★阿修羅♪ > 近代史02 > 351.html ★阿修羅♪ |
|
あの名画の舞台となった銀山温泉は今… http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/351.html
(回答先: あの伝説の名湯は今_ 幻の秘湯 戦慄の二股ラヂウム温泉 投稿者 中川隆 日時 2010 年 4 月 30 日 17:49:54)
出演: 高峰秀子, 加山雄三 監督: 成瀬巳喜男
Hideko Takamine
「幸司さん、降りましょう。次の駅で」
「幸司さん、あたしだって女よ。幸司さんに好きだって言われたときは、正直に言えば、とっても嬉しかったわ」
幸司は部屋のガラス窓から、灯りの点在する、情趣に富む夜の温泉街の風景を見ていた。炬燵(こたつ)の中で紙を縒(よ)っていた礼子は、幸司に呼びかけた。 「ちょっと、手を出してごらんなさい。右手・・・」 「右手?何?」 「出してごらんなさい。覚えてる?昔、幸司さんよくこうやって、私の指に捲きつけたのよ。取っちゃいけない、取っちゃいけないって言って。これは明日の朝まで、取っちゃだめよ。幸司さんは明日の朝一番のバスで、お母さんのところに帰るのよ」
「あなたの眠っている顔を見ていたら、とっても可哀想になったの・・・」
「違うわ。さっき言ったじゃない。女ですもの、私だって・・・あの日からまるで私は人が変わったわ。あなたの姿が見えないと、あなたを探すようになったわ。そのくせ、あなたが傍にいると不安で、不安で狂いそうだったわ。自分で自分が分らなくなったの」 「義姉さん、僕はもう帰らないよ。店も捨てた。母さんも捨てて来たんだ」 「何を言うの?あなた若いのよ。あなたには大きな未来があるのよ」 「僕はそれも要らない。義姉さんと一緒に居られるんだったら・・・」 「駄目よ!駄目。あなたは清水に帰るのよ!」 「義姉さん・・・」 「幸司さん・・・」
「堪忍して・・・堪忍してちょうだい・・・」 男は自分の上着を取って、愉悦が待っていたはずの部屋を足早に去って、そのまま温泉宿の外に出てしまった。 男は場末の飲み屋で、老婦を相手に手酌で酒を飲んでいた。
「東京じゃないけどね。お婆さん、東京に行ったことがあるかい?」 「おらぁ、60年、この村からどっこも出たことねぇっす。山の木立(こだち)みたいなもんだ」 「昔、銀が取れたんだってね。だから銀山て言うんだって?」 「おらの生まれるめぇのことだ。あんた、いくつになるね?」 「25。お婆さん、子供は?」 「あんたの年に死んだ。フィリピンの先の、ミッドウェイっとかって所でな」」
「どこ行ったの?どこにいるの?」 「バーだ。女の子がたくさんいるバー。こんな山の中にも、けっこう洒落たバーがあるんだね」 「お酒飲んでるのね、そこで」 「僕は今晩、ここの女の子とどっか別の旅館に泊まるよ。もう女の子と契約したんだ。義姉さんは、明日の朝一番のバスで先に帰ってよね。顔を合わすの、辛いから。いや、いんだよ。僕は嬉しかったよ。僕は義姉さんが好きだった」 「ごめんなさい。あんなことになるなんて。あたしも分らなかったのよ。何だか分らないけど、何だか分らないけど・・・」 「いやぁ、いいんだ。もういいよ。お休みなさい。義姉さん、さようなら・・・」
慌てて窓から顔を出す礼子の視界に、地元の者たちに担架で運ばれる大きな体が捉えられた。ゴザをかけられて特定できないその体から、紙紐で結ばれた右手の指がだらりと下がっていた。 「お連れさんらしい方が、崖から落ちて・・・」 礼子はその担架の元に走り寄って行く。走って、走って、走り抜いて行く女の前から、担架はどんどん離れて行く。 成瀬巳喜男監督の映画では、たとえば襖の開け放たれた二間という<一つの空間>の、それぞれの部屋に男女を配し、その間にある距離感を切り返しの中で示すなどして、人間と人間の間にある関係性(惹かれあい、その垣根を越えて接近していく作用)と断絶(たとえ近づきえたとしても、二者の断絶は埋められない)とを、丁寧に、そして直裁で残酷なまでに描くシーンを、多く見い出すことが出来ます。 深夜マージャンから帰ってきた加山雄三が、食卓で食事をしている、続きの間で、高峰秀子が、嫁に来た彼女が切り盛りしている酒屋の帳簿をつけながら、会話を交わしているシーンが思い出されます。25歳の義弟と36歳の義姉の間柄である二人は、加山がその強い恋心を告白していないこの時点ではまだ、ぐうたらだが高峰だけは敬愛し、甘えている加山、というほのかな関係性の中に、恋心が予感として見え隠れしているに過ぎません。 しかし、高峰が仕事を終え、片方の部屋の明かりを消して加山の座るちゃぶ台につき、ついで加山が手をつけなかったご飯のはいった炊飯器を台所に片付け戻ってくると、暗い廊下で(そこは居間と台所を結ぶ小さい橋のように、板が掛けられているのだけど)、食事を終えて出てきた加山とぱっと行き会う、そうした家族である以上自然ながら、血のつながらない男女としては微妙な距離がさっと現れるのを、成瀬は相互の位置関係を明確にするスマートなカット割の中で示していきます。 彼らがもっとも接近する廊下のシーンでは、店のある土間あたりにすえられたカメラから、逆光でさっと示す。恋愛としてはまだ何ら関係が進んでいない男女の間の、自然だがほのかな緊張感がそこに示されます。 そうしたほのかな関係性がまずは示されているからこそ、強い思慕の情を告白したあとの加山と高峰の、濃密な時間が現れるのです。義理の姉弟です。年齢差もある。その恋愛は、古い価値観をもって生きている高峰としては、まずありえないものです。しかし、店の中の、二人きりの空間で、加山が酒の配達から帰ってきて濡れたレインコートをまとっている、それを高峰が脱がそうと手を掛ける、すると黒くてかるレインコートのなかで緊張した若い体をこわばらせる加山の無言、呼応して自然な気持ちから動き出した手を止める高峰、その男女の間のエロティシズム。 意識されていなかった男女の関係が顕在化されたことで、それまではほのかにしかなかったものが、すべて強い感情を帯びて現れ始めます。 「乱れる」で、もっとも成瀬的な空間は、戦後直後、自分の腕一本で再建した酒屋から身を引き、財産を加山や義理の姉たちに譲り渡すと高峰が宣言するシーンではないでしょうか。高峰だけを除外して家族会議を開き、店をスーパーにする計画を進めている義理の姉たちは、口では高峰の幸福を願うようなことを言いながら、実際は、功はあるが血のつながりは無い高峰を追い出し、加山を中心にスーパーを作って、利益に預かろうとしているのです。その空々しい言葉を受けながら高峰は、18年の間家の犠牲になった、他に好きな人が出来た、と嘘をつく。 加山は、ひとり卓に着かず(つまり空々しさを醸造する場には参加せず)、続きの間から、やや声を荒げるように、義理の姉たちをなじります。空々しさを否定してみせる。成瀬は、それらの中にある、同じ空間、あるいは同じ卓につき、向かい合って話ながら深く断絶した人間関係を、丁寧に切り返しを積み重ねながら示すのです。そして高峰の決意は固く、空々しさをすべて受け流した上で、一人静かに家を去るのでした。 空間は、制度にも通じています。このシーンでは、話の流れについていけない高峰の義母、つまり加山の実母が、上座に座って話を聞いています。高峰は末席に着き、二人の義理の姉は左右に座しています。実質、店を切り盛りしていたのが高峰だとしても、それが制度としての人間関係であり、そしてそこに、どれほど加山が思慕の情を募らせようと、高峰と結ばれるのが難しい理由も潜んでいます。 しかし、だからこそ、そうした制度の外に向かったときに、関係性を変える可能性が生まれるともいえます。