くの日本軍戦死者も合祀されている。そうやって台湾、朝鮮半島を植民地化して独立運動などを弾圧する為に、日本軍が投入されたわけですが、その時の戦いで死んだ日本兵達を、靖国はずっと祀って来ているのです。そうして既に満洲事変以前に、日本は一大植民地帝国になっていたのです。そういった満洲事変以前の、靖国の歴史というのがあるわけですが、A級戦犯に関わるのは、満洲事変の計画以後の話しです。するとその前からあった植民地主義の問題は、全く問われなくなってしまう。そういう意味でも、A級戦犯というのは、時代的な限界があります。歴史認識問題についてもう一つ言うと、天皇の戦争責任ということが忘れ去られてしまいます。先に述べた富田メモについての論調のように、『昭和天皇がこう言っていたのだからA級戦犯を外して』となれば、益々昭和天皇はイノセントで何も責任が無く、A級戦犯だけが問題だった、というようになってしまう。これは東京裁判の構図そのものでもあるわけです。天皇の責任問題、それと国民の中でも幾つかの層があったわけで、その人達の戦争責任の問題を忘れさせてしまう。そういう意味で都合のいい考え方なんですけど、しかしそれでは、歴史認識としても戦争責任としても全く不十分です」一方で戦後“象徴天皇と同じく、米国(正しくは連邦政府の背後にいる軍産学複合体・多国籍企業群・国際金融資本といった支配層)が利用する靖国問題”という観点を持つことが大事。
〔資料〕「愛国者」の二つの意味 - WJFプロジェクト 2013年1月31日 ※重要。日本国民に対するShock Doctrine(惨事利用型資本主義)について関連資料(1・2)
http://wondrousjapanforever.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-6ded.html
〔資料〕WJFプロジェクトは、何故安倍政権を批判するのか - WJFプロジェクト 2013年5月24日
http://wondrousjapanforever.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/wjf-2cc2.html
〔資料〕DARKNESS bllackz.com ※真実を織り交ぜながら巧妙にイデオロギーによる分断攪乱及びショック・ドクトリンを仕掛けている(第2次安倍政権誕生後、いよいよ本性を現した)、その一例として参照。
http://www.bllackz.com/
〔資料〕「なりすまし」をして内部侵食するワナに、日本の社会は弱い - DARLNESS bllackz.com 2013年3月29日 ※「保守」「トロイの木馬」の尖兵(エージェント)について。なりしました連中による秘密保全法や日本版NSC、等々。
http://www.bllackz.com/2013/03/blog-post_29.html
(18頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(18)≫
(17頁からの続き)
■厚生省・陸軍人脈とA級戦犯
南部藩士の父を持つ東條英機(1884−1948 総理大臣任期:1941〜1944)と板垣征四郎(1885−1948)は、賊軍にしてA級戦犯の汚名を着せられることになる〔※阿片利権等について一部関連資料(1・2・3本文及び添付資料・4・5・6・7)〕。そして、陸軍悪者論が歴史に刻み込まれた。今一度富田メモを振り返ろう。このメモで東条や板垣らA級戦犯の合祀に踏み切った人物として靖国神社宮司(ぐうじ)、松平永芳(まつだいら ながよし 1915−2005、宮司任期:1978〜1992)の名前があった。
毎日新聞(2006年8月6日東京朝刊)によれば、「富田メモ」報道の八f1e874b1931b0e97aebf3d52ab" target="_blank">毎日新聞(2006年8月6日東京朝刊)によれば、「富田メモ」報道の八日後に靖国神社の最高意思決定機関である崇敬者総代会が緊急招集され、山口建史(−)権宮司(ごんぐうじ)が「厚生省から66(昭和41)年に祭神名票が送られ、70(昭和45)年の総代会で『速やかに合祀すべきだ』と青木一男(1889−1982)氏から提案があり、了承されました。78(昭和53)年10月6日の総代会で松平永芳宮司から提案があり、再度了承しております」と説明し、小田村四郎(1923−、山口県出身)前拓殖大総長が「松平宮司が独断でやったのでないことを(世間に)言うべきだ」と語ったとされる。
これも徳川義寛(とくがわ よしひろ 1906−1996)〔※関連資料(1)〕の『侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(徳川義寛 著, 岩井克己 聞き書き・解説、朝日新聞社 1997年刊行)と一致する。
徳川は「松平宮司一人が決めたというより、合祀を決めた総代会で、戦時中に大東亜相をしていた青木一男さんが強く推したのが元々の始まり」としながら、「戦争犯罪に問われた人にも遺族年金が出るようになったから、ということでしたね」と続けている。
日本政府は1952(昭和27)年に発効したサンフランシスコ講和条約 San Francisco Peace Treaty(1951年署名、1952年発効)で極東国際軍事裁判(東京裁判)を受諾し、日本の独立国としての地位が回復する。これを契機に戦犯の名誉回復の動きが始まり、政府は同年、A級を含む全ての戦犯の赦免・減刑を旧連合国に勧告、A級戦犯は1956年までに、B、C級戦犯は1958年までに釈放された。
同時に1953(昭和28)年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年施行)」が改正され、遺族年金や弔慰金(ちょういきん)を戦犯の遺族にも支給する。翌年の恩給法改正で戦犯に対する援護措置が拡充され、戦犯も「公務死(法務死)」と位置付けられた。こうした動きに支えられて、1959(昭和34)年からB、C級戦犯の合祀を始め、1978(昭和53)年のA級戦犯合祀に至る。
A級戦犯といっても、そもそもA、B、Cの区別は罪の重さによるランク付けではなく、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が用いた便宜的なカテゴリーに過ぎない。しかも確かに国内法上、犯罪者には該当しない。当然のこと、これはあくまでも日本国内の問題であって、中国や韓国の意向など全く関係が無い。中国や勧告の抗議への反発から靖国参拝支持を叫ぶのも本末転倒と言いたい。
「日本会議」〔※関連資料(1日本会議国会議員懇談会平成25年度総会で採択された決議文・2尖閣事件―ヘリテージ財団・3・4・5・6添付資料)〕の副会長を務めている小堀桂一郎(1933−)〔※日米エスタブリッシュメントの論調における奇妙な一致について一部関連資料(1小堀桂一郎「原子力発電の将来について」・2・3第3次アーミテージ・レポート「日本と米国は、国内/国外の安全かつ信頼性の高い民生用原子力を推進する上で共通の政治的、商業的利益を持っている」―核軍縮及び核の日米同盟・4CSISの提言・5・6小泉純一郎の原発ゼロ発言とその真意「要するにこれはアメリカのエスタブリッシュメントお得意の『弁証法』による秩序形成である。対立する勢力を両方を管理して新しい秩序を生み出すというやり方だ」―竹中平蔵ら産業競争力会議報告書にある公共インフラ民営化)〕は、『靖国神社と日本人』(PHP研究所 1998年刊行)の中で次のように主張する。
大東亜戦争の戦争犯罪人の全てが、平和条約発効以前、つまり国際法的には戦争状態が継続している最中に交戦相手国だった連合国の軍事裁判によって裁かれたのであり、刑死や獄死した人々は交戦中に「敵」の手に掛かって命を落とした。つまり「戦死」という扱いは当然との理屈が成り立つ。よって「合祀の形を以て御祭神に奉斎(ほうさい)すべき対象である」と。
小堀によれば、松平は「幕末殉難者」「維新殉難者」に倣(なら)って「昭和殉難者」なる表現を使うよう神社職員に通達していたと言う。しかし、肝心な靖国神社合祀基準問題に対する回答にはなっておらず、何ともすっきりしない。
松平宮司(ぐうじ)もやましいからこそ「国から名簿が来たら合祀する。それが筋だ」として、国に責任を押し付けようとした。1986(昭和61)年10月の秋季例大祭の挨拶でも「国家機関による公的決定」を経たという認識を強調していたのである。
徳川はこうも書いている。
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A級戦犯はその10年くらい前に厚生省から「戦争による公務死亡者」として名前が靖国神社に届き、神社では昭和46年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、「合祀の時期は宮司に任せる」ということで、宮司の筑波藤麿(つくば ふじまろ 1905−1978)さんがずっと延ばしてきていたのです。ところが宮司さんが筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった。
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そして、この背景として「筑波さんは山階宮(やましなのみや)の系統で旧皇族の方でしたが、松平さんは元軍人で、自衛隊にもいた人でしたね」と指摘している。
松平が語った「国」とは厚生省(現・厚生労働省)援護局を指す。ここに靖国神社総代会の青木一男元大東亜相も大きく関わっていた。
