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(回答先: 副島隆彦は本当にアホだね(嘲笑い) 投稿者 中川隆 日時 2010 年 4 月 16 日 22:53:48)
『欠陥英和辞典の研究』問題
平成元年10月(奥付は11月24日)、一冊の本が発行された。『欠陥英和辞典の研究』と題する、「別冊宝島102号」を当てた、JICC出版局発行のものである。
著者は代々木ゼミナール講師・副島隆彦氏と外国人Dictionary・Busters 3名の計4名。(実際には、副島氏1人が、その大半を執筆している。)
同書(以下、『欠陥』)で著者は、研究社の『新英和中辞典』(1985年)と『ライトハウス英和辞典』(1974年)は、全英文例文の約20パーセントが使いものにならず、なかでも5パーセント前後は完全に間違いであると、断定しており、この断定がまもなく我が国の英語教育界・辞書出版界などを「不要に」騒がせることになる。
また、内容が内容であり、「攻撃の的」になっているのが、英語辞書の老舗・研究社だけに、当然、多くの新聞・雑誌・テレビ等がこの問題を取り上げた。しかし残念ながら、そのほとんどは、興味本位の皮相的な取り扱い方をしただけのものであった。
『欠陥』を紹介した新聞・雑誌等の見出し、小見出しも人々の興味を引くのに十分なほど刺激的なものであった。たとえば、
「『ナデ斬り』ベストセラー英語辞書」
「エーッ!研究社『ライトハウス英和辞典』『新英和中辞典』は欠陥だらけってホント!」
「一刀両断 偽文造文、全体の20%差しかえ必要」
「間違いだらけの英語辞書? あの研究社がヤリ玉に」
「『国民的英和辞典』に噛みついた代ゼミ講師」
などといったものがそうである。
勇気ある人の告発の書か
前記の通り、『欠陥』は平成元年10月に発売された。その後、10日もたたないうちに、初版の6万部は大型書店を中心に売り切れが続出したという。噂では、現在、約10万部が完売されたらしい。
「今まで、誰も言えなかったことを言ったのだから、尊敬に値する」
「両辞典の誤りをよくぞ指摘してくれた」
「いい本が出たと、仲間内で評判だ」
等々、『欠陥』とその著者や発売元にエールを送る人たちも一部にいる。著者白身、「フォーカス」されて、自分の生徒たちに『欠陥』を持たせ、彼等と「ピース」して見せるほどの余裕。
以下、簡単に提訴から現在に至るまでの経過を振り返ってみる。
平成元年11月9日、研究社は、新聞記者に対して、経過説明と質疑応答を行った。
同年12月8日、『欠陥』を対象として、書籍発行販売等の禁止仮処分を東京地裁に申請し、受理される。
平成2年1月12日、仮処分を取り下げ、謝罪広告・損害賠償等を求めて本訴に切り替える。
被告側は「別冊宝島」発行人・蓮見清一、同氏編集人・石井慎二、『欠陥』著者・副島隆彦ほか諸氏。同月16日、本訴受理。同年3月7日、第1回裁判、主に書類の交換。
研究社が提訴したことに関しては、たとえば、「辞典の誤りは正す姿勢大切」と題した、次のような投書が、「朝日新聞」の『声』欄に掲載された(11月19日):
JICC出版が、雑誌「宝島」で研究社の新英和中辞典とライトハウス英和辞典の誤りを指摘した。よくやったと思う。研究社側は告訴するなどと言っているらしいが、なぜ人の意見を聞くことができないのか不思議だ。あれだけの活字を一冊包含しているのだから、いくつかミスがあって当然、大切なのは誤りを正していく姿勢だ。(以下略)
「告訴は大人げない」
「言論は言論で解決すべき」
「辞書は違っていれば親切に指摘し、指摘されたら素直に直す」
「研究社は気でも狂ったのではなかろうか。正気なのであれば、民主主義においては、このような出版社は無用である。とっとと消えてもらいたい」
『欠陥』にエールを送る人たちに共通していることは、研究社、権威・訴訟行為に、何らかのルサンチマンあるいは感情的反発を感じているのではなかろうかと勘繰りたくなるようなものが、そのほとんどであったという点であり、同書の記述内容の学問性・真実性・建設性・創造性について、ほとんどまったく検証していないという点であった。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_16.htm
平成元年(1989年)10月26日の朝日新聞朝刊に、「日本でいちばん売れている英和辞典はダメ辞典だ!」という挑発的な文句と共に、副島隆彦&Dictionary-Busters著『欠陥英和辞典の研究』(JICC出版局)の大規模宣伝が掲載された。
対象となった辞典は、研究社刊の『新英和中辞典』(1985年、第5版)と『ライトハウス英和辞典』(1984年、初版)の2点であった。著者は当時、代々木ゼミーナールで英語講師を務めていた副島隆彦と外国人(3名)であった。
上掲の新聞広告には、研究社の辞書2点の外箱が、破られ、押し潰されて、両辞典から引き裂かれた何十頁分もの頁と共に、まるでゴミのように打ち捨てられていた。問題の『欠陥英和辞典の研究』(右書影;付箋は同書の誤謬箇所を示すもの)には、目を覆いたくなるような字句が所狭しと並んでいた。
研究社は当然、「名誉毀損、悪質な営業妨害」として、東京地裁に提訴した。それから長い年月を経た1996年(平成8年)2月28日に、控訴審判決があって、東京高裁は、「権威への挑戦として許される過激さ、誇張の域を越え、公正な論評としての域を逸脱するもの」と述べ、名誉毀損に当たるとして、『欠陥英和辞典の研究』の出版元である宝島社に400万円の支払いを命じた。宝島社らは高裁判決については上告せず、判決は確定した。
実は、副島氏はその間に『英和辞書大論争!』(別冊「宝島」113号; 1990年6月)を出版している。同書の表紙には、
「タダの予備校講師・副島隆彦が天下の研究社をノックアウト!
『欠陥英和辞典の研究』(別冊宝島102号)の批判に耐えきれず、研究社は卑怯にも裁判所へ駆け込んだ。あれからいったいどうなった?と思っているあなたへ」
という、前著同様の挑発的な字句が並んでおり、研究社2辞典の写真には今回は注連縄が張ってあった(右書影;付箋は上掲書の場合と同じく、同書の誤謬箇所を示すもの)。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_12.htm
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1.「欠陥英和辞典の研究」の書評
何年かまえに、ある英和辞典の「欠陥」を指摘する本が話題になった。この本の趣旨はきわめて明快である。
その英和辞典に掲げられている用例を「ネイティブ」に見てもらったら、「こんな表現は使わない」というものがたくさんあった。だから、この辞書はでたらめだというわけである(ちなみに「ネイティブ」というのは、英語を母語とする人のことだが、実際にははるばる日本に流れ着いてきた流れ者にすぎない場合も少なくない)。
この本を読んで、なんと奇妙な論理だと首をひねったことを覚えている。
第1に、わたしは生まれてこのかた、日本語を使ってきた「日本語のネイティブ」だが、国語辞典の用例をみて、見慣れない表現があったとき、「こんな表現は使わない」と断言したりはしない。
まずは、自分が知らない表現がこんなにあるのだと思う。英語の「ネイティブ」だって事情は変わらないはずだ。知らない表現がたくさんあっても、不思議でもなんでもない。
ひとくちに「ネイティブ」といっても、出身国、出身地域、出身階層、受けた教育、仕事の種類、興味の範囲などによって、使う表現、知っている表現にかなりのばらつきがあるのが当然である。自分が知らないものは間違っていると断言できるはずがない。
第2に、たしかに用例に「間違い」があったとして、それででたらめな辞書だといえるのだろうか。英和辞典を引くのは、英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があった場合である。実際に読む英語、聞く英語は、「正しい」英語とはかぎらない。
簡単な例をあげよう。ASEAN(東南アジア諸国連合)という言葉は、『世界年鑑』ではAssociation of South-East Asian Nationsの略語とされているが、「ネイティブ」が書いた文章を読んでいくと、South-EastがSoutheastになっていたり、South Eastになっていたりするものがかなり多い(英和辞典を引いても、表記にばらつきがある)。略語の方でも、ASEAN以外に、A.S.E.A.N.やAseanという表記も使われている。英語で読むときには、どの表記がでてきても、「東南アジア諸国連合」を意味していることを理解しておく必要がある。
英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があった場合に頼るものという英和辞典の性格を考えるなら、「正しい英語」だけが掲載されている辞書は困りものだとすら言える。
まして、英語という言葉はいまや、国際的なコミュニケーションのための手段になっていて、「ネイティブ」が使う表現だけが正しいとはいえなくなっている。
「ネイティブ」の間ですら言葉がまともに通じない場合もあるし、「ネイティブ」ではない日本人や東南アジア各国の人たちや、欧州大陸の人たちが書いたり、話したりしているものも「英語」なのである。2人や3人の「ネイティブ」が「こんな表現は使わない」と言った用例があるからといって、英和辞典がでたらめだとはいえないはずである。
第3に、英和辞典で「正しい」言葉や表現が重要だすれば、英語より日本語の方ではないかと思える。
たとえば、上記のASEANの例で、「南東アジア諸国連合」という訳語がでている英和辞典がもしあったとしたら、それこそでたらめである。一般論としてこういうことを言うのは危険ではあるが、日本語の方が英語にくらべて、表現のばらつきの許容範囲が狭いように思える。
A.S.E.A.N.やAseanが英語で許容範囲内だとしても、「南東アジア」は日本語で許容範囲内だとはいえない。英和辞典を使うとき、英語で情報を吸収し、その結果を日本語で発信することが多いので、「正しい」日本語が使われていることを期待したい。
要するに、英和辞典が「英語で読んだり聞いたりしていて分からない言葉があったときに引く辞書」として有益なものになるためには、こうあってほしい。第1に、英語の部分では、なんらかの基準(たとえば、ウェブスターなどの辞書や、「ネイティブ」の判断)で「正しい」とはされなくても、実際にかなり使われている言葉や表現は取り上げてほしい。
第2に、訳語などで使われる日本語はなんらかの基準で「正しい」とされるものにしてほしい(和英辞典ではこれが逆になる。日本語の部分は少々奇妙な言葉や表現でも採用し、英語はしっかりした基準に基づいて、「正しい」とされるものにしてほしい)。
ところが、英和辞典の「間違い」とか「欠陥」とかが指摘されるとき、話題になるのはつねに英語の「間違い」であって、日本語の「間違い」ではない。これは奇妙なことではないだろうか。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/kiji/kiji/9802.html
