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(回答先: Re: 近代史板 番外: 志ん生「風呂敷」 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 6 月 26 日 22:30:19)
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少年時代 〜10で飲む打つ15で蒸発
古今亭志ん生の少年時代のおはなしである。
「早死にした兄貴達も、親ゆずりなんですが、みんないずれ劣らぬ道楽者でしたが、あたしとくるてえと、それに輪をかけた道楽者で、10歳(とお)にもならないうちにもうバクチは打つ、悪さはする。悪い友だちが大勢いるから、遊んで歩いて、親のそばになんぞいたァこたァない」
「あたしは、13〜14でもう酒ェくらっていたんですが、酒屋でそんな年ごろの子供に、平気で酒ェ売るくらいですからしようがない」
ともに志ん生自伝「びんぼう自慢」の一節である。今なら毎日学校から呼び出されて、親が大目玉を食うケースである。昔だって同じことで、下谷の小学校を卒業当時は四年制)寸前に素行不良で退学させられてしまった。
どこへ奉公にだされてもダメで、長くて1ヵ月、短くて3日。時には連れて行った親や兄より先に家へ戻ったというからひどい。「海の向こうなら帰れないだろう…」というので、朝鮮の京城(現在の韓国ソウル)まで小僧に出されたことがある。向こうに着いてダマされたことがわかると、途端にハンストをきめ込んで雇い主をあきれさせ、一人で東京まで戻ってきた。
15歳の時、おやじが命の次に大事にしているキセルのとびきり上等なのを曲げて(質に入れて流すこと)それがバレたからさあ大変!おやじは昔、徳川幕府の旗本でヤリの名人。そのころ巡査をしていたから堅い一方。「家系の名折れ、成敗いたしてくれる!」と長押(なげし)のヤリをとって、リュウとしごいて本当に突っ殺しかねない勢いに、志ん生はユカタをわしづかみにして横っ飛び。そのまま生涯家へ戻らなかった。今様にいう“蒸発”で、それも思いきり長期にわたる。
といって親を忘れたわけではない。のち天下の志ん生となって、功成り名をとげて昭和42年(77歳の時)菩提寺の文京区小日向の還国寺(かんこくじ)で、両親とともに先祖を供養し、不幸をわびて新しい墓を建てた。志ん生もまたそこに眠る。
セミプロのころ 〜何してたのかな
昔の落語家は天狗連(セミプロ)から入った人が多い。志ん生もそうである。今ならテレビやラジオの“素人のど自慢”からプロ入りするケースに似る。
志ん生の天狗連時代の師匠は、三遊亭円盛(えんせい)といって大変な奇人である。この人のニックネームを“イカタチ”という。イカタチとは“烏賊(いか)の立ち泳ぎ”の略で、その容姿を一目でも見た人は、なるほどと、10人が10人とも手をたたいた。
背丈は子供のようにチンチクリン。おまけにやせている。そのくせ頭はやけに大きく、オツムは薄い。見ばえのせぬことおびただしい。ところが人間だれしもウヌボレはある。少しでも二枚目に見せようと、薄い頭に油をしたたるほどなすりつける。
羽織は裏打ちだらけで、紋は紙を切りぬいてはってある。途中で雨や風にあうとはがれるので、夏でも、もっぱらインバネス(とんび)を着用した。そして年中高ゲタと細巻きのステッキを愛用した。背を高く見せるための配慮である。
帯に金時計をまくのが紳士のみだしなみだが、本物は高いので目ざまし時計を下げた。おかげで重みでいつも帯がズリ落ちそうになっていた。さして忙しくもないのに、売れて売れてしようがないふうにふるまうので、当然言動はキザで鼻もちならない。
ザッとこんな具合だから、あまり人から尊敬されるというタイプではない。先に物故した桂文楽は「酢豆腐」(すどうふ)の若ダンナを、この円盛をモデルにしてやっていた。
話がうまいまずいは別として、師匠がこんな具合では、弟子もうだつが上がらない。さすがの志ん生もこれには驚いて、チャンとした修業の出来るいい師匠を求めて“名人”橘家円喬のもとに入門して、正式にプロの道へ飛び込んだのである。
ケンカ腰の抗議 〜酒でまるめこまれる
今は落語家も全国的になったが、ラジオもテレビもない昔は、地方によってはまるでわからなかった。
「うんと田舎へ行くてえと、落語なんてものは、見たことも聞いたこともない人がいる。ハナシカをカモシカと間違えて、お百姓が鉄砲もってかけこんで来たなんてえ話もあるくらいであります」(志ん生)その時分…大正のごく初め、初代の三遊亭小円朝の一行が北海道へ行った。当時志ん生は朝太、先代金馬が歌当といって、2人ともまだ前座である。どこも客の入りが悪いので、小円朝を「円朝」ということにして室蘭へ乗り込んだ。
