http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/621.html
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1 始めに
昨年の3月に初めてジョナサン・ステインバーグ(Jonathan Steinberg)の 'Bismarck: A Life;Jonathan Steinberg' の書評を目にしながら、かくも長く放置していたのは、それだけ、他に取り上げるべき題材が多かったからです。
遅ればせながら、この本を取り上げたいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2011/mar/19/bismarck-life-jonathan-steinberg-review
(3月20日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2011/04/03/books/review/book-review-bismarck-by-jonathan-steinberg.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print (書評子はキッシンジャー)
(4月3日アクセス)
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8418498/Bismarck-a-Life-by-Jonathan-Steinberg-review.html
(1月6日アクセス。以下同じ)
D:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/bismarck-a-life-by-jonathan-steinberg-2292237.html
E:http://www.literaryreview.co.uk/blanning_02_11.html
F:http://www.newstatesman.com/books/2011/03/bismarck-germany-europe-hitler
G:http://www.bloomberg.com/news/2011-04-13/bismarck-spat-blood-and-iron-had-huge-chamber-pots-books.html
H:http://bookhampton.typepad.com/blog/2011/09/jeremy-is-reading-bismarck-a-life.html
I:http://www.forward.com/articles/138986/#
なお、ステインバーグは、米ペンシルヴァニア大学の近代欧州史の教授です。(G)
2 序
「・・・オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)<(注1)>は、プロイセンの首相(Minister-President)(後に北ドイツ連邦<(注2)>、更にはドイツの宰相(Chancellor)と兼務)を1862年から90年まで務めた。・・・
(注1)1702年から1947年まで存在したところの、プロイセン王国の筆頭閣僚ポスト。ドイツが統一された1871年から第一次世界大戦でドイツが敗北した1918年までは、通常、ドイツ宰相が兼務した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Minister_President_of_Prussia
(注2)1867年に北ドイツ連邦(North German Confederation)が成立すると、ビスマルクがその宰相(Bundeskanzler=federal chancellor)に就任した。そして、1871年にドイツ帝国が成立すると、ビスマルクがその初代の宰相(Reichskanzler=Imperial Chancellor)に就任した。ドイツが第一次世界大戦に敗北した1918年に一旦、とだえるが、1919年のワイマール共和国成立とともに復活。1933年から45年までヒットラーがその職に就いた。1949年に当時の西独で、北ドイツ連邦当時の呼称の宰相(Bundeskanzler=federal chancellor)が復活し、ドイツ再統一後も存続して現在に至っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Chancellor_of_Germany
<ビスマルクの同時代人にリンカーンがいる。>
リンカーンは1809年に生まれ、ビスマルクは1815年に生まれた。
リンカーンは1861年に米大統領になったのに対し、ビスマルクは1862年にプロイセンの首相になった。
そして最も顕著なことに、両者とも自国を統一したとされている。
もちろん、両者の違いはたくさんある。
リンカーンは、何が何でも、米国の統一を維持しようとし、次いで統一を回復しようとしていただけに、恐ろしいほど困難な試みではあったものの、米国で奴隷制を終わらせなければならない、という立場に到達するに至る道徳的上昇弧を前進して行ったように見える。
これに対して、ビスマルクは、自分の君主と国に対する奉仕を超えた固定的な諸原則といったものを何も持っていなかったように見える。・・・」(H)
「オットー・フォン・ビスマルクは、<時代的に>ナポレオンとレーニンの間に位置するところの、欧州政治における最も強力な人物だが、この二人のどちらよりも少ない害しかもたらしていない。
彼の指導の下で、普仏戦争におけるフランスの敗北の後、1871年にドイツ統一が達成された。
「この戦争はドイツ革命と言える。これは、前世紀のフランス革命よりも大きな政治的出来事だ。勢力均衡は完全に破壊され、この大きな変化によって最も苦しめられていて、その諸々の影響(effects)を最も感じさせられているのはイギリスだ」とディズレーリは先見の明をもって、この年、英下院で喝破した。・・・」(F)
「<ビスマルクがプロイセンの首相に就任してから>9年ないし三つの戦争<(注3)>の後、オーストリアはドイツ問題から除外されるに至り、フランスは敗北させられ、プロイセンが支配的となったドイツ民族国家がウィルヘルム1世をその皇帝として成立した。
(注3)1864年のデンマークとの第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、1866年のオーストリアとの普墺戦争、1870〜71年のフランスとの普仏戦争。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF
(1月8日アクセス)
プロイセンがオーストリアに勝利した1866年にはまだビスマルクを非難していた<ドイツの>リベラル達は、今や彼の政治的天才ぶりを祝福するに至った。
彼らは、ビスマルクが以前に犯した憲法違反の諸行為を遡及的に免責する法案を可決したほどだ。・・・」(A)
3 ビスマルクの残した言葉