「現代英語教育」誌で私が、2回、計6頁にわたって詳述したことを、あえて3点に要約すれば、次のようになる。
@ 英和辞典と和英辞典との勘違い
著者は英和辞典の使命(主に英語読解に資すること)が本当には理解できていない。和英辞典に要求すべきこと(言葉の新旧の問題、表現の適切さの程度問題等)を、研究社の両英和辞典に要求して果たされず、一人で憤慨している。 この勘違いが、著者をして「《欠陥英和辞典》の研究」ならぬ「《欠陥》英和辞典の研究」を書かしめたのである。
A矛盾だらけの著者
著者は一方において、研究社の両辞典は間違いだらけだ、英文例文がメチャクチャだ、何と比較してそうなのか、と言うならば「30冊ほどの英語辞典の例文との比較のうえで」言うのである、と断定していながら、他方においては、英米で使われている国民辞典に、明らかな間違いがあるわけがない(12−3頁)と明言している。
しかし、これは結果的には、著者が陥った、同書最大の「自己矛盾」である。なぜなら、著者が問題とする語句・表現は、そのほとんどが英米発行の英語辞典等にその典拠を有するからであり、著者がそれらを綿密に参照していれば、当然、知り得た事実だからである。「30冊ほどの辞書の例文との比較のうえで」と言う断言は、単なる「鬼面人を脅す」類のものに過ぎない。
著者は、また、一方において、一週間にわたって、各社の英和辞典を精査検討したところ、いろいろなことが明らかになった(172頁)と言っているかと思うと、他方において、今回は、これらの辞書を検証する作業は、残念ながらほとんど行えなかった(176頁)と言っている。
このように、言説に一貰性のない、場当たり的・感情的書物に、真実性、建設性、創造性などとうてい期待できない。
B誤謬だらけの著書
『欠陥』が学問的論議の対象となり得ない最大の理由は、同じ著者による『入試英語ここまで(上・下)』(JICC出版局)の場合と同様、誤謬と誤解と偏見に満ち満ちているからである。
ちなみに、『欠陥』白身の「欠陥」は、その表紙から始まっている。その英語タイトルに日く。
Checking up Kenkyusha's Dictionaries。
英語では普通こうは言わない。 Checking up on Kenkyusha's Dictionariesと on が必要。
表紙は本の顔であり、顔は中身の窓である。
最後に、『欠陥』の著者は、不思議にも、自著三冊(『入試英語ここまで(上・下)』『道具としての英語表現編』―いずれもJICC出版局)で、研究社の問題の辞書を賞賛あるいは大いに活用しているということを付記しておく。
著者は同三著のいたるところで、研究社の辞書から用例等を大量に無断盗用、無断転載しており、研究社はこの点においても、著作権侵害で著者・出版局等を告訴する権利を保有している。http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_16.htm
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2. 欠陥「欠陥英和辞典の研究」の研究 1989年11月1日
先日『欠陥英和辞臭の研究』(副島隆彦 & Dictionary-Busters)(別冊宝島102)(JICC出版局)を購入しました。
辞書での例文には興味があったので、どのように扱われているのか見たかったのですが、その内容たるやひどいものでした。
こんなひどい本は近年読んだことがありませんでした。これほどひどいとまともに反論する気もなくなり、黙殺するのではないかと思いますが、代々木ゼミナール講師を名乗り)、全国紙にはなばなしく広告を打ち、全国の研究社辞書使用者に、まるで「欠陥辞書」を購入してしまった、というような印象をあたえた責任は重大です。
それも理路整然と冷静にちゃんとした研究の成果にたってものを言っているのならともかく、まったくの「独断・偏見・思い込み・こけおどし」です。
研究社のかたがたもこんなくだらない本に反論するのは大人げない、などと考えずに徹底的に論破してほしいと思います。このような本をそれほど多数の人が購入して、信用してしまうわけではないと思いますが、研究社としてきっちりと全国の英語学習者にわかるかたちで反論して欲しいと心から切望します.
この書『欠陥英和辞典の研究』は大変なまがいものです。
この書とこの著者は徹底的にたたかれるべきです。
この本1ぺ一ジ1ぺ一ジに文句があります。この著者が「はったりとこけおどし」だけで英語教育を語り、英語を論じているという印象をもたざるをえません。
著者の略各歴に偽りがないとすれば、1953年生まれは私と同じ年齢ですから、はっきりとわかりますが、著者が高校1年で手にしたという辞書は『研・中(第3版)』ではなく第2版です。私が手にした辞書が第2版であったという理由だけでなく、第3版は1971年、すなわち我々が18歳にならねば登場しないからです。このような非常に基本的な、そして、この書では根幹をなすところで誤りをしているということ自体、著者の独善と思い込み、記憶の不確かさを証左するものです。
それから
「オックスフォード大学出版局から『オックスフォード英語大辞典』(通称、O.E.D)から...手紙が届いたといううわさがある。その事態をもみ消すためにか、...例文は即席で「差しかえ」られ...。この話は、東京の大学の英語教師の...公然の秘密である。」(P.20)
と書いてありますが、O.E.D.がどのような性質の辞書であり、その例文から学習辞書に役立つ例文を孫引きできるものかどうか、考えてみればわかるとおり、これは開拓社の『新英英大辞典』(通称I.S.E.D.)の記憶違いだと思われます。
このように、自分の曖昧な記憶をもとに、かなり強引に結論を導き、断言するという「こけおどし」の態度で全編がつらぬかれており、読むものに不快感と怒りを感じさせます。
本当にこの書を「暴露本」「揚げ足取り」「いいがかり」にしたくなかったら、もっと冷静に理路整然と構成すべきでした。このような低級な文章ではこころある人は決して反論を加えることはしないでしょう。残念ながら著者の意図に反して「英語教育者」「辞書編纂関係者」には黙殺されることになるでしょう。「あまりのばかばかしさに」まともに反論するのは著者の品の無さ、レベルの低さに自分自身を下げることになるからです。
私は個人的には黙殺すべきではないと考えています。予備校講師として高給をとって、自分のこりかたまった英語感を他者に押し付け、そうでないものをあしざまに非難する。このような人が著書という発言権を持って、(何も知らない)受験生・高校生を洗脳し、誤った英語観・人生観を押しつけているという事実は重いと考えます。この本は「紛い物」であると英語教育関係者が声を大にし公言することを期待しております。
基本的な問題その1
基本的な問題点まず、この書全体に流れている論調に、感情的で冷静さを欠いた不適切な表現が満ち満ちていることに反感を覚え、生理的に受け入れられない状態にあります。次のような表現を読んで、こころある人はいかなる気持ちを持つでしょうか。
(P.24) 東洋の土人ども
(P.30) この国の優秀な人間たちのランキングでどの程度のレベルか
(p.46) 「状況意味論」とか「認知科学」というのがあるのを知らないのか
(P.54) きわめてインフォーマルな会話か、よっぼどの低学歴の人びと
(P.55) お互いよく分からない同士で知ったかぶりをして...、悲惨としか言いようがない。
(p.82) 英語国民にこんな英語をしゃべったら一発で軽蔑される
(p,83) この辞書はたいした内容のものではないし
(p.91) 自分勝手な「英作文」の例文を載せる
(P.96) 必ず笑われるだろう
(P.100) ごくふつうの高校英語教師のレベルでも気づくはずである。
(P.103) hotという語の持つ淫靡な語感を知らないで英語学などやってはいけない
(P.105) 何なら私が1年で1冊の現代英和辞典を作ってもよい。
(P.105) みすぼらしい業界内部で、大学教授の恐るべき薄給を補なうために馴れ合って仕事を分け合っているだけの集団なのである。
(p.108) 研究杜君に説明してあげよう。
(P.109) 一撃のもとにたたきふせてやる。
(p.109) 愚かな誤りを繰り返すのかといえば、
(p.110) 自分たちだけで「できるふり」をするんじゃない.そういう態度だから、こんな無惨な辞書ができてしまったんじゃないか
(P.111) いったいこの辞書の編集者たちは本当に英語学の専門家など呼べるような人たちなのか。
(P.114) 職業名は英語学者だが、能力的にはふつうの日本人でしかない人が、へんてこりんな英文を作文して、無自覚に辞書に載せるなどという作業をやっていると、
ざっと半分のなかにこれだけの中傷、椰楡に満ちた表現があります。冷静になってこれらの日本語を読んでみてください。この著者の人生観とは何か、人格はどのようなものかわかってくるはずです。
少なくとも英和辞典を問題にしようとする時に、それとは関係のない「絶対につきあいたくも、関わりも持ちたくない」若者の人生観を読まされることは言葉の暴力と言わざる得ない。編集者はもう一度この本に流れるゆがんだ著者の人生観を検討すべきです。
こういった文章から察するに自分の英語カに対するおそるべき自信、人間を能力・学歴でわけへだてする差別主義、(わけのわからない)外国人の目を価値判断においた偏屈な態度にこりかたまっております。このような方に英語教育を論じる資格があるのでしょうか。
基本的な問題その2
2つめの基本的な問題点辞書の欠陥を論じる前に著者の人格について論じなければならないところにこの本の一番の問題があります。刺激的、扇動的な表現を削ってもう一度、同企画の本を作ったらどうでしょうか。そうすればいまの3分の1の紙数で現代英和辞書の問題点を論ずることができるでしょう。すなわち、この書がドンキホーテの風車小屋ならぬ著者が勝手に作り上げた研究社、英語学会への無益な攻撃にずいぶんスペ一スをさいているということです。
第2に英和辞典はかくあるべきだ、という論点を一方的に設定して、その基準に満たないから駄目だ、といっていますが、英和辞典は英作文辞典の側面もありますが、なによりも自分の出合う英文の未知の表現、語の意味を知ることにあります。そういった表現は当然すぐに会話に生かしていくわけでないのに、すぐに英語表現に結びつけているのは、あまりにも自分勝手ではないでしょうか。
基本的な問題その3
第3に『ジーニアス』と『ライトハウス』を比較しているようですが、英語を中級者、初学者というように分類したとき、『ジーニアス』は中辞典のランクになります。『ライトハウス』と比較するなら『フレッシュジーニアス』と比較するのが同じ土俵というものです。『ジーニアス』と『ライトハウス』では語数、紙数、値段とも違うレベルと考えるのが常識です。(『ジーニアス』はいい辞書だと思って毎日使用していますが)すなわちこの書の成立ちの基盤がかなり「文科系的な思考回路でなされた」あいまいなものと考えます。
些細なこと...それでも致命的
具体的に指摘された事例もどうも著者が辞書の読み方を知らないのではないか?
