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現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産 (JOGMEC)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/655.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 6 月 19 日 20:45:27: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/0/603/200503_057a.pdf

イラクの現状は「石油の呪い」!?
−現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産−

 「石油の呪い」と言っても、巷に溢れる怪しげな陰謀史観的「地政学」の話ではない。現在の中東を巡るブッシュ氏の「正義」とイスラム原理主義の「正義」との間の骨肉の争いは、思想史を辿ると、世界で初めて善悪二元論をその世界観とした古代ペルシャのゾロアスター教に行き着く。ゾロアスター教の善悪二元論は、カスピ海付近の地下の油田からもれた天然ガスの自然発火による「火」が育てた観念「善」と、その逆の「闇」のアナロジーから来る「悪」の対立によって世界が動くと言う哲学からきている。この善悪二元論は、後にユダヤ教に取り込まれ、さらに後世、キリスト教とイスラム教に引き継がれ、これらの宗教のエッセンスである正邪の観念となった。この知られざる、石油とブッシュ氏・イスラム原理主義双方の宗教的信念の歴史的関係について、日本経済新聞の中東および宗教専門家である河野氏に紹介していただいた。(編集者)

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日本経済新聞社文化部編集委員:宗教・演劇担当 元テヘラン、カイロ、ロンドン駐在記者 河野 孝

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世界の石油・天然ガスの宝庫である
中東は文明の十字路である。世界宗教
の誕生、発展とも無縁ではない。いま
世界を揺るがす欧米のキリスト教とイ
スラム原理主義の抗争は、元をたどれ
ばユダヤ教の一神教的世界概念から生
じた近親憎悪的な骨肉の争いとも言え
るが、ユダヤ教の善悪の観念はイラン
のゾロアスター教の二元論に由来する
との見方が強い。ゾロアスター教は、
拝火教と呼ばれるぐらい火を神聖視し
ている。古き時代のイラン人が、今は
油田地帯となっているカスピ海沿岸で
比較的浅い地層の油田から漏洩する天
然ガスに自然発火した火を崇めたこと
があったようだが、エネルギーと宗教、
この二つは中東地域が背負っている歴
史的な宿業と言えるかもしれない。
 
イスラム革命後、1980年の12月から
一年足らず、新聞社の特派員としてイ
ランのテヘランに駐在した。米国大使
館の人質事件が最終解決する大詰めの
時で、この後、保守派と左派の権力抗
争が高まり、イラン・イラク戦争も始
まって数ヶ月という厳しい状況であっ
た。イランの商業活動のセンターと
なっているのが、テヘラン南部のバ
ザール。「中洋の商人」という連載企
画のため、日本の商社と提携している
バザール商人の紹介で、バザールの一
角にあるユダヤ人の絨毯・骨董商を訪
ねたことがあった。1981年の春、ノウ
ルーズ(イラン正月、春分の日)が終
わって少したったころだったか。
 
だいぶ前のことで記憶も薄れ、相手
の名前も、店の場所も忘れてしまった
が、年寄りのユダヤ人商人が応対して
くれた。聞くと、現在のイスラエルか
ら来たのではなく、イランに昔から住
んでいる家族だという。新バビロニ
アのネブカドネザル2世がエルサレム
のユダ王国を滅ぼし、住民を捕虜とし
て連れていったのがバビロン捕囚(紀
元前587年)。この後、アケメネス朝ペ
ルシャのキュロス大王が紀元前539年、
バビロンを攻め落とし、翌年、捕囚ユ
ダヤ人の帰還を許可した。このバビロ
ン解放以来、故郷には帰らず、二千年
以上もどうもイランに住んでいるとい
うのだ。その時は、そんなことが本当
にありうるのかと正直驚いた。
 
しばらく話をしていて、警戒感が緩
んだのか、お金に困っていたのか、暗
い奥の方に行って持ってきた包みを開
けて見せられたのが、ペルシャン・ガ
ラスの器だった。正倉院の御物にある
国宝の白瑠璃碗と同形のものである。
松本清張が『ペルセポリスから飛鳥
へ』(日本出版放送協会)でペルシャ
文化の日本への伝播について書いてい
るが、まさに、そのつながりがその場
で証明されたような実感を抱いた。
イスラム政権になって、骨董品を外
に持ち出すことは禁止されていたので
買う気なども起こらず値段も聞かなか
ったが、外交官の中には外交特権で持
ち出している者もいるらしい、という
ことを言っていた。
 
 この後、バザールのモスクに行っ
た。近づいてくる者がいて、昔のコイ
ンを買わないかという。見ると、拝火
壇が図案の硬貨で、ササン朝ペルシャ
時代のものだという。ゾロアスター教
を国教にしていた国で、拝火壇の模様
の銀貨を鋳造した。図案が面白かった
ので、記念に一枚買ったが、偽物作り
の巧みな国だけに、外国人目当ての金
稼ぎだったのだろう。とにかく、ゾロ
アスター教という珍しさに思わず惹か
れたのである。

 中東での石油の存在は古くから知ら
れていた。紀元前3000年ごろ、メソポ
タミアでは、地面の割れ目から浸みだ
していた天然アスファルトが、建造物
の接着、ミイラの防腐、水路の防水な
どに使われていたというし、紀元前1
世紀ごろの記録では、止血のため石油
を傷口に塗ったり、発熱を抑える薬と
して用いられていたともいう。「アゼ
ルバイジャンは石油櫓が村の数より多
い」といわれる現代でも、バクー周辺
では地下の油田から吹き出す天然ガス
が燃えているところが見られる。
 
 楼蘭の発掘など中央アジアの探検
家として有名なスウェーデンのスウェ
ン・ヘディン。「探検紀行」の中で、
バクーの見聞記では、近郊のスラハ
ニィ村の拝火教の古い神殿のことが書
かれている。「それは四つの入り口と
ドーム状の屋根をもつ小さな石造りの
建物である。かつてこの神殿では天然
ガスの『永遠の火』が、昼も夜も、赤
と黄の激しい炎をだして燃えあがって
いたというが、いまは消えたままであ
る」と記している。
 
 ゾロアスター教の預言者ゾロアス
ター(原音でザラスシュトラ、ニーチェ
のツアラトゥストラはここに由来)の
生涯は謎に包まれている。プリニウス
の「博物誌」によれば哲学者プラトン
よりも六千年以前に生きたと伝えられ
るほか、紀元前1500年から紀元前1000
年に生存したとか、期間が定まらない。
一応ここでは、ユダヤ教の預言者の
同時代人と目される紀元前630年、東
イランで聖職者の家に生まれた説を採
る。両親もよくわからないが、父はア
ゼルバイジャン出身、母はテヘランか
ら南約7キロの町レイの出身という説
もある。生誕日に至っても不明だが、
生まれた時に「笑った」と後世に伝わっ
ている。仏陀の誕生よりも百五十年以
上も前のことである。
 
 少し長くなるが、ゾロアスター教の
ことについて触れておかなければなら
ない。岡田明憲著『ゾロアスターの神
秘思想』(講談社現代新書)、P・R・ハー
ツ著『ゾロアスター教』(青土社)な
どを参考にまとめさせてもらうと、ゾ
ロアスター教では、各人はフラワシと
呼ばれる精霊を有し、フラワシは各々
が個性をもった存在で、人間がこの世
に生まれる以前にすでに天界において
存在した。一般人が目にすることがで
きるこの世界(ゲーティーグ)のほか
に、通常な感覚ではとらえられない霊
的世界(メーノーグ)があり、現実の
世界は、このメーノーグ界の写し絵に
すぎない。メーノーグの状態は、通常
人には閉ざされているが、天界にある
神や天使たちには明らかである。
 
 古代イランでは、大地を支配する者
には、神から光輪(クワルナ)が賦与
されると信じられていた。ゾロアス
ターが誕生するに際して、母の胎中に
宿った光輪が、ゾロアスターの精霊で
あるフラワシ、身体を形成する実質と
合体する必要があり、悪魔の度重なる
妨害にもかかわらず、ゾロアスターは
生まれてきたのだった。
 
 ゾロアスター七歳の時に、ダエーワ
崇拝を強要する呪師を真言(マンスラ)
で殺してしまう。ダエーワは、仏教で
「天」と訳されるインドの神デーヴァ
で、同じアーリア系の神として古代イ
ランでも信仰は盛んだった。ゾロアス
ターは古代インド・イラン民族におけ
る神々のもう一つの系統、アフラ(ア
スラ)を信仰の対象とした。アフラは
仏教の阿修羅の例から言っても、好戦
的で恐ろしい性格の神と見られるが、
本来は形而上的な性格の神で、現世
利益的なダエーワに対し、倫理的要素
を多分に有する神だという。ゾロアス
ターはこのアフラの至上者としてアフ
ラ・マズダー神を信仰したのである。
 
 ゾロアスター三十歳の時、アフラ・
マズダーの使者、大天使がやってきて、
何を求め、何のために努力するか、と
質問する。これに対し、ゾロアスター
は「正義を求め、正義のために努力す
るのである」と答える。これによって、
ゾロアスターはアフラ・マズダーの元
に連れてゆかれる。ゾロアスターは神
に質問する。この世において完全なる
ものは何かと。神の答えは、第一に善
思、第二に善語、第三に善行であった。
この後、神は宇宙の開闢(かいびゃく)
時における善・悪二霊の存在をゾロア
スターに見せ、火と熔鉱と刀による試
練を受けさせたが、ゾロアスターは無
事に通過した。この対話から戻った後、
最高神の命令により、布教に乗り出す
のである。以後、十年間、ゾロアスター
は七回、神から啓示を受けた。
 
 聖典の「アヴェスタ」には、ゾロ
アスターの言葉を韻文で記した「ガー
サー」と呼ばれる部分が含まれている。
そこで説かれているのは、善はすべて
アフラ・マズダーによって創造された。
アフラ・マズダーの双子の息子のうち、
「聖なる魂」「創造の力」とされる「ス
プンタ・マンユ」は善を選択し、後に「善
心」「正義」「アフラ・マズダーの王国」
「敬虔な信仰」「完全さ」「不死」の6神
格にわかれてアフラ・マズダーを助け
る。これに対し、双子のもう一方の「ア
ンラ・マンユ」は悪を選択し、「悪の
魂(アーリマンあるいはアフレマン)」
となってアフラ・マズダーと敵対する
ようになる。
 
 人間が善・悪のどちらを選択するか
は個々人にまかされていた。死後、魂
は「審判者の橋」で審判を受け、善に
従う者は天国へ行き、悪に従う者は地
獄におちた。そして、最終的には悪は
すべて灼熱の中で消滅していくとされ
たのである。
 
 「アヴェスタ」には南ロシアからイ
ラン高原へ移動してきたアーリア系の
遊牧の民であるイラン人の口承の歴史
と伝説が反映されている。ゾロアス
ター教のシンボルは火で、火を中心と
した祭儀が執り行われるが、「火、土、
風、水」の四つを聖なるものとしてい
るのも遊牧民的思考に根ざしている。
ゾロアスター教では四つの聖なるもの
を汚してはいけないと、当時は人が亡
くなっても、土葬も火葬もしなかっ
た。遺体が聖なるものに触れないよ
うに丘の上に四方壁を作り、その壁の
中に遺体を安置して鳥に食べさせる鳥
葬を行っていた。この建物を「沈黙の
塔」と言い、イラン国内にも遺跡とし
て数ヵ所残っている。
 
 ゾロアスター教がイランに広まった
のは、イラン北東部のカウィ・ウィー
シュタースパ王が改宗したことに始ま
る。それから他の地域に流布していっ
たようだ。ペルシャの代表的詩人フェ
ルドゥシィの「シャー・ナーメ(王書)」
には、イラン北東部ホラサーン地方の
ケシュマルにあった糸杉の話が登場す
る。ゾロアスターが、ウィーシュター
スパ王の改宗を記念して、拝火殿の戸
口に植えたものだという。ユダヤ人を
バビロン捕囚から解放したアケメネス
王朝のキュロス大王もゾロアスター教
の信者と見られるが、証拠はない。た
だ、征服した住民に改宗を求めなかっ
たのは、ゾロアスター教的な考え方だ
とする指摘はある。
 
 ゾロアスター教と関係付けができる
最初のペルシャの王は、ダリウス1世
(在位=紀元前521−紀元前485)であ
る。夏の宮殿であるペルセポリスの宮
殿などには、アフラ・マズダーのシン
ボルである有翼のフラワシのレリーフ
(浮き彫り)がある。ペルセポリス郊
外のナクシェ・ロスタムの岩壁には、
ダリウスを王にしたアフラ・マズダー
に対する称賛が刻まれた碑文もある。
息子のクセルクセス1世もアフラ・マ
ズダーを崇拝するが、その後、多神教
的な影響も入って内容的にもいくらか
変わっていく。
 
 アケメネス朝ペルシャを滅ぼしたア
レキサンダー大王の国が分裂した後、
シリアのギリシャ系のセレウコス朝
(紀元前312−紀元前64)とパルティア
のアルサケス朝(紀元前250−226)で
は、ゾロアスター教とともに外国の
神々も崇拝された。ササン朝ペルシャ
(226−651)になって、ゾロアスター
教が国教となった。ササン朝時代の神
学では、「アーリマン」は「スプンタ・
マンユ」ではなく、アフラ・マズダー
と直接敵対するものと考えられた。ま
た、神学者の中には、アフラ・マズダー
とアーリマンを統括する神として「ズ
ルワーン(無限の時間)」を登場させ、
それぞれは双子の息子であると主張す
る説も出た。
 
 7世紀にアラブ人がペルシャを征服
し、多くのペルシャ人がイスラムに改
宗した。イスラム革命前のパーレビ王
朝時代には、ヤズドを中心にゾロアス
ター教徒が残っていたが、ホメイニ師
のイスラム革命で多くは国外に出て、
以前からパールシーと呼ばれるコミュ
ニティーを形成していたインドのムン
バイなどに集まっている(ちなみに、
指揮者のズービン・メータはムンバイ
生まれのパールシーである)。ゾロア
スター教では、近親婚が勧められてい
る一方、他の宗教からの改宗も他宗教
への改宗も認めていないので、宗教的
に拡大する余地がほとんど見られない
のが実情だ。
 
 さて、ゾロアスター教について長々
と解説したが、ユダヤ教との接点、影
響を探ってみる。バビロン捕囚時代に、
ユダヤ人は「バビロンの流れのほとり
に座り、シオンを思って、わたしたち
は泣いた……エルサレムよ、もしも、
わたしがあなたを忘れるなら、わたし
の右手はなえるがよい」と「詩編」で
故郷への郷愁を強くうたった。これが
近代にテオドール・ヘルツルによって
シオニズム運動としてよみがえるわけ
だが、バビロンのユダヤ人も、いざ解
放されてみると、バビロンに残留した
者も多く、さらにエジプトに移る者も
いて、すべてがエルサレムに帰還した
のではなかった。
 
 このバビロンの遺跡に二度行ったこ
とがある。初めて行ったのは1980年6
月、イラクで国会議員選挙が行われた
時だ。前年7月に大統領に就任し権力
を掌握したサダム・フセインは、欧米
に対しイラクの民主化が進んでいるこ
とをアピールするのが狙いであった。
バビロンではちょうど、街中の日乾し
レンガでできた城壁を掘り返して修
復している最中だった。次に行ったの
は、80年代後半で、この時は瓦礫や泥
はすっかりきれいになっていて、主要
道路からの入り口には、青く彩色した
イシュタル門ができあがっていた。
 
 しかし、バビロンの実際の発掘調査
はイラクに植民地的野望を伸ばしてい
たドイツが20世紀初めに手をつけてい
た。バビロンの繁栄を象徴するイシュ
タル門の遺構は、一枚一枚レンガに番
号を付けてはがされ、ベルリンに持ち
帰って復元された。その門を、ベルリ
ンの壁が崩壊する1989年の3月に、東
ベルリンのペルガモン博物館で見た
が、現地に作られた模造品に比べると、
さすがに重厚で見事であった。また、
バビロンはアレキサンダー大王が亡く
なった場所というが、現地に行っても
周りが乾ききっていて、あまりイマジ
ネーションが働かなかったのを覚えて
いる。
 
 ヘブライ語の文学は古代オリエン
ト、ことにメソポタミアの影響を受け
ている。族長のアブラハムはメソポタ
ミア南部のウルの出身である。旧約聖
書の「創世記」中の洪水神話などへの
ギルガメシュ神話の影響は古くから指
摘されている。「ヘブライ語聖書の大
部分が書かれたのはバビロン捕囚をは
さんだ時期であり、ヘブライ語聖書は
メソポタミア文化の強烈な影響下で成
立したと言っても過言ではない」(植
村卍編著『ユダヤ教思想における悪』・
晃洋書房)という。信仰の拠りどころ
としてのエルサレムの神殿が破壊さ
れ、律法中心の教団としての宗教が始
まるのも、バビロン捕囚を経てからの
ことであると言われる。
 
 これに関連して20世紀の神学者マ
ルティン・ブーバーは『善悪の諸像』
で、旧約聖書における神話と古代イラ
ンの神話を対比している。善悪を先天
的に有している人間の善悪、その選択
と決断の起源はアフラ・マズダーにあ
り、「天の神のように人間も、自己の
うちに神と同じようにその両方をもっ
ている善悪の間の選択を自己のうちで
なす」とブーバーは述べている。
 
 荒井章三著『ユダヤ教の誕生』(講
談社選書メチエ)によると、エゼキエ
ルに遅れてバビロンで活躍した預言者
に「第二イザヤ」がいる。「イザヤ書」
の45章の中に、「主が油を注がれた人
キュロスについて、主はこう言われる。
わたしは彼の右の手を固く取り、国々
を彼に従わせ、王たちの武装を解かせ
る。扉は彼の前に開かれ、どの城門も
閉ざされることはない」「わたしは主、
あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神
である、と。……わたしが主、ほかに
はいない。光を造り、闇を創造し、平
和をもたらし、災いを創造する者」と
書かれている。
 
 つまり、ペルシャの王キュロスにイ
スラエルの王に授けられる祭儀的な称
号「メシア=油を注がれた人」をかぶ
せ、バビロンからユダヤ人を解放した
のは、ヤハウェだと言うのである。「わ
たしをおいて神はない」と唯一神的性
格を強調、「光と闇」という二元論的
表現が出てきている。しかし、キュロ
スの寛容な宗教政策はあくまでペルシャ
の政治政策の一環に過ぎないのも現実
だった。
 
 第二イザヤはこの後、ヤハウェの使
命を果たす者としての「苦難の僕」に
ついて預言する。「彼(わたしの僕)
は軽蔑され、人々に見捨てられ、多く
の痛みを負い、病を知っている。……
彼が刺し貫かれたのは、わたしたち
の背きのためであり、彼が打ち砕かれ
たのは、わたしたちの咎のためであっ
た。……主の望まれることは、彼の手
によって成し遂げられる……」。まさ
に、イエス・キリストの姿が目に浮か
んでくる。後に、キリスト教が、イエ
スの十字架という苦難を通して人類の
罪の贖いを説いた時に、この第二イザ
ヤの「苦難の僕」をキリストの予表と
して取りいれることになる。

 新約聖書のヨハネの「黙示録」にも
ゾロアスター教の影響が見られる。森
秀樹著『「黙示録」を読みとく』(講談
社現代新書)によると、個人の死も終
末であるが、世界が終わってしまうと
いう終末観はイランのゾロアスター教
に始まり、ユダヤ教、キリスト教、イ
スラムに広がった観念だという。「黙
示録」の終末論にとって「千年王国」
は重要なキーワードだが、千年ごとの
時代区分はペルシャに始まり、紀元前
6世紀以降、パレスチナにもたらされ、
千年王国の原形ができたと言われる。

 ヨハネの「黙示録」では、最初の
終末にはメシア(キリスト)が再臨し
て「千年王国」が実現するが、再臨か
ら千年後、閉じ込められていたサタン
が復活、反キリスト勢力との宿命的な
最終戦争(ハルマゲドン)に勝利した
後、最後の審判を経て究極的な新しい
天地、イスラエルである教会が出現す
るのである。善と悪の軍隊が戦う図式
はまさにゾロアスターの二元論的観念
であり、グノーシズムにおいても継承
されていった考えである。

 「黙示録」は全405節のうち、278節
が旧約聖書の引用で、中でも黙示文学
に分類される預言書「ダニエル書」「エ
ゼキエル書」を参考にしたケースが多
い。黙示文学の特徴としては、ユダヤ
人の民族的危機の時代に書かれる傾向
が強いと言える。

 「ユダヤ教におけるメシアと終末論
の結びつきは、ゾロアスター教の救世
主であるサオシュヤントの存在を抜き
にしては考えられない」と岡田明憲氏
は前述の著書で強調する。ヨハネの
「黙示録」のハルマゲドンは、ゾロア
スター教の終末論を説く「アヴェスタ」
の「ザームヤズド・ヤシュト」などの
記事と似ており、神の審判に関係する
「ダニエル書」の火の川の記事や、「黙
示録」の最後の審判の日、天から火が
下がり、悪魔は火と硫黄の池に投げ込
まれるとする部分は、ゾロアスター教
に説く熔鉱の審判に対応するという。

 また、ゾロアスター教では、ゾロア
スターの誕生から三千年の後、世界の
終末が来るとし、千年ごとにゾロアス
ターの子孫が出現し、それぞれが世を
利益する救世者、すなわちサオシュヤ
ントになると説かれる。単に王を指す
ものであったメシアの意味が、終末論
的解釈によって救世主に変化していく
時期は、バビロン捕囚以後のことだと
いい、ゾロアスターの影響が感じられ
る。サオシュヤントの手にする槍は、
竜退治の槍であり、竜は悪魔の化身で
ある。天使もゾロアスター教の有翼人
像に由来している可能性も大きい。

 エルサレムからヨルダン渓谷のエ
リコに向かって急な坂道を下っていく
と、海抜下の死海がかすんだ靄(もや)
の中に見えてくる。確か坂を下りきる
手前で右手に曲がっていくと、「死海
文書」で有名になったクムランの遺跡
がある。発見が1947年、傾斜する丘陵
になっていて、こんなところに人が洞
窟に住んで集団生活していたとは、外
から眺めただけでは気がつきにくい場
所にある。見つかった「死海文書」は、
羊皮やパピルスにヘブライ語、アラム
語などで書かれた巻物や断片で、筆写
の年代は紀元前3世紀からイエスの生
きた時代までのものが入っている。
 
 ユダヤ教の一分派と見られる禁欲主
義のエッセネ派の信徒が、クムランに
共同体を形成して、独自の生活をして
いた。彼らが遺した文書の中には、「戦
いの書」と呼ばれ、「黙示録」を連想
させるような典型的な終末文書が出て
くるなど、原始キリスト教と関係づけ
られる古文書が重要視されているが、
もう一つ注目されるのはエッセネ派の
信徒に向けられた「光の子らと闇の子
らの戦い」の規則で、不信心者と対決
する戦闘的な修道士の在り方を示して
いる。ゾロアスター教の影響が考えら
れるが、直接、影響されたのではなく、
ゾロアスター教の流れの中で生じたミ
トラス教(ミスラ、ミトラとも言う)
の「光と闇の戦い」という体系に影響
された可能性もある。光と闇の対立、
善と悪の戦いという二元論的思考様式
は、グノーシズムなどに吸収され、宗
教的異端とされながら、ルネサンス、
宗教改革などを経て、神秘思想の系譜
として現代にまでつながっている。
 
 一方で、ゾロアスター教は東進し、
紀元前後にインドに勃興した大乗仏教
と遭遇した。具体的には、アミダ仏、
観音菩薩、弥勒菩薩などに対する信仰、
密教の護摩焚きなどへの影響が問題と
なるが、大乗仏教の成立地がクシャー
ナ朝支配下の西北インドであり、イラ
ン文化の影響は自然の成り行きのよう
に思える。
 
 アミダ仏は、アミターバ(無量光)、
アミターユス(無量寿)の両義がある。
無量光はゾロアスターの光明神、無量
寿は無限時間を指すズルワーンに対
応、アミダ仏の世界である「浄土」の
概念も、ゾロアスター教のフラショー・
クルティ(終末の建て直しにおける世
界の浄化)との相似が見られる。また、
大乗の菩薩の中で、救世主的性格を持
つ弥勒菩薩はゾロアスター教のミスラ
神に関係し、観音菩薩はゾロアスター
教のアナーヒター女神との共通性があ
ると言われる。
 
 察するに、バラモン教、ヒンドゥー
教などインド起源のものと、ゾロアス
ター教などイラン起源のものが、北イ
ンドや中央アジアで歴史的に混合・融
合した形の仏教が中国に伝わって、さ
らには留学僧などを通じ日本に伝来し
たのではないだろうか。
 
 ゾロアスター教自体が中国に伝わっ
たのは北魏の頃で、天神、火神、胡天
神の名で呼ばれた。「魏書」の「霊太
后伝」では神亀2年(519年)、北魏の
宣武帝の皇后が嵩山のもろもろの淫祀
を廃止した際、「胡天神はその列にあ
らず」とゾロアスター教を擁護したこ
とを記録している。隋唐の時代に入っ
て隆盛を見る。隋末以降は祆教(けん
きょう)と呼ばれ、信徒のほとんどは
中国在住のペルシャ人だった。長安、
洛陽などの主要な都市に祆祠(祆教の
お寺)が設けられた。祆教徒を取り締
まる役所は薩宝府と呼ばれ、そこの長
官を薩宝と言った。ソグド語で隊商長
を意味するサルトパウの音訳と言われ
る。サマルカンド出身のソグド人がゾ
ロアスター教の東方伝播の仲介者だっ
たのだ。
 
 キリスト教の異端とされたネスト
リウス派もササン朝ペルシャ、シルク
ロード経由で唐の太宗皇帝の頃(貞観
9年=635年)に伝来した。内容的には
イラン的変容を被っていて、当初は波
斯(はし)経教などと呼ばれ、その寺
院は波斯寺と言われた。玄宗皇帝の時
(745年)には、大秦寺と呼ぶようにな
り、景教として中国人信者を集めるに
至る。
 
 弘法大師、空海が長安の都を訪れた
のは唐の貞元20年(804年)のことだ
から、空海は祆教や景教にも直接、接
することができたのだ。空海の思想
の国際性はこうした環境とも無縁でな
い。しかし、9世紀の中頃、中国では
道教擁護が打ち出され、会昌の排仏と
呼ばれる宗教弾圧が起きる。仏教やゾ
ロアスター教など外来の宗教に対する
拒否反応で、ゾロアスター教も中国社
会から消えていく。
 
 「日本書紀」によると、孝徳天皇10
年(654年)、都貨邏(とから)の男女
何人かが日向に漂着した記述がある。
都貨邏は西域のトカラ(現在のアフガ
ニスタン)と見られ、飛鳥・白鳳時代
にイラン系の人々が日本に渡来し、作
家の松本清張が小説などで論を展開し
たように、ゾロアスター教徒が何らか
の形で、日本の古代文化の形成に関係
した可能性は否定できない。
 
 こうした中で、最近読んで想像力を
刺激されたのが、渡辺豊和著『扶桑国
王 蘇我一族の真実』(新人物往来社)
だ。副題が「飛鳥ゾロアスター教伝来
秘史」となっている。
 
 中でもユニークなのは、蘇我氏が、
4世紀ごろに中央アジアのバイカル湖
周辺に居住していたゾロアスター教を
信奉するトルコ系の民族(高車)の出
身で、南回りでなく北ユーラシア回り
で北部日本に入って国を造り、その後、
近畿まで南下し飛鳥で王権を握ったと
いう説を説を展開していることだ。
古墳時代、中国は南北朝対立の時期で、
南朝に梁という国があって、その国の
正史「梁書」に、日本には倭国、文身国、
大漢国、扶桑国の四つの国があると書
かれている。渡辺氏は倭国を阿蘇、文
身国を出雲、大漢国を河内、扶桑国を
北海道渡島半島と割り出している。扶
桑国は、北海道渡島に拠点を置いた蘇
我氏の政権で、北海道、東北の蝦夷と
連合していたと推定している。
 
 さらに、東北大学の高橋富雄教授の
見方を援用して、江上波夫の騎馬民族
王朝説への疑問にも答えている。もし、
騎馬民族が九州に上陸し、中国地方を
通って畿内に入ったのであれば、西国
一帯に馬を飼育した痕跡が多数散在し
ていてもよさそうなのにそれがなく、
馬を飼育したのは北東北地方であっ
た。つまり、騎馬民族は北東北に上陸
し、そこから関東、中部地方を通り畿
内に入ったのではないかということで
ある。また、現在の岩手県北部から青
森県全域にかけて「日本(ひのもと)」
と言っていたというのである。聖徳太
子が造営した斑鳩宮は、アケメネス王
朝のペルセポリスと同じ計画法によっ
て造営されていたとする説は、さすが
建築家で、京都造形芸術大学で教えて
いる渡辺氏ならではと感服させられる
が、詳しくは同書を読んでいただくと
いいだろう。
 
 「日本書紀」には、天智7年(686年)、
越の国から「燃ゆる土」と「燃ゆる水」
が近江大津宮に献上された記録が残っ
ている。また、秋田県豊川の槻木遺跡
から出土した縄文土器にアスファルト
が付着しており、縄文人がアスファル
トを土器のひび割れ修理に利用してい
た形跡が見つかっている。これは全く
の想像だが、渡辺氏の説に立てば、秋
田や越後はゾロアスター教徒である蘇
我氏の勢力が南下していった通路に当
たり、蘇我氏がイラン伝来の石油の知
識を持っていたからこそ、発見できた
ことかもしれない。

 いずれにしても、ここまで話を広げ
ると収拾がつかなくなってくる。要は、
ゾロアスター教というあまり知られて
いないイラン起源の宗教が、世界史の
上で大きな役割を果たしているという
ことを理解してもらえばいいと思うの
である。ゾロアスター教と周辺文明と
のかかわりについては、まだまだ明る
みに出ていない事跡が隠れていそうな
感じで、ゾロアスター教を解明してい
くに従い、歴史の闇が照らし出される
と期待してもいいだろう。

 イランのイスラム革命後、ホメイニ
政権はアメリカを「シャイターン・ボ
ゾルゲ(大悪魔)」と呼び、反米デモ
隊は「マルグ・バル・アメリカ(アメ
リカに死を)」と叫んだ。これに対し
アメリカは、イランなどを「悪の枢軸」
と名指しした。現在は、ブッシュ大統
領がイスラム原理主義のテロリストに
「十字軍」を唱えれば、イスラム原理
主義側はアメリカに対して「ジハード
(聖戦)」で応酬する。どちらも正義を
大上段に構えて譲らない。どちらが正
しいかは結局、力が決めることになる
のかどうか。とにかく、戦いが激化し、
死傷者の数が増えていく状況は、どち
らが勝ったとしても、悪魔のみが喜ぶ
ところである。

 ゾロアスター教徒は火を清浄なもの
として、火の祭壇を設け、崇めるよう
になった。近代的な生活を謳歌する欧
米の現代人は、祭壇こそ設けないが、
心のどこかで「石油」を神のように崇
めてはいないだろうか。正義、自由を
掲げる米国にしても、中東の産油国が
石油を混乱なく供給する意思があるの
かどうかが、正邪の分かれ目になる。
思えば、石油・天然ガスの自然発火
と関係が深いゾロアスター教の二元論
が、巡り巡って、現在の世界最大の油
田地帯である中東のイスラム教徒と、
世界最大の石油消費国でキリスト教国
である米国との「正邪」を争う"文明
の衝突"を引き起こしている。2500年
前の不思議な歴史的因縁と言うのか、
単なる石油が生み出す膨大な現世利
益を巡る対立というだけでなく、"石
油の呪い"があると言ってしまっては、
いささかオカルトに走り過ぎであろう
か?  