天下の円朝なら大入り満員疑いなしと思って初日を開けたが、さっぱり入らない。近所の演芸場に浪花節にまじって、三遊亭柳喬という名の落語家が出ており、これがえらい人気で、そちらの方に客をとられているのがわかったから、サァ本職連は面白くない。
「柳喬なんて名前は聞いたことがない。第一東京から三遊亭の宗家が来ているのに、あいさつにも来ないとは何事だ。一つ化けの皮をひんむいてやろう」と朝太、歌当の二人がすごい勢いで柳喬のところへどなり込んだ。
柳喬は驚き、あわてて2人を近くの飲み屋へ連れ込んで酒で買収しながら平あやまり。若い2人は酔っていい心持ちになり「お前さんほどのいい芸人が、北海道くんだりでくすぶってちゃもったいない。東京へおいでよ、いい師匠を世話するよ」あべこべに柳喬を激励する立場に変わってしまった。
それから1年ほどして、朝太も歌当も忘れたころに、柳喬がひょっこり上京して来たので、歌当は責任上、時分の師匠の初代円歌のところへ入門させた。この時の柳喬というのが先代の円歌…「ボロタク」や「呼びだし電話」でおなじみのあの目の細い三遊亭円歌である。だから先代の金馬と円歌、それに志ん生は生涯を通じてよき友だちであった。
無一文の旅 〜渡し賃は“都々逸”歌って
一文なしの一人旅…というのはヒッピー族には受けるかもしれないが、実際やってみるとつらいものらしい。
志ん生が若い日、名古屋でご難にあい、東京まで帰りたいが無一文。やむなく東に向かって東海道を歩き出した。むろんはなしのけいこをしながらである。二日目の午後、浜名湖のある弁天島まで来た。渡しがあって「渡し賃八銭」とある。弱ったなあと思いながらワキを見ると、茶屋で酒を飲んで陽気に騒いでいる客がいるから「ダンナ、すいませんが、都々逸かなんか歌わせてください」とことわって、三つ四つトーンと歌ったら10銭くれた。
天の助けとばかり舟にのると、巧い具合に船頭さんが金を取るのを忘れたから、天の助けのダブルプレーである。焼きイモとせんべいを5銭買って、そいつをほおばりながら掛川まで歩いた。空腹でもうグロッキーである。
目の前に宿屋があるから、飛び込んで夕飯をかっこんで、死んだように眠る。あくる朝、「じつは、おあしがないんです。東京の芸人ですが、帰ったらすぐナニしますから、かんべんしてください。それとも代金だけ働かしていただいても結構です」と切り出したが、これは天の助けというわけにはいかない。すぐに警察へつき出される。その夜の宿はぶた箱である。退屈を持て余しているところへ一見ヤクザの親分風の男が入って来る。話を聞うて「そうかい。東京の落語家かい。そりゃあ気の毒だ。で、どうだい、オレの前で一席やってみないか」という。そこで志ん生は、その男の耳元へ口を寄せて、内証ばなしのように、一席与太郎ものを演じた。男も笑い声を出せないので、随分苦労して笑いこけた。
「落語ってものなあ、あんまりああいうところでやるもんじゃあないや」(志ん生)とは、至極あたり前の結論である。いまの柳家小さんが2・26事件(昭和11年)のとき反乱軍の兵隊にかり出され、その夜上官から「何か一席やれ!」と命令されて「小ほめ」を演じたという話と、まさに好一対といえよう。
甚五郎 〜甲府でみっちりケイコ
志ん生の若き日の旅日記…はいろいろあるが、私はこの話が一番感動的で好きである。
志ん生がまだ朝太といっていたころ甲府の稲積亭(いなずみてい)という寄席へ出た。東京では前座であっても田舎なら大看板。「甚五郎の大黒」という人情ばなしめいた大きなはなしをタップリ演じて大変うけた。いささか得意になっている楽屋へ、その席で下足番をやっている70がらみの、きたないじいさんがひょっこり顔を出して「朝太さん、今夜おやんなった甚五郎ですが、まことに失礼ですが、あれじゃあいけませんね」という。相手が下足番だからカチンと来て「そうかい。どこがいけねえんてンだ?」
「怒っちゃいけませんよ。生意気いうようですが、左甚五郎てえお人は、変人ではあるが与太郎じゃアねえんです。失礼だが、おまえさんの甚五郎は、どうしたって与太郎だ」とズバリ芸の本質を突く。落語でいう“与太郎”とはウスばかのお人よしをいう。
よく聞いてみると、このじいさんは四代目三升家小勝(新派の伊志井寛の父)の弟子で小常という二ッ目の落語家だったが、師匠がなくなってひとり旅をしているうちに甲府に住みつき、下足番になったのだという。「甚五郎」はオハコのネタだったという。
「お前さんも、早く東京に戻って、いいはなし家におなんなさいよ。一つ間違うと、あたしみたいになっちまうよ」と意見されて、ここで一念発起、じいさんの家までけいこに通うことになった。
