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史上最強の投資銀行 ゴールドマン・サックス_その強さの秘密に迫る_2 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/361.html
(回答先: 史上最強の投資銀行 ゴールドマン・サックス_その強さの秘密に迫る_1 投稿者 中川隆 日時 2010 年 5 月 20 日 21:58:59)
たった一人の歩合外務員が相場を演出する。宮地鉄鋼が賑わったのは1980年の出来事です。当時の市場は「本まる木」、「花まる木」と呼び、彼が勤める黒川木徳証券の手口が注目されていました。話のよると彼は岡三証券に入社し、その後、一旦、証券界を離れキャバレーのボーイなどを経験し、再びこの世界に戻り外務員をしていたようです。 僕の友達のよっちゃんが仲間に誘われ、熱海の旅館で話し合いがあったとか…でも、彼は相場の話などせず人間愛とかの話に終始し、宗教的な雰囲気を醸し出す存在だったらしいですね。 彼の論理は推奨販売方式をやっていた当時の野村証券の個人版です。しかし相場を動かす資金量は大きく、あれだけの演出をするのですから証券セールスとしては一流で、彼の右に出る人間が居たのかな? 結局、最後は世間の圧力に潰されます。売り逃げに失敗した宮地鉄鋼のオーナーになっても意味のないことでした。 そんな彼に憧れを抱き、10年の辛抱をして歩合セールスになった僕は、仕手グループの仲間に接近し、彼らの手口を見て失望します。 結局は夢もロマンもない金亡者の連中が、世間を如何に騙すかに終始しているわけですね。詐欺師と何も違わない。 たぶん、泰山会などその手のグループなのでしょう。
マーカス・ゴールドマン(妻バーサ・ゴールドマン)には、レベッカ、ジュリアス、ヘンリー、ローザ、ルイーザという5人の子供、ジョーゼフ・サックス(妻ソフィア・ベア)にも、ジュリアス、サム、エミリア、ハリー、バーニーという5人の子供がいた。ゴールドマン家のローザはサックス家のジュリアスと、同様にルイーザはサムと、両家は婚姻によっても結び付いている。そして、ルイーザとサムの間には、アーサー、ポール、ウォルター、エラという4人の子供が生まれた。 マーカス・ゴールドマンは、1848年にユダヤ人が大挙してアメリカに移住したとき、彼もドイツからアメリカに渡ってきたユダヤ系である。マーカスの妻バーサ・ゴールドマンも1848年にドイツから移住してきたが、同姓ながら2人に血縁関係はないらしい。マーカスは妻と5人の子供を連れて1869年にフィラデルフィアからニューヨークに移り、借用証書(手形つまりCP)のブローカー業を行なうマーカス・ゴールドマン商店を開業する。これが21世紀の現在「世界最強の投資銀行」と言われる銀行の創業である。ちなみに日本では1868年が明治維新つまり明治元年を迎えてた年であった。日本銀行の設立は1882年である。 マーカスは娘ルイーザの夫つまり義理の息子サム・サックス(サックス家もドイツから移住したユダヤ人)を招き入れ、社名をM・ゴールドマン・アンド・サックスに変更した。後にサムの息子アーサーとポール、ウォルターの3人はともに「家業」に加わり、特にウォルターは1980年に96歳で亡くなるまで72年間にわたって会社に関与した。創業から50年ほどの期間は、この両家の人間だけでゴールドマン・サックスのパートナーが構成されていた。1885年、マーカスは自分の息子ヘンリーと娘レベッカの夫であるルートウィヒ・ドレイフュスをジュニア・パートナーに招き入れると同時に社名をゴールドマン・サックスに変更した。1894年にハリー・サックスが入社し、1896年にはニューヨーク証券取引所の会員となった。 ゴールドマン・サックスが扱ったCPは、1890年は3100万ドル、1894年には6700万ドルと急増し、1960年代後半にはアメリカのCP全体の50%を扱い1日2億ドル以上を販売するまでになる。 マーカスが引退すると、会社を託されたのは、息子のヘンリー・ゴールドマンと、義理の息子サム・サックスであった。 サムは1897年6月にロンドンを訪れ、マーチャント・バンクのひとつ、クラインウォート・サンズのハーマン・クラインウォートとアレキサンダー・クラインウォートに会って海外での資金調達に機会を見いだそうとした。このときクラインウォート家の2人は、NMロスチャイルドのニューヨーク代理人であるオーガスト・ベルモントを通じてゴールドマン・サックスの調査を行なったという。ベルモントの評価は「非の打ち所のない会社だ」である。ここからクラインウォートとの関係が始まったらしい。 つまりこの関係があったからゴールドマン・サックスは1970年までロンドンに事務所を開設しなかったということになるようだ。彼らは相互に経済状況や相場、新規事業の機会に関する意見を交換しており、ゴールドマン・サックスのパートナーがイギリスに行くと、クラインウォート家の郊外の家で週末を過ごしたりするといった関係である。 1904年、サム・サックスの息子アーサーとポールがハーバード大学を卒業して入社した。その夏、創業者であり2人の祖父にあたるマーカス・ゴールドマンが世を去った。 サム・サックスとともに会社を託されたヘンリー・ゴールドマンは、28歳のときゴールドマン・サックスに入社した。ヘンリーは仲の良い友人フィリップ・リーマンと深い関係を築いてゆく。2人はマンハッタンのダウンタウンのレストランで毎日昼食を共にし、ゴールドマン・アンド・リーマンという名前で会社を設立することを検討したほどの仲であった。この話は、結局はそれぞれの家族が経営する会社が「提携」することになったが、この関係に基づいて、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズは株の引受業務を共同で行ない、その利益を折半した。長く両社のこの関係が続いたのは、ゴールドマン・サックスが顧客を持ち、リーマン・ブラザーズが資金を持っていたためであったと言われている。 例えば、小売業の巨人シアーズ・ローバックの資金調達や株式公開にはゴールドマンとリーマンが成功に導いているが、株の大半はサム・サックスの関係でクラインウォートを通じてヨーロッパで売ったり、シアーズ社はゴールドマン社とリーマン社に役員になってほしいと依頼してきたりといった“親密”ぶりであった。なぜこれを「親密」というのかというと、シアーズ社をリチャード・シアーズとともに同額出資して設立したジュリアス・ローゼンワルドは、サム・サックスの妹エミリアの夫のいとこだからである。 シアーズの株式公開を成功裡に終えたゴールドマン社とリーマン社は、FWウルワースの株式公開引受主幹事の地位を勝ち得た。その後30年間、1936年に覚え書きを交わして正式に関係を清算するまで、ゴールドマンとリーマンは、あたかも1つの会社であるかのように、発行体56社、発行案件114の引受を共同で行なった。第二次大戦前のころには、両社の案件は公募価格が決まる前から完売されるまでになっていた。 第一次大戦がゴールドマン・サックスを二分した。ヘンリー・ゴールドマンはドイツ系ユダヤの出自だったからか?、ドイツを支持し戦争でもドイツを支援した。サム・サックスは、クラインウォートに対して、会社はイギリスを支持する立場をとると表明した。サックス家もドイツから移住してきたが、サムが忠誠を誓うのはイギリスでありフランスであった。 戦争が長引くにつれヘンリー・ゴールドマンとサックス家の関係は悪化していった。そしてついに、クラインウォートが電報で、ロンドンでブラックリストに載せられる危険があると伝えてきた。クラインウォートの目にもゴールドマン・サックスがドイツと積極的にビジネスを行なっているのは明らかだった。イングランド銀行は、クラインウォートがゴールドマン・サックスと外国為替業務を行なうことを禁じ、戦争が終了するまでゴールドマン・サックスがロンドンで業務を行なう道を絶った。 その後、ヘンリー・ゴールドマンは「世界を動かし世論となりつつある意見に、私は同調いたしません。私は会社と全社員に対する暖かい思いと、35年間の思い出を胸に辞職します」と書いた辞表を提出し、ヘンリーはパートナーたちに、謝罪と共に辞職を願い入れた。そしてパートナーたちはそのいずれをも受け入れた。 ヘンリー・ゴールドマンとサム・サックス、そしてヘンリーの妹ルイーザ・ゴールドマン・サックスとの関係は断ち切られ修復することはなかった。ヘンリーとサムの2人は、再び口をきくことはなかった。 「両家の敵対関係は次の世代にも受け継がれ、今日(1967年)でもゴールドマン家でサックス家と口をきくものはいない」(スティーヴン・バーミンガム) ゴールドマン・サックスでゴールドマン姓を名乗る者はヘンリーが最後であった。1922年、彼はドイツ共和国に推薦されて名誉市民となっている。1930年代はじめ、彼は愛するドイツに戻り永住するつもりであったが、ヒトラーが権力を持つようになるとニューヨークに戻り、ヘンリー・ゴールドマンは1936年に永眠した。 1929年の大恐慌時に権力を握っていたワディル・キャッチングスが会社に大変な損害を与えたことで追い出されると、大恐慌時に「ウォール街の諸悪の象徴」とされていたゴールドマン・サックスを甦らせたのは、中学を中退した“小卒の男”シドニー・ジェームズ・ワインバーグであった。まだ30代だったワインバーグは、その後、40年間ゴールドマン・サックスでリーダーシップを取ることになるのである。
「ワインバーグは、一流の投資銀行、ゴールドマン・サックスのシニア・パートナーである。と同時に、他に例を見ないほど多数の大手企業の社外取締役を務め、さまざまな財界人のアドバイザーであり、彼の言葉には大統領も熱心に耳を傾ける。ウォール街の外ではその名前はあまり知られていないが、彼は全米でも有数の影響力を持つ男である」(1956年のニューヨーカー誌) シドニー・ワインバーグは、酒の卸業を営む移民、ピンカス・ワインバーグの11人の子供の3番目に生まれた。1891年に生まれ、ブルックリンで育ち、公立第13小学校で教育を受け、中学を2年で中退した。これが彼の最終学歴である。 1907年、安定した職を求めて、彼はニューヨークで1番背の高いビル、25階建てのビルに行き、2階にあったゴールドマン・サックスのオフィスにやってきた。同社の総務部長は、掃除人の手助けとして週3ドルの給料で彼を雇い入れた。痰壷を洗い、パートナーのハットにブラシをかけ、パートナーのシューズの泥をふき取ることが彼の仕事になったのである。 第一次大戦のころのワインバーグは、ゴールドマン・サックスを離れて海軍に入り、料理人となってヘンリー・ゴールドマンの船に乗り込んだ。後に海軍諜報部に異動している。戦争が終わると、既にゴールドマン・サックスを離れていたヘンリー・ゴールドマンに仕事はないかと尋ね何か手伝いたいことを伝えた。するとヘンリーは、ゴールドマン・サックスに戻る方がよいとワインバーグを諭し、ワインバーグはそれに従った。 キャッチングスが去った後、ゴールドマン・サックスの資本の殆どがサックス家によるものとなっていた。サックス一族はキャッチングスの後任にワインバーグを選んだ。サックス家は、後に「20世紀最大の投資銀行家」となる人物が目の前にいることに気づいていたのであろうか。 ウォルター・サックスは、「この会社は3人の天才を輩出した。ヘンリー・ゴールドマン、ワディル・キャッチングス、そしてシドニー・ワインバーグだ。その中で、水火も辞さず、試練に耐える男はシドニー・ワインバーグただ1人だった」と述べている。 ワインバーグはフォードなど30社以上の会社の取締役を務め、彼は1年間に平均250の役員会や委員会に出席した。ワインバーグはまさに「役員の中の役員」であり、「ミスター・ウォール街」であった。彼が役員を務めた会社のすべてがゴールドマン・サックスの顧客だった、或いは後に顧客となった。 ワインバーグは1932年と36年の大統領選挙でルーズヴェルトを支持し、大統領は彼を非公式の顧問として頻繁にアドバイスを求めたと言われている(第二次大戦と朝鮮戦争の期間には、戦時生産委員会の副会長として、ルーズヴェルト、トルーマン、アイゼンハワー各大統領に仕えている)。ルーズヴェルトはワインバーグにソ連大使になってくれないかと打診したことがあったが、ロシア語を話せないことを理由に断ったらしい。 トルーマン政権下では、司法省が当時の上位17銀行を反トラスト法違反で訴えたが、ゴールドマン・サックスのシェアは1.4%で12位だった。当時の上位は、現在の最大のライバルであろうモルガン・スタンレーがトップで16%を占め、ファースト・ボストンが13%であった。ディロン・リードとクーン・ローブ商会もトップグループの一員で、注目を集める企業買収の案件のすべてに加わっていた。 1947年1月、ワインバーグはヘンリー・フォード二世と出会い、その後の関係からワインバーグはフォード家のアドバイザーとなっていた。フォード・モーターはアメリカ最大の会社ではあったが、フォード家とフォード財団が株式を支配しており非公開企業である。フォード社の株式上場に向けてワインバーグはフォード家と秘密裡に話を進めていたのである。最終的にフォードは6億5千万ドルの株式上場を行なうことに決定したが、その規模は当時史上最大の株式公開であり、ゼネラル・モーターズを顧客とするモルガン・スタンレーを除き、殆どすべての投資銀行が引受団に招かれ、その数は722社にものぼったのである。 後にパートナーとなるジョン・ホワイトヘッドは、「株式公開、私募債発行など、シドニー・ワインバーグ以外に投資銀行の仕事を取れる人間は誰もいなかったんじゃないかな。彼には世の中に知らない人がいないみたいに思えた。アメリカで1番知られた経済人だったし。投資銀行を使いたいと思えば、誰もがシドニー・ワインバーグに面会を申し入れてきた。彼はほとんど出張しなかった。なにしろ、みんな、向こうから会いにやってくるんだから」と語っている。 ゴールドマン・サックスは、ワインバーグこの男1人がもたらした無形の遺産の恩恵に、その後数十年と浴してきている。ワインバーグはまぎれもなく「ミスター・ゴールドマン・サックス」であろう。彼に匹敵するほどの同社に貢献する者は、この先も現われないだろうと伝えられている。1969年7月23日に彼が死去したとき、彼の死亡記事はニューヨーク・タイムズ紙の1面に掲載された。その横には、アームストロング、オールドリン、コリンズら飛行士が、月から生還した記事があった。 1969年、ワインバーグの後を継いでシニア・パートナーとなるのは、グスタフ・リーマン・レビー通称ガス・レビーであることは明らかだったという。ガス・レビーはワインバーグに続く稼ぎ頭だったからである。レビーをシニア・パートナーに任命すると同時に、ワインバーグは6人からなる経営委員会を設立し、年長のパートナーで固めた。彼らの仕事はレビーを監視し牽制することだった。 レビーについては簡単に。レビーは1910年にニューオリンズに生まれた。父シグムンド・レビーは木製の籠を作って生計を立て、妻べラとの間に3人の子供を持った。父が亡くなると、16歳のレビーと2人の姉妹は母に連れられパリに移った。レビーは教室よりも競馬場で過ごす時間の方が長く、アメリカに戻ってトゥレーン大学に入学しても熱心に競馬に賭け、父の生命保険金を使い果たし、わずか3ヶ月で大学を辞めたという。18歳でニューヨークに移り、1933年に週給27.5ドルでゴールドマン・サックスに雇われ、部員が1人しかいなかった外国債券部に配属された。彼は裕福な家庭の子女ジャネット・ウルフと結婚した。息子ピーターは、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっている。レビーは真珠湾攻撃の直後に陸軍航空隊の地上勤務の士官となり、中佐で退役した。1945年ゴールドマン・サックスに戻り、翌年にはパートナーに選出されている。ちなみに、レビーはユダヤ人コミュニティのリーダーである。 1976年10月、ニューヨーク州およびニュージャージー州港湾局の会議の議長を務めているときに、レビーは脳卒中に襲われて倒れ昏睡状態に陥り、2度と意識を取り戻すことはなかった。ゴールドマン・サックスは、ワインバーグに続いてガス・レビーという指導者を失った。このときレビーの右腕になっていたのは、シドニーの息子ジョン・ワインバーグであった。 レビーの後継者は2人である。「2人のジョン」と知られたジョン・ホワイトヘッドとジョン・ワインバーグである。2人ともハーバード・ビジネススクールを卒業すると同時にゴールドマン・サックスに入社したが、入社はホワイトヘッドの方が3年早い。 シドニー・ワインバーグの息子であるジョン・ワインバーグは、ホワイトへッドと学校こそ同じ出身であったが、彼は特権階級にあり育った世界はまったく違っていた。彼は生まれたときから会社とともに育ったも同然であった。ワインバーグは、まぎれもなくアメリカの金融ファミリーの首領であり、彼の父シドニーは、JPモルガン、モルガン・スタンレー、ファースト・ボストン・・いずれの銀行の会長も、さらに大統領さえも個人的な友人である。ジョンは海兵隊に所属し、第二次大戦と朝鮮戦争のときに大尉として従軍している。 ホワイトヘッドとワインバーグは、入社した最初の日から向かい合わせの机に座っていた。1976年にレビーが永眠したとき、2人のジョンは既に25年間も一緒に働いていた。2人がゴールドマン・サックスのパートナーになったのも1956年で一緒であり、2人は同じようにキャリアを積んでいった。同じ給料、同じ割合の資本比率、同じ肩書き。レビーの死後、2人の資本の持ち分が最も大きくなっていたことからも、彼らが後継者になることは明らかだった。問題は、どちらを選ぶかである。 ホワイトヘッドの方が年長であり経験が長く、証券業協会の会長を務め、最重要顧客のフォードを担当していた。ワインバーグは会社の象徴的な存在であり、彼の父シドニーはゴールドマン家とサックス家の両方と働き、同社を育ててきた人物である。 レビーの死後、レビーの遺書が読まれた。そこには、ホワイトヘッドとワインバーグが遺産の共同執行人に指名されていたという。2人は一緒に会社を経営することにした。担当分野を二分するかわりに、2人が共同シニア・パートナーとなったのである。いずれか1人が決定したことは2人の決定と考えるようにと、彼らは社内に通告した。 1984年の終わりにジョン・ホワイトヘッドは62歳で引退した。引退後、彼はレーガン政権に加わった。ホワイトヘッドが去った後、スティーブ・フリードマンとロバート・ルービンが経営に重要な役割を果たすようになっていった。2人は共に66年に入社し、85年に債券部の共同責任者、87年には共同副会長兼共同COOに選ばれた。 財務長官として知られるルービンについては少し詳しく取り上げたい。ロシア系ユダヤ移民の子として生まれたルービンは、ハーバード大学とエール大学を出たあと、2年ほど弁護士として働き、28歳でゴールドマン・サックスに入社し、5年後の1971年には早くも準経営者のパートナーというポストを得た。入社14年後には経営委員会のメンバーとなっている。79年からニューヨーク先物取引所の理事を兼務し、83年にはウォール街の“番犬”SECの顧問となっている。87年にはゴールドマン・サックスの最高執行責任者となり、一方で89年から連邦準備制度理事会の国際資本市場顧問委員となった。ゴールドマン・サックスの共同会長に就任したのはその翌年で、ついにルービンはトップに立った。“究極のトレーダー”として知られるルービンの師匠は、おそらくレビーだろう。 91年にソ連が完全崩壊すると、92年にはエリツィン大統領がロシア民営化の経済顧問にルービンを指名し、ロシアの投資ビジネスを委託した。その後、ロシアが石油・ガス企業の民営化に踏み切ったことでロシアに何が起こったかについては、私もここでさんざん書いてきたので省略するが、この時代のロシア貿易やロシア企業の民営化、そして投資という名の“泥棒ビジネス”を取り仕切ったのがルービンだったということになる。 同時期、アメリカでは、ロスチャイルド家のパメラと組んでクリントンを大統領に仕立て上げ、クリントン政権では経済担当の大統領補佐官となり、95年からはアメリカ経済を動かす財務長官に就任した。円ドル相場は1ドル80円台という超円高にされ、ルービンはウォール街の株価上昇を存分におうがし、99年に退任する。ホワイトハウスを退任したルービンは、その99年から全米最大の金融機関シティグループの共同会長に就任した。ご存知の通り、シティグループはエンロンを破綻に導いた薄外投資に重大な責任を持つ金融機関である。 ルービンはニューヨークで生まれマイアミで育った。1970年代以降、大統領選挙のつど、彼は民主党の選挙資金調達に大きな力を発揮してきた。1992年の民主党全国大会をニューヨークに誘致したのもルービンである。ルービンの妻ジュディは、元ニューヨーク市長デイビッド・ディンキンスのアドバイザーを務めている。ルービンの父は成功を収めた裕福な弁護士で、祖父はブルックリンで民主党のリーダーを務めた。 ゴールドマン・サックスのルービンのオフィスの壁には、歴代大統領の署名入りの写真が飾られていたという。