「・・・ビスマルク・・・が行った、最も悪名高い議会に対する主張は・・・「今日における大きな諸問題は、演説や多数決によってではなく、鉄と血でもって解決されることとなろう」と<いう>宣言<だ。>・・・」(注4)(G)
(注4)「1862年、新国王ヴィルヘルム1世によってプロイセン王国の首相・・・兼外相に任命される。この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用したのである。期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。この時にビスマルク<が行ったいわゆる鉄血演説中の一節。>・・・以後<彼は>「鉄血宰相」の異名をとるようになった。」
「今日における大きな諸問題」はドイツ統一を、「鉄」は大砲を、「血」は兵隊を意味しているとされる。(ウィキペディア上掲)
「・・・オットー・フォン・ビスマルクは、かつて「銃剣で何でもできるが、その上に座ることだけはできない」と語った。・・・」(I)
「・・・ビスマルクは、「物事が同じであり続けるためには、すべてが変わらなければならない」という見解を持っていた。・・・」(A)(注5)
(注5)このほか、「賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない」が有名。(ウィキペディア上掲)
4 ビスマルクの人となり
「・・・ビスマルクの政治的上昇は、ステインバーグが呼ぶところの「君主的意思(sovereign will)」に依ったものだ。
それは、彼の周りの人々を彼の諸政策に向けてまとめあげる個人的磁力を使う能力だ。・・・」(I)
「彼は、鼓吹的演説者であったことはないが、明らかに大変な大食いの大男であり、とりわけ食事の際に、彼の周りの人々を魅了する生来の能力を明確に持っていた。・・・」(H)
「ビスマルクの制御できない怒りと大志の燃料となったものは何だったのだろうか。
ステインバーグは、いささか問題なしとしない答えを提供する。
それは、母親の愛情の欠如だったというのだ。
こんな発想は単純すぎると退ける前に、ステインバーグが証拠として引用する事例を見て欲しい。
1883年に、ビスマルクの次男は、父親が病気がちであるのを何とかしようとして、異例の医者を紹介した。
この医者、エルンスト・シュヴェニンゲル(Ernst Schweninger)<(注6)>の治療法は、実際的なものであると同時に、親切さに立脚していた。
(注6)1850〜1924年。ドイツの内科医。ビスマルク「治療」の功により、1884年にベルリン大学医学部教授に、教授達の反対を押し切って任命された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Schweninger
燻っていてイラついているビスマルクが、薬を服用してから寝ようと悪戦苦闘していると、この医者は、単に彼の手を握りしめた。
ビスマルクが数時間後に目覚めると、手は依然として握りしめられていた。
こうして彼の気分は改善された。
こういうわけで、その結果、ビスマルクの健康も改善されたのだ。
シュヴェニンゲルは、ビスマルクの同僚達のように解雇されるようなことは決してなかった。
ヘルベルト・ビスマルク(Herbert Bismarck)<(注7)>の報告によれば、高齢のビスマルクの生命の火が消えつつあった時、「彼は私に話かけ、手を私の方にさし伸ばしたので、彼が眠るまで私はその手をとっていた」ところ、これが<父ビスマルクの>優しさへの渇望を示唆する第二の事例だ。・・・
(注7)1849〜1904年。ビスマルクの長男。外交官。1886〜90年:ドイツ外相。父親が宰相職を解任された数日後に彼も外相職を解任された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_von_Bismarck
優しさは与えるよりも与えられる方が容易であるということだ。・・・
・・・ステインバーグは、ビスマルクの暗い側面を、彼を尊敬する人々を惹きつけたところの、ビスマルクの魅力と対照させ、バランスをとることに注意を払う。
ビスマルクが学生時代、親しみやすい赤毛の大男で流暢なフランス語と英語を話し、決闘を好み、ビールとシャンパンをがぶ飲みし、自分の友人達をもてなすことを楽しんだといった<ステインバーグの>記述は堪えられない。
若きビスマルクがいくつかの不運な恋愛沙汰に見舞われたことにはつい同情さえしてしまう。
本の後の方で、ビスマルクが、非社交的であったためにこの鉄血宰相の成功に何の貢献もなさなかった一人の家庭的な女性の献身的な夫であったことに対し、若干の敬意が払われる。
招かれて、このドイツの政治家の家族とたった一人で夕食を共にした政治家は、後にも先にもディズレーリただ一人だ。
彼は、ビスマルクがしぶしぶ敬意を表明した、ほぼ唯一の政治家でもある。
ディズレーリのビスマルクへの気持ちは、畏怖(unease)と不安(unease)が入り混じった<複雑な>ものだった。
ビスマルクが三か国語を操って一人で切り盛りしていたところの、ドイツ議会に出席するために1878年にベルリンを訪れたディズレーリは、1871年のドイツ統一法が、欧州、とりわけイギリスに及ぼす影響を心配していた。・・・」(C)
「ビスマルクは、愛情を込めた素晴らしい手紙を書いたが、すこぶる付きに厳しい父親だった。
彼は、自分の長男の本当の恋の成就を妨害した。<(注8)>
(注8)ヘルベルトは、ドイツの領邦の一つの王女と1881年に結婚しようとしたが、父親のビスマルクは、彼女が<新教のプロイセンの「敵」である>カトリックの教徒で、しかも離婚者であり、おまけに、息子よりも10歳も年上であったことから、あらゆる手段を弄してこの結婚に反対し、断念させた。(ヘルベルトに関するウィキペディア上掲)
ドイツにおける最も強力な男であったにもかかわらず、彼は非寛容と言えるほど孤独に徹し、権力の虜になることを嫌った。
彼は、大葬儀の壮麗さを拒否し、静かな送別と素朴な墓碑銘とを選んだ。
「ここにドイツ皇帝の愚僕横たわれり」という・・。・・・
<ビスマルク評については、>「邪悪(unease)」という、ヴィクトリア女王によるビスマルクの要約で終えることも、あるいはまた、ジョン・ラッセル(John Russell)<(コラム#2561、3533)>卿による「私が知っているあらゆる男の中で悪魔的なものが最も強いのが彼だ。」で終えることも、更にはまた、ディズレーリによる、もう少し穏健な、「彼はモンテーニュが書いたように語った。」で終えることもできよう。・・・」(D)
「1870年の秋、フランスの敗北の後、<旧仏領でドイツが占領した>ロレーヌ地方を馬で通っていたオットー・フォン・ビスマルクは、プロイセンの軽騎兵を踏みすき(spade)で攻撃して拘束されたばかりの男の妻に声をかけられた。
彼女の涙ながらの嘆願に対して、彼は、考えうるもっとも親切な風情で、「さて、善きご婦人よ、あなたのご主人は間違いなく」とこの時点で彼の首の周りに指で線を引きつつ、「すぐに吊るされることだろうよ」と答えたものだ。・・・
