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残念ながら「疑わしきは罰せず」という刑事裁判の大原則が、この国では鴻毛よりも軽いようだ。
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2011/09/29 03:50 :(世に噛む日日)
9・26不当判決から3日、「奇妙な論理」が横行し始めた。調書をすべて却下して、状況証拠の積み重ねで断を下した件(くだん)の判決が、冤罪を生む元となる「自白偏重主義」から脱した、「新しい形の判決」として、むしろ、評価するような論調だ。また、以下のような「推定有罪論」が、刑事被告人の利益を守るべき「弁護士」から出されているのも、実に痛い。
陸山会判決「推論による有罪」批判に思う(花水木法律事務所ブログ) しかし、この批判はバランスを欠くと思う。江川氏は、自白に依らなければ、推論に頼るしかない、との反論にどう答えるのだろうか。 特に、「密室の犯罪」や「被害者のいない犯罪」を、自白なしで立証するには、推論による有罪認定以外の方法がない場合が多い。政治資金規正法違反はもちろん、贈収賄罪、多くの経済犯罪は、「密室」かつ「被害者のいない犯罪」だし、強姦や強制わいせつ等(痴漢も含む)、共謀共同正犯は、「密室の犯罪」に分類されよう。これら一定の犯罪について、自白に頼らないことは、他の証拠から有罪を推論することと同義である。しかも、自白に頼らない分、今までより「大胆な推論」が必要だ。それもダメだというなら、自白のない事件は無罪で良いと割り切るか、故意や謀議を不要と法改正するところまで認めなければ、一貫しない。 無罪で良いと割り切るのは一つの見識だが、政治資金の透明化という立法目的が損なわれるリスクがある。だから無罪で良いという人は、政治資金の透明化は不要というのでなければ、どう手当てするのか考える責任がある。 政治資金規正法違反を過失犯に法改正すれば、「単なる記載ミス」との弁解は通用せず、「ミスで結構。有罪!」となる。もちろんこの場合、刑を故意犯なみに重くしないと、立法目的は達成できない。その代わり、本当のうっかりミスも重く罰せられてしまうし、ひいては、故意犯処罰という刑法の原則を大きく崩し、結果処罰に近づける可能性がある。 誤解を恐れず言うと、自白重視は、えん罪を防止する一つの方法だった。「犯罪者でなければ、身代わり等よほどの事情が無い限り、罪を認めるはずがない」という「常識」が存在したからだ。だが、この「常識」は、これを逆手に取り、無理矢理自白させる捜査手法を生み、えん罪につながった。ここに、脱(自白)調書裁判の根拠がある。 だが、脱(自白)調書裁判は、「大胆な推論による有罪認定」を帰結するから、「一貫して否認する無実の被告人」を有罪に陥れるリスクを増やす。あってはならないことだが、裁判官も人間だ。人間は、必ずミスを犯すし、どんな制度にも、絶対安全はない。われわれは、それを半年前に学んだばかりだ。 私は、石川議員らが無実か否かを知らないし、判決文すら読まずに、推論過程の是非を論評する意図もない(大胆な推論が許されるとしても、どんな飛躍も許されるわけではない)。私が言いたいのは、制度というものは、常に長所と短所を抱えているものであり、しかも、多種多様な要素が複雑に絡み合い、かろうじてバランスを保っているものだから、一つの要素を理想に近づければ、必ず全体がうまくいく、というものではないし、逆効果の場合もある、ということである。
陸山会事件判決の評判が悪い。例えば江川紹子氏は、裁判所が多くの被告人調書を証拠採用しなかったにもかかわらず、他の証拠から「大胆な推論」で有罪認定したと批判している。
法律に素人である者に対して難解な用語を並べると、乱暴な議論も、一見、まともに見えてしまうということがある。「専門家」の中には、そのやり口で人の目を意図的に晦ませる者がいる。電力会社から多額のカネを貰い、事故後にテレビ出演して科学用語を並べ「安全ホラ」を吹きまくって、人々の多くを被爆させた御用学者どもなどは、その典型だ。上に掲げた記事の筆者である弁護士さんにも、失礼ながら、同じ「匂い」を感じて仕方がない。
「江川氏は、自白に依らなければ、推論に頼るしかない、との反論にどう答えるのだろうか」この部分に、まず、大きな違和感を感じる。