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コメント
 
01. Bryan Ferry 2012年6月27日 14:33:59 : sapBCaDVqRWh2 : 0OznuJyV76
よく書けていますね。
鳥葬は、ヤズド辺りにに限っています。
ゾロアスター教=鳥葬、というよりもヤズドでは、木材が入手しにくかったのと土葬に立地条件があわなかったようですね。
土葬にするには、風向きと通気性が要求されます。
エジプトのアメン神殿でも言える事ですが、理由は、沙漠地帯ゆえ、材木がないので動物の糞を乾かして燃料にしていたらしい。
アレクサンドロスは、即位式の折り、余りの臭さに神官に尋ねています、
あと、ユダヤ人という概念がを不思議に思っています。
スファラディーというのは、10世紀以降の概念ですね。
それまでは、アシュケナジ―というのも存在しない。
全てデアスポラという概念です。
ソグド人=シュメールの分派から複雑にさせていると思います。
五月さんの洞察力に期待します。
また寄せて頂きます。

02. 2012年6月27日 14:36:05 : 0OznuJyV76
>概念がを
→「概念を」
に訂正

03. 五月晴郎 2012年6月27日 14:52:35 : ulZUCBWYQe7Lk : WqOo7HGBs2
ほぉ、成る程です。
ありがとう御座います。
私もかねがねユダヤ人という概念を不思議に思っていました。
よろしくお願いします。

04. Bryan Ferry 2012年6月27日 15:12:50 : sapBCaDVqRWh2 : 9IhuDVXw0w
五月晴郎さん

恐縮してもらわなくても結構です。
五月さんの洞察力の一助となり、補足出来ればと思っています。
私は、中央アジア起源の「中東」に近年の戦争、利権、歴史捏造の根本があると思っています。
何故か、疑問点が似たところにあると感じました。
お互いに意見を交わしていけたらと思っています。
また、お邪魔しますので、こちらこそお願いします。


05. 五月晴郎 2012年7月02日 21:42:50 : ulZUCBWYQe7Lk : WqOo7HGBs2
ソグド姓

中国に来住したソグド人は、漢文書による行政上の必要から漢字名を持たされたらしく、その際には出身都市名を示す漢語が姓として採用された。
サマルカンド→康
ブハラ→安(安禄山など)
マーイムルグ→米
キッシュ→史(史思明など)
クシャーニヤ→何
カブーダン→曹
タシケント→石
パイカンド→畢

これらを一括してソグド姓と呼ぶ。また、都市名を特定できないが、羅,穆,翟もソグド姓に含まれる。 (wiki.)

* * *
ソグド人と日本との関わり (日本シルクロード文化センター)
http://blog.silkroad-j.lomo.jp/?eid=1283627

きのうは唐招提寺第4代目の住職となったソグド人・安如法さんのテレビドラマのことを書きましたが、それ以外にもソグド人が日本へ来たことが明らかになっています。

それはそうでしょう。現世人類が10数万年前にアフリカ東部から発生し、地球全土に拡がって行ったのですから、もともと日本にいた現世人類はいないわけです。主として大陸から渡来したことになります。
そのうちのソグド人が日本に来たことは、偶然とはいえ、でも、あまりにもロマンを感じると私は思っているのです。

ソグド商人は海のシルクロードでも活発な交易活動を展開し、その面からも日本にも来ていたことが証明されています。
主として加藤九祚先生の文献から分かったことです。

たとえば、法隆寺献納宝物の一部に、白檀2点と沈香1点が伝わっています。そのうちの白檀2点に刻まれた謎の刻印と焼印は、8〜9世紀のソグド商人の海と陸にわたる交易のネットワークについて手がかりを示しています。

☆白檀に記された墨書は天平宝字5年(716年)のものである。
☆刻名の文字はパフラヴィー語(中期ペルシア語)で「ボーフトーイ」(人名)とある。
☆焼印の文字はソグド文字で「ニーム・スィール」とある。
☆ペルシア人およびその来航船に関する史料としては、義浄(635〜715)『南海寄帰内法伝』に671年の広州に住むペルシアの船商人について書かれている。
☆慧超『往五天竺伝』(8世紀前半)によれば「トカラ国より西に1ケ月行くと、ペルシアに至る。この王は以前には大食(タージ)を管理していた。・・・・・
この地の人は生まれつき興易(交易)を好む、常に西海(アラビア海)に船を汎(浮)かべ、南海(インド洋)に入る。獅子国(スリランカ)が宝物を産するためであるという。さらにベトナムでは金を入手する。さらに船を漢地(中国本土)へ浮かべ、直接、広州に到着して綾絹・生糸・真綿などを入手する」。

☆アラビア語史料に現れたファールス商人は、ソグド系イラン商人の活動を、次のように記している。
スィーラーフの人アブー・ザイドとマスゥーディーの記録:黄巣の乱(875〜884年)の反乱軍が広東を陥れた時(878年)、そこに住む外国人12万人(一説では20万人)が殺戮された。さらに中国船(ジャンク)が進出。それまでは大食船・ペルシア船が中国に直接、来航していた。
☆日本の正倉院にあるペルシア風の文物は、実はペルシア人ではなくて、ソグド人が作ったか、あるいはソグド人を介して東方に伝わったものだと思われる。
☆日本の法隆寺には奈良時代に日本に入った香木がある。それにはソグド語の焼印が押されていて、ソグド人が日本に来ていたかもしれない。ソグド人の商売の手広さをはかることができる。
☆実は日本にもソグド人が奈良時代にやってきている。それは奈良にある唐招提寺の二代目住職が安如宝なのだが、この人は中国揚州のソグド人である。これは文献の記録にはっきりと書いてある。したがってソグド人と日本とはまったく無縁の話ではない。『日本書紀』にも何ヶ所か出てくる。

この項は、「ハルブーザ会」における家島彦一氏の「海の道再発見―海洋交流から見たダイナミック・アジア史―」を参照しています。
財団法人秀明文化財団による「MIHO MUSEUM 研究紀要 第四号」における、加藤九祚氏の「講演資料」中のシンポジウム「中国の中央アジア人―シルクロード東端の発見」における演者の発言から、箇条書きにして拾い、一部を補強しました。

この安如法さんが、私の調査では第4代目ということがはっきりしたものです。
それらをあわせると、西からの民族が怒涛のように中国に入ってきて、その潮流のような層の人々=安如法さんら=が鑑真和上に随いてきたのです。

もし安如宝さんがあのまま揚州にいたら、「安史の乱」で、安禄山、史思明憎さで8千人ものソグド人が殺されたので、彼も殺されていたかもしれません。
よくぞ日本へ来て唐招提寺の4代目住職になってくれたという気がしています。

タイミングも良いので、改めてわたしの調査活動で明らかになってきたうちのいくつかを抜書きでご紹介してみました。

はるかなる中央アジアのかなたから、シルクロードを通って中国各地で活動した交易の民ソグドは、金儲けのためばかりで生きていたのではないことがお分かりと思います。
しかし、その怒涛のようなソグドの流れが日本にまで及んでいたとは、まったく思いもよりませんでしたし、痛快極まりないことではないでしょうか。

ついでですが、玄奘三蔵が「ソグド人は金に汚くて云々」といっていましたが、それはあくまでも中華思想のなせるワザ。
漢民族以外は、みな金に汚く、人品卑しいものという断じ方です。
玄奘三蔵でさえも中華思想の呪縛から抜け出せなかったのですね。

* * *
「ソグド人のコイン」
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E017.htm

何刀胡迦さんの交易

上で紹介した高昌国の記録は、市場の役人が作成した称価銭(取引の際の税金)の報告書です。
  1文とはササン朝の銀貨(約4g)1枚のことです。 銀の重さが銀貨の重さに近いであろうこと、税金が商品の種類には依存しないであろうこと、などの仮定からソグド人の何刀胡迦さんの交易の様子を想像してみました。
  何さんは、3月末と4月の初めに仲間のソグド商人から、600文で金・銀を購入しました。
  これを持って東方300Km離れた伊州(ハミ)に行き、絹を仕入れました。1年のうちでも気候のいいこの季節が絶好の活動時期です。
  4月末に高昌に戻り、亀茲人の商人に1200文で売却しました。
  往復の諸経費を差し引くと、500文の収益になりました。

月日    相手       取り引き        称価銭   推定取引金額

3月24日 曹遮信(ソグド人) 金9両(336g)購入  2文   300文


4月5日  康□□(ソグド人) 銀2斤1両(1237g)購入  2文  300文

4月後半  白迦門賊(亀茲人) 絲80斤(48Kg)売却  8文  1200文

* * *
「ソグド人について語りましょう」
http://logsoku.com/thread/academy3.2ch.net/whis/1102522671/#128
http://logsoku.com/thread/academy3.2ch.net/whis/1102522671/#129
http://logsoku.com/thread/academy3.2ch.net/whis/1102522671/#130

世界@名無史さん: 2006/04/21(金) 21:26:14 0 つい最近ソグド人のことを知りました。
私は在日韓国人で、珍しい姓を持っており元々先祖は中国出身です。
(600年程前に朝鮮半島へ移住したということが族譜に書かれているそうです)
当家はこの日本で絶滅寸前(跡継ぎが生まれない−私も未婚なので)
のようなので、絶滅する前にルーツを知るのもよかろうという気持ちでぼちぼちと
史書を読んでおりました。

姓はソグド九姓のうちの一つで、それだけならあまたの同姓がいるというのに
なぜソグドか?という疑問が湧いて来るのも当然かと思われます。
実は当家の族譜には先祖が書いた謎の戒律が残されているのです。
それは、「胡の者と決して縁を結んではいけない」というものです。
随分昔に聞かされたのですが、その時は先祖が胡のいう人に恨みがあって
そう記したのだと思っていたのです。胡という姓は中国に多くありますので、
我家の先祖が中国から逃れて?来る原因が胡さんにあったのだと。

(続きです)

しかし、ソグドに関して学ぶうちに、ソグド人はおおまかに「胡人」と
分類されていたこと、上記にも記述のある古代中国でのクーデター騒ぎの
張本人のいずれかである姓であること、以上を考えると、当家はのルーツは
ソグドで、クーデター後、処刑を逃れて漢人化する過程において二度と再び
「胡人」として生きてはいけないという戒めを子孫に残したのではないかと
推察するのです。

モンゴルやイスラムから逃れて東へ東へと流れ、今は東の果ての日本で
埋もれようとするソグド人の末裔(?)の一人とすれば、このスレは大変
勉強になります。 以後、ロムに徹しますのでどうぞ宜しく進行の程お願い
致します。

失礼致しました。

* * *


06. 五月晴郎 2012年7月02日 22:16:37 : ulZUCBWYQe7Lk : WqOo7HGBs2
北魏政権とソグド人

http://www.edita.jp/kaisetsu/one/kaisetsu955.html

李抱真の本来の姓は、李ではなく安であった。李姓は、安史の乱の際、反乱者と同じ姓ではまずかろうと、一族とともに皇帝によって与えられたものであった。元々祖先は涼州の出身で、彼も黄河の西、河西の出自である。
 彼は名族として名高い、涼州安氏の一族であった。
 涼州安氏はソグド人の有力者として南北朝から唐代にかけて軍事、経済、政治の各分野で活躍した事で有名である。
 その祖は439年(太延五年)の北涼滅亡時に、北魏政権によって涼州から平城に強制移住させられた数万戸のソグド人コミュニティーの住人であったと思われる。彼らは452年頃、ソグド本国の王が北魏と交渉して奴隷身分から解放され、西方に戻る事が出来た。六世紀前半、安氏の長でブハラ出身の安難陀が、王朝より復興した涼州のソグド人コミュニティーを統治する薩宝(サルパトウ)の職を与えられた。以後、安氏は涼州で地位を固め、ソグド人の中でも頭一つ抜きんでた存在となった。ただ安氏は遠距離交易を取り仕切って財を蓄える事に熱心で、中央政界で地位を得ることには余り積極的ではなかった。王朝滅亡によって一族が離散する危機を経験したソグド人ならではの慎重さであったと言えるだろう。ただ唐王朝の成立時に、安難陀の曾孫の安興貴が唐の河西奪取に功績があり、王朝に深く関与する事も度々であった。安氏は中央アジアに伝統的な家産的組織の元にソグド人歩兵部隊を編成して、主に軍事面で唐帝国に協力した模様である。例えば安興貴の子、安元寿は16歳の時に太宗李世民に仕えて、その政権奪取(玄武門の変)の際に活躍し、また対突厥戦役では、頡利可汗の侵入戦で前線で戦い、叔父と共に李靖の漠北遠征にも従軍したらしい。しかし、その後は政界を引退して商業活動に従事していたと言われている。
 安史の乱が勃発すると、安氏もまた王朝側の有力者として再び登場する事になる。安興貴の末裔である安重璋は広大な牧地を所有する富豪であった。おそらく突厥、ウイグルとの絹馬貿易に関係していたのであろう。安祿山の蜂起によって霊州に逃れてきた肅宗・代宗に仕え、契丹族の李光弼の部将として王朝再興に尽力した。李の姓を与えられたのは彼の時代であり、史書では李抱玉と記されている。生粋の武将で大乱の時代を戦塵の中で生きた人物である。澤潞節度使、鳳翔節度使、山南西道節度使を歴任し、陳鄭潁亳節度使となった。
 彼の死後に、地位とその軍隊を継いだのが抱玉の従父弟である李抱真である。ちなみに李抱真の安姓時代の名前は伝わっていない。

* * *
「漢文墓誌からみる唐代ソグド人―李抱真を例に―(学習院大学史学会)」
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~hist-soc/taikai/2009/taikai2009-4.html

報告者は、これまで墓誌を主要な史料として、ユーラシア東方におけるソグド人の活動について研究してきた。本報告では、ソグド人の中でも、代々涼州武威のソグド人聚落を統率したソグド人の名門「武威の安氏」の出身で、安史の乱以降、粛宗・代宗期に武人として活躍した李抱真という人物に注目する。

 武威の安氏は、ソグド人の中で最も長い、北朝〜五代期までの約350 年間を追うことのできる一族である。そもそも、涼州武威は、中国と西域とを結ぶいわゆるシルクロードの拠点として発達していた場所で、彼ら一族は北魏あるいは北周期から、この涼州武威に定住し「薩宝」の役割を果たしていたとされる。この「薩宝」とは、「隊商のリーダー」を示すソグド語sartpaw の漢字音写で、北朝期には「ソグド人聚落の統治者」を指し、唐代には「.教および.教徒の管理者」を指すと考えられている。すなわち、武威の安氏は、おそくとも北周期以降、商業を主な生業とする武威のソグド人聚落を取りまとめる役割を果たしていたと推測されるのである。この武威の安氏は、隋末唐初にかけては、唐の建国の功臣となった安興貴・安修仁の兄弟を輩出し、また次の世代である安元寿は、太宗李世民の昭陵に陪葬される名誉を得るなど、名族としての地位を維持し続けた。彼らは、交易活動を行う一方で、このころになると唐王朝の武人として聚落の民を率いて従軍するようになっていたのである。

 この安元寿の次世代で、この一族の重要なターニングポイントとなるのが、本報告で扱う李抱真の世代である。李抱真は、同族の李抱玉に従って、安史の乱の平定に軍人として活躍した人物である。史書によれば、この安史の乱の際、李抱玉は乱の首謀者安禄山と同姓であることを恥じて、粛宗から国姓の「李」を賜わり、その後代宗の時には、本貫を長安への移すことも願い出て認められ、抱真を含む一族すべてが李姓に改めたという。これは、武威の安氏が、代々統括してきたシルクロード交易の拠点である涼州武威を離れ、ソグド人特有の姓である安姓も失ったのであって、史料上ではいわゆるソグド人の独自性を失い、中華民族の中へと吸収されたとみることができる。抱玉の死後、抱真はこのあとを継ぎ、唐王朝の武人として、僕固懐恩の乱・朱の乱の鎮圧に大いに活躍した。この李抱真の動向を分析することによって、シルクロードの拠点を離れた後のソグド人の活動の様相を知ることができるのである。

 この李抱真の動向は、主に新旧唐書の列伝・墓誌・徳政碑から知ることができる。本報告では、この3 史料を比較検討することによって、その性格を明らかにすると共に、李抱真の働きを検証し、唐後半期のソグド人の存在状況の一事例を明らかにするものである。

* * *
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/11209341.html

推古朝のペルシャ系の人物、鞍作りのツーリは祖父のダルダー(司馬達等)(583年登場)に連れられてアスカに暮らした技術者との説もある。それによれば
彼は本邦初の金銅の仏像を飛鳥寺に納めた。その技法、「止利様式」は北魏式のイメージがあるようだ。* 1 ただ、ダルダーが司馬と名乗っているのはなぜか、私にはわからない。  

現在のアフガニスタンやガンダーラまたはタジク、トルクメニスタン・ウズベキスタンあたりから、仏教はAD2世紀後半から以後、中国に訳経・伝道された。アーリア系の大月氏(トハラ人、後のクシャーン国人)の僧侶が大多数であった。記録にその僧侶の苗字が残っている。安〈ブハラ)康(サマルカンド)石〈タシケント?クンドゥス?)出身者の苗字はその証拠だ。すべてソグド〈ソグディアナ)の地である。ちなみにクチャ人は白・帛〈ビャクまたはハク)。安息とはAshkの写音の漢語表現だと私は推測。

北魏のペルシャ語系の人々といえばソグド人である。ソグド交易民の拠点は前述したタジク、ウズベキスタン付近での都市国家である。ザフラシャン川の上流から下って、ペンジケント・サマルカンド・ブハラといった都市国家は、多くの大国の陰で自分たちの小さな国を守っていた。ソグド人の住む地域はサーサーン朝ペルシャの支配地域でそこでは、次に大月氏、クシャン朝と支配者はめまぐるしく変わる。もともとギリシャ系バクトリアの地であったころも住民はサカ人である。

彼らの宗教はマニ教でもあっただろう。これは、【ササン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教。ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義などの流れを汲む。かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけて、ユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教だったが、現在では消滅したとされる。】*2 マニ教の基本は聖書〈その当時はユダヤ人のトラとイエスの教えの一部が東洋に伝わり、日本にも伝わっていた???**だが状況による推測
教祖はユダヤ人の両親から生まれた。創始者は原始キリスト教などにも関係あったのか?イエスの信者か?。
サーサーン朝がアラブ人イスラムに滅ぼされた7世紀当時、中国側のクチャやトルファンではトハラ人=ソグド人勢力が移動してきており、他の民族同様、マニ教と仏教は保護されていた。加えて、「ソグド人はパンテオン〈万神=八百万)に対する忠誠心があった。」* 3

北魏の時代(ほくぎ 386年 - 534年)にソグド人は中国にやってきていたのだが、ソグド人以外にも扶桑館を通じ、ガンダーラからカシミールの僧もAD400年中頃にはヤマト以外の地に来ているそうだ。2006/10/18(水)の記事参照
ソグド人の子孫は、官僚・軍人・音楽家・画家・医師・宗教家として隋・唐時代にも中国で活躍した。* 1b
戻って、ダルダー親子に代表される司馬一族(ダルダー・タシュナーグ・ツーリ:井本栄一氏訳)は北魏の滅亡と同時期に飛鳥に現れる。彼らは藤ノ木古墳の王冠を作ることができた同じ技術を持っていた。とうい状況から、ソグド人だと思う。
また、法隆寺の香木に焼き記された文字が1986年東野治之氏の調査がきっかけとなり、神戸市立外国語大学教授の吉田豊氏によってソグド語と特定された。法隆寺は607年建立まさにツゥーリのいた時代であった。前述の香木がいつのものかは特定していないがさほど時代は違わないだろう。
ソグド人が万神〈八百万神〉に対する忠誠があった民である。
日本がイデオロギー書であるといわれる記紀を編纂したのもこのころだ 最近、巷間に流れる謎として以下の4つ(もっとあるのだが)は
@ 神道(大化の改新の詔にある)が旧約聖書の教義と似ている
A 聖徳太子の出生がマリアか羅生まれたら生まれたキリストのそれと酷似している
B 平仮名・片仮名がアラム語と似ている。
C 日本語の基本動詞のなかにヘブライ語とにたものが多い??
マニ教を信じていたソグド人である人々が飛鳥・大和の地に多く住んでいたからではないだろうか。
その後、百済(660)−−高麗(668年)が唐に滅ぼされ、百済ー倭連合の列島に「大唐が、郭 務悰ら2000人余人を遺してきた」*4(669年)要するに唐が日本に進駐してきた。?同じ内容の記述が671年の部分に記されている。内訳は百済人1400人とうじん600人であった。
百済の滅亡により、700年ころには平城京・ならの都・日本には10万ともいわれている膨大な数の〈当時)百済人と進駐軍または客人か?唐人がいた。
百済貴族たちを朝廷に採用した。唐人と百済からの上流の人々は記紀を編纂した役職の人も多かったのだろう。このころにはソグド人などのペルシャ系言語を理解する人々は???

*1  岩波講座世界歴史 古代6  p104
*2 マニ教 発行者: 『Wikipedia』 ページの版番号: 9914072
*3 世界美術全集  中央アジア 小学館 p214
*1b 岩波講座世界歴史 古代6  P424~5
*4 原本現代訳 日本書紀(下〉141、147 山田宗睦 1992 ニュートンプレス

* * *
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4446/kiba.htm

鮮卑[せんぴ]


 北匈奴についでモンゴル高原に覇を唱えたのは鮮卑と呼ばれる騎馬民族で、烏桓とともに東胡の末裔といわれ、匈奴の盛時にはその支配下にありました。しかし、匈奴の勢力が衰えると、北匈奴の余衆を吸収し、しだいに勢力は大きくなりましたが個々の部隊はバラバラでした。ところが、2世紀中頃、壇石槐(だんせきかい)という英傑があらわれました。彼は幼少の頃より勇敢で強く、知恵や策略も備わっており、またその支持や決裁が公正であったため人々は彼を大人(だいじん)に推戴しました。壇石槐は実力で遊牧民の長になりましたが、これ以後大人は世襲制になっていきます。
 壇石槐は鮮卑諸部族を統合すると、南方では後漢の北辺を掠奪し、北方では丁零を防ぎ、東方では夫余を退け、西方では烏孫を撃ち、かつての匈奴を想わせるほどの勢力を誇りました。
 しかし、壇石槐の作り上げた支配構造はあまり強固なものではなく、壇石槐が死去するとその子孫達は内紛を繰り返し衰退していきました。
 2世紀末から3世紀始めには壇石槐とは別な系統の鮮卑の軻比能(かひのう)という者が頭角をあらわして大人に推されましたがその勢力は中部・西部に限られ、東部は壇石槐の系統が勢力を保っていました。この時期、中国国内ではまだ混乱が続いており、政治的・経済的に苦しくなった中国人は、比較的安定した軻比能支配下の鮮卑のもとに流入しました。壇石槐の治世同様、軻比能の支配下でも、中国人が様々な分野で大きな役割を果たしてきました。しかし235年、軻比能は魏の放った刺客に暗殺されてからはしだいに衰えていきました。

五胡十六国時代


 中国の晋の時代に起こった八王の乱を契機に匈奴系や鮮卑系などの諸族が中国北部から中部まで侵入し、独自の王朝を次々に創始しました。五胡十六国時代の始まりです。晋はいったん滅びましたが、長江下流域に東晋として王朝を再興しました。約100年の激動の時代に終止符を打ったのは、鮮卑系の建てた北魏でした。

柔然[じゅうぜん]


 鮮卑の軻比能の政権が崩壊したあと、モンゴル高原で優勢となったのは柔然でした。東胡の子孫とか匈奴の別種という説もあります。4世紀頃より力をつけ、北魏と対立するようになったため、北魏は柔然を討ち柔然の族長社崙はモンゴル高原北部に逃れました。社崙はモンゴル高原の高車を併合しトーラ川流域に本拠を定め、さらに西北方にいた匈奴の残存勢力をオルホン川付近で打ち破り、その威勢は遠く天山山脈東部までおよびました。ここにいたって社崙は丘豆伐可汗と号しました。
 社崙の死後、しばらく後継者争いが続きましたが社崙のいとこにあたる大檀が即位して柔然の最盛期をつくりました。その勢いは北魏の世祖太武帝を包囲して苦境にたたせるほどでした。その後は北魏の反撃を受け、服属していた高車諸部が北魏に投降するなど、勢力は弱まりましたが、南朝の宋・斉・梁などと交渉し北魏をけん制しました。
 社崙から数えて7代目の可汗とかった豆崙(とうろん)は人望がなく、国内が乱れて諸部が離反しました。また、この頃より北方の丁零が活発になり一時は南方へおいやられていましたがついには丁零を破り旧領土を回復しました。
 高車は豆崙の即位後、西方へ移動し、天山北方で自立しました。高車の首長・阿伏至羅(あふくしら)はソグド人商人を使者として北魏に派遣して柔然と対立姿勢を示しました。ソグド人の重用はその後のテュルク系遊牧国家に引き継がれていくこととなります。その後高車は中央アジアで大勢力となっていたエフタルと東方の柔然から攻撃を受け541年に滅亡しました。

突厥[とっけつ]


 542年に高車が滅んだあとも、テュルク系遊牧民の勢いはさらに活発になりユーラシア大陸に広がっていきました。この頃に阿史那(あしな)氏が中心となって建てた突厥という騎馬民族が登場しました。
 544年頃、阿史那氏は西魏(この頃の中国北部は東魏と西魏に分かれていました)の宇文泰(のちの北周の太祖)に絹馬交易の国交を開きたいと申し出て、宇文泰はこれに応えてソグド人使者を突厥に派遣しました。こののちソグド人は突厥と深くかかわっていくことになります。突厥の人々は「大国の使者が来たからにはわが国も盛んになるだろう」と喜びました。首長の土門は西魏に朝貢使節団を派遣し西魏との通交が始まりました。土門は柔然に属している一部族長でしかありませんでしたが、直接西魏と交渉し西魏にその勢力を認めさせたほどに成長していました。
 土門は柔然にたいして反乱を起した部族を打ち破り降伏させ、その勢いに乗じて柔然の可汗にその娘との結婚を求めましたが「おまえはもともとわれらの鍛冶奴隷ではないか」とののしって拒否されました。土門は反発して柔然から独立し、551年、西魏から公主を迎え、翌年柔然を攻めて可汗を自殺させ、自らは伊利可汗と号しました。
 3代目の木杵(もくかん)可汗のときに突厥は領域を大きく広げました。南方では柔然の残党を滅ぼし、東方の契丹、北方の契骨(キルギス)を征服しました。西方ではトゥルファンなどのタリム盆地のオアシス諸都市を支配下にし、さらにササン朝ペルシアと共同してエフタルを挟撃して滅ぼし、版図をカスピ海北岸あたりまで広げました。木杵は大可汗としてモンゴル高原に本拠をおき、名目上その下になる数名の可汗とともに征服活動に従事しました。
 エフタルを攻撃したのは、土門の弟で木杵の叔父にあたる西面可汗の室点蜜(しつてんみつ)でした。室点蜜はソグド人の要請を受けてササン朝に絹を売ろうとしましたが、ササン朝は絹の中継貿易による利益が減少することを恐れて申し出を断りました。しかし、カスピ海北岸を周り、黒海経由でビザンツの宮廷にソグド人使節を派遣し、中国から入手した絹を直接ビザンツに売り込むことに成功しました。これ以後両者の間で幾度か使節の交換が行われました。シルクロードの草原ルートが外交・交易に使われた例のひとつと言えるでしょう。室点蜜は天山山に本拠をおいていました。そして叔父室点蜜は西へ、甥の木杵可汗は東へと、突厥はしだいに分離していきました。
 木杵可汗が死去すると、弟の陀鉢(たはつ)可汗が即位しました。中国北部では北周と北斉が対立し、陀鉢可汗は両国の対立関係を利用してどちらからも絹製品の貢物をえていました。しかし北周を継いだ隋が中国を統一していく過程で立場は逆転します。陀鉢可汗死後、突厥は大可汗と小可汗の対立が続き、隋の離間工作もあってその後の可汗は隋の年末まで隋に臣属します。
 突厥の西部では室点蜜の子・達頭(たつとう)可汗が小可汗でありながら大勢力を保ち、しばしば大可汗の後継者争いに介入しました。
 隋の煬帝(ようだい)の失政などにより隋の国力が衰えると、始畢(しひつ)可汗は隋に反旗を翻し、隋末・唐初の中国の混乱期には中国北部に割拠した群雄(のちに唐を建国する李淵もそのひとり)を逆に臣属させるほどでした。しかし突厥の優位は長くは続かず630年に唐に降伏し東突厥は滅亡しました。
 