1970年代から80年代にかけては、M&A部門が会社を成功に導く原動力となった。モルガン・スタンレーが買収側に立ち、ゴールドマン・サックスが“ホワイトナイト”(白馬の騎士)を連れてくるなど防衛側に立つ戦いが次々と繰り広げられていったのである。これはモルガンとゴールドマンの“やらせ”もあるのではないかと私は想像するが、実際はどうであろうか。 企業買収防衛のビジネスがゴールドマン・サックスにとっていかに重要な意味を持ったかは、いくら強調しても強調しすぎることはないという。フリードマンが入社した66年にはM&A部門の売上は60万ドルだった。それが80年には9000万ドルに増加し、89年には3億5000万ドルとなり、97年には10億ドルを越えるビジネスになっていたからと説明されている。
ポールソンは熱心な共和党員である。ハーバードでMBAを取得したのち、70年代にはニクソン政権で働いたことがある。74年1月、彼はゴールドマン・サックスのシカゴ支店に入社した。8年後、パートナーに選ばれ、90年には投資銀行部門の共同責任者に任命され、経営委員会のメンバーにもなった。99年1月、ポールソンはゴールドマン・サックスの単独CEOとなった。 1999年5月4日、ゴールドマン・サックスの株式上場日である。前日の3日には、株式公開価格は1株あたり53ドルと決められた。4日のニューヨーク証券取引所での初値は53ドルを遥かに上回る76ドルをつけた。この日、ゴールドマン・サックスはパートナー制の終焉を迎えたのである。公開によってパートナーたちは巨万の富を手にした。公開時の株式時価総額を221人のパートナーで割ると、それは1人あたり約68億円に達したのである。トップの数人にいたっては240億円もの資産を手にしたという。1万3000人の従業員にも平均で4600万円分の株がくまなく割り当てられるという大盤振る舞いであった。 このIPOの2ヶ月後である、ルービンが財務長官の座を去ったのは。 ゴールドマン・サックスの会長ヘンリー・ポールソンの米財務長官への就任が承認された。これによってポールソンのゴールドマン会長の退任も同時に決まったことになり、ロイド・ブランクフェインがゴールドマン・サックスのCEOに就任する。ゴールドマンから財務長官に就任したのはルービンにつづいてポールソンが2人目で、現ブッシュ政権ではポールソンが3人目の財務長官となる。
ジョン・スノー財務長官が「更迭」されたのは、4月に大統領首席補佐官に就任したボルテンの影響が大きかったといわれており、ボルテンは99年までゴールドマンの執行役員だった。つまり、ポールソン財務長官の誕生にはゴールドマン出身のボルテンの意向が反映されている。また、ブッシュ政権で経済担当大統領補佐官を務めるフリードマンもゴールドマン・サックスの会長を務めた経歴がある。フリードマンはルービンと一緒にゴールドマンの共同会長を務めた人物である。 さらに、アーミテージの後任として国務副長官に就任したロバート・ゼーリックが7月に国務副長官を辞任しゴールドマン・サックスに入社することを、ライス国務長官が6月19日に発表している。アーミテージはコノコフィリップスの社外取締役に就任した(その記事)。 もうひとつ付け加えるなら、現在イタリア銀行総裁を務めるマリオ・ドラギ、彼もゴールドマン・サックス・グループの副会長を務めていた。
ガス・レビーが脳卒中で亡くなったあと、ジョン・ワインバーグとジョン・ホワイトヘッド(後のニューヨーク連銀総裁)という2人が会長となり、共同会長制が始まる。ジョン・ワインバーグはシドニー・ワインバーグの息子である。 ジョン・ワインバーグの単独政権後、スティーブン・フリードマンとロバート・ルービンが共同会長に就任。 ジョン・コーザインが政界(上院議員からニュージャージー州知事へ)に転じたため、ヘンリー・ポールソンによる単独政権が誕生した。ゴールドマン・サックスが99年にIPOを実施し、長年のパートナー制に終止符を打ったとき、ゴールドマンはポールソンによる単独政権になっていた。 ポールソンが財務長官に就任することで、ロイド・ブランクフェインがCEOに就任。ジョン・ワインバーグが副会長に。
ゴールドマンの業務の「サックス」部分は、彼の義理の息子で、両親がバヴァリア出身のドイツ系アメリカ人、サミュエル・サックスの参加により開始された。サックスは、リーマン・ブラザーズの銀行部門のフィリップ・リーマンとは旧知の仲であった。リーマン家は十九世紀にバヴァリアからアメリカへ渡っている。解かって来ただろうか? ロスチャイルドが操るゴールドマン・サックスは、自らの要求に合うように政府方針を決定づける怪物だ。その主な方法とは、子飼いの人物を政府の主要な財政担当職に指名することである。 タイム紙はゴールドマン・サックスについて、「財政能力ある人材を政府に送る唯一最大の供給者」であり、銀行救済策において以上にそれが露骨だったことはないと述べている。ゴールドマン・サックスはバラク・オバマの選挙運動に単独で民間最大の献金も行った。 ロイド・ブランクファイン(ロスチャイルド・シオニスト)が率いるゴールドマン・サックスは、自社の崩壊を防ぐために納税者から129億ドルの借用金を受け取った。そして保険業界大手AIGに対する最初の850億ドルの公的資金投入から莫大な利益を得た。AIGがもし破綻していれば、ゴールドマン・サックスに巨大な損失を生む可能性を与えていただろう。 その後AIGは、操業を続けるために何百億ドルもの公的資金を追加で注入された。長年AIGの会長を務めたモーリス・グリーンバーグ(ロスチャイルド・シオニスト)は、二〇〇五年に不正業務、証券詐欺、慣例法詐欺、その他の保険および証券法違反の申し立てに拠って辞職しているが、彼を大いに喜ばす結果となった。まさかね? グリーンバーグは、元アジア協会の会長であり、現在はその役員、そしてロックフェラー大学の名誉教授と近代美術館の名誉理事を務めている。これらの施設はすべて、ロックフェラー家によって創設された。 ロックフェラー一族と彼らの「ボス」であるロスチャイルド一族はどちらも、ゴールドマン・サックスと根本的な関わりがあり、彼らは、以前はブッシュ政権に政策を押しつけていたが、今はオバマ政権に同じことをしている。うーん、AIGはどうやってあれだけの額の緊急支援金を得ることができたのだろうか。運が良かったに違いない、と言っておこう。 この緊急支援は、子ブッシュ政権の財務長官で、二〇〇六年の入閣以前はゴールドマン・サックスの会長兼最高経営責任者を務めていた、ヘンリー’ハンク’ポールソンに拠って扇動された。ある記事によると、「かつてゴールドマン・サックスの最高経営責任者であった財務長官は、850億ドルを単に破綻寸前の大手保険会社を買うために費やし、その保険会社は、たまたま彼がかつて経営していた会社に対して多額の借金を負っていた」。なんか臭わないか? もちろん, こんなことは不正だ。ポールソンが不正だからだ。彼は不正を土台とする企業によって育てられた男で、この不正という言葉を考案したかもしれないロスチャイルドによって操作されている。 ポールソンは、元ゴールドマン・サックス副社長ニール・カシュカリを財政安定局の代表に指名したが、それは緊急財政支援金を誰が受け取るかを決めるためだ。続いて、ゴールドマン・サックスの業務執行社員ルービン・ジェフリーを暫定最高投資責任者に指名した。 財務省におけるその他の重要人物として、ダン・ジェスター、スティーブ・シャフラン、エドワード・C・フォースト、ロバート・K・スティールがいるが、全員ゴールドマン・サックスの人間だ。その核となるニューヨーク連邦準備銀行にいるゴールドマン・サックスの重役もまた、緊急財政支援の議論に関わっている。理事会の会長だったステファン・フリードマン(ロスチャイルド・シオニスト)もその中に含まれている。 ルービンの庇護下にある二名、ティモシー・ガイトナー(ロスチャイルド・シオニスト)とラリー・サマーズ(ロスチャイルド・シオニスト)は、 オバマが経済政策を決定するために指名した。ゴールドマン・サックスは二〇〇八年にサマーズのたった一日の「出勤」に対して、十三万五千ドルを支払っている。元キッシンジャー・アソシエイツの重役で、外交問題評議会の一員でもあるガイトナーは、ゴールドマン・サックスのロビイスト、マーク・パターソンを財務省の主席補佐官に指名した。 米下院金融サービス委員会長のバーニー・フランクは、財務官僚への質問と財政緊急支援政策の調査を担当した。彼の主任補佐官はマイケル・ペイスだったが、辞職してゴールドマン・サックスのロビイストになった。 ブッシュ大統領時代の主席補佐官であり、ヘンリー・ポールソンの財務長官就任について重要な役割を果たしたのは、ジョシュア・ブリュースター・ボルテン(ロスチャイルド・シオニスト)だ。彼はゴールドマン・サックスのロンドン支社にある法務兼政府業務部で常務取締役を務めた。 二〇〇八年九月、AIGが危機に直面した時に、新しく最高責任者として指名されたのが、元ゴールドマン・サックス取締役エドワード・M・リディーで、3百万ドル相当のゴールドマン・サックスの株式を保有していた。元ゴールドマン・サックス最高経営責任者で財務長官のポールソンに依頼されて、彼はその職に就いた。 マーケットウォッチ(訳注:金融関連ニュースを配信するオンラインサイト)のコラムニスト、ポール・ファレルは、「ゴールドマン・サックスは世界を支配している」と言い、ローリングストーン誌はゴールドマン・サックスを「人類の顔に張り付いた巨大な吸血イカである」と表現した。 ゴールドマン・サックスが、大恐慌以来、大きな市場バブルとその崩壊を不正に操作してきたことを、その記事は的確に非難している。これには、インターネットバブル、コモデティ(訳注:市場で売り買いされる農産物、鉱物等)バブル、住宅信用バブルも含まれる。 ローリングストーン誌の寄稿編集者で記者のマット・タイビーは、ゴールドマン・サックスが二〇〇八年の経済破綻において担った中心的役割について暴露した。彼曰く、「この大ペテンとは、非常にたくさんのゴミ屑にトリプルAの評価を与え、それを非常にたくさんの機関投資家に売りつけたことである」。 人々のささやかな収入や年金基金を利用するこれらの機関は、その後、投下資本を失うことになった。これは彼らの顧客が自分の年金基金を失うことを意味する。タイビーは、二〇〇四年に当時のゴールドマン・サックス最高経営責任者ヘンリー・ポールソンが、どうやって保有していない資金の融資を可能にする規制緩和(この言葉は適切とは言えないが)を証券取引委員会に迫ったか、次のように説明している。 「彼らは、12ドルを融資するにあたり1ドルの保有を義務付けるという規則によって制限されていると感じた。そこで、ハンク・ポールソン長官は証券取引委員会に赴き、その規則を基本的に廃止するよう求め、委員会はそれを受諾した。 議会での公聴会はなかったし、投票も、あるいはそれに類することもなかった。証券取引委員会はゴールドマンと他の四つの銀行に規則の免除を認め、好きなだけ融資が可能で、実際に資金を保有する必要は無いということにした。 この二年のうちに、この中の二つの銀行、ベア・スターンズとリーマン・ブラザーズは破綻した。これは、彼らが政府に赴き、ある規則の変更を求めたのがうまくいったからにすぎない。 これは、彼らのお馴染みの手口である。彼らはまた、もし深刻な問題に見舞われた時には、政府に呼びかけて、自らを救済するために納税者の潤沢な現金を拠出できると知っている。そして、それは何度も何度も繰り返し行われている。」 タイビーは、こんなにも多くの人々が仕返しを恐れて自分の名前が使われるのを拒否したネタを追ったことがないと言い、政府の中にゴールドマン・サックスに「背く」のを恐れている人々がいるとも語った。 ある議員は、ゴールドマン・サックスを批判する手紙を送ったら、一時間も経たないうちに、元民主党大統領候補のリチャード・ゲッパートがゴールドマン・サックスのロビイストといった態度で電話を掛けてきて、彼が手紙に書いた内容をすべて撤回するよう要請した。 「この大げさな脅迫はつまり、もしあなたがゴールドマン・サックスに逆らえば、二度と選挙資金を得ることが出来ないということだ。」タイビーはこう付け加えている。「彼らからだけでなく、おそらく民主党の他の誰からもということだ。」 オバマの支持者の中で、オバマが独立した行動をしていて、組織に操作されていないとまだ信じている人がいるだろうか? ゴールドマン・サックスこそが独裁者である。そしてゴールドマン・サックスに関してはロスチャイルドの意向を読むことだ。 この全てに関わっているもうひとつの主要な団体は、グループ・オブ・サーティ(訳注:The Group of Thirty――以下G30と表記)であり、ロンドン経済学校で「教育を受けた」(というよりも、教義を植えつけられた)ゲオフリー・ベルという男を表看板に使い、一九七八年にロックフェラー財団によって創設された。ロンドン経済学校は、イルミナティのフェビアン協会に拠って生み出された。そのフェビアン協会は、トニー・ブレアの背後にいる権力であり、ロンドン経済学校は今日でもフェビアン協会によって統制されている。 G30の議長は、元FRB(連邦準備制度理事会)議長のポール・アドルフ・ヴォルカーであり、現在は大統領経済回復諮問委員会の委員長を務めている。G30の仲間は他に、オバマ政権の財務長官ティモシー・ガイトナーと国家経済会議の委員長ラリー・サマーズがいる。 もちろんゴールドマン・サックスは、マネージング・ディレクターのジェラルド・コリガンがG30の一員として関与している。コリガンは元ニューヨーク連邦準備銀行総裁であるが、その地位にはオバマ政権入りする前のガイトナーが就いていた。 アメリカが中国から借金をして高潮に溺れるのを見ることが、アメリカ経済を崩壊させるこの公然とした計画の中核となっている。ティモシー・ガイトナーは中国語を話すが、その父親ピーター・F・ガイトナーは、米中関係全国委員会でヘンリー・キッシンジャーに仕えた。中国人民銀行総裁の周小川もG30の一員である。 偶然などではなく、ピーター・F・ガイトナーはフォード財団に務め、インドネシアにおける「マイクロファイナンス計画」の発展のためにフォード財団が資金を提供したアン・ダンハムの仕事を監督していた。アン・ダンハムは、バラク・オバマの母親である。(訳注:Micro finance programmes――貧困層の少数のグループに融資を行い、連帯責任でその返済を行うシステム。現在は、バングラディッシュにあるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁がこの計画に基づいた融資計画を実施し、ノーベル平和賞を受賞した。)
2) ゴールドマン・サックスの正体 『文藝春秋』
十一月、六本木ヒルズのシンボルである「森タワー」の四三階から四八階に、外資系投資銀行「ゴールドマン・サックス証券」の東京支店が入居した。最高層階のテナントスペースをすべて借り上げる「バンク借り」というもので、二階の受付も、六基あるエレベーターも、すべてゴールドマン・サックスの専用で、他の入居テナントであるヤフー、楽天、グッドウィルなどのベンチャー企業群より、文字通り数段上に存在している。 ゴールドマン・サックスは、三井住友銀行の千五百億円の増資や、ダイエーグループのホテル買収、そして倒産したゴルフ場を次々に買い占めて西武グループを凌駕する日本最大のゴルフ場オーナーになるなど、不況に喘ぐ日本を席巻している。オフィス移転は、「ライジングサン・プロジェクト」と名づけられたもので、拡大を続けるゴールドマン・サックスの人員を支えるためのものだ。 東大生の人気企業ランキングでは常に上位に位置し、海外勤務やMBAを取得している日本の有能な銀行員たちは、ヘッドハンターを経由してゴールドマン・サックスに続々と入社する。ゴールドマン・サックスのオフィスには、日本の富と知が集中しているようにみえる。 しかし、「勝ち組」として君臨している日本のゴールドマン・サックスは、今から十数年前のバブル期は、野村證券などが食い散らかしたオコボレを拾う「弱小外資」でしかなかった。 当時、まったく先の見えなかった外資系投資銀行に身を投じ、ウォールストリート最高の栄誉といわれる「ゴールドマン・サックスのパートナー(共同経営者)」の地位を獲得した四人の日本人金融マン、槇原純(45)、松本大(39)、山崎養世(45)、そして現社長の持田昌典(49)の半生を辿り、「ハゲタカ」の批判が渦巻くゴールドマン・サックスを問い直したい。 ゴールドマン・サックスのヴァイス・プレジデントの槇原純は、ある日本人銀行員をインタビュー(面接)した。彼は第一勧業銀行の行員でペンシルベニア大学ウォートン校にMBA(経営学修士)留学をしていた。日本の金融機関から社費で留学した現役行員が、銀行に戻らず外資に転職するのは、日本がバブルに浮かれていた中では極めて異例だった。槇原が振り返る。 「この頃、東京勤務の日本人の採用を増やしていた時期です。中身は覚えてないですが、とにかく、物凄く頑張るという感じだった。普通は、いったん第一勧銀に戻ってカタをつけて来るんですが、彼はすぐに来ると。これは大変なことで、それぐらいやる気があると思った」 この時、槇原が面接をした相手が、後にゴールドマン・サックス証券の日本代表となる三十歳の持田昌典だった。 持田は、慶応の幼稚舎から慶応大学経済学部に入学したが、学生時代は副将としてラグビー部の活動に明け暮れ、大学四年間を通じて四十日ほどしか学校に行かず、当然、英語など一言も喋れなかった。学生時代にまったく勉強をしなかった持田は、一勧に入行後、会計、財務、英語を学び、西新宿支店、日比谷支店を経て、ウォートン校に派遣された。 持田は、留学先で「初めて真剣に勉強をした」という。英語でのビジネス会話もこなせるようになり、「自分でも色んなことが出来るのではないか」という思いが芽生え始める。しかし、最終的に都市銀行という安定を捨てて、あえて外資にいった理由を、持田はこう語る。 「私の生い立ちは、お金には比較的、小さいときから恵まれて育ったんです。ただし父の会社が自主廃業に追い込まれて全部なくして、社会人としてはゼロスタートだった。ところが私の昔からの友人は、資産もある方が多くて、そういうことを考えると、やっぱり一人でゼロからやっていくためには、自分の力でリスクを取ってもやらなきゃいけない、という気持ちがあった」 もっとも、この頃のゴールドマン・サックスの東京支店は、東証の正会員ですらなく、従業員も四七人しかいなかった。さらに、持田が入社した翌年には、住友銀行がゴールドマン・サックスに五億ドルの出資を決めたことで、「邦銀が勝者だ」というイメージが支配的だった。持田にも同じ思いがあった。 「せっかく日本の商業銀行から志を持って逃げてきたのに、なんか住友銀行が追いかけてきたような気になって、まあいろんなことを考えました。私にとっては、けっこうショックでした」 さらに翌年には、ニューヨークの証券市場は「ブラック・マンデー」の大暴落に見舞われたが、東京市場はビクともしなかった。日経平均株価は三万円を突破し、「東証上場の全株式でアメリカの全ての不動産を買える」などと囃し立てる、日本の証券会社の天下が続く中、持田が入ったゴールドマン・サックスは、まったく存在感を示す事が出来なかった・・・。 「今は違いますが、その頃のモルガンは、非常に紳士的というか、貴族意識が高いところだった。夏に仕事をしていて、ジャケットを脱いでたまたま机の後ろの壁のクギにハンガーでかけたら、オフィスマネージャーに『コートはクローゼットに入れてください』と言われたんです。その頃はウォールストリートのティファニー≠ニ言われていた会社で、逆にゴールドマン・サックスは、どちらかというと、葉巻を吸いながら仕事をして、仕事が終わったら飲みにいこうかという感じでした」(槇原) 槇原は、持田がリスクをとって外資系を選んだのとは違う。彼は、ハーバード大からハーバードビジネススクールーを卒業し、八一年に二十三歳でゴールドマン・サックスに入社したエリートである。 