畑の中の一軒家の気ままな一人暮らし。家の中まで鳴子のナワが引いてあって、時々そいつを引っぱってはスズメを追うのが昼間の内職である。朝太にははなしを教えながら、ひょいと立ち上がってナワを引っぱっては、また座り直してけいこを続けるという繰り返しで「甚五郎」をミッチリ叩き込まれた。
この「甚五郎」(別名を「三井の大黒」あるいは「左小刀」)はのち志ん生の十八番の一つとなった。この逸話をきかせてくれたとき、志ん生の目に光るものを見た。
払えぬ家賃 〜荷物がないから簡単にドロン
志ん生に貧乏はつきものであるが、かなり落語家として名が出てからも貧乏だったから、若いころの貧乏はことさらだった。
昔は東京でも貸し家や貸し間はいくらでもあった。貸し二階が一番安直で安い。その最も安いところをねらって、友達と二人で借りる。敷金もないから「あたしたちは寄席に出てますと日銭が入ります。敷金と家賃を毎晩割って納めますから、一つ貸してくださいな」と借りる。日割り計算すると、一人頭5銭か6銭だが、食うに精一ぱいだから、とてもそこまで手が回らない。しばらくすると居づらくなってドロンをきめ込む。荷物といっても風呂敷一つで足りる。布団もカヤもないのである。
“本所に蚊がなくなって年の暮”という川柳もあるように、昔の下町は蚊の名物で、春から秋までカヤを必要とした。だから夜は一人で寝て、もう一人がウチワであおっている。時間がくると交代ということになる。
毎晩これではしまらないから、吉原へひやかしにゆく。夜っぴいてひやかして歩いて、朝になるのを待って、ゼニのありそうな友達のところへ押しかけて、朝めしをゴチになるというようなこともよくやった。もっとも、あべこべに押しかけてくる友達もいたというから、みんな貧乏だったわけだ。
その時分、志ん生は朝太といい、小円朝の弟子の清朝というのと大の仲よしで、よく共同生活をした。下谷の御徒町の豆腐屋の二階を借りた時、家賃も安いが家もひどい。寝る時は座敷のまん中へ寝る。寝相もさほど悪いわけではないのに、朝になると2人とも隅っこにかたまっている。毎晩同じことを繰返すので、おかしいと思ってしらべてみると、家そのものが大きくかたむいていたのである。
「チェッ、バカにするねェ。船だって、そうそう一方にばかりはかしがねェや」と妙なタンカを切って、そこをドロンした。まるでゼニがなく、清朝がふんどしをはずして質屋へもってゆき、あまりきたないので断られたのもその時分である。
改名 〜32年間に16回も
志ん生は落語家になって16回の改名をくりかえしたはなしは有名だ。
まず三遊亭朝太から円菊(ここで二ッ目)そして古今亭馬太郎、全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石、金原亭馬きん(ここで真打)古今亭志ん馬。
ここでちょっと落語界をしくじることがあって講談師となって小金井芦風、またはなし家恋しとカムバックして古今亭馬生。それから柳家東三楼から柳家ぎん馬、柳家甚語楼から古今亭志ん馬(二度目の志ん馬)そして金原亭馬生(二度目の馬生だが亭号が違う)を経て、昭和14年に古今亭志ん生の五代目をつぐ。
落語界入門が17歳(明治40年)で、志ん生襲名が49歳(昭和14年)だから、この間32年。2年に1回のわりの改名ということになる。こんな例は長い落語界にも類を見ない。今もそのうちのいくつかが息子や弟子たちによって継承されている。
その武生時代のある大みそか、師匠(馬生)から迎えが来て、何事ならんと出かけてみると「お前なァ、宇都宮の茶目平ってたいこ持ち、知ってるかい?」ときかれた。「へえ、もとはなし家で、兄弟分でした」と答える。
「そうかい、そうだろうなァ。実ァ、その茶目平から、おまえのところに羽織がとどいているんだ。ほんというと、今月の初めにとどいたんだが、私あての手紙に、武生てえなァズボラでいけねえ。いま羽織を渡したりすると、しめたとばかり伊勢屋(質屋のこと)へ運んじまうに違いねえから、どうか大みそかに渡してやっていただきたい。そうすりゃァ元日から着て、高座にも張りが出るだろうから…と書いてある。そういうわけの羽織だ。さァ、受けとるがいい」
これには武生もジーンと来て、しばらく家から出られなかった。この茶目平は、下谷御徒町のかしいだ二階で一緒に暮らしたあの清朝である。のち志ん生は彼を高座にカムバックさせ、時分のあとの馬生(八代目)をゆずった。全亭武生の芸名は「おまえさんは全体に無精でいけねえ」としかられたところから出たという。
真打ち 〜タンカの手前死物狂い
志ん生が隅田川馬石改め金原亭馬きんの名で、真打ち披露を行ったのは大正10年9月、31歳のときである。