と思われる点が多々あります。
それから、者者はどうも読んだ感じでは「俺は英語がしゃべれる。外人の友達もたくさんいるし、俺ほど外人相手につっこんで英語について話している奴は他にはいないだろう。」式の外国人至上主義が見えかくれしますが、私は外国人の英語感に対して疑問を持つものです。
日本に10年もいて、英語を教えていると、ある意味でどうしようもない人が出現すると考えております。
すなわち自分がある特定の年代・地域を代表しているだけであること、自分の知っている英語は限られていて、自分の知らない英語や英語表現があることを忘れてしまう人がいるからです。
そして、何でも素直にうなずいて聞き入れてくれる日本人を相手に教えていると、自分の英語がすべてだと考える外国人講師が誕生します。
去年私の受けた研修でも“I get on a car."とか“I go to school on foot"という表現を何の疑問もいだかずに教えている外国人講師がおりました。日本で10年以上英語を教えた外国人講師の言うことは多少疑問をもって聞いた方がよいというのが私の考えです。
そういう意味で
(p.54) X I have never gone to Australia.
には驚きました。これは著者が馬鹿にしている『英語教育』クエスチョンボックスで何回にもわたる検証があり、I have goneも経験に使われる、という結論にいたったものです。すなわち、I have beenの意味で使われている用例がそれこそくさるほど集められたのです。さらに『ジーニアス』にも
(P.728) have gone (米) […へ]行ったことがある[to]:Has he gone to China?...(米)彼は中国へ行ったことがあるか...((◆everがつけば(英)(米)ともに「行ったことがあるか」の意...))。
という記述があります。詳細に辞書を比較検討した著者らに、この記述が目にとまらなかったのでしょうか。
わたしはこの1項目だけで、もう充分というくらいこの本が適当に編まれたという印象を持ってしまいました。
もっといわせてもらえば、I have goneとhave beenは同じ意味では使えないということを私たちに理解させようとしてきた...」のは日本の英語教師でなく、「おまえのことだろう」などと品のないことを言いたくなってしまいます。
些細なこと...それでも致命的2
(P.128)sand numberless as the sands of the sea
これに対して、「日本の文化と古典芸能が、直でそのまま外国でも通じるはずだなどと思うのか...英語ではない。自分勝手な造語をするでない。」と断言しております。なかなか自信たっぷりですから、私はこの表現は『ライトハウス』しか採用しておらず、『ライトハウス』の著者が作ったものだと解釈しました。ところが、者者も私も大好きな『ジーニアス』にも
(p.1479)(as)…numberless as the sands of the sea浜の真砂(まさご)のように数多くの
とあるではないですか。この他の辞書にもこの表現が載っています。そうすると少なくとも『ライトハウス』の編集者の造語でないことは明らかです。それをこのように決めつけて他の辞書を参照することもなく、ずさんな態度で「30数冊の辞書と比較した」などとよく書けるものです。これを「こけおどし」といわずしてなんというのでしょうか。
ついでにRoget's Thesaurusの101 NUMEROUSNESSの
"NUMEROUS AS THE SANDS"
という表現をどう受け取るのでしょうか。この一事に「他の辞書と本当に精緻に比較検討したのか」という疑問と、造語と判断する語感の不確かさを見ることができます。
確かにこの表現を英米の辞書に見ることはないようです。日本の辞書はと言えばあの『熟語本位英和中辞典』(岩波書店)から全部の辞書に載っています。このことは問題と言えます。しかし、それを研究社だけに押しつけるのは、「初めに研究社たたきあり」という文春の社会党たたきのようで、「それはないでしょう」という気分になります。
だいたい30数冊(日本のものならすべて)に出ている表現を研究杜独自のものだと断言するような、著者をどうやって信用したらよいのでしょうか。
些細なこと...それでも致命的3
(P.90) They were anxious lest it (should) rain)
...私はこんなコトバをふつうの英文の中で見たことがない。
これにも驚きました。著者は他の部分で「私は英文をいやというほど読んでいる」式の自己主張をしているが、lestの語句を使った英文を見たことがない、というような読書体験と言うのはいったいいかほどのものだろうか。私は少なくともlestをつかった英文を見たことがある。別にTIMEという名前を出せば水戸黄門の印籠のような効果があるとは思わないが、つい最近もTIMEの記事で見て、「やはり使われるものだなあ」と感心したばかりである。
とすれば、TIMEのような記事も読んでいない著者が自分の狭い体験から「こんなコトバ」などという強引な結論を導きだしているが、いったい何ほどの語学力がこの著者にあるのか根本的な疑問をもってしまう。すなわち、全般にわたり、かなり狭い見識でしか物を見ていないとしか、言いようがない。
「lestをつかった現代の英文を提示せよ」と呼びかけてみれば、すぐに山ほどの例文が集まるでしょう。すなわち辞書にlestの語義、用法の説明は、例文の良しあしは別として、絶対必要なのです。辞書に載っているからといってすぐにそれが会話で使えるほど、我々は応用力と吸収力を有していません。
I took my umbrella lest it (should) rain)
Make a note of it lest you (should[may, might]) forget.
(2例とも『フレシュジーニアス』)
I obeyed her lest she should be angry.
I'll be kind to her lest she decide to leave me.
(2例ともLDCE)
こういった辞書の例文にはなんとコメントするのだろうか。
要するに『ライトハウス』に目標を定めて攻撃しようとしても、それは少なくともからぶりで他の辞書に及んでいるということです。「いちばん売れている辞書を攻撃」というキャッチフレーズはよかったが、『ライトハウス』固有の問題に絞りきれなかったことに最大の過ちがあると考えます。
このような攻撃で全体を信じようとしてもどだい無理なことです。
些細なこと...それでも致命的4
(P.88)an old Irish air
この書で△をつけたものは「そういう意味は存在するが、古くて使いものにならない。こんなものの使い方を提示する必要はない。」という論点からである。英和辞典は「英作文辞典」ではないのですから、未知の表現があってその意味・語義を知ることも重要な働きの一つです。airのsongの意味は中英語(ME)であると断言されていますが、
air:5.that part of a piece of music that is easily recognized and remembered: tune(LDCE)
air:5.[C](music, dated) tune, melody (OALO)
air:7.(古)(昔)調べ、旋律(tune);歌曲、...:o1d Turkish airs 古いトルコの曲(『ジーニアス』)
という記述にも触れるべきです。でなければ『ライトハウス』だけがとりあげたきわめてまれな記述と受け取られますが、そうではないのですから。airにtuneの意味を入れるのは、例えば吹奏楽をしている子供が楽譜のタイトル中にairを目にし辞書を引くこともあるからです。そういう使い方に目をつむり、「こんなの古い」「こんなの使わない」という理由だけで削除を求めるのは、独断で視野が狭いと言わざるをえません。この類は全体に言えることです。
些細なこと...それでも致命的5
(p.133)X the scoff of the world
この『ライトハウス』の例文は、他の6,7冊の英語辞典を調べても見あたらない。きっと研究社が勝手に造文したのだろう。意味不明のコトバとしか言いようがない。この表現は他の『英和辞典』には出ているので、英語辞典とは英英辞典と推察しました。(他の英和辞典に出ているということは、研究社の造文でないことは明らかですが)
Jim is the scoff of the Wor1d.
ジムは世間の笑いものになっている。
(『グローバル英和辞典』三省堂)
他のどの英和辞典でも確認できる。著者はLOCEにあたったと書いています。0ALD(0xford Advanced Learner's Dictionary of Current English)をきっと確認されたと思います。とすれば次のような記述をどのように解釈したのでしょうか。
scoff:2.[(the)S]: Ideas which were the scoff of the scientific world.(LDCE P.994)
scoff:2..1aughing stock: He was the scoff of the town.(0ALD P.775)
私はこのような説明からYou are the scoff of the English Education world.