江川氏がどう答えるか、わからないが、僕ならためらうことなく「自白に頼らず推論しかないという状況自体、被告人の無実を指し示したものだ」と答える。「疑わしきは被告人の利益に」というのは、刑事裁判の大原則であるはずである。
この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。 条文上の根拠としては、刑事訴訟法336条が、「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と定めている。
疑わしきは罰せず」(うたがわしきはばっせず、ラテン語:in dubio pro reo)は刑事裁判における原則である。ラテン語の直訳から、「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。刑事裁判においては検察側が挙証責任を負うが、ある事実の存否が判然としない場合には被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。
この「原則からの逸脱」をはかったのが、9・26の不当判決ではないか。裁判官が挙げた「証拠」は、ことごとく裁判官の「主観」から発せられたものだ。「客観証拠」という言葉はおかしい。なぜなら「客観性」は「証拠」の持つ、もっとも重要な要素であるからだ。だから「主観証拠」というものは存在せす、そもそもそんなものは「証拠」とはいえない。
法律の専門家であり、被告人の利益を守る立場であるはずの弁護士が、このように裁判官による「原則からの逸脱」に与する姿勢をみると、自分が刑事告発されたときには、絶対にこんな弁護士に依頼したくないと思わずにはいられない。
「無罪で良いと割り切るのは一つの見識だが、政治資金の透明化という立法目的が損なわれるリスクがある。だから無罪で良いという人は、政治資金の透明化は不要というのでなければ、どう手当てするのか考える責任がある」──これも、おかしな言い方だ。政治資金をどう透明化していくかは、別の問題である。現状、透明化できていないからといって、「証拠なしの断罪」を行っていいというものではない。推論による断罪が問題だと言っている者に、「政治資金の透明化」に対する責任を迫る。ちょっと変わった弁護士センセイである。
冤罪が発生するのは「自白重視」だからか。調書を以って「証拠」とすることが重要視されてきたから、冤罪が後を絶たなかったのだろうか。それは違う。冤罪は捜査官の「思い込み」からまず発生する。刑事や検事の「推論」とか、「カン」とか、そういう「主観」が偏重されてきことにこそ問題があるのではないのか。誘導や強要による調書の作成という行為は、主観的見込み捜査から導き出された結果に過ぎないのではないか。
「脱(自白)調書裁判」をやる、証拠に基づいて裁判をやる──そうやって意気込んで調書のほとんどを却下したのはいいが、証拠が何もない。何もないので裁判官の「・・と考えるのが自然である」「じゅうぶんにあり得る」などという推理のみで「事実認定」を行う。「自白偏重」をやめて、「推測偏重」にしても、まず冤罪は防げないだろう。法と証拠に基づかず、主観や価値観や偏見や思い込みに基づいて捜査や裁判をやる限り、自白を偏重しようがしまいが、結果は同じである。
どんな場合でも、法と証拠で立件できない事案は、すべて「事件そのものがなかったこと」とならなければいけない。では、本当に悪いヤツをどうして捕まえるのかということを、記者クラブメディアの報道に脳の芯まで浸潤されているB層裁判官やこのB層弁護士は言いたいのかもしれない。
そいつが本当に悪いヤツかどうかを客観的に証明できない者に、そんなことを言う資格はない。 「悪」のひとつやふたつ逃がしても、無実で罰せられる者を一人として出してはならない。この「理想」の現出はきわめて容易であるはずだ。客観的な「法」と「証拠」に照らして、すべての事案を粛々と処断していく。それだけで良いはずなのだ。
それが恰も「実現困難」であるかのように言い募る、こういう弁護士センセイには、「法律の専門家」を名乗って欲しくないというのが、法律にはど素人な庶民のひとりとしての偽わらざる想いである。
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