つまり、当時の宮司・松平永芳、厚生省援護局を拠点にする美山要蔵(みやま ようぞう 1901−1987)を中心とする旧陸軍人脈、そして青木一男を中心とするA級戦犯人脈が結束しながら合祀を推し進めたということだ。毎日新聞によれば、厚生省の事務方トップも知らないどころか、援護局課長も知らないままに、美山ら元軍人が仕切る援護局調査課の独断で祭神名票を作成し、送付していたようだ〔※関連資料(1・2―千鳥ケ淵戦没者墓苑・3・4・5「戦後日本の最大の過ちは、本来東京裁判があろうがなかろうが、敗戦に到るまでの戦争指導者達の結果責任を、日本国民が問はなかったことである」・6・7米軍政下沖縄における「靖国神社合祀」問題・8・9)〕。
■靖国神社「非宗教団体」論
総代会の最強硬派として知られた青木一男(1889−1982)は、大蔵相を経て大蔵省を経て、企画院次長から大東亜大臣となり、戦後A級戦犯として巣鴨拘置所に収容された。
青木は、『わが九十年の生涯を顧みて』(講談社 1981年刊行)の中で「日本では一旦宣戦の詔勅(しょうちょく)が下った以上、自分の主義主張に関係無く戦争に協力するのは日本国民の義務である」と書いている。青木はA級戦犯として1945(昭和20)年12月12日に巣鴨拘置所に収容されたが、2カ月後の1946(昭和21)年2月、米国のハンマック Valentine C. Hammack(−)検事の取り調べの際に「何ゆえに東條内閣に入閣したか」を問われた時にこの言葉を発した。
5時間ほどの訊問後の雑談中にハンマック検事は思い出したように、「君は先程、一旦戦争が始まれば自分の主義主張に関わり無く戦争に協力するのは日本国民の義務であると言ったが、それは日本国だけのことではないよ」と言った。これを聞いた青木は「相手国の検事からこの一言を聞いて非常に嬉しかった」と記している。
実は、青木は開戦に反対していた一人であり、だからこそ「日本国民の義務である」との発言の持つ意味は重い。青木も一高出身、新渡戸稲造校長の『ファウスト物語』(新渡戸稲造 著・六盟館 1910年刊行)や新渡戸の愛読書トーマス・カーライル Thomas Carlyle(1795−1881)『Sartor Resartus(サーター・リザータス)』の課外講義を熱心に聴いた一人であり、同級には近衞文麿(1891−1945 総理大臣任期:1937〜1941)がいた〔※関連資料(1)〕。
東京帝国大学から大蔵省、対満事務局次長を経て、企画院次長に就任したのが1937(昭和12)年、つまり近衞政権(1937〜1941)時代である。
北支事変(/支那事変/蘆溝橋事件)が南方に拡大し、揚子江流域が戦局の中心になるに及んで、米英両国の権益侵害を理由に外交上の抗議が殺到。米英との衝突が避けられないと判断した近衞内閣は、日本が米英を相手として戦う経済国力を有しているかどうかを調査する為、企画院に秘密委員会を設けた。
青木らはこの秘密委員会を「第二委員会」と呼び、委員長には青木、そして石渡荘太郎(1891−1950、―近衞文麿)大蔵次官、山脇正隆(1886−1974)陸軍次官、山本五十六(1884−1943)〔※関連資料(1添付資料)〕海軍次官、村瀬直養(むらせ なおかい 1890−1968)商工次官、小平権一(こだいら ごんいち 1884−1976、―新渡戸稲造)農林次官、小野 猛(−)〔※関連資料(1)〕逓信次官、喜安健次郎(1885−1947)鉄道次官ら若手経済関係者が委員に任命される。
また、企画院産業部――部長は植村甲午郎(1894−1978、―澁澤榮一、―岸 信介、―フジテレビ・ニッポン放送)――を中心に、経済省出身の若手事務官と陸海軍武官の合同調査班も組織された。この委員会の存在自体を極秘とし、文書の管理には厳重な規制が設けられた。
この委員会の結論は「我が国の軍事資財と国民生活上の必要物資の七割は米英の勢力圏から輸入している。この両国との国交が断絶した場合、輸入先を転換し得るものは極めて少ない。仮(り)に支那大陸全土及び南方地域全域を軍事占領したとしても利用し得る資源に限度があって大勢を動かすことは出来ない。結局我が国は資源の点から米英を相手として長期戦に堪える国力を有しない」とするものであった。
外交交渉によって妥結すべきであると示唆したこの結論に対して、真っ先に賛成したのが山本五十六であり、その他の委員からの異論も無く、全会一致の委員会報告として近衞首相に提出。青木は閣議に臨んで報告内容を詳細に説明している。この閣議の場でどの大臣からも質問も反対も無かったことから、青木は「非戦の国是が決定した」ものと理解していた。
第二委員会の報告に真っ先に賛成した非戦論者・山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦争の口火を切り、かつ戦死したのは武人の一大悲劇であると考えた青木は、持病の神経痛が悪化して自由に歩行が出来なかったにも関わらず、長岡市に赴(おもむ)き、五十六の生家を訪れ、墓参をしている〔※関連資料(1)〕。
その生涯を振り返って、極めて遺憾に思っていることとして、「第三次近衞内閣が、昭和16(1941)年9月6日御前会議で条件付きで対米英開戦を決意し、更に東條内閣が16年11月5日の御前会議で開戦を決意するに当り、第二委員会の報告が完全に無視されたという一事」と書き残している。
1961(昭和36)年に靖国神社が、神社本庁を加えて、葦津珍彦(あしづ うずひこ 1909−1992)らと靖国神社祭祀制度調査委員会を設置。2年後の1963(昭和38)年には、自民党も遺家族議員協議会が中心となって靖国神社祭祀制度調査委員会――戦没者等の妻に対する特別加給金に関する小委員会(村上小委員会)、委員長は村上 勇(1902−1991)――を設置し、1968年(昭和43)年に村上私案が纏(まと)められ、これを継承した衆議院議員・山崎 巌(やまざき いわお 1894−1968)を委員長とする山崎委員会の審議を経て、1969(昭和44)年に靖国神社の国家による管理を可能にする靖国神社法案が国会に初めて提出された。1973(昭和48)年までにこの法案は五度に亘(わた)り上程されたが、各界の反対によって全て廃案となった。
この村上、山崎両委員会の審議に、参議院議員かつ靖国神社崇敬者総代の一人として出席した青木は、一貫して「靖国神社の本体たる英霊の合祀審奉斎」に拘(こだわ)り続けた。ここまで見ると、青木はかなりの確信犯であったように思えるが、実は青木もまた靖国神社が宗教団体ではないとの前提に立っていた。これも『わが九十年の生涯を顧みて』(講談社 1981年刊行)にはっきり書かれている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は1945(昭和20)年12月の「神道指令(SCAPIN-448)」で、国による神道援助の禁止を打ち出して「国家神道」を否定する一方、一般の神道は信教の自由の観点から容認する姿勢を明確にした。
青木は「このマッカーサー指令が靖国神社を宗教法人と見なしたのは合致しない誤った法の擬制であった」としながら、「靖国神社はその実体において宗教団体ではない」と言い切っている。
更に、「靖国神社には教義も無く信者も無い。崇敬者は信者と異なる」としながら、「私は長い間靖国神社崇敬者総代を務めているが靖国神社の信者ではない。近代日本の代表的な学者・小泉信三(1888−1966、―横浜正金銀行―天皇財閥)博士は、敬虔なクリスチャンであるにも関わらず、その死亡に至るまで長年月靖国神社崇敬者総代として例祭その他の行事に参列されたのは、靖国神社の非宗教性を確信された結果に他ならない」と書いている。
一方、この青木一男の近くに長州系宮中グループの生き残りである岸 信介がいた事実がある。
戦後A級戦犯として巣鴨拘置所に収容され、青木と共に最後まで拘禁されていたのが岸である。巣鴨を出た2人は、揃って工作機械の名門・津上製作所(現・ツガミ)の社外重役を務めた(岸は津上製作所以外にも日東化学(現・三菱レイヨン)の監査役、東洋パルプ(王子製紙に吸収合併)の会長を務めていた)〔※関連資料(1・2・3岸 信介と安保闘争について時系列)及び岸 信介―藤山愛一郎について次頁添付資料である「衆議院会議録情報 第34回国会 日米安全保障条約等特別委員会 第7号 昭和35年(1960年)3月15日」を参照〕。
日経産業新聞(1993年1月4日付)は、後に明らかになった米国の資料から、日本のあらゆる軍需生産の基礎となる津上製作所のゲージブロック工場を壊滅させる為に、新潟県長岡市が米軍の原爆投下目標となっていたと書いている。この米国資料が不明の為、真相は分からない。但し、広島、長崎への原爆投下直前に、米軍が予行演習として「パンプキン爆弾 Pumpkin Bomb(原爆模擬爆弾)」が全国で計49発投下され、その中に長岡市左近町も含まれていた事実はある。
〜以下、未だ作成中。〜
また、岸が一年生代議士時代に反吉田勢力の同志40名を虎の門「晩翠軒(ばんすいけん)」に集めたことがある。これが後の岸派の母体になった。保守合同前に鳩山一郎(1883−1959、総理大臣任期:1954〜1956)〔※原子力政策推進についての関連資料(1・2・3・4・5中曾根康弘―鳩山威一郎・6・7・8日本の原発導入と中曾根康弘の役割「Nakasone File」・9)〕と岸が中心となって結成された日本民主党には晩翠軒メンバーも参加している。その一人が小泉純也(鮫島純也 1904−1969)〔※出自及び帰還事業について関連資料(1・2―池口恵観・3)〕、つまり小泉純一郎(1942− 内閣総理大臣任期:2001〜2006)〔※一部関連資料(1―竹中平蔵―産業競争力会議・2・3「法人税が海外移転の主な理由ではない」―雇用の流動化及び移民法改正・4TPPと国家戦略特区・5―CSIS・松下政経塾―細川護煕・6・7・8―1994〜2009対日年次改革要望書―日米経済調和対話―TPP・9・10―日本版NSC―秘密保全法、両建てによる、11―エスエス製薬及び厚生族・12―福島第一原発の安全装置撤去と脱原発発言・13・14・15・16・17・18―Global Health Summit Project―CSIS-HGPI・19靖国参拝―米国について・20―北朝鮮―米国について・21・22・23小泉劇場と地デジ利権・24小泉進次郎―CSIS)〕の父である。