成瀬において、乗り物はおおむね不吉なものなのですが(特に船、後期成瀬ならば車)、しかし列車はそういう意味では、決して致命的な乗り物ではなく、むしろ様々な可能性をはらんだものだと言えるかもしれません。高峰が、帰省のために乗った汽車の中で、後を追い家を飛び出してきた加山が、次第に席を近づけていく有名なシーン。そこで、どこまでも自分を慕う加山を見て、ようやく高峰も、加山と恋愛をしている自分を素直に認めるのです(夜行列車、朝を迎えた車中で、加山の寝顔を見て、高峰が思わず涙を流し、次の駅で降りましょうというシーンの高峰は、忘れがたいものがあります)。 けれど、高峰と加山は、致命的な失敗を犯すのです。途中下車した二人は、バスで山間の温泉に向かいます。温泉街の中央に川の流れる銀山温泉。成瀬の映画です。川によって分断されたこの温泉街では、男女は必然的な別れを迎えざるを得ないのです。 高峰が、男女が温泉宿に行ってすることを理解していなかったとは思えません。私も女よ、と、思いを吐露する高峰は、加山を受け入れようと思っていたのではないでしょうか。しかし、高峰は、加山に抱きすくめられると、拒絶してしまう。 結局、この男女の関係の不可能性は、もっとも深く、高峰の精神に組み込まれていたのだと思います。それは未亡人であり、義姉と義弟であり、11歳の年の差であり、世間の目であり、若者の可能性に対して30代半ばの自分の可能性を引き比べた結果であり、そしてそのどれでもない、すべてが積み重なった挙句に出来ていた心の枷だったのかもしれません。 しかし、ともあれ高峰は、加山を拒絶してしまうのです。飛び出た加山が酔っ払って電話してきたのに答えて、自分でもこんなことになるなんて思わなかった、と泣きながら言う高峰に責は無く、それは避けがたく起こったことではあるのでしょう。しかし、決定的でもあったわけです。翌朝、窓の外のあわただしさに不安に駆られて目を走らせると、ござをかけられた死体が運ばれていきます。そのだらりとたれた手の指には、昨夜、高峰がまきつけた紙縒りが巻きついています。明日の朝までははずしては駄目、と言い渡し巻きつけたものです。 高峰は、いきせきを切って、その死体のあとを追います。しかし、男四人が大急ぎで運んでいく死体は、追いかけても追いつけず、山間へと消えて行き、ついに高峰は立ち止まり、決定的に失われ、もはや埋めようの無い距離、二人の関係の決定的不可能を示す距離を、呆然と見つめるのです。それは、成瀬の距離です。 むしろ、一つ屋根の下に互いが留まれば、こうまで隔てられなかったかもしれません。しかし、それはそれで、避け得なかったのです。時代が変わり、スーパーが出来、小売店の商店街がなくなっていく時代を描いた映画です。残酷で不可逆的な変化は、男女の間だけではなく、世界のここかしこで起こっています。高峰が守ってきた空間も、結局は失われる運命だった。だから、やはり高峰と加山には、最初から可能性など無かったのでしょう。 どこまでも、死や終わりや断絶に取り囲まれている、成瀬の恐ろしい世界が広がっています。高峰秀子が、乱れ髪のまま、立ち尽くし見つめる世界です。 『乱れる』 (1964)より、ラスト・シーン。 戦中から戦後の大変な時代を嫁ぎ先で犠牲的に献身してきた高峰秀子が、義理の弟である加山雄三の思いに心を動かされ、二人で温泉宿に一晩泊まってしまったその翌朝です。結局二人が男女の関係に至ることはなく、加山雄三はひとりでどこかへ出かけてしまったのですが、朝になっても男が戻ってこないことに不安をおぼえた高峰秀子がふと窓から外を見下ろすと、崖から落ちた男があるというので騒ぎになっている。 運ばれてゆく遺体の指に自分が結んだ紙縒りを認めてアッと声を上げた高峰秀子は、そのままわれ知らず駆け出していってしまうのですが、この高峰秀子の走りがすばらしい。 宿を駆けおり、一気に橋を渡りきったところで勢いあまって角を曲がりきれず、よろけながら外にふくらんでしまうあたりは感動的というほかありません。つまり、成瀬はここで高峰秀子を本気で走らせているのです。 やはり『乱れる』は「女が走る映画」なんです。 すべてを失った女が転倒しそうになりながら、乱れた前髪が額に汗で貼りつくのもかまわず必死の走りを見せる――大スターである高峰秀子に成瀬はそんなことをやらせているわけで、それをキャメラを通してじっと見つめている成瀬の残酷さには言葉もありません。 『成瀬巳喜男の世界へ』に収められたエドワード・ヤンのエッセイでもこの『乱れる』のラスト・シーンのことが語られていて、そこでエドワード・ヤンは、高峰秀子がふとあきらめたように走るのをやめて立ち止まってしまうエンディングを指して「さりげない優しさ」といっているのですが、これを「優しさ」といいきれるエドワード・ヤンの残酷さが私は恐ろしい。 最後に、『乱れる』の高峰秀子が好きで好きでたまらないというひとりのフランス人が、1986年に撮った作品を見ていただいて終わりにしようと思います。この監督――レオス・カラックスは、のちに『ポンヌフの恋人』 (1991)という作品でも、ジュリエット・ビノシュに『浮雲』の森雅之のような眼帯を付けさせていましたが、86年の『汚れた血』 のラストにおいてドニ・ラヴァンに死なれたジュリエット・ビノシュは、ミシェル・ピッコリの制止も振り切り、あたかも大空に翼を広げた飛行機のように、両腕を大きく水平に広げたまま、どこまでも滑走路を疾走してゆきます。http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/JinshiFUJII/naruse.htm ”ファム・ファタール”としての高峰秀子の存在感 情愛と生活の中を傷つきながら強かに揺れ動いていく彼女の背徳の美しさ。 ほんのわずか焦点のずれた眼差し、冷たく響く悪声。穏やかな顔立ちと白い肌。これが、この映画の淫靡でいかがわしい暗さに、更なるエロスを持ち込んでいるのだ。 今の日本でこれほどの退廃と倦怠を感じさせる情欲の映画が撮れるだろうか。http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20090314/p1 銀山温泉 静岡県清水市の嫁ぎ先である酒屋から実家の山形県新庄に帰る。列車は上野発の奥羽本線夜行列車。映画後半の高峰秀子と義理姉を慕う加山雄三との道行きシーンに大石田駅が出てくる。今日では山形新幹線も出来、便利になりましたが、それでも東京から3時間強の列車の旅。そこからバスに揺られて40分、バスは1日に3本と今でもちょっと遠い銀山温泉です。 ▲大正、昭和と変わらぬ佇まいを残す銀山温泉の町並みです。銀山川を挟んで建ち並ぶ3 、4 層の木造旅館が温泉情緒をかきたてます。 ▲「乱れる」の舞台の旅館は橋と旅館玄関の微妙な位置関係で、能登屋よりもお隣の永澤平八旅館のような気がします。(加山雄三が旅館を飛び出すシーン、玄関の前に橋がある。) ▲温泉街の先には今では遊歩道になっている洗心峡がある。銀鉱洞までの散策コースだが、映画では加山雄三が飲み屋を出た後に温泉街を通り過ぎて洗心峡を歩くシーンがある。 ▲「お連れさんらしい方が崖から落ちてと・・・」言う台詞、洗心峡は白銀の滝(高さ22メートル)を経て温泉街の銀山川につながっている。 銀山温泉の郷愁風景 銀山温泉とは曰くありそうな地名である。山形県村山地方北東部、尾花沢市東部の山間にある温泉で、細い谷間に沿って温泉街が連なっている。そのほとんどが木造三階建であり、密度も濃いことで木造建築の真髄を見るような、旅館街の風景は非常に特徴的である。 多くは大正期に建設されたもので、建て方も当時の流行を反映してか洋館風となっている。2階・3階部には趣向を凝らした木造の桟、木組を前面に出しながらも漆喰による重量感も感じさせ、また両端の戸袋には鏝絵が見られる。この鏝絵は単に屋号を記したものから、極彩色の風景画、旅館の創始者を刻んだものなどさまざまで、これらを見て廻るだけでも見応えを感じる。屋根は銅板葺、アーチ型のこれも銅板に葺かれた屋根を乗せた入口を持つものもあった。古い町並といっても建築年代は比較的新しいものの、この旅館街から感じる迫力は、他の多くの古い町並の持つものとも違う。 特に温泉街の最奥部にある能登屋旅館、その手前の旅館長澤平八の並びは、大正浪漫の名そのままの非常に絵になるたたずまいだ。今後は重要文化財や重要伝統的建造物保存地区を視野に入れた保存体制を整えていっていただきたい。その価値の充分にある温泉街である。 温泉街は道が狭いため、日帰り客・宿泊客を問わず手前の高台で車を降ろされ、温泉街の中は車の姿はない。それがまた頑なに昔日を保っているようで好感が持てる。