という英文は成り立つと考えます。それを知らない外国人講師はその程度の英語カだと解釈するのが妥当でしょう。要するにまともに英英辞典も読めない状態で英和辞典の文句を言っているような印象を強く受けるわけです。
確かに日本の英和辞典が“the scoff of the world"を、まるで初めからある熟語のように提示していることには問題があります。これを熟語と解釈して受験生に穴埋めを迫るようなことがあれば大変な問題です。しかし、私には“the scoff of the world"と"the scoff of the town"と"the scoff of the scientific world"の表現は全く異質であるから、“the scoff of the World"は間違いだ、と断言する勇気も度胸もありません。それほど自分の語感に自信も信頼も置いていないのです。ましてやイギリスの用意周到に作られた記述に対してこんなの間違いで、“laughing stock"という、などと断言する「こけおどし」はできません。
些細なこと...まとめにかえて
要するに最初に“DICTIONARY BUSTERS"ありき、そのために壮大な作文をしたのが、この本だと言えます。
「20%は誤例文だ」と豪語するこの本の「半分ははったりだ」と言っても過言ではないと思います。
例文の間違いと指摘した中には啓発される部分もありました。そういう鋭い指摘をしているのに、一方でろくに辞書を参照しなかったり、自分の語感だけに頼った強引な結論付けがあることは誠にもって残念です。さらに本書全般にちりばめられた攻撃的なアジ文はいったい何をめざしているのかわかりかねます。喧嘩を売るなら売るで、憶測や探測だけで勝手に敵を想定し、激烈に攻撃するような愚かな行為をするべきではありません。
ドンキホーテの巨大な敵が風車でしかなかったように、著者の敵と目している研究社、英語学会は実体のないものかもしれません。だとしたら、これは茶番です。
予備校の生徒ならこの独善を歓迎するでしょうが、残念ながらこれほどに「こけおどし」に満ちている本に対してまともに反論を加える人はいないと思います。それをとりあげて、「俺がこんなに書いたのに誰も反論しないじゃないか」などと考えたとしたらそれこそ救いようのない方だと思われます。
これまで私の書いたことを無視することなく「こせこせ」と直すことなく、反論してみてください。特に、『ライトハウス』だけに例文が載っているような印象を与える記述に対して、どんな説明がなされるか楽しみです。
http://www9.plala.or.jp/h-ike/dict/KEKKAN-1.html
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3. 副島隆彦ほか著『欠陥英和辞典の研究』の嘘
新聞広告の問題点
昨年10月26日、「朝日新聞」の頁をめくっていたとき、突然 『欠陥英和辞典の研究』という大きな広告文字が私の目に飛び込んできた。副島隆彦&Dictionary・Busters著(JICC出版局)となっている【以下『欠陥』】。
私は著者が広告に掲載している“間違い”の諸例に目をやった。そして、驚愕した。なぜなら、“間違い” の例として挙げてある4例のうち3例が、私には“問題なし”と思えたからであった。
例1) We went around to drop into the drugstore on our way
home.
(私たちは家へ帰る途中回り道をしてドラッグストアに寄ってきました)
著者指摘→go aroundは「動き回る」で、「回り道をする」の意味はない。
とんでもない!Go around には「回り道をする」の意味はある。そう思って、学生時代に愛用した Basic Dict. of American English ('62) を開いてみた。案の定、第2句義として to make a detour が載っていた。
例2)Let's turn and go home. (引き返して家へ帰ろう)著者例
文→Let' turn back 【around】 and go home.
とんでもない! Let's turn and go home. は原文のままで何ら問題はない。Macmillan社の Dictionary ('73)には Let's turn and go home. という、著者が間違いだとする文章とまったく同じものが収録してある。著者例文のほうがかえって変な文章で、turn back 【around】を使うのなら and go home は不要である。
例3)The fish scaled a pound. (その魚は目方が1ポンドあった)
著者指摘→ scaleを「目方が〜ある」という意味で使うことは
現代ではもうない。著者例文→The fish weighed a pound.
「目方が〜ある」の意味のscaleの用例は、手元の米系辞書数点を参照しただけでも、He scaled 180 pounds.(Thorndike Junior Illustrated Dict., '73)、 This piece scales ten pounds.(The Holt Intermediate Dict. of American English, '67)などの用例が拾えるし、 英系辞書にも定義と用例がある(e.g., Oxford Advanced Learner's Dict. of Current English, 3rd & 4th eds.)。
著者が協力を求めたインフォーマントは“native speakers”としてはイギリス人とカナダ人の2名だけなので、英米の差があるのかないのかについては分からない。
いずれにせよ、“不適切”と断定することはできない。英和辞典はその主目的を、英語読解に資することとしており、したがって、(多少の)古い語[句]義や表現も収録しなければならない。著者は、英和辞典に必要以上の“和英辞典性” “口語性”を求めており、それを満たしてくれない辞典・即・欠陥辞典と決めてかかっているようであった。
悪意を感ずる表紙
私は急いで近所の書店へ行き、『欠陥』を1部買い求めた。そして、表紙の写真を一見して、自分の目を疑った。何と、研究社の『新英和中辞典』(第5版)と『ライトハウス英和辞典』の外箱が破られ押し潰され、両辞典から引き裂かれた、何十頁分もの頁と共に、まるでゴミのように、打ち棄てられているではないか。
英語のタイトルが目に留まった。Checking Up Kenkyusha's Dictionaries とある。オヤ? Checking Up On Kenkyusha's Dictionaries と、前置詞の on を添えるほうが普通ではないのか?
こんなことを思いながら、読み進んだ。すると、
「(研究社の両辞典は)全英文例文のうち約20%は、使いものにならない。不適切である。そして、なかでも5%前後は、完全にまちがいである。メチヤクチヤである」
という挑発的な文章が目に止まった(p. 12)。 著者は続ける。
「では、何と比較してその英文例がメチャクチャなのか、と言うならば、私たちは、今、手元に置いてある‘Pocket Oxford Dictionary’(いわゆるP.0.D.)と、‘COLLINS COBUILD Essential English Dictionary’(コリンズ・コピュルド英辞典)と‘Webster's New World Dictionary Third College Edition’(ウェブスター大辞典)と‘Longman Dictionary of Contemporary English’(ロングマン現代英語辞典)と‘The Random House Thesaurus College Edition’(ランダムハウス英語辞典)と、他ならぬ研究社の『新英和大辞典(第5版)』と、それから88年4月、すなわち去年出た大修館の『ジーニアス英和辞典』など合計30冊ほどの英語辞典の例文と比較のうえで言うのである」と。
ところが、「合計30冊ほどの英語辞典」を参照したという著者の言が“ハツタリ”であることは、間もなく判明する。 それらを綿密に参照した形跡が、どこにも見当たらないからである。
著者は言う。「『(機械などが)動く』の用例である
This machine goes by electricity. (機械は電気で動く)
は、まちがいである。文章になっていない。この文は、どんな英語国民にも通じない」と(pp. 21−2)。
よくこんなデタラメが言えるものである。
The Random House Thesaurus は著者自身が「合計30冊ほどの英語辞典」に含めた辞典であるが、それには Is the machine going now?という立派な例文が挙がっているではないか(p. 312)。
Oxford Advanced Learner's Dict. (3rd & 4th eds; 以下 OALD )を初めとする、ほかの多くの英英辞典にも定義や用例が収録されている。なぜ、せめて、『ジーニアス』を参照しなかったのか。同辞典は、自分が「なかなかたいしたものだ。例文がしっかりしている」(p. 13)、「内容が、実にすぐれている」(p. 172)と賞賛した英和辞典ではないか[もちろん本当にすぐれている]。その『ジーニアス』には、This machine goes by wind. という例文が挙がっているが、著者はこれも「まちがいである」と判定するつもりか。
著者はまた、
I have never gone to Australia. (私はオーストラリアに行ったことがない)
を、「きわめてインフォーマルな会話か、よっぽど低学歴の人びと、あるいは日本人たちの間でしか通用しないものである。もしこれが英作文で用いられたとしたら、無教養な英語とレッテルを貼られる」と断定して、have been が正しいとする(p. 54)。
とんでもない。これが、立派なアメリカ語法であることは、たとえば Willis のアメリカ文法書 Modern Descriptive English Grammar ('72, P. 165)の解説を読み、I have gone to Calabria many times. というような用例を見ればすぐに分かる。
ほかにも、反証はいくらでもある。もちろん、『ジーニアス』も have gone が正用であることを教えている。
【ここで、著者・副島氏に、素朴な質問をしよう。私は日本生まれの、日本人で、現在も日本国内に住んでいるのであるが、その私が、たとえば、「私は日本に行ったことがない」(現在住んでいるのであるから至極当然のことであるが)という日本文を英語に訳すとしたら、どんな英文になるのだろうか。………答えは、I have never gone to Japan.である! 氏は、言語を多角的に見ることを学ぶべきである。】
著者が、「gainの使い方が誤りである」と断定した例文(p. 56)
She is gaining in weight.
の場合も、やはり、OALD 両版を初めとして、正当性の根拠となるものは多数存在する。『ジーニアス』にも gain in weight の句例が出ており, 「put on weight が普通」と注記している(この注記はOALD の記述の反映と思われる)。
He failed in the examination.(彼は試験に落ちた)
における前置詞 in の要・不要についても、著者は、「とんでもないまちがいと言うか、日本の英語教育者全体の頑迷さをよく反映している誤文である」と断定する(p. 92)。
これも、言語事実に対して、あまりにも無知だとしか言いようがない例文である。
第一、『ライトハウス』には、「in のないほうが普通」という、きちんとした語法注記が施されているではないか!
