http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/652.html
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著者:小沢昭一(おざわ しょういち) 略歴−1929年(昭和4年)東京生まれ。早稲田大学卒業。俳優座養成所をへて、昭和26年俳優座公演で初舞台。以後、新劇・映画・テレビ・ラジオと幅広く活躍。一方、民俗芸能の研究にも力をそそぎ、レコード「日本の放浪芸」シリーズの製作により芸術選奨を受貰。著作活動も、著書「ものがたり・芸能と社会」(新潮学芸賞)のほか、「ぼくの浅草案内」「句あれば楽あり」「小沢昭一百景随筆随談選集」(全6巻)「放浪芸雑録」など多数。平成6年度、紫綬褒章受章。平成12年「紀伊国屋演劇賞個人賞」「読売演劇大賞優秀男優賞」を受賞。平成13年度、勲四等旭日小綬賞受賞。
http://www.rin-5.net/251-500/352-watashi_geinou.htm
万歳、足芸、女相撲、浪花節、説教・絵解、トクダシ、大道芸人とならべて、ずいぶんと遠くまで来てしまったと思う。
本書は、本サイトに取り上げるつもりはなかった。
しかし、再読しているうちに、本書が辿ってくれた軌跡は、近代そのものではないかとおもった。
フェミニズムへの通底を感じたので取り上げることにした。
職人と並んで日銭稼ぎだった芸人たち。
今はテレビのおかげで、芸人も有名人と化したが、芸人は堅気の世界に生きてはいなかった。
私がかけだしの職人だった頃、すでに半纏姿で電車に乗る職人は少なかった。
ほとんどの職人は、電車に乗ることは晴れがましいことだと思ってか、電車に乗るときは洋服に着替えていた。
おそらく芸人たちも、職業服では電車に乗らなかっただろう。
芸人も職人と同様に、世間では低く見られていた人種である。
巷間では名人芸とか職人芸と言われたり、国や役所から間違って表彰されたりする。
しかし、芸人の芸人たる所以は、職人と同様に無頼なのだろう。
***
いま、わがブンカのホコリたる歌舞伎でも、その発生期の阿国歌舞伎といわれるものは、売春兼業の、わいざつハレンチなミセモノをやっていたにすぎない。度重なるオカミの取締りをかいくぐって、今日のハエアル歌舞伎が出来上ったが、ハエアル歌舞伎には、ハエナイ頃に観衆が狂喜した面白さが既にないようだ。
だから芸能は、キビシイオカミの詮議取締りの、或は裏をかき、或は目をかいくぐりして、したたかに生きている時が、活力溢れる躍動期なのだ。
江戸のむかし、遊女歌舞伎が禁止されると、女がだめなら男があるさで、若衆歌舞伎が生れた。若衆も風紀を乱していかんということになると、今度は前髪おとせば若衆じゃござんせんで、
野郎頭の野郎歌舞伎に変幻する。しかもサマにならない恰好の頭を、しゃれた紫帽子で隠して。この帽子がまたイカスッてんで、客はまたまたつめかけたとか。P174
***
本書が取り上げている万歳、足芸、女相撲、浪花節、説教・絵解など、今ではとんと目にしない。
三河万歳は、まだ幼稚園だったころに、数回ばかり目にしただけである。
本書は1973年に上梓されている。
すでに30年以上も前のことだ。
芸人たちが淘汰されていくのは、当たり前のことだ。
しかも、消えゆく芸人たちは、何の声も上げない。
職人だって同様である。
近代化の進展と共に、新たな職業が誕生したが、既存の職業もたくさん消滅していった。
下駄屋、桶屋、竹屋、上げればきりがない。
芸人や職人の消滅は、三洋証券や新潟鉄鋼の倒産とか、ダイエイが危ないとか、そんな話題になることはない。
誰も気が付かないうちに、黙って消滅していく。
芸人も職人も、身体に染みこませたものが売りだから、時代に合わせて変身できない。
本書を読んで感じたのは、芸人も職人も国からは、何の援助も受けないことだ。
近代の学校教育から落ちこぼれた者が、芸人になり職人になった。
近代国家は企業が支えたので、企業内の人間は国家に保護された。