その3ヵ月ほど前、上野鈴本の経営者である大だんなが「おまえさんも、そろそろ看板をあげたらどうだね」と声をかけてくれて「金もいるだろうから、少しばかりなら用立てしてあげるか」とポンと200円貸してくれた。馬石の貧乏は、お見通しである。1921年の200円だから今の200円とはわけが違う。高座着一式から、くばりものまで、すっかりそろえておつりが来る。
「ありがてェ」と押しいただいたはいいが「少しぐらいならかまわないだろう…」と考えたのがいけない。呉服屋へ行く前に酒屋へとび込み、ついでに吉原へゆき、バクチの方にも手を出したからたまらない。道楽の金は羽がはえてとんで行く。披露の時は刻々と近づくのに、準備は何も出来ない。
そんなことおかまいなく、上野鈴本の初日がやってきた。楽屋へ大だんながニコニコ顔を出して「さァ、馬きんさん、そろそろ支度したほうがいいよ」という。
「支度なら、もう出来てます」
「えッ、まさか、そのナリで…」
と大だんながおどろいたのはムリもない。馬きんはいつものヨレヨレの寝間着のような、ふだん着である。大だんなの顔がみるみるエンマにかわる。
その顔に向かって、馬きんは一世一代のタンカを切った。「あの金はあたしから頼んで借りた金じゃねえ。だんなのほうから勝手に貸してくれたゼニでしょう。第一、2ヵ月も3ヵ月も前のゼニなんど、今ごろあるわけァない」
続いてさらに「これで上がらせてもらいます。あたしゃあ、これでも、はなし家なんだからナリを見せるんじゃねえ。芸で聞いてもらいます」と、もう、やけくそ半分である。
タンカの手前、一人でも客を立たせたら負けである。その晩の馬きんは、運命をかけて全身を汗にしての熱演で、満員の客をピタリおさえた。客席のうしろから聞いていた大だんなは、満足そうに大きくうなずいていた。
嫁さんが来た 〜仲間に誘われ家はあけっぱなし
志ん生が結婚したのは馬きんで真打に昇進したあくる年だから、大正11年で32歳のとき。
下谷の清水町の床屋の二階の六畳に住んでいるとき、近くの運送屋の主人が「どうだい、そろそろもらったら…」と高田馬場の下宿屋の娘で、7つ年下のりんという名のかわいい娘さんを世話してくれた。
「こちらに異存はございません。しかし、あたしゃァ芸人だからといって、別に売れてるわけじゃァないし、着るもんだってありゃしません。そのかわりといっちゃァなんですが、飲む、打つ、買うの三拍子は人一倍やりますが、仕事のほうはなまけ者ときています。それが承知なら、どうぞ来ておくんなさい。」
世話人もあきれて帰ったが、10日ほどたったある晩、家へもどるとちゃんとそこにかあちゃんが座って待っている。馬きんの高座をどこかの寄席で見て「おとなしそうな人だから“いいじゃないか”と向こうできめて、道具を持って嫁入りして来た」のである。むろん新婚旅行などありはしない。
さて、あくる晩、仲間の一人が「おい、孝ちゃん、チョーマイに行かねえか」とさそいに来た。志ん生の本名は美濃部孝蔵だから“孝ちゃん”である。
志ん生ポンと手を打って、嫁さんに向かって「ああ、チョーマイに行かなくっちゃならねえから、今夜ァ帰んねえよ。この商売は、仲間のつき合いが大事だからなァ。いくらか金おくれ」という。嫁さんは、財布からヘソクリを出して、ゲタをそろえて、三つ指ついて小銭を握らせ「行ってらっしゃいませ」と送り出してくれた。
そのあくる晩になると、また別の仲間が「おう孝ちゃん、今夜はモートルだ」とやってくる。嫁さんは「行ってらっしゃいませ」と送り出す。
“チョーマイ”というのは芸人の符丁で女郎買いのこと。“モートル”というのは、バクチのことである。嫁に来たばかりなので何も知らないりんさんは、チョーマイやモートルは、はなしか仲間の寄合いか、勉強会かなんかと信じていたのである。
関東大震災(1) 〜酒くらい奥さん“落雷”
結婚の2日目に、もう女郎買いに行く。3日目には花札をいじり家をあけるなんぞ、とてもいい亭主の資格はない。そんな具合だから、嫁入り道具に持って来たタンス、長持ち、琴、三味線から着物まで、だんだんだんだんと質屋へ運ばれて、ふた月ばかりで部屋はガランとして来た。
これを見かねたのは、かみさんの父親である。「この際、一軒家に住んでごらんよ。家賃は高いかわりに、部屋を人に貸したっていい。第一、一軒家の主になれば、少しは責任を持つだろう」と、本郷の動坂の停留所の近くで、8畳に6畳、玄関もフロもついていて、しかも二階家という、夢の宮殿のようなところを借りてくれた。家賃の25円も目の玉が飛び出るほど。
そこで、関東大震災に出っくわす。
大正12年9月1日の午前11時58分45秒…ガラガラッと来て、裸電球が天井にぶつかってパチーンと割れ、タンスの上のものが全部落っこちた時、志ん生は奥の一間で、サルマタ一つで雑誌を読んでいた。
