54. 中川隆 2010年10月25日 10:40:00: 3bF/xW6Ehzs4I
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必死だね。(そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。) 朝鮮人を搾取して絶えず朝鮮人の怒りを感じていたんだから、後藤新平と正力松太郎はいざという時の準備をして待っていただけさ。 資料としてこれも貼っとくよ: 「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。
民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 関東大震災に便乗した治安対策
陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒
正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。 このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。 この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。 月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。
この時、正力は官房主事兼高等課長だった。 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。 警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。 ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、 第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。 その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。 朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。 そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。
正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。 正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html 「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。 「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。 以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。 いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。 「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。 伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。
論理的な解明は不可能ではない。 ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。 「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。 字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。 詳しい研究は数多い。 『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、 すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。
では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。
石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。 震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。 ところが食料がまったくない。 石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。 「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。
『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。 ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、 『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』
と頼まれたということであった」
ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、 予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、
というのが下村の論拠だった。 下村は台湾総督府民政長官を経験している。 植民地や朝鮮人問題には詳しい。 そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。
内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。 『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。
『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。 『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。
この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。 わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。 念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。
報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。 各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。 各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。 戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。 要点はつぎのようである。 「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」
「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」
同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。
実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。
同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。 発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。 ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html 号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。
「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。 ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。 「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。
そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。 地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。 輪転機用の巻紙もない。 だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。 しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。
本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。
普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。 晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。 つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。 斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。 『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。 そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。 もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。 しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。 結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。 奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。
著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。 読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。 あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html 「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者
「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。
軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。 民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。
しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。 歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、 大森大尉は、 「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、 『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』 と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。
なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。 「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。 前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。 「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。
これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。
ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。 戒厳令には「敵」が必要だった。
警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。 その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。
震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。 さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。 正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。
前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。 「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ 『こうなったらやりましょう』 といきまき、阿部信行参謀をして 『正力は気がちがったのではないか』 といわしめたと語っている」 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。
これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。 正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。 「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。 森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。
だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。
だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。 警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。 その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html 「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。
第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。 前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。 背後には日本の最高権力の意思が働いていた。 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。 日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。 朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。 社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。 これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。 その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。 上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。 警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。 軍の方が虐殺業務の下請けなのである。 当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。 全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。 『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。 「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、 『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』 という通牒を出した。 さらに十一日には、正力官房主事名で、 『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』 という命令が発せられた」 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。 ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html 「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力 『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。
かれら八名の社会主義者が 「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」 時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。
署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。 古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。
社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。
「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。 『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。 「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、
軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、 今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。 警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。 つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、 そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。 「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。 正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。 正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。 だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。 『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。
警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。 引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。 古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。 結果は、違法なリンチ処刑だった。 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。 警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。 留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。 「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。 反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。 「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。 両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。
「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html 留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。
ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。 この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。 つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。 だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。 とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。 わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。 読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。
だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。 とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。 中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。 「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。 試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。 案の定、二人とも、まったく知らなかった。 詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。 その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。 ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。
日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。 中心的な理由は簡単である。
当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。 基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。
陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。 実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。 事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。
同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。 同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。 関係資料は十数点ある。
戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。 以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。 しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。 わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。 王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html 「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。
というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。 正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。 実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。
前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。 その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。 つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。
だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。 「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。
「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。 垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。 「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。…… 後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。 可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、 などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。 『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。
のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。 それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。 警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。 一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。 『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。 これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html 「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。
そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。 そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。 「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。 まずは「中国人」が抜けていた。 拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。 その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。 残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。 『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。
念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。 話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。 田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。 「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。 朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。 遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。 最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。 それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。
「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。 ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。 とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。 監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。 しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。 許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。 ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。 だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。
第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。 中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。 だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。 「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。 しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。 「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。 『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。 「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。 彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。 が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。 鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。…… と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。 あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。 残せといった文字は『王希天』の三文字であった。 この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。 さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。 とうてい偶然の結果とは思えない。 戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。 そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-3.html 「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か? さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。
削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。 「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。 会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。 「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。 とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。 わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。
「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。 仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。 くわしくは同書を参照していただきたい。 何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。 とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。 最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。 「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。
事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。 かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。 日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。
いわゆるリベラル派であろう。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-4.html 中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。
もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。 推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。 1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天 写真提供:仁木ふみ子
事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。 『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。 仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。 「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。
吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。
上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。 日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。 『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。 「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。 政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。 とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。 「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略] 故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。 「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略] 一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」 同時に鉛版から削除された五面の記事は、
「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」 という三段大見出しで、本文約八〇行である。 これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。 いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。 社説の題にも「惨害」とある。 当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。 王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。 いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。 政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。 当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。 『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。 「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-5.html 九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視
さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。
王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。 それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。 改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。
「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。 「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。 「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。 だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。 本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。 「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。 しかし、「中国人」も「王希天」もない。 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。
国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。 歴史的な資料がなかったわけではない。 さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。 出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。 「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、 新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。
おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。 日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。 『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。 「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。 その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-6.html 後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定
これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。
おりから新内閣の組閣中で、 関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、 二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。 つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。
「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。
内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、 一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、 『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。 内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。 「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。 つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。 日付の一致は偶然どころではない。 これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。 だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。
ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。 メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。 すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。 ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。 後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。 その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。 当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。 後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。 ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。 外務省は国際世論対策で四苦八苦である。 いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-7.html 「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」
『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。
その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。 「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。 相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。 今朝は、 危いところで削除 → 白紙のまま発行 という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。 「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。 検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。 「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。 そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。 読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。 岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。 敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。 関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。 以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。 「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。
本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。 また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。 警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。 虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。 新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。 「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、 ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、 もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。
警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。 まだ位が低いのである。 もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。
「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。 すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。 その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。 田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。 『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。 「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略] 正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。 これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。
同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。 本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。 内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。 「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、 正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。 壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。 六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。 だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-8.html 戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。
小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。 すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。 そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。 かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。
デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。 東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。 後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。 退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。 『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。 「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。
解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。 田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。 「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。
『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。 大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。 戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。 この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。 社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。
緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。 このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。
さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。 第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。 最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。 読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。 この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。 正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。 だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。 今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。 自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。 しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html |