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2023年5月24日 12時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/251994?rct=tokuhou
1945年5月25日夜の東京・山の手大空襲で、渋谷の刑務所に収容されていた米爆撃機搭乗員など捕虜62人が死亡した。原爆を含む日本空襲の犠牲になった捕虜は179人に上るとされるが、全容はほとんど知られていない。78年前、彼らはなぜそこにいて、無差別爆撃で命を落としたのか。若者の街へと変貌した渋谷で考えた。(山田祐一郎、中沢佳子)
【関連記事】歴史に埋もれた悲しい死…捕虜で収容中に焼死したB29搭乗員 東京大空襲の追悼行事で初めて読み上げへ
◆陸軍刑務所跡にたたずむ観音像 捕虜の死はうかがえず
23日正午ごろ、「こちら特報部」は若者でにぎわう渋谷駅前を訪れた。飲食店が並ぶセンター街を抜け、坂道を上がる。NHK放送センターの手前、渋谷区役所や法務局が並ぶ静かな一角に、観音像「二・二六事件慰霊像」が姿を現した。花や日本酒が供えてあるが、多くの人が振り返ることなく過ぎていく。
ここは戦前に東京陸軍刑務所があった場所で、二・二六事件に関与した陸軍将校らが処刑された。慰霊像は、事件の犠牲者や処刑者を悼むために1965年に造られ、赤いれんが造りの壁は当時の刑務所の一部とされる。だが、終戦直前の5月25日夜から26日未明にあった山の手大空襲で、収容されていた米兵捕虜62人が死亡した事実はうかがえない。
「え、知らなかったです」。法務局などによく訪れる会社員向井千佳さん(32)が驚く。「像があるのは気付いていたけど、刑務所があったとは」。捕虜が犠牲になったことも初めて知ったといい、「もっとそういうことがあった場所だと分かるようにすればいいのに」とつぶやいた。
◆刑務所の捕虜はB29搭乗員 日本人の囚人は全員無事
山の手大空襲から78年の今年3月、東京大空襲の追悼行事で、初めて62人の名前が読み上げられた。読んだのは、米国出身で千葉県佐倉市在住のバートン・ブルームさん(73)。「今後、同じことを繰り返さないためにも、前の経験を忘れず、若者に伝えなければいけない」と話す。
ブルームさんは、軍人だった父親の上官の親類が東京陸軍刑務所で空襲の犠牲になった。一昨年から約1年掛けて足跡をたどったその捕虜は、45年4月に千葉県市原市に墜落したB29爆撃機の搭乗員だった。
戦争捕虜を研究する日本の市民団体「POW研究会」が集めた連合国軍総司令部(GHQ)の文書や、戦犯裁判の記録を調べ、墜落現場付近の住民へのインタビューを実施。搭乗員たちは墜落後に日本軍に捕らえられ、5月上旬に東京陸軍刑務所へ移送されたことが分かった。無差別爆撃を行った戦犯とみなされ、狭く劣悪な環境で苦しめられた末、空襲による火災で命を落としていた。
その半面、400人以上いた日本人の囚人は全員無事だった。刑務所長ら5人は戦後の戦犯裁判で追及を受け、死刑判決(いずれも後に減刑)を受けている。ブルームさんは「米軍による民間人への空襲も問題があるが、B29の搭乗員の待遇もかなり厳しいものだった」と指摘する。
米兵捕虜を巡っては、広島原爆で被爆死した12人の存在が知られ、G7広島サミットのころにも報じられた。一方、東京での出来事は広く知られているとは言えない。ブルームさんは訴える。「刑務所での火災や捕虜の死について、もっと関心が高まってほしい。このエピソードは、戦争がエスカレートした結果の恐ろしさを示している」
◆空襲で犠牲の連合国軍兵士の捕虜 全国で179人
渋谷と広島の刑務所で空襲や原爆で亡くなった74人以外にも、一般捕虜として収容された先で空襲の犠牲になった連合国軍兵士が全国にいた。