温泉街の入口「白銀橋」に立って町を眺めると、まるで大正時代にタイムスリップしたかのような気持ちに囚われます。銀山川沿いに、古風な3階建、4階建の木造旅館が並び、まるで、大正時代ので時間が止まってしまったかのような空間です。 銀山温泉には14の宿がありますが、そのいずれもが時間を忘れさせる木造旅館。温泉街の中央を流れる「銀山川」と周囲を取り囲む山並みが、落ち着いた風情を醸し出しています。 私たちの泊まった「能登屋旅館」さん。創業は明治25年(1892年)。建物自体が「文化財」に指定されています。NHKの連ドラ「おしん」の舞台としてすっかり有名になったようです。 銀山温泉は夜景もまた美しいのです。ガス灯が灯っていて、浴衣姿の泊まり客がそぞろ歩き。風情があります。 着物の似合う町です。 一風呂浴びて、持参した麻の薄ものに着替え。町を歩いてみました。 温泉情緒で東日本一の温泉街。石畳、ガス灯、木造三層・四層の木造旅館、大正ロマンを平成の時代に伝えている。 毎年、冬を迎えるとテレビ各局が温泉の番組を放映する。登場する温泉は北関東・東北の温泉が圧倒的だが、中でもここ銀山温泉がよく紹介される。その理由は、雪を被った木造3層・4層の旅館が立ち並ぶ温泉街に加えて、人気番組で世界中でもで放映されたNHK「おしん」の舞台、カリフォルニア出身でテレビコマーシャルにも出演した金髪女将・ジェニーさんと話題に事欠かないこともある。 16世紀に銀鉱が発見され、江戸時代には公儀山(幕府直轄の鉱山)として栄えた銀山。現在は木造三層四層の木造旅館が、静かに流れる銀山川をはさんで立ち並ぶ。温泉街には石畳が敷かれ、ガス灯がともり、大正ロマンを平成の世に伝えている。特に雪景色がしっとりと似合う温泉街は、数多くある温泉地の中で、「東の温泉情緒No1」に選考されている。(日本経済新聞社 魅力の温泉66)
物語の中に迷い込んだような銀山温泉街の中心に位置する能登屋旅館は銀山温泉唯一の日本秘湯を守る会会員の宿。銀山温泉にある旅館のどれをとってみても、その芸術性の高さに心を奪われるが、「千と千尋の神隠し」に登場する「湯屋」のモデルともいわれている能登屋の建築は特に素晴らしい。木造4層、西洋建築の手法を取り入れた望楼付きの建物は、国の登録文化財にも指定されている、まさに国の宝である。 ここ能登屋旅館にはこの登録文化財の本館の他に別館もあるのだが、私達は本館に泊まることしか考えていなかったので、予約にはとても苦労した。なにしろゴールデンウィーク明けに電話して、「次に空いている土曜日」が11月の終わりだったのである。 「おしん」の撮影地や大正ロマンの湯の街として知られている銀山温泉。 以前から知ってはいたものの温泉街へ着いた時の感動は大きく、三層にも四層にも重なる屋根と歴史の色がにじみ出た木造に圧倒された。
白濁の湯、硫黄臭も多い、鄙びた旅館で気に入った。 銀山温泉では能登屋のほかに永沢平八や源泉館、藤屋など綺麗に使われている木造の3階宿があり、どれも風情がある。どの宿も綺麗に改修されている。しかし中でも昔のままなのが小関館であろう。 古い民家と同様に薄暗い室内と古いままの内装が鄙びていた。小浴室と大浴場の2つの浴室がある。道路沿いの大浴場はやや地下に下るような高さに浴槽がある。昔からのコンクリートのシンプルな浴槽で薄く白濁した湯が掛け流しされていた。 温泉は薄白濁であるが浴槽内部のタイルによって灰色に見える、たいへん美しくドアを開けて浴槽を見たとたんに気に入ってしまった。この湯も、はっきりとしたたまご塩味になっていて色と共に味覚も存在感がある。硫黄臭もあり、能登屋よりさらに良い湯であった。 66度の温泉で3号泉である。蒸発残留物2484mgの含硫黄食塩泉である。HS 5.1mg H2S 7.5mgと分析値も硫黄、食塩ともに多くなっている。宿の風情と浴室の造り、泉質のよさで銀山温泉の中で一番良い評価としたい。 B銀山温泉 旅館 永沢平八
妻側の破風の部分が4階になった、堂々とした外観の宿。唐破風の入り口の横に小さな同型の入り口がありそちらは子宝の山ノ神を奉ってあった。玄関内部は綺麗に磨かれ光沢のある板間で、そちこちにアンティークが置いてあり民芸博物館のようである。客室の雰囲気も良い。 ※この記事に書かれている情報は2004年9月時点のものです。
旅館の女将の講演会がありました。 <題 ; ジニ―さんから見た日本> 「納豆巻好きです。カッパ巻とホタテの握りは好きです。ただし、さび抜きでお願いします」 こんな外人なのです。 その一時間前、日本語を流暢につかい聴衆を沸かせていました。 藤ジニ―さん。年齢? 大学時代、関東学院大学の交換留学生として日本にきて、その後卒業してからももう一度日本に憧れて、英語教師として山形に着任した。当時23歳。二年間の英語を教えている中で、銀山温泉の藤屋旅館にステイした。25歳で旅館の息子と結婚した。 全く違う文化の国で、全く生まれてからの習慣や言葉の違うところで、アメリカにはない義理の両親と同居するというこのに途惑いは隠せなかった。 最初の一年我慢した。一年後ストレスが爆発した。「私はアメリカ人で日本人になれない」 それからブレイクスル―したことは、「日本の良いところとアメリカのやり方をまぜていくことだ」と思い、次第に楽になってきた。 6年目に子供ができた。娘(しおり)です。その下に男の子が続けてできた。上の娘は小学校にはいる。子育ては旅館の仕事と両立しなければならず難しかった。できれば「子供達が小学校に入るまで旅館の仕事は辞めたい」とも言った。家ではバイリンガルで会話が進む。英語と山形弁の日本語が飛び交う。英語で聞かれて「ウンダ。」が答えである。 日本の旅館の嫁として嫁いで「家」に入ったのだが、日本の家族はこういうものですか?という疑問に陥った。親の世代とその上の世代との三世代が一緒に暮らしているのだが、それぞれの世代が一つ屋根の下で別々の生活をしている。どの世代も忙しくて、一つの屋根の下でも、愉しく話をしたりお互いの生活をサポートしたりすることの「交わること」の少ないことが残念に思った。 「みんな忙しい」それがジニーさんから我々日本人を総評しての言葉であるが、この指摘は、戦後の日本人が忘れ去ってしまった家族の絆の希薄さを訴えている。 日本には素晴らしい伝統の文化がある。今、茶道を習いお手前の作法に無駄のないこと。 しかし、日本のおかしいところもいっぱいある。「旦那は旅館組合の会合に出かけて出て行くといつも午前2時〜3時になる。藤屋の旦那夕べも遅くなってしまったようだけど奥さんも大変ね!」とのこと。 アメリカには『旅館』がない。旅館にお客さんがつくと「お世話になります」と言って入る。旅館としても明日朝までゆっくりと寛いでもらうために「お世話します」である。客室に料理を運び、布団を敷き、そして朝布団を上げる。アメリカではずべて追加料金となる。 着物を素敵に着こなすジニ―さん。 日本はいま自国の伝統文化を大事にしていない。『文化は財産である』
