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(回答先: ビスマルク (太田述正コラム) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 4 月 30 日 17:28:24)
1847年に、プロイセン議会の代議士になったとき、オットー・フォン・ビスマルクは32歳で、味方や友人はいなかった。周囲を見回して、ビスマルクは自分が味方につく相手を決めた。それは議会の自由主義者でも保守主義者でもなく、もちろん大衆でもなかった。彼の選んだ相手は現国王、フリードリッヒ・ウィルヘルム四世だった。これはどう見ても奇妙な選択だった。当時、国王の力はすっかり衰えていたからである。微力で決定権のない王は、つねに議会の自由主義者の言いなりにされていた。実際に、王は意気地のない男で、ビスマルクが個人としても政策の点でも最も嫌悪している考え方を支持していた。それでも、ビスマルクは夜昼なくフリードリッヒに仕えた。王が見当違いの行動をするたびに他の代議士は非難したが、ビスマルクだけは王を擁護した。
とうとう、すべてが報いられるときがきた、1851年、ビスマルクは王の内閣の閣僚に任命された。ここで彼は動き出した。再三、国王にはたらきかけて、軍隊を再編成させて、自由主義者に対抗させ、ビスマルクが望むとおりのことをやらせた。意気地のないフリードリッヒの尻を叩いて、もっと決然と、誇りをもって統治しなさいと焚きつけた。そして、一歩一歩王の権限を回復し、ついに君主をプロイセンにおける最高の権力をもつ地位へと返り咲かせた。
1861年にフリードリッヒが没すると、弟のウィルヘルムが王位についた。ウィルヘルムはビスマルクをひどく嫌っており、側近にしておくつもりは毛頭なかった。しかし、兄と同じ境遇を、新王はそっくり受け継いでもいた。周囲には多くの敵がいて、王の権力を少しずつ剥ぎ取ろうと機会をうかがっていたのである。ウィルヘルムは本気で退位を考えさせした。このような危険で不安定な地位をうまく乗り切れる自信はなかった。だが、そこに、ビルマルクが再びうまく取り入った。彼は新王を擁護して地位を強化し、決然とした行動をとるようにうながした。敵を近づけないビスマルクの強引な作戦に、王はしだいに頼るようになった。そして、ビスマルクを毛嫌いしていたにもかかわらず、すぐに彼を宰相に任命した。二人は政策をめぐってたびたび口論した――ビスマルクは王よりもはるかに保守的だった――が、王はビスマルクなしではやっていけないことを理解していた。宰相が辞任すると脅すたびに、王はかならず譲歩した。ビスマルクこそ、実際に国の政策を決めている人物であった。
数年後、プロイセンの宰相としてのビスマルクの数々の行動は、小国に分立していたドイツを統一に導いた。いよいよビスマルクはウィルヘルムを言いくるめ、ドイツ帝国皇帝の地位につかせた。しかし、実際に最高の権力に到達したのは、ビスマルク本人にほかならなかった。皇帝の右腕として、また帝国宰相、勲爵士として、ビスマルクはすべてを意のままに動かした。
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The 48 Laws of power
By Robert Greene (A JOOST ELFFERS PRODUCTION) 1998
の角川書店(訳者:鈴木主税)1999 のP163 P164
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したがって賢明な君主(統治者:投稿者記)は、どんな状況でも、どんな人間でも、すべての民が国家と自分に頼らざるをえないようにする方法を考える。そうすれば民はかならず逆らわない。
ニッコロ・マキアヴェッリ 1469――1527
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