コーポレートファイナンスを担当した牧原は、入社一年目から、投資銀行業務の最前線で働き始める。 「日本の会社と違って、どんどん責任を与えられる。入社一、二ヶ月目で、ゴールドマン・サックスのパートナーから、『おまえ一人で行け』と突然いわれて、バンク・オブ・アメリカの転換社債発行のミーティングに行かされました。一人でサンフランシスコに行って会議に出席しても、ドキュメンツを見てもまったく分からない。『変な質問するな。何か分からないことがあったら電話しろ』と言われてたので、定期的に席を外して、『こういうことを言ってますが、どうですか?』と。そういうことが結構ありましたね」(槇原) 仕事が出来なければ即刻クビになるという米国投資銀行の中で、槇原は四年目でヴァイスプレジデント、そして九二年には三十四歳で念願のパートナーに就任する。アメリカ最大の投資ファンド「KKR」による、カリフォルニアのスーパーチェーン会社のLBO(相手先資産を担保にした買収)を手掛けたことが評価された。 「もちろんお金も魅力でしたが、当時のGSは、プライベートカンパニーで、秘密クラブ的なところがあった。中身が何も分からないんです。パートナーになって秘密クラブがどうなってるのか、会社の財務諸表も見せてもらえる。パートナーシップリストがあって、みんなの持分が出てるわけでよ。毎月のミーティングで各パートナーが業績を説明すると、色んな情報が流れてくるし、非常にワクワクしました」(槇原) パートナーに就任した槇原は、日本に転勤させられる。東京には同じ年にパートナーになった持田がいた。そして、米国からの「落下傘部隊」として東京支店長に就任したロバート・カプランは、当時、約三十人だった日本の投資銀行チームの戦略を一変させる。少ない人数で日本の会社とコミットし、大きなリターンを得るには、大企業、そして海外でのビジネスを展開する企業を相手にしなければならない。 彼らは三〜四十社の「ターゲットリスト」作り上げる。リストの筆頭には「NTT」の文字があった・・・。 初出:『文藝春秋』2004年1月号(文中敬称略) 持田の入社から五年後の九〇年二月、ソロモン・ブラザーズの東京支店の若き債券トレーダー、二十六歳の松本大は、友人の紹介でゴールドマン・サックスへの転職を決意する。 松本は、東大法学部を卒業後、海外旅行で自分の意志が伝えられなかったことにショックを受け、「英語を喋れるようになりたい」という理由でソロモンに入った。ニューヨークの新入社員研修で、MBA取得者などを向こうに回し、債券数理などのテストで百二十名の中でトップを取るなど、持田とは対照的にデビューから「天才」ぶりを発揮していた。 当時のソロモンは、「キング・オブ・ウォールストリート」の名に相応しい派手な会社だった。ところが、一方のゴールドマン・サックスは、未だにパートナーシップ(共同経営)を守る、堅実だが地味な会社だった。おそらく松本が転職した時は、債券部については、メジャーリーグからマイナーリーグに降格したような感覚だったかもしれない。松本が、当時の様子を語る。 「(ゴールドマン・サックスの)債券部のレベルがあまり高くなかったので驚きました。債券数理とかデリバティブとかマーケットとか、色んなことに対する理解力がソロモンと比べると低かったように思います。ところが、当時のゴールドマン・サックスの方は、あまりそうは感じてなかったかも知れません。 松本はゴールドマン・サックスに入社した年から、デリバティブ(金融派生商品)のデスクをゼロから立ち上げた。トレーディングルームを作り、自らロータスでプログラムを組んだ。ソロモンがスキャンダルなどで力を落とす中、松本がトップ走者になったゴールドマン・サックスの債券部は莫大な収益を稼ぎ出す。松本の派手な活躍は、当然、ニューヨークからも高く評価された。九四年、松本は三十歳でゴールドマン・サックスの「史上最年少のパートナー」という栄冠を手にする。 「ウォールストリートの一般常識として、ゴールドマン・サックスのパートナーというのは特別なもので、本当のプルーブ(証明)です。私は、アメリカ人でもないので、英語もネイティブほど話せません。・・・まぁ、どこかにコンプレックスがあるわけです。そういうのがゴールドマン・サックスのパートナーに選ばれた事で、金融の世界においても、欧米の世界においても、『私はゴールドマン・サックスのパートナーです』というだけで、理解され、あとは説明しなくてもいいわけです」 この頃、ゴールドマン・サックス東京支店は、松本大によってその存在を保っていた。しかし、彼が手掛けたのは債券のディーリングやデリバティブであり、ゴールドマン・サックスの保守本流である「投資銀行業務」は、まだ大きな成果を上げることはできなかった。投資銀行業務を担当していたのは持田である。松本より二年早くパートナーに就任していた持田の名前は、日本の金融界では、まだ無名だった。 東大経済学部を卒業した山ア養世が、友人から「気でも狂ったのか?」と言われながら大和證券に入社したのは、バブルすら萌芽していない八二年である。当時の証券会社は、「株屋」のイメージが強く、よほどの理由が限り、東大出のエリートが選ぶ職場ではなかった。東大の諸井勝之助ゼミで、国際金融を学んだ山アは、「これからは直接金融の時代だ。投資銀行業務が伸びる」と確信して、高校、大学の先輩の紹介で、MBA留学と国際金融の部署に配属されることを条件に、大和に入社したという。 彼が、ゴールドマン・サックスへの転職を決意したのは、アメリカ大和證券時代に、ゴールドマン・サックスのパートナー、ジョン・コーザインと出会ったからだという。 九四年、ゴールドマン・サックスの資産運用部に入った三十五歳の山アがやったのは、「年金」の運用を奪ってくることだった。バブル崩壊後、企業年金や厚生年金は危機的な状態になっていた。山アは、大蔵省や厚生省を口説いた。 「年金基金が目減りしてるのに、日本株にしか投資できない。金利も株も海外のほうがいいのに、能力がないから出来ない。政府との交渉の中から、公的年金の自由化、投資信託の自由化をさせ、企業年金の自由化と時価評価を実現した。そこから営業活動をはじめたんです。まずシステムを変える。そして国の事業を奪る。ビジネスを取りに行くんじゃなくて、こうすべきだと提案する。生保が潰れて、年金が目減りたらどうなるかと。 我々は実績はなかったが、トヨタ、ホンダ、ソニーも客になってくれた。我々がやらなかったら、生保破綻で巨額の損が出たはずで、それを未然に防いだ。だから、何が外資系批判だと思う。 九六年、年金福祉事業団が投資顧問会社を初めて採用した際、その一社にサックスが選ばれた。 この頃から、持田に出番が訪れる。持田が率いる投資銀行部隊は、九六年には日本たばこの政府保有株の第二次売り出しのコーディネーターをつとめ、翌年にはあさひ銀行の一千億円のエクイティ・ファイナンス(株式発行による資金調達)の共同主幹事となる。大手証券の引受担当者が語る。 「印象的だったのは、日本たばこの売り出しですね。『ついにここまで来たか』と驚きました。証券会社にとって、株式の引受は、もっとも儲かるビジネスです。しかも、政府放出株や民営化については、日本の証券会社が分け合って当然だという甘さがあった。しかし、翌年には野村證券は総会屋事件で社長が逮捕されて、業務停止処分も出ていた。とても、ゴールドマン・サックスには太刀打ちできなかった」 しかし、ゴールドマン・サックスは運だけでディールを獲得したのではない。ターゲットリストの筆頭にあった「NTT」を陥落するため、ゴールドマン・サックスは周到な用意と戦略で当たった。持田は、通信専門のアナリストのエリック・ガンを筆頭に、スペイン、ドイツでテレコムの自由化を手掛けた「外人部隊」を日本に呼び寄せた。 さらに、ゴールドマン・サックス出身の米政府高官やUSTR(米通商代表部)が、外交ルートを通じて、NTTの既得権の自由化などで外圧をかけたことも、ゴールドマン・サックス流の「ビジネス」とも言える。 そして、九八年、ゴールドマン・サックスは、NTT移動通信網(NTTドコモ)の二兆一二五五億円の新規株式公開の主幹事を獲得する。 これが、日本の大手証券を震撼させた「ドモコ事件」である。そして、ゴールドマン・サックス入社から十三年目にして、史上最高額の新規公開を成し遂げた持田の名前は、世界中に知れ渡る。ゴールドマン・サックスは、「債券部の松本時代」から、「投資銀行の持田時代」へと急転換し、黄金期を迎えることになる。 初出:『文藝春秋』2004年1月号(文中敬称略)
九八年は、長銀、日債銀が相次いで破綻し、日本は未曾有の金融危機に直面していた。ゴールドマン・サックスは、長銀買収では政府側、日債銀ではソフトバンク側のアドバイザーとなった。この時、契約に盛り込まれた「瑕疵担保条項」(担保価値が目減りした場合、政府がその債権を買い取る)が、ゴールドマン・サックスによる日本政府への背信行為ではないかという批判が出始める。「勝ちすぎ」に対する批判も多い。 「ゴールドマン・サックスの社員が酔っ払って六本木交差点でベンツに嘔吐した。運転手のヤクザが怒って出てくると、女性幹部が財布をだして、『車ごと弁償するから値段を言いなさい』と怒鳴りつけた」 ゴールドマン・サックスから、古き良きパートナーシップ時代の堅実さやチームワークが少しづつ失われ、「金儲け主義」や「自分勝手」な振る舞いが目立ちはじめたという指摘は、ゴールドマン・サックスのOBからも上がっている。 「九四年に、ニューヨークやロンドンでのトレーディングの損失で、巨額の損失を出し、大恐慌以来のレイオフをしたのがきっかけでしょう。何人かのパートナーが損失の責任を逃れるためにリミテッド(有限責任)パートナーになってしまった。その後のパートナーミーティングでは、ゴールドマン・サックスの株を公開して会社を『Biggest』にするか、それともパートナーシップを守って『Best』の会社のままでいるか、延々と議論を続けていたそうです。その結果、グローバルな競争や直接投資のためには資本を充実させなければならないと決断し、九九年に株式公開に踏み切ったのです」 株式公開で揺れる中、日本のゴールドマン・サックスを支えた男の一人、松本大が退社した。松本は、ゴールドマン・サックスでオンライン証券事業を立ち上げようとしたが、賛成が得られず、自らマネックス証券を設立した。もしゴールドマン・サックスの株式公開後に退社していれば、パートナーだった松本は十億円もの金を手にしていたはずだ。退社の経緯について、松本にあらためて語ってもらった。 「まず、オンライン証券をやりたいというのが最大の理由です。万一、他に理由があるとしたら、やはり株式公開でお金を貰って辞めたとしたら、二度と金融の世界では仕事はできないと思ったことです。周りの人は『そんなの貰ってから辞めてもいいだろう』と言ってましたが、世の中はそんなに甘くないと僕は思います。パートナーシップから株式公開してお金をもらうというのは、将来パートナーになるであろう人たちの分も受け取ってしまう、ということです。今まで百三十年間、次のパートナーに渡し継がれてきたものを我々が全部現金化しちゃうということなんです。それで本当に金融界で仕事が出来るのか、というのはありました」 ここまで来ると、もはや生き方の問題である。そして、株式公開前からパートナーだった日本人で、まだゴールドマン・サックスに残っているのは持田一人だ。 しかし、持田が率いるゴールドマン・サックスの投資銀行業務も、ある意味で岐路に立たされている。日本企業が絡む国際的M&Aのファイナンシャルアドバイザリーのランキング(リーグテーブル)で、ゴールドマン・サックスは、九九、〇〇、〇一の三年連続でトップだったが、昨年四位、今年は十一位(十一月二十七日時点)に低迷している(トムソン・ファィナンシャルの調査)。 黄金期に大量に新卒を採用したため、ゴールドマン・サックスの社員は千五百人に膨れ上がり、昨年はリストラを余儀なくされた。そして、今ゴールドマン・サックスの収益を支えているのは、松本が去った債券部や不良債権ビジネスである。 持田社長は、紺のスーツに身を包み、四十九歳とは思えない、日焼けした精悍な表情で取材に応じた。持田社長が、メディアのインタビューに答えるのはこれが初めてである。 −持田社長がどのような方なのか、イメージができないのですが。 持田「ラグビー部出身なので、マーケットでは、『持田っていうのは体育会系だ』というイメージが強いわけです。だから非常にミリタリスティックに統制してるみたいに言う人がいるけど、そうじゃない。ただ勝つということについてはこだわりがありますけどね」 −「怖い人」だという評判もある。 持田「これだけ長くやってる過程では、辞めていただいた方もいるし、厳しいことを言わなければならない方もいましたからね。あまり怒鳴ったりはしません。大昔はありましたけど。けっこうシツコかったりするかも知れませんね(笑)。諦めなかったりするから」 −ゴールドマン・サックスは、なぜ日本でここまで強さを発揮できたのか。 持田「グローバルなネットワークからの情報量、質の高いアドバイスに価値を見出す時代になったのだと思います。昔は、アドバイスとか目に見えないものは評価しないし、フィー(手数料)も払わないと言われました。いまや買収案件でも、売却案件でも、ファイナンシングでも、どこに話を聞くかということになると、社長さんなり、財務部長さんなりが思い浮ぶ名前になってきたのでしょう」 −今、邦銀や他の外資系の投資銀行、野村證券などと比べてゴールドマン・サックスは圧倒的に優っているという自信はあるか。 持田「圧倒的に勝っているという自信はありません。ただ比較優位性はあるとは思います。異常なほど強い時期があって、九七年から〇〇年ぐらいは、圧倒的な優位性があった。ただ競争相手も、ゴールドマン・サックスのやり方を知ってますし、ゴールドマン・サックスにいた人が移ったりしてますしね」 −瑕疵担保問題で批判されたが。 持田「我々は政府が何らかのプット(リスク分担)を受けないと、この案件はまとまりませんとは言っていた。日本の法律の枠組みでどうやるかという、ぎりぎりの議論のなかで瑕疵担保という発想が出てきたのですが、我々の発想ではなかった。我々は、日本のファイナンシャル・システムを救うんだという気概でやったが、その後、システミック・リスクがなくなった状況で、あれが悪かったこれが悪かったというのが多い。ずっと黙ってますけど、忸怩たるものがあります」 −三井住友銀行の増資でも、ゴールドマン・サックスの得る金利が高すぎると言われた。 持田「四・五パーセントが高いとか、ゴールドマン・サックスのストラクチャーがどうだとかって、皆さん言うわけですが、日本の銀行の将来性を評価して真水のところに千五百億円入れるところが他にどこどこがあったのかと、私は個人的には思います。事後的な検証も必要ですが、残念に思うのは、そのときの状況を踏まえないので、何でも変な話になっちゃうわけですよ」 −ゴールドマン・サックスの利益と、日本の国益とが相反することがあるのか。 持田「そういうことを仰る方がいるんですけれどもね。最終的には全然反しないと思います。たとえばゴルフ場でも、大半の人はゴールドマン・サックスが経営に関与してコース状況も良くなって、サービスも向上した言うわけです。ところが、一部の方は、気に入らないという。我々は法律も犯さないし、マーケットのメカニズムも守りながらビジネスをしているのですから、そういう意味からは国益に反するとは思いません」 −日本の銀行や証券会社やが、ゴールドマン・サックスに対抗することは出来るか。 持田「可能性はあります。しかしグローバルネットワークの構築には時間がかかると思います」 −ここ二年、リーグテーブルの順位が落ちている。 持田「正直に言うと遺憾に思ってますよ。三年連続一位だった頃に戻すよう努力をしてます。こそれぞれの案件を分析すると、財務リストラみたいな案件が増えています。これは銀行系が強い。ただし、一つの物差しで競争しているわけですから、それには勝たないといけない。我々は勝つ潜在的な能力は十分に持っていると思ってます」 −すでに、一生遊べるほどの資産を持ち、なぜ働き続けるのか。社長の最終的なは目標は何なのか。 持田「仕事以外のことはよく考えたことがない。ビジョンが無いんです。『辞めろ』と言われた時に考えようかなと思ってます。今のところは辞めろとは言われてないので分かりません。会社が必要とする限りは働き続けるといのうが正直な心境ですよ。若い頃から、長く働く事が幸せだと思っていて、お金が入ればビーチで寝て遊んで暮らすということが幸せだと思う人がいても、私はそうは思ってない。七十歳でも八十歳でも、必要とされるのが幸せです。私の意見を聞いてくれるのが、バンカーとしての喜びなんです。 株式公開後のゴールドマン・サックスは、古き良きパートナーシップ時代とは違い、金儲けのために手段を選ばない会社になったと批判されることも少なくない。しかし、法律に反しない限り「あらゆる手段を講じて金儲けをする」普通の企業という見方もできる。 持田は、六本木ヒルズ四六階の十八畳ほどの社長室に陣取っている。しかし、窓から見える富士山に目を向けることはほとんどないだろう。そこは社長室とは名ばかりのガラス張りのブースで、同じフロアには灰かの投資銀行チームが同居している。持田は、社長業≠ノはおさまらず、「勝ち」を目指して今でも現場の陣頭指揮を執っている。 日本の金融機関は、外資に不当に侵食されているのではない。その無能ゆえに、当たり前のように敗北を喫しているだけなのだ。 初出:『文藝春秋』2004年1月号 (文中敬称略) 追記: 記事を執筆した2003年末当時、、多くのメディアは「外資の陰謀」「ハゲタカが日本の富を奪った」という論調で、外資系投資銀行や投資ファンドを批判していた。ことに、竹中平蔵氏が金融担当大臣に就任し、メガバンクの不良債権処理を断行したことから、「日本を外資に売り払う陰謀」といった中傷も多かった。 持田の名前は、「切れ者」「豪腕営業マン」「嫌な奴」などと伝えられていたが、「精悍な顔つきに似合わない甲高い声で、言葉を選ばずに話すお喋りな社長」という印象だった。同時に取材した山崎養世、槇原純、松本大は、こちらの質問の意図を一瞬で理解して十倍にして答えるような頭の切れがあった。 新生銀行の貸し剥がし:2006/01/23(月) 21:21:15 これはほとんどニュースにはならなかったのですが、去年の夏、この貸し剥がしが原因でかなりの人が自殺したといわれています。それはこういうことです。 新たな融資先がなければ借り手の企業側はこの求めに応じられませんから、パニックに陥って自殺した人が何人も出たのです。不思議なことにこれはほとんど表に出ませんでした。 これに対して借り手の人たちは〃何とかなりませんか〃 と弁護士に相談に行ったのですが、弁護士としても何とかなる話ではないのです。 新生銀行は、過酷な貸しはがしを行い、中小企業はもちろん、大企業の1部さえ、破たんに追い込んだ。何しろ、瑕疵担保条項があり、貸出先を破たんさせてしまった方が、その債権を国に買ってもらえるのだから、ある意味「当然」の結果ではある。
このあまりのひどさには、野中広務・元自民党幹事長は「国民の血税でできた生い立ちを忘れ、貸し渋りや貸しはがしをしている」と批判した。金融庁も01年10月、「業務改善命令」を出して「中小企業向け貸出残高の増額」を言わざるを得なかった。 上場にもおまけがある。株式上場でリップルウッドが得た約1兆円の利益には、何と非課税なのだ。 では、これだけの国民の富を投入され、もうけた新生銀行を買収するために、米リップルウッドはいくら出費したのか。買収資金は総額1210億円だが、リップルウッドが自らのふところを痛めたのは、紙くず同然の旧長銀株を買った、たった10億円である(残りは株式増資で調達)。その会社に、日本国民の血税や貸しはがしで、合計14兆円あまりが転がり込んだのである。まさに、「泥棒に追い銭」だ。 初の増益に至るまで、新生銀は融資先企業に強硬な貸し剥(は)がしを迫り、そごうやマイカル、ライフ、第一ホテルなど大企業を次々と破綻に追い込んだ。大手銀幹部は口々に「なりふりかまわず、あれだけ超ドライに、あこぎな貸し剥がしをすれば利益は出るよ」「新生銀はこれまで生殺与奪の権利をフル活用してきた」と、濡れ手でアワの再上場に怒りをみせる。 「生殺与奪の権利」と悪評紛々の「瑕疵担保条項」は、旧長銀が国から米投資会社リップルウッド・ホールディングスが中心の投資組合にたった10億円で売却された際に結ばれた特約である。旧長銀に加え、旧日債銀(現あおぞら銀)だけに与えられている。 買い取りから3年以内に債権が簿価より2割以上目減り、劣化した場合、預金保険機構がその権利を買い取る。 ハザマ、ダイエー、そごうと新生銀行が絡んだ倒産劇を見てきた。 これは一種の破綻銀行を通じたロックフェラーへの贈与なのだ。リップルウッドの出資者にはロックフェラーの名前がちゃんとある。 新生銀行やあおぞら銀行の売却には日本の政治家が動いている。潰さなくてもいい銀行を潰し、あらたな仲介ビジネスを日本の政治家達はしているのだ。 http://ime.nu/asyura2.com/0311/hasan32/msg/209.html