我慢強さと親切心。これこそが、日本人に備わっている 1."Yamagata"ってどこ? 山形県と宮城県の県境にある銀山温泉は江戸時代からの湯治 その老舗温泉旅館の一つで350年もの歴史を持つ藤屋に、 女性の名前はジニーさん。1988年夏、オレゴン州の大学卒業 赴任地は、「京都、奈良」を希望したのだが、JETプログ 山形の冬は長く、厳しい寒さは大変だったが、1泊2日のス 2.「若葉マーク付き」若女将 ジニーさんの両親や友人は、日本でうまくやっていけるのか、 平成3年、厳冬の12月、ジニーさんは25歳にして藤屋に ジニーさんは裏方の仕事から徹底的に仕込まれた。調理場で 朝は5時半に起き、6時前には姑の朝食づくりを手伝う。客 3.苦闘と失敗の数々 姑からはいろいろ教わった。重たいものを両手で抱えてドア 5ヶ月ほどするとフロントの手伝いや客の部屋への案内など 客室の前で「失礼します」とドアを開けるときも、音がしな 日本語も難しかった。駐車場でお客から「ゴミ箱を探してい 4.不満爆発 老舗旅館の若女将がアメリカ人、というニュースが、新聞や しかし、夫の敦さんは非協力的だった。仕事と言えば、魚を 不満が高じて、喧嘩が絶えなかった。8ヶ月目には「もうダ ある時、ジニーさんがトイレ掃除をしている時、お客さんか 5.「心がこもっていればいい」 現在は、調理場、洗い場、掃除、事務、仲居さん、番頭さん そういう時に敦さんは「相手の考え方、気持ちもあるから、 そんなある日、山形県と宮城県の旅館の女将が集まる機会が それまでのジニーさんは、藤屋旅館をグレードアップしたい 私はそれ以来、サービスは完璧な形である必要はなく、 6.生け花は相手のために生ける 花が大好きなジニーさんは、JETプログラムで英語教師の 美しいものを目にすると、気持ちがやわらぐと思います。 生け花は精神世界だと思います。そして、相手のために 美しい空間を演出する、一見お客様のためにやっている 仲居さんの数が増え、午前中に掃除や洗い物をしなくても良 女将として朝から夜遅くまで着物を着ていても、平気になっ 着物の良さを若い方ももっと再認識していただければと 美しい着物を着こなしてお客を迎えるのも、生け花と同じ 7.日本語の美しさ 当初、ジニーさんの日本語は男性っぽくて、敦さんからは ある時、ご婦人の団体客が玄関口からバスに乗るのに、雨が 後で、敦さんから、こういう時は「お客様、それはちょっと このように日本語は奥が深く、繊細で、あいまいで、翳 日本語の翳りといえば、松尾芭蕉の俳句がよい例ではな 五月雨(さみだれ)を集めて早し最上川 わずかな文字数の中に、名所や旧跡に託して、静けさと 正しい日本語、そして日本人の心を表現する日本語につ 8.みんなで銀山温泉全体の繁栄を考えていこう ジニーさんが女将として成長していく過程で、銀山温泉街の 銀山温泉街の「女将会」も月2回開かれている。女将達が揃っ またお客の案内ができるように、銀山の歴史を学んだり、芭 9.我慢強さと親切心 こうして日本での暮らしが長くなるにつれ、時折アメリカに 昨年、敦さんと子供二人とともに米国に戻り、オレゴン州の 明らかに度を超した振る舞いに、以前のジニーさんだったら 日本に暮らして15年。もしその間に、私のどこかに日 我慢強さと親切心。これこそが、日本人に備わっている 外国人だったからこそ、日本人以上に日本文化の素晴らしさを見つけられた 「ニッポン人には、日本が足りない。」 そんなコピーとともに青い目の和服美人が登場する、そんなCMにご記憶はないだろうか。真の国際化のためには、まず日本人自身が日本について知ること。その大切さを訴えるために2002年に放映された、公共広告機構の国際化キャンペーンCMである。 そのメッセージを裏付けるかのごとく、かいがいしく花を生け、やわらかな物腰であいさつをする姿には、絶滅寸前とも揶揄される大和撫子のたおやかさが確かにあった。筆者を含め、多くの日本人に大きな衝撃を与えたその女性こそ、今回ご登場いただく藤ジニーさん、山形県銀山温泉の老舗旅館藤屋を切り盛りする女将である。 インタビュー当日のいでたちも、撫子があしらわれた若草色の着物に光沢のある金色の帯という和装。「駅で迷ってしまって」と急ぎ足で現れたにもかかわらず、外国人にありがちな「丸太に着物を着せたような違和感」はみじんも感じられない。穏やかな笑みをたたえたまま、静かに部屋を横切り、背筋を伸ばしてソファに座る姿は、多くの着物姿の日本人を撮影してきたカメラマンをして「着慣れていらっしゃいますね」と唸らせたほどだ。 「ありがとうございます。着物の着方はお義母さんに教わりました。毎日着ていますから、なじんでくるのでしょうね」 とはにかむが、青い目に金髪の風貌に若草色と金色を合わせた着こなしは、黒い目と髪の日本人の着方を単純に真似ただけではできるものではない。着物をとことん理解し、自分のものにすることができてのこなれ感である。 「着物の着方を誉めていただくのは、とてもうれしいことです。ずっと、子どもの頃から着物には憧れていましたから」 そう、ジニーさんの日本への思いは、30年来の筋金入りだ。ジニーさんは米国はカリフォルニア州サンフランシスコ市生まれ。明るく開放的な文化の中で生まれ育った、正真正銘のアメリカンガールだった。そんな少女が本やテレビを通じて知った「ニッポン」は、美しく不思議な「クールな=かっこいい」国として印象づけられる。 「当時は、まだ日本もほかの国も区別がつかなくて、アジア圏というひとくくりで見ていましたね。しかし、舞子さんのあでやかな着物姿や生け花、庭園、お寺というように、その中でも好きなものだけを選んでいったら、自然に日本にたどり着いたんです」 太陽が強く輝くサンフランシスコに対し、日本のものはすべて柔らかな光に彩られ、どこか潤っているように感じられた。実際、アジアを旅行して回ってみたところ、街に原色があふれるエネルギッシュな国よりも、どちらかというと控えめな印象のある日本とタイ、それも田舎の空気がしっくりと肌に合うのを実感したという。大学時代に留学した大都会の東京でさえも、ビルとビルの間にちょっとした神社や庭園があったり、家々に季節を楽しむ工夫があったり。小さな日本文化を発見しては、ますます日本に惹き付けられた。そして、外国語指導助手として再来日を果たす。 希望した赴任先は京都か奈良。日本伝統文化を学びたい外国人としてはごく自然な選択だ。しかし、人気が殺到して空きがなく、山形に配属されることとなる。 「正直いうと、当時はがっかりしました(笑)。雪が多くて田んぼばかりというようなイメージしか持っていなかったので。しかし、結果としては大正解でした。もちろん今も京都や奈良は大好きですが、あの時そのまま赴任していたら、おそらく観光用にお膳立てされた日本文化に、先に目がいってしまっていたでしょう。さほど観光化されていない山形だったからこそ、普通の人々の暮らしの中にある文化の豊かさに気づくことができたのだと思います」 山形は国内有数の米どころであり、さくらんぼやりんごなどの果物王国としても知られているが、どちらかというと控えめな印象のある地域である。 