例えば、ディズレーリは、ビスマルクの「甘く優しい声」と彼の「独特の洗練された発音」に感銘を受けたが、それだけに、彼が実際に言った様々なひどいことは、一層私をぞっとさせる、と付け加えた。
ビスマルクは、人を怒らせることを好んだだけでなく、最初の最初から、攻撃性を政治的戦術として用いた。
すなわち、彼は、プロイセン議会での彼の同僚たる保守主義者達を、自分が「最も極端な極端主義者で、最も野性的な反動主義者で、最も野蛮な議論者」であると誇示(present)することによって抑え込んだ。
自己中心的で神経症的で腐敗的で復讐的で裏切り的で無原則的で専制的で大食漢の恩知らずで、おまけに常習的嘘つきであったところの、ビスマルクは、何ともはや、とんでもない食わせ者だった(spectacularly nasty piece of work)。・・・
ステインバーグが説得力をもって主張するように、彼の主人公の、しばしば病気に罹った身体とその恒常的に病んだ心の間には、密接な因果関係があった。
彼の国王がほんのちょっと彼に対して批判めいたことを口にした途端、ビスマルクは寝台に潜り込み、謝罪がなされるまで呻き苦しむ。
その典型が1869年の手紙だ。
「私は死に至る病であり、胆嚢に問題がある…。私は36時間眠れず一晩中吐きながら過ごした。私の頭は、冷湿布をしているというのに燃え盛るオーブンのような感じだ」と。 そう思ったのは彼だけではなかった。
彼の同時代人達の多くは、ビスマルクはいつも狂気へと誘われており、時々、実際に狂気に陥る、と考えていた。・・・」(E)
「・・・ビスマルクは、大いなる心気症(hypochondriac)<(注9)>疾患者の一人だった。・・・」(A)
(注9)「器質的身体疾患がないにもかかわらず、自身の身体状態に対して、実際以上に過度に悲観的な悩み・心配・思い込みを抱え続け、その結果、身体・精神・日常生活に支障を来たしてしまう精神疾患の一つ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E6%B0%97%E7%97%87
「ビスマルク自身について言えば、彼は矛盾の塊だった。
ステインバーグはこう主張する。
この巨人にしていじめっ子は、一生ものの心気症疾患者だった。
この常習的嘘つきの陰謀家は、個人的魅力を発揮するとともに、散文の名手だった。
彼は巨万の富を成したが、つつましく生き、エレガントな生活をしようなどとはほとんど考えなかった。
彼の妻は、料理女のように見えたにもかからわず、晩餐をふるまう方法を知らなかった、と評されている。・・・」(G)
5 ビスマルクの事績
「1862年の夏に、オットー・フォン・ビスマルクはプロイセンの首相に任命された。
それまでに彼が就いた最も高いポストは駐ロシア大使だったというのに・・。
彼は、行政上のポストに就いたこともなかった。
しかし、若干の断固たる短い一撃の繰り返しだけで、この新米の首相は、2世代にわたって欧州の外交を行き詰らせていた判じ物のなぞ解きをしてしまったのだ。
この判じ物とは、どうやってドイツを統一し中欧を再組織するか、ということだ。
彼は、ドイツが、いわゆるドイツ連邦(German Confederation)<(注10)>内の39の主権国家群から成っていたという障害を克服する必要があった。
(注10)Deutscher Bund。1815年のウィーン会議で設けられたところの、ドイツ語圏諸国の経済をゆるやかに統合するための連合体。プロイセンの東部とオーストリアの半分以上(東部)は除外されていた。1866年の普墺戦争の結果崩壊し、1867年には北ドイツ連邦が成立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/German_Confederation
なお、このドイツ連邦の旗が1848年に制定されたところ、北ドイツ連邦/ドイツ帝国時代には別の旗になったが、1919年にワイマール共和国の旗として復活し、ナチス時代のハーケンクロイツ旗を経て、1949年にドイツ連邦共和国(西独)の旗として再復活し、東西ドイツ統一を経て、今なおドイツ連邦共和国旗として用いられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
その間、ずっと、<ドイツの>二つの「両側の(flanking)」大国であるフランスとロシアは、この中欧での動き(trends)を心配げに見守っていた。
この両国は、既存の欧州の勢力均衡を変更することができる国家が出現することを心配すると同時に防ぎたいと思っていたのだ。・・・
彼は、ドイツ領邦諸国家の君主達を二つの戦争においては克服し、三番目の戦争においては糾合した。
また、男性普通選挙権を与えることで世論を勝ち取った。そして、このことで、プロイセンは欧州で最初の男性普通選挙国になった。
更に、フランスによるルクセンブルグ獲得に同意するかのようにふるまうことでフランスを、1863年のポーランド革命<(注11)>の際にじっとしていたことでロシアを、金縛りにした。
(注11)1863年1月から1864年春までの、ロムアルト・トラウグット(Romuald Traugutt。1826〜64年)率いるポーランド人パルチザン部隊によるロシアに対する蜂起。結局、失敗。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Poland
http://en.wikipedia.org/wiki/Romuald_Traugutt
ビスマルクはこれら全てを、「一人の兵士を指揮することなく、また、議会で大きな多数を占めることなく、大衆運動の支持を得ることなく、それまで政府における経験があったわけでもないのに、しかも民族革命に直面しつつ、彼の名前と評判だけによって」達成したのだ。・・・
彼は、ロシア皇帝に対しては神聖同盟<(注12)>の諸原則に則った訴えを行い、フランスに対してはリベラルな諸制度に対して寛容(openness)である旨訴え、ドイツのリベラル達に対しては彼らに人気のある法律制定の可能性を訴えた。
(注12)「1815年に対ナポレオン戦争が終結すると、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、オーストリア皇帝、プロイセン国王との間で神聖同盟を発足させた。のちにローマ教皇・オスマン帝国皇帝・イギリス王を除く全ヨーロッパの君主が加わった。これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E5%90%8C%E7%9B%9F
彼は、三つの軍事戦役を戦った。
<この三つは、>それぞれ限定された政治的目的を持っており、敵に恥辱を与えるというよりは敵を説き伏せる(co-opt)ことを目指したものだ。
彼のリーダーシップの下で、プロイセンは、<男性>普通選挙制を導入した点で<世界>最初の国となっただけでなく、その後、包括的な社会法の施行という点でも、<世界>最初の国となった。
彼がかくも優位に立ちえたのは、彼が、より強力だったからというよりは、彼の敵達が、彼に比べて機敏(nimble)ではなかったからだ。・・・」(B)