3) 外資系投資銀行の虚像と実像 『週刊新潮』
「後藤社長と持田社長が、直接会って交渉することはあり得ないでしょう。なぜなら、二人の間には、絶対に埋めることが出来ない『溝』があるからです」(メガバンク幹部) 外資−−。 不況にあえぐ日本経済を尻目に、外資系の投資銀行や投資ファンドが日本全土を席巻し、不動産、ゴルフ場、ホテル、そして一部上場企業をも買い漁っている。ニッポン放送株を巡るフジテレビとライブドアの争いの背後では、米系投資銀行のリーマン・ブラザーズが数百億円もの収益を上げたと言われている。 バブル崩壊後、都心の一等地に新築された巨大なオフィスビルには、決まって外資系金融機関が入居している。日本橋の東急百貨店の跡地にはメリルリンチ、恵比寿ガーデンプレイスにはモルガン・スタンレー、そして、六本木ヒルズにはゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズ・・・。こう見ると、東京中が外資に「侵略」され、紅毛碧眼の外国人が荒稼ぎをしているような錯覚を抱いてしまう。 しかし、外資系投資銀行のトップのほとんどが日本人で、当たり前のように億単位の年収を稼ぎ出している。彼らは、なぜ成功者となりえたのか。そして、その成功は、真実の「勝利」と言えるのか。「最強外資」と呼ばれるゴールドマン・サックス社長の持田昌典を中心に、彼らのビジネス人生を辿りながら、外資で戦う日本人たちの虚像と実像に迫りたい。 http://kikuchi-blogger.blogspot.com/2008/09/part1_29.html 天才_ 明神茂 ソロモン・ブラザーズの副会長にまでなった伝説のトレーダー。 対応する現物が存在しない先物取引を考え出す事自体、価格操作だけを目的とした詐欺なんだけど、
1949年 名古屋に生まれる 〜ソロモン時代〜 〜その後〜
「収益の大半をトレーディングに依存していた」と書きましたが、当時アービトラージ部門はソロモン全体の87%を稼いでいたのです。特筆すべきは、アービトラージ部門が上げた収益の実に半分以上が明神氏率いる東京支店によるものだったと言うことでしょう。 明神茂は、今から8年前の平成9年に総額3145万ドル(当時のレートで換算すると約39億円)という巨額の年収を稼ぎ出して話題になったトレーダーだ。「旭丘高等学校第20期同期会住所不明者」に掲載されている人物だと思われ、旭丘から一浪して中央大学法学部に入学したのだろう。 で、山一証券に入社した彼は、静岡支店でトップの成績を残し、1977年にはロンドン支社に栄転。 「兜町の大明神」という異名を付けられた彼は、バブルの勝ち組だったのだろう。 1993年には納税額約3億4000万円(推定所得4億4000万円)でいわゆる長者番付の92位に登場した。 ロンドンに住み、ソロモン社の副会長をやってきた1996年には年収が総額3145万ドルになり、世界に注目された。 1999年にソロモンを退社し、チューダー・インベストメントというところの日本法人「チューダー・キャピタル・ジャパン」のCEOとなった。 以降、消息を絶っているという。 「夕刊フジ」紙の調査によれば、露出を嫌って、現在は個人でヘッジファンドをやっているという。
唯一、頭角を現しつつあったのは、山一證券からソロモン・ブラザーズ・アジア証券に転じていたトレーダーの明神茂(55)だけで、M&Aや引き受けなど、いわゆる投資銀行部門(IBD)は赤字を垂れ流す「お荷物部署」だった。また、外資系金融機関で、実力バンカーと呼ぶに相応しい日本人は、平成四年にシティバンクの在日代表に就任する八城政基の登場まで待たねばならず、当時は、米国からの「天下り外人」によってトップの座を牛耳られていた。 この頃、ゴールドマン・サックスの投資銀行部門の主な仕事は、米国の不動産や企業を日本の投資家に売るため、金融機関や生保などに頭を下げて営業活動するというものだった。営業を担当していたのが、ゴールドマン・サックスの東京支店を数名で支え続けた川島健資(51)=現メリルリンチ日本証券副社長と江原伸好(53)=ユニゾン・キャピタル社長の二人。持田は、コーポレートファイナンス、日本の証券会社で言うところの「引き受け」が仕事だった。 実は、当時のゴールドマン・サックスは火種を抱えていた。 「東京のゴールドマン・サックスに『日本人の顔が必要だ』と、ニューヨークが判断して、川島、江原のいずれかをパートナー(共同経営者)にしようと動き出したのです。結果的に、日本の金融機関に顔が売れていた江原さんがパートナーになるのですが、年次≠ナは川島さんが古かった。もっとも、次回は川島さんがパートナーに就任すると思われていました」(当時を知るゴールドマン・サックス関係者) こうした微妙なパワーバランスを内在するゴールドマン・サックスに、一人の若者が出現して、「抗争」が、さらに複雑化する。ソロモン・ブラザーズで明神と働いていた二十六歳の松本大は、ゴールドマン・サックスに移籍するや、デリバティブなどを駆使した債券のトレーディングで、巨額の収益を稼ぎ始めたのだ。 「強烈な異文化≠フ流入に恐れたのは、IBDでした。これまで十年以上かけてIBDが稼いだ収益を、債券部が数年で超えてしまう勢いだった。次第に、債券部の採用人数や発言力が増していき、IBDは肩身が狭くなっていった」(前出・ゴールドマン・サックス関係者) M&Aのアドバイザリーなどでフィー(手数料)を稼ぐIBDと、自らマーケットに金を注ぎ込んでアービトラージ(利鞘稼ぎ)で儲ける債券部とは、まったく思想が異なるビジネスである。こうした「対立」は、どこの投資銀行でも共通して生じていた。 「債券部が、収益の大部分を稼いでいるのに、評価がIBDより低い」 なぜ、持田は「疑惑」の目で見られたのか。これについて、ゴールドマン・サックスのIBD出身者はこう解説する。 「持田さんが担当していたコーポレートファイナンスでは、ニューヨークとの間での情報交換やドキュメントのやりとりが不可欠だった。そのため、ニューヨークが朝になる深夜まで会社に残って電話やファックスをしなければならない。それで誤解されたのではないか・・・」 しかし、債券部の危惧は、平成四年に驚くべき形で的中する。パートナー就任が確実視されていた川島が外され、持田が入社九年目で二人目の日本人パートナーとなったのだ。持田は、伊勢丹と提携して「バーニーズニューヨーク」を招致するなど、実績をあげていた。しかし、日本国内での信用構築に十五年以上も取り組んできた川島を差し置いたパートナー就任には、IBDからも「不審」の声が挙がった。 「社内の騒然とした空気を感じ取ったIBDのヘッドのロバート・カプランが、順番にIBDの社員を回って、今回のパートナーシップ選考について意見のある人はちゃんと聞きたい≠ニ言って、一人づつ個別に話をしたほど、気を使わざるを得ない事態でした。持田さんがパートナーになり、川島さんがなれなかったことは、それほど微妙な問題だったのです」(同) 日本でのゴールドマン・サックス立ち上げの最大の功労者である川島は、その後、パートナーに選ばれることなく、メリルリンチ証券へ転職した。 持田が率いるゴールドマン・サックスが、日本の危機に尻目に儲けていた時、一人の邦銀バンカーが危機を脱しようと奔走していた。第一勧業銀行の企画部副部長、後藤高志である。いわゆる一勧の「四人組」の一人として、総会屋事件で副頭取や元会長が相次いで逮捕される中、若手改革派の一人として、経営陣の総退陣などを主張した男である。 昨年十月、六本木ヒルズ四六階に陣取る持田は、部下に「西武の堤(義明・コクド前会長)に渡りをつけろ!」と指令を出した。有価証券報告書の虚偽記載で揺れる西武鉄道に目をつけたのは、「相手の危機に乗じて儲ける」という持田の常套手段だろう。しかし、銀行管理下に入った西武鉄道のトップに座ったのは、みずほコーポレート銀行副頭取の後藤だった。 「後藤社長と持田社長との溝≠ヘ、総会屋事件の時に、持田の手法を目の当たりにしたことだけではありません。後藤社長は、東大ラグビー部出身で、一勧ラグビー部では先輩・後輩の間柄です。裏切り者≠フ持田社長と、ビジネスをするとは考えられません」(前出・メガバンク幹部)
ゴールドマン・サックスの日本人パートナー、江原伸好(53)=現ユニゾン・キャピタル社長=が会社を後にした。江原は、川島健資(51)=現メリルリンチ日本証券副社長=とともに黎明期のゴールドマン・サックスを支え、金融機関向けのカバレッジ(営業)を担当し、FIG(FINANCIAL INSTITUTION GROUP)のヘッドとして、十六年の長きにわたって「ゴールドマン・サックスの顔」を務めてきた。 日比谷高校を中退して渡米。シカゴ大学でMBAを取得後、米系の金融機関で働いてきた江原は、長身でスマートな風貌と相まって、ウォールストリートの匂いがする外資系バンカーと呼ぶに相応しい人物だった。電電公社(現NTT)の政府保証債の米国での発行など、数々の実績をあげた江原は、邦銀の企画部や国際部では「ゴールドマン・サックスで最も華のある信頼できるバンカー」と語り継がれている。 しかし、この信頼できるバンカー″]原の退社は、GSが、「古き良き」投資銀行の伝統を脱ぎ捨て、狙った獲物を絶対に逃さない「最強外資」へと、その姿を変貌させることを暗示していた・・・。 江原退任の翌年、北海道拓殖銀行、山一證券が相次いで崩壊したのを契機に、「外資」による本格的な日本買いが始まる。彼らが橋頭堡としたのは、「不良債権ビジネス」である。その先兵となったは、不良債権が金儲けになることを知悉していた外国人バンカーたちだった。 「なんだこのチンピラみたいな外人バンカーは?」 平成九年三月、東京三菱銀行が米国の穀物商社最大手のカーギルの投資子会社に不良債権の「バルク売り」をしたことを皮切りに、邦銀から吐き出される不良債権の外資による買い漁りが本格化した。 来日当時、日本人から「チンピラ外人」などと見下されていたのは、まだ三十代前半のソニー・カルシ、フレッド・シュミットの二人だった。二人は、モルガン・スタンレー(MS)の不動産投資銀行部に派遣された「外人部隊」だったが、当時の肩書きは単なるアソシエイト。つまり、投資銀行の中では下から二番目の地位である。 「MSは、ワスプ=WASP、アングロサクソン系プロテスタントの白人=が支配する貴族的な社風の会社です。カルシはインド系アメリカ人で、シュミットは日本人とのハーフ。二人とも非常に頭がキレる男でしたが、保守本流である投資銀行部門(IBD)はワスプが牛耳っていたので出世できない。彼らが大金を掴むためには、不動産ビジネスのような歴史の浅い仕事を手掛けなければならなかった」(MSの元社員) カルシ、シュミットを含め、日本人スタッフら約二十人でスタートした不動産部隊は、恵比寿ガーデンプレイスのIBDと同じフロアに同居した。ところが「貴族階級」のIBDから嫌われてしまう。 「不動産部隊はカウボーイカルチャー≠ナ、昼間から大声を出して騒いだり、他人の机から勝手にCDを出して聴いたりするような連中ばかりだった。それで、六階に追い払われてしまうのですが、そこはシェル貸し≠ニいう内装も何も無いタコ部屋同然でした。この部屋だけは、ウッドパネルで飾られ、美人秘書がいる外資系投資銀行とはかけ離れた、雑居ビルのような雰囲気でした」(前出・元MS社員) タコ部屋でビジネスをスタートしたカルシとシュミットの二人は、当然、チンピラなどではなかった。カルシは、MSの不動産投資ファンド「MSREF(メズレフ)」を通じ、大京からの不良債権の買い取りを指揮した。シュミットは、世界最大の調査機関「クロール」の元エージェントという肩書きが示す通り、英語と日本語を自在に駆使し、不動産管理会社「KGI」の社長として、「どんな相手でも口説き落とせる男」とまでいわれた交渉力で、買い取った不動産の債権者や不法占拠者を整理した。 MSの不良債権部隊の戦略は徹底していた。日本の金融機関が不良債権ビジネスを手掛けられなかったのは、処理の過程で「裏社会」の人間との接触を余儀なくされたのも一因だ。そこでMSは、「ローカルパートナー」という肩書きで、債務者の追跡調査や「闇の勢力」との交渉を請け負う会社を雇い、汚れ仕事を外注してしまう。 余談だが、当時、筆者がMSのローカルパートナーである銀座の「D社」を取材をしていたところ、現役の朝日新聞の記者を使って、「お前、何をコソコソ嗅ぎ回ってるんだ!」と脅されたことがある。カルシやシュミットは、こうした企業を懐に抱き込むのを厭わないほど、不良債権ビジネスに賭けていた。 平成九年春、ゴールドマン・サックスのマネージング・ディレクターとして来日したダニエル・H・クリーブスは、不動産買収ビジネスを手掛ける日本人スタッフのリクルートをしていた。クリーブスは、日本経済新聞をスラスラと読むほど日本語が堪能で、ゴールドマン・サックスが送り込んだ「日本買い」のヘッドとして、打って付けの男だった。 「もうすぐ長銀が潰れる。さらに生命保険会社も何社か倒産するだろう。我々は、すでに根回しをしてある。ゴールドマン・サックスは東京中の不動産を買うつもりだ!」 面接に訪れた日本人を前にして、クリーブスが流暢な日本語で豪語すると、あまりの大言壮語に相手が呆気に取られることも少なくなかった。しかし、クリーブスの言葉は、半分は真実となった。日比谷の「やまと生命ビル」を買収したのは、クリーブスの部隊で、長銀も経営破綻した。 もっとも、肝心の「東京中の不動産を買う」という夢は、カルシが率いるMSの不動産部隊に阻まれた。平成十三年に千代田生命の破綻で売り出された広尾の「恵比寿プライムスクェア」の入札でMSに敗れてからは、ゴールドマン・サックスが都心の不動産を勝ち取る例は目立たなくなってきた。一方のMSは、「ウェスティンホテル東京」を五百一億円、「品川三菱ビル」を千四百億円で買うなど、いまだに買収攻勢は衰えていない。 「MSは、買い取った商業ビルの証券化(CMBS)の総額が約四千億円になろうとしています。二位のみずほグループでもMSの三分の一以下で、ゴールドマン・サックスは十位にすら入ってない。今、銀座で豪遊できるCMBSの営業マンは、MSの人間だけだというくらいマーケットを牛耳っています」(メガバンクの不動産ファイナンス担当者) 現在、MSのカルシ、シュミットの二人はマネージング・ディレクターに出世した。米系投資銀行で保守本流に入れず、必死で実績を築くことで「チンピラ」から成り上がった二人は、多くの日本人バンカーからも賞賛されている。 「カルシは、今は成功の証としてポルシェを買い、都心の高級マンションに住み、MSのアジア・オセアニアを掌握する不動産部門のトップに就任している。日本の銀行から不良債権を買い叩いて儲けたが、誰からも恨まれないナイスガイだった」(外資系投資ファンドの日本人幹部) 一方のクリーブスは、ゴールドマン・サックスが六本木ヒルズへ入居する際、森ビルとの間で家賃の値下げ交渉を成功させたのを最後に退社した。クリーブスを知るゴールドマン・サックスの元社員はこう語る。 「クリーブスは冷徹なバンカーだった。日本語は堪能だったが、打ち解けて付き合っていた日本人は少なかったと思う・・・」 まったく同じ時期に巨大投資銀行の「外人ヘッド」として不良債権ビジネスを手掛けたカルシとクリーブスだが、その後の人生は違うものになりそうだ。 不良債権部隊が派手な買収で利鞘を稼ぎ出していた頃、持田昌典=現ゴールドマン・サックス証券社長=は、ゴールドマン・サックス東京支店長に就任していた。もっとも「支店長」とは名ばかりの肩書きで、NTTドコモの新規公開というゴールドマン・サックスの歴史に残る偉業を果たしたにも関わらず、持田の上にはマーク・シュワルツという「天下り外人」が社長として君臨していた。 持田が、さらに「白人の上」を狙うには、MSのカルシやシュミットと同様、実績を作る以外にない。IBDの実績は、「M&Aリーグテーブル」の順位によって決まる。「リーグテーブル」とは、アドバイザーとなった投資銀行や証券会社のランキングで、M&Aの取引金額の多い順に民間の調査会社が集計したものである。 「投資銀行が得るM&Aのアドバイザリーのフィー(手数料)はレーマン方式≠ノよって算出されます。例えば、取引額が三億円以下なら八%、三億円から五億円なら六%という具合に取引額に応じて成功報酬が増減する仕組みで、巨額のM&Aであればあるほど、投資銀行の懐に入る金額が増えることになります」(M&Aコンサルタント会社幹部) 持田が率いるIBDが、巨額M&Aのターゲットとして選んだのは、「銀行合併」のアドバイザーを請け負うことだった。そして、一勧、富士、興銀の三行が「みずほフィナンシャルグループ」へ経営統合する際のアドバイザーとなり、平成十一年のリーグテーブルで、ゴールドマン・サックスは「日本企業が関わるアドバイザリーランキング」の取引額ベースでトップに躍り出た。 しかし、江原を失っていたゴールドマン・サックスが、なぜ、みずほのアドバイザーに簡単に就任することが出来るのか。実は、この順位に異を唱えるM&Aのプロは多い。 「みずほの三行統合は、合併比率も1対1対1と最初から決まっており、頭取同士で基本合意書も締結されていた。そもそも、興銀と一勧の合併比率が同じはずがない。デューディリジェンス(資産査定)もやらず、それらしいオピニオン・レター(第三者の意見書)を出しただけ。みずほ側も外資がリーグテーブル争いをしているのを知っていたので、ダンピングした結果、本来、もらえるはずのフィーは支払われず、受け取った成功報酬は一千万円程度になったと聞いてます」(投資銀行幹部) リーグテーブルという名目上の℃タ績作りのため、敢えて利益を度外視してダンピングまでした成果≠セという指摘である。持田が不毛なリーグテーブル争いを演じている中、「外資」を語る上で最も重大な事件が起きた。国有化されていた長銀が、米系投資ファンドのリップルウッドに売却されたのだ。 長銀の売却では、「瑕疵担保特約問題」と新生銀行が上場した際に、キャピタルゲインに課税できないという二つの問題が指摘されている。この問題では、リップルウッドと新生銀行の八城基政社長に対して、「ハゲタカ外資に国民の税金を奪われた」と、批判の矛先が向けられた。 「当時の外資批判≠ヘあまりにも的外れです。リップルウッドは、長銀売却後の二次ロスを応分に負担するロスシェアリング≠主張したにも関わらず、なぜか金融再生委員会が、瑕疵担保≠ニいう不利な条件を提示した。責任を問われるべきは、金融再生委員会と政府、そして政府側のアドバイザーを担当したゴールドマン・サックスです」(外資系投資銀行幹部) 「瑕疵担保」という条件を考え出したのは、再生委の一人だという。これに対してゴールドマン・サックスは「その条件は不利だ」と、的確なアドハイスをしたのか。そして、「このままのスキームでは税金が取れない」と、指摘したのだろうか。 金融再生委員会の数百枚に及ぶ議事録を見ると、ゴールドマン・サックスの発言はすべて黒く塗りつぶされている。その理由は「守秘契約」だという。しかし、この当時、ゴールドマン・サックスは、巨額ディールが欲しいだけで、安価でアドバイスをしていたと言われている。黒塗りの議事録の下に隠されているのは、「止むを得ない事情」か、それとも「手抜き」の証拠だろうか−−−。 リップルウッドによる長銀買収が決まった平成十一年、ニューヨークのゴールドマン・サックスも百三十年の歴史の中で、最大の激震が走っていた。一月、CEOのジョン・コーザインが「会長」に祭り上げられ、ハンク・ポールソンが単独CEOにとなった。五月には、長年続いたパートナーシップを解消して株式を公開。これによって「古き良きゴールドマン・サックス」は、名実ともに「普通の営利企業」になった。 そして、コーザインが経営の再前線から引くことは、日本のゴールドマン・サックスにも波風を起こす結果となった。 「当時のゴールドマン・サックスの日本人の大半は、コーザインが採用したのです。債券部のヘッド時代のコーザインは、毎日のように日本に電話をしてました。来日すれば、深夜まで部下を引き連れて飲み歩くような男で、尊敬され、慕われていました。一方、コーザインに代わってCEOになったポールソンは、IBD出身で、最も親しい日本人パートナーが持田さんだったのです」(当時を知るゴールドマン・サックス元社員) ゴールドマン・サックスを退社した江原は、家族とともにカリフォルニア南部のサンディエゴで休暇をしていた。しかし、北拓、山一の倒産のニュースを聞いて帰国する。江原は、リップルウッドが日本に上陸するよりも早く、企業再生ファンドの「ユニゾン・キャピタル」を設立し、金融界へ復活を遂げる。ユニゾンは、アスキーや東ハトなど数社を買収し、日系の投資ファンドでは中核的な存在となった。しかし、あるゴールドマン・サックス元社員は、こんな危惧を口にする。 「今の日本の『乱暴すぎるマーケット』では、他の外資系ファンドと戦って勝ち残っていくには、江原さんは紳士すぎるような気がします・・・」 この言葉にある「乱暴なマーケット」を作ったのとは、江原自身が初代日本人パートナーを務めたゴールドマン・サックスに他ならない。 「かつて江原さんが、十数年かけて築いたNTTや金融機関との信頼関係も、ここ数年のゴールドマン・サックスの手法が一因で冷え込んでいると聞きます。 江原がゴールドマン・サックスのパートナーだった頃、投資銀行のバンカーは飽くまでも黒子≠ナ、主役は企業の経営者や従業員だった。顧客の投資やファイナンスを手伝っても、投資銀行が前面に出ることはなく、その必要も無かった。ところが今や、こうしたお題目は壁にかかってしまった。ライブドアのニッポン放送買収で、株式市場を混乱に陥れたリーマン・ブラザーズを『したたかな外資』と持ち上げる風潮すらある。 平成十三年、CEOのポールソンの後ろ盾を得た持田は、「ゴールドマン・サックス・ジャパン・リミテッド」の社長に就任する。そして、日本でフィービジネスが儲からないことを悟ったのか、債券部や不良債権ビジネスで成功を収めたアービトラージ(利鞘稼ぎ)ビジネスに乗り出す。 ゴールドマン・サックスが、アドバイザーとプリンシパル・インベストメント(自己勘定投資)という二つのビジネスを両輪にして走り出した時、持田昌典自身も、凄み≠キら感じられるバンカーへと変貌を遂げていく。 圧倒的な強さを見せつけ始めた「持田ゴールドマン・サックス」からは、かつてのパートナーたちが、一人ずつ消えていった。そして、十年以上も勤めたマネージング・ディレクタークラスの社員も次々と退社している。 「目が覚めている間は仕事のことだけを考えろ」 「日曜日は休日じゃない。接待ゴルフの日だ」 「勝つために必要なことをやれ。それ以外のことをやる必要は無い」 「俺の部下は俺の言う通りに動けばいい」