「山形の人はとてもシャイで言葉もぶっきらぼうです。そのせいもあるのか、あまり他者へのアピールは得意な方ではありません。しかし、辛抱強く親切な人が多い土地柄で、京都や奈良にひけを取らぬほど、先祖代々受け継がれた美意識や習慣がまだまだしっかりと残っています」 そんな山形の伝統行事でとくにジニーさんが気に入っているのが「団子刺し」である。 「お正月行事の1つで、赤や緑に彩色した団子を木の枝に刺し、家の大黒柱に縄で結わえ付けます。無病息災・家内安全・豊作など新年を祈っての行事なのですが、雪で真っ白になる季節に色々が美しく映え、華やいだ気持ちになるんです。それを誰に見せるわけでもなく、それぞれの家庭で楽しんでいる。なんて素敵なんだろうと思いました」 三世代、四世代が一緒に住む大きな家、のんびりと温かな人柄、季節を感じさせる田舎料理など。豊かな自然とともにあろうとする素朴な風土にジニーさんは魅せられ、心の平穏を感じたという。数年前より茶道にも親しむようになったのも、その静けさや自然との一体感への憧れからと語る。 「今にして思えば、私自身がバタバタと落ち着きのない女の子でしたから、バランスを取ろうとして、逆にそうした静けさに強く憧れを抱いたのだと思います」 そういって笑うものの、楚々とした現在の姿からは想像できない。しかし、15年前の若女将になりたての頃の話からと切り出すと、 「まったくダメで、お義母さんに怒られてばかりでした」 といたずらっぽく首をすくめて笑い、快活な少女の頃の顔をのぞかせた。
設計者は隈研吾氏。誰もが知る自然素材を使い、「古いもの」と「新しい技術」を融合させた「新しい日本の美」を建築の中に取り込むことに長けた、世界的にも著名な建築家だ。隈氏はジニーさんらの意図をすぐさまくみ取ってくれたという。 そうして出来上がったものは、古いものと新しいものが融合した不思議に懐かしい建物となった。外観には昔ながらの縦格子が施され、そのやわらかく繊細な印象は、静かな町並みに自然となじんでいる。格子は内部に取り込む光をやわらげ、外部からの目隠しの役割を果たす。夜になれば逆に中からの光が漏れ、幻想的な雰囲気を漂わせる。きっと雪景色にも美しく映えるだろう。 「『内部も和風なのに斬新ですね、アメリカの人が旅館を造るとこんな感じですか』なんていわれるんですけど、とんでもない(笑)。私は建築のことなんてわかりませんもの。『1人ひとりがくつろげる旅館にしたい』『日本古来の懐かしさを感じてもらいつつ、非日常的な空間にしたい』と、リクエストを伝えていっただけなんです」 新しいのにどこか懐かしく、ゆったりくつろげるのに非日常的な意外性に満ちている。たとえば玄関には看板のようなものが出ておらず、藤の鏝絵(こてえ)があるのみ。また、普通の旅館は、部屋に『富士の間』といった札がかけられているものだが、藤屋ではそれすら存在しないという。 「車の乗り入れを規制している銀山温泉では男衆が出迎えに上がり、宿泊客を旅館までご案内します。それに、同様に館内においても私たちがおりますから、お客様がお困りになることはないんです」 部屋に入っても同様に「何もない」空間が広がる。必要になった時に取り出すか、仲居さんに頼めばいいだけのこと。宿泊客もはじめは戸惑うものの、だんだん「何もない」静かな空間になじみ、癒されていくという。 「世の中は便利になって、コンビニエンスストアや自動販売機など、誰に何も聞かなくてもできることが多くなってきました。でも、あまりに情報が多すぎて疲れている感じがするし、人とまったくかかわらないことが快適だとは思えないのです。藤屋では、必要な時に必要なだけ過不足なく快適に受けられる、そんなおもてなしをしたいと思っているんです。それから、旅館は旅という『非日常』の一部。日常を忘れて夢のような時間を過ごしていただくための空間作りを意識しました」 それぞれ趣の異なる5つのお風呂も藤屋の自慢だ。いずれも貸し切りとなり、利用した後に毎回掃除が入る。日本文化に沿うならば、次から次へ入るのが普通。しかし、それを快適と感じられなくなった現代に合わなくなった部分は、お客様の立場に立って変えていく。 こうした新しさと懐かしさが融合する藤屋は人気を集め、多くの湯治客が利用し、リピーターも多い。ジニーさんが嫁いだころに家族3人で切り盛りしていた藤屋は、いまや従業員14人を抱える大所帯となった。こうした事業的な成功の陰に、どのようなマーケティング戦略があったのか。ジニーさんにそう訪ねると、「マ、マーケティング? そんなこと私、わからないですよ」と途端に顔を赤らめる。 「強いていうなら、とにかく日々お客様とふれあって、藤屋でできる最高のおもてなしについて毎日考えていました。まずそれが一番大切なことだと思います。以前は大型バスでたくさんのお客様が一緒に来られて宴会があってという『団体さん』が多く、少人数で来られたお客様は『団体さん』に押しやられていた感がありました。団体さんにも楽しんでもらいたい、でも少人数グループのお客様にもゆったりしてほしい。大きな旅館なら分けて両立することができるかもしれませんが、藤屋の規模で両方のお客様に満足してもらうことは難しいと思いました」 旅行のスタイルの多様化に伴い、すべての人に満足してもらうのは難しい。そこで、新しい藤屋ができるサービスのプライオリティについて熟考し、夫婦、家族、友人などで連れ立って来る小さなグループのお客様を1人ひとり丁寧にもてなす旅館というイメージにたどり着いたという。 「私が『したいこと』と、藤屋で『できること』の両方から考えて、それがベストだと確信しました」 日々の中からの気づきと熟考。そして、夫婦で日本各地の旅館を巡り、それぞれの接客方法や考え方に触れた経験も、具体的なコンセプトを固める上で役に立ったと語る。 「いろんな地域のいろんな宿に行きました。1泊5万円以上の宿にも泊まりましたが、決して高いと感じなかった。当初、私は藤屋が設定しようとしていた宿泊費が高いのではないかと心配していたのですが、主人は『大丈夫』といって譲りませんでした。しかし、いろいろな宿を経験して『価格以上のサービスが提供できたら、きっと世の中に受け入れられる』と実感したんです」 そして、オープン。今や「藤屋のおもてなしは価格以上」と胸を張る。 数年前に結婚式が終わったその足で藤屋に泊りました。 「入口で案内できるよう人を待たせておきますから・・・」 と女将らしい人。随分外国人訛りの人だなぁと思った。 嫌な顔一つしないで「すぐに暖かい物を沢山食べて下さい」と言ってくれたジェニーさん。 熱々の納豆汁はとても美味しかった。 出発するときに新婚の私達に 「お二人はひな祭りの様な素敵なカップルです。おめでとうございます。お幸せにどうぞ」 先週久し振りに訪れて藤屋の豹変ぶりに唖然。 時代の流れで建物が生まれ変わるのは仕方がないのかも知れない。 私はただの一宿泊者である。とやかく言っても仕方がないのは解っている。 でも、数年前の吹雪の晩に私達を暖かく迎えてくれた心は忘れて欲しくない。 真っ暗な藤屋の駐車場の前で仲居さんが待っていてくれた時は本当に嬉しかったです。 当初は一泊だけの予定だったのですが、あまりにも居心地が良くて連泊しちゃいました。 私が泊まったのは三階(二階だったかも。最上階で有ることは間違いないです)の能登屋方向の川縁の部屋。 華美な装飾は有りませんでしたが、品の良い作り。 ああいう物壊すのは簡単だけど同じ物を作るにも材料がない。腕が立つ大工が居ないということを考えると本当に残念ですね。 _____________________________________________