「間違いなく、<ドイツ>単一国家の鍛造は、バイエルンのルードヴィッヒ(Ludwig)2世<(注13)>のような潜在的支持者達に秘密賄賂を分け与える用意がビスマルクにはあったことによって助けられて、驚くべき円滑さでもって達成された。
(注13)Ludwig Otto Friedrich Wilhelm。1845〜86年。狂っているとして退位させられ、そのすぐ後で突然死を遂げた。ノイエシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)を建造し、ワーグナーを支援したことで知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_II_of_Bavaria
ドイツの君主国家群が統一されることで解き放たれたのは、(ビスマルクが生まれた年である)1815年にメッテルニッヒ(Metternich)<(注14)>とカッスルレー(Castlereagh)<(注15)>がかくも苦心惨憺して確立したところの、微妙極まる(delicate)勢力均衡から欧州が離れる、非可逆的な動きだった。
(注14)Prince Klemens Wenzel von Metternich。1773〜1859年。1809〜48年:オーストリア帝国第二代外相。1821〜48年:オーストリア帝国初代宰相(State Chancellor)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Klemens_von_Metternich
なお、ナポレオン戦争が終わった1815年から第一次世界大戦が勃発した1914年までを欧州協調(Concert of Europe)の時代と呼ぶことがあるが、この時代はメッテルニッヒの時代(Age of Metternich)とも呼ばれる。英普墺露対仏4国同盟(Quadruple Alliance)が、ナポレオン没落後、フランスを加えた形で再編され、これら5大国間の勢力均衡によって欧州では大戦争の勃発を回避できた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Concert_of_Europe
(注15)Robert Stewart, Viscount Castlereagh→Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry。1769〜1822年(自殺)。1812〜22年:英外相。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Stewart,_Viscount_Castlereagh
1871年以降、この均衡は、<地理的意味での>欧州諸国中最大の陸軍、二番目に大きな海軍、そして最も先端のテクノロジーを持つ国であるドイツ帝国へと傾き始めた。
ディズレーリが不安を感じたことには何の不思議もない。
不安を感じたのは彼だけではなかった。
もう一人のイギリス人ベルリン訪問者たる、・・・ラッセル卿は、ビスマルクから示された、彼をおだて挙げるという関心を当然のこととして受け入れつつ、「ビスマルクの中の悪魔的なものは、私が知っているいかなる男よりも強力だ」と宣言した。
ビスマルクの怒り性は巨大であり、見ている者をおののかせた。
彼の復讐への欲望は絶える間がなかった。
彼の、自分の同僚達への不忠実さは信じ難いほどだ。
これらのことは、彼が1876年に固めたところの、プロイセンでの生きたカトリックの痕跡の破壊に向けての決意は、彼の長男の婚姻計画の意図的破壊同様、復讐的であり非正義だった。
<彼の長男の>ヘルベルト・フォン・ビスマルクは、離婚していた美しいカトリック信徒と恋に落ちたが、不幸なことに、彼女の姉妹達は、プロイセンの政治家<たるビスマルク>の「敵達」と結婚していたのだ。
ビスマルクは、このロマンスを、自分の息子の相続権を奪い、全面的に追放するぞ、と脅すことによってぶちこわした。・・・」(C)
「プロイセン貴族の間で人気があった福音的ルター主義(evangelical Lutheranism)に改宗したところのビスマルクは、非宗教的な学校と宗教色抜きの離婚(civil divorce)を導入した人物でもあった。
カトリックの迫害者たるビスマルクは、「文化闘争(culture war=Kulturkampf)」<(注16)>の引き金を引いたが、その一方で、素晴らしいカトリック議員であったルードヴィッヒ・ヴィンドトルスト(Ludwig Windthorst)<(注17)>を認める、という人物でもあったのだ。・・・」(D)
(注16)「ドイツ帝国は1866年成立の北ドイツ連邦を引き継いだものであるため、南ドイツの国々(特にカトリックのバイエルン)の帝国への加盟はビスマルクの目にはドイツ帝国の安定に対する潜在的脅威と映った。1870年の第1回バチカン公会議で教皇不可謬性が宣言されたことを契機として緊張が高まった。ドイツ東部(主にポーランド人)、ラインラント、アルザス・ロレーヌでも多くのカトリック教徒が存在した。ビスマルクはオーストリア帝国の介入を慎重に避けながらドイツ帝国を組織していった。オーストリア帝国は上記のカトリック諸地域よりさらに強力なカトリック国家であったからである。カトリック教会の影響を抑えるために採られた手段の中には、1871年にドイツ刑法に付加された第130条aが挙げられる。これは聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課すというものだった。この条項は「説教壇法(カンツェルパラグラフKanzelparagraf)」と呼ばれた。
1872年3月には宗教学校は当局から査察を受けることになった。6月には政府系の学校から宗教の教師が追放された。加えて、アダルベルト・ファルクの導入した「五月法」によって、国家は聖職者教育を細かく管理するようになり、聖職者の絡んだ事件を官吏が扱う教区裁判所を設置し、全ての聖職者が記載された届書の提出を求めた。1872年にはイエズス会の活動が禁止された。この禁止措置は1917年まで続いた。1872年12月にはバチカンと断交した。1874年になると、結婚はカトリック教会の手から離れて、教会の儀式でなく世俗的な儀式によって行われても有効となった。・・・
カトリック教会の影響力はカトリック中央党が代表したが、これを制限しようとしたビスマルクの試みは不成功に終わった。1874年のドイツ帝国議会選挙では、カトリック勢力の議席は2倍に増えることとなった。社会民主党に対抗する必要からビスマルクは反教会的態度をやわらげるようになった。特に1878年の教皇レオ13世即位の後その傾向が顕著となった。ビスマルクはいまや多数派となったカトリック系の議員に対して自らの政策の正当性を訴えるために、ドイツ国内におけるポーランド人(圧倒的にカトリック教徒が多かった)の存在を引き合いに出すようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%97%98%E4%BA%89