その後、唐はテュルク系諸部の薛延陀(せつえんだ)の族長・夷男(いなん)に唐の権威のもとでモンゴル高原を支配することを認めました。しかし唐はその勢力の拡大を恐れて内輪もめを起させ、646年には大軍を派遣して薛延陀を滅ぼしてしまいました。この結果、北方諸族は唐の支配下となり、族長たちは唐の太宗に大可汗の称号をたてまつりました。唐の支配を甘んじて受けていたテュルク系諸俗ですが、682年に阿史那一門の骨咄禄(こつとつろく)が独立し、彼のまわりに突厥の残党が集まりだし大勢力となっていきました。その中には阿史徳元珍(あしとくげんちん)という人物もいました。彼は将軍として、また政治顧問としてこのあと3代に仕え、重用な役割をはたすことになります。骨咄禄が死去すると、弟の黙啜(もくてつ)が継ぎ、カプガン可汗と号しました。カプガンはしきりに中国北辺に侵入し、則天武后にたいして法外な要求もつきつけたりしました。しかし、その治世の後半は周辺諸部との戦いに忙殺されました。カプガンはテュルク系諸部の反乱の鎮圧の帰還途中に敗残兵によって殺されました。その後、後継者争いが続きましたがビルゲ可汗が即位し、その弟のキョル・テギンが軍事蜷を握り、譜代の重臣阿史徳元珍が補佐役となりました。ビルゲ可汗は唐には侵略せず、交易重視策をとりました。しかし、この3人が相次いで死去すると突厥は転落の坂を転がり始めます。周辺のテュルク系諸部・ウイグル、カルルク、パスミルなどが突厥を攻め、ついに744年、突厥最後の可汗が殺され、突厥は名実ともに滅亡しました。

ウイグル


 テュルク諸部のなかには、9つの部族がまとまって連合体をなしているものがありました。そのうちのひとつにウイグルと呼ばれる部族があり、突厥を倒して最終的にモンゴルの覇権を握ったのはこの連合体ですが、そこから可汗をだしたのはウイグル部族でしたので、これよりウイグル国と呼ばれることが多くなりました。ウイグル初代可汗はキョル・ビルゲで、唐からは壊仁可汗という称号を与えられ、その跡を継いだ子のモユン・チョルは葛勒(かつろく)可汗となりました。葛勒可汗はセレンゲ川河畔にバイ・バリクと呼ばれる宮殿を建設し、そこに中国人やソグド人を住まわせました。この頃唐は安史の乱で悩まされていましたが、葛勒可汗は757年に自分ののむ息子(のちの牟羽可汗)を長とする援軍を送り、長安と洛陽の奪還に多大な貢献をしました。しかしこのことは唐に新たな悩みを生み出すことになりました。ウイグルは長安や洛陽で掠奪を働いたり、以後、支払いにあてる絹の調達に苦しむほど大量に絹馬交易を行うことを唐に認めさせたりしたからです。3代目の牟羽可汗は762年に反乱側の史朝義に誘われ唐に来ましたが、結局反乱鎮圧に手を貸しました。このとき引き上げるときに4人のマニ教徒を連れて帰り、これ以来、ウイグルの上層部ではマニ教が広まりました。牟羽可汗はソグド人を重用し、その進めで大規模な唐への進入を企てましたが、従兄弟の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)は思いとどまるよう諌めましたが聞き入られなかったのでついにクーデターを起して可汗とその側近、さらに可汗を誘ったソグド人など2000人を殺し第4代可汗となりました。
 840年、ウイグル国内で内紛が起こり、そのうち一派に誘われて北方のキルギスが大軍を送って12代目の可汗を殺し、ここにウイグル国家は滅亡しました。


07. 五月晴郎 2012年7月02日 23:51:07 : ulZUCBWYQe7Lk : WqOo7HGBs2
『金剛力士像・仁王像』 西洋彫刻との類似点・相似性
http://bigakukenkyujo.blog.fc2.com/blog-entry-56.html

『金剛力士像・仁王像の変遷』 執金剛神からヘラクレスまで
http://bigakukenkyujo.blog.fc2.com/blog-entry-57.html


08. 五月晴郎 2012年7月03日 13:05:35 : ulZUCBWYQe7Lk : WqOo7HGBs2
「栗特(ソグド)の軌跡」(西域浪漫飛行)
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-silkroad/archives/51773013.html

「栗特(ソグド)の軌跡A:民族の光と陰」(西域浪漫飛行)
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-silkroad/archives/51782184.html

「栗特(ソグド)の軌跡B:渡来」(西域浪漫飛行)
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-silkroad/archives/51790107.html

「トルクメニスタン史跡案内:マルグッシュ」(西域浪漫飛行)
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-silkroad/archives/51706568.html

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「世界史講座」http://homepage3.nifty.com/ryuota/whistory03.html

前18〜16世紀ごろ、おそらく世界史上でもっとも重要な民族移動がおこりました。それが、インド・ヨーロッパ語族の移動です。彼らは、もともとは中央アジアから南ロシアのあたりにいた遊牧・牧畜民ですが、それが大移動を開始し、ユーラシア大陸全域に大きな変動をひきおこしたのです。たとえば、南東にむかったアーリア人とよばれる一派はインド北部を征服し、定住しました。南にむかった一派はペルシア人やソグド人となり、イラン高原に定着しました。また、西方に移動した人々はケルト系・ラテン系・ゲルマン系・スラブ系などのヨーロッパ人となりました。

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「オリエント史の展開」(世界史講義録)
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-6.html

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インド=ヨーロッパ語族の登場
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 メソポタミア地方、エジプト、さらにイラン高原や小アジアを含めた地域をオリエント地方といいます。これは「東方」という意味です。ヨーロッパから見た表現です。
 この古代オリエント史の展開を追っておきましょう。

 メソポタミア地方ではシュメール人の都市国家、アッカド王国、古バビロニア王国までやりましたね。この地域はシュメール人を除いてセム語系民族の世界だったのですが、前2000年頃から、新しい民族が登場します。これがインド=ヨーロッパ語族です。
 語族というのはおおざっぱな区別の仕方ですから注意してください。言葉の系統が同じと言うだけです。現在の民族とは全然違いますよ。

 前2000年から前1000年にかけての1000年間はインド=ヨーロッパ語族の大移動の時代です。かれらがもともとどこにいて、いつ頃どのように形成されたのかはっきりしませんが、漠然と黒海、カスピ海の北方から移動してきたと考えておけばよいと思います。たぶん気候の変動が原因で移動を開始します。

 ある集団はイラン高原に南下したあと東に向かい、インダス川を越えてインドに侵入しました。これがアーリア人で、もとからインドにいた諸民族とともに現在のインド文明を築きます。
 イラン高原に入った集団はペルシア人になります。
 西方に移動したグループもいて、ギリシアに南下した集団がギリシア人、イタリア半島に入った集団がラテン人になる。
 黒海北岸から、ドイツにかけて住みついたグループがゲルマン人となる。

 当然、最も豊かだったメソポタミア地方に移住した集団もいました。かれらが最初にこの地域でつくった国家が三つ。
 ヒッタイト、ミタンニ、カッシートです。

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ヒッタイト
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 ヒッタイトは前1600年頃、古バビロニア王国を滅ぼし、小アジアに建国します。
 この国は史上はじめて鉄器を使用します。必ず覚えること。
 まわりの国はまだ青銅器ですから、鉄の武器を持ったヒッタイトは強国に成長します。
 製鉄技術はヒッタイトの国家機密として門外不出。ヒッタイトが滅んではじめて製鉄技術は各地に広まります。
 それから戦車です。ヒッタイトの戦車には画期的な工夫がしてあります。教科書のレリーフの写真を見てください。ヒッタイトの戦車がありますね、どこがすごいかわかりますか。

 車輪に注目。スポークを使っているでしょ。以前の車輪は丸く切った板を張り合わせてつくっていました。すごく重いのです。ところがスポークの採用によって車輪が軽量化でき、戦車のスピードが速くなった。スポークの使用はヒッタイトが最も初期です。
 ヒッタイトは、エジプト新王国とシリア地方の領有権をめぐってライバル関係にありました。

 古バビロニア滅亡後、メソポタミアの北部に建国したのがミタンニ。エジプトのイクナートンの妃ネフェルティティは、ミタンニからエジプトに嫁いだといわれています。

 メソポタミアの中南部に建国したのがカッシート。かれらはそれまで縦書きだったくさび形文字を横書きにした。

 やがて、ミタンニに服属していたアッシリアという小国が、ミタンニの弱体化に乗じて発展し、前8世紀から前7世紀にかけてオリエントを統一する帝国を建設するのですが、その話の前に、オリエント地方で独自の活動をした民族を三つ紹介します。これらの民族は前13世紀頃から活動が活発化します。

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アラム人
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 まず、アラム人。かれらは内陸貿易で活躍する商業民族です。中心都市がシリアのダマスクス。彼らが中継貿易で活躍できたのにはちゃんと理由がある。アラム人は、はじめてらくだを運搬に利用したのです。
 やがてアラム語は商業用語として広まり、この地方の共通語になっていきます。のちにギリシア語が共通語になるまではね。イエスの時代もアラム語が共通語。かれもアラム語を話していた。
 アラム人の文字、アラム文字も内陸部に伝えられていきます。インドや中央アジアで使われた文字のもとはみなアラム文字。有名なものでは、ソグド文字、ウイグル文字、突厥文字があります。

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地中海東岸の諸民族
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 フェニキア人

 地中海貿易で活躍したのがフェニキア人です。中心都市はシドン、ティルス。
 アフリカ北岸にはかれらの植民都市カルタゴがあります。カルタゴはあとで、ローマと死闘を繰り返すことになりますので、頭の片隅に残しておいてください。
 フェニキア人が海上で活躍できたのにも理由がある。かれらの住んでいたのは現在のレバノン。当時はまだレバノン杉が豊富だったんだね。それで、舟を建造したのです。さらに、レバノン杉が重要な交易品となったのです。
 かれらの文字、フェニキア文字は、ギリシアからヨーロッパに伝えられアルファベットとなります。商人たちが帳簿を付けるためにつくられた文字だったので書きやすく読みやすい。一般の民衆に開かれた文字ですね。エジプトの神聖文字などは、神官、書記など支配者だけに独占された文字です。だから、伝えるものが途絶えると読めなくなってしまったです。そこがフェニキア文字との違いです。

 ヘブライ人

 最期がヘブライ人。かれらはその宗教であとの時代にものすごく大きな影響を与えることになります。かれらはユダヤ教という宗教を生みました。そして、このユダヤ教からキリスト教、イスラム教が生まれるのです。

 どんなふうにユダヤ教がつくられてきたかを見ておきましょう。
 ヘブライ人は部族集団に分かれてオリエント地域のあちこちで遊牧を中心に暮らしていた。
 前1500年頃は一部がパレスチナ地方に定住を開始し、また別の集団はエジプトに移動しました。
 ところが、エジプトの暮らしはよくなかった。ファラオからいろいろな圧迫をうける。聖書にはエジプトを「奴隷の家」なんて書いてある。
 そこで、かれらは今度はエジプトから逃げ出そうとします。これが有名な旧約聖書の「出エジプト」の物語になります。
 前13世紀頃のことです。脱出するヘブライ人たちのリーダーになったのがモーセです。モーゼでもいいですが、最近の本はほとんどモーセと書いてますね。この資料集も3年前はモーゼだったんですよ。

 聖書ではモーセは神に導かれ、いろいろな奇跡を起こしてヘブライ人をエジプトから脱出させるのですが、そのクライマックスが海の道を渡るシーン。『十戒』という昔のアメリカ映画でも描かれていたので日本人にもなじみ深い。ビデオにもなっているので興味ある人は見てください。
 逃げるヘブライ人の集団を追ってファラオの軍勢が迫って来るんですが、モーセたちの前には紅海が横たわっていて、逃げ場がない。「こんなことなら奴隷でもいいからエジプトにいるべきだった」、とか泣きごとを言うやつもでてくる。
 そこでモーセがみんなに向かって「主の救いを信じなさい」といって、持っている杖を海に差し出す。すると、ものすごい暴風が吹いて海が二つに割れ、海の底に道ができるんです。ヘブライ人たちはその道を通って逃げることができた。あとから追いかけてきたエジプト軍が海の道に入ると、とたんに海水がどっと崩れてきてエジプト兵たちは溺れ死んでしまうんです。
 とても現実にあったこととは思えませんが、苦難の末にヘブライ人たちがエジプトから逃げてきたことを象徴している物語なのでしょう。

 エジプトから逃れたモーセたちはシナイ半島に入ります。ここで、モーセは神の声に導かれてシナイ山に登ります。シナイ山はシナイ半島の南方にある標高2800メートルくらいの禿げ山です。
 山に登ったモーセに神が語りかけるのですが、ここがユダヤ教成立の第1段階です。
 そして、こんなことを言う。「神様は私しかいないんだ」「ほかの神様を信じてはダメだ」とね。これが一神教です。

 旧約聖書の文で確認しておきましょう。
「私はおまえの神ヤハウェ、エジプトの地、奴隷の家からおまえを導き出した者である。おまえには私以外に他の神があってはならぬ。……」
 こんなふうに、神の命令が十個続きます。宗教ですから命令ではなくて戒律なので、「十戒」と呼ばれます。モーセが神と結んだ契約です。
 神はこの十戒を自らの指で2枚の石版に刻んでモーセに授け、モーセは山から下りて、ヘブライ人たちに教えを伝える。
 その後、モーセとかれに率いられたヘブライ人の集団は放浪生活を続けるのですが、長い年月ののちに、パレスチナ地方に定住したようです。
 これは、16世紀のイタリアの芸術家、ミケランジェロのモーセ像です。まったくの想像でつくった彫刻ですが、ヨーロッパ人がモーセに対してどんなイメージを持っているか、という参考にはなるね。実に神々しい姿です。右脇に抱えている板があるでしょ、これが十戒を刻んだ石版というわけだね。

 さて、このモーセにまつわる話、あんまり非現実的なんで、ホンマかいな?と思うでしょ。
 こんなふうに考えてください。ヘブライ人たちがこの物語を信じていたことは事実だと。そして信じることによってかれらは歴史に独特の足跡を残すのです。

 現実の展開としては、ヤハウェ神への信仰と十戒を持つようになったヘブライ人たちは、前10世紀に自分たちの国を建設します。ヘブライ王国です。場所は現在のイスラエルと同じところです。首都はイェルサレム。ここは、のちにイエスの活躍の舞台になりますし、イスラム教をつくったムハンマドが天に昇った場所とされていて、現在でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地です。
 ヘブライ王国は、ダヴィデ王、ソロモン王の時代に中継貿易で大いに栄えますが、そののち南北に分裂。北部に成立したのがイスラエル王国(前932〜前722)。南部にできたのがユダ王国(前932〜前586)。
 イスラエル王国はアッシリアにより征服され滅亡。
 ユダ王国はアッシリア時代は持ちこたえますが、アッシリア滅亡後にメソポタミアにできた新バビロニア王国に征服されました。

 新バビロニアは征服したユダ王国の民、約5万人をバビロンの町に強制移住させた。この事件を「バビロン捕囚」といいます。このときの新バビロニアの王がネブカドネザル2世。
 この強制移住という政策は被支配民族の抵抗をつぶすために当時は頻繁にやられていたのですが、ヘブライ人はこれを非常に深刻に受け止めます。
 これが、ユダヤ教成立の第2段階です。
 「何故、われわれヘブライ人はこんな目にあうのか」とかれらは考えた。ヤハウェ神を信仰していても御利益がなく、民族としてひどい目にあうのならそんな神様捨ててしまおう、という選択もあると思うのですが、かれらは逆の発想をする。
 「われわれはモーセ以来の戒律をちゃんと守って、ヤハウェ神のみに信仰をささげただろうか」と、深く反省してしまうのです。深く反省すれば、そりゃあキッチリと戒律守っていない人はいくらでもいるわけでね。まじめにヤハウェ神を信仰しなかったから、神はわれわれにこんな試練を与えたのだ、というふうに考えたようです。
 だから、苦難の中でヤハウェ神に対する信仰がいっそう強まり、民族としての団結心が強まった。

 50年ほどバビロンに移住させられたあと、新バビロニアが滅んで、かれらは故郷の地に帰ることが許されます。帰った人々は喜び勇んでヤハウェ神の神殿を建設し、いっそう熱心に戒律を守り宗教指導者のもとで生活をするようになります。
 これをもって、ユダヤ教が成立したと考えます。

 やがて、ヘブライ人のことをユダヤ教を信じる人々として、ユダヤ人と呼ぶようになっていきます。かれらはユダヤ教を自民族のアイデンティティとして守りつづけます。シュメール人もアッシリア人も、アラム人も、フェニキア人も現在は存在しませんがユダヤ人は現在でも世界中で活躍しています。
 中国人や、インド人のように歴史に登場して以来同じ場所で活動して、現在まで続いている集団は別にして、これは、すごいことですよ。ユダヤ人はのちのローマ帝国時代に国を失うんですからね。国がなくなってもユダヤ教を信じるということでユダヤ民族は存在しつづけたのです。

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ユダヤ教の特徴
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 最後に、ユダヤ教の特徴をまとめておきましょう。
 最大の特徴が一神教であること。
 一つの神しか信じてはならないという宗教をつくったのはこのヘブライ人だけです。
 それ以外の民族はいろいろな神を同時に存在させていて、時に応じて拝み分けている。われわれはそうだね。正月には神社に行き、葬式はお寺の坊さん呼んでお経をあげてもらい、結婚式はキリスト教会で。日本人が特別みたいにいう人がいるけどそうではないと思う。ギリシア神話の神々やインドの神々を考えてもらえば、多くの神が共存しているのが一般的なあり方だと理解できると思います。キリスト教が浸透するまでのヨーロッパ人もいろいろな神々を持っていたのです。自然現象の中に多くの神々を感じる感性をわれわれは持っているようです。この感覚は多くの民族に共通です。
 ヘブライ人だけが特別だった、と考えた方が自然です。
 キリスト教、イスラム教も一神教ですが、二つともユダヤ教から生まれたものですから、突きつめれば一神教を生んだのはヘブライ人だけなのです。

 一神教という特徴と関連して、「偶像崇拝の禁止」というのが2番目の特徴。
 われわれには理解しにくいです。偶像は何かというと、たとえば奈良の大仏さん、あれは偶像。信仰の対象を彫刻に刻んだり、絵に描いたりしたものはみな偶像です。われわれは日常的にやっているね。これをやってはいけないというんです。
 何故ダメかというと、神様、具体的にはヤハウェですが、これを彫刻にして拝むとします。
 拝んでる人は何を拝むのですか。彫刻でしょ。彫刻は神ですか、ヤハウェですか?ということになる。彫刻は彫刻であって、ヤハウェではない。
 拝むべき神は唯一ヤハウェしかいないのに、彫刻を拝むということはヤハウェではないものを神として拝むことになる。ここで、すでに一神教からはずれてしまうんです。
 だから、十戒の二つめの戒律で「おまえは偶像を刻んではならぬ」となるわけ。
 この偶像崇拝の禁止はユダヤ教から生まれたキリスト教、イスラム教にも受け継がれます。
 キリスト教の神も、イスラム教の神もユダヤ教と同じ神、ヤハウェなんですが、みなさん、キリスト教の神様の絵とか彫刻を見たことありますか。ないでしょ。イエスやマリアの絵はありますよ。でもヤハウェの図像は見たことないはずですね。禁止されているんです。

 三つ目の特徴として、ユダヤ教には選民思想という考えがありました。
バビロン捕囚の中でヘブライ人たちは自分たちが惨めな生活を強いられている理由を考えます。そして自分たちの運命を合理化するわけね。こんな合理化です。
 「神は自分たちを選んでいるからわざわざ試練を与えてくれているんだ」と。
 なにしろ、ヘブライ人は神からその名を教えてもらってるんですから、特別なわけですよ。
他の民族は神から選ばれていないから試練すら与えられていない、はじめから神に見捨てられているんだ。こう考えた。
 「だから、最後の審判の日にはヘブライ人のみが救われるのだ」ここまで、行き着く。
 こんなふうに考えるヘブライ人、もうユダヤ人といってもいいかな、は他の民族からはどう思われたでしょうね。
 だから、ユダヤ教はユダヤ人という範囲をこえて他民族に広がることはあまりありませんでした。全然他民族に信仰されなかったわけではないのですが。
 のちに登場するイエスはユダヤ人で、ユダヤ教の改革者として布教活動をするんですが、イエスはこのユダヤ教の排他性を取っ払った人なのだと思います。

 四つ目の特徴。バビロン捕囚のつらい経験の中から、ヘブライ人はいつか救世主が現れて自分たちを救い出してくれる、という願望を持つようになります。
 救世主待望思想といいます。
 これが、何故大事かというと、またまたイエスなんですが、イエスが登場したときにかれを救世主と考える人々がのちにキリスト教をつくっていくんですね。救世主をギリシア語でキリストというんです。
 イエスを救世主とは考えない人も当然たくさんいて、この人々はずっと現在に至るまでユダヤ教です。

 ユダヤ教の経典が旧約聖書です。
 ただ、旧約聖書という言い方はキリスト教の立場からの言い方です。
 旧約というのはふるい契約・約束という意味です。
 契約というのは、神と人間とのね。アダムとイヴからはじまって旧約聖書は神と人の約束をめぐる物語といってよいでしょう。
 ふるいというのは、キリスト教の立場から、イエスと神の契約を新しい契約「新約」と考えるところからつけられたものです。
 旧約聖書はイスラム教でも尊重される聖典です。イスラム教は旧約聖書は認めますが、イエスを救世主とはせず、並の預言者として考えます。

 ちなみに私は高校時代まで旧約、新約を旧訳、新訳と勘違いしていました。文語調の古い翻訳と、口語の新しい翻訳なのかなってね。馬鹿だね。
 だから、テストで旧訳聖書と書かないように。旧約聖書です。
(2002/3/2校正)

* * *


09. 五月晴郎 2012年7月16日 19:29:51 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://blog.ohtan.net/archives/52140401.html

太田述正コラム#5384(2012.3.27)
<黙示録の秘密(その1)>(2012.7.12公開)

1 始めに

 私は、やや誇張して言えば、終末論(eschatology)/千年王国(millennium)思想は、欧州文明特産と言っても過言ではないところの、世界に害悪を撒き散らした凶悪思想である、ということを、累次申し上げてきていますが、その原点たる黙示録そのものを、これまで取り上げたことがありませんでした。
 このたび、エレイン・パゲルス(Elaine Pagels)が 'Revelations: Visions, Prophecy, and Politics in the Book of Revelation' を上梓したので、書評等をもとに、この本の概要をご紹介するとともに、私のコメントを付すことにしました。

A:http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/elaine-pagelss-revelations-tracing-reinterpretations-of-the-apocalypse/2012/02/27/gIQA8pnhvR_print.html
(3月10日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.newyorker.com/arts/critics/books/2012/03/05/120305crbo_books_gopnik?currentPage=all
(3月22日アクセス(以下同じ))
C:http://www.nytimes.com/2012/03/21/books/revelations-by-elaine-pagels.html
D:https://www.kirkusreviews.com/book-reviews/elaine-pagels/revelations-visions-prophecy/#review
E:http://www.thejewishweek.com/blogs/well_versed/revelation_elaine_pagels_and_jewish_cult_behind_book_revelations
F:http://online.wsj.com/article/SB10001424052970203753704577253611876502848.html (本の抜粋)

 なお、パゲルスは、カリフォルニア州のパロアルト生まれで、スタンフォード大の学士、修士、ハーヴァード大の博士で現在プリンストン大学の宗教学教授であり、著書 'The Gnostic Gospels' (1979) で三つの賞を受賞している女性です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elaine_Pagels

2 黙示録

 (1)序

 「・・・黙示録(The Book of Revelation)<(注1)>・・・は、新約聖書の最後の書であり、歴史的ないし道徳的規範的(morally prescriptive)ではなくて啓示的(=黙示的=apocalyptic)である、唯一の書だ。・・・」(C)

 (注1)「タイトルの「黙示」とはギリシャ語の「アポカリュプス(古典ギリシア語: 'Aπōκάλυψις)」の訳であり、原義は「覆いを取る」ことから転じて「隠されていたものが明らかにされる」という意味であり、英語では「revelation」<だ>。黙示録という名前<が日本で>定着しているが、本来、「黙示」は法律用語では「もくじ」と読んで、「明示」の反対語である ことからも明らかな通り、 訳語としては「啓示」が相応しい。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2

 「黙示録は、聖書の最も変わっている書であるとともに、最も議論の多い書でもある。
 それは、物語や道徳的教えではなく、光景(vision)ないし夢、そして悪夢であるところの、四人の騎士(Four Horsemen)<(注2)>、啓示、地震、疫病、そして戦争、だけを提供している。

 (注2)「小羊(キリスト)が解く七つの封印の内、始めの四つの封印が<順次>解かれた時に<順次一人ずつ>現れるという。四騎士はそれぞれが、・・・[征服]、そして[戦争]と飢饉と[死とを象徴している。]・・・第一の封印が解かれた時に現れる騎士<は>白い馬に乗っており、手には弓を、また頭に冠を被っている。[彼は、征服する]役目を担っているとされる。・・・第二の封印が解かれた時に現れる騎士<は、>赤い馬に乗っており、手に大きな剣を握っている。<彼は、>地上の人間に戦争を起こさせる役目を担っているとされる。・・・第三の封印が解かれた時に現れる騎士<は、>黒い馬に乗っており、手には食料を制限するための天秤を持っている。<彼は、>地上に飢饉をもたらす役目を担っているとされる。・・・第四の封印が解かれた時に現れる騎士<は、>青白い<[green/greenish-yellow]>馬(蒼ざめた<[pale/pallid]>馬)に乗った「死」で、側に黄泉([Hades])を連れている。・・・<彼は、>地上の人間を死に至らしめる役目を担っているとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%E3%81%AE%E5%9B%9B%E9%A8%8E%E5%A3%AB
http://en.wikipedia.org/wiki/Four_Horsemen_of_the_Apocalypse ([]内)

 クライマックスの戦闘シーンで、イエスが聖なる戦士として立ち現れ、悪魔は立穴に投げ入れられ、神を信仰して死んだ人間全員が地球を千年にわたって支配する。・・・」(F)
 「・・・黙示録は、恐らく、1世紀末に、現在のトルコの沿岸のすぐ沖のパトモス(Patmos)という小島のヨハネ(John)<(注3)>という名前の難民たる神秘主義者(mystic)によって書かれた。

 (注3)「伝統的な理解では『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙一・二』、『ヨハネの黙示録』の著者をすべて使徒<(apostle)>ヨハネであると考えてきた。・・・『黙示録』の著者は、自らを「しもべヨハネ」と称し、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と記しているが、これは伝承による使徒ヨハネの晩年の境遇と一致する。また、新約聖書において「小羊」という言葉をキリストの象徴として用いているのは、『ヨハネの黙示録』と『ヨハネによる福音書』だけである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2

 (ただし、このヨハネは、彼女の執拗な主張によれば、イエスが愛した、或いは、同じ名前を冠した福音書の著者たる、ゼベダイ(Zebedee)の<子の>ヨハネ<(注4)>ではない。)

 (注4)「ゼベダイの子らは新約聖書に登場するイエスの弟子、使徒ヤコブ<(Jacob)>(大ヤコブ)と使徒ヨハネの兄弟2人を指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%99%E3%83%80%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AD%90
 「ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたが、ナザレ<(Nazareth)>のイエスと出会い、その最初の弟子の一人となった。ペトロ<(Peter)>、兄弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされ、イエスの変容<(Transfiguration)>の場面や、ゲッセマネ<(Gethsemane)>におけるイエス最後の祈りの場面では、彼ら三人だけが伴われている。『ルカ<(Luke)>による福音書』ではイエスから最後の晩餐<《lord's supper=last supper》>の準備をペトロとヨハネの2人が仰せつかっている。『ヨハネによる福音書』ではイエスが十字架にかけられたときも弟子としてただ一人「[イエスの愛しておられた]弟子<[The Beloved Disciple]>」が十字架の下にいたと書かれている。・・・また、『ヨハネ福音書』ではイエスの墓が空であることを聞いてペトロとかけつけ、真っ先に墓にたどりついたのもこの弟子であり、伝統的に使徒ヨハネのことだと信じられている・・・。ヨハネは初代教会においてペトロとともに指導的立場にあった。古い伝承では使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%BC%9F%E5%AD%90 ([]内)
http://ejje.weblio.jp/content/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90 (《》内)

 彼女は、劇的な活劇(action)を巧みに要約する。 
 ヨハネは、自分が神の座の前にいることに気づき、キリストの象徴(image)たる子羊を見、七つの封印が施された巻物を受領する。
 これらの封印は次々に解かれ、その都度、神秘的な光景が現れる。
 神への供え物として14万4,000の「初物(firstfruit)」が蓄えられる・・有名な「喜悦(rapture)」<の場面>だ。
 様々な大災厄を知らせるところの、7つのトランペットが奏でられる。
 そして、星々は落ち、太陽は昏くなり、山々は爆発し、野獣達が出現する。
 6番目のトランペットの音がすると、2億人の騎士達が全人類の3分の1を絶滅させる。
 この全てが千年<王国>へと導く。
 それは、全てのものの終わりではなく、千年にわたるキリストによる地上の統治であり、今度はそれが、最終的に、火の湖での悪魔の終焉に導き、本当のクライマックスとなる。
 我々の知っている天と地は破壊され、よりよき天と地によって置き換えられる。・・・」(B)


