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2010.12.05
「隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!? (園田義明)」は2008年に出版された書籍で新刊ではない。出版当時気になっていながら読みそびれていたものを積ん読山から取り出して読んだ。戦後史に関心がある人にとっては一種のリファレンス本としての価値もあるだろう。議論については非常に興味深いものだが、異論も多いのではないかとは思う。
副題が「憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?」と刺激的で、内容もそれに該当する展開がある。これを歴史学的な意味での新説とするにはやや弱いようにも思えるが、憲法策定に関わり「戦後日本の設計者―ボートン回想録」(参照)の著者でもあるヒュー・ボートン(参照)が九条に影響を与えたとするのは、それなりに受け入れられる話ではある。しかし、ボートンがクエーカーであり、クエーカーの信条が反映しているかとなると歴史議論としては弱いだろう。また、本書で言われてみて気がついたのだが、日本国憲法における天皇を示す「象徴」(symbol)という用語が新渡戸稲造の「武士道」(参照)に由来するとの指摘は、なるほどと頷くが、新渡戸がまたクエーカーであるという文脈となると多少話の筋としては弱いようには思えた。
本書では吉田茂とその家系さらに閨閥的な関連を含めて、終戦プロセスに関わる天皇とカトリックの動向も描かれており、「天皇のロザリオ」(参照上巻・参照下巻)と似た印象も受ける。このテーマの実際はどうであったかについては、金山政英氏の回想録「誰も書かなかったバチカン―カトリック外交官の回想」(参照)を含め、なんらかの秘史はあるようにも思え、興味深いが、全体としてどう評価してよいかわからない。
クエーカーやカトリックを総合してクリスチャン人脈なるものが出来るのかもよくわからないが、本書に描かれていない部分で私もわけあってそうした人脈を実際に見てきたこともあり、困惑すると同時にこの問題に関心を寄せざるを得ない。
本書にはごく端役的にしか描かれていない柳瀬睦男(参照)だが、彼は山本七平と小学校のクラスメートであった。当時のクリスチャン人脈が青学に集中していたからというだけかもしれないし、柳瀬と山本は成人してから深い親交があったわけではないが、両者にはごく普通に幼友達の感覚があり、かたや上智大学の学長となった柳瀬でありながら、市井の出版人である山本を畏友のように見ていた。そこには愕然とキリスト教的な価値観の優先があった。
本書には登場しない山本だが、「戦後日本の論点―山本七平の見た日本(高澤秀次)」(参照)が、その父祖を追っているところを読めば、本書が扱っている明治時代におけるキリスト者の文脈がきれいに重なっていることもわかるだろう。この構図からは、少なくとも明治時代から大正、昭和初期へと近代化が展開する時代において、クリスチャンと呼ばれる人たちが独自の意味と影響力を持っていたことは明らかであり、それがモダニズムとしての天皇を取り巻いてもいたとも言える。
本書では、後半に展開されるやや奇矯とも見える視点を除けば、近代天皇制がその水戸学的イデオロギーである南朝に苦しめられ対抗していく図柄は興味深い。南朝イデオロギーに対して、キリスト教的天皇家の群像がそれに対立していたという構図もかなり頷ける。
本書の読後感は微妙なものだが、南朝イデオロギーが今なお姿を変えて日本に存在している指摘については同意せざるを得ないし、私の印象では、いわゆる左翼的な言説も実際のところは南朝イデオロギーと等価なのではないかと思える。
- ≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋≫ (Roentgenium) 五月晴郎 2014/2/01 02:20:09
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