(注17)1812〜91年。ドイツ統一と文化闘争の時期において、カトリック中央党党首として、最も著名なビスマルク反対者となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Windthorst
6 ビスマルクによる権力の掌握と維持
「オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相になったのは1862年9月だった。
彼の任命は、徴兵期間の延長と文民徴用の役割の減少とを盛り込んだ法案をプロイセン議会が拒絶したことに伴う憲法的危機に直面した国王ウィルヘルム1世の起死回生の策だった。
退位を考慮した後、退位する代わりに、この国王は、この47歳のユンカー(Junker)<(注18)>を召したのだ。
(注18)「プロイセンを中心とした東部ドイツの地主貴族(厳密には準貴族)、およびその称号。・・・近代以降は資本主義経済の波の中で、封建的な農場経営が崩壊し、その多くは経済的に没落した。ただし政治的には、官僚や軍人になった場合に平民出身者より優遇されたため、大多数のユンカー出身者たちが官界や軍隊に入り、国家による終身雇用で生計を立てた。近代ドイツ軍では一大勢力となり、ナチス時代には平民出身の親衛隊と対立関係にあった。・・・ユンカーは大地主として所有する土地の収穫によって生計を立てていたが、・・・これは多数の小農家による耕作が行われていた南部のカトリック諸国(バイエルン地方など)や、多数の作物を栽培していたドイツ西部地方とは対照的な農場経営法だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC
彼は、リベラル達からは、その激しく反動的な諸声明に対する悪口を言われる一方、正統派の保守主義者達からは、原則のない政治的策士(schemer)であるとして、その深い不信を買っていた。
このジョナサン・ステインバーグの読みやすい新伝記は、プロイセンの外交官であるシュトゥットゥガルト(Stuttgart)のフォン・ズショック(von Zschock)顧問官(Councillor)の、ビスマルクという名前だけで、「プロイセンの真の友人達の全員の心の底からの深甚なる憎しみ」を掻き立てた、という記述を引用する。
彼が長くその職にとどまることができるとはほとんどの人が思わなかった。
何人かは、彼は、軍事独裁制への道を拓くであろうところの反応を掻き立てるためだけに任命された、と信じた。・・・
ところが、彼は、その後20年間権力の座にとどまり続けたのだ。
その間、彼はどんどん瞬間湯沸かし器的にして独裁的になって行き、政治的敵対者達を非難しては、話が大きくなり過ぎるとすねて自分の館に引き籠ることを繰り返した。
こういった問題は、部分的にはビスマルク自身が作り出したものだ。
1871年に作り出された混成的政治システムで、彼はプロイセンの首相と新しいドイツ帝国の宰相の両方を務めたが、それには困難な均衡を取る行為が求められた。
ビスマルクが、彼の同時代人たるルイ・ナポレオンやベンジャミン・ディズレーリと同じく、人民保守主義(popular conservatism)に賭けて、男性普通選挙をドイツ国家の諸選挙に導入したため、それは一層困難なものとなった。
結局これは、諸野党に塩を送ることとなった。
1870年代におけるカトリック教会に対する迫害と1880年代における社会民主党に対する迫害は、期待した結果とは反対のものをもたらした(backfired)。
これらの期間、ビスマルクは策略(tricks)の限りを尽くした。
抑圧、分割統治政策、寄せ集めの(patchwork)提携、国家安全保障の喚起、といった具合に・・。
ところが、ウィルヘルム1世と彼の後継者のフリードリヒ3世<(注19)>が二人とも1888年に亡くなり、ウィルヘルム2世が玉座に就いた。
(注19)Friedrich III=Friedrich Wilhelm Nikolaus Karl。1831〜88年。1888年3月9日〜6月15日:第8代プロイセン王・第2代ドイツ皇帝。「国民は自由主義的で有能な皇太子に期待を寄せ、親しみを込めて「我らがフリッツ」と呼んだ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)
政治的紛争の山とこの皇帝との意思の戦いの結果、ビスマルクは1890年に退任に追い込まれてしまう。・・・」(A)
「・・・高齢になりつつあった国王の信頼という単一の権力基盤から、その他の制度的後ろ盾や有力な個人的随従者なしに、彼はドイツと欧州の外交に君臨した。・・・」(B)
「・・・ウィルヘルムがビスマルクへの忠誠を維持することは容易なことではなかった。
ビスマルクは、彼の諸政策を支持していた者達からでさえ敬して遠ざけられていた(loathed)が、とりわけ、ウィルヘルムの妻のアウグスタ(Augusta)<(注20)>、及び彼らの皇太子<(注19)>、並びに<その妻である>イギリス人たる義理の娘<(注21)>には憎まれていた。
(注20)Augusta von Sachsen-Weimar-Eisenach。1811〜90年。「夫ヴィルヘルムは相思相愛の許嫁だった<女性>との結婚を政治的思惑から許されず、やむなくアウグスタを妃に選んだ事情があり、結婚生活は不幸だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%8A%E3%83%8F
(注21)Victoria Adelaide Mary Louise。1840〜1901年。「イギリス女王ヴィクトリアの長女・・・でドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世の妃。ヴィルヘルム2世の母。愛称ヴィッキー(Vicky)。・・・幼少より聡明で父親<アルバート>の影響を受け、自由主義者だったため、ビスマルク及び舅ヴィルヘルム1世と対立する。・・・ビスマルクは<、彼女を通じ、>イギリスからプロイセンにドイツ・・・の統一に・・・口を挟んでくるのではないかとヴィッキーを憎悪した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%90%8E)
アウグスタ、フリッツ(Fritz)<(注19)>とヴィッキーにしてみれば、このドイツの容赦なき(implacable)宰相は、悪鬼(fiend)・・人の姿をした悪魔・・のように見えたのだ。・・・」(C)
「ビスマルクが登場するまでは、ナショナリズムとリベラリズムは正反対の極を代表しているものと一般に見なされていた。
ところが、彼は、この命題を否定したのだ。・・・
ディズレーリのように、彼は広範な国民に基盤を置いた選挙はナショナリズムをもたらすだろうが、それによって保守的な諸大義のために動員を行うことは可能である、と信じたのだ。・・・」(B)
「・・・ビスマルクの力の秘密は、彼が1871年にドイツ皇帝に就けたところの、プロイセン国王ウィルヘルム1世をコントロールする彼の能力に存した。