〔資料〕Wの衝撃 By 園田義明 - 萬晩報 2005年11月13日
http://www.yorozubp.com/0511/051113.htm
「児玉は、陸軍主導で1939年に三井物産、三菱商事、大倉商事の三社の出資によって設立された昭和通商や海軍管轄の児玉機関上海事務所を通じて、戦時中にタングステンやダイヤモンド、プラチナなどを調達し、終戦直後には闇市で売り捌き、その売上の一部が自由党の設立資金に回されていた。この児玉調書からタングステン・ルートの情報をつかんだ国防総省と米中央情報局(CIA)によってタングステンの元素記号Wを取った『W計画』が開始される。このW計画には戦前の米駐日大使ジョゼフ・グリューの部下だったユージーン・ドーマンを中心とするドーマン機関人脈やCIAの前身のOSS(米戦略局)のケイ・スガハラなどが関与した。そして、児玉と協力しながら中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の6割で国防総省に売却した。この代金と利益について、米ニューヨーク・タイムズ紙は、53年の選挙資金として日本の保守政治家に渡されたと伝えている。彼らは、理想主義のニューディール派が取り仕切る日本の民主化路線を激しく非難し、日本の再建には天皇制が精神的支柱として必須であり、財閥解体を即刻やめるべきだとする『逆コース戦略』を押し進めた。結果としてこの戦略が成功し、経済大国としての今日の日本に繋がるが、この背景にあったのは、冷戦時代の到来を象徴する朝鮮戦争勃発そのものであり、ジョージ・ケナンのソ連封じ込め政策によって日本がアジアの反共防波堤として位置付けられた為である。尚、このW計画は氷山の一角に過ぎず、CIAによる対日秘密資金工作は、冷戦が激化していく50年代初めから60年代まで広範に行われ、数百万ドルが保守政党へ、55年の保守合同以後は自民党に集中的に供与されていた。かつての旧ソ連が主導する各国共産党の国際組織コミンテルンを彷彿させるが、当時ソ連や中国のH2機関も日本共産党や社会党を通じた対日工作を行っており、これに対抗する狙いもあったものと思われる。(中略)米国はタングステンから新たな弾芯へと切り替える為に、1950年代から軍事利用を目的とした実験を開始する。そして、その特性から戦車や装甲車に撃ち込むと、分厚い装甲を突き破り、車中を焼き尽くす威力を見出す。1978年頃にはこの新弾芯の生産・配備に入るが、これは戦車を主力とする北朝鮮の機甲旅団の韓国侵略のシナリオに対応するのが主な理由だったと言われている。この新弾芯が大量に実戦使用されたのは1991年の湾岸戦争である。以後、95年のボスニア紛争、99年のコソボ紛争、2001年のアフガニスタン攻撃、そして03年のイラク戦争でも使われる。これが劣化ウラン弾誕生の裏側である。劣化ウランは、タングステンと比べて『核のゴミ』という性質上、極めて低コストである。そして、何よりもタングステンの資源埋蔵量の約4割が中国に偏在していることから、米国の潜在敵国である中国への依存を避けたいとの戦略的理由がある。劣化ウランには放射能、金属的毒性から人体、環境への深刻な影響があることは、『湾岸戦争症候群』のデータから、米国こそが熟知している。従って、米軍産複合体も劣化ウランから再びタングステンへという世界的な潮流に逆らいながら、使用し続けるリスクも当然計算に入れていることだろう。中国は最新のイラクデータなどを活用しながら、世界の左派勢力を巻き込んだ劣化ウラン弾使用禁止の一大キャンペーンを行いつつ、北朝鮮を丸飲みすることでタングステンを手中に収め、米国を牽制しながら石油・天然ガス交渉に乗り出すのであろう。これに対して米国は劣化ウラン弾への非難の声を黙殺し、朝鮮半島の再民主化を大義名分にレジーム・チェンジ(体制変更)に向けた対北朝鮮工作を行いながら、新たなW計画を発動するのである。2005年10月25日から二日間の日程でアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)主催の『日米同盟の変遷―防衛協力と統合の深化に向けて』と題するシンポジウムがキャピトル東急ホテルで行われた。ここに前原誠司やプロテスタントの石破 茂らと共に登場したのがニコラス・エバースタットと安倍晋三である。ここに更なる因縁も見出せる。以前にも紹介したように、米軍産複合体の権化とも言うべきフェルディナンド・エバースタットという人物がいた。フェルディナンドは終戦直後の1945年9月にエバースタット・レポートを作成、戦争動員の迅速化と兵器開発の中枢としての国防総省、国家安全保障会議(NSC)、CIAの創設を提案した。つまり、この三機関の生みの親でもある。W計画をきっかけにフェルディナンドが生み出したCIAを中心に、ドーマン機関人脈に児玉、岸、笹川などの巣鴨組が加わり、日本の裏と表を陰に陽に支配していくシステムが完成する。同時にこの人脈はブッシュ家をも巻き込みながら、勝共を合言葉に文鮮明率いる統一教会などと共に世界反共連盟(WACL)に結集、グローバルな反共ネットワークが出来上がる。今やこの反共ネットワークが原理主義的な宗教組織に匹敵する存在になっていることが、日本の保守系オピニオン誌の一部から読み取れる。このフェルディナンドの孫こそが、『北朝鮮最期の日』の筆者であり、AEIの客員研究員を勤めるニコラス・エバースタットである。そして、官房長官に就任した安倍晋三は、巣鴨組の岸 信介の孫である。この二人が、冷戦終結の今も日米のネオコンやキリスト教右派を器用に操りながら、世代を越えて対北・対中強硬派人脈の中核として海洋勢力強硬派を構成する。彼らが目指す民主化とは、米中衝突に備えてタングステンを米国に送り届ける北朝鮮の豪腕フィクサーを育て上げることかも知れない。しかし、後にロッキード事件でバッサリ切り捨てられた児玉誉士夫の生涯から、彼らの恐ろしさが見えてくる。彼らと足並みを揃えるかのように、石原愼太郎(―霊友会、―統一教会―ヘリテージ財団―レイセオン社他―CSIS)東京都知事は2005年11月月3日にワシントンの戦略国際問題研究所(CSIS)で講演し、米中間で紛争が起こった場合に『中国にとって一番目障りな日米安保を叩く為に、もし核を落とすなら沖縄、或いは東京を狙うだろう』と指摘した上で、『市民社会を持つ米国は戦争で生命の価値観に無神経な中国には勝てない。中国に対抗する手段は経済による封じ込めだ』と主張し、インドやロシアと連携を強化するよう提言している。一方でプロテスタントを中心とする海洋勢力強硬派の反共ネットワークとは距離を置きながらも、その動向を注視する集団が大陸勢力の中心に存在する。反共の本家本元として、神なき共産主義に宗教の自由を迫るカトリックの総本山、ヴァチカンである。吉田 茂の孫として英米の海洋勢力本流人脈を受け継ぎながらも、カトリックとして大陸勢力に繋がる麻生太郎外務大臣誕生は、海洋勢力と大陸勢力とがぶつかる地の波乱の幕開けを暗示しているかのようだ。かつて、この二つの勢力に翻弄され、挫折したのが靖国神社にA級戦犯として祀られている松岡洋右である。日独伊三国同盟にソ連を加えた四国協商で米英に対抗するという野望から、スターリンに対して『政治的、社会的』ならぬ『道徳的共産主義』にまで踏み込んで、『日本には、道徳的共産主義がある。日ソでアングロサクソンの影響力をアジアから排除しよう』と懸命に訴えたことがある。この神なき共産主義への接近がヴァチカンをも刺激し、二つの勢力に加えユダヤ勢力をも結集させ、日本は太平洋戦争へと追い込まれていくのである」
〔資料〕北の打ち上げ花火に舞い踊る人々 By 園田義明 - 萬晩報 2006年7月11日
http://www.yorozubp.com/0607/060711.htm
「この安倍晋三にブッシュ大統領と金 正日総書記とくれば、どうしても気になるのが合同結婚式や霊感商法などで知られる宗教団体『世界基督教統一神霊協会』(統一教会)の存在である。統一教会創始者の文 鮮明とその妻が昨年創設した『天宙平和連合(UPF)』が2006年5月に日本国内12カ所で『祖国郷土還元日本大会』を開催、同月13日の福岡市での大会では安倍晋三官房長官や自民党の保岡興治・元法相名の祝電が読み上げられた。(中略)この大会では安倍晋三を『岸 信介元総理大臣のお孫さんでいらっしゃり・・・』として紹介しているがこれには深い意味がある。反共を旗印にした世界反共連盟(WACL)の下で統一教会の政治団体である国際勝共連合が設立されたのが1968年、その設立には安倍晋三の祖父である岸 信介、そして笹川良一や児玉誉士夫といった戦後右翼の大物達も関わった。安倍晋三の父、晋太郎も勝共推進議員名簿に名を連ね、統一教会も安倍晋太郎政権の実現の為に積極的に動いた時期もある。このWACLの議長を務めたジョン・シングローブ米退役陸軍少将はベトナム戦争当時には暗殺や秘密工作専門の特殊戦争統合司令官、後に在韓国連軍司令官を務めた。イラン・コントラ事件で重要な役割を果たしたノース中佐は部下の一人である。WACLと米中央情報局(CIA)との繋がりは深く、シングローブもCIA出身、そしてCIA長官を務めたブッシュ・パパも統一教会とは切っても切れない関係にある。ブッシュ・パパは1995年9月に夫妻で来日、文 鮮明の妻が率いる『世界平和女性連合』が東京ドームで開いた大会では祝電どころか講演まで行っている。翌年にもアルゼンチンを訪問、統一教会系の地元新聞の創刊パーティーでスピーチしている。