ほかに、G. Wilson (サンフランシスコ州立大学教授)は、Usage in Today's American English ('71, p. 87)において、共著者 K. Mushiaki に、in がないほうが頻度は高いが、両者とも正用法と答えているし、Longman Dict. of Phrasal Verbs ('83) にも fail in の見出しと用例がある。
Highly についても、ずいぶんいい加減な断定をしている(p. 147)。いわく、
「『ライトハウス』の例文のように、highly を第1番目の very の意味で使って、highly pleased とか、highly surprised とやるのはいただけない。(中略)
この highlyは、もっぱら2番目の用法で、訂正例文のように be highly thought of や、be highly appreciated のように、『高く評価されている』という使い方をするのがキレイである」。
こんなおかしな話など聞いたことがない。
著者の「合計30冊ほどの英語辞典」参照が、まったくの“ハツタリ”であったことは今や明々白々である。
もし本当にそれらを参照したのなら、He is highly pleased.(Collins Eng. Learner's Dict., '74)やHe was highly pleased by it. (Macmillan Dict. of Key Words, '85) や He was highly delighted at the news. (Chambers Universal Learners' Dict., '80) などの類例に出くわさないはずがない。
誤った指摘の数々
このほか、嘘の指摘がじつに多い。いわく、
「police(警察)には the がつく」(p. 66)。
必ずしもそうではない。たとえば、「警察は3人逮捕した」という日本文は、無冠詞で Police arrested three persons. と書いていっこうに差し支えない。
いわく、
Can you hot up this soup?(このスープを暖めてください)
の hot up は heat up が正しい(p. 103)。
もとのままでも問題はない。I can hot up the soup for you in two minutes.(Longman Dict. of Phrasal Verbs, '83)、She said she would hot up the soup. (Dict. of English Phrasal Verbs & Their Idioms, '74)など、用例を探すのには苦労を要しない。
いわく、
(My tooth is still paining me. のような文の場合)
「painをこのように使うことは決してない。動詞としてのpainは、『精神的あるいは感性的な苦痛を与える』という意味である」(p. 106)。
とんでもない。My foot is still paining me.(OALD; Oxford Student's Dict., '78; Dict. of English Usage, '77;いずれも同文)、His broken wrist pained him greatly.(Children's Dict., '79) など用例は枚挙にいとまがない。
著者が「合計30冊ほどの英語辞典」に含めた The Random House Thesaurus にもちゃんと Does your ankle still pain you?のような例文が挙がっている。
著者は、まさか最後の例までは、否定すまい。「英米で使われている国民辞典に、明らかなまちがいがあるわけがない」p. 13)と明言したのだから。
いわく、
「Cabbageは・・・・・・そもそも数えられないのだから複数形はない」(p. 130)。
何ということを! cabbageの複数形はcabbages。中学生でも知っている。
いわく、
「live in the country (田舎に住む)
も、現在では『その国で暮らす』の意味と混同しやすく、誤用と言ってもよい」(p. 134)。
こういうバカらしいことを言ってはいけない。
いわく、
「What's up?は『どうしたの、元気でやってるの』という挨拶の表現なのであって、What's happened?『どうした、何があったんだ?』という疑問の文ではない」(p. 150)。
これもまったくの嘘である。たとえば、「何があったの?(玄関に警察の人が来てるけど)」「知らないね」を英訳すると “What's up?(There's a policeman at the front door.)” “Search me.”となる!
いわく、
研究社は(as)numberless as the sands of the sea (浜の真砂の数だけの、無数の)というような言い方を「自分勝手に造語するものでない」(p. 128)。
著者はこんなことも知らないのだ。
これは、キリスト教徒ならずとも、英学徒の“常識”と言ってもよい句である。たとえば、 The New English Bible で『旧約聖書』の「ホセア書」 (1.10)と『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(9.27)を読んでみるとよい。the sands of the sea がそのまま出てくる。
もう1例だけ。著者は
the scoff of the world (世間のもの笑い)
を取り上げて、「きっと研究社が勝手に造文したのだろう。このthe scoff of the world というのをこの本のタイトルにして研究社を『世間のもの笑い』にしようかと思ったが、コトバ自体が研究社の捏造語では冗談にもならないからやめた。『世間のもの笑い』は laughing stock と言う」(p. 133)と揚々と言う。
『欠陥』の中でも、この“迷解説”ほど傑作なものはない。なぜなら、これは立派な英語だからである。
著者には無縁の辞典であろうが、Funk & Wagnalls New Standard Dict. of the English Language ('59) には、DeQuincey からの引用としてTwenty of those years he [William Wordsworth] was the scoff of the world, and his poetry a byword of scorn. が収録してある。
まとめて言えば 要するに、
@ 著者は一方において、英米で使われる国民辞典に明らかな間違いがあるわけがないと言っておきながら、他方において、研究社の両辞典は間違いだらけだと断定しているが、これは結果的には著者が陥った一大自己矛盾である。
なぜなら、著者が問題とする語句や表現は、私が調査した限りでも、そのほとんどが英米発行の英語辞典等にその典拠を有するからであり、著者がそれらを綿密に参照していれば、当然知り得た事実だからである。
これによって、著者が無責任に挙げた数字の信憑性はまったく認められなかった。
A 著者は英和辞典の使命も性格も本当には理解していない。
学習英和辞典は英語読解に資することを主な目的としており、(多少の)古い語句や表現も収録しなければならない。
著者は、両辞典に収録されているかなりの数の語句や表現を「古い」と言い、「辞書に載せることそのものが不適切である」と断定するが、どんな語句や表現が、どのくらい古いかということについては、著者のように即断はできない。しかし、著者がその収録に反対する語句や表現、たとえばair (p. 88)、 lest〜should (p. 90)、 I'm much beholden to you for your kindness. (p. 97)、of the same size(p. 111)、high and row (p. 144)、mother country (p. 231, p. 245)などはいずれも英和辞典に収録してあって不自然ではない。
B 著者が協力を求めた(らしい)インフォーマントは、人数や国籍等からいって、この種の“研究”をやるには不十分であった。
C 著者は
「(研究社は)日本国民すべてに、土下座して謝罪せよ」(p. 49)、
「無能な研究社の人びと」(p. 54)、
「辞書学者ふぜい」(p. 149)
々の暴言を頻繁に吐いているが、これは言論の由由に名を借りた言葉の暴力である。しかも、「おわりに」では、
「研究社には、何の反省も謝罪も、『弊社に対する中傷への抗議』もしてもらわなくてもよい。ただ、早々に、この欠陥辞書たちといっしょに消えてなくなってくれ、とお願いしたい」
と、一方的に弁明の道を閉ざしている。アンフェアの極みである。
辞書批判は常に創造的・建設的であるべきであり、『欠陥』の著者のように「破壊的」であってはならない。嘘で固めた「“欠陥”英和辞典の研究」であった。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_13.htm
『欠陥』の著者は、研究社の両辞典に対して、随所で、不当かつ実行不可能な一方的要求を突き付けている。たとえば、著者は96頁で、
His reputation was fouled by his deeds. (彼の名声はその行いですっかりだめになった)
という立派な例文について、「もう百年かそれ以上、英語圏では使われていない表現である。もし、こんな変な英文を英語圏の国で使ったら、必ず笑われるだろう」と、おかしな判断を下し、挙げ句の果てに、同文を The action spoilt his reputation.と書き換えよとしている。しかし、“foul”([名誉などを]汚す)の意味を教える項で、どうして“spoil”の用例が使えるのか。それに「もう百年かそれ以上」云々と断定する根拠は何か。
A running nose (鼻水の出ている鼻; p. 126))
の場合もそうである。著者は、『ライトハウス』に載っている形容詞 running の用法の3番目「うみの出る、鼻水が出る」の「鼻水が出る」の方は削除すべきである、と不当な要求を行い、runnyを用いよと言うが、ここは“running”の意味を教えるべき項である。いったいどうして、“running”の項に“runny”という別語を掲載することができるのか。
著者はCOBUILD(’87)に、If you have a running nose、mucus is flowing out of it、usually because you have a cold. EG Some were coughing. Others had running noses. とあるのを知らないのか。
同辞典は著者自身が「合計3冊ほどの英語辞典」の中に挙げた COBUILD Essential の親版である。アメリカの子供用辞典として有名なChildren's Dict. ('79)にも、With a liquid coming out; discharging: He has a running nose. という定義と例文が挙がっている。その他、いくらでも用例はある。
自分の知らないことは、すぐに「それは辞書が間違っている」などと、恥じも外聞もなく言い出す著者であるから、これらの用例の妥当性も、あるいは簡単に否定するかも知れない。【後日注記:最新英英辞典の1つ、Penguin English Dict. ('91)にも、きちんと用例付きで収録されている。】
もう1例だけ挙げておこう。著者は、
Let's turn and go home. (引き返して家へ帰ろう;『ライトハウス』 p. 1534)
の用例の正当性を頑強に否定して、Let's turn back [around] and go home.とせよと言うが、彼には問題の本質が少しも分かっていない(『週刊文春』、'89年、12.12)。筆者が問題にしたのは、英語の“turn”の用例の正当性であって、「引き返して家へ帰ろう」という“日本文”【訳文】の“英訳”ではないのである。“和文英訳”すなわち“英作文”の発想から同文をとらえて、不当な要求をしてもらっては困る。
ちなみに、著者は、筆者が上掲の例文と同一文がMacmillan社のDictionary ('73)にあると指摘したことに対して、「辞書の方が間違いです。“辞書にあったから正しい”では反論にならない」と答えたが、じつは著者はここでも、著者一流の“問題のすりかえ”を行なったのである(前掲『文春』)。
「英米で使われている国民辞典に、明らかなまちがいがあるわけがない」と明言したのは、ほかならぬ著者自身である(p. 13)。
『欠陥』が学問的論議の対象となり得ない最大の理由は、同書が誤謬に満ちているからである。
いわく、
「succeed のあとに in をつけたら、そのあとには必ず・・・・・・ing (動名詞)がくる。こんなことは、ちょっとできのよい高校生なら知っていることだろうに」(p. 46)。