浴衣と帯をわしづかみにして、表へ飛出した時、フッと脳裏をかすめたのは「ひょっとすると、東京中の酒が、地の中へ吸い込まれちまう」ということだったという。一目散にかけ出して「すみません。酒を売ってください」と、飛込んだのは近所の酒屋。酒屋も逃げ出すのに精一ぱいで、もう商売どころではない。「師匠、かまわねえから、そこで飲んでってください」と、声より早くもう飛出した。
「しめた!」というので、志ん生は四斗ダルの一番いい酒を、マスでグイグイとあおり、ついでにもう一杯。一升五合は飲んだ計算になる。タナから一升ビンがころげ落ちて来たので、そいつを2本抱いて、はじけるように走り出る。あたり一面、逃げる人、人、人。
足早に家まで戻ろうとするが、酒で足がよろめく。そのよろめきを大地がゆするというので、すっかり酔っぱらって「ただいまァ」と帰った時は、鼻歌まじりだった。かみさん一世一代の雷が落っこちたことはいうまでもない。
関東大震災(2) 〜浴衣に三尺締めて一席
“第二の関東大震災近し”というのが、近ごろショッキングな話題となっている。あの半世紀前の、大正12年の関東大震災を志ん生は東京・本郷で体験した。
「いやア、すげえのすごくねえのって、こないだの戦争の、あの空襲のときと、ドッコイドッコイてえとこでしょう。空襲に丁と張る人がありゃア、あたしゃアね、震災のほうへ半と張りますよ」(志ん生)というくらい、ひどいものだった。
本郷の家は、いくらかかしいだが、幸い焼けなかったので、焼け出された仲間たちが、「しばらく頼むよ」と押しかけて来た。まず上方から来ていた林家染団治(のち漫才に転向)がその日のうちにやって来て、2日目には師匠(六代目馬生、のち四代目志ん生)が一家7人に、犬まで連れてころがりこんで来て、二階を占領した。
たべものの世話をするのが、何よりの苦労で、二階の天井裏に非常用にたくわえてあった正月のカビの生えたモチをたべたときのうまさは、どんな山海の珍味より上だったという。
東京のあちこちにあった寄席はあらかた焼けて、芸人の多くも焼け出された。五代目の麗々亭柳橋は本所の被服廠(しょう)あとでなくなり横浜で興行中の横山エンタツ(大阪の漫才)はフロ屋の煙突が倒れて下敷きになり鼻をつぶしたし、上方落語の桂小文治は、一番列車で大阪へ逃げ、向こうでいち早く「東京震災の記」というルポタージュ落語を一席、レコードに吹きこんだ。
東京残留の落語家たちは、焼けのこりの寄席を借りて興行したが、芸人、なりふりをかまうゆとりはなく、ひどいのは印半てんで出て「えー、あたしも焼けちゃったんです」とやると、ドーッと受けた。ふだん貧乏の志ん生は、これ幸いとばかり、ヨレヨレの浴衣にナワみたいな三尺を締めて、それを高座着で通したという。
以上、志ん生の“震災体験記”のほんのひとコマであるが、考えてみると当代活躍する落語家の大半は、この関東大震災(1923年)以降の生まれなのである。
家族構成 〜娘さん2人、息子2人
関東大震災の翌年(大正13年)の1月、志ん生家に長女が誕生する。志ん生の身のまわりを最後まで世話した美津子さんである。そのあくる年(大正14年)10月、二女が生まれる。三味線豊太郎こと喜美子さんである。志ん生の長男が馬生(昭和3年1月生まれ)二男が志ん朝(昭和13年3月生まれ)ということは誰でも知っているが、上に姉さん2人のあることは、あまり知られていない。
震災で、本郷の家は焼け残ったが、家賃はたまる一方。震災のあとは東京中どこでも住宅不足で、いくら高くても借り手はいくらでもある。家賃をためて威張っている店子ほど、家主にとって迷惑なものはない。「払うものは払って下さいよ」が、だんだんと「いいかげんに空けて下さいよ」と口調がはげしくなる。そんな中で、志ん生は2人の父親になったのである。
寄席はよく入るし、当然芸人の実入りもいいはずなのに、志ん生の入るとすぐ使ってしまう習慣は少しも改まらない。こんなことを続けていては、干乾しになっちゃうと考えたかみさんが、もう一度実家へかけ合って、亭主のためにひとはだぬぐことを決意した。
寄席は繁盛している。寄席を経営したらもうかるだろうという発想である。あちこち捜してみると、巣鴨のお地蔵さんの近くの「巣鴨亭」という焼け残りの寄席が売り出ている。そこにきめようと、パッと買う。むろん金主はかみさんの父親であり、名義はかみさんである。芸人の仕込みのほうを志ん生がやる。「こんどこそ、お前さんも、男になっておくれ」「アア、なるともさ」とはじめは順調だったが、寄席という稼業は日銭が入る。日銭が入ると、どうしても使いたくなるのが人情で、こいつをつかんでは志ん生は道楽のほうへ精を出す。半年ほどたって、帳面づらの上は黒字のはずなのに、実際は大赤字。「お前さん、男になるってウソじゃないか」とかみさん。「だっておめえ、これでも吉原へ行きゃァいい男だぜ」と志ん生。金主もあきれて手を引いた。