平成十三年九月、ゴールドマン・サックス証券の持田昌典(50)は、港区白金の聖心女子学院に近い一等地に転居した。六百平米の土地に築いた三階建て総床面積八百五十平方bの大豪邸は、「土地だけでも約五億円は下らない」と言われる。ガレージには、新車価格千四百万円のイタリアの高級スポーツカー「マセラティ・グランスポーツ」が停まっている。 持田は、父の会社が廃業に追い込まれて家を失ってから、二十年の歳月を費やし、自らの手で「上流階級」の生活を取り戻すことに成功していた。 この時点で、「持田は百億円近い資産を築いた」(ゴールドマン・サックス関係者)と言われている。ゴールドマン・サックスの株式公開で、パートナー(共同経営者)として数十億円の配分を受け取り、NTTドモコ株の新規公開などのメガディール(巨大案件)を手掛け、巨額のボーナスを得ていたはずである。すでに「金儲け」のために働く必要はなかった。実際、ゴールドマン・サックスの元パートナーの多くが会社を後にしていた。そして、「第一勧銀に廃業に追い込まれた」と言われる父親の武雄も他界していた。 もし持田が、このまま退社していれば、彼の名前は「外資系投資銀行の元バンカー」の一人として忘れ去られたかも知れない。しかし、ゴールドマン・サックスの在日代表に就いた持田は、会社を辞めなかった。その理由を、ある外資系投資銀行の幹部は、こう推測する。 「持田さんを社長に押し上げたのは、六年前の銀行合併の際のアドバイザー獲得の功績です。しかし、あの争いは、まったく不毛なゲームで、M&Aの取引額を争う『リーグテーブル』でトップに立つため、採算度外視でアドバイスを引き受けていたのです」(外資系投資銀行幹部) この争いで、二年連続でリーグテーブルの首位となった持田が率いるゴールドマン・サックスは、逆にライバルのバンカーから揶揄されていた。 「外資の足元を見て露骨なフィー(手数料)のダンピングをしたのは、みずほです。持田さんは、内心忸怩たる思いが残っているでしょうが、ダンピングを受け入れたのも事実です。口の悪いバンカーは、『ゴールドマン・サックスのリーグテーブルトップは偽りの勝利≠セ』とさえ言っているほどです」(外資系投資銀行幹部) しかも、みずほフィナンシャルグループの中には、持田と「因縁」の深い旧第一勧銀も含まれていた。このまま辞めれば、再び「邦銀に敗北した」ことになりかねない。こうして持田は、ゴールドマン・サックスを「最強外資」に育て上げ、その「独裁者」として君臨し続ける道を選んだ・・・。 しかし、持田がトップに立つと、「持田支配」を逃れるようにして、ゴールドマン・サックスを去る有力バンカーが相次いだ。KDDIの合併を担当した河野哲也はJPモルガンの社長になり、新卒から二十年近くも在籍してマネージング・ディレクター(MD)にまで上り詰めていた数名の幹部社員もゴールドマン・サックスを後にした。 中でも、M&A部門のヘッドだった服部暢達(47)の退社は、ゴールドマン・サックスの若手バンカーたちを動揺させた。 「投資銀行は『M&Aの仕掛け人』と言われますが、日本では企業のトップの話し合いで合併が決まるケースがほとんどです。既に決まったディール(合併案件)を、営業活動でアドバイザリーを獲得しているのが投資銀行の実態です。持田さんは、ゴルフや飲食の接待を欠かさず、企業トップと密接な関係を築いてディールを取ってくるタイプです。ところが服部さんは、戦略的なM&Aの提案でディールを取ることを目指していた。若手には、服部さんの姿こそ、理想的なインベストメントバンカーに見えたのです」(ゴールドマン・サックス元社員) 持田と服部の間には、こうした「バンカー哲学」の決定的な違いがあった。持田は、仕事が終わると、親友の横山健次郎が経営する焼き鳥屋に部下を連れて訪れ、酒を飲み交わすことを好んだ。しかし、こうした酒席に服部が顔を出すことは皆無に等しかった。 ゴールドマン・サックスのIBDのトップ同士が、微妙な緊張関係を保つ中で生じたのが、「NTTドコモ海外投資の巨額損失」だった。 ドコモは、平成十一年以降、海外の通信会社六社に約三兆円を投資したものの、わずか数年で二兆円もの減損処理を余儀なくされた。この投資のうち、米国のAT&Tワイヤレスと台湾のKGテレコムのアドバイザーとなったのがゴールドマン・サックスだった。 「長年、ドコモを担当していたのが服部さんでした。ところがここ数年は、持田さん自らがドコモの立川(敬二)社長=当時=に直接電話をかけてトップセールスをしていた。ドコモは、AT&Tワイヤレスに出資したものの、わずか十六%の株数だっため取締役会での拒否権を行使できなかった。結局、全米二位のシンギュラー・ワイヤレスにAT&Tワイヤレスを横取りされてしまった」(ゴールドマン・サックス元社員) ゴールドマン・サックスのファイナンシャル・アドハイスは適切だったのか。NTTドコモの中村維夫社長はこう語る。 「投資はドコモの取締役会の決議をへて実行されたもので、失敗の責任は我々にある。今はゴールドマン・サックスとの間で具体的に進めてる案件は無いです。(持田社長のバンカーとしての評価は)ノーコメントですね」 服部は、退社までの数年間、月曜日の朝八時半から行われる定例の「全体会議」に姿を見せなかった。全体会議には、ゴールドマン・サックスのIBD全員が出席し、各案件の進捗状況が報告される。そして、他社にディールを獲られると、持田から「何をやってるんだ!」と容赦の無い叱責の声が上がる。全体会議は、「持田イズム」をIBD全体に浸透させるミサ≠ナあり、軍隊の朝会のようなものだ。 ゴールドマン・サックスは「通信分野」の強さを最大の武器にしていた。服部や河野の退社は、ゴールドマン・サックスの屋台骨を支えた「通信」の時代が終焉し、持田の手によって新たな時代の模索が始まったことを物語っていた・・・。
当時、三井住友は、「融三案件」という平和相互銀行やイトマン事件に絡んだ巨額の不良債権の処理に追われていた。さらに、銀行内部には、西川の独走を抑えようとする「旧三井」系の行員が蠢動し始めていた。こうした危機を見透かしたように、ゴールドマン・サックスは千五百億円の増資の見返りに、年率四・五%の高額配当と、ゴールドマン・サックスの欧米の顧客へ最大約二千五百五十億円の信用保証を手にした。世に言う「不平等増資」である。 この一回目の増資は、平成十四年夏、ゴールドマン・サックスのIBDを中心に設置されたチーム「プロジェクト・サマータイム」が策定した。しかし、一回目の増資は、西川が、自ら弱みを曝け出した結果に過ぎない。「持田イズム」によって組織されたゴールドマン・サックスのIBDが圧倒的な強さを発揮するのは、二回目の増資である。 持田は、破格の好条件で提携を結んだ西川を信用し切っていた。横山が経営する西麻布のフランス料理店「P」で西川を接待し、「今まで、私とゴルフをしてくれる上場企業の経営者は、消費者金融のトップぐらいでしたが、西川さんは付き合ってくれる」と、喜んでいたという。 ところが、一回目の増資の払い込みが完了しない平成十五年二月初旬、ゴールドマン・サックスに、「三井住友が、JPモルガンを通じて三千億円超の増資を計画している」という情報が飛び込んできた。 「旧三井系の人間が中心になって、JPモルガンに増資計画のマンデート(業務委託)を与えていたようです。ところが、JPが機関投資家に内々で相談したため、既に増資を公表していたゴールドマン・サックスに情報が漏れた。第一報を聞いた持田さんは明らかに動揺してました。西川に諮られた≠ニ思ったんでしょう」(ゴールドマン・サックス関係者) 三千億円もの増資が実行されれば、ゴールドマン・サックスの持ち株比率は稀釈化する。持田の「クビ」が飛びかねない事態である。持田は自らヘッドになって、約十名の「ミッション・インポッシブル3」という名のプロジェクトチームを即座に立ち上げた。 そして、ゴールドマン・サックスのCEOのヘンリー・ポールソンが、衛星回線のビデオカンファレンス(テレビ会議)を通じて、「このままでは一回目の払い込みは難しい」と言って、西川を吊るし上げる一幕もあったという。 ゴールドマン・サックスは、二週間という短期間で世界中の投資家から三千五百億円を掻き集め、三井住友の二回目の増資を奪い取った。この時、みずほフィナルンシャルグループは「一兆円増資」の一部をメリルリンチ証券に依頼していた。ところが、ゴールドマン・サックスが市場を席巻したため資金が集まらず、ディールをキャンセルせざるを得なくなったのだ。 「これを聞いたみずほの首脳は、メリルの担当者に灰皿を投げつけて激怒したそうです。『竹中プラン』を受けて、みずほの行員が全国で頭を下げて一兆円を集めている最中、やっぱり駄目でした≠ナ済むほど投資銀行のビジネスは甘くないのです」(先の外資系投資銀行幹部) ゴールドマン・サックスは、JPモルガンとメリルを蹴散らし、名実ともに「最強外資」であることを証明した。この時こそ、敗北を続けていた邦銀に、ディールを通じて初めて「勝利」した瞬間だった。 「最強外資」となったゴールドマン・サックスは、六本木ヒルズに移転した。IBDのトップである持田は会社からの迎車で、債券部トップのトーマス・モンタグは自宅から150キロの巨体をスクーターに乗せて通勤している。 「モンタグは稼ぐ人間には金を使い、稼がない人間には使わせない。ある種の恐怖政治を敷いてますが、マーケットを見る能力、人を使う能力は突出している。二人とも本部の『経営委員会』に入っているので、ニューヨークへも意見を言える。日本人の持田さんがトップに立ち、本部の方針に振り回され無いこともゴールドマン・サックスの強さの一つでしょう」(前出の外資系投資銀行幹部) しかし、持田の地位が高まり、ゴールドマン・サックスが「強さ」を発揮する一方で、「信用」が二の次になる振る舞いが目立ち始める。その代表的な例が「日本テレコム」案件である。 昨年、ゴールドマン・サックスは、自らが保有する日本テレコムの株式をソフトバンクに売却する際、ソフトバンク側のアドバイザーとなった。つまり、売り手が買い手側にアドバイスするという、「利益相反」と批判されても仕方がない暴挙に公然と打って出たのだ。 「ゴールドマン・サックスは二兆円を超える投資ファンドを保有している。こうしたプリンシパル・インベストメント(自己勘定投資)は、米国のゴールドマン・サックスが始めたことですが、米国では、ファンドへの投資を通じてコンフリクト(利益相反)を起こすようなアドバイザーには就かない。下手をすれば株主から訴えられるからです。その意味で、日本のゴールドマン・サックスは病的にグリーディー(強欲)です」(同) ゴールドマン・サックスは、「顧客第一主義」と口で言いながら、実際は日本市場や一般株主を「舐めている」ように見える。 「現在のゴールドマン・サックスのIBDは、カバレッジ(営業)バンカーが十人ほどで、その下にアドバイザリーグループが八十人ほどいます。カバレッジバンカーは、コーポレートファイナンスを卒業したシニアが就任する例が多い。その結果、持田イズム≠理解したバンカーがピラミッドの頂点にいるので、仕事となると一糸乱れぬ軍隊的な強さを発揮する。ところが、持田さんの指令が最優先されるので、お客さんからは、どこを見て商売してるんだ?≠ニ思われることも多いのです」(外資系投資銀行幹部) メリルリンチの網屋信介、ドイツ証券の結城公平、元モルガン・スタンレーの吉沢正道など、外資系投資銀行には「信頼できる日本人バンカー」がいる。しかしゴールドマン・サックスは、勝負にこだり続ける強靭な持田の顔しか見えてこない。 ゴールドマン・サックスは、経営再建中の準大手ゼネコン「フジタ」へ410億円を出資した。さらに「西武鉄道」の買収へ照準を定めている。 しかし、こうした積極的な買収戦略は、まだ日本の市場で受け入れられていない。ゴールドマン・サックスが一から立て直したゴルフ場ですら、「買い漁り」と言われてしまうほどだ。それは、日本テレコムなどのディールを通じて露見した「日本市場や株主を見下した」態度が原因ではないだろうか。http://kikuchi-blogger.blogspot.com/2008/10/part6.html 日本郵政・西川善文社長の「犯罪」を糺す 「かんぽの宿」一括売却問題などで国民注目の人≠ニなった日本郵政株式会社・西川善文社長。 もともと西川は、住友銀行の頭取であった。2001年、同行はさくら銀行と合併し、三井住友銀行に衣替えし、西川が初代頭取に就任した。それを10年遡る1991年には、西川は専務として、住友銀行「戦略金融統括部・融資三部」の総指揮をとっていた。「融資三部」は、同行の不良債権を処理するセクションで、安宅産業、平和相互銀行、イトマンなど未処理の巨額不良債権がうず高く滞積していた。 この住友銀行の恥部は、西川案件≠ニして処理・封印された。その過程で、西川は指定暴力団・住吉会の企業舎弟であったフィクサー・故佐藤茂の助力を得ている。西川が住友銀行の頭取に就任した時、闇社会の住人はダーティーな西川でも頭取に就任できることに驚愕した。 こうして西川は、住友銀行の闇の部分≠知り尽くす一方で、故佐藤茂を媒介とする闇社会への利益供与者≠ナもあった。その利益供与先の一つは、5代目山口組・若頭の宅見勝(故人)に対する150億円である。 三井住友銀行の初代頭取に就任後のエポックメイキングとしては、同行の経営危機をゴールドマン・サックスによる資本注入で乗り切ったことが挙げられる。しかし、このゴールドマン・サックスからの資本注入は、違法行為≠ノよって完遂されたのだ。 その席上でゴールドマン・サックス側は、三井住友銀行は国有化しない、との言質を竹中からとり、03年1月に1500億円の資本注入が実行された。そして同年2月、ゴールドマン・サックスの仲介で3500億円の優先株が注入された。 これは、明確なインサイダー取引であり、竹中のゴールドマン・サックス及び三井住友銀行に対する一種の利益供与であった。西川は、三井住友銀行の国有化を免れた最大の功労者であると同時に、ゴールドマン・サックスに対する最大の利益供与者でもあった。 竹中は現職の金融担当大臣でありながら、外資であるゴールドマン・サックスに利益供与することは許されざる犯罪行為≠ナある。ちなみに、ゴールドマン・サックスの真のオーナーは、ロックフェラーW世である。つまり、アメリカ帝国主義を代表するロックフェラー家の日本における代弁人が竹中平蔵であり、その下手人が西川善文であった。http://outlaws.air-nifty.com/news/2009/02/post-6413.html 西川氏続投は、ゴールドマン・サックスの郵政資金収奪プロジェクトの中心にある!! 2009年6月12日 巨大な見返りを見込んだ5000億円増資 ゴールドマン・サックスと言えば世界最大級の投資銀行である。そこの最高経営責任者が、西川氏といくら長い親交があったとは言え、非人間性を常とする地獄の国際金融業界(ビジネス)において、西川氏の人柄を見込んで5000億円の増資に応じるなどという話があるはずがない。5000億円と言えば0.5兆円だ。この時期に、そのような大金をアメリカの国際金融資本が融資するはずがない。2003年の3月と言えば、3月危機と言われ、日経平均株価が8000円を割り込んだ時期であり、りそなショックが至近距離に近づいた時期でもある。 その最悪の株式市況で、世界最大の国際金融資本が何の目算もなく5000億円の投資をするはずがない。この融資には、その数十倍、数百倍の見返りを確実に見込んだ裏の計画が進行していたことは明白だ。 ではその巨大な見返りとは何だろうか。それこそが日本の郵政民営化であり、340兆円のゆうちょ・かんぽ資金の市場開放プロジェクトであった。ここで、竹中平蔵氏の存在が重要になってくる。これ以降は私の推測であるが、「竹中平蔵・三井住友銀行・ゴールドマン・サックスのトップ二者」の密談では、西川善文氏を日本郵政株式会社のトップに据え、四分社化によるゆうちょ株式会社と、かんぽ生命の株式上場までの道のりを整えて置くことが話し合われたに違いない。 ここで竹中平蔵氏の役割は、2007年の4月に四分社化を実現して、郵政民営化を無事にスタートさせることであった(実際は生田正治氏の抵抗によって10月に延びたが)。一方、西川善文・三井住友銀行頭取の役割は、分割民営化された郵政事業を統括する日本郵政のトップに収まり、「ゆうちょ銀行」と「かんぽ生命」の株式をそれぞれ半分以上、つまりゴールドマン・サックスが経営支配権を持つまで買わせる計画ではないだろうか。それまではその計画が円滑に行くように、西川氏が日本郵政の舵取りをする必要があるのだろう。 2002年夏から、2003年1月にかけて行われた、西川氏とゴールドマン・サックス二名の三者の会談、及びそれに竹名平蔵氏を加担させた四者の会談では、四分社化と株式上場までの基本計画がじっくりと話し合われたと思う。郵政三事業を、いったんバラバラにしたうえで、アメリカの垂涎の的である郵貯と簡保は、全株を市場に放出する形に持って行く必要があったわけである。
参考までに、「岸田コラム」というブログを見ると、2004年当時、小泉純一郎氏に四分社化を迫ったのは、竹中平蔵氏と経済財政諮問会議の四人の民間議員だったと言う。詳細はそのサイトをご覧になってもらいたいが、その四人は経済財政諮問会議の民間議員である、牛尾治郎(ウシオ電機会長)、奥田碩(トヨタ自動車会長)、本間正明(大阪大大学院教授)、吉川洋(東大大学院教授)である。この四人は小泉政権の終焉とともに退陣したが、この中から二人は日本郵政の役員になっている。それは牛尾治郎氏と奥田碩氏だ。 となると、牛尾氏と奥田氏は、2004年当時、竹中氏とともに四分社化を小泉元首相に強く進言しているから、西川善文氏と気脈を通じる売国プロジェクト・チームのメンバーと考えて間違いないだろう。これに取締役兼代表執行役副社長の高木祥吉氏が加わる。日本郵政の役員の中には、まだゴールドマン・サックスの走狗がいると思われるが、彼らを統括しているのが西川善文氏と考えて間違いないだろう。 ここまで説明すれば、冒頭に書いた急進的構造改革派が、どうして西川氏の続投に熾烈に固執するのか、その理由がわかったと思う。ゴールドマン・サックスから直接、郵政資金の収奪計画をもたらされた西川氏が抜けると、この売国チームは上手く機能しなくなる可能性があるからだ。中心人物の降板は、郵政民営化の裏の計画遂行が狂わされることになりかねない。 西川氏更迭は、国際金融資本による郵政資金の収奪計画が挫折する危険を孕んでいる。ここから導き出される結論は、彼らが真に恐れることは、郵政改革の後退などではなく、ずばり「四分社形態の見直し」と「株式の相互持ち合い復活」なのである。これをやられたら収奪計画が挫折してしまうのだ。だからこそ、売国プロジェクトチームは、麻生首相の四分社化見直し発言に強く反応したのだ。http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu193.htm