10. 五月晴郎 2012年7月16日 19:32:06 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://blog.ohtan.net/archives/52140532.html

太田述正コラム#5386(2012.3.28)
<黙示録の秘密(その2)>(2012.7.13公開)

 (2)黙示録の背景

 「・・・パゲルスは、ヨハネは、神殿が破壊された<(注5)>後のエルサレムからのユダヤ人難民であるとする。・・・」(D)

 (注5)第一次ユダヤ戦争(First Jewish–Roman War。66〜73年)中の70年にユダヤ叛乱軍が籠城していたエルサレムがローマ軍によって陥落するが、その際、神殿は火を放たれて焼け落ちる。
 ちなみに、この戦争の経過は以下の通り。
 ローマ帝国のユダヤ属州(Judaea Province)でギリシャ人とユダヤ人の間の宗教紛争が始まり、それが、ローマが科した税金に対するユダヤ人の抗議運動とユダヤ人によるローマ市民達に対する攻撃へとエスカレートして行く。
 ユダヤのローマ軍駐屯地はすぐに叛乱者達に占拠され、親ローマのアグリッパ(Agrippa)2世・・{ヘロデ大王の「王家」の最後の「王」でユダヤ教徒だがローマ化しており、もはやユダヤの国王だったわけではないけれど、エルサレムの神殿の管理権を有していた。}・・は、ローマ人の役人達とともに、ユダヤの北部のガリラヤ(Galilee)へと逃亡した。
 ローマのシリア総督(legate)は、1個軍団(legion)を率いてこの叛乱を鎮圧しようとしたが、待ち伏せ攻撃を受けて敗北を喫してしまう。
 そこで、ローマは、ウェスパシアヌス(Vespasian。[9〜79年。ローマ皇帝:69〜79年])将軍とその息子のティトゥス(Titus。《39〜81年。ローマ皇帝:79〜81年》)率いる4個軍団を派遣し、ガリラヤから平定作戦を開始し、ティトゥスによるエルサレム包囲、陥落を経て、最終的に叛乱の全面的鎮圧に成功する。
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Jewish%E2%80%93Roman_War
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9 ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 (《》内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Agrippa_II ({}内)
 なお、第一次ユダヤ戦争に関する日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%88%A6%E4%BA%89
の内容は英語ウィキペディアとはかけ離れたものになっているところ、事柄の性格上、前者の大部分は不正確ないし時代遅れである、と断ぜざるをえない。

 パゲルスは、この書を彼女が呼ぶところの「戦争文学」の文脈の中に置く。
 ヨハネは、66年の小競り合いを目撃した可能性が高い。
 その頃、過激派の(militant)ユダヤ人達は、宗教的熱情で燃え上がり、ローマの退廃とユダヤ(Judea)占領の双方に関してローマに対して戦争をしかける機運が高まっていたのだ。・・・」(C)
 「・・・パゲルスは、黙示録は特定の時と場所で書かれたことを強調する。
 ローマが大神殿を焼け落ちさせ、エルサレムを廃墟にした後の恐らく90年前後にトルコの沿岸沖の小さな島において・・。
 「彼の書が戦争文学であることを見てとった時においてのみ、我々は彼が何を書いたかを理解し始める」と彼女は言う。
 換言すれば、ヨハネによる物語<、すなわち黙示録>の最初の方で描かれた火のような破壊の多くは、予言的なものというより、ユダヤ人達を呆然とさせ、四散させ、震え上がらせたところの、理解不能な種々の恐怖の華麗な描写、すなわち、<同時代の>歴史<の描写>なのだ。
 ローマの暴虐的な<ユダヤ>抑圧とローマ帝国の繁栄の跡を追いつつ、ヨハネは、「イスラエルの予言的諸伝統からその心象風景(imagery)を抽き出したところの」謎めいた「反ローマ・プロパガンダ」を書いたのだ。
 彼の「啓示」<、すなわち黙示録>は、従って、将来における勝利の物語へとうまく織りなしつつ、<ユダヤが喫した>最近の諸敗北を受け入れる一つの方法だったのだ。・・・」(A)
 パゲルスは、「啓示」<、すなわち黙示録>は、幻覚的予言を意味したものでは全くないのであって、実際には、ヨハネがこれを書いていた時に起こっていた種々の出来事についての暗号化された説明であったことを示す。
 それは、要するに、エルサレムが落ち、神殿が破壊され、約束したもかかわらず、救世主(Saviour)がまだ戻って来てくれていない、という1世紀末におけるイエスに係る運動が直面していたところの、様々な危機に関する政治的風刺漫画なのだ。
 原理主義的キリスト教徒達のための聖典(staple)であり続けてきたところの、<黙示録が描く>恍惚(rapt)と狂喜(rapture)の心象風景の全てと、<その黙示録の中で、いわば>「置き去りにされた(Left Behind)」それ以外の部分とは、同時代における人々と様々な出来事の表象(represent)なのであり、そのようなものとして、黙示録の最初の読者達は的確に受け止めていたのだ。・・・」(B)


11. 五月晴郎 2012年7月16日 19:33:41 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://blog.ohtan.net/archives/52140656.html

太田述正コラム#5388(2012.3.29)
<黙示録の秘密(その3)>(2012.7.14公開)

 (3)黙示録の著者の狙い

 「・・・パゲルスは、啓示<、すなわち黙示録>がユダヤ人たるキリスト教徒がユダヤ法を廃止しキリストのメッセージを異教徒(Gentiles)にもたらすというパウロの使命に対して反転攻勢をかける文書である、との近代理論を提示する。・・・」(D)
 「・・・報復を恐れ、ヨハネは、このローマに対する非難をはではでしい暗号で書いた。・・・」(C)
 「より挑発的なことに、パゲルは、ヨハネは、「イエスはイスラエルの救世主(messiah)であって新しい「宗教」に改宗した誰かさんではない、と認めた一人のユダヤ人である、と自分自身をを見ていた」と主張する。
 この区別は重要なのだ。
 というのは、ヨハネは、ローマを獣として描きつつも、同時に、「無名から登場して、イエスのユダヤ人たる追従者達に対して「福音」を極めて違った形で説教し始めたところの、かのタルソス(Tarsus)のパウロ<(注6)>と呼ばれた一匹狼(maverick)」によって鼓吹された異教徒たるイエスの追従者達と関わりを持たないように、との警告も発していたからだ。

 (注6)[5?〜67?]年。「初期キリスト教の理論家であり、新約聖書の著者の一人。・・・古代ローマの属州キリキア(Cilicia)の州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。
 ・・・新約聖書の『使徒行伝([Acts of the Apostles])』によれば、パウロの職業はテント職人で生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。・・・もともとファリサイ派([Pharisee])に属し、エルサレムにて高名なラビ・・・のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う<が、>・・・、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。ダマスコ<[Damascus]> への途上において、「・・・なぜ、わたしを迫害するのか」と、復活したイエス・キリストに呼びかけられ、その後、目が見えなくなった。アナニア([Ananias])というキリスト教徒が神のお告げによって<彼の>のために祈ると・・・目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ・・・はキリスト教徒となった。この経験は「パウロの回心([conversion=metanoia)])」といわれ、紀元[31〜36]年頃のこととされる。・・・。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られた。伝承によれば皇帝ネロのとき・・・にローマで殉教したとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_the_Apostle ([]内)
 
 この解釈においては、黙示録は、イエスの信者達の間の初期の権力闘争の一部であって、善と悪、誠信(faithfulness)と背教(apostasy)、救済(salvation)と破滅(damnation)、というくっきりした言辞でもって定義される内ゲバ(internecine conflict)<を描写したものな>のだ。・・・」(A)
 「・・・ヨハネが獣の七つの頭を「7人の王達」と言う時、それは恐らくアウグストゥス(Augustus)から彼の時代までを統治したローマの皇帝達<(注7)>を意味しているのだろう。

 (注7)アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ(以上、ユリウス・クラウディウス朝 )、ガルバ、オト(在位:69年1月〜4月)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D%E4%B8%80%E8%A6%A7

 「獣の数」であるところの、身の毛のよだつような666<(注8)>については、原文が親切にもこう付け加えてくれている。

 (注8)「皇帝ネロ(Nero Caesar)のギリシア語表記(Νέρων Καίσαρ, Nerōn Kaisar)をヘブライ文字に置き換え(נרון קסר, Nrwn Ksr)、これを数値化し(ゲマトリア)、その和が666になるというもの。ヘブライ文字はギリシア文字のように、それぞれの文字が数値を持っており、これによって数記が可能である。この説は、直前の皇帝崇拝らしき記述とも、意味的に整合する・・・。写本によっては、獣の数字は666でなく、616と記されているものもある・・・。この場合は、ギリシア語風の「ネロン」ではなく、本来のラテン語発音の「ネロ」(נרו קסר Nrw Ksr)と発音を正したものと解釈できる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%97
 「<666は、>転じて、俗に悪魔や、悪魔主義的なものを指す数字とされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/666

 すなわち、「分かっている者に誰でもよいから獣の数を数えさせて見よ、それは一人の人物の番号なのだ」と。
 ユダヤの数霊学(numerological)システムであるゲマトリア(Gematria)によれば、それが当時の皇帝のネロへの言及であることはほとんど間違いない。
 <また、>ヨハネによる、大きな山が爆発するヴィジョンは、その頃起こったばかりの79年の<ポンペイを壊滅させた>ヴェスヴィウス火山の噴火への話の種的な言及なのだ。・・・
 パゲルスの本がより独特なのは、啓示<、すなわち黙示録>が、要するに反キリスト教的激論である、との見解だ。
 すなわち、非割礼の非コーシャ(traif=treif)食<(注9)>の異教徒が自分の宗派に入ることを歓迎した聖パウロによって発明されたばかりの「キリスト教」に反対したところの、<イエスの>運動が完全にユダヤ的文脈内にとどまることを欲した、イエスの追従者でユダヤを離れた一人物によってそれは書かれたというのだ。

 (注9)コーシャ(Kosher)。本来はカシュルート(Kashrut)。「ユダヤ教の食事規定のことで、・・・カーシェール<は、この>食事規定・・・で食べてよい食物のことを指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88

 近代的な意味合いで自分自身を「キリスト教徒」と呼ぶ者が、まだ、まずいなかった時にあって、ヨハネは、もし人々が「キリスト教徒」になったら一体何が起こるかを予言しているのだ。
 それは、この書の未来を見据えた懸念なのだ。
 「振り返ってみると、我々は、ヨハネが、巨大な変化の起ころうとしている瞬間(cusp)に佇立していたことを見てとることができる。
 それは、<イエスの>運動全体が、ユダヤ人の救世主的宗派から異教徒達だらけの新しい宗教たる「キリスト教」へとやがて変容するという、巨大な変化だったのだ」とパゲルスは記す。・・・


12. 五月晴郎 2012年7月16日 19:35:36 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://blog.ohtan.net/archives/52140778.html

太田述正コラム#5390(2012.3.30)
<黙示録の秘密(その4)>(2012.7.15公開)

 バラーム(Balaam)<(注10)>とジェジベル(Jezebel)<(注11)>は、啓示<、すなわち黙示録>の中で悪魔的予言者達としての名前が付けられているが、この見解によれば、「聖パウロの(Pauline)」のキリスト教徒達の戯画なのだ。

 (注10)易者で悪しき男とされる人物↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Balaam
の名前をとっている。
 (注11)カルタゴの女王ディドー(Dido)(コラム#2789、3269、3878、3926)の大叔母のジェジベル↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Jezebel
の名前をとっている。
 この大叔母のジェジベルは、ティール(Tyre)・・現在のレバノン南部の都市・・を首都としていたフェニキアの国王の娘でイスラエル・・当時は現在のパレスティナの北半分であり、南半分をユダヤと言った・・の国王の妃となった人物であり、国王と共にユダヤ教ならぬ、バアル(Baal)神信仰を庇護したため、後世、ジェジベルは堕落した女性、性的に放縦な女性、を意味するようになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jezebel
 「バアル・・・は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語<[=アラビア語、ヘブライ語、エチオピア語等]>で「主」を意味する。バール、ベールの表記も。・・・足を前後に開き右手を挙げている独特のポーズで表されることが多い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%A0%E8%AA%9E%E6%B4%BE ([]内)
 なお、ジェジベルが、対潜水艦戦(ASW)で海上に米国の対潜機のP-2やP-3から投下されるパッシヴ・ソナー・・ジュリーと称されるアクティヴ・ソナーと対で用いられる・・の名称として使用されている
http://www.ww2aircraft.net/forum/modern/legend-julie-jezebel-1413.html
のは興味深い。

 このキリスト教徒達は、あっけらかんとユダヤの食と性の諸法を犯しつつ、なお善きラビのヨシュア(Yeshua)の追従者であると主張していた。

 (注12)Joshua。紀元前1550-1200〜1550-1200。「<旧約聖書によると、エジプトを脱出した>モーセは[、ヨシュアを含む12人のスパイを<ユダヤ人の故郷である>カナン([Canaan])の地に送り込んだが、]120歳になると、自分の後継者としてヨシュアをたてて亡くなった・・・。ヨシュアは指導者として<この神から>約束<された>地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコ([Jericho])を攻める。エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊した。ヨシュアはエリコの人民を全て虐殺する。ヨシュアは民を率いてカナンの各地を侵略、抵抗運動を粉砕して全カナンを制圧した後にレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配し・・・110歳で・・・この世を去った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Joshua ([]内)

 ジェジベルは、ヨハネが評判の悪いカナンの女王<(上出)>の名前をとったものだが、彼女が<パトモス島の>近傍のテアテラ(Thyatira)<(注13)>の町で説教をしているのが見かけられたというのだから、この女性は、パウロ版の運動にとって中心的な、しかし、ヨハネのような敬虔なユダヤ人にとっては大嫌いなものであるところの、福音伝道者(evangelist)であることが示唆されている。

 (注13)小アジア西部の町でセレウコス朝の創始者のセレウコス(Seleucus)1世(紀元前312〜280年)によって創建され、マケドニア人とユダヤ人が住んでいた。現在のトルコのアクヒサル(Akhisar)。
http://gabrielle1.com/aap/jean7.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%B91%E4%B8%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Thyatira

 彼女は、非ユダヤ人たる(shiksa)女神の最初のものなのだ。
 (「ヨハネが「バラーム」と「ジェジベル」が、人々に対して「偶像たちへの犠牲に供された食物を食べたり姦通を行うよう」唆した、と非難したのは、異教徒達と性的関係を持ったり、更に悪いことには、異教徒達と結婚したりしたユダヤ人達との近親相姦関係を結ぶ人々だけは許せないという気持ちが彼にはあったのかもしれない」とパゲルスは注記する。)
 啓示<、すなわち黙示録>中の緋色(scarlet)<(注14)>の売春婦達と狂った獣達は、パウロの異教徒たる追従者達であり、それがゆえに、今日のプロテスタントたる福音伝道者(evangelical)達の精神的祖先にあたるのだ。・・・

 (注14)深紅色。 「罪悪を象徴する色であると同時に、地位・身分の高さをも象徴する色」
http://ejje.weblio.jp/content/scarlet+

 紀元1世紀のイエスの運動はパウロの異教徒・・彼らは割礼やコーシャ食抜きでイエスに追従することを許された・・に対する宣教団(mission)と、エルサレムでイエスの兄弟達によって世話されていたところの、より純粋にユダヤ人的な運動の二つに分裂していた。
 イエス一家は、エルサレムでイエスの宗派専一の表玄関的(storefront)シナゴーグを運営する自由を認められており、依然として、反正統の(dissenting)ユダヤ教という枠組み内においてイエスないしヨシュア(Yeshua)<(注15)>の運動を見ていた。・・・」(B)

 (注15)イエスは、もともとはヨシュア(ヘブライ語)だったが、そのヘレニズム・ギリシャ語訛りのησοu ς がそのままラテン語に引き継がれてイエスス(Iesus)となり、それが更に英語ではジーザス(Jesus)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Yeshua_(name)
日本語ではイエスとなった。
 ちなみに、旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8


13. 五月晴郎 2012年7月16日 20:10:42 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
貨幣の散歩道 第54話 エレクトロンと電子マネー (日本銀行金融研究所 貨幣博物館) http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_54.htm

* * *

 約1年にわたった連載も、本日で最終回を迎えることになった。長い間、興味をもって読み続けていただいた読者の皆様に感謝したい。最後に、近年脚光を浴びている電子マネーが実は古代西洋の貨幣と関連していることを指摘して、貨幣の散歩道の漫遊を終わることにしたい。

 貨幣は火や言葉の発明と並ぶ人類の叡智であり、人類による経済活動とともに発展してきた。財物の交換に際しては、その交換比率=価格を決めなければならない。米と魚という2種類の財物の交換取引であれば、価格はひとつで済む。しかし、交換比率は各財物ごとに取引対象財の数だけ存在するため、取引範囲の拡大とともに考慮すべき価格数は加速度的に増大する。このような煩雑さを避け、交換取引の円滑化を図るための価値基準として登場したのが貨幣であり、当初は貝殻、石、穀物など各共同体において利用価値の高い、あるいは貴重な財物が物品貨幣に採用された。このため、貨幣や経済に関係する漢字には、「貨」「賣」「財」など、貝のつくものが多い。

 貨幣はやがて、交換手段として実際に受け渡しされるようになった。その後、交換取引の広範化とともに、銀や銅など耐久性や運搬性に優れた金属が貨幣素材に利用されるようになった。金の場合、王家など支配者の政治的権威を示す装飾品として利用される傾向が強く、貨幣素材に使われることは比較的少なかった。そして、世界最古の金属貨幣としては、紀元前8〜7世紀ごろ、春秋時代の中国で使用された青銅貨が挙げられる。この青銅貨は、貨幣としての流通性を形態面から保証すべく、当時の社会において重要な生産手段であった農具や刃物にちなんだかたちに鋳造されていた。農具の鍬をかたちどった青銅貨は布幣(ふへい)、小刀をかたちどったものは刀幣(とうへい)とそれぞれ呼ばれた。紀元前3世紀、秦の始皇帝の時代に貨幣の形状は円形方孔(中央に正方形の穴をあけた円形)に統一され、その後、約2000年にわたって踏襲されるとともに、東アジア地域における金属貨幣のモデルとなった。

 一方、西洋における金属貨幣は、紀元前7世紀ごろにリディア(現在のトルコ西部に位置していた古代の王国)で発行されたエレクトロン貨に始まる。エレクトロン貨は、金塊に人物や動物の絵を打刻してつくられたものであり、この様式がギリシャ、ローマ以降の西洋式貨幣の基礎となった。エレクトロン貨という言葉は、電気・電子を意味するエレクトロニクスにどこか似ているが、実は両者は同じ言葉を語源としているのである。 というのも、エレクトロン貨の素材となったのはエレクトラムと呼ばれる金銀の天然合金であり、この合金の名称はその色彩や輝きが古代ギリシャではエレクトロンと呼ばれた琥珀のそれによく似ていることに由来する。琥珀は古代の樹脂が地中で化石化したものであり、布などでこすると静電気が発生し、枯れ葉など小さくて軽量のものを引き付けるという性質をもっている。16世紀イギリスの科学者で電気を発見したギルバートは、この琥珀(エレクトロン)の性質にちなんで電気をエレクトロニクスと名づけたのである。「歴史は繰り返す」とよくいわれるが、最初の西洋式貨幣であるエレクトロン貨と20世紀末に至って登場しつつある電子マネーとが語源的には同じであることに、歴史の悪戯を感じるのは筆者だけだろうか。

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ササン朝ペルシャのコイン http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E016.htm

刺斯(ペルシャ)国は周囲数万里ある。国の大都城は蘇刺薩儻那(スラスターナ)と言い、周囲四十数里ある。
 川も平地も多いから気候もさまざまであるが、おおむね温暖である。
 水を引いて田を作り、人家は富裕である。金・鍮石(真鍮の一種)・頗胝(はち、玉または水晶)・水精など世にも珍しい宝を産出し、大錦(ペルシャ綿)・細褐(細い毛織物)、くゆ(毛氈)の類を上手に織る。
 良い馬・駱駝が多く、貨幣は大銀銭を使用する。
 家ごとに税金を課し、一人あたり四銀銭を取る。
                                ・・・・・  玄奘、「大唐西域記」巻十一

玄奘法師はインドへ行く途中、西域の高昌で国王から黄金100両と銀銭3万枚を授けられました。 黄金は東ローマの金貨、銀銭はササン朝の銀貨と推定されています。 この当時、唐の西部から中央アジアにかけてササン朝の銀貨が通貨として使用されていたそうです。
 「大唐西域記」には、税金が1人あたり銀4枚だったのと書かれています。 ササン朝では銀貨中心の貨幣経済が発達していたようです。 税金の銀4枚は、1年に3回納めたそうです。

アルダシール1世(226-41)のテトラドラクマ銀貨

表:国王胸像。冠はティアラ冠。銘:マズダ神を崇う、神聖なアルタ-シャトル、イランの諸王の王、神の子孫。
裏:拝火壇。銘:アルダクシャトルの火。
24.5~24.9mm 厚さ4.5mm 13.1g

文字はパフラヴィ-文字です。
パルチアのコインの様式に似ていますが、裏はゾロアスター教(拝火教)の拝火壇です。
銀質はさほど良くありません。亜鉛(錫?)が多く混ざった銀で、ビロン貨(Billon)と呼ばれています。

シャープール1世(241-73)のドラクマ銀貨

表:国王胸像。冠は耳覆いのついた城壁冠。その上にコリュンボスという球体の装飾。銘は下記の説明参照
裏:拝火壇と二人の神官。笏杖を持っている。銘:シャープールの火。
25.3mm 厚さ1.3mm 3.7g

この頃のコインの王の像はかなり写実的です。
裏のデザインは、この後で発達するササンの美術工芸品のはしりのように見事です。

シャープール1世銀貨の銘文  (パフラヴィー文字は、右から左へ書きます)

【文献A】による説明

 マズダ神を崇う、神聖なシャープール、イランの諸王の王、神の子孫。

【文献B】による説明


 マズダ信仰者、主シャーブフル、イランの諸王の王

ナクシュ・ロスタムの遺跡
上段の全景写真の中央やや左下が、下段の写真。
シャープール1世が、捕虜になったローマ皇帝をひざまづかせている情景。
馬上のシャープール1世を、コインの胸像と比べてみてください。

ホルムズド4世(579-590)のドラクマ銀貨

表:国王胸像。三日月形前立てのついた城壁冠。その上にコリュンボスという球体の装飾。
左肩に三日月形装飾。周囲に星と三日月が4つ。銘:ホルムズドの名前が偉大ならんことを。
裏:拝火壇と二人の神官。左手に剣を持っている。銘:発行年と発行所の略称。
29.6~30.7mm 厚さ1.0mm 3.8g

薄くたたき延ばした銀の板のようです。
円圏の外周が広い、ササン朝独特の形式です。

ホスロー2世(591-628)の小銅貨

表:国王の胸像。
裏:拝火壇。
13.2~13.8mm 厚さ2.6mm 2.3g

ドラクマ銀貨は、労働者1日くらいの給料です。日常の買い物には小さな銅貨も必要だったでしょう。
ドラクマ銀貨は1万円、この銅貨は100円と考えてはどうでしょうか。

● 周辺国家の模倣貨

 ササン朝のコインは非常に信用度が高く、東地中海地方から西域にかけて広く使用された国際通貨でもありました。 そのため、ササン朝が滅んだ後も周辺の国々でササン朝のコインを模倣したコインが発行されています。
 7世紀後半、西域にあった唐の西州都督府の記録では、荊柴1車分が銀1文5分、醤2升が銀1文などと書かれています。 唐では銀銭を発行していません。 銀1文はササン朝または周辺国家が発行した1ドラクマ銀貨と推定されています。

エフタルのナスプキ・マルカ銀貨(5〜6世紀)

表:エフタルの王の胸像。有翼の牡牛の頭飾りをつけている。銘:ナスプキ王。
裏:拝火壇と二人の神官。
25.4mm 厚さ1.6mm 3.6g

エフタルは常にササン朝と争っていました。
このコインは、敵国ササン朝のコインに強い影響を受けています。
銅が多く含まれているため緑青を出しています。



タバリスタンの1/2ドラクマ銀貨(8世紀)

表:王の胸像。
裏:拝火壇と二人の神官。
23.9mm 厚さ0.5mm 1.8g

タバリスタンは、ササン朝がイスラムに滅ぼされた後も、カスピ海南岸に存続した国です。
外周の模様の数が増えています。
全く薄い銀の板です。僅か0.5ミリの厚さです。



イスラムの1ディルハム劣位銀貨(8世紀)

表:城壁冠の王の胸像。かなりデフォルメされている。王の前にソグド文字で「ブハラの王」、
後にアラビア文字で「al-Mahdi」。
裏:拝火壇と二人の神官。
24.7mm 厚さ0.9mm 2.6g

ササン朝をほろぼしたイスラムの、ソグディアナ地方の知事al-Mahdiが発行したものです。
ササン朝のコインをかなりデフォルメしています。
イスラムが偶像を嫌ったのはもう少し後の時代からです。
銀の質はかなり悪そうです。

206 神殿の祭司ササンの子、パーパク、ペルシャ王を称する。
226 パーパクの子、アルデシールT、パルチアを滅ぼし、ササン朝ペルシャが成立する。
   首都はクテシフォン。
230 ゾロアスター教(拝火教)を国教とする。
232 ローマよりアルメニア地方を奪う(この頃盛んにローマと戦う)。
240ころ クシャン朝を征服する。
260 アルデシールの子、シャープールT、エデッサの戦いでローマ軍に大勝。
   皇帝ら7万のローマ人を捕虜にする。 捕虜たちによりローマの土木技術が伝わる。
339〜 キリスト教徒を迫害する。
363 ローマのユリアヌス(背教者)、クテシフォンを攻撃するが、敗退。
395 ローマ、東西に分裂。東ローマ(ビザンチン帝国)もしばしばササン朝と戦う。
425 エフタルの侵入始まる。
435 東ローマでキリスト教ネストリウス派が追放され、ササン朝ペルシャに亡命。
   (後中国に伝わり、「景教」と呼ばれる)
558ころ ホスローT、突厥と同盟してエフタルを討つ(この頃ササン朝の最盛期)。
622 イスラムのヘジラ(聖遷)元年。
628 ホスローUが没し、国が乱れ、何人かの王が乱立する。
629〜645 玄奘、インドへ行く。
642 ヤズデギルドV、ニハーバンドにてサラセン軍に大敗し、ササン朝は事実上滅亡する。
651 ヤズデギルドV、東方に逃れる途中で殺害され、ササン朝は完全に滅亡。

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14. 五月晴郎 2012年7月16日 20:28:11 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
サーサーン朝ペルシャのコイン (おかねの情報室 お金の歴史から投資情報まで)http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2009/09/post-6eeb.html

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マイ・コイン・コレクション(第33回)

今回ご紹介するのは、サーサーン朝ペルシャ帝国の初代君主「アルダシールT世」(在位A.D.224(未確定)-241)の1ドラクマ銀貨である(写真上 : 表面 ・ 写真中 : 裏面)[「THE ANCIENT & CLASSICAL WORLD 600B.C.-AD.650」NO.789〜795]。


直径 : 2.4cm、品位 : 不明、量目 : 4.2g。表面には王権を表すリボンや球体装飾(コリュンボス)の付いた冠をかぶった(※)、長い髭と肩にまでかかる髪が特徴の「アルダシールT世」の頭像がデザインされ、周囲にはパフラヴィー文字で「マズダー崇拝者、主アルダシール、イランと非イランの諸王の王、神々の子孫」と書かれ、裏面にはアケメネス朝の獅子足の玉座がついたゾロアスター教の拝火壇が描かれ、上部周囲にはパフラヴイー文字で「アルダシールの火」と記されている。アルダシールT世は、アルサケス朝パルティアを倒してサーサーン朝を創始、アケメネス朝ペルシャの再興をめざして「諸王の王」を名乗り、ゾロアスター教を国教とする中央集権を確立した(写真下 : アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝のアルダシール1世(左)のレリーフ(ナグシェ・ロスタム) ・ ウィキペディア・フリー百科事典(ゾロアスター教)より)。

(※)王はその王に特有な冠をかぶっており、他の王の冠と似通ってはいるものの、どれ一つとして同じものは無い(写真はアルダシールT世のもの。図は「サーサーン朝ペルシアのコイン ー王の肖像が語る歴史と文化―」より)。


「イランを含む西アジア地域のコインのデザインは、アレクサンドロス大王の東方遠征以降に、この地域で発行されたギリシャ系コインのデザインがその基本となっている。つまり、表側には発行者、すなわち王の胸像、裏側には守護神が表される。サーサーン朝ペルシアのコインも基本的にはこれを踏襲しているが、裏側に拝火檀が描かれている点が異なる。拝火檀はサーサーン朝ペルシアの国教であったゾロアスター教の礼拝の中心であった聖なる火を安置したものである。裏側には「アルダフシールの火」や「シャーブフルの火」という、いわゆる「火の称号」を表す銘文が刻まれていることから、サーサーン朝ペルシアの諸王は自らの守護となる火をコインに描かせたということがわかる」(「サーサーン朝ペルシアのコイン ー王の肖像が語る歴史と文化―」より)。


