★阿修羅♪ > 歴史02 > 136.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
以上の数ページを書いている時、私の心には、リチャード・ヒラリーの著書、
『最後の敵』の思い出が、ずっとつきまとって離れなかった。二十三歳の
ヒラリーは、一群の若き戦闘飛行士 ───あの「英本土航空戦線(バットル・
オヴ・ブリデン)」でパイロットとなった大学生たちの、ただ一人の生き残りで
あった。彼は自らを「長髪学生の最後の者」と呼び、おれは時代遅れだ、別の
世界の生き残りだ、と絶えず感じていた。墓石の列のように単調に、同じ言葉が
彼の本の中には繰り返し現れて来る。
「この出撃から、ブルーティ・ベンソンはついに帰らなかった」
「この出撃から、バブル・ウォーターストンはついに帰らなかった」
「この出撃から、ラリー・カニンガムはついに帰らなかった」
残された者は彼一人である。彼は「いつまでも貢(みつぎ)を払っていかねば
ならない。生き残った者は常に、負い目を担う者だからである」
A.ケストラー『目に見えぬ文字』流浪1933-1936
以上、引用終わり。ケストラーが共産党に入党した1931年から、大陸ヨー
ロッパがナチに丸飲みにされた1940年までの1953年頃に書かれた自叙伝です。
遅まきながらですが、大部の本にもかかわらず一気に読み通してしまいました。
この本の舞台はヒトラーが包囲されて自殺し、悪党の代名詞になるにはまだいく
ばくかの年月が必要な時期であり、アメリカではナチ・シンパのゴロツキ資本家に
よるクーデター計画が未遂に終わりましたが、首謀者のリストが圧力で握りつぶされ
てしまった、などという時代です。登場するケストラーの仲間は三人に一人くらい
しか生き残れなかったというような、そういう世界の話です。
自称「悪しき反共主義者」ケストラーの個別の政治的な意見、乃至、判断について
ここで論評するのは差し控えさせて頂きます。丸ごと一冊ここに引用してしまいたい
のですが、サーバーに負荷がかかるのでやめましょう。政治的に印象深い箇所を若干、
ここに上げておきます。以下、再び引用。
侵略者が犠牲者を催眠状態に陥れるために用いるスローガンもまだ、これと同じ
だった。ライトモチーフは平和、平和、平和、だった。ヒトラーもスターリン同様、
平和会議、平和アッピールのスポンサーになり、「武器製造業者の陰謀」や「ウォー
ル・ストリートの戦争屋ども」を攻撃して、飽くことを知らなかった。ドイツの強制
収容所や、ヒトラーの世界征服の計画などを、反ナチスの難民などが語ると、彼らは
狂信者、憎悪の扇動者と見なされた。今日、この人々の後継者とも言うべき、東欧
からの難民や、元共産主義者たちに、注がれている視線と一緒である。カッサンドラや
エレミヤが口をつぐんでくれさえしたら、我々は生涯平和に暮らせるのに! という
わけである。傲然と侵略を敢行したそのあとで、ヒトラーは必ず平和のジェスチャーを
行ったが、彼の言葉はいつも額面通りに受け取られた。スターリンやマレンコフの
ジェスチャーに対する今日の人々の評価と同じである。だまされるな、と警告する
人びとは、平和的解決の糸口をわざわざ踏みにじる者だ、と非難されている。
「この演説がいずれの地においても、誠実賢明な発言と受け止められることを我々は
希望する・・・・・疑惑の影を広げようとする人びとほど、今日ヨーロッパの平和を
阻止するものはない」
これはマレンコフの演説に対する『ニュー・ステーツマン・アンド・ネーション』の
批評であろうか、それともヒトラーの演説に対する『タイムズ』の批評であろうか。
何と・・・
私がもし、この時代に居合わせたならどういう行動をとったか、或いは運悪く
二十一世紀の初頭にでも居合わせたなら、私はどうすべきであろうかなどと、つい
深々と考え込んでしまうような、そういう意義深い読書でした。