息子のブッシュ現大統領も、2002年5月にワシントンで開かれた統一教会系ワシントン・タイムズ紙創刊20周年の集まりにメッセージを寄せているが、このワシントン・タイムズ紙はイラン・コントラ事件でも一貫してレーガンを擁護する記事や社説を掲載、ブッシュ父子の選挙活動においても明確に支持を宣言した。統一教会はワシントン・タイムズ紙以外にも世界日報、UPIを傘下に持ちながらメディア戦略を強化してきた。一方で北朝鮮との関係では力による勝共から今や経済相互依存関係に移行しつつある。経済力によって北朝鮮を内部崩壊させるのが狙いであろう。そのきっかけは1991年末の文 鮮明と故・金 日成主席との会談であり、その後北朝鮮でのホテル経営、ソウルからの直行ツアー事業などを展開、その中には文 鮮明の定州(チョンジュ)にある生家を訪れる聖地巡礼ツアーもある。とりわけ象徴的なのは自動車事業で、統一教会系列の平和自動車は北朝鮮の『朝鮮民興総会社』と70対30の資本比率で北朝鮮・南浦工業団地に合弁自動車工場を設立、イタリア・フィアット社の『シエナ』と『ドブロ』の部品から組み立て生産した『ポックギ(かっこう)』、『フィパラム(口笛)』などを生産している。(中略)当然のことながら統一教会と金 正日の間に相当な金が動いていたことは十分予測される。長年に亘(わた)って統一教会を追跡しているベテラン調査レポーターのロバート・パリーは、米情報自由法を申請して入手した米国防情報局(DIA)文書から、文 鮮明が関係する団体が北朝鮮指導者に対して何百万ドルもの資金提供をしており、その中には金 正日への300万ドルも含まれていると報告している。何とこの300万ドルは金 正日への誕生日プレゼントとして贈られたものだった。今回の北朝鮮のミサイル発射で安倍晋三はまた一歩総理の椅子に近付いた。とても気になるこの安倍晋三の誕生日は9月21日。注目の小泉首相の後継を選ぶ自民党総裁選の投開票は誕生日の前日、9月20日に行われる。この時に備えて、一応追加の『誕生日プレゼント』が準備されているのだろうか」
〔資料〕安倍晋三と日本の闇 - 日本人が知らない 恐るべき真実 2006年8月14日
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060814
〔資料〕小泉純一郎“原発即ゼロ要求”で蠢く「北方領土奪還」密約!1〜3 - アサ芸プラス 2013年12月3〜5日
http://www.asagei.com/18071
〔資料〕160兆円市場の試算も...小泉純一郎「脱原発」発言に隠された巨大利権の思惑 - 東京BREAKING NEWS 2013年10月27日
http://n-knuckles.com/case/politics/news000615.html
〔資料〕≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(13)≫|MelancholiaT ※郵政民営化人脈と国際公共政策研究センター(CIPPS)―CSIS、他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11415482009.html
※米石油メジャーの利権、ロシアの天然ガス利権、次世代エネルギーの利権(トヨタの水素エネルギー、京セラ稲盛のソーラーパネル等々)、どれか一つということではなく複数の巨大利権を軸にそこに産業競争力会議(竹中平蔵)の外資の為の公共インフラ民営化(原発利権を含む電気・ガス・水道)や発送電分離の自由化(小泉純一郎)の問題や、TPPの為の地均し、30兆円と言われる東北の復興利権が絡んでくる(その復興利権より更に額が大きなものとして安倍政権下での50兆円外債ファンド&13年7月に米国債5兆円買い増しによる利権があるが、売国“談合”マスゴミは総じてこれを情報統制)。表向き「原発推進」と「脱原発」、或いはロスチャイルドとロックフェラーの利権で対立軸が論じられているようだが、結局は同じグループが両方言っているだけで、その両輪で姦計により一般国民にジレンマを与えながら(それを右翼だ左翼だと言いながら好い様に分断され)エージェントが物事を思い通りに転じさせながら利権を収奪していくということ。原発利権は国内では廃炉利権や除染利権という形で、ウラン(―Rothschild)及び濃縮ウラン(1・2)の消費という点では海外での新規建設という形で継続され日米原子力企業(核の日米同盟)がビジネス展開していく。借金奴隷(それを一元管理するマイナンバー制度も外注)として痛みを強いられるのは全て一般国民だ。
(19頁へ続く)
≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(19)≫
(18頁からの続き)
◇
〔資料〕大きな嘘が隠されている『戦後史の正体』〜佐藤榮作の評価から見えてきた「孫崎 享の正体」 - わらびジャーナル 2012年12月1日
http://warabij.ti-da.net/e3610720.html
〔資料〕「外務省の工作員」の孫崎 享〜「歪んだ関係」を隠蔽する『戦後史の正体』 - わらびジャーナル 2012年12月1日
http://warabij.ti-da.net/e3613356.html
〔資料〕つくられたベストセラ−『戦後史の正体』 - わらびジャーナル 2012年12月2日
http://warabij.ti-da.net/e3614104.html
〔資料〕「沖縄密約」の真相と、第二の「沖縄密約事件」について - わらびジャーナル 2012年12月4日
http://warabij.ti-da.net/e3615205.html
〔資料〕情報犯罪としての第二の「沖縄密約」こそ大きな問題 - わらびジャーナル 2012年12月5日
http://warabij.ti-da.net/e3616573.html
〔資料〕天木直人の「沖縄密約」についてのビデオから〜「密約国家」の基盤をつくった佐藤榮作 - わらびジャーナル 2012年12月6日
http://warabij.ti-da.net/e3615682.html
〔資料〕孫崎 享の仮面を剥ぐ〜<確信犯>としての孫崎 享の正体を暴く - わらびジャーナル 2012年12月7日
http://warabij.ti-da.net/e3618078.html
〔資料〕金口木舌の人 経済学者・宇沢弘文〜日本の植民地化と日米構造協議 - わらびジャーナル 2013年12月8日
http://warabij.ti-da.net/e3618359.html
「ポスト・ベトナムの非常に混乱した時代を通じて、アメリカは経常赤字、財政赤字、インフレーションの三重苦に苦しんでいたが、特に対日貿易赤字解消に焦点を当てて、円安ドル高是正を迫ったのが、1985年のプラザ合意でした。しかし、その後も、日本企業は、徹底的な合理化、工場の海外移転などによって高い国際競争力を維持し続けて、アメリカの対日貿易赤字は膨らむ一方だった。そこでアメリカ議会は『新貿易法・スーパー301条』を制定した。これは、専(もっぱ)ら日本に焦点を当てて、強力な報復・制裁措置を含む保護政策の最たるものです。それを受けて、1989年7月に開かれた日米首脳会談で、パパ・ブッシュ大統領が宇野首相に迫ったのが、『日米構造協議』の開催でした。それは、アメリカの対日貿易赤字の根本的な原因は、日本市場の閉鎖性、特異性であるとし、経済的、商業的側面を遥かに超えて、社会、文化など含めて日本の国のあり方全般に亘って『改革』を迫るものでした。日米構造協議の核心は、日本のGNPの10%を公共投資に充てろという要求でした。しかもその公共投資は決して日本経済の生産性を上げる為に 使ってはいけない、全く無駄なことに使えという信じられない要求でした。それを受けて、海部政権の下で、10年間で430兆円の公共投資が、日本経済の生産性を高めないような形で実行に移されることにになったのです。その後、アメリカから、それでは不十分だという強い要求が出て、1994年には更に200兆円追加して、最終的には630兆円の公共投資を経済生産性を高めないように行うことを政府として公的に約束したのです。まさに日本の植民地化を象徴するものです。ところが、国は財政節度を守るという理由の下に地方自治体に全部押し付けたのです。地方自治体は地方独自で、レジャーランド建設のような形で、生産性を下げる全く無駄なことに計630兆円を使う。その為に地方債を発行し、その利息の返済は地方交付税交付金でカバーする。ところが、小泉政権になって地方交付金を大幅に削減してしまった為、地方自治体は第三セクターをつくったものは多く不良債権化して、それが自治体の負債となって残ってしまったわけです。630兆円ですから物凄い負担です。その結果、地方自治体の多くが、厳しい財政状況にあって苦しんでいます。日本が現在置かれている苦悩に満ちた状況を作り出した最大の原因です」(宇沢弘文・内橋克人 著『始まっている未来―新しい経済学は可能か』より抜粋)
〔資料〕やっぱり「にくいしくつう」 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年9月23日 ※「『社会保障の切り捨て』と『消費税引き上げ/法人税引き下げ』の一体改革は1990年代半ばに日本とアメリカの支配層が集まり、決められた方針に基づいている。CSISが設置した「日米21世紀委員会」が1996年にメリーランド州で最初の会議を開き、98年に報告書を出している。この時期、「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府の年次改革要望書」も出され始めたようだ。こうした動きが生まれる10年ほど前から日本経済は大きく揺らぎ始めている。先ず、1985年にニューヨークのプラザ・ホテルで開かれたG5でドル安/円高が決まり、88年にBISが銀行は8%相当の自己資本を保有しなければならないと定めて日本の銀行は厳しい状況に追い詰められた(BIS規制)。1989年に日米構造協議が始まると「ケイレツ」が問題になるのだが、これは日本経済の強みを中小企業にあると判断したアメリカが中小企業潰しに着手したということだろう」(TPP―消費税増税)