サーサーン朝ペルシャの時代にも、さまざまな重量の金貨や銀貨、銅貨が造られたが、その中心となったのは、今回ご紹介したドラクマ銀貨(※)だ。この銀貨はサーサーン朝の貨幣体系の基礎であったが、非常に信用度が高かったことから、その周辺諸国にも流通した。西はシリアなどの東地中海沿岸、東はアフガニスタンや中央アジア、そして遠く中国でも多数出土しているという。いわゆるシルクロード世界の交易を支えた国際通貨としても用いられたのである。

(※)一般的には「ドラクマ」が使用されているが、書物によってはギリシャ・ドラクマのペルシャ化である「ディレム」が用いられている。


銀貨の素材である「銀」については、周辺の銀山から豊富に供給されており、その代表的なもののひとつが、アルメニア、ラジスタン、コウカサスの山々のある黒海から中央アジアに至る鉱脈だ。その他にも、アゼルバイジャン(イラン高原北)やエルブルズからソグディアナ、フルガーナ、サースあたりに広がるカスピ海南岸地区など、多くの銀山に恵まれていた。このことにより、品位、量目とも安定したコインを供給することが可能となり、国際通貨としての地位を得ることが出来たのである。


ウィキペディア・フリー百科事典(サーサーン朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
ウィキペディア・フリー百科事典(アケメネス朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%9D
ウィキペディア・フリー百科事典(アルダシールT世)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB1%E4%B8%96
ウィキペディア・フリー百科事典(ゾロアスター教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99


(参考文献)
・「サーサーン朝ペルシアのコイン ー王の肖像が語る歴史と文化―」(岡野智彦ほか編)[中近東文化センター刊]
・「ペルシャ文明展 ―煌く7000年の至宝―」(大津忠彦ほか監修)[朝日新聞社・東映刊]
・「THE ANCIENT & CLASSICAL WORLD 600B.C.-AD.650」(Michael Mitchiner著)[Hawkins Publications刊]
・「貨幣から見た世界史・文明の血液」(湯浅赳男著)[新評論刊]

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15. 五月晴郎 2012年7月17日 01:06:10 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
付録;

隠された本当の歴史3 http://www.geocities.jp/kamuiluke/essay/truehistory3.html
2003/11/03
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ニュースによると、石原都知事が日韓併合について、「そもそも彼らの先祖が悪い」という事を言ったらしいけれど、それは大間違いで・・・高句麗・百済から侵略して来た奴らの子孫は「日本にいる」連中である。戦中に強制連行された人たちじゃなくて、高句麗・百済の時代の話ね。石原都知事みたいな顔と性格をした奴が高句麗・百済人なわけよ。
そんな簡単な事に気づかないのも、自己中心主義者の傲慢さのせいだね。

さて・・・前回は、百済仏教の渡来辺りから天智天皇、藤原不比等、桓武天皇の暴虐を経て、菅原道真の改革までを書いたわけだけど・・・今回は、神武東征までさかのぼってみたい。

日本書紀が捏造歴史書だという事はだいたい想像がつくと思うけど、古事記と比べたり、中国・朝鮮に残っている資料と比べて修正したりする事もできる。ただ、中国・朝鮮に残っていた資料を、戦中に没収したりもしてるらしいんだよね。ニッポン帝国軍が。
高句麗・百済から侵略して来た連中にしてみれば、日本先住のアイヌ民族などに知られたら困るわけだ。国粋主義とか朝鮮差別によって不満をそらしたり、政府に服従させたりできなくなるし。

こういう事情は中国にもあるようで、漢字の元となった甲骨文字などがシュメール文字の変形だという事を認めたがらないようだ。そもそも中国人はどんな混血民族かというと、先住民と、アルタイ系騎馬民族と、アレクサンダー大王の遠征軍やグレコ=バクトリア人との混血らしい。

7世紀初頭のギリシャのビザンティン学者テォフィラクッス・シモカッタは、『歴史』の中で「タウガス(中国)は東国では非常に有名で、元来トルコ民族の一植民地であったが、今や勢力といい人口といい、全世界に殆ど並ぶものなき国家を形成した。その首都はインドから1500哩である。(・・・)タウガスの地は大河(渭水)によって二分され、タウガスの都はアレクサンダーがバクトリア人とソグド人を捕虜とし、12万人の原地人を焼き殺してから建設した。(・・・)アレクサンダーは23哩離れた所に第2の都市を建設したと伝えられ、原地人はこれをクブダン(クムダンはシリア語で長安のこと)と呼んでいる。」 としている。また、林語堂は『我国土我国民』の中で「周と唐は東北の甘粛からおこった。トルコ人の類いである」としている。

こういう歴史的経過を知った上で、川口哲夫氏のカオロジィ(顔学という意味の造語)の本(リンクにHPもあるよ)を読んでみると、なるほど川口氏の分析が正しかった、という事が分かるんだよね。(残念ながら、川口氏が監修したものではないらしく、HPは本とはちょっと違った事を書いているけど。)中国人っていうと日本人はだいたい清朝のツングース民族を想像したりするんだけど、漢民族っていうのはつりあがった細目のツングース民族とは違って、二重まぶたか「すじ二重」で、川口氏によると「西洋人の血はひいてないはずなのに西洋人のような顔立ち」なんだって。ところが西洋人の血を引いているわけだ。

当たり前だと思うけど、中国や朝鮮から「日本人」なるものは入ってくる。南方系(アイヌや沖縄)でないものはほとんど朝鮮経由だと言ってよい。ごく少数はフェニキアのタルシシ船団で来てるみたいだけど。あまりに奇想天外に聞こえるかも知れないけど、そもそも教え込まれた歴史が真っ赤な嘘なわけよ。それは分かっているよね?

バリー・フェル教授を中心としたハーバード学派は、アメリカにオガム文字が残っているのを発見したというか、ただの線だと思われていたものをケルト民族のオガム文字だと識別した他、エジプト文字なども見つけてるんだけど、これもタルシシ船団が運んだもので、スペインから来たケルト人たちはフェニキアのバアル神を太陽神として崇拝していたらしい。多分、ケルト人が人身御供を始めたのは、フェニキア人の影響じゃないのかな?

そして・・・オガム文字は日本にもあるわけ。これもやっぱりタルシシ船団が運んだものだと思う。というのは、東表国(大分の国東半島辺り)の製鉄技法は、赤土を使ったもので、聖書にあるソロモン王の頃の製鉄技法と同じものだからだ。

それから・・・騎馬民族を通して、大陸から伝わったものにシュメール系文字がある。▽と△を合わせたようなのが五の元で、剣みたいなのが十の元、みたいな。そして、十と五の組み合わせが天草とかで見つかってるけど、十五が意味するのは金星女神。十には、○っていう書き方もあって、五○だと天地の子・風神エンリルを意味する。◎だと20で、日神ウツ、別名をバ・バル(輝く神)。そしてフェニキアのバアル神は、このバ・バルがなまったものらしい。

どうしてシュメール文字が大陸経由って言えるのかと言うと、もちろん大陸各地にも痕跡が残ってるからだよ。
シュメール文字の変形にバビロニアの楔形文字があるけど、シュメール文字と、バビロニア楔形文字が南シベリアの岩に刻まれてたり、その変形が山東省の陶片に刻まれてたりする。

それから、アッダ(父)・アン(天神アン)・ウム(母)・ク(地神キ)という言葉が訛って、原モンゴル語ではアッヂャン・ム・ツで同じ意味だったり、中国黒竜江(アムール川)省の地名にヂャアムスっていうのがあったり、韓国ではチャンスンになって、日本ではチャウスになったりしてる。チャンスンっていうのは、杭の先に男の顔を彫って「天将軍」とか何とか書いたり、女の顔を彫って「地女将軍」とか何とか書いたり、その夫婦一組の傍らに鳥形の杭があったりするものらしいんだけど、天父神、地母神、鳥(風神エンリル)という組み合わせはシュメールからずっと変化しながらも伝わってきてる同一文化らしいんだよね。

チャウスには、日本では茶臼って字を当ててるけど、もちろん茶を挽く臼なんかじゃありません。あくまで当て字さ。だいたい古墳がある所に茶臼とか茶臼山っていう地名があるんだよね。当然。

同じシュメール系文化でも、北方の騎馬民族ルートを通らずに、南から来るのもあるんだ。天神アンと地母神キに由来する地名が中国の安徽省だとか、日本の安芸、安岐など。御神名が速秋津彦、速秋津姫。そしてその御子神とされるシナつ彦こそが、風神エンリルを意味するもので、隠された主神らしい。駱、越、斉、魯といった国々に「倭人」がいたらしくて。

「倭人」は水田稲作民族だよね。もしくは稲作漁労民だっけ。何回かに分けて渡来してたと思うけど、始めは縄文時代に焼畑農耕を伝えて、弥生時代に水田稲作とか高床式倉庫だったっけな。古事記とかは、焼畑農業が前提になってるんだよ。阿蘇では最近まで焼畑をやってたし。

「倭人」系と思われるのが、天照大御神から始まり、天のオシホミミの命、天のホアカリの命、ホのニニギの命、ホスセリの命、ホヲリの命ホホデミの命と連なる「ホ(当て字は穂、火)」がつく系譜。また、大伴氏は代々といっていいくらい名前に「日」が入る。これが天つ神系貴族だね。
元々、トモないしタマは、官職の名前らしいんだけど。卑弥呼と書いて当時はヒミカと読んだ事もわかって来てるんだけど、ヒミカ(女王)とかヒミクク(男王)っていう官職もあったみたいだよ。それと、邪馬台はヤマトと読むって事も分かってきた。当時の中国の音(魏音っていうんだっけ?)の研究からね。

一方で、崇神天皇の系譜は全く違う。
ミマキイリヒコ五十ニエ天皇、イクメイリヒコ五十サチ天皇、ヒコ五十サチ命、五十日鶴ヒコ命、五十ニシキイリヒコ命というふうに、イリとか五十(イソ、オシ)がつく。

これは氏族が違うんだな。同じ時代に存在した別々の王朝の系譜を、縦につないでしまうという手法は、シュメールからずっと使われてきている。それで、2つの王朝をつなぐと過去が2倍になるみたいな事があって、「欠史八代(神武天皇と崇神天皇の間の、記述の少なく実在はしなかったと考えられる世代)」みたいなのが生まれてくるわけだ。これは、歴史を実際より古く見せて中国・朝鮮と張り合おうとしたのじゃなくて、別々の氏族の系譜をつないで、「侵略者が土着の王族の系譜に編入される」手法ってわけだ。

それでは、崇神王朝はどこから来たかというと、北方から騎馬民族ルートで来ていて、しばらく対馬辺りにいた。というのは、対馬辺りにそういう地名とか岩刻絵文字が残ってるんだ。日本書紀か古事記の仲哀天皇8年の記述にも、筑紫のイトの県主の祖・五十トデっていうのが出てくる。対馬の辺りの県主は、あいかわらず五十のつく名前だった・・・もしくは、神武東征の頃の話を、新羅出征の話にすり替えた感じかな。対馬辺りの岩刻絵文字は、牛頭の風神アネモス(アン・ネ・メスつまりアンの子。風神エンリル)を表してるらしいんだけど、牛頭は本来、天父神アンのシンボル。風神エンリルに牛頭をつけるのは、騎馬民族ルートを伝ってくるものなんだ。

ちなみに、地母神キのシンボルは蛇。

というわけで・・・百済仏教伝来より前から、騎馬民族の侵略は始まっていたわけだ。ここで絶対おさえておくべきポイントは、天つ神と騎馬民族は別系統だという事。「渡来人」と一緒くたにするから分からなくなる。新羅系と百済系の対立の構図は、この時点で原因がある。

それと、興味深いのは、元々、円墳と方墳は別々に分布しているという事。それが近畿に入ってはじめて前方後円墳という形でつながるんだ。二つの王朝が和合した可能性も考えないといけない。

それから・・・神武天皇も崇神天皇もハツクニシラススメラミコトっていう事も、気をつけないといけないね。それに、神武東征は、実際には一世代では終わってない事も遺跡とかを調べればわかるはずだけど。
複数の人物を1人の英雄として合成して神話にする事もよくあるわけだし、俺の結論を言えば、神武東征は、卑弥呼の弟の大日命、崇神天皇、神武天皇の3代に渡っている。崇神天皇が先。

何故かというと・・・卑弥呼のヤマト国は北九州の騎馬民族王朝と戦っていたけれど、結果として、騎馬民族の崇神天皇が東征する事になった。ただし近畿には既に高山王朝が来ていた(白山神社の分布は高山王朝の西征ルートを示す)ので、簡単には上陸できず、紀伊半島を迂回して伊勢から上陸した。畿内に入るにあたっては、高山の神スクナが神武天皇に位を授ける形になった。という順番で、その後、高句麗・百済と呼応する少数の騎馬民族と、多数派の天つ神のせめぎあいがある、っていう歴史だと思うんだよね。詳しくはまたね。

* * *


16. 五月晴郎 2012年7月17日 04:53:12 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
「世界の支配者の正体は」というパースペクティブで下記は正しいように思える。
ただし視点ということであって個々は例えばアシュケナジー = カザール説などはどうかと思う(アシュケナジーとはイデッシュを話していた人達のはずだがイデッシュは中央アジア系の言語でない)。


付録2;
世界の支配者の正体は(マヨのぼやき)
2009/01/18
http://mayo.blogzine.jp/blog/2009/01/post_d8b0.html

* * *
以前から天武天皇の正体を研究してきたが、小林惠子女史の説である淵蓋蘇文説を私も採用し、それに従って歴史を描いてきた。ところがこの淵の出自がまったく判明しない。

天武にせよ藤原不比等にしても、そして淵蓋蘇文も、もっというならジンギスカンでも前半生がはっきりしていない。新羅の歴史を調べても玉子から産まれた人が結構多い。坂東英二がゆで卵を大好物にしているが、韓国へ行くと軽蔑されるのではないか。

いずれにしても、そのような不確かな出自というのはおかしい。本人が知らないはずはないのだから、歴史に残す事ができないと見るべきだろう。もっとも、書かれていたとしてもそれが真実だという保証はない事はいうまでもないが。

結論から言ってしまおう。淵は突厥から派遣された高句麗の支配人だったのだ。つまり、高句麗王は傀儡であり、実質は突厥、つまりフン族の支配下にあったのだ。645年、唐の世民は高句麗と戦い、歴史的な敗北を喫した。つまり、突厥は唐も高句麗をも手中に収めた。

しかし、彼ら遊牧民は歴史に名を残す事を好まない。あくまで名目上の王と実質の帝王は別のものだ。負けた唐が勝った高句麗を亡ぼしたように見せたのはあくまで名目上のことだ。

従って、則天武までは傀儡だろう。その後、唐はチベットから吐蕃を引き込み、蛮族同士を争わせ、突厥は再び草原に後退する。

栗本氏の本を読んでいくと分かるが、スキタイ系遊牧民は決して亡びない。なぜならもともと実態がないからだ。守るべき物がない。ただ、誰が支配するかが決まっているだけで、部族も民族も首都も宗教もなにも決まっていない。しかしながら一番はっきりしているのは、彼等はシルクロード、しかも砂漠地帯ではなく、北方に存在する草原のシルクロードを支配し、東西の物流で莫大な利益を上げていたのだという。あくまで栗本氏の憶測だが、その最大の交易品が奴隷と武器の交換だったという。つまり、戦争で使う武器と、戦争で消費する兵士を商う、元祖武器商人だったのだ。

そのシルクロード支配部族、フン族の後裔に例のカザール王国が出現し、現在でもアシュケナジーユダヤとして世界の戦争を仕組み、金儲けに勤しんでいる事はむしろ当然であり、かれらの天職だったと言うべきだろう。なんといっても、彼らのもともとの出身地と思われるアルタイというのは、ずばり「金山」という意味だったらしい。かれらアルタイ人は生まれながらの金大好き民族だった。今でも戦争を起こし、そこで金儲けをするのは彼らである。

話を戻そう。かれら突厥は韓半島を適当に配分し、それぞれに王を指名し、実質はスキタイが実効支配したと考えられる。彼等は各王に自治権を認めるが、命令に反するとすぐに動乱がおき、即座に王が交代させられる。

日本はどうだったか、つまり突厥のイリ可汗は、日本へは代官として淵を派遣し、天武として日本を支配させたのだ。もともと歴史に興味のない彼等は、唐の官使の残す史書で自分達がどのように書かれようがどうでもよかったのであろう。

私が何年も日本史や中国史、そして朝鮮史を学んできて、どうしてもスッキリしなかった理由がそこにある。日本を始め多くの国の真の中枢に、誰も触れない、しゃべることすらはばかられる何かくびきのようなものが存在する事に気づく。日本の場合、天皇?、藤原氏?、そうではないだろう、何か見えない、誰も逆らえない大きな存在が。ユダヤなどというような小さいものではない。世界を今でも支配する大きなものがこのフン族であると確信する様になった。

間違いない。歴史書にないから存在しないという考えは違う。逆に書かれていることに真実がないというのが正しい認識なのだろう。

彼等の故郷に迫る事はできない。なぜならそれらの地域はどこも紛争地域で、普通の人々は絶対に近づく事ができない。アフガン、チベット、ウイグル、そして黒海近辺の紛争地域なのだ。きっとそこには彼等の墳墓や歴史的な記録が隠してあるのだろう。アジアの中心部分の大半は立ち入り禁止区域なのだ。見たいと思わないか?
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17. 五月晴郎 2012年7月17日 05:10:53 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
付録2plus;

パキスタンのカーペット産業の歴史的起源
http://www.gandh-ra.com/product/gandhara/life.html

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ペルシャ絨毯やパキスタン絨毯のガンダーラホームページをご覧いただき、誠にありがとうございます。これまで3回にわたって連載してきました、パキスタン政府機関(EXPORT PROMOTION BUREAU)発行の『PAKISTAN HAND-KNOTTED CARPETS』に掲載された論文を全文ご紹介いたします。

歴史ある製織の中心地

 パキスタンを構成する諸地域は、歴史的に、南亜大陸における手織り絨毯の名産地として世界中に知られている。しかし、その中心が「ラホール」である事実は意外に認知されていないようだ。

 ラホールは、ムガール王朝アクバリ大帝がこの地で絨毯を生産するために、イランから職人を呼び寄せた400年前から変わらない地位を保っている。

  当初は、原型であるペルシャ絨毯複製の生産にしかすぎなかったが、時が経つにつれ、ラホールの絨毯生産者はペルシャのデザインとモチーフを改変し、さらに特有の色合いや風味を加えた独特のモチーフや花のデザインを発達させ、伝統的なペルシャのデザインとともに用いた。象やカーネーションの描写は明らかに特有の発想を示している。
 
当時の高品質な絨毯は、1インチ四方に2000ものノット(結び)が施され、さらに使用されたウールが非常に高品質だったために、絹製品と間違えられるほどだったという。貿易商リチャード・ベルは、1637年に自分のために特注で絨毯を織らせたが、のちに会社に寄贈された。このカーペットは現在はロンドンのガードラー社の所有となっている。


歴史的つながり


 中央アジアとパキスタン諸地域の人々は、歴史的に深いつながりを持ち、パキスタン北部のカイバル峠を通って、部族や集団が定期的に両地域を往来した。
 スキタイ人、パルティア人、ペルシャ人、クシャン人、フン族など中央アジアからの人々が、パキスタンに何千年もの間に移動してきた。特にフン族は、必然的に独自の芸術や文化的工芸品を持ち込んだ。中央アジアでどこよりも早く絨毯の生産が発達したフン族との出合いはこの地に大きな影響をもたらした。

 パサン族やバルーチ部族民は、中央アジアの雪に覆われた山岳地帯に住む遊牧民と社会的・文化的に接触があり、類似した気候条件下にあったことから、彼らは急速にそして巧みに絨毯の生産技術を修得した。これらの地域では、キリムが何千年ものあいだ織られ続けていること、また、必ず覆いを施した床に座る伝統があることも知られている。

 およそ2000年前には、パキスタンの北部がペルシャの一部であったことも絨毯との重要なつながりの一つだ。その結果、この地域全体で共通した文明が栄えた。タキシラの町が興り、ギリシャの侵攻後「ガンダーラ文明」として知られているギリシャと仏教の融合文明が繁栄し、遠いこの地域に大きく影響を及ぼした。この時代の芸術や手工芸の多くが民衆のものとなり、絨毯生産もそこに存在していた。


インダス文明

約5000年前にパキスタンのシンドやパンジャブ地域で繁栄した世界最古の文明の一つが、インダス文明である。モヘンジョ・ダロやハラッパ遺跡での発掘は、インダス文明の人々が紡錘の使い方を知っており、多種多様な製織品を紡いでいたことを明らかにした。事実、歴史学者の中には、インダス文明が織布を最初に発達させたという見方をする者もいる。モヘンジョ・ダロで発見された壁面レリーフやテラコッタ製の彫像がショールだけでなくラグのような床敷物が広く使用されていたことを示している。絨毯生産技術がここで最初に発達し、周辺地域や中央アジアへと広がっていったのであろう。

 織布の伝統はパキスタンの様々な地域で、民族文化として存続している。我々の民族文化に特徴的な織物デザインは、絨毯デザインの基礎である花や幾何学模様を示している。これにより、絨毯生産とデザインの技術が非常に古くからこの地に存在していたということが明らかである。


イスラムの歴史における手織り絨毯

 絨毯生産技術の発達は、バグダット・ダマスカス・コルドバ・デリー・ラホール、そして中央アジアの伝説的な都市にいち早く根付いたイスラム文明と密接に関係している。花・葉・巻きひげ状・渦巻き状などの複雑な模様で構成された、よく知られている絨毯のデザインは、動物や人物の肖像表現を嫌うイスラム教の文化的影響下で発達した。アラブやペルシャの文学中での絨毯への言及は数知れない。「カリフ・ハルーン・アル・ラシャド」の宮殿は、数え切れないほどの絨毯を所有していたという。絨毯生産は、基本的にイスラムの遺産であると同時に、イスラム教とともにこの地域にもたらされた最初の手工芸品である。
 
歴史学者は、現在パキスタンを構成している地域に絨毯生産が導入されたのは、11世紀まで遡り、最初のイスラムの征服者である「ガズナビ」と「ガウリス」によってであると考えている。のちにイスラムのムガール皇帝たちが織職人を連れて来て、絨毯生産の中心地を興した。ラホール・ムルタン・ハイデラバード、インドのアーグラー・ミルザプール・ジャイプールといった都市は、それらの絨毯によって有名になったのである。

 全体を通じて、それらの絨毯は基本的にイスラムの特徴を持つ。絨毯生産を支援したのはイスラム・ムガールの王たちであり、ノットをデザインへと織り込み、自国を越えて評判と名声を獲得したのはイスラムの織職人たちであった。
 歴史的見地からすると、パキスタンおよびイランを含む中央アジアの絨毯産業はどれも同じ源泉から着想を得ており、どちらが元祖でどちらが模倣だと言うと嘘になるかもしれない。


ラホールの絨毯

 ムガール帝国の王たちは芸術と文化の偉大な支援者であった。彼らが高度に洗練させた美意識を持っていたことは、当時の考古学的遺物から明らかである。彼らはラホールに宮殿を建設し(Lahore Fort ユネスコ世界文化遺産に登録されている)そこに持てるすべての技術と芸術を注ぎ込んだが、特に絨毯生産を推進した。

 第四代皇帝「ジャハンギール」やその長男で第五代皇帝「シャージャハーン」といったムガール国王たちのために創られた絨毯は最高品質のものであった。15〜16世紀にラホールで生産された絨毯は名声を博し、いまだパキスタンや外国人収集家の私的所有となっている。中には絹の縦糸に、1インチ四方に2600ノットという驚異的密度を有するものもある。またロンドンをはじめ各地のミュージアムに所蔵されているこの時代のラホールの絨毯は少なくない。一説によれば、この時代ムガール帝国は、ラホール周辺に1000の工場を設け、ショールと絨毯を生産した。それに特産の綿や香辛料を加え、二万五千頭のラクダを要して、遠くヨーロッパまで売り歩き富を築いたと言う。

 ラホールに於ける絨毯産業の発達を歴史的に見ると、5000年前のインダス文明の織布文明に端を発し、そして数千年間に渡る、中央アジアやペルシャとの人的往来によって持ち込まれた敷物の文化と技術が育まれてきた矢先に、ムガール帝国アクバリ大帝の先見に満ちた国策が加わって巨大産業に発展し今日に至ったものである。          
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18. 五月晴郎 2012年7月17日 14:09:56 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
付録3;
パルティア日本法人(マヨのぼやき)
http://mayo.blogzine.jp/blog/2009/01/post_a4d9.html

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昨日は鮮卑、拓跋族の研究成果を発表しました。本日は現在のイラン近辺にあり、その後消滅したパルティアのことについて少し発表します。

このパルティアは中国表記では安息国と呼ばれ、漢時代には遼東方面に移住したといわれている。さて、この安息氏と思われる人物が登場するのは好太王のときである。

『梁書』高句麗伝

 396年、慕容垂が死に、子の宝が立つ。句驪王の安を平州牧に任じ、遼東と帯方の二國王に封じた。安は長吏、司馬、参軍官を置いた。その後、遼東郡を略取した

詳しくは略すが、このとき高句麗は鮮卑、慕容氏の傀儡であった。この安氏こそスキタイ王なのである。中国史にも登場する安羅国とは、この安息氏の国に違いない。慕容氏は高句麗王に安羅王を指名し、広開土王とも言われるが、倭、百済、新羅の攻撃を防ぎ、高句麗最盛期を築き上げた。私の想像では、彼は応神天皇として九州へ攻め入り、宇佐で秦氏と同盟する。その後、近畿地方まで攻め入り、飛鳥に本拠を構えた。そのとき移住した王族が後の王仁(わに)一族であろう。飛鳥は安氏の住むところで「あすか」である。彼等の東征が神武東征の実態と考えている。

その当時、近畿地方を占有していたのが海部一族、即ち敦賀から上陸し、伊勢王国を作っていた一族で、やはり安羅国から来た古代イスラエル部族であった。彼等は応神天皇と同族だ、つまり、ニギハヤヒなのである。応神天皇は奈良に入り、ニギハヤヒの末裔、ウマシマジと対面する。ウマシマジは屈服し政権を譲る。ウマシマジは伊勢の斎宮に王朝を構え、応神と協調路線をとる。このとき逃亡したナガスネヒコが青森に逃げたという説もある。私見では、猿田彦はナガスネ彦ではないだろうかと思っている。

彼等は旧支配者の一員として、天武朝後も生き残り、その姫が安宿姫、藤原光明子である。つまり、藤原仲麻呂家は鮮卑、慕容氏系のスキタイ族であった。

唐の時代、やはり安息氏系の一族が唐に反乱を起こす。これが安禄山の乱という。これに呼応する形で、渤海は日本と示しあい、新羅を挟み撃ちにしようと試みる。このときすでに光明子は亡く、吉備氏、弓削氏らにより仲麻呂は亡ぼされ、鮮卑、慕容氏は日本での地位を失ったと考えられる。これ以後、日本と渤海の関係は文化的な方面に限定され、軍事的な同盟関係は失われた。つまり、これから推察するに、渤海の支配層は鮮卑、慕容氏と考えてもよいのではないだろうか。もちろんまだまだ確定するべきではないが。

このように、安羅国は相当大きな勢力を持っていたと考えられるが、韓国の歴史書では相当矮小化されており、到底納得できない。おそらく通常の歴史解説書における百済国がそれに相当すると考えても間違いはないと思っている。なぜなら百済王といわれる武寧王の古墳はスキタイ形式であるし、南部方面には前方後円墳が多く見られる。いずれこのあたりも解明しなければならない。
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19. 五月晴郎 2012年7月17日 14:25:19 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
付録4;
捏造の歴史の本質は(マヨのぼやき)
http://mayo.blogzine.jp/blog/2009/02/post_09cf.html
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2009/02/12

私の歴史研究もそろそろ五年目を迎えた。60歳になったら還暦のパーティーを開き、その時の引き出物に自分で作った本を配りたい。これが私の研究の発端なのである。「何かの本」が目的であり、歴史の研究はたまたまそれにしようと思っただけである。

最初は手っ取り早く邪馬台国の所在地を見つけ発表すればいいのではないかと思い、各種それらしい本を見つけては読み出した。一番おもしろいと思ったのが鹿島昇氏だった。彼のおかげで邪馬台国よりも、明治天皇の出自、あるいはシーグレイプの「YamatoDynasty」の翻訳などを始め、とんだ道草を食う事になった。しかし、おかげで鬼塚氏と知り合い、その関係で「Goldwarriors」の翻訳を始めた。別にこれでなければというジャンルがあったわけではないので、道草はとても楽しく、そしてずいぶんと勉強になった。

いまは突厥を中心とした中央アジアを主に研究しているが、大変に恐ろしいことが見えてくる。

つまり、現代にも通じる支配構造の原型が古代においてすでに完成していたような気がするのだ。日本史や中国史の枠内で勉強していては絶対に見えてこない世界がそこにある。古代の匈奴、そしてフン族、そして突厥はすでに世界帝国を完成させていたのだ。しかも、一番問題なのはそれらの支配層が見えてこないことだ。

実は彼等の住むところが「天」であり、そこから各地に派遣される王族は「神」と呼ばれ、それぞれが自分の決められた場所で国を作る。この派遣されることを「天降る」という。各地の王様は毎年決まった額の家賃を納めさえすればその地位は安泰である。仮に家賃を延滞すれば新しい神様が選ばれそこへ送られ、王が失脚する事になる。「神」が派遣されるときの先発隊は、「烏」と呼ばれたとは「億うそ」さんからの受け売りだが・・・。

我々が見てきた歴史書には、どうもこの「天」の存在が書かれていない気がする。各地の国の歴史はそれぞれ残されている。そして神、即ち派遣された王様もわかっている。しかし、肝心の「天」がどこにあって、どんな民族で、白人なのか黄色なのか、はたまた黒人なのかまったくわからないのである。つまり、捏造の歴史のそもそもの目的が、この「天」を見えなくするための操作であったのではないか。この考え方こそが私の五年に渡る研究の成果であり、あと三年の間に解決するべき課題なのである。