ただし、お昼休み前後には、日経平均がプラスに転じていたことを踏まえますと、後場から取引時間終了にかけての一段安は、一部のネット証券(マネックス証券=ゴールドマン・サックス元社員)がライブドア株式等の代用有価証券の掛目の引き下げを発表した(信用取引の保証金代用有価証券として評価されなくなった)ことから需給悪化懸念が一気に広がったことの方が、本日の株価急落の直接的な要因と言えるかもしれません。 17日午前は、紛れもなくライブドアショックであったが、株価を大きく下げたのは寄り付かないライブドア関連株と新興銘柄にほぼ限られており、資金はむしろ東証などに流れ始め主力銘柄は値を上げていた。 ところが午後の取引に入って、ライブドアや新興とは関係のない優良株までが突然値を崩し始める。 その引き金を引いたとみられるのが、マネックス・ビーンズ証券。 メールを受けたのはマネックス証券の一部の顧客とされているが、取引時間内にいきなりあちこちで、ライブドアとは関係ない銘柄まで売られ始めるのを目の当たりにしてパニック、狼狽売りにより、売りが売りを招いて全体の暴落につながった様です。 今回のマネックス証券の暴挙は米国ゴールドマン・サックス証券がライブドア社強制捜査前日に大量に日経先物のプット(売り建て)を仕込んでいたことが大きく関連しています。 これは日々開示される手口情報で誰でも見る事が出来ます。 マネックス証券の松本大氏はゴールドマン・サックス証券出身であり、米国からゴールドマン・サックス関連ヘッジファンドのトレーダーが何故か来日していた事も明らかになっています。 そして強制捜査の翌日、東証は大幅安で寄り付いた物の日経平均はゴールドマン・サックス証券の意に反して続伸して、前場を終えました。 それから30分後、マネックス証券からLD関連株の代用掛目ゼロ発表。 もう、分かりますよね? もちろん投資は自己責任ですから、LDの強制捜査に寄って破産に追い込まれるLDホルダーを擁護しているのではありません。 しかし、マネックス証券はもちろんの事、日本を代表するトヨタとか松下とかそういう企業の株のホルダーまで一気に地獄の底まで突き落とすような相場操縦事件に当局の捜査やマスコミの言及が及ばないのは非常に納得行きません。 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=FN&action=m&board=1008698&tid=8698&sid=1008698&mid=83548 ホリエモンは無罪:ゴールドマン・サックスとマネックス証券の「暴落」仕掛け
ライブドアショックを受けて17、18日の日経平均株価は1000円以上値下がりする場面もあった。個人投資家からは「あの野郎!」と堀江社長を恨む声が聞かれるが、実は株価の激下がりは、堀江社長の逮捕にかこつけたヤラセの可能性が高いことが本紙の調べで明らかになった。 ライブドアの家宅捜索の影響で日経平均株価は17日に485円安。18日は735円安まで売り込まれる場面があった。この原因はライブドアの強制捜査によって、個人投資家の狼狽売りが多発したためといわれている。しかし、証券関係者からは、原因はホリエモンではないという重大な証言が飛び出している。 「ライブドアの強制捜査が終わった17日午前、日経平均株価は200円安した後持ち直して、一時前日より70円近く上がっていたんです。しかし午後になって再度急落した。ヒューザーの小嶋社長の証人喚問で安倍官房長官の名前が出てきたからといわれていますが、ホントはこの時を待っていた人物によるカラ売りが原因と噂されているんです」 その売りを仕掛けたのが、外資系証券会社のゴールドマン・サックスと、ネット専業のマネックス証券、さらにヘッジファンド界の超大物ジョン・メリーウェザー氏のグループだと関係者は口を揃える。マネックス証券の松本社長はかつてソロモンブラザーズ証券に勤務していたことがあり、ソロモンブラザーズの副会長だったジョン氏とは今も深い仲だ。また、松本社長はゴールドマン・サックスにいたこともあり、現在も密接な関係にある。ゴールドマン・サックスは政府関係の情報収集能力がダントツといわれており、事前にライブドアへの強制調査をキャッチし、松本氏やジョン氏とともに売りを仕掛けたというストーリーなのだ。 「日経平均が突如暴落したのはマネックス証券がライブドア株を担保にして、株を購入している投資家に対し、『ライブドア株の担保能力をゼロにする』と発表したのがきっかけ。この瞬間に、ヘッジファンドや外資系証券が、猛烈に売ったことが確認されており、日経平均はその時点から1000円以上も下げた。このグループが儲けた額は100億円以上にもなるといわれています」(同) ゴールドマン・サックスが情報をつかみ、マネックスが下げのきっかけを作り、ジョン氏の巨額な資金を使って売りを仕掛ける。アメリカ在住のジョン氏がなぜ17日に特別に来日していたのかも、噂に拍車をかけている。 (以下略) 暴落前日の1月16日に、ゴールドマン・サックスがアッと驚くような膨大なプット・ポジション(記憶では7000枚前後のプット)を取っていたことは、私もこのサイトで目撃している。 ゴールドマン・サックスは、かつてはジョージ・ソロスとも手を組んだ、アメリカ最大級の投資集団である。クリントン政権下では、ゴールドマン・サックスの共同会長(ロバート・ルービン)が米政府の財務長官を務めている。 そしてソロモンブラザーズは「売り仕掛け」がお得意の会社で、1990年からの株式バブル崩壊で先物とオプションを駆使して、推定1兆円の利益を上げた会社である。(参考:1990年の株式バブル崩壊のメカニズム(2005/10/14)) ロスチャイルド系内部の買収再編が続いたため、ソロモンブラザーズ・アジア証券は、日興ソロモン・スミス・バーニーを経て、現在は日興シティグループ証券になっている。 松本大は、ソロモンブラザーズとゴールドマンの両方の経歴があり、特にゴールドマンでは「ゼネラル・パートナー(共同経営者)」となっており、単なる転職組や起業家ではない。「秘密結社」の幹部になった以上、一生涯「あちらの世界」から足を洗うことは不可能だろう。
8 ゴールドマン・サックスが社員を洗脳して詐欺師に変える方法
毎日睡眠時間3時間で、高給と解雇を両方セットにしてチラつかせながら、狭いフロアに朝から夜中まで閉じ込めて休日無しで働かせるのがゴールドマン・サックス流 洗脳法のポイント 自分の頭で考える余裕を与えたら洗脳から覚めてしまうからね:
同社は、日本の若者をヘッドハンテイングして、「情報」と高等数学を駆使して、株の売買その他で高収益を上げている。 それも、東大、京大、東工大、早稲田、慶応、上智、ICU(国際基督教大学)の飛び切り優秀な理系の学生を採用している。正直、私は、その採用実績を読みながら、かつてのオウム真理教を思い出した。 近頃の東大生は就職先に官庁を選ばない。民間企業が人気である。しかも、「外資系企業」であり、金融関係である。最高峰に君臨するのがゴールドマン・サックス証券。 外資の魅力の第一は給与水準が日本企業とは桁違いであること。外資の試験に落ちた東大生が滑り止めのように霞ヶ関を狙うという構図がここ数年、定着し、天下の財務省が就職先としては“もはや二流扱い”されているわけだ。 (東大生就職)説明会の感触では、来年はさらに状況が悪化する模様です。その原因は、渡辺喜美行革担当大臣でしょうね。彼が今年の春、新人材バンク設置という天下り規制を提案したため、近い将来の天下り全廃が学生に印象付けられてしまった。これまで、学生に、“うちは天下り分の退職金を含めれば、生涯賃金は8億円”と豪語していたが、その決め台詞がさすがに使えなくなったのです なんとまあ、「天下りが諸悪の根源だから、それを禁止しようとすると、優秀な頭脳は逃げて行ってしまう」というのである。
亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日 保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。 「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する) その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。
今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。 自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」
私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るゴールドマン・サックスと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか? 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。 あの人の人生を知ろう〜チェ・ゲバラ 戦後わが国は経済だけを優先し、政治国家であることをやめ、また自分の国を自分で防衛するという考え方を捨ててしまった。アメリカに依存し、経済的利益だけを追求してきた。それでも戦後30年間は、経済人にも高い理想があった。経済人の中に政治家的発想、学者的発想が残っていた。したがって、経済人は単なる経済人ではなく、政治家的誇りと学者的理想を持って行動していた。 しかし、戦後30年を経た頃から、経済人から政治家的誇り、学者的理想が失われ、経済的利益だけを追求するようになった。価値判断基準は経済的利益だけという状況になった。 この経済的利益最優先主義は、政治家と学者の精神をも支配した。政治家の変化は著しかった。1980年代以後、私が政治家に何か言うと、時に、「それは私にとって損ですか、得ですか」と聞かれるようになり、はじめ私は衝撃を受けた。 その頃からアメリカもイギリスも自由競争主義、新自由主義の方向に変わり、その影響が全世界に広がった。「自分さえよければ主義」、ミーイズムが大多数の人々の精神を侵した。 こうして、経済人だけではなく、学者も政治家も自分にとって「損か得か」を基準にして物事を考えるようになった。法の精神、政治本来の理想が薄れ、道義の退廃をもたらした。自民党だけでなく、いくつかの政党にも「損か得か」の発想が強まった。自分を犠牲にして社会のために尽くすといった誇りを持った政治家たちは急激に減っていった。 軽蔑される日本 最近オランダの福祉政策の評価が高い。あちらの大企業には世界で稼いだカネをみんなの幸せのためにと惜しげもなく差し出す姿勢がある。それに比べ日本の経営者は自分の損になることは一切やらないという哲学を基に“自分さえ良ければそれで良いという主義がなぜ悪い?”と開き直る。 http://www.asyura2.com/09/senkyo60/msg/536.html かつて、松下幸之助(1894〜1989)が、家電界の雄として日本のために尽くした。彼について次のようなエピソードが残っている。 彼が社長時代、ある時、社員がたいへんいいアイデアを思いついた。 すると、松下は、こう訊ねたという。 まず「それは、消費者のためになるか?」と。 すると、その社員は答えた。「ハイ」と。 次に、松下は聞いた。「それは、社員(=従業員)のためになるか?」と。 社員は答えた。「勿論です」と。 そして最後に、松下は尋ねた。「それは、儲かりまっか?」と。 社員は自信をもって答えた。「ハイ!」と。 すると、松下は言った。「そんなら、やってみなはれ」と。
2) 詐欺師の生活
朝は7時半に出社。通勤電車の中で日本経済新聞や金融専門紙に目を通しておきます。デスクにつくと、まずはeメールやボイスメール、ブルームバーグなどの情報端末で、海外の株式市場や債券市場、M&Aなどのマーケット情報を確認。 8時からは債券部の会議があり、債券セールスやトレーダーと共に、日米金利、為替、債券発行市場などの最新情報を15分程度で手短に共有、その後9時から始まる株式市場の前場の前に、前夜に作成したプレゼンテーション資料を確認しておきます。 前場が始まると、担当するお客様の株価を確認したり、各セクターの株価の動向などをチェック。 午後は個別企業を訪問。その顧客企業から不動産投資信託(REIT)に関する最新情報をまとめるよう要請されたので、帰社すると早速調査に着手。ブルームバーグなどの情報端末や自社データベース、あるいは外部データソースから情報提供を受けて資料をまとめます。 夕方には、担当している資金調達プロジェクトについて、アドバイザリー業務グループと合同会議。 会議後は資料作成などに着手し、退社は夜12時前後。10時だと「今日はかなり早く帰れた」という感じ。 ___________
この正社員は某大学の政治経済学部を卒業し2005年に入社したH氏。自社サイトの『ゴールドマン・サックスの人々』に次のように1日の流れを書いている。 「朝は7時半に出社。通勤電車の中で日本経済新聞や金融専門紙に目を通しておきます。デスクにつくと、まずはeメールや(中略)。会議後は資料作成などに着手し、退社は夜12時前後。10時だと今日はかなり早く帰れたという感じ」(引用掲載) つまり、このH氏は約17時間の勤務をしていることになる。コラムのタイトルが『My Day』となっていることから、たまにある忙しい1日を書いたものではなく、普段ある1日を書いているのだろう。「10時だと今日はかなり早く帰れたという感じ」とも書いており、平日は、ほぼ毎日のように朝7時出社、夜12時退社という生活を送っているようだ。 インターネット上では、このH氏のコラムを読んだ人たちがゴールドマン・サックスに対して厳しい声を寄せている。インターネット掲示板には、「ゴールドとはつくが、ブラック企業」や「なんというブラック。世界屈指の好待遇企業がブラックな件」、「工学系院からゴールドマン・サックスに入社した先輩がいたけど、大丈夫なんだろうか…」という声があがっている。 嘘か本当か不明だが、「ゴールドマンの面接いったら最初の2年間は毎日睡眠時間2時間で休みは1日もないけど平気? って言われたな。でも弁護士より給料いいよとも言われた」という書き込みもあった。 ブラック企業とは思わないという意見もあり、「働いた分だけ、金という見える形で確実に返ってくる分やる気も出るわな。ブラックのサービス残業地獄とは違う」や、「ブラックっていうと表面上では普通の企業を装い、実態は激務で薄給みたいな企業でしょ。そう考えるとここは給料も高いし、経験を積むために激務であることを承知で入社する人が多そうだからブラックというと少し違うよね」という意見もある。 1日17時間の労働時間だが、それなりの高額な給料をもらえる(と思われる)ゴールドマン・サックス。はたしてブラックなのかゴールドなのか? 730 + 2:名刺は切らしておりまして[] 10/03/07(日) 14:14:01 ID:IbYt6v07(1) 東京早慶で優が9割ないと入れない
28:名刺は切らしておりまして[] 10/02/27(土) 10:02:51 ID:+MPJPxJO(1) 働いてる社員の給料はもちろんゴールドです
73:名刺は切らしておりまして[sage] 10/02/27(土) 10:34:23 ID:SZmg277A(1)
長い目で見ると、あんまりお薦めできない職業だと思うよ。。
脱法ギリギリのところで仕事してるから、なるべく人員は少なく、給料は高い方がいいんだろ。 銀行強盗とか考えてみろ。 ま、実際やってることは銀行強盗みたいなもんだしな。 158:名刺は切らしておりまして[] 10/02/27(土) 13:02:21 ID:DDAJ/BFN(1) ここじゃないけど、同じような所に勤めてる。本当に大変だよ。
176 + 1:名刺は切らしておりまして[] 10/02/27(土) 13:39:50 ID:WiB4k0lv(1)
体を壊すことを忘れてはいけない。
人種や性別を問わず、本当に能力のある人間ってのは、 もともと、一生勤めようと思ってGS行くやつなんかいないしなあ。 ちなみに離職率も高く、体壊して転職するやつも多いよ。
262 + 1:名刺は切らしておりまして[] 10/02/27(土) 19:05:07 ID:JvVEvHSf(1)
「何人殺さなくてはならないのか?」 と考えれば、真っ当な日本人なら人生の選択からはずれるだろうね。 309:名刺は切らしておりまして[sage] 10/02/27(土) 21:33:48 ID:Zl850cO3(1) 312:名刺は切らしておりまして[] 10/02/27(土) 21:38:51 ID:zUPXiJ3Y(1)
この会社のやってることは金融工学と称した詐欺的手法で
投資によって金を生み出す金融詐欺商品を次々数学の力で彼らは開発していった 全ての始まりはみな彼らのせい、世界中が巻き沿いをくらった 上の方は年収数十億、平でも年収5000万〜1億はくだらない、外資金融は別格 413 + 1:名刺は切らしておりまして[sage] 10/02/28(日) 09:19:51 ID:fCBLdQP/(1) 414:名刺は切らしておりまして[] 10/02/28(日) 09:34:15 ID:RnN3Hvrq(1) おれの友人がゴールドマン・サックスに就職したが平均睡眠時間は
だからいいポジションにすっと収まった人は長く勤めてるけど、それ以外
ところが今の経済構造ではそれができない、一時的に極わずかな報酬が彼らにいくだけ そのことがよくわかっていて、金にくらんだMITなどの超優秀な理系人間がどれほど、GSやリーマンに流れたことか そして優秀な彼らが作り出した今までなかったギャンブル証券商品によって、世界が狂ったのはつい最近のこと 金には全てを狂わせる力があるわけだw
741 + 1:名刺は切らしておりまして[sage] 10/03/08(月) 00:16:12 ID:eH8tvLgY(1)
829:名刺は切らしておりまして[] 10/03/15(月) 20:37:47 ID:ouTS5+jw(2)
年収なんてのは400万くらいあれば、それで幸せなんだよ。
3) 平均睡眠時間3, 4時間でできる頭脳労働は詐欺だけ
日が暮れて暗くなると松果体からメラトニンというホルモンがでて,睡眠をとる準備がはじまります。正常な睡眠はいつでもとれるものではなく,睡眠をとるためには長時間寝てもお腹が空かないように体温を下げて代謝を減らしたり,睡眠中にトイレに行かないで済むように尿を減らしたり,脈を遅くし,血圧を下げて心臓を休めたり成長ホルモンで体の成長を促したり体の修復を行ったりできるようにするなどの体の準備が必要です.これら睡眠のための準備は,全てが体内時計によって連動して実行されますので,体内時計を無視しては正常な睡眠をとれません. 人間の体内時計は、外界とは完全に遮断された洞窟の実験で,25時間周期であることがわかりました。一日に必ず1時間遅れる時計なので,毎日1時間進めてリセットし直さなければなりません。このリセットする刺激には光刺激、闇刺激などの自然界からの刺激や出社時間や登校時間などの社会的規範に基づく刺激がありますが,このうちで最も効果的なのは光刺激です. 外国に旅行すると,この体内時計が狂ってしまいます.1時間以内の狂いならばリセットも簡単ですが,3時間以上の狂いを直すには心拍では3日,体温では4日,排尿では2日もかかります。朝,起きられなくて会社や学校に行けない方,交替勤務で就眠時間が不規則な方,あなたの睡眠時間を決めるのは会社でも学校でもなく,あなたの体内時計なのです。体内時計を上手に調節して快適な睡眠をとり もし全く睡眠をとらなければ 「4当5落」なんていって仕事や勉強のために睡眠時間を減らすことは,もう美徳ではありません. 睡眠時間を減らせば思考能力は低下するばかりでなく,体調も崩します. 全く睡眠を奪ってしまったら,人間は13日から21日で死亡します.ちょっと恐い話ですが,昔ヨーロッパで行われた断眠実験では,実験の初期には過食となって多少体重が増加し,そのうち食事をとっても体重はどんどん減少して,最後に体温が下がります.この体温低下が死に至る徴候で,死因は主に免疫力低下に伴う感染症だったとの事です. 世の中に,交渉事のとりまとめを引き受ける専門家がいるそうですが,彼らの常套手段は徹夜交渉に持ち込む事だそうです.完全な徹夜にならないまでも,交渉相手を決して眠らせない事が秘訣だそうです.自分は僅かな時間でも睡眠をとって交渉に望み,もうろうとした相手と有利に戦うのです. 米国の大統領は交渉国に何日もかかけてゆっくり到着します.それに較べどこかの国の大臣は,行って帰ってのとんぼ返りです.どちらが交渉上手か,自明の理ですよね. アインシュタインの睡眠時間は1日10時間だった。 あのエジソンでも実際には毎日4〜5時間は寝ていた。