http://satehate.exblog.jp/20762421/
〔資料〕秘密保護法案「絶対必要」―安倍首相 - さてはてメモ帳 Imagine&Think! 2013年10月12日 ※(ヘーゲルの弁証法における「合」である)第2次安倍政権(第1次安倍政権でネトウヨなどを取り込むアリバイ作りを経た後の「合」)と第3次アーミテージ・レポート(―CSIS及び日経・CSISバーチャル・シンクタンク及びCSIS-HGPI―細川佳代子)、他。
http://satehate.exblog.jp/20829303/
〔資料〕≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(14)≫|MelancholiaT ※成りすまし似非右翼及び「トロイの木馬」の尖兵(エージェント)について、添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11716043037.html
〔資料〕自らの歴史を書けない国に成り下がる日本 By 田中良紹(Yahoo!ニュース有料記事より) 2013年12月2日
http://www.asyura2.com/13/senkyo157/msg/349.html
〔資料〕経済学から地球環境、日米安保・沖縄問題講演会 - わらびジャーナル 2012年12月10日
http://warabij.ti-da.net/e3619351.html
〔資料〕世界的経済学者・宇沢弘文が語る「TPP」 - わらびジャーナル 2012年12月13日
http://warabij.ti-da.net/e3619011.html
〔資料〕CIAのスパイだった岸 信介元首相(安倍首相の祖父) - わらびジャーナル 2013年1月8日
http://warabij.ti-da.net/e3641439.html
〔資料〕孫崎 享は外務省の工作員 - わらびジャーナル 2013年1月9日
http://warabij.ti-da.net/e3642303.html
〔資料〕孫崎 享の正体を見破れない知識人たち〜ティム・ワーナー著『CIA秘録』が明かす孫崎 享の正体 - わらびジャーナル 2013年1月10日
http://warabij.ti-da.net/e3642803.html
〔資料〕何故逮捕されない孫崎 享 - わらびジャーナル 2013年1月12日 ※国家公務員法第100条、西山事件と孫崎 享
http://warabij.ti-da.net/e3644121.html
〔資料〕マジシャン・孫崎 享の騙しのテクニック - わらびジャーナル 2013年1月13日
http://warabij.ti-da.net/e3644804.html
〔資料〕元エコノミック・ヒットマンが語る真相 - わらびジャーナル 2013年1月14日
http://warabij.ti-da.net/e3643478.html
〔資料〕情報公開から暴く『戦後史の正体』〜「詐欺師は95%は本当のことを言い、最後の最後で裏切る」 - わらびジャーナル 2013年1月15日 ※Kaleidoscope等の不自然な記述にも言及している。
http://warabij.ti-da.net/e3646501.html
〔資料〕権力にとって都合のいい孫崎 享 - わらびジャーナル 2013年1月18日
http://warabij.ti-da.net/e3648734.html
〔資料〕米国の圧力と戦後日本史11:面従腹背で対米自主を目指した岸 信介 - 日本を守るのに右も左もない 2012年12月18日 ※日本国民を欺く為のヘーゲルの弁証法「正・反・合」、他。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/12/002450.html
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11535864090.html
〔資料〕衆議院会議録情報 第34回国会 日米安全保障条約等特別委員会 第7号 昭和35年(1960年)3月15日 ※重要。発言者:松本七郎、石橋政嗣、岸 信介(実弟である佐藤榮作と共にCIAから資金提供を受けていた人物)、藤山愛一郎、赤城宗徳
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/034/0404/03403150404007a.html
(以下、要点を一部抜粋)松本「エリコンを日本が買った場合の経過を見ますると、ハインリッヒ・スターマー、日独伊三国同盟の立役者であり、また、戦時中は駐日ドイツ大使として非常な敏腕を振るった彼が、あなたと同じやはり戦犯容疑に掛かり、その後は武器の商人として活躍し、そうしてエリコンの会社の極東支配人になったということが明らかにされておる。この過程においては、日本の植村甲午郎氏或いは郷古潔氏等と結んで防衛庁に食い込んだということが、佐多氏によっても明らかにされておるでしょう。こういう風に、既に三国同盟当時の勢力が、ドイツにおいては着々と復活しつつある。また、日本においては、あなたの手によってこれが復活されつつある。今や同じ手口でもって国民は再び騙され、あなたは過ちを再度繰り返して、十三階段を上ろうとしておるというのが、今日のあなたの姿だと言わなければならない」 松本「(中略)これは巣鴨に行かれる時の写真です。あなたの後ろにMPがいますけれども、今でもMPが背後で操っておる、今日の日本の状態は・・・・・・。この中の殆んどの方は、自決されたか、或いは断頭台の露(つゆ)と消えたか、或いは長い戦犯生活や敗戦の悲嘆に暮れて病死をした人々が大部分です。この中で現在健在なのは、岸さんと、それから井野碩哉さん、それから賀屋興宣さん、それから谷 正之さん、星野直樹さん、当時の書記官長です。岸さんは、満洲時代に『弐キ参スケ』と呼ばれたグループのあったことを思い出されるでしょう。即(すなわ)ち、弐キ参スケとは、東條英機、彼は関東軍の参謀長、星野直樹、満洲国政府の総務長官、松岡洋右、満鉄総裁、鮎川義介、満洲重工総裁、岸 信介、満洲国政府実業部次長として、当時の実質的な満洲の軍事、経済の最高指導者であったわけです。そして現在の官房長官の椎名さんが、岸さんの片腕として、当時は満洲政府鉱工司長ということであなたを助けた。こうして満洲開発五カ年計画を推進したのが、岸さんと、星野直樹さんと、それから、思い出されるでしょう、関東軍の参謀をされておった片倉さん、これで推進されておる。これは間違いないでしょう。あなたは商工次官に起用されて赴任される途次、大連の埠頭において記者会見されております。その時にどういうことを言われたか。この記者会見で、出来映えの巧拙は別にして、ともかく満洲国の産業開発は、私の描いた作品だ、この作品に対して私は限り無き愛着を覚える、生涯忘れることはないだろう、こう言っておられるのでございます。あなたはこれを忘れられたのですか。こういうことは自民党の中でも色々問題にされ、先般海外旅行された河野一郎氏は、その感想として何と言っておられるか。世界を回ってきたが、戦争推進者が再び旗を振っているのは、全世界に類例がないと述懐されているじゃないですか。今度の安保改定を見ましても、岸さんを筆頭にして、今の写真にも出ておられた賀屋外交調査会長、それから、これまた同じ翼賛選挙にも出られたし、当時法制局長官をやっておられた船田政調会長、まるで戦犯トリオの合作ともいうべきものが、今度の新安保条約、一体これを国民がどう受け取り、如何に不安な目で見るかという点について、あなたは考えてみたことがあるかどうか、はっきり答弁して下さい」 岸「先程私が申し上げた通り、この安保条約の内容を御審議いただけば分かるように、これは純防衛的なものであり、日本を戦争に再び巻き込む危険を無くしようというのが狙いでありまして、この為に私共が努力するのは当然である、斯様(かよう)に考えております」 松本「この新安保条約が、あなたの言われるように、はたして防衛的なものであるかどうか、それは、追々(おいおい)条約の内容を深くあらゆる角度から検討して、それがそうではないという正体を我々は暴露していきたいと考えております。それよりも前に、先程から言うように、これに取り組んだあなたの基本的な心構え、政治的な構えということが問題になる。それが現に国民の不安の中心になっておる。今のようないい加減な答弁をされるから、国民の間には不安が段々段々募るばかりだ。国民は新条約そのものに重大な不安を感じているのでございますが、更に、この改定を、岸さん、あなたがやることに二重の不安を覚えておるのです。この点を少しでも思うならば、少なくともあなた自らが手掛けることだけでも控えるべきではないか、こう言わざるを得ない」 松本「さっき写真でもお目に掛けたように、あなたは、昭和20年の9月、戦犯容疑者として巣鴨プリズンに入られて出てこられたのが昭和23年12月のクリスマス・イブです。その後、27年の4月に追放解除になられて、十分なる戦争責任を反省することもなく直ちに新たなる政治活動を開始されておる。同年7月に、日本再建連盟というのを結成されて、自らその会長になったのです。その際、覚えておられるでしょう、五大政策というものを発表されておる。その中に『憲法を改正し、独立国家としての体制を整備する』とのスローガンがあります。