しかし、企業からはみ出した者は、最初から保護など当てに出来なかった。
だから芸人や職人の生活は厳しかった。
本サイトが女性の解放を願いながら、我が国のフェミニズムに違和感を持つのは、国家権力や企業に保護を求めているように感じるからだ。
本来人間の解放とは、国家や企業とは異次元で、むしろ国家や企業を突き破ろうとするはずである。
しかし、我が国のフェミニズムは、自立の拠点を国家や企業にもとめ、人間としての屹立を求めないように感じる。
綿貫次郎という大道芸人が、次のように語っている。
***
とにかくみんな金なんかなしでも暮せるの。ゼニないでしょう、朝、釜でオマンマたいて仕事に出掛ける時、質屋へ釜をもってくんだ。残ってるオマンマごと。それで仕事終っていくらかもらって、こいつをもらいうけるってわけ。P229
***
現代社会は、上記のような貧乏を克服した。
だから近代を悪くは言いたくない。
しかし、国家や企業は人間を使い捨てる。
国家は人間を抑圧する。
国家は都合のいいときだけ、人間を利用する。
そう考えるので、当サイトは国家や企業の保護とは、まったく別の地平で論を立てている。
本書に登場する人たちも、また国家権力や企業とは無縁の人たちである。
芸人や職人は、むしろ権力からは疎外されていると言っていい。
弾圧されたといっても過言ではない。
しかし、国家や企業から声がかかると、芸人や職人たちは生きるために、イソイソと出かけていく。
彼らには反権力といった意識はない。
勲章をやると言えば、喜んでもらうのが芸人や職人である。
クロウトをめざした筆者も、いくつもの勲章をもらっている。
同時代で体験できたストリップも、何度も警察の摘発を受けた。
混浴や夜這いが、野蛮なものと否定され消滅した。
同様に、いかがわしいものは近代化の過程で抹殺される。
もちろん近代が実現したことは肯定するが、近代とはいかがわしさの排除だったのだろうとも思う。
そして、いかがわしさも人間の一部であり、いがかわしさの排除は、人間の一部分を否定することでもある。
近代の成熟が、女性の解放を促したのは事実である。
情報社会が進展する今後、ますます清潔で無菌的になっていくだろう。
自然からは遠ざかっていく。
腕力の無価値化によって、女性は自立の契機を得た。
腕力の無価値化とは、自然から離れることだ。
だから、自然から遠ざかるほど、女性の自立は確立される。
ポルノを否定する女性の嗜好は、国家や企業の清潔指向と似ている。
しかし、妊娠・出産を内包する女性の身体は、男性以上に自然志向である。
生理といい出産といい、女性の身体は、男性の身体以上に自然の摂理に従う。
とすると、今後女性の台頭は、非自然化する社会に支えられ、女性の肉体は自然に従うという、二律背反に生きることになるのだろうか。
とすると、女性存在自体が引き裂かれることになりはしないか。
本書は芸人を描いており、フェミニズムにはまったく触れていない。
しかし、芸人を通して近代を描くことによって、人間存在自体に迫っている。
国家からはみ出した被差別の芸人たちは、差別されてきた女性の立場とどこか通じる。
近代の成熟という自然の否定がもたらす軋みを、本書は行間から立ち上らせている。
新装版の本書を買ってしまって、すでに自分の本棚にあったことを知った。
かつて一読した本書だが、再読しても充分におもしろく感じた。
(2005.04.13)
http://www.rin-5.net/251-500/467-kawarakojiki.htm
小沢昭一という特異な役者の息吹を伝えたいのであろうか。
岩波書店から刊行された本書は、1969年に出版された本の焼き直しである。
本書のなかで、筆者は自らを蔑まされた河原乞食だといって、親が河原乞食なるのに反対したといっている。
そんな筆者にかかる本書が、岩波書店から出版されるのも、なんだか不思議な感じである。
役者が河原乞食からはなれて、人間国宝になったり、文化人としてもてはやされたりしている。
そうした風潮に抗して、筆者の立ち位置は、あくまで見世物として晒される河原乞食である。