笹塚へ移転 〜権太楼と“貧乏競争”スタート
家賃がたまりすぎて、もう本郷の家に、これ以上居すわるわけにはいかない。どこか安いところはないものかと、あちこち捜していると、仲間の柳家権太楼(本名北村市兵衛、昭和30年没、58歳)がやって来て「アア、家ならオレも捜してるんだ。一緒に捜そうや」ということになった。暇を見つけてはあちこち歩く。
志ん生演じる「黄金餅(こがねもち)」という落語の中に「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下ィ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ堀さまという鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋違御門から大通りィ出まして、神田の須田町へ出て、新石町から鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、日本橋を渡りまして、通四丁目へ出まして、あれから京橋を渡りまして、まっすぐに新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新し橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西の久保から飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町…麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来た時は、ずいぶんみんなくたびれた。あたし(演者)もくたびれたよ…」というのがあるが、そういう東京の真ん中から郊外へも足をのばし、やっと見つけたのが、新宿から京王線に乗換えて行く笹塚の駅の近くである。
今はすっかり住宅地となっているが、関東大震災間もなくの大正14年(1925年)のそのころは、あたり一面畑とヤブばかりで、その畑の中に新しい家が、ポツンポツンと建っている。東京で焼け出された人達を見越しての建て売り住宅である。
早速交渉をすると、表通りのブリキ屋の、人のよさそうな家主が「ようがしょう」と、二つ返事で貸してくれた。うまい具合に、間取りも家賃も全く同じ家が二軒ならんでいる。志ん生と権太楼が、両隣で住むことになったのである。
志ん生はもう2人の子持ちであるが、権太楼はまだ1人者。ここで両家で貧乏の競争が始まる。
助っ人・権太桜 〜家賃たまって家主おどす
志ん生と権太楼がとなり合わせに住む。2人とも芸人だから、都合のいいこともあるが、わるいこともある。
寄席へ出かけるときは、どちらからともなくさそい合わせて家を出る。笹塚から新宿までは当然電車であるが、この電車賃が8銭かかる。「もったいないから、歩こうや」ということになり、テクシーをきめ込む。
犬やネコではないからハダシというわけにはいかない。ゲタで歩くが歯がへる。計算してみると1日に5銭近くへることになる。「なにか、もっと丈夫で、長持ちするハキものはねえもんかなァ」と捜していると、古道具屋の店さきに、皮の長ぐつがぶら下がっており、志ん生の足にピタリ合う。値段が1円で案外安い。和服に長ぐつというのはあまり見てくれはよくないが、そんなことにかまってはおられない。
そればかりで寄席へ通っているうちに、ある日ドシャ降りとなり、くつの中まで水びたしとなった。ひっくりかえしてみると、底に穴が二つあいている。腹を立てて古道具屋に「金ェかえせ」とどなり込むと「値段と相談してみてくださいな。穴でもあいてなかったら、あんな値段で売れますか」と、反対にやり込められ志ん生思わず「うん、穴があったら入りたい」
家賃はたまる一方で、人のいい家主もしまいに腹を立てて、矢のさいそくとなる。権太楼が「そっちの交渉は、オレにまかしな」とポンと胸をたたく。どうするのかと見ていると、家主に向かって「やい、やい、オラァ本所の借家同盟に入ってるんだぞ…」とタンカを切って、追っぱらった。本所の借家同盟というのは、当時…大震災直後の住民パワーで、家主たちはその名前をきいただけでふるえ上がったものだ。権太楼はむろん、苦しまぎれにその名を持ち出したにすぎない。
そのうち、ひとり者の権太楼は、大塚あたりの花柳街に好きなねえさんが出来て、そこへ入りびたりとなり、志ん生一家は有力な助っ人を失った。同じ笹塚を、あちこち転々とする。はてしないびんぼうが続く。
貧乏〜食パンのふちがごちそう