それから『新しい時代感覚を基準として国民に訴えるようなものを打ち出す』とあります。このように、平和憲法を改悪することを以(もっ)て新しい時代感覚と心得ておられるところに、戦争責任に対する無反省ぶりが暴露されておると言わなければならない。これは、安保条約を日米軍事同盟に切り替えたことにも本質的には通ずるものと思うのです。岸首相は最近、口を開けば、憲法改正は、憲法調査会の結論を待つ、こう誤魔化しておられるけれども、首相は、今でも、この時点において依然として憲法の改正を考えておられるのですか」 岸「憲法改正の問題については、しばしばお答え申し上げておる通り、法律で設置されておる憲法調査会の結論を待って措置するつもりであります」 松本「あなたが考えておられる憲法改正の内容というのは、既に明らかなんです。あなたは28年の3月に自由党に入党されて、同年12月に自由党の憲法調査会が設けられると同時にその会長になっておられる。その時の日本国憲法改正要綱によりますと――これはあなたが会長で作られたのですよ。この要綱によると、先ず第一に目につくのは、天皇を日本国の元首とし、その行う行為に、宣戦講和の布告をはっきり謳っておられる。宣戦講和の布告を天皇の権限に入れておられる。それから『国の安全と防衛』の一章を設けることとし、国力に応じた最小限度の軍隊を設置し得ること、国防に協力する国民の義務、即(すなわ)ち徴兵制を準備することを明らかにしておられるのです。これこそ、首相の考える憲法改悪の眼目ではないかと、皆これを疑っておる」 松本「更にあなたの基本的な態度で問題になるのは、岸首相は従来から国民の世論或いは国会での議論というものを無視或いは軽視してきておる。安保改定でも同じことが言える。交渉に臨むに当っても、あなたは基本的な方針なりそういう大事な点については少しも相談しておらない。内容上の問題点を具体的に明示をするというようなことは全然やっておらない。調印後はどうか。調印後においても条約締結権の名に隠れて、最高機関たる国会の審議権を侵害するような態度を今でも頑迷に続けておるじゃないか。前の国会の時はどうですか。前国会にはベトナム賠償協定に関連する秘密交換公文がちゃんとありながら、衆議院にはとうとうこれを示されなかったじゃないですか。そうして国民や国会になるべく隠れて事を運ぼうとする。そういう点にこそ岸首相自身の体臭があるのです。その要領のよさと陰険な暗い影が危険だと言わなければならないのです」 松本「そこで、今度の新条約でございますが、新条約が出来た経過を少し明らかにしていただきたいのです。実はこの新条約が出来ました経過については今もってかなり謎のベールに包まれて、明らかにされておらない点が多い。端的に総理大臣に聞きますが、岸総理大臣が新条約方式に決められたのは、時期としてはいつでございますか」 岸「現行の安保条約を、対等な、また日本の自主性を認めたものにしたいという希望は、私が1957年でありましたか、アメリカを訪ねました時に、アイゼンハワー大統領と話し合いをする際に、その私の意向を述べたのであります。これに対してアイゼンハワー大統領は、当時の状況から、その問題は、いきなり改正という問題に入る前に、先ず運営の点その他の点を、十分両国の国民の感情と利益に合うようにしていく為に委員会を作ろう、また、委員会において、細部において改正を要するというような事態等についても検討するというような意味で、安保委員会が設けられたのでございます。私自身としては、出来るだけ早い時期に全面的に改定をしたいという意向を終始持っておったわけでございます」 松本「そうすると、もう当時から、岸さん自身としては、方式についても今回のような新条約方式でいくということを考えられておったのですか」 岸「私は全面的に改定をしたいという考えでありました」 松本「そうすると、条約の方式については、内容は全面的改定、しかも方式においても、結果的に見れば、ちょうど米韓、米比、こういうのと非常に似通った形式になっておるわけですけれども、そういった全面的な大幅な改正にするということについては、藤山外務大臣とも常に相談されてきたものでしょうか」 岸「時々相談はいたしました」 松本「その点をありのまま御答弁願いたいのですが、我々が知らされたところによりますと、岸首相は――安保委員会が作られたのは32年ですね。33年の5月に選挙が行なわれましたね。総選挙直後、大体6月から8月にかけて、マッカーサー駐日大使とずっと会われたでしょう。この事実は間違いないですね。いわゆる予備会談といいますか、しばしばマッカーサー大使と岸総理は会われた事実はございますか」 藤山「今回の条約改正は、只今総理が言われましたように、岸・アイク共同声明によって端を発したことは当然でございます。その後安保委員会が出来まして、そこで両国民の願望に沿うようにこの条約を検討するというのが、この安保問題の一つの使命でございます。総選挙が終わりまして、第二次岸内閣が出来ます時に、私も引き続き外務大臣に就任をいたしましたので、私から総理に、長期政権を担当する以上、日米間の問題を調整することが必要であって、それは安保条約がやはり基底になるものであるからということを進言を致しました。それが6月の第二次岸内閣の出来ました直後であります。その当時、私はこの問題と他の経済問題その他を持ちまして、7月初旬にワシントンに参りたい、そうしてダレスとそういう問題について話しをしたいということを申したわけであります。たまたまダレス前長官の都合がつきませんので、従って9月になったわけでございますけれども、6月の末からそういうことを私としては考えて、総理に進言を致し、その後7月9日前後に、ダレス長官に会えませんから、ワシントンに行って話すような問題につきまして、予(あらかじ)めマッカーサー大使と話し合いをしておこうというので、私自身がマッカーサー大使と数回に亘りまして予備的な会談を致したのでございます」 松本「外務大臣の進言によって総理がマッカーサー大使と会われたのは、6月から何回ぐらいですか。それは総理大臣とマッカーサー大使と二人だけの会談ですか。それとも、外務大臣その他を交えてでしょうか。何回ぐらいやられましたか」 岸「マッカーサー大使とは、ずっと赴任してから時々会っておりますけれども、特に今、外務大臣が申しました時期において、私の記憶では度々会った記憶は持っておりません」 松本「そうすると、今、外務大臣の進言によって会われたというのは、総理が会われたのじゃないんですね。外務大臣自身がマッカーサーと会われているのですか」 藤山「今ずっと経過を申し上げました通り、私は、そういう意味でマッカーサー大使と7月の初旬から数回に亘りまして会見を致しました。当時、その席に常時総理が出席はしておられません」 松本「そうすると、その外務大臣の出られた会談以外に、総理とマッカーサーだけの会談というのは全然無いのですか、あるのですか」 岸「私とマッカーサー大使が、今、外務大臣がお答えを致した時期において、単純に二人で会った記憶は全然持っておりません」 松本「当時、外務省自身では、既に防衛庁長官と次官、その他極僅かの担当官だけしかこれを知っておらなかったといわれるのですが、外務省が条約改定の準備に入ったのはいつ頃からでしょうか。そして、当時はどういう具体的な案を準備しておったのでしょうか」 藤山「御承知の通り、その前年以来と申しますか、私が外務大臣に就任して以後も、国会等でもってこの条約は非常に対等ではない、従属的だ、或いは核兵器の問題についても、何か文書で取りつけろということは、社会党の方からも盛んに質問のあった問題でありまして、私が外務大臣になりまして委員会に出ましても、そういう質疑を盛んに受けましたので、やはり、これは何らかの形でもって、こういう問題については、いわゆる岸・アイク共同声明にも応えて、そうして改定すべきものだという考えを持っておりましたので、外務省としては、常時こういう問題については検討をして参っておりますことは当然でございます。尚、私が今申しましたような時期に、一遍ワシントンに行って、この問題を更に持ち出してみるという問題点等については、十分検討して参らなければなりませんので、従って、当時、そういう点につきまして十分部内で検討させておりましたことは勿論でございます」 松本「いよいよ本格的に安保改定の交渉が東京で開始されることに決まったのは、33年の9月12日に発表されたいわゆる藤山・ダレス共同声明ですね、これで初めて東京で交渉を開始するということがはっきりしたわけです。しかし、その前の9月10日前後に、日本での各新聞は、外務省がその当時準備しておった具体案というものは大体三つあるという風な発表がなされているんですが、その時の具体案というものはどういうものでしょうか」 藤山「当時、改定につきましての、細かい内容に亘っての具体案というものは、まだ作成は致しておりません。ただ、問題になっておりますような点、例えば、内乱条項を削除するとか、或いはアメリカに義務をしょってもらうとか、そういうような問題点を拾い上げたわけでございます。同時に、我々は、この改定に当りまして望ましいことは、新条約の形でいくことが望ましいけれども、或いは交換公文で取り付けるなり、欠点を補うなり、或いはまた、旧条約の中の部分的訂正をやるなりというようなことも考えられるわけであります。それらの色々な場合につきまして、アメリカ側の考えもございますし、我々としては、色々な角度から検討を致したことは事実でございます」 松本「当時は今の赤城防衛庁長官は官房長官だったと思うんですが、当時、岸さんとマッカーサーの予備交渉、或いは今申します条約の改定の形式ですね。単なる基地貸与協定のようなものにするとか、或いは交換公文で以て、あまり手を加えずに、実質的な改定を幾らかやるとか、或いは新しく防衛条約的なものにするとか、当時三つの方式というものが伝えられておったわけなんですが、そのことは、当時官房長官として御存じだったですか」 赤城「大体は知っておりました」 松本「その三つの形式があるということは御存じだったわけですね。