ウィルヘルムが、長期化したリベラルな議会多数派との紛争により退位を考えるに至っていた1862年に、ビスマルクをプロイセンの首相に任命すると、ビスマルクは短期間で自分自身を不可欠な存在に仕立て上げた。
国王とのこの関係を、彼はその特徴的な容赦なさで活用した。
「ビスマルクの下で皇帝であることは容易なことではない」とウィルヘルムは呻いたようだし、事実、ウィルヘルムは、時々棘に向けて微かにビスマルクに蹴られもしたけれど、ビスマルクは、常にすぐに馬具を付けて戻ってきて、自分の向こう見ずさ(temerity)を大げさに謝罪したものだ。
ビスマルクが、いつものように、1869年にささいなことで辞任を申し出た時、ウィルヘルムは、「君の申し出を飲むと私が考えるなんてことをよくもまあ思えたもんだ! 私は、君とともに生き、君に完全に同意することが、(以下二重下線)私にとっての最大の幸せなのだ」と記し、この手紙に、「(以下二重下線)君の最も忠実なる友人、W」と署名した。
この君主の支持という床岩から、ビスマルクはまずプロイセンを、次いでドイツを、そして更に欧州に君臨したのだ。・・・
彼が恵まれていたのは、ビスマルクが二人の組織づくりの天才に助けられていたことだ。
それは、プロイセンの陸軍大臣のアルブレヒト・フォン・ローン(Albrecht von Roon)<(注22)>と参謀総長のヘルムート・フォン・モルトケ(Helmuth von Moltke)<(注23)>だ。
(注22)Albrecht Theodor Emil Graf von Roon。1803〜79年。陸相:1859〜73年。海相(兼務):1861〜71年。「1871年伯爵、1873年元帥となり、さらに一時プロイセン首相となった。保守的な国家主義者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3
(注23)大モルトケ(Helmuth von Moltke the Elder)=Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke。1800〜91年。1858〜88年:参謀総長。1870年伯爵、71年元帥。「電信により迅速に命令伝達し、大部隊を鉄道で主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する戦術を確立した・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/Helmuth_von_Moltke_the_Elder
この二人が、1864年にデンマークを、1866年にオーストリアを、そしてフランスを1870〜71年に敗北させるための軍事的手段を提供した。・・・
新しいドイツに押し付けられた、複雑で扱いにくい(unwieldy)憲法は、隠すまでもなく、ビスマルクに都合よく起草されたものだった。
換言すれば、それは、強力な宰相が弱い国王をいじめるためのシステムを維持するためのものだったのだ。
というわけで、<このような国家体制>を運営するのは、そもそも困難であったところ、それは1880年代末には完全に崩壊することとなった(fell apart)。
ウィルヘルム1世が1888年に90歳で死亡すると、彼の息子のフリードリッヒがわずか99日間在位した後、喉頭癌に斃れ、彼の息子のウィルヘルム2世にその位を譲った<からだ>。・・・」(E)
「ビスマルクは、彼のリベラルな反対者達を掘り崩すため、男性普通選挙を通じて大衆に呼びかけることによって、外国においてと同じく、国内において、均衡を達成しようとした。
彼は、ナポレオン3世のように、既存秩序の側に国民を招集することによって民主主義を飼いならせることを示した。
また、彼は、ディズレーリのように、大衆の有権者としての力が、地主貴族<(ユンカー等)>がそうであった以上に既存秩序の強力な支えとなるであろうことを信じた。
ビスマルクは、カトリック信徒と社会主義者の双方に対して戦った。
彼は、彼らを帝国の敵(Reichsfeinde)として攻撃したのだ。
その一方、彼は、彼らの社会諸政策を剽窃し、世界最初の老齢年金と健康保険制度を導入した。
ここでも、彼は、自分の様々な敵の武器を逆に彼らに対して用いたわけだ。・・・」(F)
「・・・こういうわけで、ビスマルクは、普通選挙を制度化した貴族、時の指導的社会主義者と親しく交わった君主主義者、社会保障、損害補償、そして(1880年代であることを思え!)国民皆健康保険を制度化したところの社会主義の敵、ユダヤ人の解放を達成し何名ものユダヤ人と親しい友情を維持したところの(少なくとも、その生い立ちと本能からすれば)ユダヤ人嫌い(anti-semite)だった。
彼は、その強力な知力とどんな状況に直面しようとそれを利用することができる能力でもって、これらの明白なる諸矛盾をむしろ活用することに見事に成功しえたのだ。
これによって彼は、自分が最も専念し集中した分野であるところの、外交場裏において、名人たる存在となった。・・・
ビスマルクは、自分の仕事に関する政治プロセスの多くをでっちあげる(make up)必要があった。
というのも、諸議会という、彼が罠にかけられかねないところの、選挙で選ばれる議員によって構成される機関こそ存在していたものの、あくまでも実際の権力は、(一度も自身は選挙の洗礼を受けなかった)ビスマルクを任命するとともに、残りの大臣達をも任命する、国王にあったため、ビスマルクは、信頼できる同僚達から成る内閣を選ぶ権限を与えられていなかったからだ。
それどころか、ビスマルクは、自分自身を頻発する宮廷陰謀の犠牲者である、と思い込んでいた。
宮廷陰謀は、その大部分が王妃と皇太子によるものだったが、ビスマルクが独立した権力基盤を持っていなかったことから、彼は、しばしばすこぶる日常業務的な性格の国内諸業務を処理しなければならないという巨大なる重荷を担っていたところ、実際の、或いは想像上の疾病に藉口して頻繁に辞任の脅しを<国王に対して>かけざるをえなかった次第だ。・・・」(H)
7 ビスマルクとユダヤ人
「・・・ビスマルクが同時代人であるカール・マルクスと、嘲りを政治的武器として愛用したという点と、シェークスピア、シャミッソー(Chamisso)<(注24)>、及びハイネ(Heine)<(注25)>に対する嗜好があったという点で共通していたことを、時に我々は思い出させられることがある。・・・」(A)
(注24)Adelbert von Chamisso。1781〜1838年。フランス生まれだがフランス革命で祖国を逃れた両親と共にドイツに移住。詩人にして植物学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Adelbert_von_Chamisso
(注25)クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ=Christian Johann Heinrich Heine。1797〜1856年。ユダヤ系ドイツたる詩人、作家、ジャーナリスト。若き日のマルクスとも親交があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8D