発明戦争―エジソンvs.ベル 木村 哲人 (著)
・エジソンの有名な言葉、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」云々は実際には違うらしい。 訴訟相手を脅すために、暴力団みたいなものまで作っている そしてその「99%」は研究所員や科学者の貢献が大きいことも事実である。 発明家というよりは、発明ディレクター(又は発明企業家)と呼んだ方が良いかもしれない。つまりは、本人が一人で「発明」したというより、「エジソン研究所」が「開発」したものが多いということでしょう。 また、既に他人が発明したものを改良し、実用に仕立て上げる能力には凄まじいものがあります。 その割には、蓄音機は全く役立たずと思ったり、「映画は普及しない、映画でドラマを作るのに何の意味があるのか」 などと言ったように映画に先見性がなかったり、交流より直流の方が送電に優れていると言い張って、ニコラ・テスラの意見を無視して敗れたり・・・と破天荒な部分が目立つおっさんでもあります。 とにかく自己中心的で、ライバルは何としてでも引きずり降ろさなければ気が済まない性格だったらしいのです。 ・「京都の竹」を使った炭素電球の話は伝記に必ず登場する逸話だが、どうもウサン臭いようである。 _______________________ 9. 顔色一つ変えず他人を騙すプロに成長するゴールドマン・サックス社員 ゴールドマン・サックスが新入社員の平均睡眠時間を2,3時間にさせる目的はもう明らかですね: 洗脳して人間性を完全に失わせないと、プロの詐欺師や戦士にはなれない 旧日本軍の一般兵士は軍紀などまとまって教えられず、初年兵が軍隊に入って最初に叩き込まれたのは、 「死んでも捕虜になるな」 「天皇陛下からいただいた三八歩兵銃は死んでも離すな」 の三つだったと言われます (ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気というのか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。 軍隊では畳と兵隊は叩けば叩くほどよくなるという信仰があり、ビンタは終わることがなかった。 軍隊で一番軍隊らしいのが分隊です。十人の中に分隊長がおり、その下に古兵(こへい)と称する上等兵がいます。これは普通カミサマといわれ、初年兵をなぐるだけで靴下はもちろんフンドシまで洗濯させる者もいます。 二等兵
「はァじゃねえよ きさまだよ」 「はァとはなんだ!」 「ばっかやろぅ〜!」 ラバウル戦記にはラバウルにいたころ初年兵同士で「敵よりもこの古兵にやられてしまう」と話し合ったことや、「初年兵はすべてノイローゼ気味だった」ことが書かれています。 【追記】 海軍が兵隊をバッターで殴るのであれば、陸軍は革製のスリッパで殴るというのは概ね事実のようです。 顔にあまり跡が残らないが、非常に苦痛を与えたようです。 また、「精神的な屈辱と肉体的な苦痛を同時に与える私的制裁」として様々なものが考案されていたのも上記の本に書かれています。水が一杯に入ったバケツを両手に持って各内務班を回って班長に「ビンタをして頂き」、少しでも水をこぼすとまた殴られる・・・と言った類のものです。
そのような苦しい生活に耐えかねて自殺する新兵が絶えず、各連隊には必ず「新兵の幽霊が出る場所」が存在したそうです。 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。 上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。 男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。 そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。 ・・・ 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。 そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。 こうして洗脳され人間性を喪失して初めて顔色一つ変えず他人を騙す(殺す) プロの詐欺師(戦士)に成長する事が可能となるです: 洗脳の成果は直ちに現れる 小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。 小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。 …強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。 銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」 取り調べと裁判の段階で明らかになったことがあるんですね。それは、彼の戦争体験のことだったんです。 「連続強姦殺人魔」と言われた人の犯罪を重ねる下地が「戦時強姦」で培われていた、っていうことです。そのことが日本が戦争で負けた後に一気に吹き出してきた事件なんですね。 南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、股裂きをやったのは。 ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。 それを部隊みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう 田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺はセットで日本軍は容認していたということだ。 川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。 中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければならないと思いそれに加わった。 Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。 その中には「股裂き事件」という話もあった。 ある旧軍人が1944年の河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。 Kさんが駐在していた山西省旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。 860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg 死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。 ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』
おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。 南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。 また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。 そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。 また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。 家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。 日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。 あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。 子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。 子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。 日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。 (生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。 (切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。 街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。 (火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。 また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。 これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。 日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。 ”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。 人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです) 乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。 日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。 このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。 2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。 お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。 日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。 下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。 これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。 YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。 日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。 日本兵の婦女暴行・強姦の実態 1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)
彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」 「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」 「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。 「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。 「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。 更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
ところで、洗脳の仕組みは、生物の基本的な機能「ホメオスタシス」に深く関わっている。ホメオスタシス・・・生物学では「恒常性維持機能」とよばれ、生物が生きていく上で必要な身体活動を、無意識の内に調整する機能である。例えば、心臓の鼓動、発汗、呼吸、まばたき・・・・こうしたものは、ふだん意識に上らないが、私たちの生命を維持する活動として自動的に行われている。 通常、このホメオスタシスが反応するのは「物理的環境」である。例えばヒトは気温が上がれば自動的に汗を出して体を冷やし、気温が下がれば身震いなどにより熱を作り出す。この場合、外気温という環境条件をフィードバックしながら、体温を一定に保つ仕組みになっているわけである。 ところが、人間はその進化の過程で異常なまでの脳の発達を遂げた結果、情報をフィードバックする対象や物理条件だけではなく、本人の内部表現にまでいたってしまった。これが「洗脳」という現象が起こる基本的なメカニズムである。 例えば、映画を見たとしよう。私達はそれが現実でない、画面の世界の「作り話」であることを知っていながら、主人公と「一体化」してしまう。主人公が危険に遭う場面では手に汗を握り、感動の場面では涙が流れる。こうしたホメオスタシス的な肉体反応が、「映画」というバーチャルな世界、すなわち映画からの視覚情報と、それを認識しているわれわれの「内部表現」に呼応することで起こってしまう。 もちろん映像だけではない。人は音楽に感動して涙を流すこともあれば、小説に没頭して胸をドキドキさせることもある。いずれも音や字がもたらす自分自身の世界=認識の「内部表現」によってでも、物理的な反応が体に起きてしまうのだ。 そして、こうした「物理世界からのフィードバックよりも架空世界からのフィードバックの反応の方が大きい意識の状態」を「変性意識状態」と呼ぶ。洗脳というのは、こうした「変性意識状態」を作り出し、相手の「内部表現」の世界に、「洗脳者の内部表現」を強制する行為である。 洗脳者が他人の「内部表現」を支配することはすなわち、その人の思考や行動、感情などを思うがままに支配することである。常識ではとても考えられない価値観、例えば「ポアさせるのは本人のため」「敵中で自爆すればすばらしい天国が待っている」などといった「洗脳」が実際に有効なのはこのためである。
「変性意識状態」は、精神医学の分野では「乖離状態」と呼ばれている。 これは、意識が現実世界から離れているような感覚の状態である。例えば映画や読書などに熱中している時によくあるが、自分の視点が後ろにあって、自身から分離したような感覚は誰にでも経験があることだろう。これがさらに強い「変性意識状態」になると、目の前のものが見えていながら本人には見えていなかったり、違うものに見えていたりする。 例えば、ふつうのオジサンである教祖が信者には神に見えたり、汚いプレハブ小屋のサティアンが清浄な神殿に見えたりしているのである。そしてさらにこの「変性意識状態」の極度に強いものが「トランス」と呼ばれ、宗教儀式などで見られる場合がある。洗脳には、こうした意識状態の生成が不可欠である。 「変性意識状態」への誘導−生成にはいろいろな方法があるというが、代表的なものは「呼吸法」によるワークである。解説によると、呼吸は「人間のホメオスタシスにとって不可欠な活動であるにもかかわらず、意識的にコントロールできる数少ない活動のひとつ」であり、呼吸のコントロールは比較的容易に変性意識を生成させる。 筆者もワークに参加してみた。用意された椅子に楽な姿勢で座ると、会場は窓にカーテンがひかれ、お香が焚かれる。会場の後部では、この日のために招かれた音楽家がコンピューターを駆使し、その場で瞑想音楽を作ってBGMとして流してゆく。 解説によると、五感のチャンネルを遮断してゆくことで、変性意識状態の早い生成を助けるのだという。目を閉じ(視覚の遮断)、お香の香りをかぎ(嗅覚の遮断)、瞑想音楽に耳を任せる(聴覚の遮断)と、なんとなく「アヤシイ雰囲気」になってきた。 助手の方の指導のままに「逆腹式呼吸」と呼ばれる呼吸法にチャレンジする。息を吸う時にお腹をへこませ、吐いた時にお腹を膨らませる、という動作を繰り返すと、確かにだんだん全身の感覚が敏感になっていき、周囲の状態から意識が切り離されるような感じになっていく。続けていくつかの呼吸法を行い、その意識の状態をさらに強化すると、次は「気功」のワークである。
こうして参加者全員が「変性意識状態」の生成を次第に習得していくうちに、ワークは次へ進んだ。何と「かめはめ波」をやるというのだ。「かめはめ波」とは「ドラゴンボール」という有名な漫画で主人公が使う技で、一言でいうと「気のカタマリを相手にぶつける」技である。解説によると「気が物理的な実体を伴ってそのような現象を起こすかどうかはともかく、変性意識状態で<気で相手が動く>という状態を引き出してあげれば、気で人を動かすことは出来る」とのこと。参加者の多くが首をひねりながらも、他の参加者とペアを組んで試してみることになった。 まず最初に、呼吸法などにより自分が深い「変性意識状態」に入る。入ったら、相手とまばたきと呼吸を合わせてホメオスタシスの一部を同調させ、相手も「変性意識状態」に入れるようにする。そして「かめはめ波で相手が飛ぶ」というイメージを自分の「内部表現」にしっかり作り上げて、それを相手の「内部表現」に転写するようイメージする。そうしてから、相手を押し出すような「かめはめ波」の動作をゆっくり行うと、実際には相手に触らずとも、確かに相手が少し「動く」ようになった。 「最初は少し大げさな動作をやって、相手の<内部表現>に<動く>ことを意識的に書き込んでください。自分の動作で相手が少しでも動いたら、次からその関係を少しずつ強化していけば、もっと動くようになりますよ」と苫米地氏は参加者の間を回りながら指導をしていく。 苫米地氏曰く、よくテレビや雑誌で見る「気功で人が吹っ飛ぶ」というのは、その人の「内部表現の操作」つまり「洗脳技術のひとつ」なのだそうだ。 実際、セミナーのワークでは「吹っ飛ぶ」までの参加者はいなかったものの、多くの人がワークを重ねるうちに動くようになってしまった。中にはよろよろと2−3歩あとずさりしてしまう参加者もいたのには驚かされた。
