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(回答先: Re:衝撃的な日航機墜落事故のボイスレコーダー。 投稿者 近藤勇 日時 2010 年 8 月 08 日 19:31:01)
「何とか助けたい一心だった」=交信管制官が初証言−日航ジャンボ機墜落25年
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010080900705
520人が犠牲になった1985年の日航ジャンボ機墜落事故で、墜落した羽田発大阪行き日本航空123便と直接交信していた男性管制官(54)が9日までに、時事通信の取材に応じ「何とか無事に空港に着陸させ助けたい一心だった」と当時の心境を語った。12日で事故から四半世紀となるが、報道機関のインタビューに応じるのは初めて。
男性管制官は、管制官になって8年目で運輸省(現国土交通省)東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)に所属していた。事故当日の8月12日は、午後5時から「関東南Aセクター」と呼ばれる空域を4人で担当。午後6時すぎから、男性管制官がマイクを付けレーダー画面の前に座った。
午後6時25分、123便の機長=当時(49)=から「トラブルが起き羽田空港に引き返したい」との連絡が入る。2分後、緊急事態を示す「EMG」の文字がレーダー画面に表示され、大きなブザー音が鳴り続けた。
「どういう緊急事態なのか尋ねたが、返答はなかった。羽田の方向に旋回せず、高度も上下していた。そのうち『操縦不能』と。ただごとではないと判断した」
123便はスピードを保って乱高下を繰り返し、どこに飛んでいくかも分からない。一方で、他の航空機への管制指示も続けなくてはならなかった。「123便には操縦室の作業に専念できるよう最大の支援をするとともに、同便が他の航空機に影響を与えないよう注意を払った」
午後6時56分、航空機からの信号を把握できないことを示す「CST」の文字が出た後、123便の表示はレーダー画面から消えた。「経験したことのない強いショックを受けた。助けられなかった喪失感と、墜落したという衝撃が同時に去来した。一方で、直ちにはその事実を受け入れられなかった」。(2010/08/10-02:44)
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