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(回答先: Re: 近代の超克 〜萩原朔太郎『日本への回帰』1933〜 投稿者 スットン教 日時 2009 年 8 月 21 日 20:09:01)
『日本への回帰』中に
「我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽せり
と僕はかつてある叙情詩の中で歌った。まことに今日、文化の崩壊した虚無の中から、
僕等の詩人が歌うべき一つの歌は、かかる二律反則によって節奏された、ニヒルの漂
白者の歌でしかない。AはAに非ず。Aは非Aに非ず、という弁証論の公式は、今日
の日本において、まさしく詩人の生活する情緒の中に、韻律のリリシズムとして生き
てるのだ。」
と、やや唐突な印象を受ける理屈っぽい箇所がありますが、これは鈴木大拙の即非の論理
ですね(戦時中、大拙は軍部を批判しても軍部は手出しのしにくい大物らしかったので、
アリバイみたいな感じなんでしょう)。即非の論理の下敷きである金剛般若経には、あち
こちにこの定式が登場します。それでふと連想したのですが、私の好きな言葉に
人は歴史のただ中に生まれて来るのであって、砂漠の真ん中に一人ぼっちで
生まれて来るのではない。
というのがあります。司馬遼太郎の言葉だと小耳に挟んだ記憶がありますが、宮崎一定の
著作にもあったように思います。思ったのですが、この言葉は一度、全てを失って、砂漠
の真ん中に一人ぼっちで生まれてみて初めて理解できるのでしょうか?
生まれたままの状態では、人にとって歴史とはぼんやりした曖昧な背景に過ぎないか、い
わゆる「歴史オタク」的な人たちのロマンチシズムの対象にすぎません(つくる会的な感
覚もその延長のように思います)。禅で言うところの「大死一番」みたいな経験を経て、
初めて歴史を空間として把握できるのではないかと、私は自分の体験を思い起こしても
思ったわけです。