日本史、中国史、朝鮮史、すべて捏造だらけである事は常識である。でも、何のために、どのようにして歴史を書き換えたのか。これは本当のところを誰も応えてはくれない。

しかし、李世民が唐を世界帝国にし、過去の中国の歴史を大幅に捏造した事は間違いないことで、さらにそれが日本書紀、あるいは三国史記にも影響を与えたと見るべきだ。

つまり、唐が歴史を捏造した理由と日本が歴史を書き換える理由は恐らく同じ動機からだったはずである。

それは唐の支配部族が鮮卑、拓跋族であったこと。さらに、李世民が「天」から派遣された単なる「小可汗」に過ぎなかったこと。さらには「天」の代理人「突厥」に頭が上がらなかった事。これらをすべてないものとし、あたかも唐が漢民族が作り上げた世界でも類がない大帝国であるという中華思想を作り上げたのだ。結局、「天」の存在を消し、そこへの朝貢を隠し、本当の支配構造を見えなくしたのだ。

日本書紀や古事記に描かれている建国神話は、「天」から天下った天孫たちが日本を支配した構造を説明している。しかしこれは概念であり、現実に建国されたのは天武朝で、完璧に確立したのが桓武天皇時代だと思われる。

古代においてそれらを演出したのはシルクロードを縦横に支配していたソグド人に違いない。彼等が商業行為を営みながら、情報や金、そして女、奴隷、武器などを供給し、「天」の命令を忠実に実行したのだ。彼等はカザール王国を建国したものの世界に散り、今やユダヤ・イルミナティーと呼ばれている。(これは私の憶測)

そして「天」が誰で、どこにいるのか、それが未だに謎なのである。
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20. 五月晴郎 2012年7月18日 14:00:25 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
(略)
 
ようするに、スキタイとは、権力の核となる特定の集団の名にもとづくものではあるけれども(なお、この集団そのものは、それほど大規模ではなく、到底、近現代史でいう「民族」などといったレベルのものではない)、現実の意味あいとしては、その集団を中心に結成された大型・広域の政治連合体のことなのである。それを、ふだんわれわれが使いなれたことばで置き換えるなら、「国家」というのがもっとも近いだろう。

 「スキタイ」とは、人種や生業がどうであろうとも、それぞれの集団や地域もしくは人間が、それとして自分が所属すると意識する最大の政治・社会単位、すなわち国家の名といっていい。ここに、すべての鍵がある。

 従来は、こうした「集団」を暢気に「民族」と表現してきた。しかも、ごくごく気楽に使用した「民族」という用語で、近現代のそれなりに重い現実をともなう「民族」と対置して、しばしば安易にひとしなみに扱い、なにかを論じたり語りがちであった。率直にいって、これまで歴史上の「民族」や「国家」についての議論はお手軽すぎた。

 ひるがえって、そもそも人はことばで考える。抽象の想念といっても、ほとんどはことばを媒体に頭のなかで想いをめぐらす。過去や現在に関することがらやものごとも、「用語」「単語」で類別し、判別する。

 ところが、いったんおなじ「ことば」で命名され、表現されてしまうと、もともとのところにあった用語選択の不用意さ、概念規定のでたらめさ、曖昧さなどは、もはやほとんど意識されることはない。

 こうして似て非なるものが、あたかも同一の事象とされてしまったり、またじつのところ不確かで輪郭もおぼろげな過去になにかが、人の口の端に乗せられて、くりかえされていくうちに「常識」「定説」となって、確然たる現在のことがらと、おなじ水準で語られてしまう。

 かくて、まことに不幸な誤解や壮大な虚説が誕生し、さらに拡大再生産されてゆく。十九世紀からの多くの人を動かした歴史理論、歴史哲学論にみえる「民族」の語の乱用は、そのたぐいである。

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 スキタイは、その格好の反証となる。ようするに、「国家」としての名称だから、「ギリシア系スキタイ人」もありえるのである。スキタイは、遊牧“民”が中核となった「国家」ではありえたも、スキタイという「民族」単位の遊牧民族国家ではありえない。また、その「遊牧国家」とはいっても、世界史上、単一の遊牧民集団によって「国家」と呼べるものが形成さることはまれであり、その嚆矢となったスキタイがそうであるように、さまざまな雑多の人間集団の連合体、つまり限りなく「コンフェデレイション」であることにこそ、存在の要諦があることも、ここによく示されている。
 
 そうであるからこそ、結束・連合の“かなめ”が揺るげば、こうした連合体はたちまち雲散霧消しかねない。史上の遊牧国家が結成されやすく、瓦解しやすいのは、そのためである。遊牧国家の強さも弱さも、ここにある。強さともろさは、背中あわせのものである。その宿命を、はじめから濃密に帯びている。この点を、是非、頭にとどめておいていただきたい。

転載元:「遊牧民から見た世界史」杉山正明著 P103 P104 P106


21. 五月晴郎 2012年7月19日 01:04:12 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
  国家パターンの二大源流


スキタイについて、なおいくつか述べたい。まず、スキタイによって歴史記述の表面に、たとえわずかなりともはじめて登場することになった西北ユーラシアとそこでの大きな時代形成についてである。

 スキタイの起源をたずねると、「スキタイ―ペルシア戦役」よりも随分とまえ、おそらくすでに紀元前八―七世紀ころに東方からヴォルガ流域に到達した。たぶんは、中央アジア方面からやってきたのである。

 中央アジアには、アケメネス朝の「ペルシア」人たちによって、「サカ」と一括して呼ばれたイラン系の人びとがいた。厳密な議論ではないが、漢語文献にみえる「塞(さく)」も、これらの人びとをさしたといわれている。

 「スキタイ」というギリシア語による呼び名は、この「サカ」と一連のものと考えざるをえない。それぞれ語の基本要素は共通している。中央アジアで騎乗技術を発達させたイラン系の遊牧民のうち、その一部がカスピ海から黒海の北岸地域に移動したのが、いわゆる「スキタイ」であった。

 かれらは、そこで先住のキンメリア人(その詳細はわからない。しょせんは、ヘロドトスが語る「スキタイ開国伝説」に頼るほかない)を駆逐して、「スキタイ」国家を形成したとされる。ダレイオスの北征は、むしろその強大さが「満天下」に知れわたる機会にすぎなかった。

 その後先述の「南北対峙」(これを、いわゆる「冷戦」といえるかどうかは十分な史料を欠き、よくわからない)の二00年余をへて、マケドニアにアレクサンドロス大王があらわれた。「歴史構造の転換期」のひとつといっていいこの前四世紀ころ、かつては強大であったはずの「スキタイ連合」も衰退にむかっていたらしい。南のライヴァル、アケメネス朝もまた、くだり坂は顕著であった。

 スキタイ国家は、アレクサンドロスの北征軍については撃退した。しかし、東方から進出するサルマタイという集団に押され、じりじり西へ移り、前三世紀のなかごろには、この大勢力は解体したらしい。

 曖昧ないい方にならざるをえないのは、スキタイ解体とそれにいたる詳しい事情は、残念ながらあまりよくわからないからである。文献を欠くということは、やはりいかにもつらい。スキタイが文献の表面に大書されるのは、そもそもダイオレスの治世やアレクサンドロスがらみということ自体、みずからを語ろうとしない遊牧民たちの悲しい宿命かもしれない。

 だからこそ、書かれていない、知られていないからといって、事実がなかったわけではない。これに限らず、過去についても現在についても、書いたほうの「手前勝手」の世界に、わたしたちはいるのだということを、あらためておもう必要があることはいうまでもない。

 スキタイに代わったサルマタイは、黒海北岸一帯をふくむ南ロシア草原を長く支配した。ときには、ローマ帝国の領内にも侵攻した。その強勢ぶりは、やはり周辺地域の脅威であった。おそらくはサルマタイも「スキタイ型」の国家だったのだろう。遺跡・遺物も、サルマタイがスキタイ以来の「文化伝統」のなかにあったことを物語る。

 しかしそのサルマタイもまた、紀元後四世紀、東方の中央アジア方面からの波に襲われた。フンが、姿をあらわしたのである。「サルマタイ連合」は瓦解して、フンの覇権のもとに吸収された。

 フンによる「世界史の転換」は、サルマタイの併合、南ロシア草原の掌握という段階がまず最初にあったことを、もう一度、思う必要がある。「ゲルマン系の諸族」の大移動(あえて「ゲルマン民族」といわない。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」――正確には独語でただ「フェルガー・ヴァンデルンク」、すなわち「民族移動」――という歴史の大テーゼは、十九世紀前半、「ドイツ民族」の統合と「統一ドイツ国家」の出現をのぞむ気運と無縁でないからである)という「玉つき現象」は、そのあとにある。

 こうした経緯を一括していえば、西北ユーラシア方面では、遊牧軍事集団を中核とする政治連合体があいついで形成されるパターンがつづいたのである。そのさい、東方からの新来者によって、中核集団の交代と連合体の組みかえがおこなわれるのも、この方面の「政治伝統」となった。

 さらに、そうした中核集団の本拠地はといえば、雨は降るけれども土地は痩せた森林地帯のいわゆるロシア地方(現在のモスクワ市を中心とする地域)などでは決してなく、一貫して雨は少ないけれども土壌は肥沃な草原地帯、とくにヴォルガ下流域からドン下流域、そして北カフカズ一帯という図式であったことも、注意される。

 ユーラシアの歴史においては、十五世紀末から西流が東風を「圧倒」したことがどうしても目につくため、ともすれば総じて西から東への動きがことさらに強調されがちであるが(「ヘレニズム」や「シルク・ロード」もその一環)、すくなくとも草原ルートに関しては、東から西への波が近代以前においては顕著であったことは確実である。

 十三・十四世紀のモンゴルの西北ユーラシアへの到来、その長期支配は、そうした最後の波である。ジョチ・ウルスを頂点とする三00年にわたる穏やかな政治システムのなかから生まれたロシアは、この伝統の波を最後の最後に裏返しするかたちで、西から東へすすみ、北方の雄たるロシアという北廻りの「「ユーラシア帝国」を前近代の最末期に出現せしめるのである(とはいえ、ロシアの「東方領」が実効支配されるのは、シベリア鉄道の開通後とするほうが妥当だろうが)。

 つぎに、スキタイとその社会・文化の影響力に関連してのことである。これまでの考古学調査によって、スキタイは独特の動物意匠に特徴づけられる青銅器文化をもっていたことが知られている。そうした「スキタイ風」の文化圏は、西では、現在のハンガリーやドイツまでおよぶ。そして、東については、もとよりいまは「影響圏」という曖昧な表現にとどめざるをえないが、シベリアを通り、モンゴル高原からさらに雲南省にまでいたるのである。

 東に延びる巨大なひろがりを、しばしば「スキタイ・シベリア型」(スキト・サイベリアン)の文化とも表現する。もちろん厳密な学問研究は、むしろ今後に活性化が予想されるシベリア−モンゴル−中国での考古学発掘の成果と検討にまたねばならないものの、ここで重要なことは、遊牧騎馬生活を前提とする社会・文化のスタイル(それは文化類型といってもいい)が、「スキタイ国家」の直接の領域をはるかにこえて、中央ユーラシアの草原地帯とその北側にひろがる森林ステップ地帯のほとんどをおおいつくしている事実である。

 それは当然、ある程度長いタイムスパンの結果であろうが、ともかくこの巨大な地域がすくなくともスキタイ以後、遊牧民とその文化を共通項とする「世界」に、塗りかわっていったことを示すように考えられるのである。そもそも、「中央ユーラシア」という大区分を設定する理由のひとつ、そして歴史上で最初の根拠はここにある。

 さらにもうひとつ、ある意味ではもっとも重大なことにかかわる点を述べたい。それは、このスキタイ国家がいわゆる遊牧国家というものの源流をなすいっぽう、スキタイと並立したアケメネス朝ペルシア帝国もまた多様な地域社会をつつみこんだ「巨大国家」のパターンの源流をなしていることである。つまり、スキタイとアケメネスという南北両国は、その後のユーラシア史における二種の国家パターン(それも広域国家)の原点なのである。

 じつは、アケメネス朝という大帝国の中核をなした「ペルシア人」という集団そのものが、一0個の分族からなるアーリア系の遊牧民集団であった。紀元前七00年ころに、ザグロス山中の「ファールス」(すでに述べたように、「ペルシア」というギリシア語にもとづく西洋語の他称は、このファールスに由来する)を根拠地としたのち、前六世紀のなかばころ、イラン高原の大半を版図とするメディア王国を凌いで覇権への道を辿ることとなった。

 本拠地となる土地への移動といい、その後の「国家」形成といい、じつはその時期は、スキタイ国家とほとんど変わりないのである。ユーラシア西半では、紀元前八世紀から六世紀にかけて、南北でふたつの大型の領域国家があいついで誕生していたことになる。しかも、どちらも遊牧民の軍事集団に、国家形成の鍵があったことになる(アケメネス朝が巨大帝国になってからは、歩兵部隊が多数を占めたものの、最後の切り札の部隊は「ペルシア人」の騎兵であった)。

 ただし、南北地域の立地条件(アケメネス朝は、より多様で大規模ないくつかの「農耕文明」をとりこめた)と、そこにいたるまでの前史とのふたつの点においてちがいがあった。

 アケメネス朝のまえには、メディアがおり、メディアのまえにはアッシリアがいた。アッシリアは、戦車方式による馬車を中核とした強力な軍事権力をもち、それによって「地域国家」を乗り越えた広域性のある「帝国」を、世界史上ではじめて形成したとされる。

 アッシリア−メディア−アケメネス朝ペルシアという流れは、戦車と騎馬のちがいはあるが、機動性の高い馬軍戦力にもとづく一連の「帝国」の系譜なのである。エジプト、フェニキア、リュディア、バビロニアなどの古い「文明国家」群は、この系譜のなかにしだいに取りこまれていったのであった。

 よく知られているように、アケメネス朝は、複数の「首都」をもった。というよりも、複数の「王権の所在地」をもち、王は支配集団となった「ペルシア人」の軍団ごと、その間を移動した。一時なりとも、腰をおろし駐留したところが、いわば「首都」であった。

 その「王権の所在地」は、エクバタナが旧メディア王国の、バビロンが旧バビロニア王国の、スーサは旧エラム王国の、それぞれの「旧都」であった。かたや、「ファールス本土」には、 パサルガタエとペルセポリスがあたものの、むしろこちらに王権が駐留する時間は短かった。

 ダレイオスの登極ののち、新造されたペルセポリスは、いまにのこる豪奢な遺構とアレクサンドロスのときに炎上したことの二点によって、一般にはアケメネス朝の「首都」というイメージが強い。しかし実際には、モニュメンタルな神殿の集合体であり、「住まう都市」ではない。むしろ大帝国に発展したアケメネス朝にとって、王権の神聖と偉大さを記念する精神上のシンボルといった色彩のほうが濃い。多分に「見せる都市」である。

 アケメネス朝の君主たちが、みずからを「王のなかの王」といったのは、こうした事態を踏まえている。まさしく、すでにそれぞれが固有の営みと歴史をもつ国々・諸地域を寄りあわせた集合体だったからである。

 大領域の各地に、従来からの各王国の都をあらたにみずからの「王都」として複数かかえこむアケメネス朝は、文字どおり「多核」の連合帝国であった。王権は、そうした帝国支配の拠点とする複数の核のあいだを巡察しつつ、大版図を保持したのである。逆にいえば、一カ所にとどまることはできなかったし、すべきでもなかった(なお、現実の政治機能としては、ほぼ帝国全土の中央部に位置し、中央官庁施設が集中したスーサが、あえていえば現在の感覚でいう「首都」に近かった)。

 ダレイオス一世は、そうした多核国家を再統一しただけでなく、さらに外にむかっては拡大し、内においては国家機能を本格整備した。「世界帝国」としてのアケメネス朝は、ダレイオスをこそ事実上の建設者とするといっていい。

 ダレイオスは、壮大な構想のもとに、驚くほど広範・多岐な国家・社会の建設事業をくりひろげた。すなわち、全土を二0州に区分して総督(サトラップ)によって統治させた有名な分割委任方式、ただし人事運営上の中央管理(つまり地方分権と中央集権の抱きあわせ)という点をはじめ、人種主義のうすい緩やかな連合体としての政治・行政組織、特定の宗教を押しつけることのない寛容な文化・社会施策、ただし政権をささえる中核集団としての「純ペルシア人」と「“準”ペルシア人」としてのメディア人の優遇(つまり、属領における在地主義の尊重と、中枢における「ペルシア主義」の堅持)、さらには帝国全土にわたる緩やかな統一税制と統一度量衡の施行のいっぽう、「王の道」と呼ばれる幹線道路と駅伝制の整備、経済面における金銀貨幣の鋳造と貨幣経済の本格導入、そして政府主導による通商・交易の活性化と、そえにもとづく国家財政の充足(つまり、地域や属領の枠をこえた「社会基盤」の整備と、中央権力による統合化諸政策)などなど――。

 中央と属領という両面への配慮をもとに組みたてられたダレイオスの諸政策は、トータルな意味における国家・社会・経済・文化建設の要点をほとんど網羅している。その後の人類史における「国家」というものの原点、とりわけ「帝国支配の原像」とでもいってよいかたちの大半は、ダレイオスの国家建設事業のなかに尽くされている。

 目を三00年ほどのちの東方に転じて、つぎに触れる秦の始皇帝による統一化政策など、まったくといってよいほどこのひき写しである(というよりも、半分もなされていない)。ほぼ一代でなしとげられたといっていい国家建設の壮大さ、根本制において、世界史上、ダレイオスに比肩できるのは、ひょっとして後述するクビライくらいかもしれない。ふたりとも、国家の創業者でなく再建者であったこと、その権力はクーデタで獲得したものであったこと、それぞれの当時に知られていた「世界」をまるごと組織化しようとしたこと、軍事・政治とともに経済のきわめて重視したことなど、共通点は多い。海への視野や、海軍建設なども、そうである。ただ、軍事力の点で、ペルシア人はモンゴル人よりもひどく弱かったこと、そしてダレイオスのほうがクビライよりも、もっと経済に傾いて「商売人」と言ってもいいほどであったことが、相違点だろう。

 極端にいえば、ダレイオス以後、古今東西のあらゆる国家・政権は、じつは現在もふくめて、ダレイオスの影響下にあるとさえいっていいかもしれない。その意味では、去れ区サンドロスなどは、しょせんはダレイオスの追随者か、かれに憧れた一種の「ファン」にすぎないとさえいえるだろう。

 こうして見ると、ときとしてギリシア都市文明の意義のみを、もっぱら高々と掲げるかにおもえる主張や言説のかずかずは、もちろん相応の理由はあるにせよ、いささか偏狭でひとりよがりな面も否定できない(ひどい場合は、西洋中心主義の「宣教行為」にも類するとさえ、いえるようなこともあるが)。

 「ユーラシア世界史」の冒頭に、そろってあらわれたスキタイとアケメネス朝というふたつの「国家のかたち」は、いくつかのことをわれわれに雄弁に方合ってくれる。もっとも肝心なことは、遊牧国家といい、農耕帝国といっても、大型の国家が形成される場合、その端緒は意外に近接したところにあることである。しょせん、どちらも権力の核として移動性・集団性・機動性・戦闘性にとんだ軍事集団をもち、その威力なしでは成立しえない。

 くわえて、権力や領域がより大型になるためには、どうしても「連合体」の側面をおびるのは必然であること、さらにそれらの結果として形成された広域の「国家」においては、当然の帰結として人種主義・地域主義をこえたハイブリッドな性格が際立っており、それは近現代において編みだされた「民族」などという狭く堅苦しい枠組みではとてもあてはまりようもないことなど、いずれも見逃すことのできない要点をも、同時に示してくれる。それらのことは、「ユーラシア世界史」を眺めるうえで鍵となる。単純にひとつの色で塗りこめられる「国家」「民族」など、限りなく存在しないのである。

転載元:「遊牧民から見た世界史」杉山正明著 P111 P112 P113 P114 P115 P116 P117 P118 P119 P120 P121 P122


22. 五月晴郎 2012年7月19日 01:57:15 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode12.html

○「知識民族としてのスメル族」 高楠順次郎著(教典出版社 昭和19年)

一 スメル《=シュメール》民族の発祥地
(四)スメル族集散の基地
 斯る広大なる文化圏に連関し、多大なる言語群に関係する根本のスメル民族は抑も何れより発祥せしか、何人も未だ嘗てその考定を敢てしたものはないのである。
 世界の民族移動史に於て、民族集散の拠点たる地は主として中央亜細亜である。
中亜《=中央アジア》は今は広大なる沙漠となって居るが、
スメル族の移動は必然に新疆が沙漠化せざる以前であらねばならぬ。
 その沙漠化以後に於ても、秦の始皇帝もここに出て、魏の拓跋氏もここに出て、
欧亜(ヨーロッパアジア)の海峡まで歩武(ほぶ)を進めた突厥族《トルコ民族》も、
独澳(ドイツ・オーストリア)の間に介在し今尚存在を全うせる匈奴族《ハンガリー民族》も、
印度を押領した貴霜(クシャナ)月氏も、何れも中亜を根拠地としないものはないのである。
 殊に大沙漠の南部タクラマカン砂漠に存するセリンディヤ〔絹の印度〕はコタンの故地であって、
現地発掘の示す如く、灌漑の規模も広く且深く、水田耕作は盛んに行われて居った。
 殊に桑蚕業、紡織業は以て特色となし、東、支那《中国のこと》を貫き、
西、バビロンに通ずる「絹の通路(シルクロード)」の中心たる都市であって、六城の重鎮とされた大都城である。
これが太古の豁且(クワタン)で今日の和闐(ホータン(和田))である。
 日本に伝ふる蘇民将来の伝説に伴ふ巨丹将来の巨丹(コタン)で、
仏教の于闐(ウテン)である。今は単にコタンと書き習はしたい。(6〜7頁)

 首都の外郭西南に牛頭山(ゴーシュリンガ)と名くる小山は、三蔵法師が精しく記載して居る如く、昔より聖地とされて居る。
 今は回教《イスラム教》の「象牙の御殿」となって居るが、ここにコーマル(牛頭窟)と名くる美はしい大石窟がある。
これは朝鮮の曽尸茂梨(牛頭里/ソシモリ)と類比すべきものである。
 中亜の首都というべきコタンは、世界の絹の原産地として、絹布や絹綿の名を、東西倶にコタンの古名より取り、
 スメル語カタ、欧語(ヨーロッパ言語)カタン、コトン、阿刺比亜語(アラビア語)ケタン、日本語ハタとなり、広く古名が残されて居る。(8頁〜9頁)

(七)印度釈迦族の世系
 斯く優秀性を有つ民族であるから、
仏は年に一度この国土《スメル民族発祥地のこと》に遊履せられたと伝えて居る。
 この伝説に相応しく、釈迦如来は全くスメル系クル族の裔である。
仏の頭髪が螺旋を為して捲き、胸にバビロンに特有なる卍を印し、小亜細亜から印度、豪州までに関係ありと覚しき転輪王救世主の思想を掲示せる点よりして、
釈尊がスメル族の出爾であることは殆ど疑ひなしと謂ふべきである。その世系を主として仏本行集経より拠って見ると左の如くである。

  衆所許大転輪王―二十七世―大須彌(スメル)小転輪王―…(略)…―甘庶王―…拘盧王…悉達多太子(釈尊)

(14頁〜15頁)

(九)結論
   スメル族の根本的発祥地は上示の如く、スメル天宮の北陰を繞(めぐ)るスメル=クル〔崑崙(コンロン)〕大高原である。
最古く最遠く進出したのは小亜細亜のバビロンのスメル族である。(西紀元前四五千年の間))、
 次に印度の西疆〔アパランダ〕に進出したのはスメル系バラタ族、スメル月氏系プル族である(西紀元前三千年)。
次にスメル系山上の崑崙族の陸に降りしものは日氏系甘蔗氏のクル釈迦族である(西紀元前一千年)。
地上の崑崙族としては、その史蹟は十分ではないがムンダ族がある。中印度と北印度に偏布して居る。
 地底の崑崙族としては、慥(たしか)に印度から南洋に移住した形跡の明らかなるものはインドネシャ族で
西起原前二百年頃から唐代にかけて盛んに移住して、印度馬来(マライ)文明を造った民族である。
 この外にスメル系馬来(マライ)族として文化性を発揮した崑崙族、即ち海の崑崙族がある。
 これに太平洋全面に亘る民族、
即ちポリネシャ(布哇(フィリピン)からサモアに至る全群島)ミクロネシャ(日本委任統治の諸島(昭和十九年当時))と
オーストララシャ(オーストラシア)、メラネシヤと
一切の太平洋スメル語群を合わせて海の崑崙族を代表せしめたい。
 これでスメル系全民族を挙示し、その発祥地を明らかにし、
その文化、その言語に於て関係せる全面を示したわけである。(20頁)

補篇

巨丹将来は蘇民将来の護符に伴へる伝説に見ゆる名である。護符のことは丹後風土記にありしを釈日本紀に引用して今に存して居る。要領を示せば、ある旅行者(牛頭大王)旅に労れ、巨丹将来(コタン王)の家に到り宿を請ふ。許さず。依て蘇民将来(スメル王)の家に到る。
 歓待供給宜しきを得、そのサガラ(印度川流域名)に向かって去らんとするに臨み、「蘇民将来の子孫は永遠に護る」と云ひ去る。
 依て地方民、護符を作り、之に「蘇民将来之子孫也」と書す。
 信州上田国分寺に於ては木製護符を出す、木を造るもの、字を書くもの、その家定まれりと云ふ。
 佐渡、神戸(天王)、福山、山口、徳島等皆紙製造護符を出す。
 伊勢山田にては祭日には「蘇民将来之子孫宿処也」と家々の門に記すと云ふ。
 蘇民はスメルで巨丹はコタンなることは言ふまでのない。
 これは巨丹の桑蚕業(ようさん)を伝えた弓月君以来秦地の秦氏、西紀二百八十三年(応神帝十四年)以来、長域路を経て百済新羅を経て入朝した。
 欽明帝元年(西紀五百四十年)には秦氏七千五十三戸を日本に分籍せらる。一戸十五人であるから十万以上の秦氏があった。
 分籍の主たる地方は山城盆地(太秦は総本家の居処)、西陣は織場で、江州《近江=滋賀県》百済寺の下に在りし秦氏は売場の主である。
 関東では大秦野、八王子、飯能、桐生、秩父、足利、福島、信州高遠(全部秦氏)などであった。

秦氏の持来したるものと思はるるは、
蘇民将来の護符(一)、
四軍団を遊戯とした将碁(印度のチャトランッギー四軍戯をコタンで作り替へ、玉を以て大将〔将来〕とあって玉金銀を配したものである。印度の元戯は歩兵、車兵、象兵〔角行は象の字を分けたもの〕、馬兵あって玉金銀はなし。)(二)。
折木(かり)四遊戯(カリ戯は木片四個を投ず博羅塞(プラーサカ)〔塞コロ〕の遊びである。万葉に見え、朝鮮にも存す)花かるたの起原たるもの(三)。
双六遊戯(双六はスゴロクで朝鮮語スゴロクと同じである)内識と外境との結ぼれを早く脱したるを可とする仏教遊戯である(四)。
昔から行はるる舞である(五)。

以上の四遊戯と一舞楽は慥(たし)に秦氏の持来したものである。
 スメル族崑崙族に共通なるは水田作業と桑蚕紡織業とであるからこれに因む牛は必然の付属物である。バビロンのスメル族も牛貨州(ゴーダーニ)であり、その美術を見ても牛は多きを占めて居る。
 印度クル族の大戦争も牧牛の奪取を以て開始せらるる。陸のクル族から山の崑崙に族分流したニポール(尼波羅)はグルカ族と自称する。牛護主と云ふ意味である。
 コタンは原語「牛の里」であるとする想定は、当否は別として、その霊地は大石窟ある牛頭山であることは周知の事実である。
その分霊場たる牛頭山は支那にもあるが、朝鮮の曽尸茂梨(ソシモリ)(牛頭里)もそれである。
 日本に祭らるる牛頭天王(祇園の鎮守)もその類である。
その起原も矢張り秦氏の大移住に負ふ所が多いのであらう。
 秦氏の総本家は京都郊外の太秦(うずまさ)に在る。これは秦河勝の邸(今の広隆寺)の在る処である。
うづくしまさしき正系の秦と云ふことに相違ない。
 日本紀の註のやうに、織布が堆だかく積んであるから名けたと云ふのは俗説語原に外ならぬ。
これを後の唐代の太秦(ローマ)に結付けんとする説は時代錯誤である。
 太秦の広隆寺にも牛の祭が行はれ、時に蚕の神も祀られたことが知られてゐる。
牛頭大王も祇園としては王舎城の法道和尚の輸入であるが、牛頭大王としては已に早く秦氏に依て移入されて居たに相違ない。(82頁〜85頁)
* * *
伊勢神宮(内宮)の参道に見られる「蘇民将来子孫家」のしめ縄。ユダヤの過越の祭の故事が思い起こされる「門」の字が見られる。
* * *
京都・祇園の八坂神社につたわる蘇民将来子孫也の護符。長岡京(784年〜794年)からも同様の文字を刻んだ護符が発見されている。八坂神社の摂社「疫神社」の説明書きには、蘇民将来がたすけたのは、スサノオ神であるとされている。
* * *


23. 五月晴郎 2012年7月19日 02:04:17 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/world_history02.html