その三つの形式をどういう風にしてやるという、案として御存じだったのかどうか。大体と言ったって、その三つの形式を、きちんと方式を御存じだったのか。ただ、当時何となく予備交渉がなされて、何か方式についても検討がされておるというような、漠然とした知り方だったんですか」 赤城「形式を三つに分けて、どれを採るかというような交渉をしていたようには私は聞いていません。色々考えて、段々に進めてきた、その大体のことを承知しておるということであります」 松本「その頃岸さんが――これは第一次内閣を組閣されたのが32年2月25日ですが、第一次組閣当時、岸さんが国民に対する一つの政策として打ち出されたのが、占領政策の是正ということだったと思います。その占領政策の是正を打ち出された当時は、安保条約の改定ということを考えられておったのかどうか。その当時、何かそういったものを公表されたことがございますか」 岸「その当時、特に安保条約の改定ということを、何らかの形で具体的に表明したものは私はないと思います」 石橋「岸総理がアメリカに行かれて、岸・アイク共同声明というものを発表された。そして帰ってこられて、その声明に基づいて、いわゆる日米安保委員会というものが作られた。その時総理は何と仰(おっしゃ)いましたか。今の条約では、アメリカの軍隊の配備、使用については殆んど発言権が無い、それをこの安保委員会を作ることによって規制出来るのだと、非常に直伝されたのです。条約そのものが改定されなくても、この安保委員会というもので、改正したと同様な大きな働きを持たせることが出来たんだ、自主性を確保したんだ、こういうお話でございました。(中略)あの時の宣伝は大したものでしたですよ。それは岸・アイク共同声明というものがどんなに重大なものであるか、それによって出来た安保委員会というものがどんな立派な働きをするものであるか、盛んに宣伝されたわけであります(中略)」 松本「どうも、この条約をどういう内容で、如何なる方式でいくかということについての最初の構想自体にも、当時の状態を見、また、私共の聞いたところでは、総理と外務大臣の間にはかなりの意見の食い違いがあったように思うのです。それで33年の8月でしたか、さっき外務大臣が、ちょっと言われた、渡米前にマッカーサー大使を交えて、帝国ホテルかどこかで三人で会談されましたね。確か、あの時は、レバノン問題で国連関係の話し合いをするということが表面の理由だったようですが、この時に外務大臣は、新条約方式でいくという総理の意向を、この三者の会談の席で初めて聞いたというようなことを、後で外務大臣は述懐しておられたというのですが、どうでしょうか。この新方式でいくということについては、外務大臣は当初から、また、三者会談の当時まで実はそういう方式は考えておらなかった、しかし、総理がマッカーサーを交えた三者会談の時に、いきなりそれを言われた、マッカーサーの方から、総理は一体どういった形式で条約に臨むつもりだろうか、総理の意向も聞きたいという問い合わせが出たところが、そこで初めて岸さんは、新条約方式でいきたいのだ、こういうことを言明されたので、外務大臣は実はびっくりして、総理の気持がそんなのかというので、まあ、大使の前でそう言明された以上は止むを得ないというところから、ずるずるべったりと新条約方式に踏み切ったということを、後で、あなたは述懐されているというのですが、そうですか」 藤山「総理と私とがこういう問題を扱います時に、色々お互いに話し合いをするのは当り前でありまして、初めから一分一厘意見が違わないというわけではございません。無論、こういう問題について外務大臣と総理大臣とが色々意見を交換するのは当り前でございます。そうして、私と致しましては、初めから新条約方式、或いは交換公文等によって補正する、或いは旧条約に若干の手直しをする三つのやり方があるのだということは、総理にも申しておりましたし、一番いいことは、無論新条約方式でいくことでありますけれども、しかし、なかなかそういうことが困難であれば、次善の策として、旧条約に若干の手直しをする、或いは交換公文等でやるというようなことも考えられたわけであります。これは交渉の前における問題でありますので、我々として、総理とそういう問題について色々意見の交換をするというのは当り前のことでございまして、それが決して総理と私と意見が食い違っておるというわけではございません」 松本「それから、この採られた新条約方式案を、当時、UPIが非常に早く打ってきましたね。その案なるものも、今度出来上がった条約もそうですが、米韓、米比、米タイと殆んど形が似ておる。これは総理としては新条約方式でいく場合には、大体この米韓、米比、米タイを雛形にして、こういう形でいこうということは、以前から考えられておられたところなんですか」 岸「条約を新しい形にして、これに盛り込む事項につきましては、大体外務大臣とも打ち合わせをしておったわけでございますが、それ以上の、どういう形式にやるかとか、どういう用語を使うかというようなことは、最初から考えておったわけでもございません」 松本「この経過を問題にしたのは、一貫して岸さんは、今度の新安保条約改定は自主性の回復ということを当初から言われたですね。最初に打ち出されたのが双務性、それからこれが自主性に変わってきた。しかし、その変わったところにも問題があるのですが、それでは、はたして自主性が確保されたかどうかという点になりますと、この新条約方式に決まるまでの過程にも問題があるし、それからアメリカとの交渉過程にも、はたして日本の自主性が貫かれたかどうか、疑うべき点が沢山あるわけです。こういう条約の改定方式でさえも、自主性について疑わしい点があるばかりではなしに、私共から言わせるならば、今のこの時点に立って、日本の自主性の回復ということは、もっともっと実質的な面で取り組まなければならぬ重要な点があるのではないかということから、実は、この前もこれは参議院でちょっと問題になりましたが、イーデンの回顧録で、あの蒋 介石政権の承認の問題が出ております。これについて、私は岸さんにその経過で一点伺っておきたいのは、あの参議院で問題になりましたイーデンの回顧録によると、イーデンはダレスと約束をして、中国政権の承認の問題は、貿易のこともあるし、やはり、日本が独自にこれは選択をすべき性質のものだというので、約束をしておった。それが、ダレスがああいう風に日本を脅迫して、無理矢理に台湾政権の承認をさせたというので、イーデンが非常に憤慨して抗議をしたところが、アメリカが過ったという大筋なのです。それについて吉田さんがダレスに手紙を出したということになっておるわけですが、その吉田首相が、当時、ダレス長官に手紙を出す前に、ダレス長官の方から、そのダレス宛て吉田書簡の内容についても、具体的に指示してきておる。はっきりアズ・ワン・ガヴァメント・オブ・チャイナ、中国の一政府として、こういう風に書いたらいいじゃないかと、内容についてまで指示してきたということを、極めて確実な筋から私は聞いたのでございますけれども、このことについて岸さんは聞いておられるのでしょうか」 岸「私は承知致しておりません」 松本「何れにしても、イーデン回顧録によっても、日本の独自の意思を無視して、アメリカが、この中国政権承認問題については大きな圧力を加えておるということは、事実として認めざるを得ない。こういう状態で台湾との関係ができたのですから、私共としては、むしろこういった腐れ縁こそ早く断ち切ることが、日本の自主性を回復する為には最も必要なことである。その為には、こういった条約の改定ということよりも、新中国との関係を正常化するということが自主性回復の第一歩でなければならぬ、むしろこの方が先だということを強調しなければならないわけですが、岸さんは、ダレス・吉田書簡を通じてのこの事実が、イーデン回顧録によって明らかにされた今日でも、このことを最も重視する政策に切り替える御意向は無いのですか」 岸「私は、しばしば申し上げております通り、日本の立場、日本の進んでいく道というのははっきりしておりまして、自由主義の立場を堅持して、アメリカとの間の協調によって、日本の平和と安全、更に繁栄を期していきたい、こう思っております。また、台湾との間の国際条約につきましては、やはり国際信義に基づいてこれを尊重して参りたい、斯様(かよう)に思っております」 松本「この台湾の問題は、単なる条約上の問題とか、承認の問題というだけではなしに、今日では、やはり第七艦隊というものを通じて、日本でよく問題にされておりました核兵器持ち込みの問題にも関係してくる。(中略)」 松本「問題は、今度の条約の正体というものが、はたして日本の自主性において、米軍の行動をチェックする方向を向いておるものかどうか。むしろ米国の極東軍事体制の中に、日本が進んで入り込もうとしているのではないか。米国の独自の軍事行動というものを、日本の独自性においてチェックする方向になっておるか。積極的にアメリカの軍事体制の中に入り込もうとしておるのじゃないか。ここのところが実は一番大事な点ですが、我々の見るところでは、今までの政府の答弁では、本質としては、この軍事体制の中に入り込むのが本質でありながら、それを恰(あたか)も日本がチェック出来るかのように説明しようとしている。その為に、次々に矛盾が暴露されておると見ざるを得ない」
〔資料〕≪TPP、アベノミクスなどに関する記事・資料一覧≫|MelancholiaT 2013年3月15日 ※岸 信介―レイセオン社(―CSIS―ヘリテージ財団・統一教会―尖閣事件)、他。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11491265777.html