“貧乏”にもいろいろある。まずしくって生活にもこと欠くのを“貧困”とか“貧苦”という。もっとも貧乏なのが極貧であり、さらに“赤貧”となる。
笹塚時代の志ん生一家は、まさにその極貧であり赤貧であった。金もない。職もない。米もない…のないないづくしである。職がないというのはおかしいようだが、師匠をちょっとしくじって、しばらく寄席へ出なかったことがある。
たべものがないから、一番安値な手段として、食パンのふちの固いところを1銭とか2銭とかでわけてもらう。それに砂糖をつけて食卓をかざる。パンばかりではあきるので大豆を一合ばかり買ってくる。塩でまぶして煎(い)って、それを噛(か)むだけ噛んでお湯で胃袋に流し込む。一合では家族全員では足りないから、子供たちにたべさせ、夫婦は「さァ、もっとよく噛むんだよ。ほら、こんな具合に…」と、歯だけをガチャガチャさせていた。
パンや大豆だけでは、腹のたしにならないし、栄養もとれない。そこで二人でうらの原っぱへゆく。池があって赤ガエルがいる。そいつを5〜6匹つかまえて、焼いたり煮たりして、魚や肉の代用とするのである。ときに子供たちが熱を出したり、腹をこわしたりする。大抵は塩水でなおすが、ウンとわるいときはニンニクをすって飲ませる。味におどろいて泣き出すその口に、ポンとアメ玉を一つほうり込めば、いや応なしになおってしまう。
志ん生には「びんぼう自慢」という自伝があり、私(小島貞二)がお手伝した。夫婦お二人を前に、むかし話をうかがっているとき、たまたまこの笹塚時代のどん底生活にふれ、りん夫人が突然「ワッ」と泣き伏したことがある。当時を思い出して万感胸に迫るものがあったのであろう。
「仕立てものをとどけに風呂敷包みをかかえて表へ出たとき、あまりみすぼらしいなりをしているので、巡査が不審がって、あとをつけて来ましたよ」と夫人。
長男誕生〜タイ焼買ってお祝い
長男の清(現金原亭馬生)が生まれたのは昭和3年1月。
その笹塚の世話場(歌舞伎や講談用語で、貧乏世帯の場面をいう)の最中である。母体は栄養が足らないから大変な難産で、産婆が大汗をかいて取りあげた。ゼニはなくても、ともかく正月に長男誕生はめでたい。
「実ァ、申しわけありませんが、一文なしでさ。生まれちゃったものを、元通りにするわけにもいかないでしょうから、ゼニのほうを待っていただけませんか」と、頼みにくいことを産婆に頼む。「そうですね、赤ちゃんをもう一度、おなかの中へ収めるのは無理ですから、あとでよござんすよ」と、産婆もモノわかりがいい。
この人のいい産婆さんのために、何とか報いようと、かみさんのフトンの下に手を入れてみると、財布が入っている。ヘソクリが30銭ばかり…。そいつを握って、駅の近くでタイ焼を買って「まァ、ほんの、お祝いのしるしに、尾頭(おかしら)付きをめしあがって下さいな」と、番茶を添えてさし出した。
あとで…2ヵ月ばかりたって、そっくり金を払い終えた時、産婆さんがいった。「わたしも、随分長いこと、あちこちへお産に行ってますが、尾頭付きのタイ焼は、初めてでした。」
3人の子持ちとなって、志ん生夫婦も必死である。かみさんは仕立て物で、夜昼となく働く。亭主は外へ仕事に行く。いろいろやった中に納豆売りがある。「なっと、なっとォ…」と、表を売り歩くのは、どうしてもテレくさくて声が出ない。そのくせ裏通りの人のいないところなら大声も出る。
志ん生の十八番「唐茄子屋政談」の中で、勘当になった若ダンナが、唐茄子(とうなす)を売り歩くところがある。やはり人前では売り声が出ず、裏通りへ入ると大きな声を出す。こうした若ダンナの心境に、その納豆売り時代の経験が生かされている。
かみさんが外へ働きに出た。志ん生は家で子守をしたこともある。ともかく必死の戦いである。
夜逃げ〜荷車に子供を乗せて
昭和5年は志ん生40歳の時である。その秋-。浅草の橘館という寄席の楽屋へ、顔見知りのヨイショ(たいこ持ち)がやって来た。
「ねえ、家賃のいらねえ家があるんだが、誰か借りる人ァいませんかね」と、声をかけた。
「えッ、タダの家? そりゃいってえ、どこなんだい?」と、志ん生。
「本所の業平ですよ。電車の停留所からなら遠かァない。いま入ってくれりゃァ、本当にタダだって家主がいってますよ」
「半分かしいだ、化け物長屋じゃァねえのかい?」
「冗談いっちゃァいけません、長屋にゃァ違いねえが、出来たてのホヤホヤですよ。ウソだと思ったら、案内してあげますから、見てらっしゃい」