聖書には、アダムとイブが人類の初めであり、はじめ東の方の天国(「エデンの園」)に住んでいたが罪を犯したので、エデンの園を追われた。 アダムとイブの子孫のノアの時代に、「地上に悪がはびこった」ので、神は人類を滅ぼそうと考え「ノアの洪水」をおこして、ノアの一族以外を滅ぼしたとある。ノアの子孫のアブラハムは、一族を率いてシュメール人の都市ウル(「アルデアのウル」と書かれている)を出発した。時代を経てアブラハムの子のイサクの子孫の一族が様々な地を彷徨して最終的に現在イスラエル国のある地に住み着いたのがユダヤ民族の先祖であると聖書にある。このアダムとイブの物語の舞台が、現在のイラク、昔のメソポタミア文明の地であることが、わかっている。現在のヨーロッパ文明の親であるローマ人が「光は東方より」と端的にこのことを表した。

○「シュメール文明」ヘルムート・ウーリッヒ著戸叶勝也訳(佑学社 1979年)

シュメールの歴史、メソポタミアの歴史、そして聖書の楽園、これら三者の間には実に密接な関係がある。…病気も死も存在しない楽園のような場所に関する記述を発見した。そこはティルムンという土地で、今日、ペルシャ湾上のバーレーン島と地理的に同一地点と見做されている。…ティルムンの島こそ、〈ライオンも人を殺さず〉、〈狼も子羊を襲わない〉真の楽園である、と伝えている。…そこでは〈誰も自分は年老いた女だとは言わず〉、〈誰も己を年とった男だとは言わない〉。」(18ページ)  「シュメールの歴史や神話を研究していると、我々はティルムンという名前によくぶつかる。古いテキストは〈日出る国〉ティルムンの地を、神々の島とか楽園とか呼んでいるが、全く俗っぽく、シュメール世界貿易における物資の集散地と記している。アメリカ人によってニップールで発見された楔形文字板の断片が、1914年に公表された。そこにはエンリル神およびノアの洪水の際、箱舟に乗って生き残り、その後神々から不死性を授かったジウスドラ王のことが書かれている。
『神々は、神のような命を彼に与え、
神のような永遠の息吹を、神々は彼のために持って降りる。
そして神々は王、ジウスドラ、
植物界の名称と人類一門の守護者と名付け、
通過地の国、
ティルムンの地、
日出る所に住まわれる』  
どうやら日出る国を東方に求めていたようだ。」(P151〜P152抜粋)

* * *
「粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー」E.キエラ著板倉
勝正著(岩波新書 1958年)より/文字の単起源説によると、
すべての文字の起源はシュメール絵文字に始まるという。こ
れはその系統図。
* * *


24. 五月晴郎 2012年7月21日 19:21:10 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
>>12 続き

http://blog.ohtan.net/archives/52141139.html

<黙示録の秘密(その5)>(2012.7.18公開)

 (4)黙示録の新約聖書への編綴・・黙示録の新解釈

 「・・・4世紀に新約聖書が列聖化(canonize)された時、すなわち、キリスト教会がどの書がキリスト教の聖書の一部となりどの書が落とされるかを決めた時、多くの教会指導者達は、啓示<、すなわち黙示録>については<一部とすることに>躊躇した。
 しかし、最終的に、彼らはそれを含めることにした。
 というのは、それは非信仰的な輩を大いに怯えさせるために使うことができたからだ。・・・」(E)

 「・・・パゲルスは、どのように、そしてどのように完全に、ヨハネが、自分が後に残した物語の解釈についての戦いに敗れたかを証明する。
 彼の「啓示<すなわち、黙示録>」は、キリスト教的終末論の頂点となり、彼のユダヤ的仄めかしはヘブライ語の聖書を「旧約」聖書として<新約聖書の>植民地化したところの、新しい宗派によって着服され、イスラエル人たる預言者達はキリスト教徒の司教達に隷属させられ、そして、ユダヤ人(ユダヤ教徒)達は<神に選ばれた民から>地獄行き<の民>へと役割を変更された。・・・」(A)

 「・・・2世紀初において、小アジアの大部分の司教達は、<黙示録の>テキストは涜神的であると投票でもって決をとって非難した。
 3世紀の60年代になってようやく、火のようなアタナシウス(Athanasius)<(注16)>の統制の下で、啓示<、すなわち黙示録>は新約聖書全体のクライマックスとして挿入されるに至ったのだ。・・・」(B)

 (注16)アレクサンドリアのアタナシオス([Athanasius of Alexandria。296-]298〜373年)。
 「キリスト教の神学者・…教父([Doctor of the Church])・聖職者である。エジプトのアレクサンドリア主教(司教([bishop])、または大主教)を務めた。・・・アレクサンドリア[の司教の秘書]として出席した第1回ニケア公会議([First Council of Nicaea])でアリウス([Arius])に反駁し、アリウス派([Arianism])の「御子は被造物である」との説を退け、三位一体論の形成に寄与した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Athanasius_of_Alexandria ([]内)

 (5)黙示録の新々解釈

 しかし、「啓示<、すなわち黙示録>」については、なお、「百もの解釈(vision)と再解釈(revision)」が出てくることが運命付けられていた。
 皇帝コンスタンティヌス(Constantine)<(注17)(コラム#413、1026、1761、2766、3475、3483、4009)>の改宗・・パゲルスがこの短い本の中で十分展開することができなかった複雑な案件の一つ・・の結果、ヨハネの予言の新たなる抜本的再解釈が必要となった。

 (注17)Gaius Flavius Valerius Constantinus[=Constantine the Great=Constantine I=Saint Constantine]。272〜337年。ローマの西方副帝:306〜312年、西方正帝:312〜324年、全ローマの皇帝:324〜327年。
 「・・・[フラヴィウス・]コンスタンティウス(《Flavius Constantius。ローマの西方副帝:293〜305年、西方正帝:305〜306年》)の子として生まれたコンスタンティヌスは、・・・ディオクレティアヌス([Diocletian])退位後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。330年には・・・ビュザンティオン([Byzantium])(後のコンスタンティノポリス([Constantinople])、現イスタンブル)に遷都した。・・・<また、>ディオクレティアヌスが始めた専制君主制(ドミナートゥス({Dominatus}))を強化した。経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った。・・・[なお、彼は、初めてキリスト教に改宗したローマ皇帝であり、313年にもう一人の皇帝だったリシニウス(Licinius)とともにミラノ勅令を発出してキリスト教を含む宗教の自由を認めた。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Constantine_the_Great ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Constantius_Chlorus (《》内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 ({}内)
 なお、コロヌス(colonus)は、「古代ローマの小作人。共和政末期から史料に現れるが,帝政期に入って奴隷制の占める比重が下がってくるとともに,農業における生産者層としての重要性を増した。帝政初期のコロヌスの地位は地域によって多様であるが,イタリアでは法律上完全な自由人で,地主との契約によってその土地の一部を耕し,期限(通常5年)終了後は土地を離れる自由を持っていた。しかし多くの史料によると,コロヌスはしばしば地代を滞納し,そのために地主に対して従属的な立場におかれるようになり,小作期間も長期化・世襲化していった。」
http://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8C%E3%82%B9

 自らをキリスト教化したローマを、<もはや>獣とみなすことはできな<くな>った<からだ>。
 そこで、新たな悪魔的悪漢達が指定されなければならなくなった。
 そのことは、ヨハネが書いたもの<、すなわち黙示録>の持続力を説明するものだ。
 ヨハネの<紡ぎ出した>「多価の(multivalent)」言葉は黙示録的なインクのしみ<(注18)>であって、その時々の支配者達が求めるどんな激論的な<一連の>意味群をも可能にするのだ。・・・」(A)

 (注18)「被験者にインクのしみを見せ、それから何を想像するかによって人格を分析しようと<する>・・・ロールシャッハ・テスト(・・・Rorschach test, Rorschach inkblot test)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88

 「・・・一旦ローマ帝国がキリスト教会の最良の友人になるや、啓示<、すなわち黙示録>の敵は、ローマ以外において見いださなければならなくなった。
 ・・・皇帝コンスタンティヌスは、・・・エウセビウス(Eusebius)<(注19)>の言葉によれば、「特定の人々は人間世界から毒のように抹殺されなければならない」ことを決定した<というが、ローマにとっての毒を抹殺するために黙示録は活用される運びとなったのだ>。

 (注19)カエサレアのエウセビオス(Eusebius of Caesarea。263?〜339年。
 「教父の一人であり、歴史家にして聖書注釈家。314年前後からカエサレア(《カイサリア》)・マリティマ(《Caesarea Maritima。パレスティナの港湾都市でローマ帝国はここをユダヤ属州の首都とし、ローマ総督と軍隊の駐屯地とした。》)の司教(主教)を務めた。・・・324年ごろからエウセビオスは、その教養と著述家としての名声によってコンスタンティヌス帝の寵愛を受けるようになった。325年のニカイア(ニケア(太田))公会議では、彼は皇帝からカエサレア教会の信条を提出するよう命じられたので、318人の出席者全員の前で読み上げた。しかし、最終的にはこのカエサレア信条に反アリウス主義的文言を付けくわえたニカイア信条が採択されることとなった。エウセビオスは本心からこれに賛成していたわけではなかったが、最終的には署名してこれに同意した。・・・さて、328年ごろにはコンスタンティヌス帝はすでにアリウス主義支持に傾いており、皇帝は334年のカエサレアでの宗教会議にアタナシオスを召喚するが、彼はそれに応じなかった。翌335年には、エウセビオスを議長としてティルス([Tyre])の宗教会議([synod])が開かれ、アタナシオスのアレクサンドリア司教罷免とその追放が決定された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%BB%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BE%BA%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A2 (《》内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eusebius_of_Caesarea ([]内)

 <こうして、>ヨハネが、元来、彼らのために広報宣伝活動(campaigning)をしていたところの、ユダヤ人達は、今や「預言者達の殺害者達であり、神の殺害者達である」という<風に立場がひっくり返される>ことにあいなったのだ。・・・」(B)

(続く)

* * *
http://blog.ohtan.net/archives/52141247.html

<黙示録の秘密(その6)>(2012.7.19公開)

 (6)種々の啓示書の中でなにゆえ黙示録だけ生き残ったのか

「・・・パゲルスの本質的ポイント・・啓示<、すなわち黙示録>は小アジアと聖なる地一帯にあった、ヨハネによるものはこの沢山あったもののうちの一つに過ぎない、そして我々は黙示録をそのようなものとして読まなければならない・・は、説得力があり啓蒙的だ。・・・」(B)

 「・・・<黙示録の>著者たるパトモスのヨハネは、ユダヤ人予言者でイエスの追従者であり、彼の母国であるユダヤを荒廃させた戦争を逃れた後、紀元90年前後に恐らく<それを>書き始めた。
 しかし、彼の黙示録はユニークな存在ではなかった。
 当時、ユダヤ人達、異教徒達、そしてキリスト教徒達といった無数の他の人々が、聖なる秘密群を開示すると主張しつつ、山のように「黙示録」を生み出していた。
 そのうちのいくつかは何世紀にもわたって<その存在が>知られてきた。
 それに加えて、約20篇が、1945年にエジプトのナグ・ハマディ(Nag Hammadi)で発見された。<(注20)>

 (注20)「ナグ・ハマディ写本あるいはナグ・ハマディ文書(The Nag Hammadi library)は1945年に上エジプト・ケナ県(《Qena Governorate》)のナグ・ハマディ村の近くで見つかった、パピルスに記された初期キリスト教文書。
 農夫・・・が壷におさめられ、皮で綴じられたコデックス(《codex→codices(複)。》冊子状の写本)を土中から掘り出したことで発見された。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想<(コラム#411)>に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。・・・、本書はもともとエジプトのパコミオス派([Pachomian])の修道院に所蔵されていたが、司教であったアレクサンドリアのアタナシオスから367年に聖書正典ではない([non-canonical])文書を用いないようにという指示([Festal Letter])が出たために隠匿されたのではないか<という>。
 写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書([Gospel of Thomas])』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。・・・本写本の成立はギリシャ語で『トマスによる福音書』が書かれた80年[頃]、すなわち1世紀から2世紀で、土中に秘匿されたのが3世紀から4世紀であるとみなされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC ☆
http://en.wikipedia.org/wiki/Nag_Hammadi_library ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nag_Hammadi (《》内)※
 なお、「コプト・エジプト語 (・・・Coptic Egyptian・・・) もしくは近代エジプト語 (Modern Egyptian) とは4世紀以降のエジプト語をさす用語である。この時期のエジプト語は当時のエジプトを<含む東地中海世界・・ヘレニズム世界、及びそれを引き継いだ>東ローマ帝国<・・>の公用語であるギリシア語の影響を語彙・文法・表記などの面で強く受けており、この時代以降のエジプト語の言語体系にも基本的にそれが引き継がれているため、この時期を境にそれ以前のエジプト語と区別している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%AA%9E
 私の父親も母親も、揃いも揃って、考古学や宗教にほとんど関心がなかったので、私は、4年近くエジプトに住んでいながら、ナグ・ハマディの南西80kmにあるルクソール(※)・・古代エジプトの都テーベがあった・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB
にも、スーダンとの国境近くの、あの有名なアブシンベル神殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E7%A5%9E%E6%AE%BF
にも、また、上出のナグ・ハマディ文書が収蔵されている、カイロのコプト博物館(☆)にも、はたまた、カイロのキリスト教コプト派の教会のいずれかにも、連れて行ってもらっていないが、これは、今思えば、まことに残念なことだった。

 <ヨハネの>黙示録とは違って、その他のものの大部分は世界の終末についての書ではなく、世界の中で聖なるものを今発見することについての書だった。
 その多くは、神との直接的接触を求めることの奨励だったが、この<種の>メッセージについては、最終的には初期のキリスト教の指導者達は抑圧することを選択した。・・・
 2世紀以降、ローマの行政長官(magistrate)達が、<キリスト教徒達>のうちの最も直言的なメンバー達を逮捕し処刑することによって自分達に近しい諸集団がズタズタにされるのを見たところの、キリスト教の指導者達は、ヨハネの黙示録は、神のローマに対する勝利を予言していたがゆえに、<自分達が直面している>諸危機について直接的に語って<くれて>いる、と感じた。
 <だから、>このようなキリスト教徒達は、この書をその他のものよりも擁護することとなった。
 <そのうちの>幾ばくかは、<更に一歩を進めて、>自分達の、より普遍的な諸ヴィジョンに基づき、その他の黙示録に対して、それらは非正統的で異端的<な書>である、と<積極的に>指弾(challenge)した。・・・」(F)

 「・・・パゲルス女史による<以前に上梓された>画期的な本が取り上げたところの、いわゆるグノーシス<(コラム#1169、3041、3678、3682、3710、4226)>主義の(Gnostic)福音書群が、上エジプトのナグ・ハマディで1945年に発見された。
 その場所で、学者達は、その他の、それまで知られていなかった何ダースもの黙示録群も発見した。
 これらの巻に関する中心的疑問点の中に以下の一つがあった。
 それは、なにゆえ、ヨハネの黙示録が新約聖書に収録された唯一のものになったのか、だった。
 パゲルス女史は、この疑問点を様々な角度から解明しようとしたが、ヨハネの諸啓示<、すなわち黙示録>は、宗教的(spritual)選良に狙いを定めていたところの、その他の多くの<黙示録群>ほど秘教的ではないと示唆してきていたところの学者達と、<彼女は見解が>一致していた。
 <パゲルスを含め、彼らは、>ヨハネは、広汎な大衆に狙いを定めていた<、という>のだ。・・・」(C)

 「・・・<この本の>最終の諸章は、ナグ・ハマディで発見されたところの、抑圧された「啓示群<、すなわち黙示録群>」のいくつかについてのすっきりとした要約を提供している。
 ここでなされる、最も興味深い分析は、何ゆえにヨハネの「啓示<、すなわち黙示録>」が繁栄し、その他の諸ヴィジョンは息の根を止められてしまったのかを示唆している。
 要するに、グノーシス主義の著述者達<の黙示録群>は、余りに愛らしく、余りに抱懐的で、余りに普遍的であったために政治的効果を有さなかった、とパゲルスは主張する。
 これに対し、パトモスのヨハネは、善と悪との間の赤裸々な戦い、及び、誰でも自分の敵に対して用いることができるところの、<他者を>貶める一連の墓碑銘群・・「臆病者どもの、信仰心の無い、唾棄すべき、汚い…そして全員嘘つきの」・・という堪えられないもの、を提供したのだ。
 真の信者達を神の戦士達という普遍的に柔軟な言葉と同定させることは、福音書群<の>・・「見知らぬ人を歓迎せよ」、「裸の人には衣類を与えよ」、「病の人は世話をしてやれ」、「囚人は訪問してやれ」・・<といった記述に適っているかどうかという>単純なテストよりもどれほど役に立つことか、とパゲルスは言う。
 確かに、その種の水気がなくてぱさぱさした口当たりの(mealy-mouthed)文句でもって支持者達を暴力的行動へと駆り立てることなど誰にもできやしないだろう。・・・」(A)

(続く)

* * *
http://blog.ohtan.net/archives/52141358.html

<黙示録の秘密(その7)>(2012.7.20公開)

 (7)黙示録の影響

 「・・・パトモスのヨハネに起因するところの、広大無辺な(cosmic)戦争の描写は幾ばくかの欧米文化における最も偉大なる絵画<(注21)>、音楽<(注22)>、そして詩<(注23)>を鼓吹した。

 (注21)Gustave Dore、Albrecht Durer、William Blake、Peter von Cornelius、Hieronymus Bosch、Fra Angelico、Michelangelo、John Martin、William Holman Hunt、Lynn Morgan、Jacobello Alberegno、Bruegel, Pieter the Elder、Edward Coly Burne-Jones 、Roger Wagner、Richard Harrison、のそれぞれによる Book of Revelation(黙示録)絵画が紹介されている。↓
http://www.jesuswalk.com/revelation/revelation-art.htm
 (注22)クラシック曲については、メノッティ、ジャン・カルロ(Gian Carlo Menotti。1911〜2007年)のバレエ音楽「セバスチャン」から組曲、交響詩「黙示録(Apocalypse)」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/92608
http://www.youtube.com/watch?v=HsOjcaW9ZA4
くらいしか見つけられなかった。
 (注23)Adrian Henri、Stanley Kunitz、WS Merwin、 W. H. Auden、のそれぞれによる Apocalypse(黙示録)をテーマとする詩が紹介されている。↓
http://www.poetryarchive.org/poetryarchive/search.do?method=theme&searchTerm=apocalypse

 政治家達と説教者達、福音主義的SF作家達と金本位制推進論者(gold-bug)たるファイナンシャル・プランナー達は、全員、どうやって、不安を撒き散らすところの、迫りくる大災厄の大変動図絵群によって利潤をあげるかを知っていた。・・・」(A)

 「・・・それに加えて、ヨハネは、啓示<、すなわち黙示録>を、完全な破壊ではなく、新エルサレム(New Jerusalem)<(注24)>という形で、楽観主義的に終えたことにより、<黙示録>は、我々が恐れるものだけでなく、「我々が希望を抱いているもの」についても語っているのだ、とパゲルスは記す。・・・
 ヨハネは、「人類の歴史を通じて、どこにいようと、人々が、初めて聖なる正義について思いをめぐらせた時以来、尋ね続けてきた切実な問いであるところの、悪が優位にあるのはいつまでで、いつ正義が行われるのか、について語ろうとしている、とパゲルス女史は記す。」(C)

 (注24)エゼキエル書(book of Ezekiel)の中で登場。黙示録の中では天国のエルサレム(Heavenly Jerusalem)として、また、その他の書の中ではシオン(Zion)として登場。黙示録の中のそれは、エゼキエル書の中のそれの1,000倍の規模。
 バビロニア帝国に対してイスラエルの人々が叛乱を起こしたため、バビロニアのネブカドネザル(Nebuchadnezzar)王の軍隊によって紀元前596年に(第一神殿を含む)エルサレムが破壊され、イスラエルの貴族達が捕囚としてバビロンへと拉致された時に、イスラエルの人々の間で黙示録的ないし新エルサレム的発想が生まれた。
http://en.wikipedia.org/wiki/New_Jerusalem

 (8)その他

 「パゲルスは、福音主義者達等の保守主義者達の気持ちを角で突き刺したままにして、リベラルなキリスト教徒達にとって全くもってなるほどという(reasonable)感銘を与えるところの、敬意を払うべき学術的な種類に属する主張を提示する。・・・」(E)

→ところが、この本を批判する声が米国のキリスト教原理主義の間から出ている気配はありません。彼らはパゲルスの学術的なこんな本を読むような階層の人々ではない、ということなのかもしれません。(太田)

3 私のコメント

 (1)序

 この際、お時間があれば、「宗教を信じるメリット?」シリーズ(1724、1727、1728、1730、1734、1736)(未完)を読み返して欲しいですね。
 この↑、昔のシリーズにおいて、私は、コラム#1727で「宗教・副産物説」を、また、コラム#1728で「宗教・適応説」を紹介したわけですが、下掲記事を読むと、もう一つ、「宗教・非適応説」があり、むしろこれが米国での通説であるかのような説明がなされています。

 「・・・進化生物学者のデーヴィッド・スローン・ウィルソン(David Sloan Wilson)とエドワード・O・ウィルソン(Edward O. Wilson)が提案したところによると、宗教性は集団を一つに結び付け、「一人が全員のために、全員が一人のために」という思い込み(mind-set)を形成させることを助けるところの進化的適応なのだ。
 感情的に激しく、そして互いを結びつけるところの、諸宗教を発展させた諸集団は、それほど固く結び付けられていない諸集団よりも、長期的には、競争上有利となり永続するからだ<というのだ>。・・・
 <しかし、>大部分の社会科学者達は、宗教は適応ではないという考えをとってきた。
 彼らは、文明の勃興を、血縁関係(kinship)に係る観念・・我々は自分達の遺伝子群を共有している者達には親切にできる・・と相互性・・我々はいつの日か恩を返してくれるかもしれない者達には親切にできる・・とを用いて説明しようとしてきた。
 我々が二度と出会うことがない見知らぬ人々との協力<することがあるの>は、進化的「過ち(mistake)」である、と考えられてきた。
 しかし、仮に<二人のウィルソンのように、>宗教を、諸集団が競争するのを助ける適応であると見れば、宗教は、はるかに大きな意味を持ってくるのだ。・・・」
http://ideas.time.com/2012/03/27/have-we-evolved-to-be-religious/
(3月28日アクセス)

 これは、ちょうど5年前に上記シリーズを執筆していた当時、私が「宗教・非適応説」の存在を調査不足で見落としていたというより、その少し前から、米国で、突然、キリスト教、とりわけ原理主義的キリスト教の急速な退潮が始まっていた(コラム#省略)ことを反映して、「宗教・非適応説」もまた急速に米国で勢いを増したからである可能性が高い、ということに一応させてください。
 なお、私としては、5年前は、「宗教・副産物説」の方がもっともらしいと思っているいと記した(コラム#1734)ところ、これを、私は「宗教・適応説」はとらない、という形へと微修正をさせていただきます。

(完)
* * *
http://blog.ohtan.net/archives/52141495.html

<黙示録の秘密(その8)>(2012.7.21公開)

 (2)イエスの過ち・・釈迦と比較して

 さて、私は、コラム#5397で、「黙示録のような大悪書の出現にはイエスにも大いに責任があると・・・思う」と記しましたが、このことについて、ここで説明しておきたいと思います。
 (これまでに既に申し上げたことがある話が少なからず出てきますが、復習ということで、あしからず。)

 私が、最新の人間科学を踏まえつつ、人間は、本来的には狩猟採集社会に適合的であったところの人間主義的な存在であったが、(狩猟採集社会に比べて、貧しく、栄養失調気味で、余暇がなく、権威・権力・富が少数に集中し、定着していて、不衛生で、人口過多で、戦争が多く、ストレスが多い)農業社会(コラム#2780、#3613)ないし(本来の自然から疎外された)都市社会になったために、この人間主義的な本性が壊れてしまっている、という考えであることはご存じのとおりです。(人間主義については、コラム#113、114、3140、3489、3491、3571、3573、3575等参照。)

 このような農業社会ないし都市社会において、人々に対して、現世における悲惨な境遇をそのまま受忍させるべく、来世における救済を約束する形の、(権威・権力・富を持つごく少数の者にとっては好都合な)宗教が発達しました。(コラム#4652)
 しかし、人々の不満、怒りは次第に募っていきます。

 こうした背景の下、イエスは、「福音書やパウロの書簡に<書>かれ<ているように、>・・・愛(<ギリシャ語で言う>・・・アガペー)<すなわち、>・・・自己を捨て他者のために行う無償の愛<を説きました。ちなみに、この愛は>、根底において少しも自己愛を含まない<愛であったのに対し、>異性愛(<ギリシャ語で言う>エロース)には、根底に自己愛が潜んでいる」
http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm#(3)
という違いがあります。
 つまり、イエスは、人間主義的な本性が壊れてしまっているところの、人々に対して、人間主義的であれ、と直截的に当為命題の形で説教した、というわけです。

 ところが、イエスの400年ほど前に生きた釈迦の場合は、同じ背景の下で、「生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)と<し、>それを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行・・・(八正道)・・・の実践を奨励」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
したのです。
 一見不可解であるけれど、これは、私の見解では、悟りを開くとは、自分の人間主義的な本性を再発見することであって、かかる本性に従って生きるようになれば、自ずから苦から脱し幸せになることができるよ、ということなのです。

 その根拠をお示ししましょう。
 典拠が付されていないものの、仏教に馴染みのある人にとっては常識的なことですが、「我<は>常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができ・・・、それは働きのうえで自由自在の力をも<ち、>この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考える<ところの>・・・ウパニシャッド哲学<の>・・・実我観念を・・・釈迦は・・・批判し、「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた<上で、>これを色受想行識の五蘊について<も>説き、人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
とされています。
 この趣旨のことは、下掲にも出てきます。
http://www.pbs.org/thebuddha/blog/2010/Mar/17/empathy-and-compassion-buddhism-and-neuroscience-a/

 この釈迦の考えは、最近の人間科学の進展により、科学的な所見であることが次第に明らかにされつつあります。
 まず、釈迦が悟りに至る手段として奨励したことの一つであるところの、座禅の修行を積めば積むほど、自意識(self-focus)に関わる脳の部位が非活性化するために要する時間が短縮する、また、他人の嘆きの声が聞こえた時に、共感(empathy)に関わる脳の部位が、熟練した座禅者は、新参者よりも活性化する度合いが大きい、ことが判明しています。
http://www.pbs.org/thebuddha/blog/2010/Mar/17/empathy-and-compassion-buddhism-and-neuroscience-a/ 上掲
 更に、他人の情的状況を見たり聞いたりすると、同じ状況を処理する自分自身の神経網もまた、あたかも鏡に映したかのように活性化すること、が判明しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Empathy

-------------------------------------------------------------------------------
<補注:人間主義的本性が壊れた人々の世界・・インド亜大陸北部とローマ帝国>

 精神病質者(psychopath。反社会的または暴力的傾向をもつ)の若者に人々が不条理に痛みを感じさせられている映像を見せると、健常者たる若者に見せた場合に比べて、どちらかというと痛みを処理する神経回路がより活性化する一方、([情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つ])扁桃体(amygdala)と(報償感に反応する部位である)腹側線条体(ventral striatum)が強く活性化し、自己規制と道徳的推論に関わる脳部位は活性化しないことが判明している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Empathy 上掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E4%BD%93 ([]内)

 釈迦の生きたのはマハーバーラタ(マハーバラータ)(コラム#777、2008、4279、4290)が描写する「何10年も戦争が続き、偽計・裏切り・殺人が繰り返され、1800万人もの人々が戦死する世界」(コラム#2008)が必ずしも誇張ではなかったところの、インド亜大陸北部だったし、イエスの生きた帝政ローマ(地中海周辺)には200以上の円形闘技場が設置され、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%BD%A2%E9%97%98%E6%8A%80%E5%A0%B4
人々はそこで剣闘士が他の剣闘士や死刑囚や猛獣を相手に殺し合いを演じるのを見るのが一番の楽しみだった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E9%97%98%E5%A3%AB
、といったことから、紀元前後のインド亜大陸北部や地中海周辺それぞれにおける人間主義毀損の程度が推し量れるというものだ。

 精神病質者は人間主義的本性が壊れているところ、釈迦やイエスが生きた時代に生きていた人々の多くは一種の精神病質者であった、と見ることもできそうだ。
-------------------------------------------------------------------------------

 以上からお分かりになるように、釈迦もイエスも、農業社会化ないし都市社会化の進展とともに、人間主義的本性が壊れて堕落してしまっていた人類を救済すべく、人間主義の復活を希求した、という点では違いがなかったものの、人間主義復活への方法論において、両者には大きな違いがあったわけです。
 それは、釈迦は、人間主義の内面からの発露を追求したのに対し、イエスは人間主義の外からの注入を図った、という違いです。
 イエスの場合、このことと表裏の関係にあったのが、彼の眼から見て非人間主義的な存在であったところの既存宗教、とりわけ彼自身が信者であったところのユダヤ教、の「堕落」を、彼自らが糾弾した行動です。

 ヨハネの福音書から引用すれば、「2:15 彼は縄でむちを作り、羊や牛をすべて<エルサレムの>神殿から追い出した。両替屋の通貨をまき散らし、彼らの台をひっくり返した。2:16 ハトを売る者たちに言った、「これらの物をここから持って行け!わたしの父<(神(太田)>の家を市場にするな!・・・2:18 それでユダヤ人たちは彼に答えた、「こんな事をするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」。2:19 イエスは彼らに答えた、「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建て直そう」。2:20 それでユダヤ人たちは言った、「この神殿は四十六年かかって建てられたのに、あなたはそれを三日で建て直すと言うのか」。2:21 しかし、彼は自分の体という神殿について話していた<のだ>。」
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/temple-clean.htm
がそうです。
 「イエス<は>、・・・「<ユダヤ教の総本山ともいうべき>神殿がすでに必要なくなった」と言う<過激極まる(太田)>考えであった」
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/temple-clean2.htm
ことが見て取れます。