この指摘は正しくない。This books tells you how to succeed in business. とか、I hope you will succeed in your efforts [life]. といった英文は、著者のいう -ing 形式は取っていないが、いずれの場合も立派な語法である。
したがって、succeed in には動名詞 “または名詞”が後続すると言うべきである。
いわく、
「『どこかへ立ち寄る』という場合、パラシュートでも使わない限り drop intoとは言わない」(p. 50)。
これも嘘である。 I dropped into the drugstore for some thoothpaste and a magazine. や In the evening we would drop into a roadside pub for a beer and sandwich. のような語法はいずれも正しい。
いわく、「冒頭の例文
【a dog worrying shoes(靴をかみ散らしている犬)−筆者注】
はまちがいである。
a dog worrying sheep ならば、歴史的なコトバづかいとして存在する」(p. 115)。
これも完全に嘘である。The puppy worried the edge of the carpet. (Scholastic Dict. of American English, '66)、Father was angry when he saw the dog worried his slippers. (Dict. of Basic Words, '69) 等々、初級用、児童用辞典にさえ収録されている語義ではないか。
いわく、
「A. S. ホーンビーのように『動詞型』だけで800近くもあるようなとんでもない説(中略)。誰がそんなにたくさんの文型を覚えられるというのだ(中略)そんなもの全部、ダメだ」(p. 185)。
これこそ、本当の“嘘800”である。ホーンビーの動詞型は全部で約50しかない。『欠陥』には、このような嘘が全巻にわたってちりばめられている。
「別冊宝島」編集長・石井慎二氏は言う。「副島氏の英語に対する見識・能力・知識には全幅の信頼をおいている」(『毎日新聞』、89年、11.10)と。それではなぜ、全幅の信頼のおける副島氏の書物に、これだけ多くの誤謬が発見されるのか。
石井氏は、副島氏が COD にある“bilingual”の形容詞の定義
“having, speaking (fluently), spoken or written in, two languages”
ごときも正しく理解できないでいることに気づくべきである。
副島氏は同定義を「2カ国語を由由に書いたり話したりすること」(p. 213)
としているが、これは @having two languages, Aspeaking two languages (fluently), Bspoken or written in two languages と、3つに分析して理解すべきものである。どこをどう解釈すれば、上記のようなお粗末な訳文に到達するのか。
この程度の英語カしか持ち合わせない人物に、どうして「全幅の信頼」がおけるのか。著者自身も、身の程をわきまえずに、「私と研究社には、“千年の経庭”がある」(p. 146)などと、大言壮語してはいけない。
著者がいかに「欠陥研究」を行なったかの最後の証拠を挙げる。著者は172頁では、「1週間にわたって、各社の英和辞典を精査検討したところ、いろいろなことが明らかになった」と言っている。ところが、そのわずか4頁あとには、ナント、「今回は、これらの辞書を検証する作業は、残念ながらほとんど行えなかった」と言っている。何という矛盾、何という“イイカゲンさ”であろうか。
たとえ、「流れつく岸辺で英語教師業をやっている」(p. 172)のではあっても、著者も人にものを教える立場にある。こんな虚偽に満ち満ちた書物を世に出した著者の教育的・社会的責任はどうなるのか。著者が、両辞典関係者に向けて言った、「日本の若い英語学習者に対してどう責任をとるつもりか」(p.34)という言葉は、自分自身にこそ向けられるべきものである。
母国語話者の選択に偏向があってはならない
『欠陥』の外国人共著者として名を連ねているのはイギリス人1名、カナダ人1名、スウェーデン人1名の計3名である。結論だけを言えば、この少数では、この種の“研究”は十分には行えない。いわゆる“native speakers”に助力を求める場合、その生国、年齢層、教育背景、性別等のバランスについても考慮すべきである。その不足が如実出た一例が、前項の“have been”と “have gone” で述べた問題である。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_14.htm
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4. 英和辞典と典拠主義 副島隆彦著 『英語辞書大論争!』を読んで
かねてから衆目を集めていた代々木ゼミナール講師・副島隆彦氏が、「あれからいったいどうなった?と思っていたあなた」のために、『英語辞書大論争!』(別冊「宝鳥」113号、JICC出版局、以下『大論争』)を出版した。意気衝天の勢いである。
副島氏は『欠陥』において、数多くのれっきとした英語表現・語句を、
「〜はどんな英語国民にも通じない」
「〜は完全な誤文である」
「〜の使い方がまちがっている」
「〜の例文はまちがいである」
「〜のように使うことは決してない」
「アメリカ人は絶対に使わない」
「〜は研究社の捏造語だ」
などと断定・即断し、それらの“英語性”を理不尽にも否定した。
そこで私は、「とんでもない。英米の辞書にもあるはず」という思いから、手元にある英語国発行の辞典等を参照し、それらの存在を確認・発表した。ところが氏はその後、
「“辞書にあったから正しい”では反論にならない」
と問題を巧みにすり替え(『週刊文春』平成元年12月21日号)、しかも典拠による論法を“典拠主義”と命名して一方的にさげすんだ(『大論争』pp. 17−8)。
断っておくが、私が“典拠”と言う場合、それは常に英米発行の英語辞書を対象としており、英和辞典は含まない(日本の英和辞典、和英辞典が諸問題を抱えているぐらいのことは、私自身、とっくの昔から承知しており、そのための改造案、改良案を常に建設的に発表してきている)。英和辞典に言及するのは、副島氏の“お気に入り”に意識的に言及する場合のみである。そこのところを明確にしておく。
私が問題としたのは、“反論”以前のことである。つまり、こういうことである。
氏は、英語について論じるときに、踏んでいてしかるべき手順を踏んでいなかった。
換言すれば、氏は上記のような断定・即断をするとき、多くの点で、英米の諸辞典を本当には参照していなかった。
そのことは、私の反証によって明白である(後述するが、新著でもその“悪癖”が随所に発見される)。
もし、その手順をきちんと踏んでいれば、あのような無責任で、非学問的な断定・即断ができるわけがない。私はそこのところを問題にしたのである。
つまり、自分の無知、浅学、勝手な思い込みによって、ある英語の表現・語句などの“英語性”を軽々に否定しないで、まず英米の辞書家たちの縮纂した諸辞典を参照して、自分の断定・即断の正否・適不適を確認せよ、そういうことなのである。
この“常識的手順”を第一に踏み、特定の表現・語句を学習英和辞典に収録するのに、どの表現形式や語[句]義を選んで収録するのがより良いか、あるいは最良か、などということについては、その後の手順とせよ、そういうことを私は言ったのである。氏よ、真実の前にもっと謙虚であれ。
典拠主義は健全なもの
氏は、
「(英語母国語使用者との)膝詰めの共同作業という実践理念こそは、まさしく、典拠主義に対する唯一の対極概念であり、唯一の活路である」(『大論争』p. 247)
などと大見得を切っているが、辞書編纂上、“典拠主義” と“膝詰め共同作業”とは対極概念でも、後者が唯一の活路でもない。両者はむしろ、“車の両輪”(難しくは“唇歯輔車”)の関係と形容すべきものである。その両輪[両者]を適切に稼働させて初めて、真に理想的な(学習)英和辞典が出来上がるのである。
氏は『欠陥』における大量の“嘘”が“native speakers”との“膝詰め共同作業”の所産であったことを忘れるべきではない。
氏は言う。
「私は、学者ではないが、本当の学者の心がわかる者でありたい」と(『大論争』p. 82)。
これまでの氏の言動からは、氏が“春華秋実”を備えようとしている人とはとうてい思えないが、万が一その努力をしようというのなら、なおさら、“膝詰め共同作業”だけが唯一の活路だなどと思うべきではない。
「本当の学者の心がわかる者でありたい」と心底願う者なら、まず何よりも、あれだけの間違いを内包した『欠陥』という名の欠陥商品を放置しておけるはずがない。
1989年11月24日に初刷発行、1990年3月15日第6刷(私が見た最新の刷)という莫大な売上げを誇りながら、私が指摘した、表紙の英語の間違い1つさえ直していないではないか。
初刷公刊までにはすでにその間違いに気づいていたと告白しておきながら、「表紙を刷り直すのにはお金がかかるんですってね」(前掲『週刊文春』)などと、無責任なことを言う。
本論に立ち戻ろう。もし氏が私が念頭に軽いている“典拠主義”を実践していれば、また、真理探求に真摯な態度で臨んでいれば、『欠陥』『大論争』におけるあのような無責任な記述にはならなかったはずである。
たとえば、氏は『欠陥』で、
He failed in the examination.(彼は試験に落ちた)
という文章の fail in の用法について、
「とんでもないまちがいと言うか、日本の英語教育全体の頑迷さをよく反映している訳文である」
と断定した(p. 92)。こう断定するには、氏の共著者である “native speakers”との“膝詰め共同作業”があったであろう。しかし、私は fail in を使った文が“まちがい”でも“誤文”でもないことを立証するために、「研究の嘘」において、その句を収録・解説している英米辞書等から文例を引いた。氏の謬見を知らしめるために、私は“典拠主義”に徹したのである。
氏はこの点を看過して、すなわち、fail inの、“典拠”による“英語性”確認作業を怠って、一足飛びに「まちがい」「誤文」と断定した。私はこの際の一方的な “順序の飛び越し”そのものを問題にしたのだ。
もう一例、挙げよう。氏は
(as)numberless as the sands of the sea (浜の真砂の数だけの、無数の)
というような言い方を「自分勝手に造語するでない」と言って、研究社側を責めた。
そこで私は、これ『旧約聖書』の「ホセア書」(1・10)と『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(9.27)にも見える、立派な“英語表現”であることを前掲「研究の嘘」で明らかにした。その際、両聖書に目を向けさせたのが、私の“典拠主義”なのである。この言い方が古色蒼然としたものであるという事実は、私は百も承知であったし、何よりも、その段階ではその点はまだ別問題であった。つまり第二段階目での論究問題であった。私は、ただ氏の“勇み足”を指摘したに過ぎない。その“勇み足”が“膝詰め共同作業”に起因するものであるならば、それはその共同作業者が無知であっただけである(だからこそ“典拠主義”を軽視してはならないのだ)。
にもかかわらず、氏は『大論争』(pp. 185−6)でも、この(as)numberless as the sands of the sea に関して、意味不明のことを繰り返している。しかも、「私は、『浜の真砂の数だけの』という意味の形容詞句 adjective phrase をとらえて、こんな熟語がいったいあるのか、これも研究社の造文ではないのか、と前者で疑義を提議した」と、前言を糊塗(こと)したことを言っている。『欠陥』では氏は、「自分勝手に造語するでない」と憤慨していたではないか。
氏は私の「研究の嘘」を、“(B)個別には反論しないこととする。なぜなら、同教授の批判は[C]の「『欠陥英和辞典の研究』の分析」(研究社発行小冊子)への詳細な検討と総反撃に内容的に包括されるからであると断じ、“ちなみに、山岸教授は典拠主義に基づく私への研究社の反論の原型をもっとも早く提出した人であり、そのかぎりにおいて研究社に対する貢献度少なからぬものがあるとだけ評価しておこう”と言って茶化してくれている。冗談ではない、と言いたい。
断言しておくが、研究社による「『欠陥英和辞典の研究』の分析」は昨年の12月11日に出ており、私による「研究の嘘」は本年1月12日に出ている。私は研究社に対して何ら“作為的頁献”はしていない。私は私自身の信念に基づいて、行動し・論考を発表したに過ぎない。真に必要とあれば、今後もそうする。
氏は、私の「研究の嘘」も「一括して論駁すれはそれで済むような代物」(『大論争』p. 17)とか、私の「研究の嘘」を含めた「他の8つの『論文』はいずれも典拠主義一点張りのおそまつなものでしかない」(同書p. 18)などと、虚勢を張って見せるが、問題ををすり替えるなと言いたい。
第一、私の“典拠主義”は、氏によって“一括して論駁される”ほど軟弱なものではない!