「・・・彼は、ベルリンのドイツ最大のシナゴーグの開設式に出席した一方で、ドイツ社会で燃え盛っていた反ユダヤ人主義を踏み消すためのことを何一つしなかった。
それと同時に、死ぬまで彼が敬意を抱き続けたのは、ユダヤ人たる社会主義者のフェルディナント・ラッサール(Ferdinand Lassalle)<(注26)>だった。
(注26)Ferdinand Lassalle。1825〜64年。ユダヤ系ドイツ人たる政治学者、社会主義者、労働運動指導者。当時プロイセン領であった、現ポーランド領ヴロツワフ(当時ブレースラウ)に生まれる。
ヘーゲル左派の一人として、当初マルクスに協力したが、その後、マルクス主義的な階級国家論に拠らず、ヘーゲル的な国家論に基づき、国家の道義性(もしくは超階級性)を前提に、国家権力を通じて労働者階級の利益を擁護・拡張し社会主義に到達することが可能である、という国家社会主義を唱えた。「ビスマルク(および彼のブレーンであったシュモラーら一群の「講壇社会主義者」)による社会政策は、現存の資本主義的な社会体制を肯定し、そこから生じる弊害(労資対立などの社会問題)を除去することを目的とする社会改良主義であるという点で、資本主義を否定するラッサール流の国家社会主義とは根本的に異なっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
皮肉なことに、「彼の<カトリック信徒たる>イエズス会士及びユダヤ人との交際」が若きウィルヘルム2世に1890年におけるビスマルク解任の口実を与えた。・・・」(D)
「・・・議会では、ビスマルクは、狂気じみた反動であり、かつ野蛮なる議論者だったが、彼の階級と国をまさに特徴づけたところの反ユダヤ人主義に燃料をくべることに応分の役割を果たした。
すなわち、彼は一度こう宣言したことがある。
「聖なる国王陛下の議員たるところの私が従うべきユダヤ人が一人私の面前にいるとするならば」自分は深く不面目と感ずる、と。
それでも、この彼のユダヤ人嫌い(phobia)についても、彼は、自分の強面(こわおもて)の実際主義(pragmatism)と折り合いを付けようとした。
外交における実益政治(Realpolitik)の父たるビスマルクは、能力あるユダヤ人の面々、特に彼の個人的な取引先の銀行のオーナー、とは、それが彼にとって具合が良い場合には、好んで一緒に仕事をしたのだ。・・・」(G)
「・・・ビスマルクの反ユダヤ人主義は、人種主義的な欧州の反ユダヤ人主義の新しい波の一環でもあったけれど、19世紀のドイツにおける、古の憎しみの新しい種類という代物であったと言える。
ジョナサン・ステインバーグは、ビスマルクの反ユダヤ人主義について報告し分析するにあたり、良い仕事をした。
彼は、ビスマルクの抱いていた種々の偏見の幅と深さに関する議論において遠慮会釈がない。
しかし、ここでも、その文脈が記されていない。
キリスト教の宗教的反ユダヤ主義(anti-Judaism)を人種主義的な反ユダヤ人主義(anti-Semitism)へと変貌させたところの、生まれつつあった生物学と人類学という科学、を、ユダヤ人憎悪者達がハイジャックした、という文脈が・・。
しかし、それだけではなかった。
ドイツ独特の(descrete)の文脈もあったのだ。
それは、ドイツ史とドイツ文学に深く根差した動態(dynamic)だ。
それは、ユダヤ人が参加できないところの、有機体たる古のテュートン精神を代表する人々であるドイツ民族(German Volk)、という観念であり、それへの切望(yearning)だった。
18世紀と19世紀の合理主義は、「諸人種」の区別をもたらし、ユダヤ人は「人種」、しかも劣等なそれ、として特徴づけられることとなった。
そして、ドイツ民族は、もちろん、人種主義的トーテム・ポール(totem-pole)の頂点に位置付けられたのだ。・・・」(I)
8 ビスマルクの遺産
(1)ウィルヘルム2世とヒットラーによるビスマルクの遺産の蕩尽
「・・・1930年代初期のドイツの保守主義者達は、現代における最大の誤判断の一つだが、ヒットラーが第二のビスマルクであって、自分達の諸特権を維持するために大衆の支持を活用して、ドイツを再び大国にしてくれる、と信じた。
というわけで、ステインバーグは、ビスマルクとヒットラーの間に「直線的かつ直接的な」連結(link)を感じる。
しかし、それは間違いなく誇張だ。
ビスマルクの任務はいつも限定的なものであり、彼が言うところの、飽和した(satiated)国家たるドイツ帝国を維持することだった。
それとは対照的に、ヒットラーの生存圏(Lebensraum)に向けての諸計画は、無制限なものだったからだ。・・・」(F)
「・・・<ビスマルクの>遺産と言えば、ドイツの20世紀における種々の悲劇の種を蒔いたことだった。
「巨人的な存在の異常なる主権」とステインバーグが呼ぶもの<(=ビスマルク(太田))>によって支配されていた(dominated)ことから、この新しいドイツは、制度的均衡を欠いていた。
保守主義者達にとっては民主的過ぎ、リベラル達にとっては専制的過ぎたところの、この国内と外国に係る新秩序は、相争う諸力を相互の敵対感情を操ることによって抑制しようとした一人の人格に沿うように仕立て上げられていたのだ。・・・
2点注意喚起をしておきたい。
ステインバーグのビスマルクの人格に対する敵意は、彼をして、通常極めて素晴らしかったところのビスマルクの戦略的諸概念を蔑にして、ビスマルクの人格的諸特性を過大に強調させてしまっていることが一つだ。
もう一つは、ステインバーグがビスマルクからヒットラーに直線を引いていることに関するものだ。
だが、ビスマルクは合理主義者だったのに対し、ヒットラーは浪漫的虚無主義者だった。
ビスマルクの本質は、その諸限界と均衡に係る感覚に存した。
他方、ヒットラーの本質は、自己抑制に係る物差しの欠如と拒絶だ。
欧州を征服するなどという観念は、ビスマルクの脳裏をよぎったはずがないが、それは、常にヒットラーのヴィジョンの一部だった。
ビスマルクの有名な金言・・政治的手腕(statesmanship)というものは、歴史を通じての神の足音に注意深く聞き耳を立て、神とともに何歩か歩むということだ・・をヒットラーが口にするようなことはありえなかっただろう。
ヒットラーは真空を残したのに対し、ビスマルクは、二つの大災厄的<な戦争での>敗北を克服するとともに真似することのできない偉大さの遺産をドイツという国に残したのだ。・・・」(B)
「・・・ビスマルクは、ドイツ帝国を拡大するのではなく、維持しようとした。・・・
彼が1914年の時点で宰相であったならば、<第一次世界>戦争は回避できたかもしれない。
しかし、彼の同盟システムは余りにも複雑であったので、彼以外の誰一人としてそれを運用できるほどの技を持ち合わせていなかった。
ビスマルクの後継者であるところの、ウィルヘルム2世とヒットラーは、彼の外交的技巧(finesse)も彼の節度(moderation)も、どちらも持ち合わせなかった。
彼らの手によって、ビスマルクの遺産は破壊されてしまったのだ。・・・」(F)
(2)現在のドイツでは?