昔の銀山温泉と藤屋 藤屋HP _______________________________________
趣のある木造3階建ての旅館が川を挟んで並ぶ「おしん」の舞台にもなった銀山温泉にあるアメリカからやって来た女将ジニーさんで有名な旅館「藤屋」が今年7月にリニューアルしているのをたまたま銀山温泉関係をチェックしていて初めて知った。 その藤屋のホームページに行ってみてびっくり。かつて存在した3階建てのほかの旅館と調和して大正ロマンの味わいを見せる木造3階建てステンドグラスの望楼のあるあの雰囲気いっぱいの「藤屋」が完全に消失して、なんと伊豆辺りに普通にありそうな女性好みのいわゆる オシャレっぽいどうでも良い建築物に成り果てているではないか。 4年ほど前に銀山温泉に行き、共同浴場と3カ所の旅館で日帰り入浴して以来銀山温泉には行っていない。その時に藤屋にも日帰り入浴を確か500円程度でした記憶があるが、素晴らしい建築で何の問題もなかった。あのとき聞いた限りでは宿泊も1万円ちょっとで可能だった。 それがそれがどうしてあの歴史ある、ほかの建物と一体になり銀山温泉の特色を造っていた建物を壊してしまったのか。 経営者は究極の馬鹿なのか。アメリカから来た白人女性の言いなりになってしまったのかどうか実に馬鹿らしい限りの改築だ。 写真で見る新しい藤屋の建物の銀山温泉にあることの違和感。あんな建築家の自己満足だけの建築物が突然闖入してしまった銀山温泉なんて何の魅力もありはしない。もう行く気にもならない。 しかもなんと、新しい藤屋は日帰り入浴も受け付けない(それはそれで旅館の経営方針だから構わないが)上に、宿泊料金が2人で泊って安くて35000円。部屋によっては5万円。銀山温泉の基本的なあり方を完璧に勘違いしているとしか言いようがない。これほどの金を払うなら京都の素晴らしい懐石料理が味わえる俵屋にも宿泊できるではないか。あまりに馬鹿らしい料金設定だ。 銀山温泉は湯自体にはたいした特徴などがある訳ではない。あくまであの建築群が集合した町並みが魅力だったのだ。それをぶち壊す今回の藤屋の改築。自らが自身の存在価値を放棄するという馬鹿らしさ。もう銀山温泉はどうでも良い。山形県なら同じような雰囲気で庶民でも銀山温泉などとは月とスッポンの素晴らしい湯が味わえる肘折温泉がある。藤屋は六本木ヒルズあたりに住み、金が余って仕方ないようなバブル長者辺りを相手に商売していれば良いだけだ。 それにしても日本の建築家というのは文化や伝統との調和を考えることが出来ない奴らばかりなのか。黒川なんとかと言う文化人気取りの設計屋をはじめ独りよがりの自己主張さえしていれば自己満足している人間たちのようだ。 _________________
私も藤屋のHPみて驚きました。さびれていた銀山温泉をひっぱってきた藤屋だと思っていたのですが。。。なぜ、こんな誤った方向に進んでしまうのか。。。これが、温泉組合とかの方針で、宿により明確な方向性の違いを打ち出すとか決定してのことであれば、まだいい面もあると思いますが、とてもそういう決定でこのようになったとは思えないですね。 この料金設定では、地元の人は誰も行きたがらないでしょう。完全に首都圏の人をターゲットにしている。 エステ?かふぇ?そんなもの銀山温泉に必要なのだろうか?
車の乗り入れはできない。 手前にある駐車場に止めて坂道を下りる。 温泉街は川をはさんで木造の三層4層からなる旅館が並ぶ。 平日のせいか観光客もまばらで静かに散策できる。その中心は何と言っても「能登屋」「永澤平八」であろう。 並ぶ宿の中で一段と風格を感じる建物だ。 夜にはガス灯に灯がともるという川沿いの道。 ゲタをはいて石畳を歩いてみたいものだ。そんな中、最近立て替えられた「藤屋」は異色な雰囲気だ。 ここは外人女将ジニーさんで有名な宿である。 もう少し回りの景色に合わせられなかったものかと残念に思う。銀山温泉の魅力はお湯以上にこの街の趣だと思う。いつまでもこの町並みを保存して欲しい。
あの藤屋の佇まいが、こんなになっちゃいましたか で、能登屋でビックリしたのは、各階にある休憩所と、椅子とテーブルのある広間でした。 それはそれは、ほんとに大正ロマンを感じる造りと調度品の数々でした。
この記事の写真で藤屋のある銀山の雰囲気良く分かりますね。 これは、まあ旅館サイドの高級旅館にして売り上げを上げたい思惑から来るいわゆる高級イメージの勘違いがまずあるのですが、それ以上に旅館サイドに改築を提案した建築家が一番のガンですね。日本中にグロテスクな建築物をまき散らして来た黒川紀章らのアホ建築家の悪しきパターンの典型です。 ヨーロッパなど外観をそのままに内部をハイテク建築に改築するなどして街並を破壊しない方向が多く、ドレスデンなど空襲で破壊された街を戦前の状態に戻す街再建をしたほどですからね。 この藤屋の設計をした馬鹿は銀山の持つ街並の価値が理解できなかったのでしょう。底なしの馬鹿です。それに、藤屋も銀山の湯治温泉の歴史をまったく理解せず、伊豆あたりのバブル長者目当ての似非高級感でのカネだけが狙いになりはてた心根の貧しさが貧相な新藤屋の外観ら臭いたちます。 5万円などする旅館を農閑期でちょっと贅沢な温泉三昧をしたいなと思うおばあちゃん達が利用できるでしょうか。 東北の人たちを完璧にコケにしていますね。http://blog.goo.ne.jp/onsentamago23/e/9b2bfe643c95f89a29ea0019f0a95a58 連れが銀山温泉を一度見てみたいというので、こちらは藤屋がアホな改装をして以来興味がなくなった温泉地なのだが、どういう具合に変化したのか見るのも一興かと行くことに。 肘折温泉から銀山温泉までは約1時間で到着だ。行ったのが20日の日曜日だったせいか昼前なのにすでにかなりの人出。駐車するのが大変。共同浴場の大湯もあまり面白くもないのでぶらぶらと散策するだけ。 藤屋はやはり前の建物が街並の雰囲気に合っていたね。改装後の白木の檻で囲んだようなどこにでもあるようないわばデザイナーズ旅館って物で、面白みも趣も何もなく、他の旅館が一体となって作る銀山独特の温泉街の雰囲気をまったくぶち壊していた。 しかも、白木の外観なのでまだそれほど改装後時間もたっていないのに木の汚れが全体に下品な印象となり、1泊4万円以上も取るような高級旅館にはとても見えない。見れば見るほどなんとも馬鹿な改装をしたもんだという想いが募るばかりだった。 540 :名無し:2007/08/08(水) 23:13:31 ID:4Xde/YOj 藤やはジニーのバカ旦那が勘違いしたんだなあ。新幹線延伸前は経営が苦しく 設計料5000万も払って、設計料に10%も取る業者山形県にはいねえな。 借金6億円 宿泊定員 22名 22名定員も隈研吾の口車に乗せられて宿泊定員が少なくなったんダローナ。 22名×365日×宿泊料金50000円 でも ほとんど泊まる客がいないそうだから
そうだよ,藤やは世界的設計家の隈研吾の設計、週刊文春とか、NHKの「プロフェッショナル」でおなじみ。でもな、銀山温泉に隈研吾の設計した共同浴場の「白銀の湯」があるだろ、あれ使い勝手が悪くて不評だよな、全国から建築家を目指す学生が見学に来るけど、設計の斬新さの世間の評価と実際に利用する人の評価は一致しねえよな。藤屋も同じさ。原点に返って考えれば判る事。 何で銀山が有名になったん? 大正ロマン、料金のリーズナブルなところ。
久しぶりに藤屋のHP覗いたらオンライン予約が再開されていた。 東京の帝国ホテルだって一人5万もとらないだろう、