他にもいくつかのワークがあったが、興味深いもののひとつに「退行催眠」の実習があった。「退行催眠」とは、被験者の過去の記憶を現在に再現する方法である。主に精神科や心療内科などで心理的外傷の治療に採用されている方法であり、過去に起こった出来事を現在の観点から捉えなおすことによって、患者のトラウマの治療−回復などに成果を上げている。 通常、こうした施術は医師やセラピスト、研究者などの専門家によってなされるものであるが、このセミナーではやり方を教わり、自分で自分に施術していく実習が行われた。半信半疑ながら、筆者もこの「退行催眠実技」を実際にやってみたら、本当に「過去への退行」を体験することが出来てしまった。 筆者はまず、呼吸法により変性意識状態を生成した後、椅子の背もたれを調整し、リラックスして全身の力を抜いて座った。筆者の場合は時間を遡るのに「逆走する時計」のイメージを利用した。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のイメージである。時計がクルクルと針を逆転させていくうちに、どんどん時間が逆向きに流れていく、というイメージを強く意識し、変性意識状態の自分に身を任せ、そうして移動先の年をひとまず10年前、1993年に定めてみた。すると、霧が晴れるように次第にはっきりした映像が脳裏に浮かび上がってきたのである。 遡った日にちは定かではなかったが、長袖のシャツを腕まくりしており、春-初夏頃だと思われた。場所は知人の家の前で、当時乗っていたボロボロの自転車とともに「タイムトリップ」して到着したのだが、2003年現在の記憶が残っているのが不思議であった。つまり「退行催眠でここに来た」ということをはっきりと自覚したまま1993年に行ってしまった訳である。 この時の状態を例えて言うと、非常に鮮明な「夢」や「映画」を見ているような感じであった。でも、現在(2003年)の記憶があるために「おおーっ。ほんとにもどっちゃった。すごいな、こりゃ」などと筆者は妙に冷静にその不思議な現象を味わっていた。 とりあえず、筆者は当時住んでいたアパートの方に向けて自転車をこぎ始めた。記憶をたどりながら、しばらくまっすぐ走って左に曲がり、急坂をブレーキをかけながら降りて行く。随所に懐かしい景色が現われ、自転車のスピード感、サドルのクッションの感じ、ブレーキがきしむ音など、細部にいたるまで「昔」が再現されることに驚いた。 途中、橋を渡り、渡ったところを右に曲がり、また左に曲がって進んでいったら電車の踏切があり、その手前にいつも寄っていくおいしい洋食屋があって・・・と今では覚えてもいなかったような記憶が細部に至るまで臨場感を伴って現れ続ける。 アパートに着き、自転車をいつもの場所に止めてから玄関に入り、急な階段を上がり、カギを開けて2Fの部屋に入る。ここで驚いたのは、当時の部屋の様子がやはり全部現れた(正確には記憶の中からよみがえったのだが)ことであった。ラジカセが吊り棚の上にあったり、古い型の留守番電話が壁にかかっていたり、冷蔵庫やテレビ、たんすの位置などを、正確に映像が再現されたのである。そして本棚の前では2003年の最近、探していた本を見つけ、思わず「あー! ここにあったー!」と「夢」の中で声を上げてしまった。それも、表紙の日焼け具合や、ホコリのたまり具合などを本当にリアルに見ることができたのである。 この間、何分くらいたったのか覚えていないが、この「退行催眠状態」に大分慣れてきて、水道で顔を洗ってみたり、ガスレンジの火をつけてみたり、冷蔵庫を開けてみたり(ひんやりした感触も体験できた)、畳の上に寝転がってみたり、と、全く当時のままに再現された「10年前の自分の部屋」を筆者は懐かしい思い一杯で楽しんだ。1993年当時の部屋で、これが「退行催眠状態だと分かっている2003年の自分」が、やるのである。しばらく部屋で「アー、懐かしいな、これ」とか「おー、そういえばこんなの、ここに置いてた、置いてた!」などと色々な体験をし「今ではすっかり忘れているようなこと」が次々と映像に出てきたことには驚きを禁じえなかった。「普段忘れている」こうしたことが出てくるからこそ、却って「リアル感」があり、不思議な気分だった。しばらく楽しんだ後、部屋を出て、最寄のJR駅までの道すがら、また周囲の風景を楽しみながら歩き、駅に着いたところでワークの時間が終了した。 「現実の世界」に戻ってきた時、筆者は全身が汗でびっしょりになっていた。周囲を見渡してみると、多くの人が同様の体験をしていた。もちろん全員が初回でこのような退行体験に成功したわけではなかったようだが、それでも数回の練習でほぼ全員がこのような体験をするにいたったという。
これまで、こうしたセミナーにありがちなのは「脱・洗脳」と称し、その実、新たな「洗脳」を施すだけ、というシロモノであった。つまり洗脳者が「これまでの洗脳」を解く代わりに自分に都合のよい「新たな洗脳」を強力な技術で被害者の意識に刷り込む、という手法である。 過去に多くの宗教やセミナーなどがそのようなことを行い、社会問題を起こしてきた。が、今回特筆すべきは、これらの技術がすべて「自分自身で行われたこと」であった。つまり講師の苫米地博士が施術するのではなく、参加者がやり方を教わって、自分自身で自分に洗脳技術を施す、というセミナーだったことである。苫米地博士によると「教えたいのは自己解放の技術であって、何らかの価値観ではありません。ですから私が施術するということは一切ありません」ということだ。 通常、このような技術は、長年にわたり特殊な修行や訓練を積んだ人だけが持っているもの、と筆者は考えていた。ところが、たった数時間の練習でシロウトの筆者自身が行えるようになったことに驚きを禁じえなかった。もちろん筆者は以前に精神医療や心理療法やセラピーを受けたこともなければ、それらの予備知識もまったくない状態でセミナーに参加していた。 これについて苫米地博士はこう語る。「こういうことは専門家の観点からすると別に珍しいことでもなんでもなく、ちょっと訓練すれば誰にでもできる技術なんです。科学的に体系付けられた練習メソッドがあれば、<洗脳技術>を身につけることはカンタンです。」。 「よい悪いは別として、現代では、多くのビジネス、企業、カルト宗教などが、すでに多かれ少なかれこうした洗脳技術を使っています。オウム事件のような危機は亡くなったわけではないんです。 21世紀は間違いなく、そうしたものを意図的にプログラムとしてビジネスや研修に取り入れていくような時代になるでしょう。 洗脳技術自体は単なる技術であり、それが悪いというわけではありません。問題は、その技術をその人がどう使うかだと思います。 例えば、空手を習えば確かにその技で人を傷つけることができます。だからと言ってすべての空手道場を閉鎖せよ、というのは間違っています。洗脳技術も同じです。 ただ、一部のカルトや悪徳商法の人たちは知っていて、普通の人は知らない。この知識のギャップこそが問題だと私は思うんです。 カルト宗教、思想団体などによる「洗脳」は、多くの現代人にとって自分とは無縁のもの、と漠然とイメージされている。しかし現代ではそうした一部の狂信的団体にとどまらず、健康食品・器具、自然保護、ビジネスセミナー、成功哲学、小口の金融、ギャンブル・・・・といった、一見誰にでも受け入れられる事柄すら、洗脳を巧みに利用した商法が消費者を狙っている。 気づいたら何十万円もする高価な布団や浄水器を買わされたとか、不要な高額商品を購入させられていたなど・・・その意味ですでに洗脳技術は「特殊なビジネス」だけが使っているテクニックではなく、あなたのすぐそばにある技術なのだ。http://www.tomabechi.com/jikosenno/experience.html CIA洗脳実験室 父は人体実験の犠牲になった オウム真理教は、洗脳技術の核心をここから得ていた…!?20年間アメリカ政府が隠し続けたCIA機密プロジェクト“MKウルトラ”。国家の犯罪をめぐる、衝撃のノンフィクション。 国家機関による人体実験の犠牲になった父のために、政府とCIAを相手に闘いを起こした精神科医。20年間アメリカ政府が隠し続けた機密プロジェクトをめぐり、国家犯罪と人間の正義・倫理を鋭く問うノンフィクション。
「洗脳」この言葉が世間に広く知られるようになったのはオウム事件後ではなかっただろうか。しかしそれ以前に組織的な洗脳実験が行われており、それと同様の手法でオウムは信者に洗脳を行っていたのだ。
作者: ハービー・M.ワインスタイン, Harvey M. Weinstein, 「洗脳」は、Brain washの直訳で、朝鮮戦争で中国の捕虜となったアメリカ兵が、共産思想を植え付けられて帰ってきたことから、一般的になったのだけど、この実験を 国家レベルで民間人を実験台にしていたという内容が本書だ。 洗脳というとわかりやういけど、ここで行われていることは、大学の心理学概説には必ず出てくる実験の応用なのだ。いわゆるパターンおよびデ・パターンについての実験。被験者をベッドに横にして、目、耳、指先、など知覚できる器官を覆い放置すると、パターン認識が崩壊して、人の言うことを受け入れやすくなるという実験。この実験を考案した学者は、数日であまりの効果におそろしくなってやめたが、それを何年も断続的に続けた科学者がいた。 カナダの認知心理学の権威である彼は、軽いうつの患者を無理矢理、被検者にして感覚遮断=洗脳の実験をした。その結果、何人もの人間が廃人となり、家族が崩壊した。作者もその一人である。彼は父の崩壊する様子をなすすべも無く、治るようにとマッド・サイエンティストのもとへ父を通わせていたのだ。 この不条理な状況がカナダ精神医学界の重鎮がおこない、アメリカの情報機関CIAが資金援助していた事実。しかも、効果はあげられずプロジェクトは終了し、科学者も裁かれることなくこの世を去った。 まあ、話を敷衍すると、この感覚遮断=洗脳の方法っていまや、自己開発セミナーとか、宗教儀式に緩用されているんだよね。 「あたらしい自分を見つけた!」なぞほざく前に、こういう歴史をよく見といたほうがいい。脳を洗う恐ろしさを。
この本は、父親が精神科医のキャメロンの治療を受けてボロボロ状態になった苦闘の歴史と、やがて著者であり、息子であるハービー・ワインスタインが精神科医になり、ある日、情報公開法に基づき、機密文書を入手したライターの記事を目にして、父親が人体実験されたことを知り、立ち上がる。 しかし、相手はカナダ政府であり、アメリカのCIAであるために、筆舌に尽くしがたい苦労と妨害、裁判や弁護費用などの困窮と戦いながら、最後に和解し、不十分ではあるが補償金を得るまでの記録です。 ○私(藤森)の深層心理の研究に、良くも悪くも参考になる部分や私の考えが裏付けられた部分が多かったために、人体実験の強烈な部分を多く掲載しました。少々衝撃的なために、気分が悪くなったら、途中で止める準備をしながらお読みください。
・・・・本書に登場するユーイン・キャメロンという精神科医の異常な医療行為は、我々日本人にとって、決して絵空事の出来事ではない。宗教の皮を被ったテロ組織、オウム真理教(現・アレフ)の内部でも同様の行為がなされていたからだ。 それが行なわれた理由として、オウム真理教付属医院の医師であった林郁夫は、自著「オウムと私」(文芸春秋刊)の中で、信者の記憶を消す方法を考えろという麻原教祖の命令から、「拷問と医者」(ゴードン・トーマス著、朝日新聞社刊)というユーイン・キャメロンにつて記した本を参考に、信者に電気ショックを与えたと記している。
いずれにせよ、オウム真理教における洗脳テクニックは、たんに麻原が信者をコントロールする方法として利用していただけでなく、麻原自身がLSDによって人格崩壊したことを考え合わせても、オウム真理教の○○○○が一つの洗脳実験室であったような、オウム真理教全体が、キャメロンの運営していたカナダの病院であり、信者一人一人が実験台にされた患者であったような印象も受ける。それほどキャメロンの実験と、オウム真理教の洗脳テクニックは、類似点が多い。 ・・・・・これもまた、キャメロンの「デパターニング(パターン崩し)」という、チオペンタールと電気ショック(ECT)を組み合わせたテクニックと酷似している。この方法も当時、思考や行動パターンを変更させるために被験者の記憶がなくなるまで、あるいは、反抗心が完全に除去されるまで、繰り返し行なわれていた。 キャメロンはこういったテクニックのほかに、「感覚遮断」についても実験を重ねていた。 人は何もない真っ暗な部屋に長時間拘束されていると、聴覚、視覚、触覚、味覚、知覚を遮断され、変性意識状態に陥り洗脳されやすくなる。 また、オウム真理教信者がよく被っているPSI(Perfect Salvation Initiation)と呼ばれる電極付きヘッドギアも、「根絶治療」と呼ばれるテクニックの変形であると考えられる。その治療は、イタリアの精神科医ルシオ・ビニによって開発された。彼は、食肉処理される豚が頭部に電気ショックを与えられ従順になる様子を見て、それを患者に実験し、同様の効果があることを発見した。 キャメロンは様々な洗脳手法の情報を収集し、患者を試験台にしてそれらを一つの体系にまとめあげた。それをそのまま日本人に対して実験したのが、オウム真理教の医師たちであった。被験者は三千人以上、、おそらくキャメロンをはるかに凌ぐ数字であろう。 アメリカでは、究極の洗脳薬とされるLSDを使ってバッドトリップさせ、地獄を見せると、どんなに意志の強い人間でも子供のようになってしまうことが知られている。オウム真理教は、明らかにその情報をどこからか仕入れ、応用したのではないか。・・・・ 私(訳者)が気になるのは、オウム真理教の内部で精神医学や薬物を使った最先端の非倫理的な洗脳が行なわれていたという事実が、いつのまにか社会のなかで、忘れ去られてしまっていることである。 それは間違いである。どんなカルトよりも、もっと具体的で危険な洗脳が行なわれていたという事実を、読者の皆さんには再認識していただきたい。また、それをきちんとした形で記録に残しておく必要がある。 さらに危惧すべき点は、オウム真理教の狂気的な洗脳テクニックが、過去カナダの病院でキャメロンが行なった洗脳実験に似ている事実に、ほとんど誰も気づいていないことである。これは歴史的事実として、多くの日本人に知ってほしい事柄である。
・・・・・アメリカの最初の核兵器開発計画であるマンハッタン・プロジェクトは、ナチの脅威に応えるかたちで始まった。キャメロンが精神操作に興味をもったのも同じ理由からだ。 医師は、政治力と結びついた破壊的図式にとくにはまりやすい。ナチの医師はその極端な例だが、ほかにも例はある。 死亡証明書を偽造し、公然と行なわれている残虐行為を隠蔽するのに手を貸した南アフリカの一部の白人医師。 アムネスティ・インターナショナルによって最近報告された、チリで拷問を行なっている医師、 南米ガイアナの人民寺院に協力して毒(シアン化合物を粉末の清涼飲料水に混ぜたもの)を用意し、自殺他殺合わせて九百五十名もの人々を死に至らしめた理想主義者の若い医師・・・・・。 医師は、生と死に神秘的な力をおよぼすというある種のシャーマニズム的な遺産を受け継いでいて、それは政治に熱中する人々にそくざに提供され、利用される。
人間の行動を変える方法を探るという、アメリカ中央情報局(CIA)の<MKウルトラ>と名づけられたプロジェクトには、1957年から61年にかけ、カナダのモントリオールにあるマッギル大学付属アラン記念研究所のユーイン・キャメロン博士によって実施されたサブプロジェクトも含まれていた。 <MKウルトラ>計画は、1940年代にCIAの前身によって始められた仕事のいわば副産物で、尋問を迅速に行なえるようにする薬物、いわゆる自白薬の開発を含んでいた。それがのちに、人々の思考や行動の仕方を変えるという試み、いわゆる洗脳へと発展していったのだ。 モントリオールで実施されたプロジェクトでは、さまざまな理由で入院した精神科の患者に対し、試薬の処方、強力なショック療法、感覚遮断、数週間にわたる強制睡眠、そしてテープレコーダーに録音された声を何時間も聞かせるといった一連の行動改革処置がほどこされた。 しかし、これらの処置は患者に新しい人生をもたらすどころか、それまでの人生を破壊したにすぎなかった。なかにはこれらの処置によって人格が一変してしまい、親しい人たちにはまったく別人としか思えなくなってしまった人々もいた。 私(著者)の父もそのひとりだった。
ショック療法は、ページ=ラッセル療法もしくは集中的電気ショック療法と言われる強力なものも含め、私の生活と切り離せないものになった。時がたつにつれ、ほかの言葉も耳にするようになった。患者を何週間も眠らせたりする睡眠療法。患者が考えたり、話したり、人間らしい振舞いをいっさいできないようにするデパターニング(非パターン化)。 そしてサイキック・ドライビング(精神操縦)と呼ばれるもの。これは、患者はテープに録音された<ドライビング・メッセージ>もしくは<ドライビング・ステートメント>と呼ばれるもの、すなわち患者の考え方や生き方を変えるためのメッセージを何週間かぶっつづけに聞かされるものだ。
ECTは、1938年にイタリアのU・ツエルレッティとL・ビニによって考案された。ECTは、少ない副作用でインシュリン昏睡療法をより効果的なものにするための試みだ。具体的には、七十から百三十ボルトの電圧で0.1秒から0.5秒、脳に通電する。 こうした身体的治療法の多くは、今では野蛮に思えるが、1930年代、40年代には抗精神病薬がまだ登場していなかったことを忘れてはならない。 ・・・・・精神科医はそうした人々をなんとか助けようと、よい治療法があると聞けばそれを試そうとした。今世紀前半においては、身体的治療法は最高の治療法だったのだ。 1956年、キャメロンは「サイキック・ドライビング(精神操縦)」と題する論文のなかで、1953年以来開発していた技術について初めて報告している。・・・・・ ひとつは自己サイキック・ドライビングで、患者は自分の声を聞く。もうひとつは他者サイキック・ドライビングで、患者が示唆した感情的内容に基づき、他人が録音したものを聞く。・・・・・・ またキャメロンは、患者の心的防衛を弱め、メッセージを聞かせるようにするには、患者を脱抑止する必要があるとしている。具体的には、アミタール、刺激薬(アンフェタミン)を投与して患者を長時間眠らせたうえで、一日十時間から十二時間のドライビングを十日間から十五日間行なう。 なにより驚くべきことには、その間、患者は心理的に孤立させられる。暗い部屋におかれ、ゴーグルをはめられ、よけいな音が聞こえないようにされ、身体への刺激をいっさい奪われる。 その後、キャメロンはドライビングの技術を改良した。まず、ヘッドフォンを使うようになった。こうすると患者は自分の頭のなかから声が聞こえてくるような錯覚を覚える。・・・・・・・ さらにひどいのは、こうしたきわめて侵略的な方法は重症でない患者にも用いられたことだ。以前は最後の手段だった治療が、キャメロンのもとで、またたくまに現場の最前線で行なわれるようになったのだ。 ・・・だが、このころキャメロンは、マッギル大学の心理学科から生まれたある方法を応用した。
ほとんどの学生が二、三日しかもたず、最高でも六日だった。 実験は二十三名の男子学生に対して行なわれ、結果は驚くべきものだった。最初は退屈していたのが、しだいに落ち着きや集中力がなくなり、問題解決能力が損なわれ、幻視や身体意識障害が起こるようになった。自分の体から離脱しているような感じ、つまり<離人症>が表れた。 その後の研究で、この状態におかれた学生は、ふだんならばかにして聞かないようなこと、たとえばオカルトに関することに耳を貸そうとすることがわかった。 感覚遮断に関するさらなる研究は、おもにアメリカ合衆国でつづけられた。アメリカで関心が高かった理由は、宇宙飛行がパイロットに与える影響が懸念されていたこと、人工呼吸器が取りつけられ刺激に乏しい患者の問題や、尋問において感覚遮断をどのように利用できるかが議論されていたことなどがある。 アメリカ空軍の宇宙飛行会議のために用意された1960年5月付けの論文のなかで、キャメロンは、隔離に関する初期の研究が、アラン記念研究所の彼のグループによってどのように応用されたかについて述べている。 それによれば、三種類の実験が行なわれた。 ひとつは目、耳、手による外部の刺激を減らす実験。 二つ目は、感覚受容器(外界からのメッセージを受け取る神経単位の末端器官)から脳へ刺激が伝わるのを阻止することで、感覚の入力を減らす実験。 三つ目は、患者が刺激に反応しなくなるよう、患者の意識の程度をさげる実験だ。 第二の実験は、体内での刺激の伝達を抑えることに焦点をおいている。この研究では、試薬のセルニールが使われた。結果は、無感情、不安、身体像障害、非現実感、離人症、思考障害、組織崩壊、幻覚、妄想症、緊張病などだ。
<ある種の宗教や政治体制に見られるような、瞑想、自己批判、評価の形態との相似が表われはじめている> このコメントは、中国共産党が1949年に大陸を支配して以来、国民の意識・行動変革に利用していた方法のことを言っているとしか思えない。 また、朝鮮戦争の最中に、アメリカ人捕虜が無理やり嘘の自白をさせられたときに使われた技術のことを言ってもいるのだろう。とにかく偶然の一致とは思えない。 ・「9.需要と供給」 ・・・・・本来機能すべき対処装置が機能しなくなるほど不安にさせられた捕虜は、人格の分裂から逃れたいと思うあまり、尋問者を友人、救済者として見るようになる。捕虜を独房へ監禁し、眠らせず、情報を与えず、そのうえ巧みな尋問を行なうと、ほとんどの場合、望みどおりの結果が得られる。この方法は当初ソ連で開発され、中国ではさらに手が加えられて集団の圧力という要素が加わる。 ある仲間集団(ピアグループ・・・年令・地位などが等しく、同じ価値観をもつ集団)の物の見方に順応させるというのは、中国共産党が本土掌握以来行なってきた国民思想改造計画の一環をなすものだ。この技術はアメリカの捕虜に対してきわめて効果的であったことがのちに判明する。
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