「POW研究会」の笹本妙子共同代表によると、日本には約130カ所の収容所があり、占領地で投降した連合国軍兵士約3万6000人が捕虜となり、炭鉱や軍需工場、港湾などで働かされた。このうち空襲、原爆、艦砲射撃で亡くなった人は、岩手、川崎、横浜、長崎などの収容所にいた105人。刑務所収容者74人と合わせて、計179人に上った。
「国籍は米国や英国、オランダなどさまざま。多くが戦争初期、日本軍が南方で進撃を続けていたころに拘束され、軍隊に取られた男性に代わる労働力として、日本に連れてこられた」
今月13日には、長崎市の原爆資料館前で、命を落とした捕虜のために建立された追悼記念碑の除幕式が行われた。
◆捕虜の記録 日米両政府は公表せず
戦後、BC級戦犯を裁いた横浜裁判では、収容所の職員が死刑判決などを受けた。しかし、戦後78年たっても、日本政府は外国人捕虜について、ほとんど調査もしていないと笹本さんは指摘する。「軍事裁判に備え、捕虜に関する多くの資料が焼却された。米国は徹底して調べ、日本側も一部残っていた資料をかき集めて捕虜に関する記録をまとめた。しかし、公表されていない」
笹本さんたちが、焼却を免れた捕虜関連の資料開示を求めても、個人情報保護を盾に拒まれるという。「旧日本軍がいかにひどいことをしてきたかを示す歴史になるので、積極的に公表しないのだろう」
政府は責任を持って調査し、公表すべきだと訴える。「何があったのかを見据えなければ、同じことが繰り返される。戦争は外国人にも日本人にも深い傷を与え、あらゆるところに禍根を残す。直接的な戦いの被害だけではない、戦争の負の側面を伝えるべきだ」
◇ ◇
◆渋谷と青山焼いた 東京最後の大空襲
78年前の5月、東京は2度の大空襲に見舞われた。24日未明の「城南大空襲」は品川区など南西部が被害に。その記憶を伝える地元住民グループ「城南空襲を語り継ぐ会」の西條明子代表によると、東京空襲で最多の520機のB29が襲来し、762人が亡くなった。
今月21日に同区内で集いが開かれ、体験者らが「警報を聞いて母親と逃げ助かったが、消火作業のため残った兄は背中に焼夷しょうい弾の信管が落ち、命を落とした。損傷の激しい遺体となかなか対面させてもらえなかった」「神社の境内に集められた犠牲者の遺体を洗う手伝いをした。遺体に着せてあげるものがなく、油紙に包んでトラックに乗せた」などと記憶を語った。西條さんは「体験者が高齢化し、直接話を聞ける機会は年々減っている」と危ぶむ。
東京の最後の大空襲となった5月25、26日の「山の手大空襲」では、渋谷や青山が対象に。米軍資料の研究者で「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長によると、464機のB29が爆撃した。「米国は日に日に軍を増強し、惜しみなく空襲に投入した。街を計画的に焼き、戦争継続の意欲を断つためだ」
米軍は日本の主な都市に、住宅の密集地など燃えやすさごとに3段階に分けて「焼夷区画」を設定。「最も燃えやすい『1号』から攻撃し、次に『2号』と定めた品川や渋谷を狙った。ただ、範囲が広いため、分けて爆撃した」
既に3、4月に下町などが大空襲を受けていたため、東京は焼け野原と化し、米軍の爆撃目標から外された。一方、5月の2回の大空襲でも米側の損失機は43に上った。
◆デスクメモ
今年、東京大空襲の資料展と広島の原爆資料館を訪れた際、見学者の真剣さが以前より増している気がした。ウクライナ危機で、戦争の被害をより身近に感じているのかもしれない。戦争と切り離せない捕虜の苦しみも、また繰り返されているのだろうか。その被害に敵も味方もない。(本)
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