 この種の、他の宗教や宗派に対する糾弾行動は、釈迦の事績においては全く見出すことができません。
 イエスは戦闘的な宗教者であったのです。

(続く)


25. 五月晴郎 2012年7月31日 02:45:38 : ulZUCBWYQe7Lk : 7V9IIWTBwM
http://blog.ohtan.net/archives/52142174.html

<黙示録の秘密(その9)>(2012.7.27公開)

 イエスの人間主義のもう一つの問題点は、下掲から明らかなように、それが、人間主義ならぬ、利他主義の勧めであったことです。

 「子供たちを自由に来させなさい。邪魔をしてはいけない。神の国は、<純真な>子供たちのような者の国なのだ・・・
 はっきり言っておくが、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない」(マルコ10章)
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/sub8.html
 「私の掟はこれである。私があなたがたを愛したように、あなた方も互いを愛しなさい。」(ヨハネ15章)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
 「一人の男がイエスに近寄って来て尋ねた。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」
 イエスは答えた。
 「・・・神の掟を守りなさい」
 この男が、「どの掟ですか」と聞くと、イエスは答えた。
 「『殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証する(嘘をつく)な。父母を敬え。また、隣人(他の人々)を自分のように愛せよ』という聖書の掟である」<(※へと続く)>
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/sub8.html 前掲

→このあたりまでは、(「隣人・・・を自分のように愛せよ」は利他主義に近いが、)一応、人間主義の勧めと言えるでしょう。(太田)

 「あなたがたの敵を愛せ。」(マタイ5章)
 「人その友のため命を捨てるこれより大いなる愛はない。」(ヨハネ15章)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88 前掲
 ※「その青年は、「それらはみな守ってきたがまだなにか欠けているのでしょうか」と問い、イエスは答えた。
 「もし完全になりたいなら、家に帰って持ち物を売り払い、貧しい人々にあげなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしについて来なさい」
 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちに言った。
 「はっきり言っておくが、金持ちが天の国に入るのは難しいことだ。重ねて言っておくが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」
 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「人間には出来ないが、神は何でもおできになる」と答えた。」(マタイ19章)
 「人の最大の敵は家族の中にいるのです。わたし以上に父や母を愛する者は、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。後生大事に自分の命を守ろうとする者は、それを失いますが、わたしのために、命を失うものは、かえってそれを保つ(自分のものとする)のです」(マタイ10章)
 「「いつか、東や西から大勢の外国人が来て、天の国でその席に着く。でも、もともと天国に入るはずの多くの人が、外の暗闇に追い出され、そこで泣きわめき、歯ぎしりして苦しむ事になるのです・・・はっきり言っておきたい。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」」(マタイ8章)
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/sub8.html 前掲
 「右のほほを打たれたら、左の頬をも差し出せ」(マタイ5章)(注25)
http://www.kawasaki-m.ac.jp/soc/mw/journal/jp/2002-j12-2/4-hayashi.pdf

 (注25)これは、一般に、「悪に対し悪を以って報いてはならない」という暴力による報復を禁止した言葉、あるいは、無抵抗、無暴力主義を表明した言葉であると解釈されているけれど、アウグスティヌスによるところの、「右の頬」とは霊的なあるいは天上の善きもの、「左の頬」とは肉的あるいは地上の善きものであって、「左の頬をも向けなさい」とは「右の頬も左の頬も打たれるままにせよ」という意味でではなく、「左の頬を向けることによって右の頬を打たれないようにせよ」、つまり「肉的な善きものを犠牲にしても霊的な善きもの(特に信仰)を守りなさい」という意味であるとする指摘
http://www.kawasaki-m.ac.jp/soc/mw/journal/jp/2002-j12-2/4-hayashi.pdf 上掲
は重要だ。
 恐らくアウグスティヌスのこの指摘は正しいのであって、イエスは、私人による自力救済こそ禁止したかもしれないが、(イエスによる前出の実力行使のごとき)キリスト教を守るための暴力の行使も、国家による「正当な」暴力の行使も、認めていたと思われる。
 すなわち、イエスには、反権力的ないし無政府主義的発想は全くなかった、と思うのだ。

 これらは、利他主義の勧めです。
 どうして、利他主義の勧めが問題であるかというと、イエス自身が認めているように、利他主義を実践することは、勧められても普通の「人間には出来ない」からです。
 ということは、個人財産を放擲した独身の、利他主義を実践するところの、少数のプロ集団からなるキリスト教会の誕生と、この集団に喜捨する・・後には教会税を払う・・ことによって神の御利益(ごりやく)のご相伴にあずかるところの、利他主義を実践しない(実践できない)多数のアマ信徒達、への分断が論理必然的に招来されることを意味します。
 これに対し、釈迦は利他主義どころか、人間主義すら他人に注入しようとはせず、誰でも悟りに達することができ(注26)(、その結果として人間主義が内面から発露してく)る、という考えだったのですから、上述したような分断が起こるはずがありませんでした。(注27)

 (注26)「釈迦の<行ったことは、>「苦悩は執着によって起きるということを解明し、それらは正しい行ない(八正道)を実践することによってのみ解決に至る、という極めて常識的な教えを提示することだった・・・従って人生問題の実際的解決は、釈迦に帰依しなくても実践可能であり、釈迦は<、イエスとは違って(太田)、>超能力者でも霊能者でも、増して「最終解脱者」でもなく、勿論「神」のような絶対者でもなかった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
 このくだりの典拠は、高橋紳吾『超能力と霊能者-叢書 現代の宗教』 (岩波書店 1997年)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B6%85%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%81%A8%E9%9C%8A%E8%83%BD%E8%80%85-%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E7%B4%B3%E5%90%BE/dp/4000260782/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1334061796&sr=1-2
215〜216頁、とされている。
 ちなみに、高橋は、医大入試に失敗して大谷大学で2年間仏教を学んだ後、東邦大学医学に入学し、部卒、同大学院卒、ハイデルベルグ大学留学の精神科医で、東邦大学助教授時代に亡くなったところの、憑依やマインドコントロールの専門家である。
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/takahasi.htm
http://mbp-hiroshima.com/nakanelaw/column/874/
http://mbp-hiroshima.com/nakanelaw/column/873/
 (注27)上座部仏教(Theravada Buddhism/小乗仏教)国の代表とも言うべき「タイにおいては、仏教徒の男子はすべて出家する<こと>・・・が社会的に奨励される・・・僧はいつでも還俗することができ、その意思が妨げられることはない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
は、初期の仏教において、プロとアマの違いがなかったことの痕跡であろう、と私自身は見ている。
 とはいえ、釈迦の入滅後、釈迦の追従者達によって仏教という宗教が成立し、様々な経典がつくられ、宗派が分かれて行く過程で、仏教においてもプロとアマの分断が生じて行くことになる。

 さて、このことが、前述したところの、イエス由来のキリスト教の他の宗教や宗派に対する戦闘性と結び付くと、キリスト教会は、20世紀に出現した共産党やナチスのような、隠密裏に、情報収集、情宣(布教)活動に従事する独裁組織へと、これまた、ほぼ必然的に「発展」して行くことにならざるをえません。
 そして、このような教会の布教活動、及びその教義(「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」(創世記9章))
http://www.iris.dti.ne.jp/~grace/newpage1263.htm
、によってキリスト教徒が増えて行くと、権力と衝突する可能性が増大します。
 そこで、権力との利害調整を図ることで、権力を味方につける必要が出てきます。
 そのことを予想し、先回りしたのが、(イエス自身が本当にそう言ったかどうかはともかく、)下掲のイエス発言である、と私は解しています。
 
 「カエサルのものはカエサルに収め、神のものは神に納めよ。」(マタイ22章)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

 このような、利他主義の注入や権力との癒着のいずれとも、釈迦は無縁でした。(注28)

 (注28)パーリ語経典経蔵小部の『ジャータカ』及び漢訳大蔵経の本縁部に収録されている各種の話(ジャータカないし本生譚)の中で、釈迦の前生が「飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った」といったような、利他主義を実践する場面がいくつも出てくるが、これらの話を含め、『ジャータカ』は、釈迦入滅後の「紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になって・・・そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられて」おり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
釈迦自身が利他主義を勧めた形跡はない。
 なお、権力との利害調整について、釈迦が言及した形跡もまたない。

 そして、イエスの最大の問題点は、以下のように、彼が、ユダヤ教に言うメシア(注29)に自らを擬しつつ、終末論を説いたことです。

 (注29)「メシアは、ヘブライ語・・・で、「(油を)塗られた者」の意。・・・
 出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。ユダヤ教におけるメシア・・・はダビデの子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。
 メシアに対応するギリシャ語はクリストス(Χριστος)で、「キリスト」はその日本語的表記である。キリスト教徒とイスラム教徒はナザレのイエスがそのメシアであると考えている。イエスをメシアとして認めた場合の呼称がイエス・キリストである。・・・
 ・・・当然ながらユダヤ教からはイエスは偽メシアとして見られている。・・・
 イスラームでもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されて<いる>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A2

 「キリストは十字架につけられる少し前に、オリーブ山で弟子たちに説教し、・・・「世の終わり」のしるしがどのようなものであるかを語った(マタイによる福音書24<章>〜25<章>)。・・・
<キリストの>再臨の時は父なる神のみが知る事項で、子なる神であるキリストも御使い(天使)も知るところではない(マタイ24<章>)。それゆえ、再臨が近いことは前述のしるしに鑑みて確かではあるが、その時を予言・予測することはできない、また、してはならないとされている。「人の子(キリスト)は思いがけない時に来るのですから」(マタイ24<章>)。
 またその様態は、人々が認知できる様態でキリストは再び来ると聖書では述べられている。「あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒行伝1<章>)。」

 イエスのこれらの言説を受け、使徒パウロは、第一コリント<書>の15<章>で<イエスの再臨>を唱え、『ヨハネの黙示録』では、イエスの再臨について、復活し、天に昇ったとされるイエス・キリストが世界の終わりの日に、キリスト教徒を天へ導き入れるため、また、世界を義をもってさばくために、再び地上に降りてくる、と記されるに至ったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8D%E8%87%A8

 これに対し、「釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生の問題の実務的解決だった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲
(典拠は、高橋ibid.、とされている。)
ことを銘記すべきでしょう。

http://blog.ohtan.net/archives/52142272.html

<黙示録の秘密(その10)>(2012.7.28公開)

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<脚注:奇跡・宗教・マインドコントロール>

 さて、ことのついでに、聖書にも仏典
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/y%20bunkatu-3.htm
にも登場するところの、キリスト教や仏教等、あらゆる宗教につきものの、宗祖等による奇跡をどう考えたらよいのか、更にそれに関連してマインドコントロールとは何か、を検討してみましょう。
 その手がかりとなるニューヨークタイムスの記事があります。
http://www.nytimes.com/2012/04/08/opinion/sunday/in-defense-of-superstition.html?ref=opinion&pagewanted=print
(4月7日アクセス)

 「・・・迷信的思考(superstitious thought)、ないし「魔法的思考(magical thinking)は、たとえそれが現実を歪曲している(misrepresent)としても、メリットがある。
 それは、論理と科学がいつも提供できるとは限らないところの、心理的諸便益・・コントロール感覚と意味の感覚・・を提供するからだ。・・・
 例えば、・・・ある研究では、被験者達が1個のゴルフの球を手渡され、半数の者にはその球がそれまでツイていたと伝えた。
 すると、「ツイてる」球を持った被験者達は、「フツーの」球を持った被験者達よりパット数が35%も少なかった。
 別のシナリオでは、被験者達は、幸運のお守りを持っている時には記憶と言葉のゲームで、より高い成績があげた。
 同様の話の、より現実世界での事例だが、・・・2000年代初めの第二インティファーダ(intifada)の期間中のイスラエルで、暴力攻撃を受けて、イズファト(Izfat)町の世俗的な女性達の36%が詩篇(psalms)を唱えた。
 詩篇を唱えなかったものと比較すると、唱えた女性達は不安の減少によって裨益したことが発見された。
 すなわち、彼女達は、群衆の中に入ったり、買い物に出かけたりバスに乗ったりする時に、より安心でき、その結果として、彼女達はコントロール感覚が増進した、という結論になった。
 もう一つの魔法は、「あらゆるものが原因があって起こる」、つまり、偶然性(randomness)ないし偶発事態(happenstance)などというものはない、というものだ。
 これは、いわゆる目的論的推論(teleological reasoning)であり、ハリケーンのような明白に無目的の存在についてさえ、意図や目標を想定する。
 我々は、社会的動物として、なすべきことをなした誰かと戦ったり協力したりすることができるように、この世の中で意図性の証拠を追求するように生物学的に仕組まれているのかもしれない。
 そして、目に見える下手人(author)がいない場合は、我々は、目に見えないもの・・神、業(karma)、運命、等々・・のせいにする(credit)。
 この幻想もまた、心理学的に有用であることが分かる。
 ある・・・研究では、被験者達は、自分達の人生の中の転換点を回想させられた。
 その転換点が運命付けられていたと感じる程度が増すにつれて、彼らは、より、「それが自分の今日をつくった」とか「それが私の人生に意味を与えた」と信じがちだった。
 運命を信じることは、自分の人生を一貫した物語とすることを助け、自分の目標をより大きな目的感覚で満たす。
 これは、転換点が有害なものであった場合ですら機能する。
 ・・・ある研究によると、良くない出来事を「神の計画の一部」と見た学生達は、爾後、より大きな成長を見せた。
 彼らは、新しい物の見方(new perspectives)により心を開き、人間関係においてより親密になり、試練を克服するにあたってより執拗になった。
 他の人気がある諸迷信に係る類似の諸法則がある。
 例えば、対象物が前の所有者達の「本質」を宿していると信じることだ。(これが、好みの作家が使用したペンを所有したいと思うことがどうしてあるのかを説明する。)
 また、象徴的な対象物がそれが表しているところのものを呼び出すことができると信じることだ。(これが、自分の母親の写真を切り刻むことには慄かざるをえないことを説明する。)
 更に、生命の無い対象物に意識の属性を与えること(attribution)だ。(これが、自分の諸ファイルを削除してしまった携帯パソコンに向かって罵声を浴びせる理由だ。)
 様々な形で、これら全ては基本的な思考(mind)の諸習慣から出現するし、これら全ては混沌として不条理な宇宙に構造と意味を付け加えるのだ。・・・」

 以上から、人が特定の宗教の信者になることがある理由が分かるし、信者になることの心理的メリットもそれなりにあることも分かる。

 ところで、この文章の「宗教」を「異性」、「信者」を「恋愛中の人」に置き換えても成り立つと思わないか。
 信者は特定の宗教家ないし宗教組織に係る魔法の、恋愛中の人は特定の異性に係る魔法の虜になっている、ということだ。
 前者について、これを、当該宗教家ないし宗教組織によるマインドコントロールと形容することがあるが、それなら、後者についても、当該異性によるマインドコントロールということになるだろう。
 しかし、マインドコントロールという言葉を使う時に注意しなければならないのは、それが、一方通行で成立するわけがないことだ。
 つまり、「信者」候補者や「恋愛中の人」候補者の側が望むからこそ、マインドコントロールが成立するのだ。
 最近の卑近な例で言えば、中島知子(一種の信者)の(元)占い師(一種の宗教家)、小林幸子(恋愛中の人)のご主人(異性)が、それぞれ、中島と小林の「回心」・・それぞれの、両親、事務所役員達との断絶・・をもたらした、として、当初、悪者にされていたけれど、中島については、自分で自分自身にマインドコントロールをかけた度合いの方が高いという疑いが強まっている(コラム#5381)し、小林についても、自分自身にマインドコントロールをかけた部分があることが次第に明らかになってきている(コラム#5413)。

 こんなことを言うのは、パウロの回心の事例があるからだ。
 
 「・・・パウロは<生前の、つまり本物の>イエスに一度も会っていない。
 パウロは<自分の前に立ち現れた>天にまします(heavenly)イエスと一度出会った<だけだ>。
 <それなのに、>パウロはこの宗教的経験<だけ>によって<それまで反キリスト教運動に従事していたのに、>完全にキリスト教に改宗してしまった。
 歴史上のイエスはこのことの生起にとって全く必要ではなかったのだ。・・・」
http://religion.blogs.cnn.com/2012/04/07/the-jesus-debate-man-vs-myth/?hpt=hp_mid
(4月9日アクセス)

 つまり、パウロの場合、イエスの方から、あるいはキリスト教の方から、パウロへの働きかけは全くなかったのに、自分で自分自身をマインドコントロールにかけたわけだ。
 
 この、自分で自分自身をマインドコントロールにかけることこそが、執着(しゅうじゃく)なのだ、と私は考えるに至っている。

 「執着(しゅうじゃく、abhiniveza・・・)とは、仏教において、事物に固執し、囚われる事。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きと考えられている。・・・仏教術語というより、一般的な用語であり、現代語の執着(attachment)によく似た意味で、煩悩の術語としてのraaga(愛)あるいはlobha(貪)に近い。・・・キリスト教では愛を説くが、上記の見解から、仏教では愛ではなく慈悲を唱える。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B7%E7%9D%80

 この点においても、哲学者たる釈迦の言説は、宗教者たるイエスのそれ・・正しくも、宗教愛に異性愛と同じ「Agape(アガペー。新約聖書の原語たるギリシャ語)=love」という言葉を用いている!
http://en.wikipedia.org/wiki/Agape
・・とは比べようもないほど深く、鋭い、と言わざるをえない。

 蛇足ながら、釈迦の実在を疑う人はいないけれど、イエスの実在を疑う人は数多い。
 というのも、聖書中の諸福音書の筆者達を除けば、実在したイエスについて記した文章を残した人が二人しかないからだ。
 一人は1世紀末にイエスについて書いた、ユダヤ人歴史家のヨセフス(Josephus)(注30)(コラム#4055)であり、もう一人は2世紀初にイエスについて書いた、ローマ人歴史家のタキトゥス(Tacitus)(コラム#41、125、372、852、854、857、1397、1488、2494、3023、4396、4408、4412、4801、4803、4857)だ。

 (注30)フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus。37〜100?)。「エルサレム(ユダヤ属州州都)の祭司の家系に生まれ、・・・64年にはユダヤ人の陳情使節の一員としてローマへ赴き、ネロ帝妃ポッパエア・サビナの知己を得ている。<第一次>ユダヤ戦争の初期(66年)、ヨセフスは防衛のためエルサレムからガリラヤへ派遣され、ガリラヤの町ヨタパタを守ってローマ軍と戦ったが敗れた。異邦人への投降をよしとしない守将たちは自決を決議、くじを引いて互いに殺しあったが、ヨセフスは最後の2人になったところでもう1人の兵士を説得、2人で投降した。ローマ軍司令官ウェスパシアヌス(後のローマ皇帝)の前に引き出され、ウェスパシアヌスがローマ皇帝になると予言して命を助けられる。ネロ帝死後の混乱を経て実際にウェスパシアヌスが皇帝になると、その息子ティトゥスの幕僚として重用され、エルサレム攻撃に参加。70年のエルサレム陥落を目撃し<、>・・・後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』を著した。・・・さらに95年ごろ、・・・『ユダヤ古代誌』も完成させた。『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエスに関する記述があることで有名・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B9

 しかし、学者の中には、ヨセフスによる該当箇所はその後キリスト教関係者によって改竄されたと言う者がいるし、そもそも両者とも歴史家として信頼性が高くないとする学者もいる。
 例えば、両者とも<、何と>ヘラクレス(Hercules)を実在の人物として叙述している。
 (以上、下掲による。
http://religion.blogs.cnn.com/2012/04/07/the-jesus-debate-man-vs-myth/?hpt=hp_mid 上掲)
-------------------------------------------------------------------------------

http://blog.ohtan.net/archives/52142358.html

<黙示録の秘密(その11)>(2007.7.29公開)

 なお、念のためですが、釈迦やイエスの奇跡の事績は、もちろん事実であるはずがないのであって、それぞれ、(釈迦の場合はその意図に反して)宗教集団が形成されて行く過程で、宗祖に係る様々な伝説が創造され、経典や聖書に記述されて行った、ということでしょう。

 イエスの言動のうちの終末論的部分を劇画的に誇張したとも言える「黙示録」が、後の欧州、ひいては世界に、どれほどの惨禍をもたらしたかは、以前の「キリスト教・合理論哲学・全体主義」の正続シリーズ(コラム#1865、1866、3212、3216、3218)に譲ります。

3 先進国で崩壊しつつあるキリスト教・・終わりに代えて

 こんなキリスト教が、キリスト教が生まれた頃の世界にある意味で似ているところの、現在の発展途上世界のアフリカや支那では依然として信者を増やしてはいるものの、先進世界では、日本は別格として、(もともと自然宗教志向であったイギリスを始めとする真正アングロサクソン諸国もまた別として、)欧州で、今や消滅しつつあるのは当然でしょう。
 先進世界の中で例外的にキリスト教が衰えを見せていなかった米国においても、ここのところ急速に事態が変わってきました。
 そこで、現在の米国のキリスト教状況を実感させるところの、熱烈かつ「まとも」な一キリスト教徒によるコラムを紹介することにしましょう。

 「・・・キリスト教の諸教義は一体何だったのか。
 <それは、>引き続く何世代にもわたって戦争、異端審問、ポグロム、宗教改革、そして反宗教改革をもたらしたところの、政治と権力と融合した、超自然的な諸主張ではない。

→ここは、(前述したところですが、)誤りであり、(実在したとすれば、)イエス本人の責任です。(太田)

 イエスの諸教義は、実践的諸戒律(practical commandments)だったのであり、それらは、彼が語った、単純で、彼が行ったあらゆることにおいて例示されていたところの、物語群からただちに飛び出た、真に急進的なる諸観念だった。
 単に互いに愛せではなく敵を愛し害を与える者を愛せ、あらゆる物質的富を放棄せよ、全ての事物の背後にある神聖な存在(ineffable Being)を愛せ、そしてこの存在が、実際に、・・そのイメージに沿って人がつくられたところの・・最も真実なる父(Father)であることを知れ。

→(繰り返しますが、)利他主義は普通の人には実践できるわけがないし、人格神の観念だって陳腐この上もないものがあります。(太田)

 就中、他者に対する権力を放棄せよ、何となれば、権力は、それが効果的であるためには、究極的には暴力による威嚇を必要とし、暴力はイエスの教えの聖心(sacred heart)にあるところの、<イエスの>他の全ての人に係る全面的受容と愛と両立することができないからだ。

→ここは、(前述したところから、)私のイエス理解とは異なります。(太田)

 だからこそ、イエスは、その最後の非政治的行為において、裁判で自分の無実の弁明を決してせず、自分の磔刑に抗わず、自分の両手に釘を打ちつける人達に向かって赦しを与え、彼らを愛しさえしたのだ。・・・

 カトリック教会の階統制は、法王パウロ6世の1968年の避妊薬の一方的禁止によって米国の大衆に対して権威の多くを失った。
 しかし、この10年間で、<カトリック教会は、>残っていた道徳的権威の断片すら蒸発させてしまった。
 同教会の階統制が、無数の若者達や子供達を虐待し強姦する国際的陰謀を可能にした上、それを隠蔽したことが露呈した。
 私は、同教会の権威に対する、これ以上大きな告発はありえないと思うけれど、今に至っても、<同教会は、>責任を認め指導部全員が辞任すべきところ、それを拒否している。
 それどころか、彼らは、自分達以外の人々の性的生活のこととか、神父抜きで執り行われる結婚ができるのは誰かとか、誰が健康保険で受胎調整について支払うべきか、といった<些末な>ことにこだわり続けている。
 <その一方で、より重要であるところの、>不平等、貧困、そして何と9.11同時多発テロ以降米国政府によって制度化された拷問、といった諸問題が彼らの公的関心を呼ぶことはないのだ。

→以上のカトリック教会批判には全面的に同意です。(太田)

 これに対し、主流のプロテスタントの諸教会は、長らく宗教的近代化を推進してきたが、この50年間、急速に衰亡してきた。

→以前から私は、宗教改革(プロテスタント運動)とは、要するに世俗化(脱キリスト教)に向けての動きであったと考えている旨申し上げて来ました。
 このことが顕在化してくるのに、できそこないのアングロサクソンの社会である米国ではいささか時間がかかった、というだけのことだと思うのです。(太田)

 この真空状況に福音主義(evangelical)<(=原理主義的(太田))>プロテスタンティズムが入り込んできたが、それは、自身、深刻な欠陥を有する。
 ・・・多くの郊外の福音主義者達は、繁栄の福音(gospel)を抱懐しており、キリスト教徒としての人生を送れば成功し、金持ちになると教える。

→単純明快な現世利益追求ってやつですね。(太田)

 他の福音主義者達は、生硬な聖書直解主義(biblical literalism)を擁護し、列聖された諸福音書は、イエスの時(ministry)より何十年も後に書かれ、誤りを免れない記憶に基づいて語られた諸物語の写しの写しである、ということを紛れの余地なく示したところの、1世紀半に及ぶ学究的研究に頑固に背を向ける。
 更に他の福音主義者達は、地球はできてからわずか6,000年しか経っていないと固執的に主張し、理性と科学の光に照らして我々が知っているところのものを、にべもなく真実でない、とする。
 そして、世論調査でテロ容疑者達を拷問にかけることに最も支持を与えている米国人の集団は何だろうか? 福音主義的キリスト教徒達だ。・・・

→ここまでの、福音主義キリスト教批判についても全面的に同意です。(太田)

 <考えてもみよ、>イエスは同性愛や堕胎について語ったことがないし、彼の結婚についての唯一の発言は、(米国のキリスト教徒の間では日常茶飯事だが)離婚に対する非難と姦淫への赦しだった。
 家族については?
 彼は、10代の時に公然と両親を捨て、彼の追従者達に、私につき従いたいのなら自分達の両親も捨てよと伝えた。
 セックスについてはどうか。
 イエスは、独身主義者(celibate)であり、彼の追従者達と共に、切迫したこの世の終わりを予期しており、<このような状況下において、>子供をつくることは完全に不適切だった。・・・

→福音主義キリスト教への皮肉としては秀逸です。
 ところで、釈迦は、結婚し、子供もつくってから、あくまでも悟りを開くために家族のもとを去ったのであり、終末論的思想とも無縁であったことを思うと、こういった点でもイエスとは全然違いますね。(太田)

 イエスは、追従者達に、「自分が持っているものは全て貧者に与えよ」、2着目の外衣(tunic)といったものをさえ含めて「何も旅に持って行くな」、そして「自分自身を否定」して私の道を辿れ、と伝えた。
 これでおしまいだ。
 だから、聖フランシスは、遺産を放棄し、ホームレスとなり、肉体労働で食物を稼いだ。
 それだけでは十分食事ができなくなると、彼は、自分がまだまだ精神的に至らないことを申し訳なく思いつつ 食物の施しを乞うた。・・・

→何度でも言いますが、こういった利他主義の押し付けは、釈迦には無縁の話です。
 この筆者だって実践しているわけがありません。(太田)

 ・・・ガンディーからキング<牧師>に至るまで、この種の運動の最も偉大な範例は、権力もまた放棄する。

→前述したように、これはイエスの真意に沿ったものではありません。(太田)

 彼らは道徳的範例として非暴力を抱懐するところ、このパラドックスが、政治や暴力ができ、或いは行うであろうところのものよりも、世界を、より変えるのだ。
 <とはいえ、>実情においては、政治が必要となるのだが、私が描写しているところの種類のキリスト教は、他の信条を抱く人々・・・にアピールするように、常に、宗教的諸真実を理性的で世俗的な諸主張に翻訳しようとするのだ。・・・」
http://www.thedailybeast.com/newsweek/2012/04/01/andrew-sullivan-christianity-in-crisis.html
(4月2日アクセス)

 私には、この、米国のキリスト教全宗派をなで斬りにした筆者が、実はイエスにも皮肉たっぷりな視線を注ぐ、隠れ無神論者に思えてなりません。
 こういったコラムが米一流誌に堂々と掲載されるようになった、ということは、米国におけるキリスト教全体が急速に衰退しつつあることを物語っている、というのが私のとりあえずの見解です。

(きりがないので、一旦、完)


26. 2012年8月29日 17:14:44 : oEbIJaTyyA
『「全ての言語はトルコに通ず」?英語もヒンディー語もルーツは同じ、国際研究』
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/188.html

27. 五月晴郎 2015年2月01日 11:26:48 : ulZUCBWYQe7Lk : EDFCKjGj9Y
>>1

>>3

>ユダヤ人という概念

を巡って関連(?);

*
紀元一世紀、ローマ帝国軍が、シリア王国を滅ぼし、そこをローマ領として統治すると、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、「イエス・キリスト」)と唱える集団が蜂起するのです。
その熱狂的集団は、民衆を蜂起・結束させるため、「新しい神」の権威付けのために、古くからある物語を綴った小冊子36冊と、オリエントから持ち込んだ新しい物語により、「ギリシャ語の合本」を創るのです。そして、その集団は、「カナンは我等の地で、我々は古代エジプトから渡来した聖なる民族の末裔である。」、と唱えるのです。
その熱狂的集団の勢力は、やがて、統治者のローマ帝国総督を脅かすほどの勢力になっていくのです。しかし、その「ヨシュアはメシア」と唱える集団を恐れたのは、ローマ帝国だけではなかったのです。それは、古くからある小冊子をこころの拠りどころとしていた正統ユダヤ祭祀者も、その新興集団の熱狂に脅威を感じていたのです。それは、古くからある小冊子に、北インドのガンダーラ(ギリシャ文化継承国バクトリアがあった地)から持ち込んだ物語を付け加えていたからです。そこで、正統ユダヤ祭祀者も、新興集団のギリシャ語の合本に対抗して、ガンダーラから持ち込んだ新しい物語を排除して「ヘブライ語の合本」を作ったのです。
ギリシャ語の合本も、ヘブライ語の合本も、紀元前13世紀からではなく、紀元一世紀に創作されていたのです。

*
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/852.html


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