しかし、本書は40歳のときに書かれたもので、その後、筆者も河原乞食から文化人のほうへと、立ち位置をかえてきたのは周知であろう。
筆者の変節を責めるつもりは毛頭ない。
そうではなくて、時代の変化が河原乞食を、そのままの位置に置かせなくなったことを考えたいのだ。
むかしは役者といえば、見世物人であり、庶民以下の蔑まれた賤民だった。
弁護士も三百代言と呼ばれていたし、そうした空気は、戦後になっても残っていた。
むかしの見世物は、見る者が見せてる者を哀れんだというが、現代ではお客が哀れみの目で見られているという筆者である。
近代社会は多くのモノを変えたが、表現する人間を文化人に変えたのである。
シェークピアだって、写楽だって、偉い文化人などではなく、見世物書きだったのだ。
***
もともと、芸能が、芸能の「出身地」をはなれて、支配者の側についた時には、その芸能はみじめであった。これまた日本の芸能史が証明ずみだ。宮中に入った雅楽。武家式楽となった能。「演劇改良」とやらで洗われて、明治大帝の天覧に供した歌舞伎。大政翼賛会推薦の愛国浪曲。体制がわにくみいれられた時、その芸能は輝きを失って滅びる方向へまっしぐら。そしてその反対のがわにいる限り、芸能は、涙と怒りをはらにこめ、猥雑、放埒などハレンチな毒をもドツプリと包んで、みずみずしく、溌剌として民衆を楽しませるのである。
そこで、さあ、問題はむしろこれからだ。そういう民衆のがわの芸能を創り出すのに、いま、われわれ芸能者は、具体的に、どうすればいいのだろう。P137
***
本書は今から40年前に書かれたのだ。
その後の40年の変化を、どう評価すればいいのだろうか。
筆者のことではない。
時代の変化は、どうだったのだろうか。
時代の変化を肯定的に考えるボクでも、筆者の指摘には返す言葉がない。
我が国は、世界でも有数の長寿国である。
高度経済成長以降、極度の貧乏がなくなり、誰でもが天寿をまっとうできるようになった。
そのかげで、芸能が出身地をはなれ、職人は仕事を奪われていった。
本書に登場する門付け芸人たちが、テレビへと変じたのではない。
門付けをしようとしても、マンションでは扉を開いてはくれまい。
漂泊の芸人は、すっかり死に絶えてしまった。
彼(女)等の亡骸のうえに、別の芸能文化人が誕生したのだ。
野球帽に玩具の太鼓をもった漂泊芸人に、筆者は共感している。
***
もともと、この国には、漂泊芸人に対して、コジキ同然と蔑視する一方、他郷より渡り来る神の使いと畏敬する風習があるのだとよくいわれる。そういうことが、いまも生きているのであろうか。P223
***
筆者は女性には目がなく、赤線にもかよったし、トルコ風呂の愛好者だった。
芸人たちがほとんど売春婦と変わらない位置にあったのだから、筆者には売春婦を差別する意識などまったくない。
むしろ、赤線のなかに身を沈められない自己を、不思議な生き物のように見ている。
***
実はこの時、私は、彼が羨しくて仕方がなかった。おそらく馴染の女のいる店なのであろう。そこで彼女たちと、そして「おかあさん」とも、すっかり仲良くなって、「客」というよりもう「仲間」になっている彼の姿が、ハッキリ感じられて、、私は、彼と自分との距離を感じた。女郎屋遊びといっても、たかだか「お客」 で、物珍しくそれを観察する「エトランゼ」 であり傍観者に過ぎない自分と、ドツブリ彼女たちの中に入って「暮らしている」風の彼との間に、はっきりと、気質の違いとでもいったようなものを感じとった。そういう自分にちょっと淋しかったが、人間にはこの二通りの型があるものなのだな、と考えたりもした。P397
***
友人の落語家が、赤線のなかに生きている。
それにたいして、どんなに足繁く通っても、彼は外の人間なのだ。
この気持ちは痛いほどよくわかる。
結局、この寂しさが新劇を選ばせたのだ、と筆者はいっている。
これも肯ける話である。
筆者が羨ましく感じていた世界が、消滅させられていった時代、それが近代化だったのだろう。
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