〔資料〕≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(4)≫|MelancholiaT ※上記に関連して本文及び添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11594371421.html
〔資料〕≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!』 より抜粋(14)≫|MelancholiaT ※上記に関連して本文及び添付資料を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11716043037.html
〔資料〕「日米同盟の強化」→三菱重工の米企業の下請化 - ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 2005年11月11日 ※核の日米同盟(「核軍縮」&プルサーマル“MOX for Peace”―原子力事業の一体化)の意味でも、小泉純一郎のオンカロ視察に三菱重工や東芝・日立など原発関連メーカー及びゼネコン幹部が同行している。
http://amesei.exblog.jp/2175034/
〔資料〕鳩山政権目掛けて飛び交う外圧内圧ミサイル - 園田義明めも。 2010年3月9日 ※レイセオン社(―CSIS)―三菱重工
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/09/4934573
〔資料〕プーチンに学ぶ新成長戦略成功術、肝心要は武器なのだ - 園田義明めも。 2010年3月15日 ※「日本も米国と最強タッグを組んで海上配備型迎撃ミサイル「SM-3ブロックIIA(SM3ブロック2A)」などとセットで原発を売れば、中東諸国も大注目」、核の日米同盟(「核軍縮」&プルサーマル“MOX for Peace”―原子力事業の一体化)
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/03/15/4948979
〔資料〕≪苫米地英人 著『洗脳支配―日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』 より抜粋(1)≫|MelancholiaT ※本文及び添付資料(国民政治協会 大口献金一覧、他)を参照。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11291791209.html
〔資料〕安倍晋三首相とは、何者か - オルタナティブ通信 2013年10月22日 ※「誰が選挙で勝利しても、利権を手に入れる一族は『同一』である。これが本当の、日本の支配者達であり、『支配の構造』である。『同じ利権グループでの、権力のタライ回し』が続く」(「正・反・合」)
http://alternativereport1.seesaa.net/article/378240048.html
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(5)≫|MelancholiaT ※本文及び添付資料を参照(GATT/WTO―清和会・松下政経塾、双頭政治、他)重要。
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11211313712.html
〔資料〕≪斎藤貴男 著『消費税のカラクリ』 第3章 消費者が知らない消費税の仕組み、他 より抜粋(4〜5、9〜11)≫|MelancholiaT ※松下政経塾の正体、MRA、郵政民営化研究会、郵政選挙と広告代理店(BBDOとFleishman-HillardはロックフェラーのOmnicom Group Inc.傘下企業)、他
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaT-roentgenium-資料保管庫-目次/
※岡田克也(―三菱グループ)について
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-10867756026.html
〔資料〕≪関岡英之 著『国家の存亡―「平成の開国」が日本を滅ぼす』 より抜粋(7)≫|MelancholiaT ※【日経・CSISバーチャル・シンクタンクの顔触れ(新自由主義者達の饗宴)】 【CSIS-HGPI】細川佳代子 【三極委員会】
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11076818385.html
〔資料〕CSIS-HGPI ※CSIS-HGPI―米CSIS/英RIIA---三極委員会、復興に関する様々な巨大利権(30兆円規模)、CSIS−HGPI―Global Health Summit Project ※―小泉純一郎・森 喜朗・緒方貞子(―三極委員会・D.Rockefeller)・Robert Zoellick他、伏線として小泉進次郎復興政務官(CSISエージェント)、CSIS-HGPI―細川佳代子(JCV理事長)、―日本ユニセフ協会
http://www.hgpi.org/ghu.html#thinktank
http://global-health-summit.org/
http://hgpi.org/report.html?category=dialogue
〔資料〕GREAT FOREST WALL PROJECT 森の長城プロジェクト〜ガレキを活かす〜 ※―細川護煕
http://greatforestwall.com/
〔資料〕≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(1〜8)≫|MelancholiaT
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaT-roentgenium-資料保管庫-目次/
〔資料〕武藤富男先生を書く その15 - 祖父ネット 2013年10月19日 ※津上製作所(―岸 信介)とブロックゲージの発明、―津波兵器(前例として)
http://sugiyamakatsumi.cocolog-nifty.com/sofunet/2013/10/post-27fa.html
〔資料〕杉山勝己 著『日本ブロックゲージ生誕史(電子書籍)』 - 祖父ネット 2012年1月1日 ※津上製作所(―岸 信介)とブロックゲージの発明、―津波兵器(前例として)
http://sugiyamakatsumi.cocolog-nifty.com/sofunet/2012/01/post-42cf.html
〔資料〕テーマ「終戦前後の4年連続地震」の記事一覧 - 911-311 真実を求めて
http://60265724.at.webry.info/theme/7279182e3a.html
〔資料〕プロジェクト・シール(津波兵器) - LEGACY OF ASHES 掲示板
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1543
〔資料〕東北地方太平洋沖地震が人工地震であったと考えられる理由 - 猿山政治論 2011年4月2日
http://blog.goo.ne.jp/saruyamataro/e/bde71040b083a85da74b2308d7cc2723
〔資料〕太郎さんの街宣、コイズミの原発ゼロ、そして10-13集会 - 反戦な家づくり 2013年9月24日 ※安倍政権&産業競争力会議「公共インフラの民営化」の側には竹中平蔵がいる。京セラ(ソーラーパネル)稲盛和夫と進次郎(CSISエージェント)もCSIS人脈。稲盛と小沢(スケープゴート役)と前原(CSISエージェント)いう繋がりもある。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1299.html
〔資料〕軍産複合体の正体 - 闇株新聞 2013年9月13日 ※べクテル社、―小泉純一郎の脱原発発言
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-883.html
〔資料〕OSS日本本土に対する地震心理戦計画 1 - ザウルスでござる 2013年3月5日
http://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/adcb5062c95c74e5b51a4515a002b443
※メモ。阪神淡路大震災と東日本大震災、村山(社会党)と菅(社民党⇒民主党)、鍵を開ける為に右左に揺り動かし、右を回して駄目なら左に回し更に右に回す。細川連立政権然り民主党政権然り。多くの一般国民を挫折させジレンマを与え・・・・。だからこそ今も自公政権がそのまま続いていては恐らくなし得なかったことが、全て一度に出来る状況となった。両建てで、如何に巧みに事を運び目的を密かに達成するか、その為には表層に人々の目線を押し留め裏側(支配層と被支配層の対立構図)に気付かれることなく、そうして人心を惑わす目的としてイデオロギーの対立の構図を常に一定して保つ必要がある。そこに巣食った利権の最たるものの一つが戦後の「洗脳装置」であり既得権益・巨大権力を持つ大マスゴミである。これらヘーゲルの弁証法による。右が無ければ左もなく、左が無ければ右も無く、片方だけでは分断支配する“彼ら”にとって意味を成さず、彼らに従属する者達にも利権は生じない、持ちつ持たれつ、要は同じ穴の狢(むじな)に過ぎない。
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