氏には、問題提起者しての自分の側の事実誤認、謬見の深刻さが少しも分かっていない。「批判の在り方」でも言及したことだが、ここで再度言う。氏は、まず、自著に満ち満ちている“嘘”を訂正し、問題を整理し、それから本格的に「英和辞典論争」に取り掛かるべきである。「タダの予備校講師・副鳥隆彦が『天下の研究社』をノックアウト!」などと、奇を衒うことに心を砕かずとも、何が真実か分かる人には分かるのだ。
言明しておくが、私がこれまでに念頭に置き、長年実行してきた“典拠主義”は、“膝詰め共同作業主義”とは「車の両輪」を成すものである。私との“膝詰め共同作業”に従事してくれる“native speakers”も、“典拠主義”という補強剤を、自分たちの意見や記述の加除修正には必須のものだと考えている。その点をわきまえている彼等こそが、日本の英語教育に本当に資る“non−Japanese”なのである。
副島氏は執筆に際しては、言語事実に対して、もっと誠実で謙虚な態度をとるべきである。
たとえば、『大論争』でも、まだ
“a running nose”(鼻水の出ている鼻)
における形容詞 running の正当性を認めようとはしない。それどころか、
「この他にCOBUILD、0xford American Dic.、WNWD も調べたが、running nose の例文は見つからなかった。したがってこれも、勝負あった、ということだ」
などと、ヌケヌケと恥知らずなことを言っている(p. 183)。
最初の辞典 COBUILD には限定形容詞としての running がチャンと独立して収録されており、しかも If you have a running nose、mucus is flowing out of it、usually because you have a cold. EG Some were coughing. Others had running noses. と用例まで載っているのが見えないのか。
このことは「批判の在り方」ですでに指摘してあったではないか。氏は物事に対してもっと綿密になるべきである。もし“典拠主義”に徹してれば、COBUILDに大きく収録されている running の定義と用例など、見落とすはずがない。
どこまで杜撰であれば気が済むのか。
氏は、
highly pleased
という言い方についても、同書(p. 207)で、まだ、
「他にもこの highly pleased という用例があったら見せてほしい」
などと寝ぼけたことを言っているが、私が「『欠陥英和辞典の研究』の嘘」(現代英語教育」誌、'90. 2)に示した用例を見なかったのか。もっと見たいと言うのなら、ためしに、The Collins English Dict., '89 という有名な現代英語辞典の highly の項を引いて見るがよい。第一義の第一用例に、何と出ているか?!
それから、氏には相も変わらず不健全な断定・即断が多い。たとえば、
a dog worrying shoes
の場合の
「worry に関する例文盗用問題の出発点は、OALD に起源するものであることは、ちょっと調べたらわかった」
と意気揚々と言う(『大論争』 p. 177)。続けて、
「OALD3 の worry の記述を見ると、次のようになっている。
3 (esp of dogs) seize with the teeth and shake: The dog was worrying the rat.
研究社が、この the rat を shoes に安易に変更して自分たちの例文としたのだということは、他の事例と同様に明らかなことである」とも言う。
こういう場合、私なら、“典拠主義”に徹して、The puppy worried the edge of the carpet.(Scholastic Dict. of American English, '66) や Father was angry when he saw the dog was worrying his slippers. (Dict. of Basic Wordss, '69) の用例がその下敷きになっているのではなかろうかと考える。これらの例は「批判の在り方」にも掲げた。あるいは、a dog worrying an old shoe という用例 (Webster's Student Dict., 初版 '69)が下敷きとも考えられる。“典拠主義”に徹するとは、このように綿密に、客観的に、多角的になることである。
もう1例、
The stars are glistening in the sky. (『大論争』 pp. 131-2)の glisten の場合も同様である。
氏はこれについても、
「ちなみに、このglisten の例文の元凶も ISED にあった。ISED の definition (語の定義)が、shine brightly となっているだけで不完全であるために、ここから、研究社はつまづきが始まったのであろう」
などと、憶測だけで断言しているが、“典拠主義”に徹している人ならば、こういう場合、「これは Thorndike Barnhart Advanced Dict. (初版 '41) にある、shine with a twinkling light: The stars glistened in the sky.に影響されたのではないか」と推測するものだ。そのほうが、氏の憶測よりも、はるかに“説得力”を持つではないか。
“鬼面人を脅す”類いのことばかり書いて、世人を惑わすものではない。氏による、“玉石混交”のままの言動は、ただただ事を煩雑にするだけである(と言っても、“石”のほうが多いが)。研究社の英和辞書に発見される諸問題は、まず、自分自身の“諸問題”の修正・訂正が済んでから、改めて話題にすべきである。 “典拠主義”が健全であることは、氏自身が内包する“諸問題”を、私が指摘する場合にも“大きな威力”を発揮することからも分かる。
私はこのように、まず、“典拠主義”に徹することにより、ある表現・語句の“英語性”を確認し、続いて第二段階として、The stars glistened in the sky. という文章における glisten の用法と意義の、英和辞典への収録の適不適について、“膝詰め共同作業”で考えるようにしている。
氏に再度忠告する。前回と今回の氏の言動が、もし本当に、“日本の英語教育を憂うる一途な気持ちから出たもの”であるならば、氏は何よりもまず、自著における多数の事実誤認・謬見・認識不足の例を一掃せよ(さもなければ、氏による牽強付会の説ばかりが、日本の英語教育界に広がる恐れがある)。その後で「本格的辞書論争」に取り掛かるべきである。
それが、かりそめにも“教育の場”に身を置く者の社会的責任ではないか。氏のこれまでの言動は、余りにも“醜悪”である。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_15.htm
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5. 副島 隆彦 (著) 英文法の謎を解く (ちくま新書) 書評
内容(「BOOK」データベースより)
なぜ日本人は英語がうまくならないのだろうか。なぜ珍妙な和製英語がこうも街なかに氾濫しているのだろうか。
日本の英語教育における基礎工事の欠陥こそが、その元凶であろう。もう一度「英文法の基礎」の根源的理解に立ちもどって、土台から立てなおす必要があるのではないか。
中世ヨーロッパ以来の文法学論争を踏まえつつ、わが国の英文法理論がかかえる混迷と謎に鋭く迫るとともに、基本動詞から比較級・仮定法にいたるまで、英文法の基本体系のエッセンスを説き明かす。ここからはじまる「基礎英文法」再入門。
カスタマーレビュー_1 英文法が謎になる…, 2005/1/30 By 簿記受験生
英語の源は北ドイツ、デンマーク辺りからブリテン島に渡来したゲルマン系のアングル・サクソン・ジュート三族が持ち込んだいわゆる古英語である。バイキングの侵略による北欧語の影響なども多少受けたが、最大の事件はフランスのノルマンディー地方の領主だったギョームが渡海し、アングロサクソン王アルフレッドを破り、ウイリアムI世としてイングランド王に即位した「ノルマン・コンケスト」である。
こののち公用語は、支配者ノルマン人の使うフランス語になり、被支配者のアングロサクソン語は、語彙・文法の両面で巨大な圧力を受け、ゲルマン語の特色である格変化さえ失った。
ルネッサンス期に大量のラテン・ギリシャ語彙が導入された。中世から近世にわたり Greate Vowel Shift と呼ばれる母音発音の大変化という社会的現象で発音と綴りの不一致が生じた。
英文法の変則的な側面つまり「謎」は英語史を丹念に追うことでほぼ判明する。現代英語が歴史的生成物であることを無視する副島氏の立場は、英文法をますます謎にし、懸命な学習者をますます混乱させるだろう。
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カスタマーレビュー_2 書名に値しない内容のような気がする。 2003/6/27 By Fish & Chips -
ずいぶん前に買ったものだが、最近、授業の情報探しのために読んだ。そして正直なところ少々驚いた。
英語の初歩的な間違い(綴り、語法等々)、聖書や英英辞典の読みの不十分さ、用例の不自然さ・非文など、問題箇所が少なくないからである。
これを出版した出版社は社会的責任を感じるべきだと言えば言い過ぎだろうか。書名に釣られて購入した本だったが、一通り読むのも苦労だった。それと著者の粘着性を感じさせる文体も好きになれなかった。私の周辺の高校生には薦めたくない一書である。
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カスタマーレビュー_3 謎を増やすな, 2004/1/6 By ___
某塾の講師研修会(英語)で勧められていたので買ってみました。買ってみて驚き。やばいよ、あの塾。こんなの勧めるなんて。
まず、時間講師程度の僕が「そんなこともう知ってるよ」ということも、何の衒いもなく、「教えて」くれるその様子に、このおじさんも相当やばいな、と思いました。
何より頭に来るのは、「このことについては後で述べる」という風に問題提起をしたくせに、答えを言ってないところがいくつもあること。おかげで謎が倍増しました。
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カスタマーレビュー_4 読む必要はない本, 2006/12/20 By kenipi
読むなとはいわないが、読む必要はない本。ごく当たり前の事を、さも独自の大発見であるかのような調子で書いており、読むほどにいらだちが募る。
また学校英語教育がいかにダメであるかと言う悪口が満載なので、学校教育に恨みがあるような人にはお勧めかも。わたしは賛成できませんが。
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カスタマーレビュー_5 理解不能(*_*), 2006/8/16 By miata
文法解説は複雑怪奇、読めば読むほど英語が分からなくなるのは、私がお馬鹿さんだから??