「彼のドイツ帝国宰相職下で、ドイツは、世界で最も教育水準の高い、最も技術が発達した、最も生産的な国になった、とステインバーグは言う。
ビスマルクの社会主義への恐れにもかかわらず、(そして、恐れゆえに、)ドイツの勤労者達は、世界において最も早く社会保障制度の恩沢に浴した。・・・」(G)
「・・・ビスマルクは、我々を偉大かつ強力にしてくれたが、同時に彼は我々の友人達、世界の<我々への>共感、そして我々の良心、を盗み取ったのだ」とフリードリッヒ皇太子は嘆いた。・・・」(G)
「・・・マックス・ヴェーバー<(コラム#16、81、125、156、210、454、529、957、990、1022、1030、1439、1645、1774、2753、3005、3417、3487、3720、3981、4051、4149、4383)>は、1918年に、ビスマルクは「ドイツ民族に政治教育を施すことを怠り、ドイツ民族は、トップにいる偉大な男が彼らのために政治を提供してくれると期待することに慣れてしまったために、政治的意思を奪われてしまった」と記した。
これが、ドイツの有識諸階級をして、ヒットラーの種々の犯罪に黙って従わしめた環境なのだ。・・・」(F)
「アドルフ・ヒットラーの下での欧州支配のもう一つの試み(go)の後、ビスマルクの愛したプロイセンは、布告(decree)によって廃止された歴史上唯一の国という(不)名誉を得た。
「初期からドイツにおける軍国主義と反動の担い手であり続けたところのプロイセン国は、存在を止めた」と1947年2月に署名された法律によって連合国の占領諸当局は宣言したのだ。・・・」(G)
「ビスマルクの作品(handiwork)で残っているものはほとんどない。
現在のドイツの政治は、ドイツ帝国の宿敵(Reichsfeinde)たる両政党であるところの、おおむねカトリックのCDU/CSU(キリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟)、及び<社会主義の母斑を残す(太田)>SPD(社会民主党)によって支配されており、この両政党がドイツ連邦共和国を60年以上にわたって静かにかつ平和的に統治してきた。
また、東と西との間で均衡をとるドイツというビスマルク的観念は、ビスマルクが考える遑がほとんどなかった観念たるEUの中に強固に碇を下したドイツによって超克されている。・・・」(F)
9 終わりに
ステインバーグや書評子達が指摘していない事実があります。
それは、ビスマルク(1815〜98年)と(米国人たるリンカーンならぬ)マルクス(1818〜83年)が、まさに、同じドイツ人たる同時代人であったことです。
私は、二人とも「先進国」イギリスに強いコンプレックスを抱いていたところ、エリート・プロイセン人たるドイツ人のビスマルクは、ドイツをイギリスより早く自由民主主義/福祉国家化しようとした・・彼がユダヤ系イギリス人たるディズレーリと「親友」であったことは興味深い・・のに対し、ユダヤ系ドイツ人たるマルクスは、ドイツを最新型の民主主義独裁国家化・・共産主義国家化・・することでイギリスを超克しようとした、と両者を一対のものとしてとらえています。
まず、前者の試みについてですが、(イギリス固有の)個人主義/自由主義や人間主義的土壌とは無縁の、すなわち自治や共助的福祉の伝統のない人種主義的なドイツにおいては、ビスマルクによる過早な男性普通選挙制の導入は、(福祉国家化とあいまって、)政治の不安定化を招くことになります。
他方、後者の試みについては、ビスマルクによるドイツの過早な福祉国家化が、(男性普通選挙制の導入とあいまって、)結果的に、共産主義国家たるドイツの成立を食い止めることになります。
結局、ビスマルクによるドイツの統一とその過早かつ行き過ぎたイギリス化政策は、ある種必然的に、第一次世界大戦の勃発とドイツの敗北、その後のワイマール共和国の機能障害、(最新型の民主主義独裁たる共産主義・・伝染性が強い・・に代わるところの、イタリア由来の)最最新型の民主主義独裁たるファシズム(ナチズム)・・伝染性が相対的に弱い・・の勃興、第二次世界大戦の勃発とドイツの再度の敗北、をもたらすこととなり、その結果、ある意味でプロト欧州文明(カトリック文明)に先祖返りをした感のあるところの、水で薄めた全体主義国家たる戦後ドイツが成立した、というのが私の見解です。
そこで結論です。
共産主義国家であったところの、(かつてのプロイセンの後継国家という側面もあった)東独が、最後まで、ソ連よりもはるかに効果的かつ効率的に機能し続けたことに照らせば、仮に20世紀前半にロシアではなくドイツで共産主義革命が起こっていたとすれば、共産主義圏は、21世紀の現在、より世界を席巻していた形で、しかも、いまだに崩壊していなかった可能性が大であるところ、結果としてであれ、ドイツにおける共産主義革命の芽を摘み取ったビスマルクの人類全体に対する功績は、(彼が第一次及び第二次世界大戦をもたらした点を割り引くとしても、なお)巨大なものがある、と言うべきでしょう。
(完)
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