まっとうな値段だったら5億,6億の借金なせるはずねーだろ。 どうせ隈研吾の自己満足で作ったヤツだから。隈は日本の温泉旅館は藤やが初めて発表した物件だそーじゃねーか。所詮 隈は施主の商売のことなんかハナから頭にないサ。設計やと建設会社は金もらえば関係終わりだもん。
A風呂場のシャワーのカラン(手で持つところ)外国製。1個50万円。11個ある(地元の建設工事をもらえなかった業者の話) 藤やはバカじゃあねーか。 温泉の硫黄でカランは3年でだめになる、3年ごとにカランの550万円の設備投資すんのか、バカだずねー。 だと。 547 :名無し:2007/08/19(日) 20:44:10 ID:Md1Tx6N5 藤屋は何がだめだったんか! 地元の業者をないがしろにして建て替えしたことだろ! 548 :名無しさん@いい湯だな:2007/08/24(金) 12:27:54 ID:XvSzNfwu あそこの女将連中、藤屋の若旦那のことハッキリとは言わないけれど 555 :名無しさん@いい湯だな:2007/09/26(水) 02:11:18 ID:52qdMoln たしかに藤屋がどうなろうがどうでもいい! ただあそこにあの建物は邪魔だな、わざわざ銀山まできてあんなとこ大金はたいて泊まりたいと思う物好きがいるんだ〜ってことに興味あるだけw 556 :名無しさん@いい湯だな:2007/09/28(金) 12:37:00 ID:8EXyrbW8 これから涼しくなって紅葉もある時期はかきいれ時じゃないの? 557 :名無しさん@いい湯だな:2007/09/28(金) 22:13:10 ID:x5JFJOEa そういえば最近、ジニーさんテレビに出ないな、
不治やは泊まる人いね-よ。4万から5万円だぜ。二人で10万。部屋に露天風呂は無い、仲居さんの近所の農家のおばさんにしかもパ−トのばんちゃんにそれなりのサ−ビスしろっても無理ってもんだ。 フロントもフレンドリ−でないしナ。ジニ−は日本人でないから言うことがきつくて従業員が長続きしないんだよナ。 日本一有名な“金髪女将”家出騒動に温泉街“困惑”
2003年の公共広告機構のCMでは、和服姿で登場。日本の文化や習慣の素晴らしさを日本人以上に理解する米国人として、「日本人は自分の国の良いところを忘れている」と訴えた。その後、日常の女将業と子育てに加え華道、茶道、着付けなど日本の伝統文化をことごとくマスターする大和撫子ぶりが話題となり、バラエティー番組出演や講演、執筆に多忙を極めていた。 しかし、今年3月、2人の子供を引き連れ故郷アメリカに里帰りしたまま、銀山温泉に戻らなくなってしまった。ジニーさんを前面に押し出して一躍メジャーになった温泉場だけに、関係者の衝撃は大きい。旅館組合でもその理由を計りかねる中、ジニーさんをよく知る地元商店主が重い口を開いた。
一方、ジニーさんの親族の男性は「今年6月に実の母が亡くなり、続けてお兄さんも亡くなってしまったのです。米国の方は親族の不幸に関して日本人以上にナーバスになってしまうため、いまでもとても女将に復帰できる状態ではないのです」と、身内の不幸が理由であると証言した。 しかし、実母が亡くなる2カ月以上前に帰国してしまったことや、小学生の2人の子供たちが新学年になっても姿を見せていない点については、「よく分からない」と言葉を濁した。 「藤屋」はジニーさんの存在で一躍有名旅館となり、06年6月には全面改築に踏み切ったが、一部温泉マニアの間では「銀山温泉のひなびた風景とマッチしていない」「以前の方がよかった」といった批判の声も挙がっており、この改築にジニーさんは難色を示していたと話す旅行業界者もいる。 ジニーさん目当てに遠方から訪れるファンが後を絶たず、不在を知るや一様にがっかりした表情を浮かべるという。一連の騒動に対し、藤屋は「女将は現在、所用と仕事が重なり長期にわたり不在にしている。いつ復帰するかは分からない。理由についてはプライベートなことなので、コメントは差し控えたい」としている。 (ZAKZAK 2008/08/28) 先月山形県内の4泊5日のブラブラドライブ旅行をした時に、この記事の話題の主ジニーさんが女将をしている「藤屋」がどんな改築をしたのかの確認も含めて銀山温泉には行ったばかりだ。 そこで確認したのは、やはり大馬鹿な改築であり、旅館すべてが一体となって築き上げていた銀山温泉独特の街並を「藤屋」の伊豆辺りのどこにでもありそうな面白くも何ともないいわゆるデザイナーズデザインとかのアホ建築が破壊している現実だった。 とにかく藤屋の建物の醜悪さは極め付き。 改築してまだ2年ほどなのに、外壁がまるで檻(おり)のような白木主体のために、うっすらと汚れた感じの下品ささえ漂わせているのだ。 周りの雰囲気のある大正ロマンを感じさせる建築群から完璧に浮いているのだ。 しかも温泉街の中央部にあるからその違和感は大きい。なんとも馬鹿な改築をしたものというしかないのだ。 記事の中で「この改築にジニーさんは難色を示していたと話す旅行業界者もいる。」ってあるのだが、ジニーさん主導で改築したのかと思っていたのだが、違ったのか。それなら、温泉旅館の女将としての矜持をジニーさんは持っていたのかもしれない。 もしかしたら、ジニーさんはそれが我慢出来なかったのか。そう思いたい温泉好きである。この馬鹿建築の設計した隅とかいう奴なんてのは銀山温泉全体のことや温泉旅館のあり方や商売、湯治なんて微塵も考えていなかったんだろうね。まあ売国奴コイズミと同列の破壊者だ。 藤屋は遅くない時期に駄目になるだろうね、残念だけど。もともと銀山の湯自体は肘折温泉などに比べて大したことなく、街並の雰囲気だけが売り物のだったのにね。 ホテル藤屋:民事再生を申請、負債5億円 金髪の女将で話題 /山形 民間の信用調査会社・東京商工リサーチ山形支店によると、尾花沢市の銀山温泉の老舗旅館「ホテル藤屋」(資本金4000万円、藤敦社長)が13日までに、山形地裁に民事再生法の適用を申請した。負債総額は約5億円(昨年9月期)。 藤屋ホームページによると、創業は江戸時代で、大正時代に木造3建てになった。米国出身の「金髪の女将」がいる宿として全国的に知られた。 同支店によると、99年の山形新幹線新庄駅延伸の効果もあり、ピークの04年ごろには1億9000万円の売上高を計上した。06年に4億円を投じて建物を建て替え。しかし、建て替え後、客単価を高くしたことで来客が伸び悩み、売上高は08年9月期に9000万円台、09年9月期に8000万円台に落ち込み、建て替えの借入金負担が資金繰りを圧迫していた。 ________________
銀山行ってきたよ 噂の藤やは活気なかったな 女将連中の評判も?だし
ただでさえ銀山の温泉って値段の価値あるのかと思う温泉だから
銀山の唯一の売りの町並み自体相当小さいのに それを乱す旅館ができたり、人気にあぐらをかいて たいした営業努力をしてない内容的には極フツーの旅館ばっかりでたいていの客は一回行けば充分だと思ってんじゃね。
ただし、日本人の夫と妻には、そういう文化や発想がない。 改築が目的ではなく、借金が目的だったのだ。 業者間だけでなく、施主にもキャッシュバックが行われて当然だ。 946 :名無しさん@いい湯だな:2010/04/15(木) 08:54:31 ID:BJWw9igV もし世太郎のいうことが真実なら、彼女は結構な大金を離婚によって手にしたことになるな。 故郷にその金もって帰り「離婚太りのジニー」とかみんなから呼ばれて悠々自適とか? となるとジニーは悲劇のヒロインではなく、かなりの策士だなあ。 藤屋は策士にまんまとだまされた挙句大金をむしられあぽーんしたというのが真相と解釈していいのかな。 アメリカ女将を広告塔に大もうけしようとした藤屋は自分たちの方が悪賢いと思っていたが、実はアメリカ女が一枚上手だったということw。 「しかし藤屋、おぬしも悪よのぉ・・・」 「なんのなんの、ジニーの方が一枚も二枚も上手でございまする。ふっふっふ・・・」