それではというので、ついて行くと、東武鉄道の業平橋駅の近くで、市電が通っていて業平橋という停留所がある。その大通りを南のほうへ入ったすぐ裏手だから、地の利は悪くない。そこに真新しい長屋が三十軒ばかり、肩をすぼめるようにならんでいる。家主は表通りの角の帽子屋で、「ほう、あなたははなし家さんですか。口あけにはちょうどいいや。本当に入って下さるんなら、家賃どころか敷金もよござんすよ。そのかわり長屋がいっぱいになるよう、せいぜい宣伝をお願いしますよ」と、向こうさんが乗り気である。こんな幸せが生涯に二度とあろうとは思えない。「じゃァお言葉に甘えて、あしたンでも引っ越して来ますから、お願いします」
と、渡りに舟と引き受ける。すぐに笹塚へとんで帰る。笹塚ではもう家賃はおろか、酒屋、米屋、魚屋…いたるところに借りっ放しで、逃げ出すにはこのときをおいてほかにない。
夜更けを待って荷車を借りて来る。荷物をつみ込む。荷物の上へ二女をのせる。前を志ん生が引っぱる。うしろを長男をおぶったかみさんが押す。長女は風呂敷包みの一つを持って、ついて歩く。早くいえば、“夜逃げ大作戦”を成功させたわけだ。
なめくじ長屋〜出るわ出るわ壁が銀色に
業平というのが、有名な“なめくじ長屋”であることが、志ん生にわかったのは、引っ越してからである。
まず引っ越して来たその晩、志ん生が寄席をつとめて帰って来て、まず驚いた。長屋に、ただ一軒ポツンと、ともっている電灯めがけて蚊や虫が押し寄せている。
3日目に大雨が降って、雨もりの用心をしていると、そちらの方は大丈夫のかわりに、下のほうからドンドン水が上がってくる。5日目からなめくじが台所をはいはじめた。
つまり、この一帯は関東大震災ですっかり焼け、池とも沼ともつかぬ場所が、ゴミ捨て場になった。そのまま置いては衛生上よくないので、上に土をバラバラとまいてバタバタと長屋をおっ建てた。排水など、いっこうに考えてないから人の住めるところではない。2〜3日住んだ人が、命あってのモノダネとすぐでていく。
そこで家主は考えて、家賃をタダにしてカモをおびき寄せる。一軒住めば、あとは順に埋まるだろうという心づもりである。そのカモが、つまり志ん生であったのだ。
蚊となめくじのほかにハエが出る、油虫が出る、ネズミが出る…。という、さわぎの中の虫の国の王者は、やはりなめくじである。志ん生自身の回想によると「出るの出ねえのなんて、そんななまやさしいものじゃありません。なにしろ家ン中の壁なんてえものは、なめくじがはったあとが銀色に光りかがやいている。今ならなんですよ、そっくりあの壁ェ切りとって、額ぶちに入れて、美術の展覧会へだせば、それこそ一等当選まちがいなしてえことになるだろうと思うくらい、きれいでしたよ」というくらい。時には仕立物をしているかみさんの足の裏まではって来た。塩なんぞふりかけてもびくともしない。毎朝、十能(じゅうのう)にしゃくっては近くのドブ川へ捨てに行くが、出てくる方が多いから、しまいには人間さまの方が、くたびれた。そんな長屋にも、だんだん人が…むろん家賃を払って住むようになった。
引き分け〜ルーブル紙幣で粗悪品
なめくじより、もう一つ大変なのは、蚊(か)との戦いである。笹塚から持って来たカヤは、名ばかりでつぎはぎだらけ。花色木綿から赤ん坊のおむつのお古まで張りついている。新しいのを買うゆとりなどとてもない。
と、そんなところを見越したように、ある日かみさん1人のところへ、2人連れの男がカヤを売りに来た。
「品物ァ、ほらこの通り、麻の極上ですよ。店で買えばだまって20円から25円は取られるよ。6畳だから、お宅の座敷にピッタリだ。いますぐなら、10円にしときましょう」
のどから手の出るほどほしいが、とても金がない。返事に困りながら、何気なく長火バチの引出しをあけると、なんとそこに10円札が折ったまんま入っている。
しめたとばかり「じゃあ、本当に10円でいいんだね」と、そいつを渡すと、男たちはひったくるようにして風のように立ち去る。そこへひょっこり志ん生がご帰館という寸法である。
「どうしたい。えらいニコニコして」
「カヤ、買ったんだよ」
「ほう、そいつあ豪勢だ。で、いくらしたい?」
「10円だよ」
「10円? そんな大層なゼニがどこにあったんだ?」
「ほら、おまえさんが、火バチの引出しに、ヘソクッといたのがあったろう。見つけたんだよ」
「火バチの引出しの? ありゃーあおめえ…」思わず志ん生は吹き出した。その10円札というのは、日本銀行発行のものではなく、ルーブル紙幣である。子供のおもちゃに夜店で1銭5厘で買って来たヤツだ。
「今ごらあ、ヤッコさんたちおどろいていやがるだろうなあ…」と、そのカヤをほどいてみておどろいたのはこっちのほう。たたんだ一番上はたしかに本麻だが、下は切れ端ばかりで、てんでカヤになっていない。
「ちきしょうめ、ふてえ野郎だ…」と、思わず夫婦で顔を見合わせたが、考えてみると、この勝負は、引き分けということになる。
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