既存の英語教育を罵倒(いいがかりとしか言いようがない)するのに熱中する余り、肝心の例文が少ないわ、そのなけなしの例文も無茶苦茶なものが多いわ…。
これまで英語に関する本はさんざ読破しましたが、間違いなく「最悪」です。
英語を勉強する目的は色々あれど、どのような目的で勉強される方にも本書はお勧めできません!星「ゼロ」って評価が無いのが残念です。
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カスタマーレビュー_6 まず日本語をなんとかしてほしい, 2005/6/26 By カスタマー
この著者の数々の著作本を読んでいると、数々のへんてこな文章にぶちあたるのである。
主語がどれだかわからない文や、主語に対する述語がない文などの宝庫なのだ。
だから、このような本で英語をどうのこうの言う前に、まず、日本語をちゃんとマスターしてほしいと思うのが、読後の率直な感想である。
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カスタマーレビュー_7 実用性ゼロ, 2004/11/8 By imran_jp (東京都港区)
「うちでダメなら英語は諦めてください」でお馴染みの、「コペル英会話」の校長を務めているものです。
生徒さんへの文法の説明をする際に役立てばと思い、この本を購入しました。
タイトルでは、「謎を解く」と書かれていますが、読み終わった後の率直な意見は、「で、何の謎をといたの?」です。
内容はというと、いくつかの英語表現(実際ネイティブが使わないものも多い)を著者が厳密に翻訳し、その表現の日本語での本当の意味を解説する。ためになるかと言えと、まったくならず、はっきり言って下らない内容である。
この本は英語を勉強している人、話せるようになりたい人にはお薦めしない。まったく役に立たないから。読むだけ時間とお金と労力の無駄。ただし、象牙の塔で言語学者ゴッコをしたい人には超お薦め。
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カスタマーレビュー_8 つまらない, 2002/9/24 By カスタマー
著者の思いつきで書きなぐったような印象を与え、つじつまが会わない箇所があちこちにあるし、英語のちょっとした間違いも散見される。
また、著者の唯我独尊的な口調はとても不愉快である。この本に書いてあるような独自な文法解釈など知らなくても英語はできるようになる。読む必要がある本だとは思えない。
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6.『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う 山岸勝栄
副島隆彦氏が某所で次のように書いておられるのに偶然出くわしました :
[74] これは、山岸勝栄のサイト 投稿者:副島隆彦 投稿日:2003/04/26(Sat) 07:29:04
副島隆彦です。
以下のサイトは、私、副島隆彦の本を批判する事で、ご飯を食べいてる山岸勝栄という人のサイトです。
はじめて覗いて、随分と、商売になっているようだと、驚きました。
馬鹿な人だけど、こういうのが、典型的な日本人の一種なのでしょう。
副島隆彦記
__上記ののサイトのURL
http://jiten.cside3.jp/index.html
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この国は、やっぱりこの程度の、土人どもの国だ。
10年昔、私が、『欠陥英和辞典の研究』を書いて、研究社と東京外語大の英語辞書学者たちから裁判に訴えられたときの嫌な気分が、私の全身によみがえった。
「この国は、学者と称する、土人のまじない師どもの国だ。その土人(原住民)のまじない師どもが支配している愚か極まりない国だ。かならす、事実 facts ファクツ の力で打ち倒してみせる」と。
私は、今でもあのときの苦汁を思い出す。何十年かかっても、私は、全てを明らかにし続けるぞ、と。私は、あのとき自分の書いたものを、一行も訂正することなく、かならず、再び、この国民の前に、示してみせる。私の深い決意に付き合ってくれる人などいなくてもよい。私は、鬼になってもやりとげる。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_13.htm
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これが何かと話題に上る副島隆彦という人の私の論考への十数年後の反応もしくは回答です。
この短い文章の中に、世を騒がせた『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』という2書の著者、そして前者の中で「何なら私が1年で1冊の現代英和辞典を作ってもよい」(105頁)と軽々に豪語[放言?]した人物の人間性や学問に対する姿勢の全てが込められているような気がしました。
「1年で1冊の現代英和辞典」を作ることなど絶対に不可能です。もし氏がそれを本気でおっしゃっているのであれば、是非ともやってみせていただきたい。さぞや“名著”(迷著?)が誕生することでしょう。
「私、副島隆彦の本を批判する事で、ご飯を食べいてる山岸勝栄という人のサイトです。」
恥ずかしげもなく書かれたこの1文は三歳の童子にも理解できる、明らかな虚偽であり、十分に名誉毀損になり得るものです。思うのですが、この種の文言を“実名入り”でインターネットに載せる氏に対して、“同病”相哀れむという人を除いて、尊敬と憧憬を覚える人などいるのでしょうか。
それに続く、「はじめて覗いて、随分と、商売になっているようだと、驚きました。馬鹿な人だけど、こういうのが、典型的な日本人の一種なのでしょう。」という1文に至っては、“噴飯物”“抱腹絶倒物”ですが、これはおそらく“冗談”のおつもりでしょう。そうでないのであれば、相当に不安定な精神状態の時か、夢遊の状態で書かれたものでしょう。いずれにせよ、再び、憫笑、憫笑。
私はかつて氏と“英和辞典”を対象として真剣な話し合いをしたいと願ったこともあります。氏を“恥を知り名を惜しむ人物”だろうと思ったからです(氏は、「もののふは名をこそ惜しめ」という古い言葉の意味をご存じだろうか)。
そして十数年の時が経過しました。現在、氏は、氏自身の言葉を借りれば、「政治思想、法制度論、経済分析、社会時事評論などの分野で評論家として活動」しているとのことです。
その道の“評論家”としての氏の力量は分野が異なるので軽々には断じられませんが、こと英語に関する限り、氏の力量は世人のよく知るところとなっていると思います
また、インターネット上には、氏の翻訳力に言及したものも何点かあるようです。
ある人が「このような人物は、自分に都合の悪いことは悪党の陰謀であると捉え、専門家に対してはすさまじい憎悪を持ち、自分の正しさを証明する客観的証拠を示さず、他人には人格攻撃を仕掛け、自分が正しいことは自明なのだから証拠の必要はないと確信し、他人から批判を受けると自分をガリレオなどの人物になぞらえるという傾向もよく見られる」という趣旨のことを書いていたということも別の大学院生から教えられました。
荊棘の道を選ぶのもまた人生でしょう。しかし、これだけは言っておきたいと思います。
「井戸の水を飲む時(=辞書を使う時)は、その井戸を掘った人たち(=辞書を作った人たち)の労を思え」と。
人間の作ったものに完璧などということはないでしょう(そのことを最もよく示すのが、副島氏ご自身の上記二著作だとは、何という残酷な皮肉でしょう)。しかし、より良きものに仕上げることは可能です。そうすることこそが後輩たる私たちの、先人への人間的礼儀ではないでしょうか。それを、自分の不遇感、不充足感、ルサンチマンの発露に、先人の知と汗と努力の結晶を罵倒し、自己弁護に終始するのは、人間性の欠如だと非難されても仕方ないでしょう。そのような行為はまた、天に唾することにほかならないと思います。
私は、氏の英語に関する言説を主に問題とし、前記諸論考で、上記2書の中身の学問的検証を行ないました。従って、それに対する学問的な論駁や反証のための書き込みなら大いに有益だと思いましたし、私もそれらを冷静に受け止める用意がありました。
しかし、今はもう何を言っても無駄という思いを強くしています。氏にかかれば、白は黒になり、黒は白になるようですから。
自著には『欠陥英和辞典の“研究”』だの『英語辞書“大論争”!』だのと立派な題名を掲げ、その中では「この本(『欠陥英和辞典の研究』)のどこが『揚げ足取り』で、なぜ『言いがかり』なのかを、明確に論証しなければならない」(170頁)などと大見得を切っておきながら、いざそれに学問的・建設的反論を寄せようとする人が出て来ると、今度はその人に猛然と敵意を示すというような氏の姿勢に、陋劣さ、頑陋さを感じるのは決して私一人ではないでしょう。
いずれにせよ、私は今後ともあくまでも学問的、建設的、共栄的態度を堅持しようと思います。真実はどこまで行っても真実なのですから。それに、英和辞典、和英辞典の不備や改善点など、私は氏の何百倍、何千倍も多く見聞きし、実体験して来ているのです。したがって、こと英語辞書(英和、和英、英英)に関する限り、私が理不尽な威喝に屈するようなことはありません。
最後に、氏の上記2書に、その後も少なからぬ誤謬・誤解が発見されていることを付言しておきます(これについては、いつでも証明できる用意があります)。牽強付会の説なき、“本物”の英語辞書論争なら、いつでも大歓迎ですが、それはもう望めないでしょう。 (2003/7/8)
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/efl_dictionaries_21.htm
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