948 :名無しさん@いい湯だな:2010/04/15(木) 19:22:06 ID:E0P6Yxhs 大体、今まで一万円台だった宿が建て替えたって理由だけで三万円台までつり上げるのっておかしいだろ? 三万円出す客は今まで散々高級旅館泊まってるから、掃除がなってない、アメニティが不足、食事の素材がダメ、
藤屋の場合は社長親子もDQNだったらしい。 ジニーも「こんなDQNだと思わなかった。なら一円でも多くもらうものもらって、アメリカに帰るか」みたいになったんじゃないの? どのくらい金もらったかは知らん。でも彼女だって転んでもただじゃ起きない女だと思うが違うか? 子供はアメリカに連れて行ったの?それとも尾花沢に残って、長期の休みになるとアメリカの母親に面会にいくとか? 960 :名無しさん@いい湯だな:2010/04/16(金) 16:55:37 ID:K5LGorBd 自分は事業で一億借りて20年ローン組んだら月の返済が59万〜61万だ。(変動金利、事業のローンは原則最大20年) 6億借りてたら月に360万だろ? 実際は自営業だったら借入と人件費のトータル3倍位は黙ってても飛んでいく。 月に2000万の必要経費だと考えると、もうアウトだからなぁ。 当然ジニーも借り入れの連帯保証人だったと思うし相当もめたと思うよ。 離婚が成立したから、もう銀行からも見放されたんじゃないの? 963 :名無しさん@いい湯だな:2010/04/16(金) 17:30:05 ID:M0lP6KkJ 銀行は女将がいる前提で貸したと思うよ 経営陣も女将を呼び戻せればそのままでも許されるだろうが 964 :名無しさん@いい湯だな:2010/04/16(金) 21:10:45 ID:dl9VAcIc DQN親子といつ頃気がついたのかはわからんが、けっこう長い結婚生活 加えて旦那の地元産業に大きく貢献したんだから転んでもタダじゃ起きない額をもらうのは当然でしょ 子供はアメリカに連れてったみたいだよ ___________________________________
この藤屋だが、趣のある銀山温泉の街並を形作る旅館群の中のひとつで、またアメリカからやって来た金髪の女将がいつも着物姿で仕事しているってことで人気のあった宿。 ところがだ、大正時代の雰囲気を伝える建物をなぜか突然改築(というより新築に近い)して、4年前にオープン。その改築がアホな独りよがりの建築家に頼んだのが最大の間違いで、銀山温泉の街並をぶち壊しただけでなく、伊豆辺りにありそうないわゆるオシャレ感覚にベクトルをとった勘違い建築に成り果ててしまい、さらに最悪なのが、それまでは湯治宿の誇りを守って、1泊で高くても1万円ほどだったのが、なんと安くても3万5千以上と言うアホ価格に設定してしまったのだ。 湯治温泉という基本を忘却してしまったこのアホ改築は、当然のことに、それまで農閑期などに湯治に訪れていたおなじみのお年寄りたちには完全に縁のない旅館になる訳だ、常連を切り捨てた改築だ。 当然のことに、銀山温泉でそんな高額宿泊費を払ってまで泊ろうという人間がそうそういる訳でなく、今回の事態は想定内のことだね。有名温泉地ででかい規模へ改築して借金付けで倒産した前例が山 銀山温泉の藤屋 2006年に藤屋が大規模な改築を行った時に、その建物を見て「これはないだろう。」と思ったことと、1泊の料金が3万円台から5万円台と聞いて、そんな高級な温泉旅館には泊まれないと感じたことが、そのまま現実になった。
右側の一本奥が能登屋で、この建物はとにかく凄い。 川を挟んで両側に白壁と瓦屋根の木造3階建ての旅館が連なっている。道路も早朝など時間を決めて、旅館関係者の車が走るが、日中は歩行者専用の道路にしている。川の上部を横断していた電線を地中化し、見た目の悪い看板を外し、ガス灯を付けた。道路にも様々なタイルなどが埋め込まれ、川には魚を泳がせ、足湯なども設けて歩いて楽しいまちづくりを行っている。 ジニーさんもまちづくりには積極的に参加して、自分の所の宿泊客でもないのに、一緒に写真を撮ったりと、街の顔として銀山温泉には尽くしたのだと思う。他の温泉宿で働く女性達も、彼女の事は悪く言わない。「離婚した訳ではないのだけど・・・。米国にいるようですが、詳しくは知らないのです。」とばかりに、興味津々の泊まり客をうまくかわしていた。 これは2007年に撮した物。あまりに廻りの景観を無視したデザインに驚いた。夜には中から明かりが多量に漏れ、異質さは増すばかりだったらしい。せっかくのガス灯も台無しだ。 時間が経ち、格子の色も落ち着いたら、景観にも溶け込むだろうと思ったのだが、どうもそうはならないのではないかと、昨年気が付いた。 藤屋と同じ設計者に依る、銀山温泉のしろがね湯だが、この建物の崩壊の速度が半端ではない。 オープンしたのが平成13年7月(2001年)だと言うから、驚くばかりだ。 蛇足:藤屋が完成したのを日経アーキティクチャー(建築雑誌)で知った。これはまずい。早く見に行かないと崩れるぞと感じた一枚がそこにあった。建築に携わる人間なら考えもしない事が載っていた。雨水のかかる外部に、集成材が使われていた。集成材とは、木材を接着剤で繋いだ物だ。集成材が崩壊する時にはこの接着剤から起こる。雨ざらしなら加速度が増す。そんな常識がなぜこの建物に通用しなかったのだろう。非常に恐いと思った。 ____________________________
イギリスにおける建築物は(公私とも)外面は全て国のものという感覚で建てられます。外見がまわりに合っていないと、建築許可がおりません。そういう点からみると、藤屋の超モダンなデザインが通ったということが信じられません。銀山温泉の雰囲気を滅多切りにしたとしか思えない。残念です。 デザインばかりでなく、しろがね湯の集成材使用の件、うーん、速く古い見かけになって他とうまく協調できるようにしたとか・・・?どっちにしろ、あんまりオツムのいい人ではないような気がします。
藤屋のこの外観なら、どこかで単独に建てて欲しいと思います。わざわざ銀山温泉に建てる必要がありません。日本でも最近景観法なる法律が出来ましたが、高さと色に制限があるだけで、このような町並みを壊す外観には、何の効力もありません。言い方は悪いのですが、ザル法に見えます。ヨーロッパの景観が美しいのは、それだけ努力されているからなのですね。 集成材が使われているのは、しろがね湯ではなく、藤屋の方です。しろがね湯に使われているのは無垢材で、使うのであればメンテナンスをかんがえて何年に1度は塗装を塗り替えるとかしなければなりません。木材のメンテナンスもなければ、コンクリートからアクが流れ出している(中身はどうなっているのやら)部分も、非常に問題だと思います。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/
since 1995
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 近代史02掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。 すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。 |